■赤郷伝説
わが故郷美東町赤郷の里、明治維新発祥の地とも言われているこの地にも後世に伝えていきたい伝承文化が数多くあると聞きます。
『温故知新』 各地域に伝わる文化を掘り起こすことで”赤郷の里再発見”の一つになればと想い、伝説を訪ねて歩きたいと思います。
この赤郷伝
説をご覧になって興味を持たれた方一緒に歩きませんか。
 
わが故郷美東町赤郷の里、明治維新発祥の地とも言われているこの地にも後世に伝えていきたい伝承文化が数多くあると聞きます。
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第一部     赤郷古老ものがたり
■ 総  論
当初は往古四方の山々に古木鬱蒼と生い茂りしも、開闢のはじめ、明らかな日影をほのぼのとうけてから、「明穴」と称したとか。はじめは牧野であったが、その後、田畑漸く開け人も居住するようになった頃から、赤穴郷と呼んでいたが、幾年か経た後に赤郷と略称するようになったといい伝う。
その後、貞享(じょうきょう)年間(1683〜)に赤郷を分割して支郷赤、小野村と呼び、更に宝暦年間(1760〜)の頃から絵堂村と称するようになった。上使の節書上には「赤郷支郷絵堂村」と認めたと、いい伝えがある。
 
第一話  宮の馬場の一部、三本木、末原、山中、八久保,大杉、保ケ原
  その一
赤本郷の東、歯だケ迫の丘に城山がある。志月山と号し今尚濠がある。又、茶臼山という所もある。この城主は不詳であるが、一説には”伊賀弾正”という弓の達人であったとの伝承がある
当村に稲生社、地主河内森、水神の森がある。又、文化八末年(1810)嘉万から入仏の大師堂が越当峠勝負山にある。
昔、西福寺という寺のあった跡とか。その本尊釈迦如来は八幡宮境内に鎮座されてある。薬師十二神は昔から同じ境内にまつられてあるようで、この寺は寛文年間(1662〜)までは存在したとのことで門前という畠もある。勝負には”妙見墓”と称して五尺(1,5メートル)平方の中に四五尺1.2〜1.5メートル)余りの石を立てたものがある。
古城主の内室の墓標といい伝えられており、立願する者はその霊験もあらたかといい伝えられる。三本木に宝暦七年(1763)建立の地蔵尊がある。又、安永二己年(1773)再建の観音堂もある。これは明和二酉年(1765)吉左衛門という人が勧請した人丸社との相殿である
 
  その二
末原村に寛政四子年(1792)建立の地蔵尊があり又児玉領鎮守の熊野権現社もある。薬師不動尊との相殿である。沖田中に往古祖武氏の鎮守であった河内社がある。大月山の峰つづき中腹に平石山朝鮮寺という寺があった由。その山麓に祖武摂津守という卿士が居住した大内茶屋と称するところがある。この山つづきに文化八未年(1811)遠江国より勧請の秋葉社がある。
三角田幸ケ峠の立岩は往古この往還(道)開いたとき、頗る難所であったので、道祖神=幸神=をまつったその塚という。元来、高山には神が存在し給う。
そのため、幣を手向けて通行したもので、たむけ それが転化して峠(とうげ)となったとのことである。
山中村に建久二年(1191)豊前国宇佐八幡、神騎飛来の霊夢によって勘請したと伝える古八幡宮が鎮座されている。村外れに降臨石又は馬蹄石と称する表面に馬蹄の跡がある大巌石があるのもその証左ではあるまいか。
 
