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寺の便り

一言法話は2回分を紹介させていただきます。
◆◆一言法話◆◆
 皆さんは海外の子どもたちに絵本を届ける活動があることをご存知でしょうか?
曹洞宗と関係が深い公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)は、これまで、紛争や貧困などにより、絵本を読むことが出来ない子どもたちに対して、「絵本を届ける運動」という支援活動を行って来ました。今年で25周年を迎え、カンボジア、ラオス、ミャンマーなど東南アジアの国々やアフガニスタンなどの子どもたちに累計38万冊を超える絵本を送っています。
この活動では日本語で製作された絵本を現地の言語(例 カンボジア:クメール語/ラオス:ラオス語 など)の翻訳シールを貼って、現地に届けています。一冊一冊手作業になりますので、一つひとつの作業を心を込めて丁寧に行ってゆきます。
先日、2023年度分として準備した約2万冊の絵本を送り出す作業が行われました。300箱分の絵本が一般ボランティアの皆さんや僧侶などの手によってトラックに積み込まれて東京港に送られ、その後、船便によって海を渡り、今月中には、それぞれの国に届く予定とのことです。子どもたちの笑顔を想像すると自ずと心が温かくなって来ます。
世界とつながっていることが実感出来るこの活動、現在は25周年特設サイトも設置されていますので、この機会に知っていただけましたら幸いです。

 三月は「旅立ちの季節」、「別れの季節」です。今月に入り、関東でも平地では雪が積もりました。東京で三月に雪が降るのは四年ぶりだそうです。
この時期、雪に因んで思い起こされる禅語の一つに、「好雪片片、不落別処(こうせつへんぺんべっしょにおちず)」があります。「好い雪だ。ひとつとして別の場所には落ちていない」というものです。天から降る雪の、そのひとひらひとひらは、あたかも自由気ままに不規則に舞い落ちてくるように見えますが、暫くして、地面に降り積もった雪は、偏ることなく降り積もり、一面を銀世界に変えています。つまり、我々人間には、不規則に降っているようにしか見えなくとも、雪自体は、落ちるべき場所に舞い降りているのだというのです。
卒業を迎え、新たな進路へと旅立つ方々も、その先々で、どこに向かうべきか、何を為すべきか、思い悩んだりすることもあるかもしれませんが、その時々において、目の前の事柄に一生懸命に取り組むことで、やがて落ち着くべき、相応しい場所へと舞い降りることができるのかもしれません。
 
春彼岸
 今回も写真を撮っていただきましたので証拠写真(笑)
 お彼岸は荒れ模様でいらした皆様は大変でしたね。
 朝から冷えてそして雪。
さらに大粒の雹も降ってビックリ。
 車の窓ガラスにぶちあたってきて割れるのではないかと思いました。
 後で聞いた話
 雪降ったのは篠目だけだったみたいですよー。
 そういえば昔にもこんなことがあったけ。 

謹賀新年 2024年は静かに明けた・・・地震の報道!! 被災されました皆様方の映像を眺めるたびに心が痛みます。救援活動をされていらっしゃる方々に心から感謝いたします。私達は自分にできることをいたします。本年もよろしくお願いいたします。
 一言法話をいただいておりますので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
あけましておめでとうございます。
今年は辰年。龍は十二支の中で唯一想像上の動物です。
そして龍は特に禅宗の寺院には切っても切れない関係にあります。
お寺にお参りされたときに、天井を見上げると見事な龍の絵が描かれていたり、彫刻が祀られていたりと、龍を見ることがあるはずです。
寺院に龍が祀られるのは、龍が仏法を守護する八部衆(①天②龍③夜叉④乾闥婆⑤阿修羅⑥迦楼羅⑦緊那羅⑧摩?羅伽)の1つとして位置づけられ重んじられているからです。
また、龍は水を操り、雲を呼び、雨を降らせる力を持ちます。つまり、仏法を讃美し、法雨(教えの雨)を降らせ、教えを説く場として重要な伽藍を火災から護る大切な役割を果たしているのです。
辰年にちなみ、さまざまな龍を探してみては如何でしょうか。

年末の奉仕作業は無事に終了いたしました。ご多用中多くの方のご参加をいただきありがとうございました。
 一言法話をいただいておりますので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
 禅の世界では「修行」をとても大切なものとして位置づけています。
 ところで、「修行」と似た言葉で「修業」という言葉がありますが、この違いに皆さんは気づいていましたかでしょうか?
 読み方はどちらも「しゅぎょう」ですが、意味は結構ちがいます。「修業」は職業や技術を習得していくことで、「板前修業」のように、何も知らないところから師匠について修業が始まり、少しずつ技術を積み重ねていくことを意味します。
 一方で「修行」は、行いを修めていくという意味で、禅、特に曹洞宗の「修行」では、日々の生活を調え、修めていくことを意味しています。
 それは例えば、顔を洗う事、ご飯を食べる事、お手洗いを使う事、掃除をすること。日常生活の一つ一つの行いを丁寧に修めていくことこそが、自己を調える修行になると考えるのです。
 では、修行の目標はどこにあるのか。それは端的に言えば「ステキな自分」になっていくこと。周りの人から見ても、また自分自身にとっても「ステキな自分」である瞬間を増やしていくことに他なりません。さとりや成仏というと難しく感じるかもしれませんが、お釈迦さまのようなステキな人になりたいと願い、その願いを行いに変えていくこと。「今ここにお釈迦さまがおられたら、どんな言葉を発し、どんな振る舞いをするのだろうか」と考えながら日常生活を送った時、すべての行いが修行に変わっていくのです。
令和5年11月26日

 秋の彼岸法会が無事に終わりました。ご本尊様へは皆様を代表して総代長様が感謝とともにご焼香してくださいました。また、総檀家各家のご先祖様の供養では参加された方々が檀家様すべてのご先祖様のために香を炊いて供養をしてくださいました。ご協力くださいました総代の皆様方、梅花講のみなさま、そして参拝をされました皆様方に感謝申し上げます。法話も丁寧に聞いていただきありがとうございました。当寺では、この彼岸会(ひがんえ)はお釈迦様が唱えられた「中道」を尊び実践することや自らが彼岸(悟り)を求めて日々努力する誓いを新たにすること、またそれを可能にしてくださったお父様やお母様、おじいちゃんやおばあちゃん、そしてその前の方々(ご先祖様)に感謝することを目的に毎年行われています。この会に参加されたご先祖様方ももちろんこの日に私達が行事をすることを覚えていらしてこの日にはお寺に来てくださっていることと思います。また来年もお時間が許す限り参加されてご一緒にお経を唱えられて功徳を積まれてください。


まだまだ暑い日が続いていますが日の暮れるのが早くなってきて季節の推移を感じます。
一言法話をいただきましたので紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
 厳しい暑さもようやく少しづつ和らぎはじめました。
 まもなく秋のお彼岸(秋分の日を中心とした9月20日から26日)を迎えます。
 彼岸はサンスクリット語のパーラミターが波羅蜜多として音写された仏教用語です。その意味は到彼岸(とうひがん)であり、迷いの世界である此岸(しがん)から悟りの境地である彼岸へと舟で渡るがごとく到達するということです。
彼岸へ至る乗物として六波羅蜜行があります。
・布施(衣食住という財物を与える財施と、法を教え安心を与える法施と、他人の恐怖を除く無畏施とがある)与える喜びを知ります。
・持戒(身口意の三業に関わる戒律を護持すること)してはいけないと思うことはしません。
・忍辱(他からの迫害や苦難に耐え、恨みを抱かないこと)感情に流されず、辛抱強くものごとにあたります。
・精進(六波羅蜜を修めることを努力すること)するべきことに少しずつでも励みます。
・禅定(坐禅を修行し、心を集中させること)心穏やかにすごします。
・智慧(智慧を得ること)ものごとの道理を、正しく、深く理解します。
 これらは、私たちの日ごろの生活の中で行える実践項目です。彼岸というと、死後の世界というように捉えられがちですが、今を生きる私たちにこそ大切なものといえます。
お彼岸のこの時期、ご先祖様のお墓参りとともに、改めて自己を見つめ直す契機にされることをお勧めいたします。

   (容量節約のために過去に保存した画像を使用いたしました) 

作業から


 盆前清掃へご参加の皆様暑い中お疲れ様でした。1件ほどこれ以降の作業で注意しないといけないことがありましたが無事に終わって喜んでいるところです。庭の剪定もとても見事にされていました。またマムシがいるので控えていた下の池周辺も伊藤さんがきれいに剪定されていました。感謝です。懸案の池の処置は泥についてしばらく様子を見ることになりました。
 一言法話が届いていますので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
まもなく8月盆をお迎えの方も多いと思います。
お盆というと思い出すことがあります。
それは、あるお宅でのお盆のお参りでのこと、精霊棚に飛行機の模型が供えられていました。通例では、精霊棚には、「早くこちらに来てね」との想いが込められた「キュウリの馬」と「ゆっくり帰ってね」ということで「ナスの牛」をお供えします。キュウリとナスに加えて、「飛行機のほうがおじいちゃんとおばあちゃんが早く帰って来てくれるはずだ、と小学生の息子がいうものですから」と、そのお宅のご主人がおっしゃいました。
男の子の想いが詰まった飛行機のお供え物の姿から、亡き人を偲び、想いを届けるという仏事供養の原点を改めて教えていただいたような気がしました。
『法句譬喩経(ほっくひゆきょう)』というお経の中に、「供養とはどのようなことか」ということが説かれています。そこでは、供養とは、「遠き人に餉(かれい)するごとし」と記されています。「餉」とは食べ物を送り届けるということです。つまり、供養とは遠くにいる人に食べ物を送るようなものだ、お釈迦さまはそのように説かれたというのです。
亡き人を想い、亡き人の安寧を願う供養、それは、亡くなった人も、私たちも、ともにお釈迦さまの「安らぎ」に満たされる行いなのです。
仏さまへの「想いの届け方」は人それぞれであって良いはずです。
皆さま、お一人おひとりの「供養の形」で亡き人への思いを届けていただければ幸いです。
 

