ハ ワ イ 開 教 の お も い で

はじめに

昭和54年(1979)10月より平成7年(1995)3月までの約15年間、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の開教使としてハワイ開教区にお世話になりました。
ハワイ島の本願寺ヒロ別院に4年。パハラ本願寺駐在、ナアレフ本願寺兼務が6年でハワイ島が10年、マウイ島のマカワオ本願寺に3年。オアフ島のホノルルに移り、開教本部の主事が2年半。その間、いろんな場所でたくさんの方と日本では体験できない思い出をたくさん作ることができました。お礼の気持ちをこめて綴らせて頂きます。

目 次 (項目をクリックするとそこへジャンプします)

第1章 ハワイ出発まで
  ご縁に恵まれた
  開教使研修
  開教使研修-その2
  開教使採用試験
  ナガーーーイ 出発準備期間
  御門主との面接
  出発前夜
  最後の麻雀大会
  大阪空港出発
第2章 ハワイでの研修
       (オリエンテーション)

  ホノルル国際空港到着
  ハワイ教団開教本部
  到着第1日目
  ハワイでの研修
  ホノルルからヒロへ出発
  ヒロ別院到着
  本格的研修(本願寺ヒロ別院にて)
  お寺の諸施設について(1/25/04)

  銀行口座(小切手口座など)の開設
  車さがしと家さがし
  運転免許取得
  ハワイでの法事
  ハワイ移民の始まり
  ハワイ開教の始まり
  写真結婚(1/25/04)
  日本語学校(1/25/04)


第1章 ハワイ出発まで

ご縁に恵まれた

私に開教使の道を勧めてくださったのは、昭和29年より北米開教区で15年間活躍をされた親戚の叔父さんでした。この叔父さんは私が小学生のころ、時々アメリカから小包を送って下さっていた。昭和30年代の物資のまだ少ない時代に、「これがアメリカのチューインガムだ」といってみんなに紹介するのをとても誇らしく思っていたのを覚えている。

そんな私も順調に成長し、大学卒業が近づいたころ、その叔父さんより、開教使として海外の布教活動に携わってみないかと、私の両親を通してお話しがあり、詳しい事情をお聞かせ願ったわけであります。それまでは、開教使という仕事があって、ただ外国で仕事をしているという漠然とした思いと憧れがあっただけで、具体的にどうすれば開教使になれるのか、また、仕事の内容はどんなものなのか、等、何もわかってはおりませんでした。

今、じっくり思い直してみると、16年間にわたりハワイ教団にお世話になり、多くの法友ができました。普通の人では経験できないこととをたくさん、実際にこの身で経験することができました。わたしの人生と切っても切れないご縁を結んでくださったのは、親戚の叔父さんでありました。(February 21, 2001)


開教使研修

海外で布教のお手伝いをする僧侶を開教使という。浄土真宗以外の宗派では“開教師”といっている。特に浄土真宗では人の上に立って導いてくださるのは阿弥陀仏だけであり、僧侶と言えど凡夫(ボンブ)で、師にはなりえず、阿弥陀仏の使いなのでこう呼ばれる。

開教使は本山国際部の主催する国際伝道講座という開教使養成講座を受講し、合格すれば採用してもらえる。私がちょうどこの講座受講のための願書を京都の下宿で書いている時、広島出身の友達が遊びに来た。「おまえ何書いちょるんか」とたずねたので、正直に答えた。
 「へー、おもしろそうやなー、わしもやってみようか」
等と友達は冗談のように言っていた。私は必要書類を揃え国際部に提出し、後日、講座受講の可否を決める面接の知らせを受けた。


その面接会場には九名の人が集まっていた。びっくりしたのは、広島の友達もいたことである。なんでも、
 「面白そうだし、照島にできるんだから、わしにもできると思った」
と言っていた。一人一人が部屋に入って六名くらいの審査員がおられたので、大変緊張した。
 「はい、それでは第18願文を言って下さい」
と言った感じで面接があった。一週間くらいしてして、国際伝道講座の受講許可書を受け取ったので、ヤレヤレと思った。


講座は前期と後期に分かれていて、前期は通いで三ヶ月の講義、後期は泊り込みで十日間の講義を受けた。開講初日には面接を受けた者全員の顔があった。元ハワイ開教区総長の大原性実和上の安心論題の講義、藤沢先生や久堀先生の日本語による布教実演、そうそう元北米の開教使で久間田先生による英語の布教実演もあり、慣れない英語で初めて説教をした。連日の講義で眠たくもなるが九名しかいないのだから寝るわけにもいかない。眠たい目をこすりながら、また、隣の人をつつきながら、みんなで協力をして講義を受けた。

そんなある日事件が起こった。(March 5, 2001)


開教使研修-その2

連日講義の続く中、受講生の1人は、すべての講義や実演の内容をこまめに小型のテープレコーダーで録音をしていた。ほとんどの先生はそのことについては全く触れられなかったが、布教実演の1人の先生だけは極端にテープレコーダーの使用を嫌っておられた。その先生が言われるには「録音に頼るのではなく、講義をしっかり聞きなさい」と。それで、この先生の時だけは録音は禁止されたのである。

ところが、その受講生は録音をやめなかった。先生は2度ばかり録音をやめるよう注意をされた。しかし、彼は聞き入れなかった。休憩時間をはさんで、講義が再開された時のことである。ついに”爆弾”が落ちた。

 「私はあれほどキミに注意したのに、まだ録音を続けているのか。私の注意が聞き入れられないのなら、この部屋から出て行きなさい。階下の事務所には私から話しておきます。」
ドスのある低い声で言われたので、みんなは静まり返った。
 「この部屋から出て行きなさい。キミには私の講義を聞く資格はありません。」

そういわれて、のこのこと部屋を出て行ったのでは、せっかく大きな希望をもって研修を受けているのに、それが水の泡になってしまう。彼も必死である。
 「いいえ、それは困ります。」

 「あれほど注意したのにどうして無視するのか。」

 「・・・・・・・・」

 「私はキミに講義を受けてほしくないので、出て行きなさい。」

 「それは困ります。」

と言った押し問答がしばらく続き、先生のものすごい剣幕に、取り残された私たちは、ただ静まり返っていた。後で事務所に報告するということで、講義は再開されたが、なんとも味気ない後半の講義となった。

その日の講義終了後、彼は事務所に呼び出された。そこでどんな話しが行われ、何があったかは判らないが、それ以後、彼は録音をやめ、講義を受けることは許されたようである。

夏休みに入った頃、10日間の合宿が始まった。毎朝6時の本山のお参りから1日が始まり、午前と午後の講義、夜は総会所でのお聴聞と宿題をするという生活が始まった。真宗の教義、布教について、海外での生活、英語の習得等、開教使として身につけておくべき事柄を、学識者、経験者等、多方面の方々を講師として招き、私たち9名のためにお話し下さった。(April 1, 2001)


開教使採用試験

開教使養成講座を受講し終えた9名は、こんどは採用試験の難関が待ち構えていた。試験とはいっても開教使養成講座の試験結果と受講の態度、人物審査、そして希望する派遣先といったものを総合的に判断する面接試験であった。審査員は西本願寺の海外担当総務に国際部の部長、そして以前開教使として海外に出ておられた方数名で、お偉いさんがそろっていた。

