大津皇子謀反事件とその臨死歌

 天武天皇が崩御した西暦六八六年秋の十月人々を震撼とさせた事件が起きた。大津皇子謀反事件である。『日本書紀』には、十月二日に発覚。翌日の三日には訳語田の家で死を賜うとある。この様子を見るとたいした取り調べもなく即刻断罪に合っていることがわかる。『万葉集』にはこの時の皇子の最後の歌として次の歌を載せている。

  大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首"
百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ(巻三・四一六)
 右藤原宮朱鳥元年冬十月


 歌は、「百に通じる五十の音を持つ「イ」その磐余の池に鳴く鴨を今日見ることを限りとして雲隠れて死んでしまうのだろうか。」の意味。磐余は、桜井市池之内あたりと言われている。香具山の東側にあたる。
同じ時に読まれた臨終の漢詩が『懐風藻』にも載せられている。

五言。臨終。一絶
金烏西舎に臨らひ
鼓声短命を催す
泉路賓主無く
此の夕家を離りて向かふ。
(金烏臨西舎。鼓声催短命。泉路無賓主。此夕離家向。)


 「太陽(金烏)が西(西舎)に入ろうとしていて、鼓の音が自分の短い命を取ろうと促している。黄泉への道は客も主人も区別なく、この夕方住み慣れた我が家を離れて向かう。」という五言絶句の詩である。
 大津皇子は天武天皇第三皇子。母は天智天皇の娘太田皇女である。同母姉に伊勢齋宮に降った大伯皇女がいる。彼は百済救援のために斉明天皇自らが九州に降った時に現在の福岡(筑紫娜大津)で生まれ、九歳で壬申の乱を経験している。天武天皇十二年の時に初めて政治に参画し、草壁皇子や高市皇子とおもに朝廷を支える重要な人物として信望が厚い存在だったと思われる。

 『懐風藻』の大津皇子伝によれば、人となりは「状貌魁梧(じょうぼうかいご)」「器宇峻遠(きうしゅんえん)」 と評され、たくましく、度量が大きかったらしい。しかも規則にとらわれず、志の高い人には厚く礼を尽くしたという。そのような人物であるから人々は大津皇子を尊敬し、信頼していたと思われる。しかも文武両道に秀で、詩作も堪能であったとある。彼の詩は他に一編『懐風藻』に残されているだけであるが、人を集めて詩文の会をよく催していたと想像される。
しかし人望が集まると政治的な勢力になりやすい。ことに鵜野讃良皇女(後の持統天皇)は、自分自身の子である草壁皇子を皇位につけたいと願っていた。天武天皇在位中の天武十年に浄御原令制定と同時に新制度である皇太子位につけたものの、新勢力の台頭は警戒していたであろう。

 そうした状況の中で天武天皇は崩御する。天武十五年九月九日のことである。天皇崩御前後はクーデターが起こりやすく、政情が不安定に陥りやすい。そうした中で皇后はかなりの警戒心を持って諸王、諸臣の動向を窺っていたことは容易に推察出来る。
『万葉集』は、そのような時期に大津皇子の伊勢下向を次の歌とともに伝えている。

藤原宮御宇天皇代 天皇謚曰持統天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇也
 大津皇子竊下於伊勢神宮上来時大伯皇女御作歌二首"
我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし(巻二・一〇五)
ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ(同・一〇六)

 この歌の題詞で注意すべきは、伊勢に降ることを表現するのに「竊」という字が添えられていることである。『万葉集』の題詞であるので、後の編纂者の観念が入っていることを考慮しなければならないが、これは皇子の個人行動を示しており、しかも朝廷の許可なく伊勢神宮に参拝したことも含んでおり、謀反を意味する。皇室最高神を祀る伊勢神宮は、天皇以外の遙拝は認めておらず、他が遙拝することは謀反を意味していたからである。
 ただここで問題であるのは大津皇子の伊勢参拝は『万葉集』にしか載せられておらず、『日本書紀』などで確認することが出来ないことである。『日本書紀』ではただ「謀反」とあるのみであり、具体的な皇子の記述は何も載せられていない。『万葉集』においても大津皇子が姉大伯皇女に会いに行ったということのみであれば、彼は伊勢齋宮に行ったのであり、伊勢神宮ではない。伊勢齋宮と伊勢神宮は離れているからである。
また『懐風藻』には大津皇子の無二の親友とされている川島皇子が密告したことを伝えているが、何をどのように密告したかという具体的な記述はない。

 史実としての正確さには欠けるが、これらのことを総合すると、大津皇子は、伊勢齋宮にいた同母姉大伯皇女と面談した。その行動が伊勢神宮参拝と受け取られ、川島皇子により皇后の知るところとなり、謀反の疑いで即刻処刑されたということになる。
大津皇子にとって真の謀反の気持ちがあったかなかったかは歴史的には大きな問題ではなく、皇后の草壁皇子擁立の中で人望のある大津皇子の不用意な行動が処刑の口実にされたという悲劇であると言える。
ここで『万葉集』は大津皇子に関わって次のような歌群を載せている。