暑い日が続きます。「いのち」は届きましたか?30日(日)の奉仕作業では体調のすぐれない方は無理をせず欠席されてくださいませ。
一言法話をいただいていますので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
お盆やお彼岸、また葬儀やご法事など、仏事供養の時に読まれることの多い「お経」ですが、皆さんは「お経」にどんなイメージを持っているでしょうか?
意味の分からない難しい話を「お経のようだ」と例えるくらいですので、きっと「難しい」と思っている方が多いのだと思います。また供養の時に読まれることから、「死んだ人のためのもの」と考えている人も少なくないと思います。でも、本当はそうではありません。
「経」という言葉は本来、織物のたて糸を示す言葉です。時に左右に揺れる私たちの存在を横糸とするなら、人生を確かに生きていくための揺るぎない、ぶれない指針になるたて糸が「お経」なのです。ですから亡くなった方のためのものというよりもむしろ、生きている私たちが、確かに前に進むための指南書ともいうべきものなのです。
曹洞宗には沢山のお経がありますが、特に身近でなじみ深いのが『修証義』で、曹洞宗のお檀家さんなら一度は眼にしたり、聞いたりしたことがあると思います。でも「『修証義』はよく読むけれど、意味は知らない」という人が意外と多いのもまた事実です。せっかく読んで知っているのに、意味が分からないのはもったいないですね。
曹洞宗では「10分で『修証義』」という動画を作成し、誰でも気軽に『修証義』が学べるよう、ネット上で公開しています。
是非一度ご覧になってみてください。
10分で『修証義』第1章第1節 - YouTube
宇野さんと近藤の『修証義』トーク 第1章第1節 - YouTube
オニユリ

5月の花
 収録容量の関係で過去の写真を再利用します
 篠目では田植えが終わりみなさんほっと一息? とはいかず草刈りに追われる日々が続いています。お変わりございませんか。史跡巡りが計画されているので海禅寺七不思議というものをこしらえてみました。トップにあります。でもまあ小説の類いです(汗)
 一言法話をいただきましたので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
夏を待つ季節となりました。多くの修行道場では夏安居と呼ばれる約90日の修行期間に入っています。
これは雨安居ともいい、お釈迦さまの時代、インドで雨の続く時期に1ヶ所に集まって修行に専念していた事から始まったものです。
これが中国に伝わり寒さの厳しい冬にも行われるようになりました。
日本では新緑、若葉の季節が過ぎると梅雨の時期を迎えます。
近くで坐禅会を開催している寺院があれば参加してみてはいかがでしょうか?
雨音の中、お釈迦さまの時代の安居に思いをはせて・・・・。
(近隣では泉福寺であります。海禅寺でも申し込みがあれば行うことはできます。)
 

お変わりございませんか。お寺の開山忌も皆様のおかげで無事に終わりその後仏像と遊んでいた間にあっという間に2月過ぎてしまいました。修理は完了。仏像は増長天。元は長門峡支所にあったものです。いい木を使っていらした。
一言法話も2つまとめてご紹介します。
供養
仏像修理

 
◇◆一言法話◆◇
 このほど、曹洞宗管長石附周行猊下は本年度の告諭(おことば)を発せられました。
おことばの中で、管長猊下は、人間関係において、「同事(どうじ)」という仏さまの教えを礎に、他者と協調して生活することを勧められています。 坐禅の実践を通じて素直な心でものごとを見つめた時、自分自身、背伸びもせず、卑屈にもならず、等身大の自己に気づくことが出来ます。ほかの人に対しても、心を通わせ、手をとりあうことに価値を見い出し、協調して生活することが出来るというのです。
つまり、自分の中にも、自分と他者の間にも、垣根を作らない、これを「不違(違わない)」と福井県の大本山永平寺を開かれた道元禅師は示されています。そして、この精神で行う実践が「同事(事を同じくする)」の行いであるのです。それは、悲しい気持ちの人がいたら何も言わずにそっと寄り添い、嬉しい気持ちの人がいたらともに喜ぶ仏さまの生き方であります。
世界では分断が進行しています。また、人と人のふれあいは、コロナ禍を経て、私たちの社会から少しずつ減少しているようにも思えます。このような今だからこそ、同事行を実践し、自分にもやさしく、他の人にも穏やかに、お互いが気持ちよく過ごせるようつとめて参りたいものです。 告諭元の文

◇◆一言法話◆◇
5月2日は、立春から数えて88日目、「八十八夜」です。八十八夜とは、季節の移り変わりを示す雑節のひとつで、この夜以降、霜が降りなくなると伝えられることから、気候が暖かくなる、春から夏へと移り変わる節目となるとされます。その為、稲の種まきや茶摘みの季節をあらわし、「夏も近づく八十八夜」と、文部省唱歌『茶摘み』に謳われる事でも知られます。
「八十八」の字形から、「米」が連想されることもあってか、地域によっては、五穀豊穣を祈る伝統行事や例祭、寺院では御祈?などが勤められることもあるでしょう。
さて、日本のお茶の歴史や文化には、禅宗が深く関わっていることをご存じでしょうか。
平安時代には、上流階級のみに嗜好されていたお茶ですが、鎌倉時代、宋より帰国した栄西禅師は、禅の文化とともに抹茶を伝え、更に『喫茶養生記』を著すなどお茶の効能についても広めました。そして、茶の湯、茶道へと連なり、江戸時代には、黄檗宗の禅僧、高遊外によって、庶民にも煎茶道が広まりました。
皆さまが、日々、お茶を前に対話をする中にも、実は、禅の文化が根付いていることを、是非、思い起こしていただけたら幸いです。
 

少し遅くなっていますが広報誌「いのち」を5日の予定で配布いたします。
一言法話が届いていますので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇ 「光陰は矢よりも迅かなり / 身命は露よりも脆し」

この句は修証義の一節で、その典拠は道元禅師の著された『正法眼藏』「行持(上)」です。
「光陰矢の如し」或いは「時は金なり」という言葉は、諺としても皆様ご存知のことと思います。
実は、この一節の本来の意味は、「正師に出会うこと」の困難さ、有難さを説き、一刻も早く正師に参じなければならないと示されたことばです。
「行持」の「行」とは仏道修行のこと、「持」とは護持し、しっかりと保つことです。
道元禅師は、歴代の祖師方は常に修行に励み、文字通り「行持」を際限なく相承してきたと説き、その中で正しい指導者に逢うことの困難さや、指導者がいても自らが参ずる事が出来ない、また逆に参じようとしても指導者に出会わないこともある、ということを述べ、時間を無駄にする事を強く誡めているのです。
ものごとには「時節因縁」、つまりタイミングが重要です。志を持っていても出会いのチャンスを逃したら元も子もありません。
新年度という、まさに善き指導者に出会う好時節であります。
一刻一刻を大切に、今あることを感謝して新しい年度を迎えたいものです。
 
まんさく

雛人形ペーパークラフト立春も過ぎて季節は春。2月は逃げると申しますのでたぶんあっという間に過ぎそうですね。3月はひな祭り。それで思い立って雛人形のペーパークラフトを考えてみました。おっとデザインはインターネットにあがっているものを参考にしましたので私オリジナルではありません。いきいきサロンで皆さんに作ってもらおうと思っています。
まだまだ寒い日が続きますがお体を大事にされ暖かくしておすごしくださいませ。 一言法話が届いていますので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇ 前回でお話いたしましたように2/15はお釈迦さまがご入滅、完全なる涅槃に入られた忌日です。
お釈迦さまが涅槃に入られた後、その地に住むマッラ族により、お釈迦さまのご遺体は花、香料、舞踊、歌謡、音楽をもって6日間供養されたとあります。
そして7日目に荼毘に付され、同じように御遺骨を供養し、インド各地に分骨されました。
約2500年という時間と、インドと日本という距離の違いがあっても、現在私たちが大切な方を供養する際に行っている供養の方法に通じるものを見ることができるのは、大変有り難く感じます。
 

遅くなりましたが本年もよろしくお願いいたします。
一言法話がいくつか届いていますがいろいろとあってホームページの更新ができませんでした。申し訳ない。今月のものから紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
曹洞宗では、2月15日、お釈迦さまがご入滅、完全なる涅槃に入られた忌日として、涅槃会法要を営みます(地域の慣習により、旧暦や月遅れで営む等、時期が異なる場合があります)。
お釈迦さまは、沙羅双樹のもとでの最期の説法に「自灯明、法灯明」(自らをよりどころとし、法をよりどころとせよ)という言葉を残されました。

「法」とは、真理や教法を意味しますが、古代インド語の原意は、「保たれるもの」を意味します。つまり、お釈迦さまによって説かれた法も、その弟子達、更には後世の人びとによって代々伝えられ、学ばれ、おのおの自らの上に体現化されてこそ意義あるのなのです。
放送作家・作詞家であった故 永六輔氏の遺された有名な言葉に、「人は二度死ぬ」という言葉がありました。一度目の死は医学的な死を意味し、二度目の死は、人びとの心からも忘れ去られてしまうことをさします。

この約2,500年近くもの間、お釈迦さまの教えが絶えることなく不滅であったのは、お釈迦さまの偉大さもさることながら、その教えが、歴代の祖師方をはじめ、多くの人びとによって受け継がれ、実践されてきたからに他なりません。

今を生きる私たちにおきましても、お釈迦さまが二度目の死を迎えることのないよう、その御教えを受け継ぎ、どのような事柄にも、感謝の気持ちを見出すように勤め、一時一時を丁寧に、精進して生きていかなければならないでしょう。
manryou 

cleaning scene今日は年末の奉仕活動の日でしたので集まってお寺内外を清掃しました。気温は少し寒かったけれど作業を終える頃は汗が出ていました。事故も怪我もなく終わってほっとしました。作業が終わってから出席した総代様方と会議をしました。いろいろな意見が出されました。 これらは再度私達で会議を開いて検討することになりました。
一言法話が届いていますので紹介します。(2回分)
◇◆一言法話◆◇ 11月1日は、「川の恵みの日」です。川に感謝し、川の環境と自然を考える日として、慶応元年(1865年)創業の三重県多気町「株式会社うおすけ」によって制定されました。
 福井県の大本山永平寺の正門の柱には、「杓底一残水、汲流千億人」(しゃくていのいちざんすい、ながれをくむせんおくにん)という句が刻まれています。これは、大本山永平寺第73世貫首 大本山總持寺第16世貫首 熊澤泰禅禅師によって、昭和39年に刻まれたもので、「たとえ僅かな柄杓の底の残り水であっても粗末にしてはいけない。この川の流れには、この水の恩恵を預かる何千、何億の生きとしいけるもの、その子孫がいるのだから」という、道元禅師より伝えられる御教えを示すものです。
 川の恵み、自然の恵みを改めて考える事はもちろんですが、ウクライナ等、戦禍に怯え避難せざるを得ない人びとや、世界中のさまざまな困難に直面する人びとがいる中で、私たちが直接手を差し伸べることはできずとも、僅かな水をも大切にし、そこに無数の生命の繋がりを見出す、曹洞宗の御教えを胸に慎ましく生きることも、菩薩行、利他行となるのかもしれません。
◇◆一言法話◆◇  11月21日は大本山總持寺を開かれた瑩山禅師が1264年、現在の福井県越前市にお生まれになった日です。瑩山禅師のお母さまは日頃より観音さまを熱心に信仰されており、観音堂にお詣りする道中で禅師が誕生されたことから「行生」と名づけられました。
信仰深いお母さまの元で成長し、出家の意思を強いものとして行きます。はじめはお母さまに許していただけなかったようで、絶食してその決意の程を示した話が残っていますが、11歳の春に許しを得て永平寺に上り僧侶としての第一歩を踏み出しました。
瑩山禅師の教えについてはコチラ↓
瑩山禅師の教え

