古代文学への誘い                          backindexnext

 


4.4 国見儀礼

 

    天皇登香具山望國之時御製歌

大和には  群山あれど  とりよろふ  天の香具山  登り立ち  国見をすれば  国原は  煙立ち立つ  海原は  鴎立ち立つ  うまし国ぞ  蜻蛉島  大和の国は (万葉集 巻1・2

 

  先ほどの雄略天皇の歌に続いて、万葉集の二番目の歌です。舒明天皇が明日香にある香具山に登って国見をした時の歌と説明にはあります。国見というのは、その土地を治めている王が春先に小高い山に登って、国土を讃美する儀礼です。歴史記録には現れて来ないのですが、古代にはあったとされています。土地を讃美して、秋になって豊かな実りを願うという予祝が目的です。

  歌は、大和には多くの山々があるが、その中でもとりわけ優れている天の香具山に登り立って国見をすると、国原は煙が立ちこめている。海原はカモメが飛び回っている。立派な国であるぞ。トンボが満ちて豊かな実りのある島である大和の国は

  と大和を讃美したものです。ここで不思議なことがあります。大和は内陸なので海がない。しかし海を見たとか、カモメが歌には登場してきます。かつては大きな池を海に見立てのだとか内陸まで飛んでくるユリカモメなのだとか、いろいろ解釈されてきましたが、現在では儀礼に許される「幻視」的性格で理解されています。というのは、他にある国見歌も同様な傾向が見られるからです。

 

おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて ()が国見れば 淡島(あはしま) 自凝島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ (さけ)つ島見ゆ  (記歌謡  53

 

  古事記の仁徳天皇の所に見られる歌謡です。難波の浜辺から遠くを見ている様子です。国見ではありませんが、よく似た海を見る祭りの時の歌だろうと理解されています。この歌で、淡島とは淡路島だろうというのはいいのですが、自凝島だの檳榔の島だのわけのわからない島が登場してきます。自凝島というのは神話に出てくる島です。檳榔の島とは、檳榔(びろう)の生えている島。とすると檳榔は亜熱帯植物なので、今の奄美大島以南しかその島は存在しないということになります。

  ということは、この歌に示されている島々は、目に見えていないものを歌っているということになり、一見実際に見ているものを歌っているように見えながら、実は儀礼的にあたかも見ているように歌うという特徴があったのだということがわかってきます。ちなみに淡島も神話に出てくる島。放つ島というのは何だかわかりませんが、難波からまず神話に登場する島を歌うことによって時間的な縦軸の世界を示し、遠く南にある島によって平面的な広がりを示すという意味があったと考えられます。それによって支配している国土の広さを表して、全体を讃美するという方法です。

  同様に、今の香具山の歌をとらえると、山と海を対にすることによって支配している国土全体を指し、生命力の充実を歌うことによって、繁栄を讃美しているという意味であることがわかります。

 これらの歌は、「見れば」という言葉が必ずあり、万葉集の歌に「見れば〜だ」という表現形式の歌となって残っていって、やがて風景を写し取っていく叙景歌へとつながっていくことになります。

 


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