「作家としての人麻呂―泣血哀慟歌―」 

一 はじめに


 人麻呂は。妻が亡くなって悲しみの気持ちを表した「泣血哀慟作歌」を詠んでいる。「泣血哀慟」とは血の涙を流してひどく悲しむという意味で、漢籍にこの熟語を見ることが出来る。以下に示すように三群から成立しているこの歌は、よく見ると、哀しい感情にまかせて一気に詠んだものでもなく、構成が綿密に計算されたいわば「作り物」的な要素が強い。そこで具体的に見ていくことにする。

[第一歌群]
  柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首[并短歌]
天飛ぶや 軽の道は 我妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多く行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 岩垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば 梓弓 音に聞きて 一云 音のみ聞きて 言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてありえねば 我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば 玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉桙の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる 一云 名のみを聞きてありえねば(巻二・二〇七)
  短歌二首
秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも 一云 道知らずして(同・二〇八)
黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ(同・二〇八)

[第二歌群]
うつせみと 思ひし時に 一云 うつそみと 思ひし 取り持ちて 我がふたり見し 走出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世間を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾隠り 鳥じもの 朝立ちいまして 入日なす 隠りにしかば 我妹子が 形見に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふ 物しなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 我妹子と ふたり我が寝し 枕付く 妻屋のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥の 羽がひの山に 我が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根さくみて なづみ来し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば(同・二一〇)
  短歌二首
去年見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年離る(同・二一一)
衾道を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし(同・二一二)

[第三歌群]
  或本歌曰(省略)

二 第一歌群と第二歌群の関係

 引用歌が長いので、三歌群からなる当該歌のうち第二歌群とほぼ同じ第三歌群を省略した。第三歌群は、第二歌群の異伝であると考えられてきたが、相違句の比較から第三歌群から第二歌群に推敲されたものと思われる。
第一歌群は、妻が亡くなった直後の動転した気持ちを描いており、第二歌群は、時が経って落ち着いてきた時の回想を示したものである。そして短歌は、一年後の空しさを描く。
 従って、歌の構成には、意図が見られる。「軽」という場所をイメージさせる演出が第一歌群にあり、第二歌群では亡くなった直後から時間が経っていく心境の変化を追うような形になる。
 この特徴をとらえて作歌の順序を推定すると次のようになる。
  第一歌群一云 短歌一云 → 第一歌群本文 短歌
  第三歌群 → 第二歌群一云 → 第二歌群本文 短歌一首落とす
という流れをになろう。
 そうした中で次に問題になるのは、この中に描かれている「妻」である。この二種類の長歌に描かれている「妻」は同一人物であるのか、別人なのかということが疑問となる。
 第一歌群、第二歌群の両者を見ると、生前の「妻」は軽という場所にいて、引出の山に葬られると描かれる。軽とは、畝傍山の東麓であり、現在の奈良県橿原市東南大軽周辺である。一方引出の山は、竜王山の別名であり、三輪山の北側にある。藤原京の中心から見ると東西に大きく距離が開いていて、埋葬地としては不自然である。そこで次に人麻呂の妻の実態を探ってみる。

三 人麻呂の「妻」

 人麻呂の「妻」と見られる女性が歌に示されているのは人麻呂歌集所出歌である。従って必ずしもそれが相聞的な歌であるとは見られないものもあるが、妻を対象としていることが伺えるものもある。以下に概観してみる。
鳴る神の音のみ聞きし巻向の桧原の山を今日見つるかも(巻七・一〇九二)
雷のように音(うわさ)にばかり聞いていた巻向の桧原の山を今日見たことであるという意味で、巻向の桧原の山とは三輪山を指す。巻向とあるので三輪山でも西よりに位置する場所である。皇子行幸従駕歌とも見られるが、一方で妻の元へ通う時の歌とも見られる。
 しかし、この巻向の里の妻は亡くなったらしい。
子らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行きまかめやも(巻七・一二六八)
 「過ぎにし人」とは、亡くなった妻を指す。巻向山は永遠だが、亡くなった妻にまた会って手枕で寝られるだろうかと嘆いた歌である。
この妻は、もともと宮廷に仕える女官であり、宮廷で出会ったらしい。大宝頃の二度目の持統天皇の紀州行幸従駕の歌と思われる歌には、以下のような歌が見られる。
潮気立つ荒礒にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し(巻九・一七九七)
 四首歌群であるが、一首だけ掲げる。いずれの歌も最初の行幸で共に遊んだ紀州の海岸を今は一人で来ていて、妻のことを思い出して嘆いている歌である。
 以上のことをまとめると、
(1)「妻」は三輪山の麓である巻向付近に実家があって、宮廷女官として出仕していて、人麻呂と出会った。
(2)女官を退いた後、人麻呂は妻の元に通っていたが夭折した。
ということが伺われる。とすると巻向の里に近い引手の山(竜王山)に葬られるという実態も首肯出来る。