夏と秋が交互に訪れていると思わせる日々です。でも秋の虫の声も聞かれ朝夕は霧もかかりそして彼岸花が咲き始め季節が確実に移り変わってきているのを感じさせてくれます。暑さ寒さも彼岸までとか。凍える冬を思えば今が一番いい時ですね。
一言法話が届きましたのでご紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
今年も間もなく秋のお彼岸を迎えます。秋分の日の9月23日をお中日として、前後3日の1週間がお彼岸です。各寺院では、彼岸の入りから明けまで、彼岸会の法要がお勤めされます。この間、お寺やお墓にお参りをして、ご先祖さまや亡き方にお香やお花などをお供えして、ご供養される方も多いのではないでしょうか。
お参りの際に、仏前にお香やお花などのお供え物をささげることを「たむける」といいます。漢字では「手向ける」と書き、元の意味は手で以って相手の側に置き変えるということです。
自らの手でまごころを込めてお香やお花をお供えすることで、感謝の気持ち、ご供養の気持ちを、心の中で思うだけでなく、ご先祖さまや亡き方へ届けることができるのだと思います。また、お供えしたお香の香りやお花の美しさによって、お参りする私たちもすがすがしさや安心感に包まれます。お彼岸の折には、お香やお花を手向けてお参りいたしましょう。
彼岸花

カブトガニ 暑い日が続いています。熱中症にも十分気をつけてお過ごしください。
写真は「生きている化石カブトガニ」の幼生です。久しぶりに会ってきました。
一言法話が届いていますのでご紹介させていただきます。
 ◇◆一言法話◆◇
コロナ禍の中で迎える三度目のお盆となりました。葬儀、弔いのあり方も、「少人数・通夜なし・対面なし」といった表現が、一般化するほどに変化を余儀なくされてきました。
皆さまは、古典日本語としての「弔う(とむらう)」という言葉の語源をご存じでしょうか? そのルーツは、「訪ふ(とぶらふ)」にあり、「訪れる。訪問する」・「安否を問う。見舞う」・「世話をする」といった意味を原意とします。ここから転じて、「弔問する。供養する」という意味の「弔ふ(とぶらふ)」となったものと思われます。
つまり、「弔い」という日本語は、本来、訃報に接した際に、皆がまず真っ先に駆け付け、ご遺族に寄り添い、支え助け合い、世話をするという意味を含意したものであるのです。こうしたグリーフケア的な機能、つまり心理的にも社会的にも、遺族が孤立しないようにと支える支援が、「弔い」のあり方に、古来から必要とされてきたのです。
「少人数・通夜なし・対面なし」というあり方が、新型コロナウイルスの感染拡大防止のためやむを得ない事とは言え、一日も早く、感染拡大が収束し、「弔ふ=訪ふ」あり方が戻ることを祈るばかりです。

令和4年度盆前奉仕作業へご参加をいただきました皆様方ありがとうございました。
 朝から小雨が降る状況でしたが熱中症の心配はないしコロナ感染もこれなら雨で落ちるじゃろうということで決行となりました。
 服は濡れましたがそれでけっこう涼しくて外の作業は終わりました。やはり複数で行うと速いなと実感いたしました。
 中の清掃はマスク着用で大変だったと思います。庭の剪定も綺麗に行われていて見事な庭の風景になりました。
 ともかくも無事に怪我もなく終わって良かったです。
 帰ってから発熱とかないように願っています。そうそう、日頃お参りのないお地蔵様にもお経をあげていただきました。大変お喜びになったと思います。感謝!!





盆前奉仕作業

百日紅  今月末には奉仕活動があります。暑さ対策をされ無理をなされないようにお願いいたします。
 また、コロナ感染予防のためにマスク・手洗い、それから間隔を確保されてください。また、体調が思わしくない場合は欠席をされてください。
一言法話が届いていますので紹介させていただきます。比叡山に行かれたようですね。
◇◆一言法話◆◇
先日、天台宗総本山比叡山延暦寺様をお詣りさせていただくご縁を頂戴しました。
比叡山は福井県の大本山永平寺を開かれた道元禅師が出家得度された地でもあります。道元禅師は建保元(1213)年、14歳の時、比叡山において、天台座主公円僧正のもとで剃髪し、菩薩戒を受けられました。比叡山横川には、現在、「道元禅師得度霊跡」の碑が建立されています。
道元禅師が出家された動機には、幼い頃、ご両親を亡くされたことが深く影響していると言われます。3歳の時にお父様を、8歳の時にお母様を亡くされた道元禅師は、幼心にも世の無常を観じられ、その後の出家得度につながっていったとされます。
道元禅師は、のちに、仏道を学ぶ心構えを説いた『学道用心集』という書物の冒頭において、このようなことを示されています。
無常を観(かん)ずる時、吾我(ごが)の心生ぜず、名利(みょうり)の念起こらず 世の無常、時の移ろいや生命の儚さを、真に、感得したならば、自分勝手な気持ち(エゴイズム)や世間的な名声や利益をいたずらに求める気持ちなどが生まれるスキがない、というのです。そして、そうであれば、自ずと、今、お預かりしている生命の活かし方を真剣に考えざるを得ない、と道元禅師はお示しいただいているのです。 道を求める心の大切さ――。
道元禅師が僧侶としての第一歩を踏み出された場所で改めて見つめ直させていただきました。 

一言法話もずっと届いていたのですけど連日の草刈りに追われてしばらくお休みしていました。遅くなりましたが開山忌も総代様方のご協力で無事に終了いたしました。塔婆もほとんどの方が持って帰られています。総代に白松様に替わって新しく大田様が就任されました。
今月に届いた一言法話を紹介させていただきます。
 これを読んで反省しています。(^^;)
◇◆一言法話◆◇
 梅雨の季節になりました。この時期は長雨が続き、ときおり太陽が顔をのぞかせたかと思うと、またどんよりとした曇り空。空気が湿っているうえに、気温も高いので、何をするにもおっくうになってしまいます。
ところでこの「おっくう」は仏教語である「億劫(おくこう)」が元になっています。劫は古代インドの時間の単位で、きわめて長い時間を表わします。どのくらい長いのかというと、一辺が約7キロメートルの大きな箱の中にケシの実をいっぱいに詰めて、それを百年に一度一粒ずつ取り出して、すべてなくなってもまだ一劫は終わらならないというのです。劫はこのように気が遠くなるほど長い時間を表しますが、億劫はこれを更に億倍するというのですから、想像することすらためらってしまいます。そこから転じてあまり気が進まないことを「おっくう」というようになったのです。
鬱陶しい天候が続いて、いま一つ気持ちが乗らないこともあるかもしれませんが、こうした時こそ何ごともおっくうがらずに、一つ一つのことを丁寧に行うことを心掛けましょう。

 
6月の花
ヤブツバキ 4月10日の開山忌は広報紙の通り、昨年と同様、コロナ感染拡大予防のため総代様方とご詠歌講の皆様、そして若干名の僧侶のみで実施いたします。お施食の塔婆は位牌堂に置きますのでよろしくお願いいたします。
一言法話をいただきましたのでご紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
 新年度が始まります。心機一転、新たな気持ちで新しい生活をと期待する一方で、いまだ収束しないコロナ禍の中、不本意な生活を余儀なくされている方も少なくないのだと思います。
禅の世界に「日々是好日」(にちにちこれこうにち)という言葉があります。文字通り読めば「毎日が良い日だ」という意味になるのですが、ここでいう「良い日」とは、いったいどんな日なのでしょうか?
単純に考えれば、例えば春の暖かな日差しに包まれた、穏やかな日のことを想像するでしょう。でも現実には、毎日が穏かで優しい日ばかりではありません。暑い夏もあれば寒い冬もあり、また雨や風の強い嵐の日もあります。とても「良い日ばかり」とは言えないでしょう。
しかし一方で、夏には夏の味わいがあり、冬には冬の味わいがあります。雨は大地を潤す恵みとなり、風は強い生命を育む力となります。今日の一日は何の無駄もなく、私たちの命を育ててくれているのです。
思い通りにならない日もたくさんあるでしょう。でも今日この一日を憂い、嫌い、疎ましく思うのではなく、この一日に出来る事、この一日にこそ成せることに努める。今日を「良き日」にしていけるかどうかは、私たち一人一人の心構え次第なのです。 

今年も梅花講の皆様や総代様方のご協力をいただいて春の彼岸も無事に終了いたしました。今年もお接待は出来ない状況でしたが、それはちょっと寂しいということで蕗味噌と煮染めと赤飯を入れたお弁当を作っていらした方々に配りました。春の味を堪能していただけたかと思います。
 朝早くから準備してくださいました皆様方、ありがとうございました。

一言法話が届いていますので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
 3月も半ばを過ぎ、新年度からの進学や就職などの大きな環境の変化を控えて、期待と不安を感じながら、この時期を過ごしている方も多いのではないでしょうか。
禅語に「直心(じきしん)是れ道場」という言葉があります。まっすぐで素直な心をもっていれば、どんなところでも道場となる、すなわち修行の場になるということです。一般に「道場」というと、禅宗では修行僧たちが起居を共にして修行生活を送る特別な場所をイメージするかと思います。しかし修行道場に限らず、日常生活のあらゆる行動の一つひとつが、その心がけによって修行の場となり得るのです。
「すべてが修行だ」なんて言われると、ちょっと身構えてしまうかもしれません。けれどもあまり難しく考えずに、目の前にある一つひとつのことに対して、素直な心で丁寧に取り組むことで、新しい学びや気づきがあるはずです。多くの方が新たな一歩を踏み出すこの時節に、あらためて日々の行いを見つめ直す機会にしていただければと思います。
 
お彼岸会
フキノトウの花

フキノトウ

 
 広報誌「いのち」をお送りしました。よろしくお願いいたします。
ぼーっとしているわけではないのですがはや3月になってしまいました。
コンピュータが壊れて修理などで時間をとられてしまいました。データもアウトで、諸行無常というところです。
一言法話がその間にいくつか来ていますが直近のみをご紹介いたします。