順番が来て部屋に入ったが、緊張のあまりコチコチになっていた。試験の結果はどうなのか、審査員に私はどう見られているのか。そんなことばかりを考えていた。ひとまず椅子に座りはしたものの、足はガクガクし、しどろもどろである。審査員の1人がファイルを見ながら
 「試験は大体いいようだね。キミはどの開教区へ行きたいのかね。ブラジルに行って頂くといいのですが。。。」
と言われた。
 「あー助かった合格だ。」
と私は思わず心の中で叫んだ。話しが派遣先の事になると言うことは開教使になれるという事なのだ。これでやっと3ヶ月余りの努力も報われると言うものだ。

ところが、ここで問題が起こった。私はブラジルなんて初めから眼中にはなかった。ところが、ブラジルを勧められたのである。派遣先としては北米開教区、ハワイ開教区、カナダ開教区と南米開教区の4開教区がある。ことに南米開教区はブラジル、アルゼンチン、パラグアイ等の国を含む広範囲の開教区で、その中には60カ寺近いお寺があるのに開教使の数が少なく、深刻な開教使不足に悩まされていると聞いていた。だから皆さんブラジルを勧められるのであるが、私にも希望先があるのである。

ここで南米に行かされてはたまったものではない。でも、緊張のあまり
「いいえ、ブラジルは南半球で日本からはとても遠いので両親もびっくりして許してはくれないでしょう。」
と言うのがやっとであった。審査員はさらに追い討ちをかけてくる
 「ブラジルは気候も良いし、僧侶を大変大切にしてくれる国ですよ」
 「いいえ、遠すぎます。それに私は英語圏の開教区を希望しています。」
 「では、カナダでも構いませんか」
 「はい、カナダも英語圏ではありますが東部ではフランス語が主流です。ですから、北米かハワイが希望です。」
とやっと自分の思いを述べることができた。

冷や汗タラタラの面接が終わり、1週間くらいして国際部より書留が届いた。開けてみるとハワイ開教区に派遣するので準備を始める旨が書かれてあった。

開教使養成講座の受講者は9名であったが、実際に派遣されたのはハワイ開教区3名、北米開教区2名、カナダ開教区1名そして南米開教区には1名の7名であった。(April 16, 2001)


ナガーーーイ 出発準備期間

派遣先は決まりはしたものの、いつ出発できるのか全くわからなかった。それは、アメリカで仕事をするのだから観光ビザで行くわけにはいかない。不法就労者として取調べを受け、強制送還になるのが落ちである。そこで必要になるのが移民ビザ(永住権ビザ)である。私の知る限りではその他に、学生ビザ、結婚ビザ、期間限定付の就労ビザがある。他のビザは比較的短期間で取れるのだが、永住権だけはなかなか時間がかかるのである。

最近のアメリカは難民を受け入れることはあっても、自分で申請書を出して、永住権を得ることはほぼ不可能だと聞いている。ごく限られた受け入れ制限枠があり、それも国別に優先順位がつけられているのである。明治時代の日本移民の最盛期であれば、移民に対する制限はあまりなく、日本は優先順位も高かったので、申請さえすれば永住権が得られたのであるが、最近の優先順位はフィリピンなどの国が高く、日本は低くなっている。日本人はあまり歓迎されていないのである。

そこで、私の受け入れ先となるハワイ教団(英語ではHonpa Hongwanji Mission of Hawaii)が教団に必要な人材で、しかもアメリカ国内では仏教の布教活動に従事する者を見つけることができないので、日本から呼び寄せたい。と、移民局へ申請書を出すのである。これでやっと申請書を移民局は受け付けてくれるのである。

それでも、日本人の優先順位は低く、その他にもいろいろな条件が付けられるので、なかなかビザはおりない。布教活動に従事するのであるから、その資格をとった後、2年以上の布教経験が要求され、受け入れ先の経済状態まで調べられる。そして、渡航の後にはアメリカ国民の仕事を取らないこと、等が条件となっている。

私の場合、布教実績の条件は申請の時点で満たしていたので、すぐにも永住権獲得かと思われましたが、それでも実際にビザがおりたのは派遣先が決まってから1年半を経過してからでした。その1年半は大阪高槻市にある行信教校に通い(1年間)あとは、自坊でじっと出発を待っておりました。

やっとのことで、アメリカ領事館から面接に来るよう知らせがあった。指定する医者の健康診断書を持参するようにとのことだったので、福岡市の医院で健康診断を受け神戸のアメリカ領事館で面接を受けることとなった。姫路にいる和田という友人に電話をすると、神戸の領事館を知っていると言うので新幹線の駅まで出迎えてもらい案内をしてもらったので非常に助かった。

物々しい警戒の領事館に一人で入っていくには勇気がいる。アメリカの領事館なんだから英語かな。。。日本語は通じるんだろうか。そんなことを考えながら、待合室で名前を呼ばれるのを待っていた。面接は日本語で行われ、ごく簡単なものだった。後でわかったことなのだが、一応書類審査が済んでいるので、ビザを受け取るのがその日の仕事だったのである。領事に
 「もういつ出発してもいいですよ。」
と言われ、
 「いよいよハワイか」
と思った次第です。私を領事館まで案内してくれた友達は近くの喫茶店で私を待っていてくれたので、またお願いして、駅まで私を送ってもらうこととなった。

ビザがおりると、とたんにあわただしくなります。西本願寺の国際部との話し合いにより、2ヵ月後の10月1日が出発の日と決まった。ハワイ教団で使用する法衣を揃え、どんな生活用品を持参すればよいか聞きに回ったり、しばらくは会うことができなくなる親戚友人への挨拶などなど、動き回っているうちに、出発日はどんどん近づいてきます。

法衣、書籍、生活用品等の必需品を揃え、船便でハワイ教団の本部へ送り出しました。後は、御門主様との面接の残すのみです。(May 13, 2001)


御門主との面接

出発前日は御門主との面接があった。国際部の奥田部長に連れられて本山へ行った。御門主との面接の前に総長との面接があり、総長は
 「あなたはハワイへ腰をかけに行くのか、それとも座りに行くのか」
と尋ねられた。その意味をよく理解できなかった私は
 「ハァー」
としか答えられなかった。すかさず、国際部長が
 「彼はお寺の長男なので10年間の約束でハワイへ行っていただきます」
とフォローしてくださった。そして渡航準備金なるものを頂戴して総長との面接は5分足らずで終わった。うわさでは渡航準備金は30万円位あると聞いていたので、若干期待をしていたのであるが、開けてみると3万円しかなかったのでがっかりした。

いよいよ内示を通って御門主との面接である。親鸞聖人と血のつながっておられる方とお会いするのだと考えただけで緊張した。応接間のソファーに国際部長と座り、御門主のお出ましを待った。カッチンコッチンになっている私を気遣って国際部長がいろいろ声をかけてくれるが、
 「はー」、「えー」
と言ったような言葉しか出ない。

ついに御門主のお出ましである。国際部長が立ち上がったので私つられて立ち上がった。3人は立ったままである。そこで国際部長が直立不動の私を紹介してくださった。
 「明日、ハワイ開教区へ開教使として赴任していただく照島君です。」
座って話し始めるのだが、若い私には話題がない。そこで役に立ったのが、山口の自宅を出発する前に父が言ってくれた言葉である。
 「お前は御門主様との面接があるようだが、そのとき、もし話題に困ったら西宝寺の長男が御門主様と仲が良いようだから、そのことを話題にしてみなさい」

