嘉摩三部作

 神亀五年七月二十一日、嘉摩郡において、憶良は三組の長歌と反歌を詠んでいる。左注に「撰定」とあるので、詠んだ歌をことさら選んだという作業を行っていることになる。嘉摩は、明治に穂波郡と合併し嘉穂郡となり、現在の嘉穂市にあたる。田川市から行橋に行く途中の場所であり、当時の田川道を通った筑前国境近くの位置になる。大伴旅人が田川経由で一時帰京した折りに、憶良は国境まで見送り、その時に詠んだものと思われる。
少し長くなるが歌を掲げる。
或情を反さしむる歌一首并序
或有(ある)人、父母を敬ふことを知りて侍養を忘れ、妻子を顧みずして脱l(だっし)よりも軽みす。自ら倍俗先生と称し、意氣は青雲の上に揚がると雖も、身體は猶塵俗の中に在り。未だ修行得道の聖に驗(しるし)あらず。蓋し是れ山澤に亡命する民ならんか。所以に三綱を指示し更に五教を開き、遣(おく)るにを歌を以てして其の或(まどひ)を反さしむ。歌に曰く
父母を 見れば貴し 妻子見れば めぐし愛し 世間は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓を 脱き棄るごとく 踏み脱きて 行くちふ人は 石木より なり出し人か 汝が名告らさね 天へ行かば 汝がまにまに 地ならば 大君います この照らす 日月の下は 天雲の 向伏す極み たにぐくの さ渡る極み 聞こし食す 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか(巻五・八〇〇)
  反歌
ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに(巻五・八〇一)

子等を思ふ歌一首并序
釋迦如来の金口正説に、等しく衆生を思ふこと羅m羅の如しと。又説きたまはく、愛は子に過ぎたるは無しと。至極の大聖すら尚ほ愛子の心有り。況んや世間の蒼生誰か子を愛さざらむや。

瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとなかかりて 安寐し寝なさぬ(同・八〇二)

反歌
銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(同・八〇三)

世間の難住を哀しぶる歌一首并序
集まり易く排け難きは八大辛苦なり。遂げ難く盡くし易いきは百年の賞樂なり。古人の歎く所今亦之に及ぶ。 所以に因りて作一章の歌を作り、以て二毛の歎きを撥ふ。其の歌に曰く
世間の すべなきものは 年月は 流るるごとし とり続き 追ひ来るものは 百種に 迫め寄り来る 娘子らが 娘子さびすと 唐玉を 手本に巻かし [白妙の 袖振り交はし 紅の 赤裳裾引き] よち子らと 手携はりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ 蜷の腸 か黒き髪に いつの間か 霜の降りけむ 紅の [丹のほなす] 面の上に いづくゆか 皺が来りし [常なりし 笑まひ眉引き 咲く花の 移ろひにけり 世間は かくのみならし] ますらをの 男さびすと 剣太刀 腰に取り佩き さつ弓を 手握り持ちて 赤駒に 倭文鞍うち置き 這ひ乗りて 遊び歩きし 世間や 常にありける 娘子らが さ寝す板戸を 押し開き い辿り寄りて 真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば 手束杖 腰にたがねて か行けば 人に厭はえ かく行けば 人に憎まえ 老よし男は かくのみならし たまきはる 命惜しけど 為むすべもなし(同・八〇四)
  反歌
常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも(同・八〇五)
神龜五年七月廿一日於嘉摩郡撰定 筑前國守山上憶良

 一群目は、家や家族を捨て聖なる場所で修行しようとする人に対するいましめを述べたものである。俗を離れて聖なる場所で遁世するということは、老荘思想や神仙思想での山野への亡命を行うことを指し、中国の詩文に多く表れているが、これは憶良の脚色であり、逃亡農民の実態を素材にしたものである。実際に社会問題化していた逃亡農民は、律令体制の矛盾を抱えており、重税にあえいで土地を離れる者が多かったらしい。大概は大寺院の私有民になるか、浮浪民としてさまようことになる。これは社会的生産力の減退を意味しており、個人的な救済というよりも朝廷の経済基盤をおびやかすものとして問題となっていた。
 憶良は、これらの社会風潮の中で民衆を諭す国司としての立場でこの歌を作っている。律令には国司の役割として、部内を巡行し、その実態を視察し儒教道徳で民衆を教化し、悪人を糺し、良民を褒賞するという規定がある。また歌は大君の統治を強調しており、社会的秩序に重きを置いた逃亡農民への警告である。こうした文言は、職務に忠実な国司が逃亡農民を諭すにふさわしい言い方となっている。
しかし歌自体は逃亡そのものを糺すのではなく、家族を捨てること、大君への不忠、生業抛棄など、反道徳的な問題として取り上げる。従ってこの歌の主題は、逃亡への教喩というよりは、家族への慈愛や生業に就くという儒教的な人間道徳であるととらえられる。歌で社会問題を解決しようとしているのではなく、歌の素材として社会問題を使っているのである。
 二群目は子への愛を主題とする。実際老齢の憶良に幼児がいたかどうかを論じられてきたが、愛子を主題とする歌であると見るべきであり、実態とは無関係であるととらえなければならない。愛子を仏教的側面がら見たのがこの歌である。
反歌の句の係り方は諸説あり不明確である。しかし仏教で説く因縁よりも不可思議であり、子どもがどのような宝よりももっとも大切なものであると主張する。憶良は他の歌にも愛子に触れているので基本的には子煩悩であったかも知れないが、親子関係の不可思議さを乗り越えて子の大切さを主題としたものである。
 そして三群目の主題は、「老」である。ここには仏教的無常観から来る「老」への嘆きがある。時間の流れへの抵抗し難い諦念を一方では認めるものの理不尽な「老」を描く。
このように見ると、この三組の歌は全体の流れがある。一組目の歌は儒教思想による家族への愛情、二組目は仏教的な子どもへの慈愛、三首目は無常観による老の嘆きである。そして対象は、妻子、父子、自分自身へと向かう。
家族愛、愛子、老は、人生における永遠の課題を述べたものであって、その神髄にある道理の普遍性を旅人に示したものと言えるであろう。