◇◆一言法話◆◇
 日を追うごとに吹き渡る風に少しづつ暖かさを感じるようになりました。
花々の蕾も次第に膨らみ、景色が鮮やかに彩られていきます。
寒さ厳しい冬を越えいろいろな生命が躍動し、力をみなぎらせているようにも感じます。
   春風に 綻にけり桃の花 枝葉にわたる 疑いもなし
                 『傘松道詠』
この道元禅師の和歌は、何十年にもわたる弁道修行を続けていた中国・唐代の霊雲志勤禅師が、ある時、桃の花が春の陽気を一杯に受けて一面に咲く光景を見て忽然と悟られたという故事をもとに詠まれたものです。
川のせせらぎの音、山々の彩り、木々をわたる風の音や、鳥たちの声も、すべて仏の教えでないものはありません。
ふとした機縁を得て、咲き誇る桃の花も仏の清らかな身体そのままの姿であり、そして自らも仏であることに気がつかれたのです。
春爛漫の好時節、桃の花がほころぶように、私たちも日々のつとめを精進していきたいものです。
 

 今日は冬至。これから昼が少しずつ長くなりますね。木々が葉を落としたので樹木の剪定や枝を切る作業で過ぎています。そうそう、2日間でしたがお猿さん達ご一行様がお見えになり小柿など全て片付けて帰られました。鳥達のさえずりは気にならないのですが、お猿さんたちの会話はいまいちでしたしいたずらをされるのも困りものですね。前にいたずらもののはぐれ猿用に買っていたロケット花火の残り1本を使って蓄えがなくなりました。移動されたみたいなのでまずは安心?かなぁ。
 今年最後の一言法話が届きましたのでご紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
 今年も残すところあとわずかとなりました。半月後の大晦日には各地の寺院で除夜の鐘が撞かれます。お寺にある大きなつり鐘を「梵鐘(ぼんしょう)」といいます。梵とはサンスクリット語を音写したもので、清浄を意味します。修行道場では修行僧に時を知らせる大切な役割があり、撞く回数やタイミングが細かく決められています。また童謡にも歌われるように、夕方になるとお寺の鐘が鳴るというイメージがあると思いますが、一般の寺院でも、昔から人々に時を知らせてきました。
この梵鐘、よく見るとさまざまな特徴があります。鐘の上部には無数の突起があります。これは「乳(ち)」と呼ばれ、鐘の音がきれいに響く効果があるそうです。また中ほどには文字が書かれていて、その鐘が作られた時期や由来、鐘に込められた願いなどが記されています。そして鐘を撞く棒が当たる丸い部分には、蓮の花の文様がついています。除夜の鐘の時には梵鐘を間近で見ることができると思いますので、機会があったらよくご覧になってみてください。
本年も「曹洞禅メルマガ」をお読みいただきありがとうございました。皆さま、良いお年をお迎えください。
 
sazannka

 年末の奉仕作業ありがとうございました。今年も広報「いのち」をお配りしています。(折り方が相変わらず雑ですが・・なかなか3つに折るのは難しくて・・お許しください。)
 さて、はや12月となりました。皆様におかれましてはコロナにも負けずに毎日を精一杯活きていらっしゃることとぞんじます。
 雨も降ってぐっと寒くなってきました。もっとも子供の頃にはこの時期はみぞれか雪が舞っていたので暖冬には間違いないでしょうね。寒さが骨身に染みるのは閉口してしまいますが、まあこれがあるから春になったら嬉しいのでしばらく辛抱でしょうか。
 庭を掃除していますと、オオスズメバチやカマキリが落ち葉の下でじっとしていました。彼らはたぶん冬は越せないでしょう。たぶん、これをもって全てが私に法を説いているということなのでしょうか。
一言法話が届いていますので、ご紹介させていただきます。
モミジ
◇◆一言法話◆◇
 季節は冬。だんだん肌寒くなっている今日この頃です。落葉樹は日々葉を落とし、
近くの寺院からは落ち葉を集める箒の音が毎日聞こえるかもしれません。
「落ち葉が溜まって諸々不都合があるので掃除をする」と皆さんは思うかもしれません。
では不都合がなければ掃除はしなくても良いのか?
曹洞宗における掃除は作務といい、修行の一つとされています。汚いから綺麗にするというものではなく、ただ一心に掃き、一心に拭く。そんな掃除をしてみてください。
◇◆一言法話◆◇  早いもので12月を迎えました。
12月は師走と呼ばれますが、「臘月(ろうげつ)」とも称されます。
12月8日(臘八の日)は、お釈迦様が悟りを開かれた釈尊成道の日です。
2500年前、29歳で出家修行されたお釈迦様は、6年間に亘りインド各地を巡り様々な思想を学び、また、あらゆる苦行を行じますが、どれも満足させることは無く、苦行の無意味さに気づき中断します。
そして、ネーランジャラー河の岸辺に至り、村娘から乳粥の供養を受けた後、ブッダガヤの菩提樹の下で静かに坐禅を組み禅定に入られました。 坐禅に没するお釈迦様に対し、煩悩の化身である魔王マーラが欲望・嫌悪・飢渇・渇愛・睡魔・恐怖・疑惑・偽善などで妨害しますが、お釈迦さまはこれらをすべて退散させ、8日目の暁の明星のもと、ついにこの世の真理を悟られたのでした。
この故事に倣い、修行道場では12月1日から坐禅をひたすら行じる臘八摂心が始まり、8日の未明まで修行されます。
皆様も、お釈迦さまのご遺徳を偲び、坐禅を行なってみてはいかがでしょうか。

黄菊    早朝には霧がかかって墨絵のような景色を見ることができます。モミジも色づいてきました。はや晩秋から冬へと季節が推移しています。一言法話が届いていますので、ご紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
秋も深まり、各地の山々からは、初雪の便りが届き始めています。
さて、雪に因んだ山脈の名前に、ヒマラヤ山脈(ヒマ[雪]+アーラヤ[横たわる,住処])があります。

『涅槃経』「聖行品」には、この厳しいヒマラヤ山脈で修行した菩薩、雪山童子の物語が描かれています。雪山童子は、自らの命を落として羅刹に供養してまで、ある教えを懇願したとされますが、その教えが、「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為樂」という無常偈でありました。この偈には、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静という仏教の教えの根本が凝縮されています。

日本では、「いろは歌」のモデルとなり、無常な現世を超えることを理想とするとも捉えられがちですが、道元禅師さまはこうした境涯について、『正法眼蔵』「生死」巻に「ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり」と説かれ、無常なる現世から逃れようとするのではなく、そのままに受け止めることの大切さを説かれています。

お彼岸の行事も、また、ご先祖様のお供養もご詠歌講の皆様のご助力をいただけて幸いでした。コロナ予防をされてのお寺参りやお墓の清掃とお参りにも感謝いたしております。暑さ寒さもお彼岸までとか。朝夕にはめっきりと気温が下がってきました。気温の変化が大きく体にも負担がかかる時です。お体をいたわってくださいませ。
一言法話が届いていますのでご紹介いたします。
お彼岸と10月
◇◆一言法話◆◇
実りの季節がやってきました。
果物や野菜など、たくさんの美味しい旬の食材が食卓に並ぶのはとても楽しいことです。生産者の方々のご苦労に感謝をしながら、今年も美味しく頂きたいと思います。
今回は、こんな季節に合わせて、「因果」という言葉を紹介します。
この「因果」、「因」は「原因」、「果」は「結果」を意味し、一般には事故や病気の時などに「因果関係」という言葉で、原因と結果の関係を示すものです。
この言葉は仏教でも重要な考え方の一つで、「善い行いから幸せな結果が生まれ、悪い行いから苦しみの結果が生まれる」という意味で用いられるのですが、これに加えて仏教では「因」と「果」の間に「縁」という存在があることを大切にします。「因→果」ではなく「因→縁→果」となるわけです。 これを、果物を例に考えてみましょう。秋の実りという「果」は、春に種をまくという「因」によって生まれます。ですが、種を植えれば必ず実がなるのかといえば、そうではありません。太陽の光や雨の恵み、また肥料や生産者の手間ひまという「縁」があるかないかで、結果は大きく変わっていくものなのです。
「縁」は、つながりの中で生まれ、多くの「原因と結果」に大きな影響を及ぼすものです。 私たち自身、自分の行為(因)の善し悪しを振り返ることはもちろん大切ですが、自分に関わってくれる「縁」の存在にも目を向け、また自分が誰かに及ぼしている「縁」のあり方にも、注意深くありたいものだと思います。
 

 お寺へのお参りありがとうございました。位牌堂で場所を掃除した後に、ご先祖様を拝んでいらっしゃる姿はとても素敵に思えました。まだまだ雨は降り続くようです。事故や災害がありませんように。
 一言法話が届いておりますのでご紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
本日8/15は送り盆(8/16の地域や7月盆の地域もあります)です。
ご先祖の霊を8/13にご自宅にしつらえた盆棚(精霊棚)にお迎えして一緒に過ごした後にまたお送りするのですが、地域の習慣等により様々な方法があるようです。
具体的には墓地に提灯で先導してお連れするというもの、玄関先等で送り火を焚くもの、川や海に灯籠を流すというものなどがあります。
亡きご先祖や、家族とお盆の期間一緒に過ごした後、惜しみつつ丁寧にお送りする。自らに繋がるいのちをあらためて再確認し、感謝する機会といえるでしょう。
8月の花 

8月の花   盆前の奉仕作業実施につきましては総代様方、そして担当地区の皆様方ご多用中にもかかわらず多数ご参加いただきありがとうございました。住職一人だけだと数ヶ月かかるような伐採もあっという間に終わりました。大変感謝いたしております。
 今月も一言法話が届いておりますのでご紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
昨年の四月、最初の緊急事態宣言が発出されてから、二度目となる、コロナ禍でのお盆を迎えました。
読者の皆さまにおかれましても、遠方のご実家、ご生家のお墓や菩提寺さまに、足を運ぶことが出来ず、忸怩たる思いを抱かれている方もいらっしゃるのではないでしょうか?