これが役に立った。西宝寺の長男とは少々失礼であるが、御門主様の東京大学時代の友人で、西宝寺に立ち寄られたこともあるほどの仲なのである。現在(平成13年)は武蔵野女子大学の学長をしておられる方である。そんなことから話し始め、大きな期待と不安を抱えて明日出発することとなった旨、御門主にお話し申し上げた。緊張していたのでどれくらい話していたのかは全くわからなかったが、たぶん15分程度ではなかったろうか。


出発前夜

友達とは有難いもので、私が明日大阪を出発すると聞いて、大学時代の友達の多くが京都に集合してくれた。広島の小島君のように本山に就職して京都に住んでいた者もいたが、天草の藤田君や福井の秦先輩など日本各地から集まってくれた。そして飲めもしない私を「ダシ」にして、京都で夜遅くまで飲み明かした。結局、私の送別会は口実でみんな京都へ行く理由が必要だったのである。その夜の京都は大雨で私の一着しかない紺の背広は水浸しになってしまった。


最後の麻雀大会

京都に集合してくれた友達はいずれも、大学時代のクラブ活動の仲間である。宗教教育部に属していた仲間である。なんだか、いかめしい名前のクラブだが、京都女子大学の宗教教育部と合同で活動をするとても楽しいクラブだった。部員150名くらいがそれぞれ日曜学校に配属されて毎週日曜日にお寺に行ってお話しをしたり、ゲームをするのである。また、研究会と言うのがあって、私の属していた影絵劇研究会や人形劇研究会が毎年2本の新作を発表するために活動をしていた。そんなクラブの仲間と明け方までよくしたのが麻雀である。

ハワイへ出発する日とはいっても、飛行機の出発は夜である。昨日飲み明かした友と、夕方まで何をするかと言う話しになり、結局麻雀をすることになった。時間はたっぷりある。友達の下宿へ行き、ジャラジャラと始めた。
 「お前の送別麻雀だから勝ってはいけないぞ」
 「支払いはドルでは困るぞ」
等と言われながら、夕方まで続いた。でも結局、私は勝ったのでもう余り必要のない日本円を手に入れた。そして、下宿の前で記念撮影をして、みんなで大阪空港に向かった。(June 20, 2001)


大阪空港出発

みんなで2、3台の車に分乗して大阪空港に向かった。出発に必要なものはパスポート、航空券、それに生活に必要な物とお土産を詰めたカバンである。車の中で、友達が、
 「パスポートと航空券は持っているか」
と聞いたので、
 「パスポートは持っているが航空券は持たない」
と答えると、変な顔をしていた。実は、西本願寺国際部の責任者と空港で5時に待ち合わせていたのだ。その方が私の航空券を持ってくるようになっていた。そして、私のチェックインを手伝い、大阪の出発時刻をハワイに報告してもらうようになっていたのである。

空港にはたくさんの友達や親戚のみんなが見送りに来てくれた。中には私が最果ての国に行き、もう2度と会えないような挨拶をされる方もあり弱った。また、私を神戸の領事館まで案内してくれた和田という友達は結婚相手を私に合わせるために連れてきていた。ハワイへ行ってしまうと結婚式にはとても戻ってくることは出来ないだろうと気をきかせて、大阪空港でデートをしたわけである。ラブラブの2人で、見送りに来たみんなに冷やかされていた。チェックインを済ませ、出発時刻まで2時間があったので、みんなを一応落ち着かせるために喫茶店に入り話した。

いよいよ、みんなとしばしのお別れである。手荷物検査とボディーチェックを受ける前に、お見送りに来てくれた1人1人と握手をした。中には涙ぐむ女性もあり感動的な別れとなった。

実を言うと私は今まで海外旅行の経験もなく、飛行機に乗るのも初めてなのである。検査台を通り、国際線の待合室に入ると、まわりには誰1人知る人はなく、さっきまでワイワイガヤガヤやっていたのに突然別世界に来たようで、急に淋しくなり、不安になってきた。もう後戻りは出来ないのである。

免税店での買い物も始めてで、どんなものを売っているのか良くわからなかった。とにかく自分に必要でお土産にもなるたばこだけは買っておこうと思い、探し回ってやっと買うことができた。そして出発ゲートへ行くようアナウンスがあった。

搭乗券を見ると私の座席は「1B」と印刷されてあった。これがどんな席なのかは飛行機に乗ったことのない私には知る由もなかった。搭乗客のほとんどが飛行機に乗り込むと右に曲がって自席に着くのに、係りの人は私を左に案内したのである。「みんなは右に行っているのに、おかしいなこともあるものだ」なんて思いながら席に座ると、席の前は壁でその前にはもう座席はなかった。何でも、開教使として赴任するものはみんな片道切符で行くのである。ところが、その片道切符というのは往復切符より高いのである。変な話であるが実際そうなっているようである。それで片道切符の者はよい席に座らせてもらえるようである。

飛行機が動き出した。何もかもが初めての経験でワクワクしていた。誘導路を走り飛行機が滑走路の端で止まった。いよいよ出発である。エンジンを全開にして飛行機がガタガタと振るえながら速度を上げていった。離陸したのはよいが、飛行機は45度くらいの角度で上昇するので、体は随分仰向けになる。慣れている人なら何とも思わなかっただろうが、生まれてはじめて飛行機に乗るのであるから「あー失速する」なんて、いらん心配をしていた。

窓の外を見ると一面電気の海で、ポッカリ満月などもあり、とても綺麗な大阪の夜景がそこにはあった。飛行機は失速することなく順調に上昇し水平飛行になると、綺麗なおねえさん方が忙しく動き始めた。機内食の準備である。

最初、飲み物は何が良いかを聞きに来る。アルコール飲料を飲まない私はジュースをお願いすると、オレンジジュースとナッツが私の前に置かれた。次に、食事のメニューが2種類くらいあってどちらかを選ぶようになっていた。狭い椅子に腰掛けたまま機内食を食べなくてはならいので少々窮屈で、背もたれがあるのでお腹を少し圧迫した状態で食べることとなる。でも、田舎料理しか食べたことのない私には結構おいしく、全部たいらげてしまった。

映画を見て、これからどんな生活が待っているのだろう。住む家はちゃんとあるのだろうか。日本語は通じるのだろうか、言葉は大丈夫だろうか。ハワイの人ってどんな人なんだろう。なんて私の思考では解決のつかない事ばかりを思いわずらっていた。考え事をしているうちに夜はすっかり明けてしまい、客室乗務員のお姉さん方が再び忙しく動き始めた。オシボリが1人1人に配られ、コーヒーが出された。クロワッサンのようなパンを食べていると、機首が下がり飛行機は下降を始めたようだ。

いよいよホノルル国際空港着陸準備である。ハワイ諸島には大きな島が8個あるが、1番西にあり日本にも近いカワイ島が見えてきた。そして、次の島がホノルルのあるオアフ島である。オアフ島に近づくと飛行機も高度をかなり下げているので、家や車が見えるようになる。
 「ははー、これがハワイか。どれどれ、なるほど、車がみんな道路の右側を走っている」

大阪とホノルルの所要時間はおよそ8時間である。大阪を10月1日午後8時に出発しホノルル到着は同じ10月1日の午前9時頃である。ところがホノルル到着の日本時間は午前4時頃なので、到着した日はみんな睡眠不足となる。「飛行機の中では少しでもよいから寝ておくように」と言われていたが、結局一睡もしないまま、飛行機は「ドーン」、「ガタガタガタ」、「グオヲーーー」とホノルル空港に降りてしまった。(September 28, 2001)