  その三
古八幡社前の地主ノ森の神木゛椋の木”、周囲五間(約10メートル)あるという。寛永19年(1642)の秋、赤郷より勧請の荒神社又、河内神という所に河内社がある。当村は享保7年(1732)より榎本領となった所である。三隅への往還大津境から少しのぼった所に馬頭観世音がある。昔、阿武将監が馬を乗り捨てたので、石を組んでその馬の霊をまつったものといい伝える。法然寺の抱へとのことである。川向こうは鉢窪和智領で永禄12年(1699)拝領という。
大杉村鎮守の荒神社は永禄12年(1699)赤本郷より勧請したものとのことである。ここから、西南方に高山がある。太古、星がくだって、この山に止まった故、”止星山”と名付けた。寛政年間(1790〜)再び星がくだり、山頂に止まって光りを四方に放つのを遠望したものがあったので、この山は北辰妙見鎮座の霊山であろうとして、ほこらを建てて妙見二尊神をまつったと伝える。これを信仰するものは、その霊験も亦あらたかであるとのことである。この山から峰尾をくだった所の保ケ原、瀧の浴は役ノ行者が修行の古跡といい伝へられる。同社は山ノ神との相殿である。この地域は三隅川の上流で、水量頗る豊富であり、これお赤郷へととることができないのは残念である。
 
第二話  中河内、杉山、佐山、宮の馬場(一部)、鍔市
 その一
魚切曳明を過ぎて穴掘峠をくだり、中河内鎮守の荒神社は小澤氏が元禄15年(1702)5月当所拝領の時、赤本郷から勧請したものといい伝わっている。又、弁財天も享保3年(1718)に郷士小澤正久が勧請したものとのことである。同村の出口に寛政年間(1792〜)に建立した地蔵尊がある。
杉山村には昔、杉山土佐守という郷士があって、今も殿河内又は的場と称する地名が残っており又、その末裔も存在する。土佐守の鎮守「三輪の森」がある。文化3年(1806)より薬師堂へ相殿である。ここに、古在寺の本尊「瑠璃光如来」があったが、本堂建立の時、この黄金佛は盗難に遭い更めて木佛にしたが又、紛失して現存しない。岩屋口という所に岩穴がある約十町(1.2キロ)上の猿田から悪水の流れる穴である。旱魃の際には、この穴をくぐり上側の入り口に竜神を祭り、踊りを奉納すれば降雨があるという。
文化三寅年(1806)に大旱魃があって、天満宮の御神幸を仰ぎ、三昼夜に亙って雨乞祈願をしたところ大豪雨があった。
翌四年にも霊験を賜り更に同六年(1809)5月20日から7月晦日まで降雨なく大旱魃であったので、三たび雨乞祈願を行い、霊験を賜った事跡がある。
 
 その二
この穴の下流入口近くに、昔 悪七兵衛景清が隠棲したという所がある。
西側へ入る枝穴で石の扉を立てたような箇所や刀掛けと称する岩などがある。伝説には平家没落の時、この穴に三人隠住したというもその一人平ノ内左衛門経盛は保ケ原へ隠棲したと萩藩の御倉本の旧記にある。
又、別説ではこの三人は越中ノ次郎兵衛、上総ノ五郎兵衛悪七兵衛ともいうことである。
佐山村は昔は家が百五十軒あったところとのいい伝えがある。当村鎮守の三嶋大明神は、古くからの御鎮座であって、往年当村の者、命迄の立願をし、九月五日の夜神楽舞を奉納する定めがある。稲生社相殿である。又、文化年間(1805〜)に高橋勘右衛門という者が勧請した観音
堂もある。昔ここに、福田寺という寺があった由、地蔵尊は現存する。
又、寺屋敷もある。水神社があって側に清水池という池があり、いかな旱魃でも枯渇することがない。此所から青景に通じる国木峠にも道祖幸神をまつったと伝えられる古跡があって幸ノ木畠というところもある。
当所へ文政四年(1821)防州熊毛郡平生村の栄三郎というものが来て、岩屋口に生目権現社八大竜王をまつり安置した。これを信仰するものはその霊験まことにあらたかなりといい伝へる。
 