皆さまは、ご供養、特に、ご焼香の起源をご存じでしょうか? お釈迦さまが教えを説かれる以前の古代インドにおいては、祭式において、供犠(いけにえ)が行われていました。これを惨たらしいものであると感じられていたお釈迦さまは、この供儀を取り入れず、不殺生を説き、以降、仏教においては、塗油、香、花、水、燈によるご供養が確立していきました。古来の人々は、祖先の霊は、私たちよりも高く立ち上っていく存在であると考えていたため、香木を焚くことにより、立ち上る香の煙と香りに思いをのせ、祖霊へと伝えようとしたのです。
やむなく、遠く離れた地から、手を合わせ、ご焼香をなさることによっても、きっと、ご先祖様にもご供養の気持ちは届くことでしょう。
 

梅雨も終わりで湿気の高い日々は終わりとなりましたが、今度はゲリラ豪雨とか熱中症の心配をしなくてはなりませんね。水分補給に気をつけてくださいませ。
一言法話が届きましたので紹介させていただきます。

◇◆一言法話◆◇
新型コロナウイルス感染症の感染拡大から、早、一年半ほどになります。「新しい生活様式」という言葉も市民権を得た感がありますが、寺院と皆さんとの関わり方を見ても姿を変えつつあるようです。
大勢が集まる形式での寺院行事は「密になる」ことを避けるために行うことが難しいことが多く、場合によっては、インターネットを用いてオンライン形式で恒例行事やご先祖のご供養を行う寺院も多くあるようです。

7月15日は、お盆(7月盆)期間中に当り、来月の月おくれお盆(8月盆)にかけてお盆供養の行事を予定している寺院も多いと思いますが、それぞれの寺院において、オンラインの導入など新しい形態も用いながら、時代に合わせ、ご先祖供養のお勤めのありかたを模索しています。 形式が変わっても、亡き人を想い、ご先祖を大切にする心情に変わりはないはずです。大事なことは、その時の状況に上手に対応しながら、お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師に手を合わせ、亡き人に思いを巡らす、そうした営みなのだろうと思います。
ご先祖供養が身近なこれから季節、形式はいつもと違っても、故人を偲び、仏さまの教えに親しみましょう。

余談になりますが、曹洞宗では定期的に「曹洞宗昼休みオンライン坐禅会」を開催しています。オンラインで曹洞宗のお坊さんと対面して、坐禅体験や法話を聞くことができますので、パソコンやスマートフォンからこちらにアクセスして視聴して頂ければ幸いです。
 
ムラサキシキブ 

 急に暑くなりました。もう昔であれば真夏の気温。でも、朝夕は寒い。寒暖の差が相変わらず大きいので体にはちょっと負担が大きい。健康に十分留意されてください。もうコロナの予約は済まされましたか?9月までには全員予防注射が終わるといいですね。
 一言法話が届いていますのでご紹介させていただきます。
6月の花


◇◆一言法話◆◇
今年は全国的に梅雨入りが早い地域が多かったですが、まだまだ梅雨のジメジメした毎日が続いております。
「梅雨」の語源については諸説ありますが、1つには中国で梅の実が熟す時期に該当するため、という説があります。梅の実が熟すと聞いて思い出すことがあります。
中国禅宗の馬祖道一禅師が、「即心是仏(我が心こそが仏である)」といって人々を導いていた。大梅法常禅師は馬祖の下で30年以上学び、得たところがあった。そこで、人との関わりを断ち、山に籠もって、谷の水音を聞き山の木々の色を見る毎日であった。
馬祖禅師は、弟子の僧侶を大梅禅師の下に遣わし、「馬祖の仏法は、最近、別の表現となっております」と言わせた。
大梅禅師は、「どのように別なのか?」と聞くと、その僧侶は「非心非仏(真実は心でもなければ仏でもない)です」と答えた。
大梅禅師はそれを聞き、「非心非仏は放っておこう。私はひたすらに、即心是仏である」と答えた。
僧侶がこのことを馬祖禅師へ報告すると、馬祖は「梅子熟也(梅の実が熟しているな)」と答えた。
    道元禅師『永平広録』巻1-8上堂、訳
いうまでもなく、最後の「梅子熟也」とは、弟子の大梅禅師の名前とかけた言葉ですが、自らが示した「即心是仏」の真意を、弟子がしっかりと会得したことに、馬祖禅師は満足されたのです。ジメジメした季節ではありますが、「梅雨」と聞くたびにこの公案を思い出しつつ、仏道の真実を得た祖師方に倣う好時節としたいものです。
 

 田植えもお寺の周辺ではほとんどが終わり鏡の面を思わせる田に苗がそよいでいる光景が見られます。いかがお過ごしでしょうか。
一言法話が届きましたので紹介させていただきます。雲板は一般の寺院ではなかなか見ることができませんが、永平寺等に参拝された時にぜひご覧になられてください。
◇◆一言法話◆◇
今年は各地で例年にない早い梅雨入りとなりました。梅雨が明けるまで空は厚い雨雲に覆われ、雨の降る日が続くことと思います。
ところで雲といえば、寺院には雲の形を模した鳴らし物があるのをご存じでしょうか。名前を「雲版(うんぱん)」といいます。青銅を鋳造し作られていて、名前の通り板状の雲の形をしています。これを木製の撞木で叩くと「ジャーン、ジャーン」という独特な音がします。
この雲版は調理場のある「庫院(くいん)」につり下げられ、修行道場ではおもに食事の準備が整ったことを修行僧たちに知らせる合図として鳴らされます。
なぜ雲の形をしているのかというと、調理には火を使いますので、雨を降らせる雲をかたどった雲版に火防の意味を込めたのです。
雲版に限らず寺院には、様々な役割を持った鳴らし物がたくさんあります。寺院を訪れた折には、こうした鳴らし物にも目を向けてみてはいかがでしょうか?
 
野バラ6月 

ボケの花


(補足:花祭りは海禅寺でも昔盛大に行っていました。甘茶の接待も行ってにぎやかでした。しかし近隣に子供さんの姿も減り年々お参りも少なくなって現在は行っておりません。)
 お変わりございませんか?この月の11日にはお寺の供養を少人数にて行う予定です。ご迷惑をおかけしますが広報誌「いのち」でお知らせした次第でよろしくお願いいたします。
 一言法話が届きましたのでご紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇ 4月1日はエイプリルフールです。この日はウソをついても良いとされ、メディアなどではしばしばジョークニュースが報道されることもあります。他者を傷つけるウソがいけないのは当然のことながら、クスッとさせるウィットに富んだジョークは、時に、私たちを和ませてくれるのかも知れません。
ところで、御仏のお弟子にさせて頂く「お授戒」の儀式において、「仏戒(ぶっかい)(仏としての生活を行じるに当っての戒め)」を戒師さまから頂戴します。そのことによって、戒師さまを通じてお釈迦さまのお弟子にさせて頂くのです。
曹洞宗では16の仏戒を頂きます。その一つに「不妄語戒(ふもうごかい)」があります。「妄語」とは、もともとの意味は、仏さまのお悟りを開いていないのに、「悟った」とウソをつくことですが、広くはウソをついてしまうことと理解して良いかと思います。つまり、ウソをつかないことをこの戒では戒めとしているのです。
ウソをつかなければ、清々しく生きることが出来る、このことは皆さまも実感としておわかり頂けるのではないかと思います。一回ウソをつけば、そのウソと整合性を持たせるために、更なるウソをつかなければならなくなります。しかし、“自分を守るため”“その場を乗り切るため”、図らずもウソをついてしまうこともあります。ウソは私たちの心の弱さの現れなのかも知れません。

4月8日にはお釈迦さまのお誕生をお祝いする「降誕会(ごうたんえ)(花まつり)」を全国の寺院ではお勤めします。この時節に、改めて、仏の御教(みおし)えに親しみ、私たちの生き方を見つめ直したいものだと思います。
 

 新種のウィルスとか。こりゃいたちごっこですねー。予防をしっかりとして備えていきましょう。
今月も一言法話が届いておりますので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
最近、「エシカル消費」という言葉をよく目にするようになりました。
「エシカル」とは「倫理的な」という意味の言葉で、買い物をする時に「その商品を購入することが、他の人や地球環境、また地域社会にどんな影響を及ぼすのか」に思いをめぐらせて、より良い消費を目指していこうという考え方です。
長い大量消費社会の中で、私たちは「値段」と「品質」にのみ関心を持つ消費に慣れてしまいました。そこでは、「より安いもの」を買うことが賢く、また正しい事でした。
ですが、「エシカル」の視点から見ると、「正しさ」は大きく姿を変えます。 例えば、同じくらいの品質の2枚のシャツがあったとします。一方は1000円で、もう一方は500円だとしたら、どちらを買うのが正しい選択でしょうか? 格安衣料品が、どこで、誰によって、どのように作られたのかを辿っていくと、その多くは途上国の少女たちの、賃金の安い長時間労働で作られていることがわかります。彼女らは学校にも行けず、狭く劣悪な環境の中でひたすらシャツを作り続けています。私たちが何気なしにそのシャツを買うことは、結果として彼女たちの労働と賃金、そして教育を受ける機会を搾取することにつながっているのです。
一方で、生産者の人権や生活に配慮した物づくりを進める企業も増え始めています。当然割高にはなりますが、その差額は、働く人々の賃金や待遇の改善、また子供たちの教育に活かされています。商品を買う事で、現地の人々の幸せな生活を応援することが出来るのです。
禅の修行道場で食事の時に唱える「五観の偈」は「一つには功の多少を計り彼の来所を量る」から始まります。「この食事が、どんな人たちの、どんな働きによってここにあるのかに深く思いをめぐらせます」という意味で、エシカル消費が目指す世界ととても良く似ています。
日々の何気ない買い物でも、私たちは世界と確実につながっています。目に見える商品そのものだけではなく、その背景にある物語にも思いをめぐらせ、みんなが幸せになる買い物を心がけていきたいものです。
春先の白梅と椿 

マンサク

 その後お変わりございませんでしょうか。「何事も裏があれば表がある。」これも仏の教えです。ということでコロナで心が塞ぐのであれば必ず良い面もある。そちらに目を向けてプラス思考で頑張りましょう。(花はマンサク。地味だけれど春の訪れを教えてくれます。)
 今月も一言法話が届いておりますので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
「終活」という言葉をよく耳にします。
これは人生の最期を迎えるにあたり、生前のうちに自身の葬儀や墓の準備、相続を円滑に進められる計画を立てることです。
さて、2月15日は釈尊入滅の日とされ、お寺ではお釈迦さま入滅の様子を描いた「涅槃図」を掲げたり、涅槃会の行持が行われます。
『仏垂般涅槃略説教誡教』(遺教経)というお経は、お釈迦さまが入滅される際、集まった弟子や信者たちへ行った説法をまとめたものです。お釈迦さまは、まさに仏となるべき衆生は、「八大人覚」(①少欲②知足③遠離④精進⑤不妄念⑥定⑦智慧⑧不戯論)を修行し、無上菩提を得て、それをさらに他の衆生のために説いていきなさいと示されました。
このように、遺された弟子や信者たちに指針を明確に示したということは、「遺された者が自身(お釈迦さま)の財産(尊い教え)の相続(相承)を円滑に進めていく」という、まさに「終活」の事例の一つといえるでしょう。
お釈迦さまの教えは弟子、信者たちに守られ、受け継がれて2500年を経た現在へと伝わっています。
涅槃の日を迎えるにあたり、改めてお釈迦さまのご遺徳に想いを馳せるのもよいでしょう。