第2章 ハワイでの研修(オリエンテーション)

ホノルル国際空港到着

飛行機が無事ホノルル国際空港に着陸すると、機内にはハワイアンの音楽が流れ始めた。さんご礁の海を埋め立てて作った滑走路なのか周りは紺碧の海水で満たされてる。飛行機はゆっくりと誘導路を進み、しばらくするとゲートに到着した。

急に機内があわただしくなりみんな降りる準備を始めた。誰が迎えに来ているんだろう。入国の手続きは大丈夫かな。税関ではどんなことを聞かれるのかな。まわりに知った人は1人もいないので、急に不安になってきた。とにかく荷物を持って外に出ようと、座席を立ち上がり飛行機のドアのところまで進んだ。

そこで、ちょっと太った女性の空港係員に呼び止められた。英語でペラペラと私に向かって話しているので、きっと私に何か言いたいことがあるのだろうと思ったのである。何を言っているのかは良く判らなかったが、何かを私に言っているのは確かであった。

ちょっと話は前後するが、神戸のアメリカ領事館に行く前に、福岡の医院で健康診断を受けたのであるが、その時に胸のレントゲン写真を撮られた。そのレントゲン写真はアメリカに行く時、スーツケースには入れずに、必ず手に持って飛行機に乗るようにと、医師から何度も注意をされていた。茶色の封筒に入れられたレントゲン写真はかなり大きいので、邪魔にもなるし目立つのである。それで、大きな封筒を見つけた女性の空港職員は私を呼び止めたのである。

後でわったことだが、大きなレントゲンの封筒を持って飛行機を降りてくる者は、アメリカへの永住者であるとわかるので入国の手続きを手伝ってくれたのである。実際、みんなが通るような検疫や入国管理だけでなく別室に通され、永住権を持つ者のためのカード(グリーンカード)の発行に必要な写真撮影や、指紋の採取もあったと思う。その写真の写し方が面白い。日本の運転免許証のように顔写真には違いないのだが、片方の耳を写すために斜め前から撮影するのである。髪の長い者は耳全体が出るように髪の毛を掻き分けなければならない。英語でそれを説明していたのであろうが、その時の私にそれが解るはずもない。変な写真を写されたという感覚しか私にはなかった。耳のかたちは指紋のように人によって違うそうである。言葉は判らなかったが、行けと合図をするのでもう済んだのだろうとその部屋を後にした。

さて、大阪で出発の際に預けた私の大きなカバンはどこにいったのだろう。ほとんどの荷物は郵便でハワイ開教本部に送ったので、持参したカバンは1つだけであった。飛行機初めて、海外旅行初めての人間が外国の空港の中を1人で歩いているのであるから、これほど不安なものはない。うろうろしているうちに、たまたまカバンのたくさん並んでいるところに出た。これは困った。この中から私のカバンを探し出すのは至難の業である。そこをうろうろしているうちに、到着便別にカバンが集めてあることがわかった。
 「えーと、JALの78」、「あったあった」
そこに行くと、私のカバンだけだポツンと取り残されたように置かれてあった。入国管理でいろいろ手続きをしているうちに、みんなはもうカバンを受け取って税関に進んでいたのである。

税関では持ち物検査があると聞いていたので、「やだなー」なんて思いながら列に並んだ。混んでいたので結構時間はかかったが、税関自体はノーチェックで、あっという間に通過してしまった。
 「なーんだ、こんなことなら心配するんじゃなかった。」
そして、いよいよ空港の建物の外に出た。そこでまた、見知らぬ人に声をかけられた。(November 19, 2001)


ハワイ教団開教本部


  「照島君ですか」
と40代の男性が日本語で声をかけてきた。良く見ると隣には60代のヒゲをはやした男の人も立っていた。
 「ハワイ教団本部主事の永谷です。日本から到着されるのをお待ちしておりました。」
と手が出てきた。握手である。そうか、こんなふうに手を出すのかと思いながら、握手をしながら日本人の癖で、お辞儀をするのである。
 「こちらにおられる方は藤谷開教総長です。」
と紹介をされた。開教総長直々のお出迎えである。私が照島であるという確認が取れると、挨拶もそこそこに、
 「それでは、本部に行きましょう」
と言って、2人は私のカバンを持って駐車場の方へ歩き始めたのでついて行った。その時は、数年後に私が逆に本部主事として日本からの新任開教使をこの空港で出迎えるようになるとは思いもしなかった。

藤谷総長は上手に日本語を話されるのだが、アクセントが日本人と違っていたので、
 「ハハー、2世だな」
と思った。この総長、実はお父さんも開教総長を務めておられ、2代にわたってハワイ教団を総長として支えて下さっていたのである。それまでは、日本語しか話せない総長ばかりが、選ばれていたのに、その当時の総長選考委員会において、これからは日本語だけでは教団を運営できないので、英語の上手な方に総長を務めていただくべきだ、と言うことになり、選ばれた総長が2代目の藤谷総長であったのである。

さて、アメリカの車は大きいと聞いていたので、どんな車に乗せてもらえるのか楽しみにしていた。ハワイ開教総長の車が私をお出迎えで、それはアメリカ最大の自動車会社ゼネラル・モータースのビュイックで8気筒5000CCの車であった。私が、後部座席に乗ろうとすると
 「アメリカではお客さんは助手席に乗るんです。」
と言って前の席に座らされた。空港を出るとすぐにフリーウエイに入り、10分足らずでハワイ別院に到着し、その敷地内にハワイ教団開教本部はあった。

早速、ハワイ別院の御本尊様に着任のご挨拶をさせて頂いた。(December 30, 2001)

 ハワイ教団開教本部というのは、ハワイ別院の敷地内の一角にあり、ハワイ教団に属する36のお寺を統括している事務所である。開教総長と本部主事をはじめ6,7人の職員がいる。開教使の呼び寄せや、お寺への配属と移動、また、京都の西本願寺との連絡もこの本部を通して行われる。

 また、仏教研究所と言う建物をハワイ大学の近くに持っており、そこには2,3名の職員がいて、仏教講演会等を開催し、大学生など、仏教に興味を持っている人々の窓口となっている。


到着第1日目

 さしあたり、本部の椅子に座って落ち着きはしたものの、飛行機の中で一睡もしていなかったので、とにかく眠たかった。ハワイの人はよく心得ていて、「昼食を取ったら夕方まで一休みしなさい」と言って下さったので助かった。昼食はハワイ別院の仏教青年会が運営している食堂に連れて行って頂いた。そこで出されたものは何と味噌汁であった。ハワイに来たのだからアメリカの食事が出るものとばっかり思っていたので、「へー、ハワイの人はこんなものを食べているのか」と少々ビックリ。でも、右も左も言葉もあまりわからないのだから、こうしたおもてなしが最高である。

 食事が終わると、ここがあなたの部屋ですと、一室に通されて、唖然とした。何と粗末な作りなんだろう。部屋の中を見るとハロータイルというブロックを積み上げて出来た部屋で、ペンキが塗ってあるだけである。窓はと言うと細長いガラスをブラインドのように取り付けてあるだけである。その気になれば私でも忍び込めると思った。タイル張りの床にベッドが1つ置かれてあるだけであった。これがハワイの家の作りか。寒くはないので風邪は引かないだろうが、何と物騒な家だなと言うのが私の第一印象であった。でも、睡魔には勝てず、夕方、本部主事に起こされるまでぐっすり寝ていた。