  大津皇子贈石川郎女御歌一首"
あしひきの山のしづくに妹待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに(巻二・一〇七)
  石川郎女奉和歌一首"
我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを(同・一〇八)
大津皇子竊婚石川女郎時津守連通占露其事皇子御作歌一首 未詳
大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我がふたり寝し(同・一〇九)
  日並皇子尊贈賜石川女郎御歌一首 [女郎字曰大名兒也]"
大名児を彼方野辺に刈る草の束の間も我れ忘れめや(同・一一〇)


  藤原宮御宇天皇代 高天原廣野姫天皇<天皇元年丁亥十一年譲位軽太子尊号曰太上天皇
 大津皇子薨之後大来皇女従伊勢齋宮上京之時御作歌二首"
神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに(巻二・一六三)
見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに(同・一六四)

  移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首"
うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む(巻二・一六五)
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(同・一六六)
 右一首今案不似移葬之歌 盖疑従伊勢神宮還京之時路上見花感傷哀咽作此歌乎"


 最初の四首は一連のものであり、先ほど掲げた伊勢下向の大伯皇女の歌に続くものである。ここでは石川女郎という女性が登場している。大津皇子とこの石川女郎が屋外で待ち合わせをしている様子を歌ったものである。しかしその石川女郎との逢い引きは禁断の交際であったことが次の歌によって示される。ここにも題詞に「竊」という字が使われている。そしてその禁断の理由が次の歌によって日並皇子である草壁皇子の思い人であったことがわかる。要するに石川女郎をめぐって大津皇子と草壁皇子は三画関係であったということを示す歌群となっているのである。
石川女郎という女性の素性は不明である。『万葉集』には六人の石川女郎(郎女)が登場するが少なくとも何人かは別人でる。大津皇子と関わる石川女郎は、他に

  大津皇子宮侍石川女郎贈大伴宿祢宿奈麻呂歌一首 女郎字曰山田郎女也宿奈麻呂宿祢者大納言兼大将軍卿之第三子也"
古りにし嫗にしてやかくばかり恋に沈まむ手童のごと 恋をだに忍びかねてむ手童のごと(同・一二九)


という所に示されているが、題詞作者が混同したか、実情が不明になってきていた頃の題詞であると思われる。
 しかし、一人の女性をめぐって皇位継承者を含む兄弟で争うということが歌群としてあることは異常である。また大津皇子と石川郎女の逢い引きの場面が実態を反映しているのかどうかも疑問である。歌は独立したもので歌垣の歌が二人に仮託されたように思われるからである。また津守連通という人は実在の人物であるが奈良時代の人。このように検討してくるとこの歌群は史実を背景としているかどうかが疑わしくなってくる。もちろん確証はないが歌語りの可能性も視野に入れて考えなければならない。
歌語りというのは、宮廷人の間で生成していた一種の物語であり、巻十六にその一部を見ることが出来るものである。平安時代になり『伊勢物語』など歌物語として発展していったものとして考えられている。先に見た有間皇子謀反事件の場合もそうであるが、『万葉集』編纂時代から見て過去の悲劇的事件として受け取ることが出来るものであるので、それらが語られる方法としては物語化して享受されていたことは十分伺われる。ここには虚構も含まれるので、その観点から見ると、『万葉集』の伝える石川郎女をめぐる大津皇子と草壁皇子の三角関係は歌語りによる虚構と見ていかなければならないであろう。
 その目で見ると、最初に掲げた臨死歌も数々の疑問が起きる。まず『日本書紀』には「訳語田の家で死を賜う」とあるにもかかわらず、磐余の池が処刑場となっているかのように見えることや、「雲隠る」と敬避表現で自らの死を表現している点などである。自称敬語を含むこうした敬避表現は少なくとも奈良時代以降に成立したものであり、まだこの時代にはない。

 これらのことは磐余池が狩場として大津皇子が狩りを行っていたというイメージがあったことを素材にして後になって誰かが作ったという考えも出来る。

 このように見てくると、史実として大津皇子謀反事件は起こったことは疑えないものの、その真相は不明である。大津皇子の人望が、草壁皇子擁立を本意とする皇后により皇位をねらうものとして危険視され、川島皇子の密告によることを口実に真相を究明することなく即刻処刑に至ったものと思われる。『万葉集』はそれを歌語りとして伝え、その原因は伊勢神宮への単独参拝であったと解釈されていたようである。
ただ、文学として見る立場から見ると、姉大伯皇女の嘆きは悲劇の真相を伝えているであろう。