テレホン法話 

新年あけましておめでとうございます。皆様方に益々のご多幸があることを祈念しております。 今年もどうぞよろしくお願いいたします。
一言法話が届きましたので紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
謹んで新年のお慶びを申し上げます。

旧年を振り返りますと、新型コロナウイルス感染症が世界を席巻し、人びとは、感染への恐怖、自粛生活や収入の減少など経済的問題等からの不安やストレスなど、さまざまなこころの悩みを抱えつづけた一年でありました。

長引くコロナ禍での生活の中で、私たちが改めて気付かされたのは、何よりも、いのちの大切さであり、人と人との繋がり、絆と、禍中にある私たちが日々の生活をどの様に生きていくべきか、という根本的事柄ではなかったでしょうか。

さて、本年は、丑年であります。江戸時代中期の禅僧、白隠慧鶴禅師の著した『槐安国語』には、「狗吠乞児後 牛耕農夫前(犬は乞児の後に吠え 牛は農夫の前に耕す)」という言葉があります。犬は、番犬として吠え、牛は、ただ黙々と耕している、それぞれ為すべきことを行っている姿が示されています。
私たちもまた、新型コロナ感染症に恐怖を懐き、さまざまな困難に直面していますが、こうした時であるからこそ、確実に自分を見失わず、従来に比べ制約のある暮らしの中でも、お釈迦さま、道元禅師さま、瑩山禅師さまのみ教えにそって、前向きに、丁寧に、日々の生活を生きていくことが大切なのではないでしょうか。

本年が皆さまにとりまして幸多き年となりますよう祈念申し上げます。
海禅寺正面 

秋の花

 雪の話題がニュースにも出て、ぐっと冷え込んできましたが、お変わりございませんか。今月末には正月前の奉仕作業を行います。よろしくお願いいたします。
 一言法話が届きましたので紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
11月に入り間もなく立冬、冬の足音が聞こえてくるようです。寒い夜には熱々の鍋料理がなによりのご馳走です。鍋に入れる具材は様々ですが、その一つに「がんもどき」があります。地域によっては飛竜頭(ひりょうず)とも呼ばれ、豆腐を崩して、細かく刻んだ牛蒡・人参・銀杏などを混ぜて丸め、油で揚げたものです。「がんもどき」は漢字では「雁擬き」と書き、鳥の雁の肉に似せたものという意味で、精進料理によく使われます。
肉や魚などを使わない精進料理には、他にも大和芋や海苔を使ったウナギの蒲焼きや、大豆を加工して作った肉や貝のしぐれ煮などの「もどき料理」がたくさんあります。
精進料理でもどき料理を作ることは、肉や魚に執着しているように感じますが、食べる人をもてなすちょっとした遊び心から生まれたものかと思います。そしてもどき料理は本物を作るよりも、より多くの時間と労力が必要です。大変な手間を掛け、一つひとつの食材を大切に扱うところに、精進料理の精神が込められているのです。
 

朝夕寒くなりました。気温の変化の激しい時です。お体をご自愛くださいませ。
一言法話が届きましたのでご紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
今月1日は旧暦8月15日の十五夜でした。広く秋晴れに恵まれ美しい月を愛でた方も多かったことでしょう。
私たちは月と密接な関係を持ち暮らしていますが、仏教においても逸話があります。
その1つが「両箇の月」です。
若い頃の峨山韶碩禅師は大乗寺を訪ねた際、瑩山禅師から「月が二つあることを知っているか」と問われます。
しかし峨山さんは意味が分からず、その答えを求め修行に没頭する日々を過ごしました。ある日、月夜の坐禅中、近くに来た瑩山禅師の弾指した音により大悟されたという逸話です。
後に峨山さんは瑩山禅師が開かれた總持寺を受け継ぎ、二世住職となりました。
月は仏そのものであり、またその月を眺める私たちにもその仏が宿っており、自らも仏であります。自らの生き方に活かし実践することにより、それが本物の月=仏となるのです。
今月29日は十五夜に並ぶ名月の十三夜(旧暦9月13日)です。中秋の名月と併せて、10月二度目の名月も眺めてみませんか。
 
秋の花

tougougiku



 おかわりございませんか。先日ありました奉仕作業へのご参加ありがとうございました。事故や怪我もなく(イノシシが暴れて急遽駐車場下の土手を修理というハプニングもありましたが・・これはえらかった。まいりましたね。でも・・また別の斜面を掘られて・・疲労困憊ちゅうところ)暑くなってきました。熱中症対策も忘れずに。健康に気をつけて。しばし兼務住職をさせていただいた臨川寺では田中浩二師が住職許可の免状をいただかれました。おめでとうございます。これからが本当に大変でしょうが実直な方ですし檀家の皆様と共に歩まれていかれることでしょう。
 一言法話が届きましたので紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
8月になりました。

明治時代以降の日本では、暦の関係で本来7月15日に行うべき盂蘭盆会(お盆)が、7月と8月の地域に分かれました。しかし、未だに「お盆休み」という言葉がある通り、全国的には8月が主です。是非、盂蘭盆会の際には菩提寺とのご縁を大事にしながら、ご先祖さまをお祀りいただければと思います。

特に、今年は新型コロナウィルス対策のため、お盆のお参りや帰省をどうしようか?と困惑する声も聞こえてきます。しかし、どこまでも大切なのは、お互いのコミュニケーションです。しっかりと皆さまでお話しいただき、それぞれが納得される方法でお盆のお祀りをしていただくことを願っております。

季節も夏本番になります。マスクを付けて歩くのは熱中症にも繋がりそうですので、適度に水分等を摂取され、無理をされずに過ごしましょう。
 

お変わりありませんか。ウィルスの件は続きそうです。しっかりと対策をしていきましょう。一言法話が届きましたので紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
7月17日は道元禅師の師匠である如浄禅師のご命日です。
道元禅師は貞応2年(1223)24歳のとき、宋(中国)に渡り、正師を求めて諸山を遍歴するも、なかなかその願いは叶えられませんでした。しかし当時天童山景徳寺の住職であった如浄禅師に相見え、この方こそが自分が探し求めていた正師であると確信します。如浄禅師も求道心に燃える真剣な眼差しの道元禅師をひと目見て、正伝の仏法を受け嗣ぐ資質を見抜かれました。
道元禅師は特別に住職の居室に伺っての問法を許され、寸暇を惜しんでお師匠さまの元に参じ教えを請い、如浄禅師もそれに応えて、法愛をもって時に厳しくも親しく指導されました。そしてついには「一生参学の大事、ここにをはりぬ」の境界にいたり大悟されるのです。
その後、如浄禅師から、一刻も早く帰国して正しい仏法を人々に弘めることを勧められた道元禅師は、嘉禄3年(1227)帰国の途につきますが、それから間もなくして如浄禅師は遷化(亡くなる)されました。
道元禅師が開かれた大本山永平寺では、毎年7月17日に如浄禅師をご供養する法要が勤められています。
natuno 

6月の花お元気でお過ごしでしょうか。第2波というニュース。心配ですけれど、今日はまだ動けるということならば出来ることをするというスタンスでいこうと思っています。
 夏の奉仕作業は今のところ実施予定です。マスクの用意をお願いいたします。
 一言法話が届きましたのでご紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
六月に入りますと、大本山永平寺では「眼蔵会」が、大本山總持寺では、「伝光会摂心会」が勤修されます。
修行僧達は、永平寺では、道元禅師さまの主著である『正法眼蔵』を学び、また總持寺では、瑩山禅師さまの主著である『伝光録』について学び、集中して坐禅を組みます。
「摂心」とは、心をおさめること、打眠を貪ったり意識が散乱しないようにすることで、坐禅をさします。「接心」と表現する場合もありますが、これは、坐禅を通じて、仏さまのお心に接することを意味します。
本年度は、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、残念ながら、一般の方々の両大本山での参禅などは出来ない状態でありますが、第109号のコラム欄でもご紹介いたしましたように、皆さまのご家庭でも、坐禅に取り組むことは出来ます。ぜひこの機会に皆さまも、両大本山の修行僧達を思い浮かべながら、ご自宅におりながらも心は私たち僧侶とともに、坐禅にお親しみください。
 

一言法話が届きましたので紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行による緊急事態宣言の延長がなされました。まだまだ先の見えない状況に、多くの皆さんが、日々の生活に不安を感じながら、お過ごしのことと思います。
 ところで、仏教を興された釈尊(お釈迦さま)に対し、人びとは様ざまな呼称を用いて、その徳を讃えました。その一つにこのような表現があります。
「良医の病を知って薬を説くが如し」(『仏遺教経』)
釈尊は私たち迷える衆生をきちんとあるべき姿に導いてくれる、それはあたかも名医が病人に正しく薬を処方するようだ、というのです。つまり“教え”という形で生き方の処方箋を与えてくれるということでしょう。しかも、一人ひとりのありように応じてカスタマイズして教えを説かれるので、「応病与薬(病に応じて薬をあたう)」といわれます。
このように人びとの苦悩に向き合われた釈尊であれば、現在の私たちをどのように見ておられるでしょうか。
釈尊の教えの中に「智慧」と「慈悲」があります。「智慧」とは世の中の真理、物ごとの道理を見抜く働きをいいます。そうしたありかたからは、自ずと、他者の幸せを願う「慈悲」の心が生じるといいます。
新型ウイルスという見えない相手との戦いは、時に、私たちから冷静さを奪います。そんな時、釈尊が示された何ものにも振り回されない智慧のありかたを見つめ直したいものです。それは混迷するこの状況下で正しい判断を行う原動力になるはずです。そうした行動は、自分自身を守るだけでなく、他者を守り活かすことにもつながります。即ち、それは、慈悲の実践でもあるはずなのです。
折しも、本年4月1日付で発せられた曹洞宗管長・福山諦法禅師の「おことば」においても、智慧と慈悲の実践について説かれています。
先が見えない今だからこそ、現実を正しく見つめ、自己と他者を大事にする、智慧と慈悲の実践を心がけたいものです。
福山諦法禅師の「おことば」
「人人にんにん悉ことごとく道器どうきなり」
 瑩山禅師のお言葉です。私たちは、元来、かけがえのない存在であり、それゆえに、一人ひとりが輝かしい人生を送ることが出来るのです。
 その一方で、さまざまな社会の不均衡は多くのひずみを生み、私たちは苦悩を抱えながら生きています。また、頻発する災害がもたらす人びとのつらさや切なさを我が身に受け、悲しみを観じています。
 誰一人として取り残されることのない世界を見据えて、いま、私たちの生き方が問われています。
 ともに学びましょう。
 己の益さちを先とする私たちの行いは多くの諍いさかいを生んできました。本来の自己のありようは、他者との共生にあることを参究しましょう。その営みの中にこそ平和の実現があるのです。
 ともに願いましょう。
 私たちは、人やもの、自然環境に至るまで、数多あまたのめぐみを受けて生きています。それらすべてと協調し、感謝の念を忘れず、世代を超えて安心して過ごせる世界の構築を願う菩薩の誓願に生きましょう。
 ともに実践しましょう。
 お釈迦さまは、智慧と慈悲を説かれました。あらゆる人に親切に接する慈悲の実践は、自ずと、心穏やかに暮らす智慧の心を育みます。それは、お互いがそれぞれを生かし合い、尊重し合う社会へとつながります。
 道元禅師は、「ただまさに、やわらかなる容顔をもて、一切にむかうべし」と示されました。み仏の前に心静かに坐り、ご先祖さまに掌(て)を合わせ、皆が幸せに過ごせる慈しみ溢(あふ)れた世の中を目指して、ともに歩んでまいりましょう。
 合掌
南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)
南無高祖承陽大師道元禅師(なむこうそじょうようだいしどうげんぜんじ)
南無太祖常済大師瑩山禅師(なむたいそじょうさいだいしけいざんぜんじ)
      令和2(2020)年4月1日
曹洞宗管長 福山諦法
 