 夕食は開教総長の奥さんが準備をして下さっていた。本部の横にある開教総長の公邸で総長とこれからのことを話しながらの夕食である。食卓にはアメリカらしい肉とかサラダが並び、マンゴやパパイヤといったハワイならではの果物もたくさんあったので嬉しくなった。総長はハワイ教団の現在の様子やアメリカでの生活につて話され、私の育った環境を聞いてこられたので、山口のことや、大学生活を過ごした京都のことなどを話した。

 ただ、困ったのは総長さんの娘さんのボーイフレンドが来ておられ、その方は日本語がほとんどわからなかった事である。早速日本で習った英語を駆使して話そうとするのであるが、あまり通じない。また、相手のしゃべる速度が速くほとんど聞き取れない状態であった。どうせ英語は理解出来るようにならなければならないと、まわりのみんなが思っているので、解っていても誰も助けてくれなかった。

 明日からいよいよ研修と言うことで、また物騒な部屋で寝ることとなった。(February 9, 2002)

ハワイでの研修 

研修第1日目は午前8時からの別院のお朝事にお参りする事である。でも、これが大変なのである。何が大変かといって、これに間に合うように起きなくてはならないのである。目覚し時計がないので体内時計だけが頼りなのだが、時差があるのでそんなものは役に立たない。とにかく起きなくてはいけないと思いながら寝付いたが、次の朝、目が覚めると午前7時だったので「やれやれ、先ずは第1関門通過」と安心した。

別院のお朝事は正信偈六首引きで和讃は繰り読みされる。約30分間の勤行である。喚鐘の合図で別院の開教使と共に内陣に入り、椅子に座って開始を待つのである。アメリカのお寺は内陣も椅子が置いてあり、正座の経験のほとんどない私はおおいに助かった。喚鐘が鳴り終わると正信偈のお勤めが始まるのである。お経自体は日本と少しも変わるところがないので、みんなと一緒に読むことができた。

別院のお朝事の後は、総長の訓示となっていた。昨日私を空港に出迎え、夕食を共にした総長が改まってまた何を言われるのかとちょっと不安で変な感じがしたが、永谷本部主事の言われるままに、総長の部屋に入っていった。総長の部屋は20畳位の広さで一番奥に大きな机が置いてあり、開教総長がこちら向きに座っておられた。1人で使うには勿体無いほどの広さである。それに、「ここにもあるのか」と思ったのが、机の横に置かれてあるタイプライターである。全職員の机の横に置かれているのである。タイプライターがないと仕事にならないといわんばかりである。日本だったら、事務所に1、2台置いといて、それを共同で使うと言った感じなのだが、一人一台ずつあるのには驚いた。

藤谷総長は開教使としての心構えから話し始められた。これから、少しずつ生活と言葉にも馴れ少しでも永くハワイ教団の開教使として活躍して欲しい。また、いろんな個性をもった開教使がいるので勉強になることもあると思う。ただ、人のうわさはあまり気にしないようにした方がいい。と言うようなことを言われた。

そして、次に私の人事について話された。新任開教使のオリエンテーションは2ヶ月間であるが、それをハワイ島のヒロ別院で受けて欲しい。ただ、ホノルルでないとできない手続きもあるので、1週間はホノルルに滞在して下さいとの事であった。

本部主事の案内で最初に連れて行かれたのが、国家が管轄するソーシャル・シキューリティーの事務所であった。アメリカの住民1人1人に9桁の番号が付けてあり、その番号をソーシャル・シキューリティー・ナンバーと言う。運転免許証、身分証明書等には必ず本人を証明する番号として、このソーシャル・シキューリティー・ナンバーが使用される。この番号をもらうために申請書を出すのである。アメリカ国民のみならず、結婚によりアメリカに住むようになった人、また、私のように移民としてアメリカに住む人にはこの番号が発行されるのである。申請書を出すと番号は後日郵送されてきた。

次に連れて行ってもらったのはハワイ州管轄の衛生局で、そこでマリッジ・ライセンスを取得するのである。日本では役所に婚姻届を出しさえすれば結婚が認められ、夫婦となれるが、アメリカでは州発行のマリッジ・ライセンスを受けている人のサインがないと役所は婚姻届を受理してくれないのである。そのライセンスを取得できるのは弁護士や牧師といった限られた職業の人だけである。

その手続きをする時、衛生局の女性職員が司式をするに当っての注意事項を色々私に説明していたが、当の本人、ハワイに来てまだ2日しか経っておらず、チンプンカンプン何も理解できない状態だったので、私を連れてきた本部主事に向かって「後でよく説明しておいてください」ということで、マリッジ・ライセンスを私に発行して頂けることになりました。

ホノルルの研修で一寸参ったのは自動車保険の講義でした。アメリカは車社会で車がないと何もできないので、あなたもやがて車に乗るようになる。最近交通事故も増加しているので、保険の機構について知っておいたほうが良いと言う事になり、1時間の講義があった。担当者はハワイ教団の理事長で、この方は保険のセールスマンであった。日本語も上手で、流暢な日本語でお話し下さった。まいったのは保険の言葉である。理事長は保険の専門用語を日本語でどんどん言われるのである。良くまあここまで勉強されたものだと思うくらい難しい日本語で説明をされた。ハワイに来て、ここでは私が日本語を習ったような状態でした。

ホノルルでは僧侶としての実習も見学もほとんどなく、手続きや、講義といったものが多く、たくさんの人との出会いがあり、ワイキキや真珠湾等の観光をしているうちに1週間がまたたく間に過ぎ去って行きました。

そしてこんどはヒロ別院で研修を受けるためにハワイ島へ出発する事となりました。(May 10, 2002)

ホノルルからヒロへ出発

永谷本部主事にホノルルの空港まで送ってもらい、昼過ぎの飛行機だったので、そこで一緒に昼食を取って出発する事となった。ハワイにはいくつかの島があり、その島と島を結んでいる飛行機はアロハとハワイアンの2社がある。私が乗ったのはアロハ航空の飛行機でイモムシのような形をした、ずんぐりむっくりの飛行機(B737型機)で、もう一つのハワイアン航空の飛行機(DC10)のほうがカッコウイイな、といったようなことを思いながら、飛行機に乗り込んだ。

やがて、飛行機はホノルル空港を離陸し順調に高度を上げていった。ヒロまでの飛行時間は約40分と聞いていた。飛行機が離陸するとすぐに飲み物のサービスが始まった。飛行機はまだ上昇中で傾いた状態のままである。「何と言うことだ。こんな状態で機内サービスかよ。大丈夫なのかなー。」といったことを思っていたが、客室乗務員が飲み物を聞いてきたので
 「コーラ」
と言ったら変な顔をしていた。そこで
 「コカ・コーラ」
と言い直すと、納得したらしく、私の前にカンのコーラとコップを置いてくれた。無料かと思ったら50セントと言うので支払うしかなかった。

その頃には飛行機も水平飛行になっていて、着陸までまだ30分くらいあるのでゆっくり飲めるとちびりちびりコーラを飲んでいた。すると飛行機が高度を下げ始め、乗務員が空き缶やコップの回収を始めたのである。私のコーラはまだ半分以上残っているのに、それを取ってゴミ袋の中に入れてしまったのである。「これはいったいどうしたことか。何が起こるのだろう。」と思っているうちに、飛行機はどんどん高度を下げ、空港に着陸したのである。

