毛利元就自筆書状(三子教訓状)


弘治3年(1557)11月25日毛利元就が、周防国富田(山口県周南市)の陣中で、長男毛利隆元・次男吉川元春・三男小早川隆景に与えた書状である。三兄弟が一致協力し、「毛利」の家名を大切にし、長くその存続を図るよう諭した14か条にわたる長文の手紙である。
この手紙は、大内氏を打倒したのちもなお、その旧領国周防国で頻発する反毛利氏の一揆を鎮圧するため、再度周防国へ出兵した陣中で書かれたものである。
当時の毛利氏は、大内氏を打倒したものの、大内氏の遺領をめぐって九州の大友氏や山陰の尼子氏と対立が続いていた。また、ともに大内氏を打倒した安芸国や備後国の国衆(くにしゅう)らは毛利氏の台頭を快くは思っていなかったし、毛利氏内部にも、急速に拡大させた領国を統治することのできる人材はなく、却って自己の所領を拡大させた譜代家臣のうちには、元就の権力が強くなることを恐れ、当主である毛利氏の意向に従わなくなるものが現れる始末であった。
この書状は、こうした現在の毛利氏の危機的な状況を三人の子どもにはっきりと認識させ、改めて兄弟が結束して毛利家の維持に努めていくことの必要性を説き、元就の政治構想を息子たちに伝えた意見書であり、単なる教訓とは異なるものであった。
後世毛利氏に危機が訪れるたびに、毛利輝元(元就の孫)はこの書状を持ち出し、一族結束の必要性を説いた。こうした努力の結果、毛利氏は江戸時代260年の間存続できたのであるが、こうした歴史的な事実を踏まえた伝説が、有名な毛利元就の「三矢の訓」であったと考えられている。