四 「軽」の地

 第一歌群は、妻の居処を「軽」の地とする。しかし「軽」の地に住む妻は「隠り妻」であり、人に知られてはいけない妻として描いている。にもかかわらず長歌の冒頭に妻の居処を「軽」と明示する。先に示したように実際の妻は巻向の里にいたと推定されるが、その場所とは異なっている。このことはこの歌自身が読者を意識したものであり、自らの嘆きを自然な形で表出したものではないことを示していると同時に、「軽」を舞台とした隠り妻をモチーフにしたものとして受け取ることが出来る。
 他に「軽」の地が歌われているものに、『古事記』允恭天皇の箇所の軽太子と軽郎女の物語に挿入されている歌謡がある。
天飛む 軽の嬢子 いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く
天飛む 軽嬢子 したたにも 寄り寝てとほれ 軽嬢子ども

 前者は、空を飛ぶ雁ではないが軽の娘子よ。ひどく泣くと人が知ってしまう。波佐の山の鳩のように密かに泣くよ。という意味。天飛ぶは同音で軽の枕詞。人麻呂が「天飛ぶや」と翻案したものである。波佐の山は不明。ただ軽の近くであるので、畝傍山のことかと考えられている。
 後者は、空を飛ぶ軽娘子よ。密かに自分の所に立ち寄って寝て通りなさい。軽の娘子よと言ったもの。そのままでは意味が不明である。
 物語に即して言えば、軽太子と軽郎女の密通事件の中に登場しているものであり、密かに軽郎女が軽太子に通じている様子を歌ったものであるが、本来は全く違った所で実際に歌われていた歌謡である。歌詞から推察すると、軽にすむ娘子が男と密かな恋をしていることを示すものであり、歌垣での歌謡であると考えられる。
とすると、「軽」の地は歌垣の舞台であり、人麻呂はそのイメージを入れようとしたと考えられる。「軽」が歌垣の地であるということは『万葉集』からも伺うことが出来る。
天飛ぶや軽の社の斎ひ槻幾代まであらむ隠り妻ぞも(巻一一・二六五六)
 この歌から軽の地には軽の社があり、神聖な槻の木があったこが知られる。そして軽の池もあったらしい。
  紀皇女御歌一首
 軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに(巻三・三九〇)

 紀皇女が恋のうわさをたてられた時に嘆いて歌ったもので、「鴨すら」という表現に注意される。「軽」には隠り妻のイメージがあり、密かな恋の場であるという通念があったと思われる。この歌はそれにもかかわらず池の鴨は堂々とつがいで寝ているということを言ったものであり、まして自分の恋が何故うわさされるのかわからないという嘆きを訴えたものである。
 紀皇女の嘆きはともかくとして、ここでは軽の神聖な槻の木、池、隠り妻という要素を引き出せる。このことは第二歌群において、人麻呂が「堤に立っている槻」、「妻が人に知られたくない隠り妻」であると歌った要素と同じになっており、人麻呂が「軽」の隠り妻として妻を描いた第一歌群を続けた形となっていることがわかる。
このように考えてくると、第一歌群と第二(三)歌群の関係は以下のように対応していることがわかるであろう。

第一歌群 妹の居処は軽の里であるが、家を訪れていない。→ 軽の板垣における隠り妻を下敷き
第二裏群 場所が明示されていない。妻屋、子どもがいる。→ 現実性。巻向の体験
第一歌群と第二歌群のつながり 堤の槻木 → 歌垣の場としての軽の社の槻木と池の堤 関係性をもたせる
第一歌群の妻の死直後の動?した心境から第二歌群で経年による回想を描く
本来はまとまった構想にあるのではなく、第一歌群作成後に、第三(二)歌群を追加する。

五 まとめ

 人麻呂の「泣血哀慟歌」は、妻の死に直面した悲しみを感情的に歌ったというよりは、妻の死の経験を踏まえて、亡妻を主題として構想された歌である。再度まとめると以下のようになるであろう。
(1)人麻呂は、一人の宮廷女官と出会い、妻とした。
(2)妻の里は三輪山麓の巻向の地であり、人麻呂は通っていたが夭折した。
(3)近くの竜王山に葬った。
(4)同じく妻を亡くした宮廷人の慰みに提供する目的で(要請されるにあたって)、自己の経験に基づいて、享受者間で共通認識のある軽の歌垣における隠り妻をイメージとして亡妻挽歌(第一歌群)を作り、続編を求められて、妻の死への悲しみを現実的に描いて第三(二)歌群を作った
ということになろう。
 宮廷人の求めに応じて歌を作るということは、人麻呂の宮廷における立場を伺うことが出来る。またこの妻の死という主題は、一人人麻呂に留まらず、後に大伴旅人や家持に引き継がれていく「亡妻挽歌」というカテゴリーを形成し、後の時代にまで影響があったことが知られる。