飛行機が空港の建物のところに止まったので、降りようとすると、隣に座っていた白人のおじさんが
 「Where do you go?」
と聞くので
「ヒロ」
と答えると
 「This is Maui.」
と教えてくれた。私の乗った飛行機が途中マウイ島に寄ることを教えられていなかった私は、もう少しのところで、マウイ島カフルイ空港で降りてしまい、迷子になるところであった。15分位カフルイ空港に止まって、また飛行機は動き始めた。そして、20分位でまた空港に着陸した。今度は私の目的地ヒロ空港のようである。

飛行機を降りて、空港のロビーにでて、迎えの人を探した。誰1人として知っている人はいないのだが、以前より面識のある人が1人だけいたので、その人を探したのである。それは、本好先生という美形の女性開教使である。彼女は私たちが京都の国際センターで開教使になるための研修を受けている頃、ハワイ教団の奨学生として日本で勉強をしていたのである。国際センターで寝泊りしていたので、何度か話しをしたことがあった。その本好先生がヒロ別院におられるとホノルル滞在中に聞いていた。

ヒロ別院からは全開教使3名とメンバーの代表数人が私を迎えに来ておられた。でも、私を確認できる人は本好先生だけなので、彼女も必死に私を探したと後で聞かされた。空港では60過ぎのメンバーの女性代表者から首にレイをかけてもらい、ホッペにキスをもらった。せっかくなら若くてきれいな本好先生のほうが良かったなと思った。荷物を受け取って、車でヒロ別院に向かった。別院までは10分足らずの距離である。(続く)(June 2, 2002)


ヒロ別院到着

ヒロ別院に到着するとすぐに本堂に案内された。ゆうに300人は座れるであろう大きな本堂の一番奥に、そびえ立つように御宮殿(オクウデン)があり、その中に阿弥陀様が立っておられた。脇段の親鸞聖人と蓮如上人の御影は日本のお寺と同じなのだが、七高僧さまと聖徳太子さまの御影がないので、
 「ホノルルのハワイ別院同様、どうしてここにも余間の2幅の御影がないのですか?」
と尋ねると、ハワイのお寺はみんなそうなっている。本堂のスペースの関係で安置していないとの事であった。御本尊様に着任のご挨拶をすませ、別院と棟つづきになっている輪番宅に落ち着いた。

ヒロ別院の輪番は滋賀県出身の近藤輪番である。昭和28年に日本からハワイに来られ、在職25年のベテラン開教使である。また、昭和31年より3年間、ハワイ教団の奨学金をもらってニューヨークにあるコロンビア大学に留学もしておられるので英語も大変上手な方であった。

ミセス近藤は“コトンク”であった。“コトンク”とは椰子の実が地上に落ちる時の音を形容したものであるが、あまり良い言葉ではない。ハワイの人はアメリカ大陸で生まれた人をこう呼んでいる。頭の中が空っぽなので、たたくと大きな音がすると、卑下した言葉である。でも、大陸出身者を一言で言い表せる便利な言葉なので日常会話の中で結構聞くことができた。輪番夫人に対し失礼な紹介の仕方になってしまったが、2世なので、その当時は日本語より英語が強く、私にも英語でどんどん話されるのには参った。

でも、この近藤輪番夫妻には大変お世話になり、私がハワイで生活できたのも、この方々にしっかりとご指導を頂いたお陰と思っています。これから何度となく御登場頂かねばならないお方であります。

さて、これからの2ヶ月間、本格的な研修がヒロ別院で始まる。ところが、私の住む家がないのである。家がないとは何事だ!!!日本を出る前に、国際部の部長が、
 「住む家とか仕事に必要な車などはお寺が用意してくれるので何も心配ありません。」
と言われていたので、何も考えていなかった。まだ、右も左もわからない私なので、言われるままに、輪番宅2階の講師部屋が私の住みかとなった。不幸中の幸いとはこの事で、一人身の私にとっては大変好都合であった。それは食事付の下宿だからである。

一応、私の住みかとなる講師部屋に入った。一流ホテル並、とまではいかないが、大きなベッドをはじめ生活をするための家具はそろっている。トイレとシャワーは隣りにある。アメリカ人は風呂にあまり入らないと聞いていたが、なるほどシャワーだけである。それにトイレとシャワーがひとまとまりとなって同じ部屋の中にあるのがおもしろい。

部屋に落ち着くまもなく、日本より持参したお土産をカバンより取り出した。ハワイへのお土産は何が良いかとあれこれ考えた末に決定したのが万年筆であった。これからお世話になるであろう方々にこの万年筆を持って挨拶に行かなくてはならないのである。ところがこの万年筆、あまり評判が良くなかった。アメリカに行って判ったことだが、押さえつけて字を書く人が多く、ボールペンが一般的であった。それに、複写式の領収書のようにカーボンで2枚3枚の複写をしなくてはならない書類が結構あるので、ボールペンのほうが都合が良いのである。そんなこととは露知らず、皆さんニコニコして有り難く頂戴して下さるので、有頂天になっていたが、後で、事情がわかり申し訳なく思った次第です。

(July 2, 2002)

本格的研修(本願寺ヒロ別院にて)

これから末永くハワイ教団の開教使として活躍できるようにと、基本的に身につけておくべき事を網羅した、私のオリエンテーションのスケジュールが近藤輪番のご苦労によりすっかり出来上がっていた。例えば生活については、買い物の仕方、銀行の利用、自動車の運転に関することなどである。また、開教使の仕事については、6大法要と日曜礼拝について、法事の勤め方、結婚式や葬儀の執行、病院に関すること、日本語学校のあり方、そして事務処理の方法等である。これらを網羅した、日課表のようなものか用意されていた。はじめの数回は見学だけで、その後、次第に慣れて、1人で出来るようにプログラムされていた。

お寺の諸施設について

本堂 お寺の本堂のつくりは日本のそれと随分違っている。ハワイ別院とヒロ別院は独特のかたちをしているが、その他のお寺はほとんどが切妻式の建物で、屋根はトタンで覆われている。日本のお寺はほとんどが正方形であるのに対し、ハワイには奥に向かって深い長方形の建物が多い。本堂の中は内陣も外陣(ゲジン)も椅子式になっている。内陣は日本のお寺の余間に当る部分がハワイにはないことを除けば、その他は、全く同じである。

ソーシャル・ホール 本堂と同じ位の広さのソーシャル・ホールをほとんどのお寺が持っている。本堂を2階にして、階下をホールとしたものや、本堂に並んでホールの立っているところもある。法要の後の御斎はここで出される。昔はその地区の映画館としての役割も果たしていたのであるが、最近は映画をお寺ですることはなくなった。

キッチン(台所) お寺の台所で、特に仏教婦人会の方々が中でお世話をして下さっていた。ヒロのキッチンには「キッチン・ボシ」というのがいて、80を過ぎた中島のおばあちゃんがその台所を取り仕切っていた。「ボシ」とはハワイの方言でボスのことである。

開教使住宅 本堂の横には開教使住宅が用意されている。開教使の家族が住むのに充分な広さがあり、御講師に泊まって頂くための部屋と、たいてい1つまたは2つの子供部屋まで用意されている。