 ご心配をおかけしています。法事等につきましてどのようにすればとお考えかと存じます。状況にあわせてご相談に応じますのでお寺まで連絡をいただけると幸いです。
 基本的には
 マスク着用・少人数・間隔をとる(ご家庭よりはお寺の広い本堂が適しているかと)・窓や戸を開けるでしょうか。
 具体的には個々のご家庭で事情がおありだと思いますのでお申し込みの際に相談をお願いいたします。
花の写真



 
一言法話が届きましたのでご紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
 非常事態宣言が全国に拡大される中、先の見えないウイルスとの戦いに閉塞感を抱えている方も多いのではないかと思います。家庭内のDVなどが世界的に増加傾向にあるとのニュースもあり、不安は尽きません。
そうした中でも、私たちの多くが混乱や恐怖に怯えることなく生活できている現実を前に、医療や物流、小売りを支える多くの方々の危険な中でのお仕事が、私たちの生活を支えてくれていることに改めて思いを巡らせ、感謝し、そして最低限、自分自身が感染を拡大させることのないように、慎みある生活を心がけたいと思います。
動画投稿サイトなどでは「うちで出来ること」を歌手やスポーツ選手などが投稿し、皆で楽しくマネをするのが流行っています。そして私たちは、こんな時だからこそ「坐禅」をお勧めしたいと思います。

 坐禅は、いつでも、どこでも(もちろん自宅の部屋でも)行うことが出来ます。
通常は坐蒲(ざふ)という専用の座布団を用いますが、なければ座布団を重ねたり折ったりして代用しても大丈夫です。
大切なことは、
調身(姿勢を調える)
調息(呼吸を調える)
調心(すると自然に心も調う)です。
これが出来れば立派な坐禅。まずは坐禅のいろは(アニメーション動画)を気軽にご覧いただければ幸いです。
 また、より手軽な「いす坐禅」もあります。
足を組むのが難しい人、洋室暮らしに慣れている方などは、いす坐禅のきほん(アニメーション動画)を参考にしてください。
 こんなときこそ、坐禅に親しんでいただければ嬉しく思います。 
山口市でもウィルスに関して暗い話題が続発していますが・・お変わりございませんか。
 一言法話が届きましたのでご紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
 2019年11月に中国の武漢を中心に流行が確認され、その後日本を始めヨーロッパ諸国に広がった新型コロナウイルスによる新型肺炎「COVID-19」ですが、先月末には日本でも東京オリンピック・パラリンピックが1年の延長になるなど、大きな影響が出ています。
 ところで、日本では江戸時代以前から、天然痘(疱瘡)や風邪(インフルエンザに相当)といった「流行り病」について理解はされていましたが、国家として流行に危機感が持たれたのは世界的流行が日本にまで到達した、文政5年(1822)のコレラであるとされます。この時は九州から西日本までと限定的でしたが、安政5年(1858)には江戸を含む大流行となり、更に文久2年(1862)にも流行しました。この時代は、狐などの妖怪によって引き起こされると考え、「コレラ」も「狐狼狸(コロリ)」と表現されて、ただただ恐れられました。
 明治時代になると、九州南部で明治10年(1877)に起きた西南戦争に従軍した兵士がコレラに感染し、帰省する中で全国各地に広がりました。当時の政府の内務省には社寺局と衛生局が存在し、明治13年(1880)に同省から『虎列剌(コレラ)予防諭解(以下、『諭解』と略記)』が提示され、社寺局の依頼に基づき全国に教団組織を持つ各仏教教団が印刷して各宗派内に配布されました。これが、日本において全国規模で行われた伝染病対策の嚆矢とされます。
 曹洞宗の記録でも、明治13年4月に当時の曹洞宗務局(現在の曹洞宗宗務庁)が『諭解』を配布する旨、全国に通達しました。その文面を見ますと、前年に全国で流行したコレラに再流行の恐れがあるため、『諭解』をよく読んで「平素の摂生等」に注意し、「各自其身体の健全を保」って「自衛の念」を強く持つように促しました。
 『諭解』では、コレラの流行は神仏の罰や悪魔の仕業ではないとし、各自正しく対処すれば予防出来ると奨励しました。解説では伝染病の原因に「空気・飲水・飲食物・他人との交通」があるとし、平たくいえば衛生面に配慮し、今回の新型コロナウイルス対策でいわれているのと同じ対処法(例えば、密接な人間関係を避ける、部屋の換気等)を示しています。
 まだまだ迷信が強かった時代だけに、曹洞宗務局では「但教徒の内、教法上の加持祈祷等を以て医薬及び予防法の妨害を為すが如き意得違いの者之れ無き様、取り締まり致すべし」とし、加持祈祷の力を妄信して、医学的見地に基づく対応を妨害しないように促しています。現代の我々も、とにかく冷静、かつ正確な対応を心掛けたいものです。

 墓地への参道について4月18日より工事が行われます。今回はカーブの地点で降りてくる車や登ってくる車同士で衝突しないように見通しを良くする工事を行うことになっています。墓地へ行かれる場合にはご注意ください。







コブシの花  ウィルス騒動はなかなか収束せず多くの行事が取りやめになり関連した方々がお困りになっていることに胸が痛みます。また。現場で奮闘されていらっしゃる医療関係の皆様方に深く感謝いたします。
 自分にできることはやる。困っている方々をさらに悲しませることはしないということぐらいでいくしかないですね。皆様方が毎日無事に過ごされますように。不安があるけれど冷静に対処しましょう。お寺の周囲では毎年のとおりにコブシの花が咲いて田植えの準備時期に入ったことを知らせています。
 一言法話が届いていますので紹介いたします。
 ◇◆一言法話◆◇
各地から花の便りが届く季節となりました。
4月8日はお釈迦さまの誕生を祝う「釈尊降誕会」です。一般には「花まつり」として知られています。お釈迦さまは、今からおよそ2500年前、現在のインド国境に近いネパールの、たくさんの美しい花が咲きみだれるルンビニーの花園でお生まれになったとされます。
毎年この時期になるとお寺では、お釈迦さまがお生まれになったときの様子を模して、色とりどりの花で飾られた花御堂(はなみどう)が設けられ、その中央に誕生仏のお像を安置します。こうした華やかで楽しげな荘厳は、お釈迦さまの誕生に文字通り花を添えるものです。
寒い冬が去って、あたたかい太陽の日差しを受け、草も木も芽吹き、それぞれに美しい花を咲かせています。人も自然も活気づき、生きる喜びを感じます。花まつりを通して、お釈迦さまの誕生をお祝いするとともに、それぞれのかけがえのない命の尊さに思いを致し、正しく生きることをお誓いする日にいたしましょう。

3gatuhana 新型コロナウィルス拡散防止のためにお彼岸の行事・開山忌供養の行事を中止いたしました。
 お寺の墓地西側の駐車場整備が総代会で議題にのぼっていましたが檀家様のご協力で開始することになりました。道路整備に関しては現在3つの案があって協議中です。
 一言法話が本山より届いていますのでご紹介させていただきます。
◇◆一言法話◆◇
日本には美しい四季があり、季節ごとの行事やお祭り、さまざまな習慣が私たちの周りを囲み、心の安らぎと豊かさをもたらしてきました。
しかし、文明の発展や情報化社会の進展の中にあって、現代に生きる私たちは、四季の移ろいを楽しむ余裕がなくなっているように思えます。結果として、人として大切な慈しみの心や、倫理観さえ失われつつあるのかもしれません。
まもなく春彼岸を迎えます。 今年は記録的な暖冬となり桜の開花もかなり早いようです。それでも草花は季節に逆らうことなく芽吹き、花を咲かせています。 四季の変化に心を留め、鳥のさえずり、綻ぶ花々に触れてみましょう。一つひとつの自然の姿をゆっくりと見つめ直した時、きっと新しい何かが見えてくるはずです。

シロバナタンポポ  コロナウイルス騒動はまだおさまりませんね。県内や山口市内でも出るようならお彼岸や供養お接待も中止にするしかないというところです。もう少し様子を見ましょうね。対策は、手洗いぐらいかな。巷ではいろいろと情報が飛び交っているようです。まあ共通するのは体を丈夫にしておくことかな。
 一言法話が届きましたので紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
3月3日は雛祭り、桃の節句ともいわれます。この日は「上巳の節句」と呼ばれる五節句の一つですが、一説には旧暦の3月3日は桃の花が咲く季節だった事から、桃の節句と呼ばれるようになったといいます。現在の新暦の3月3日は桃が咲くにはまだ早いようですね。
さて、唐の時代の霊雲志勤(れいうんしごん)禅師は、桃の花の開くのを見て悟りを開いたと伝わっており、この故事を道元禅師もとりあげています。また、道元禅師の師匠である天童如浄禅師の悟られた時には桃の花が散ったといいます。
我々は桃の花の表面の美しさに目を奪われてしまいますが、祖師方はその中で真実のありようを見出しているのです。