 その三
宮之馬場所在の赤、絵堂両村氏神八幡宮御鎮座の山は、長生山といい、その西に不老ケ浴と呼ぶ所もある。当所鎮守の稲生社もある。
さて、赤八幡宮は当郡の総社ということで、古くは勅使下向のこともあった。
右大将頼朝公の時代、當国の領主佐々木四郎左衛門尉高綱、鎌倉の御下知によって社殿造営をした由、爾来北条、足利、厚東、大内各大名の所領の時も、しばしば造営したようである。往古は社殿が大迫谷にあったが野火により社殿は勿論宝物等一切焼失したので、今の所へ移し鎮座なったものである。宝物として毛利元就公の鎧並びに鹿玉一つ、又昔は社僧であったので仏像経文も備付けてあったが、経文は破損したので長生山中に埋め経塚にしたのである。
天文二十年(1551)陶尾張守晴賢謀反により、神主宮原氏や社僧一族主君大内義隆公に深川周辺で殉死したので、一族の生き残り大蔵大夫信直というもの、永禄年間(1560〜)芸州吉田城に上申して、家禄の継承許可を得、宮司として代々今日に及んでいる。
延享四卯年(1747)石花表--石ノ鳥居--を建て、文化八未年(1811)春千五百年祭を執行して、同年木鳥居、玉垣を建設した。この境内に鎮座の天満宮を元禄年間(1660〜)に勧請し元文年間(1736〜)に再建されたとのことである。
 
 その四
安永四年(1775)火の用心のため釣鐘を作る。
寛保三亥年(1743)建立の地蔵尊もある。
英雲院様の御代宝暦六年(1762)公儀より御附加の正観世音安置の堂宇がある。この堂宇に安永三年(1774)に梵鐘をつくる。
ここから南方に貴布称の森がある。この森にわ杉山土佐守の宝物という丸き白石が埋めてあるといい伝う。斎藤田には斉藤某の鎮守と伝へられる毘沙門堂があり、又林台にも昔は寺があったといい伝へる。 
宝暦四年(1760)築造の大堤がある。この池の亥子の方角に八幡池という霊池がある。ここに釣鐘を沈め雨乞いを行い、その霊験現れたことしばしばあったと。大堤の西側山上に赤郷総鎮守の荒神社がある。この御神体は寛弘二丙午年(1005)花山法皇の御作といい伝う。この社は毎月祭典があって、神幸御旅所は弥光の田の中で、藤三郎という古跡である。
この付近に大師堂というものがあり、又鍔市の弘法堂は嘉万からの入佛である。
大堤池畔に文政三年(1820)林幾左衛門発起により水神を勧請し大堤築造者の白井正左衛門政光氏の霊も併在したものがある。今は荒神社と相殿である。
 
第三話 植畠、立石、植山、小川、横野、碇、松原、絵堂
  その一
植畠村の二ノ宮社は「市株嶋姫命」を祭る。
この社に「鯖ノ尾大狩又9寸五分」の銘刀があった。
誰が奉納したものか詳らかでないが、盗難に逢い紛失した。この地に石体釈迦如来がある。
立石村に立磐明神の鎮座がある。宝暦元年(1757)夏勧請したものである。
又弁才天社もある。
塔ノ尾原小川山正岸寺がある。往年塔ノ尾某居住したとのことで「塔ノ塚」というものもある。
この付近を中原という。
植山に嫡森がある。
その下に鎮座の薬師堂は往年尼子家滅亡の時宇山県信仰の薬師を供奉してここに隠住したときの鎮守といい伝う。
この村の入口に釣水がある。諸人この水で命をつなぐが故に水神をまつる。
文化六年(1809)大旱魃でこの水が悉く枯渇したので、穴底に入りて見たところ、その底は十間四方(3.3アール)の河原で水の出入りする所は見当たらなかったという。
小川村に薬師如来の鎮座がある。正岸寺の抱えとのことである。
横野と小川の間の地域は豪雨の時は、田畑凡そ三十町歩(30ha)悪水が濁り降雨のやんだ後、尚14・5日余冠水しておるため、作物の損傷甚しく通行は不能で甚だ遺憾の極みである。
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