事務室、会議室、日本語学校教室等 その他に事務室、会議室や日本語学校のあるお寺にはその教室などがある。

銀行口座(小切手口座など)の開設

近藤輪番の車に乗せていただき、いろんなところを案内して頂いた。ショッピングセンターや、食料の買出しに行くスーパー、大学、そして、私の住む家探し等である。最初に行ったのが銀行で、そこで2つの口座を開設することとなった。お金を現金で所持するのは、警備上良くないので、銀行に預けるのである。日本でいう普通預金の口座を開いたのである。それと、もう一つは小切手の口座を開設したのである。アメリカ人はあまり現金を持ち歩く習慣がない。財布の中には20ドル(2千円くらい)あれば普段の生活はあまり心配ないのである。10ドル位からの買い物は全て小切手で支払うか、クレジットカードでの支払いが普通である。100ドル、200ドルの買い物を現金で支払う光景はあまり見受けられないのである。毎月何某かのお金をその口座に入れて、小切手を書いて支払いをするのである。ほとんどのお店や、レストランは小切手を受け入れてくれるので、そうした習慣が出来上がっている。それに、アメリカには現金封筒なるものがない。お金を送るのも小切手で、普通の封筒で、一般の手紙と同じように送るのである。電気代、電話代、諸会費等はほとんど小切手を郵送して支払われる。蛇足ながら私の給料も、お寺へのお布施もほとんど小切手であった。

車さがしと家さがし

しばらくは輪番宅にイソウロウするので心配ないのだが、いつまでもそこに居るわけにはいかないので、住む家を探さなくてはならない。でも、車がないと家から通うことも出来ないので、早速、車さがしに取りかかった。だいたい車はお寺が用意すると聞いていたので、車を買うためのお金がない。でも、それはヒロ別院が低金利で貸して下さることとなり解決。早速選定に入る。みんなは、日本の車が燃費も良いし故障が少ないのでおすすめですと言って下さったが、当の本人はアメリカの大きな車に乗りたかったので、ゼネラル・モータースのノバと言う中古車を買った。ライトブルーの大きな車で、排気量も4,000CC以上あるなかなか乗り心地の良い車であった。値段は確か2,500ドル位だったと思う。

家さがしはというと、近藤輪番とあちこちのアパートに空がないかを聞いて回り、別院から2、3キロ位離れたところに手ごろなアパートが見つかったので、そこに入ることとなった。家賃は毎月別院が小切手を書いて支払って下さることとなった。

運転免許取得

車は買ったが、まだハワイの運転免許証があるわけではない。日本から国際免許証を持参していたので、運転は出来るし、車を買うことも出来る。でも、その国際免許証の有効期間は発行から1年間なので、ハワイ州政府が発行するアメリカの運転免許証が必要になる。

アメリカには自動車学校のようなものはあまりない。警察署で筆記試験を受け、合格するとその場で仮免許証が発行される。免許証を持っている人に横に乗ってもらい、普通の道で何時間か練習をして、試験用の車を警察に持参し、その車で試験が行われる。警察官の指示で町中をグルグルと回って、警察署に帰って来ると試験は終了する。合格すればすぐに免許証が発行される。

日本からの留学生が仮免許証を受けたので、運転を教えて欲しいと私に言ってきたので、教えたことがある。3時間位運転を教えて、その留学生は、あまり運転が上手ではなかったので、あと何日間か教える必要があるなと思った。ところが、その彼が言うには

「もう充分なので試験を受けに行きたい。」

と言うのである。大丈夫かなー。なんて思いながら、私の空いている日に彼と私の車で警察署に行った。その学生が運転をし、警察官が横に乗って出て行き、私は警察署で待った。

「一寸まだ合格は難しいのでは」

なんてことを考えながら、待つこと約15分。私の車は無事戻ってきた。彼は合格したのである。何でも、車がないと生活に困るので、ある程度車が動かせれば合格となるそうである。でも、縦列駐車は出来ないといけない。

私の場合はオリエンテーションの一部としてヒロ別院のメンバーで運転免許証のことに詳しい本田さんと言う人が私を案内して下さり、手続きなどをして下さった。そのお陰で既に日本で運転免許証を受けていたので、実地試験は免除され、筆記試験だけで、筆記試験に合格したその日に免許証が交付された。

(August 1, 2002)

ハワイでの法事

日本と同じようにハワイでも回忌の法事が勤められる。日本の法事はほとんどが自宅で勤められるが、ハワイでは自宅で法事をつとめる方はまれで、ほとんどの法事がお寺で勤められる。あらかじめ予約しておいた時間に家族はあちこちからお寺に集まってこられる。違う島から飛行機で来られる方もおられれば、大陸から法事のために帰ってこられ方もおられる。

法事の形式は日本とあまり変わらない。最初にお経を読んで次に法話をして、アスピレーションと言われる聖語が読まれる。お経は日本でもなじみの深い「仏説阿弥陀経」や偈文がよく読まれる。偈文は日曜学校でもよく読まれるので毎週通っているような子どもたちはだいたい暗記している。「らいはいのうた」のように英語に翻訳されたお経もあるが、ほとんどは日本で使用されているものと同じお経を読むことが多い。

お経の後、必ず法話がある。お参りに来られた人たちに合わせて、英語でしたり日本語でしたりであるが、最近は英語の解らない方が大変少なくなっているので英語でされることがほとんどである。

とはいっても、日本から着任早々英語で自由に法話が出来るわけではない。1字1句残らず自分で書いた法話を先輩開教使に見てもらい、添削されたものを読むのである。毎回法事をする相手は違うので、同じ法話を何十回とくり返しているうちに原稿なして喋れるようになるし、もう少し説明文を付け加えたほうが解りやすくなると思った場合にも、それがアドリブで出来るようになるのである。そんな、添削された法話を5つ6つと用意するうちに、原稿を作らなくても自分で思うことが相手に伝わるように話せるようになるのである。法事の法話は10分程度のものであるが、私の場合、やはり3年くらいかかってやっと原稿から開放されたように思う。

アスピレーションを読んで法事は終る。アスピレーションとは英語で書かれた聖語で、これを読むのはなかなか骨が折れる。詩のようなものなので、読み方が難しいのである。DR.E.Kono という教育学博士がオリエンテーションの一環として私の英語の読み方を指導してくださることになり、毎朝1時間の特訓が約1ヶ月間続いた。アスピレーションを3つ4つ練習し、ついでに、葬式の場で読まれる「白骨の御文章」の英語版と結婚式の時の司式の言葉の読み方を習った。お陰で私の読み方は飛躍的に上達し、聞いててよく解るようになったと、法事の後、皆さん言って下さるようになった。

ハワイ移民の始まり

近藤輪番の作成されたオリエンテーションのプログラムには色々なことが含まれていた。ハワイの日本人移民の歴史や、本願寺ハワイ開教の歴史について理解を深めるというのがあった。なんだか難しそうな講義を受けるような気がしたが、実際は楽しいものであった。というのも、10マイル(約16Km)離れたプナ本願寺に夕方お邪魔をして夕食をご馳走になりながら、昔のことをあれこれ聞くのである。

(December 21, 2002)

ハワイにはじめて日本人が到着したのは記録によれば室町時代とある。なんでも遭難した漁師が漂流しているうちにハワイに流れ着いたようである。

移民として日本人がハワイに行くようになったのは明治元年からである。いわゆる元年ものと言われる人たちが始めである。153名の若者が新天地を求めて海を渡ったのである。それと前後して、いろいろな国から当時のハワイ王朝は移民を受け入れている。例えばポルトガル、中国、朝鮮、フィリピン等の国である。ところが、日本人は特に勤勉でよく働くので、ハワイ王朝は日本人の労働者を本格的に求めるようになる。

