絹本着色毛利輝元像


毛利元就の孫・輝元の肖像画である。輝元は、天文22年(1553)に毛利隆元(元就の長男)の長男として生まれた。幼名は幸鶴丸(こうつるまる)。母は大内義隆の養女(実際は義隆の重臣内藤興盛の娘)尾崎局(おざきのつぼね)である。
永禄6年(1563)父隆元の急死により、11歳で家督を継いだ。その2年後に元服、将軍足利義輝の一字を受けて輝元と名乗った。元亀2年(1571)、19歳の時に祖父の元就が没してからは、叔父の吉川元春・小早川隆景の補佐を受けて毛利氏を率いた。天正4年(1576)には織田信長に追放された将軍足利義昭を迎え入れ、信長と対決した。緒戦は優勢な水軍力を発揮して、大坂木津川口合戦で勝利を得るなど、織田勢を苦しめたが、天正7年(1579)宇喜多直家の離反後は、兵農分離を遂げて機動力に勝る織田軍の前に後退を重ねた。天正10年(1582)、信長の部将羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と備中国高松城(岡山市)をめぐって対峙中、本能寺の変で信長が急死したため、秀吉と和睦、国境の確定後は秀吉の四国・九州制圧戦に協力した。秀吉傘下で安芸・備後ほか112万石の領有を認められると、天正19年(1591)には太田川河口の三角州に広島城を築き、拠点を移すなど、領国支配の刷新をめざしている。
慶長3年(1598)年に豊臣秀吉が没すると、五大老の一人として徳川家康と対抗し、慶長5年(1600)には石田三成等に与し、宇喜多秀家とともに西軍の総大将を務めた。従兄弟吉川広家らの判断により、関ヶ原での戦闘には参加しなかったが、総大将としての責任を問われ、戦後周防・長門二国に領国を削減された。
その後は、居城を萩に定めるなど、長男秀就(ひでなり)を支えて萩藩の成立に尽力し、寛永2年(1625)75歳で生涯を閉じた。墓は萩市の天樹院跡にある。