当時のハワイは砂糖産業の創業時代で労働者不足に悩んでいた。それで、砂糖きび畑で働く労働者をいろんな国から移民として受け入れていたが、日本人に目をつけ、当時の日本国政府に労働者を送り込むよう要請したのである。ハワイからの要請を受けた日本国政府はハワイ移民を募り、送り出すようになったのである。これが明治18年に始まる官約移民である。

移民として海を渡った者の出身地は広島県が一番多く、次に山口、熊本、福島、沖縄の出身者が多かったようである。とは言うものの、飛行機のないあの時代に船で1週間かけて太平洋を渡るのであるから、相当の覚悟が必要であった。

故郷に錦を飾る思いで多くの若者がハワイへ渡って行くのである。大きな夢と希望をもって、ホノルルにあるアロハ・タワーを眺め、そこに上陸したに違いない。ところが、そこに待ち構えていたのは炎天下での過酷な労働であった。

常夏の国ハワイは遊ぶには良いところだが、炎天下での労働ほど辛いものはない。日本の夏が1年中続いているのだ。その上、衛生状態が非常に悪く飲み水は砂糖きび畑の溝から汲んできて飲まなければならなかったし、お昼になって日の丸弁当を開いてみると、赤土のホコリが入り込み、白いご飯が赤くなっていて、それを食べるとジャリジャリと音がしたそうである。

あの頃は日本人が熱病でコロコロ死んだそうである。荒板の棺桶を車力にのせて運び、正信偈を読んで埋めたそうである。でも、お坊さんはいないので、門徒の中で正信偈を暗記しておられる方がそうした仕事をしておられたようである。

(May 11, 2003)

ハワイ開教の始まり

官管約移民が始まり多くの日本人がハワイへ渡った一方、ハワイで一旗上げて故郷へ帰ることを多くの移民者は夢見ていたのであるが、厳しい労働環境の中で、計らずも命終えてしまう若者の無念さを思う時、本当にいたたまれない思いがする。その上、僧侶がいないので葬式はできず、正信偈を読んでもらって簡単に埋葬をしたのである。

また、若者たちは毎晩のように賭博をするようになり、酒を飲んで暴れるものが増え、日本人移民者のこころは次第に荒れていき、キャンプと呼ばれる日本人が暮らす集落の中では、イザコザが絶えないようになっていった。

そんな状況をみるに見かねて、数人の移民者が協議をして、葬式を執行できる人、また、こころの支えとなる教えを説いてくれる僧侶の必要性を感じ、京都・西本願寺に僧侶派遣の要望書を提出したのである。

本願寺第二十一代宗主明如上人は専ら海外布教を奨励しておられ、早速に大分県の曜日蒼龍(カガイソウリュウ)氏にお会いになり、懇ろに激励のお言葉をかけられ、日本人移民者の現状把握を目的として曜日氏をハワイに送り出された。

曜日蒼龍氏が単身ホノルルに上陸されたのは明治22年(1889)3月のことであった。この月がハワイ教団の開教記念の日となっている。

曜日氏は早速、各地に散らばっているキャンプ地を回り、浄土真宗の教えを説いていかれた。移民者の多くは浄土真宗の盛んな地域からの者が多く、熱心に耳を傾けた。そして、到着後わずか1カ月足らずで、ホノルルに仮布教場ができるのである。また、同氏はハワイ島ヒロにも行かれ、そこにも仮布教場を作られたのである。これら2つの仮布教場が後のハワイ別院とヒロ別院になるのである。

曜日氏は数ヶ月の滞在で、2つの仮布教場を作られ、各地を布教され現在のハワイ教団の礎を築かれ日本へ帰られる。

(June 20, 2003)

写真結婚(Picture Brides)

ハワイに新天地を求め移住していったものはほとんどが20前後の若者であった。数年もすれば結婚の適齢期となる。親は息子の結婚相手を探すのであるが、当の本人は外国にいてお見合いもすることが出来ない。そこで、ハワイで写ったお見合い写真が必要となったのである。

当時、ハワイには口ヒゲをはやしている人はかなりいたのであるが、日本では、事情が違っていた。口ひげをはやしている人は村長さんか校長先生といったお偉いさんだけであったようである。

そんな中、立派な口ひげをたたえたお見合い写真がハワイから送られてきたので、日本の女性の多くはそれに引かれて、本人に一度も会うことなく結婚の約束をし、夫に会い、そこで生活を共にするために一週間の船旅をして、ハワイに渡ったのである。

日本語学校

オリエンテーションの一環として、日本語学校についての理解を深める、というのがあった。これはヒロから40マイル(60KM)離れたホノカア本願寺での研修であった。ヒロ別院にも日本語学校があるので、そこでも充分研修は出来るのであるが、いろんなお寺を訪問するのも研修の一環であり、また、そのホノカア本願寺に駐在しておられた戸島良三先生は日本の高校で国語の先生をしておられたと言う経歴があり、日本語学校ににも力を入れておられたのである。

それで、日本語学校が始まる午後3時頃にそのホノカア本願寺にお邪魔して、見学させて頂くのである。通ってくる子供たちは朝は一般の英語の学校へ行き、放課後日本語学校へ来るのである。いろんな人種の子供たちが通っては来ているが、日本語を話せる子供はあまりいない。開教使とその奥さんが2つの教室に分かれて、それぞれ2、3時限の授業を学年ごとに行っていた。教科書はハワイ教育会といって、ハワイの日本語学校の連合会が発行している教科書を使用していた。

授業が終ると奥さん手作りの料理で私を歓迎してくださった。戸島先生の子供さん2名とともに、日本語で会話をしながら食べられるのでとても嬉しかった。その日は、夜遅くまで話し、真暗の道を運転してヒロの家に帰り着いたのは真夜中であった。

そもそも、ハワイの日本語学校はハワイへ移民として移り住んだ日本人が始めたものである。一世の移民者たちは写真結婚などで結婚をし、子供が出来る。その2世の子供たちにハワイに居ながら日本の教育を受けさせたいという願いのもとに始まっている。

戦前までは子供も多く教室が足りないくらいの子供たちが通っていた。日本で発行された教科書を使い、修身、書道、裁縫、柔道、剣道も教えられていたのである。子供たちも親兄弟と話すときには日本語を使っていたので、日本と同じ教育が出来たのである。

ところが真珠湾攻撃と同時に、ほとんどの日本語学校の校長先生は抑留されてしまい、日本人の行動はアメリカ政府により大きく制限されてしまいます。白人の理解できない日本語の使用も禁止されてしまいます。日本語学校の教室は軍隊により半強制的に占領されて、兵隊の宿舎などになってしまいます。

この真珠湾攻撃で、日本語学校は閉鎖となり、再開されるまでの10年間で、ハワイの日本語の状況はガラッと変わってしまいます。みんなが英語をしゃべり始め、日本語がわかる人が次第に少なくなっていくのです。ぼとんどの2世はハワイ(英語)の学校と日本語学校の両方で勉強していますので、両国語を話すことが出来ます。親と話すのも、もちろん日本語でした。ところが3世は英語しか解らないようになってくるのです。

(January 25, 2004)続く