 写真は桃の花ではありません(念のため)(^^;)
 

最近ちょっと調子が(苦笑)
ネズミ年でもないでしょうけど小さなネズミくんが私の標本をねらってくるので捕獲して遠くの野原に運んでいます。さてと一言法話が届いていました。(忘れてました。失礼)
◇◆一言法話◆◇
この冬は、記録的な暖冬で、北国では雪まつりや伝統行事などの開催が心配されておりましたが、今月上旬より地域によっては若干のまとまった降雪もありました。
 この時期の雪(場合によっては旧暦)は、古くから特に「涅槃雪」と呼ばれました。これは、2月15日が、お釈迦様がご入滅なさった忌日であることに因んでいます。全国各地の寺院では、お釈迦さまの最期の様子を描いた「涅槃図」をかけて、そのご遺徳を偲ぶ法要が行われます。これを「涅槃会」といいます。
 「涅槃図」に描かれるように、お釈迦様は、クシナガラの地のサーラ(沙羅)樹の林の中で横たわられ、集まられた人々や弟子たちに、「私の亡きあとは、私ではなく自分自身をより所として、また私が伝えた教えを、闇を照らすともしびとして、歩んでゆきなさい」、「もろもろの存在は変わりゆく。怠らず精進しなさい」との最後の教えを遺され、静かに息を引き取られました。
 この「涅槃会」に因み、改めてお釈迦様のご遺教を胸に刻み、生きてまいりましょう。
 
お花とカヤネズミ

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
それでは一言法話をいただきましたので紹介いたします。
初日の出


 
◇◆一言法話◆◇
新年のご挨拶
 みなさま明けましておめでとうございます。令和2年を迎えました。今年の干支はねずみ年ですので、12年周期としては新たな12年となります。  曹洞宗の高祖道元禅師は京都宇治興聖寺で、お正月について以下のように示されました。
   上堂に云く、今日、是れ一年の初めなりと雖も、乃ち亦た三朝の日なり。
   三朝とは、年朝・月朝・日朝なるか。
              『永平広録』巻1-32上堂
 道元禅師は1月1日の元旦について、1年の最初ではありますが、1年で最初の朝、1ヶ月で最初の朝、1日の始まりの朝、という3つの朝でもあるとされたのです。我々も、まさにお正月を迎え、新たな気持ちで1年を過ごしたいものですし、「一年の計は元旦にあり」ともいいますので、しっかりとした年間目標を立てるのも良いと思います。
 ところで、今年は東京五輪が予定されております。各国の選手には、素晴らしいパフォーマンスを発揮していただけるよう楽しみにすると同時に、昨年度のNHK大河ドラマ『いだてん』で描かれていた通り、スポーツを通して世界の民族融和を考える機会にもしたいものです。
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いろいろな法話を電話でも聞くことができます。
電話番号:03-3454-5410
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 年末の奉仕作業へのご参加ありがとうございました。無事に終わってまずは一息。そろそろ来年の計画を入れた通信を出さないといけない時期。ただいま思案中。いただいた一言法話は12月8日の話題です。
 ◇◆一言法話◆◇
 星空が美しい季節を迎えました。
 なぜ冬の星空が美しいのかというと、夜の時間が長いこと、色とりどりの明るい一等星、星雲や星団が多いこと、上空の冷たい空気の流れが早いために光が瞬くなど、星空が美しく見える条件が重なることによると言われます。
 今年の12月上旬は金星と土星の大接近が観測できます。夕方の南西の空に宵の明星(=金星)が明るく輝いて見えます。そして、そのすぐ近くに土星が、日を追って金星に近づいていく様子が見られるでしょう。
 12月8日は、お釈迦様が菩提樹の下で坐禅をされ、明星を見て悟りを開かれたとされる釈尊成道の日です。
 美しい星たちの輝きは人の心を動かし、さらに仏教をも生み出す契機にもなりました。
この時期に、美しい星たちをゆっくりと眺めて見てはいかがでしょうか。
 

 ムラサキシキブ  稲刈りも終わって一息ついていらっしゃる頃でしょうか。まだまだ野草さんたちは元気そのもので草刈りは続きますね。一言法話95号をいただきましたので紹介いたします。
 ◇◆一言法話◆◇
 厳しい暑さもようやくおさまり、過ごしやすい季節がやってきました。「食欲の秋」と言われますが、新米や鮭、サンマやキノコなど季節の美味しい食べ物が楽しみな時期でもあります。
 ところで、「食品ロス」という言葉をご存知でしょうか。まだ食べられるのに捨てられてしまう食品のことで、日本ではなんと年間646万トンもの食べ物が「まだ食べられるのに」捨てられてしまっているのです。これは1人1日当たりおにぎり1個分に相当します。本当に勿体ないですよね。一方で世界では、およそ8億人の人々が飢餓で苦しんでいる現状があります。
 秋の味覚を楽しみながらも、食べ物の「いのち」と関わる人々への感謝の心を忘れずに、無駄にせず大切に頂きたいものです。(2019 10/1)

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 台風も去って心配されたお彼岸の行事も総代様方とお手伝いの奥様方・そして梅花講の皆様方そして駆けつけてくださいました皆様方によって無事に執り行うことができました。感謝申し上げます。
 いらしたみなさんは、今日のコンサートを楽しみにしていらして残念がっていらっしゃいました。また雨の中。お寺参りとそしてお接待にもいらしてくださりありがとうございました。お彼岸はお寺に参るものと思われ亡くなられた方々もいらしてくださり喜んでもらえたと思います。
 法要では、ご先祖様方のご修行がさらにうまくいくように、また皆様にご多幸があるように参加された方々でお祈りいたしました。
また元気でお会いしましょう。(2019 9/23)

 申し訳ありません。台風の接近に伴ってお彼岸の集まりとコンサートを中止いたします。お寺ではご先祖様方にお経をさしあげておきます。皆様とお会いするのを楽しみにしておりましたのに残念ですがこればかりはいたしかたありません。皆様にも何事もありませんように。(2019 9/22)

一言法話が届きましたので紹介します。(2019 9/15)
 それから・・お彼岸のコンサートのご案内をこの下につけていますので再度ご覧ください。(^^;)
百日紅 
◇◆一言法話◆◇
 今年の「中秋」は9月13日でした。かつての太陰暦の頃は、中秋といえば8月15日、そしてその日は満月でした。中国や日本の禅宗では、中秋に因んで偈頌(漢詩)を詠み、満月を愛でることを習わしとしていました。一首紹介してみたいと思います。
  月中の桂樹を折り尽くし来たる。這回は旧を恋わずに這回。
  胡来胡現漢来現。限り無き清光十五枚。
           道元禅師『永平広録』巻1-77上堂
 これは、道元禅師が仁治2年(1241)8月15日に、京都興聖寺で行われた「中秋の上堂」で、意味は以下の通りです。
  月にある桂の木を折り尽くした。今回の中秋は古い月を恋う必要もない見事なものである。
  その月は、胡人が来れば胡人を、漢人が来れば漢人を現すが、それは鏡のような無限の清らかなる光が15枚重なったのである。
 少し分かりにくいかもしれませんが、「桂の樹」というのは、月が欠ける理由と考えられ、満月の時にはそれを折り尽くした、とするのです。光り輝く満月は鏡のようであり、物事の真実の姿をありありと現すと考えました。現代と比べて、当時の夜空の様子は全く異なっていたと思いますが、道元禅師は真っ暗闇の中、鏡のように輝く月の様子を讃歎されたのです。また、更に興味のある方は、道元禅師が著した『正法眼蔵』「都機」巻も読んでみて下さい。「都機」とは「月」の万葉仮名的表現なのです。
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 一言法話が届きましたので紹介します。(2019 9/1)
◇◆一言法話◆◇
 9月8日は二十四節気のひとつ「白露」(はくろ)です。
 昼夜の寒暖差が大きくなるこの時期、夜の間に大気が冷やされ、朝にはそれが露となって草花につきます。
 陽の光を受けた露は一つひとつがキラキラと白く輝いて、どこか神秘的な感じすらします。
 ほんのひととき美しく輝く朝露は、人のいのちにたとえられます。
 『修証義』に
  「最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ」
というお示しがあります。
 人としてこの世に生を受けたばかりでなく、仏教の教えに巡り合えたことは、この上なく尊いことです。
 ひとたび風が吹けばいつ落ちて消えるとも知れない露のような、はかなく脆いこの身であるからこそ、無常の風の吹くままに、いたずらに時を過ごしてはならぬと戒めています。
 私たちも仏法という光に照らされて、そのいのちを美しく輝かせていきましょう。

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夏の花  

 一言法話が届きましたので紹介します。(2019 8/15)
◇◆一言法話◆◇
  実にこの世において 恨みは恨みによって鎮まらない。
  恨みを持たないことで静まる。これは永遠の真理である。(『法句経』第1章5番 )

 8月15日、74年目の終戦の日を迎えました。
 戦争終結後、戦争責任の賠償と制裁措置を決めるサンフランシスコ対日講和会議が開かれ、敗戦国の日本は、アメリカ・ソ連・イギリス・中国により分割統治されることや、巨額の戦争賠償金も予想される窮地に立たされていました。
 その窮地を救ったのが、お釈迦様の言葉です。
 スリランカ(当時:セイロン政府)代表として出席していたJRジャヤワルデネ元大統領(当時:財務大臣)は、少なからずセイロン島に損害をもたらした日本に対し「日本の掲げた理想に、列強国からの独立を望むアジアの人々が共感したことを忘れないで欲しい」と述べた上で、冒頭の『法句経』を引用し、日本に対する賠償請求を放棄し、日本が再び国際社会に復帰する道筋を作ってくれたのです。
 終戦の日を迎え、日本を救ったお釈迦様の言葉の意味を噛みしめ、平和について考えてみることをお勧めします。

 台風が近づいていて心配な日となっています。被害がでないことを祈ります。
 オニユリ
秋のお彼岸にコンサートをしますよ 突然ですが・・(笑)9月23日のお彼岸の日にコンサートを行います。
例年、春のお彼岸にはお参りが多いのですけど秋はちょっと少ないのではたして聞いてくださる方がどれだけいらっしゃるかと不安なのですけれど。(^^;)
「秋にはあまりお参りがなくて・・・」と私が言っていたら友達の中野さんが「じゃ、お寺でコンサートをやってみたらどうかな。知り合いの方に頼んであげよう」と言われて、そういえばこの頃はお寺でコンサートするところも増えているなと思いお願いすることにしました。
海禅寺としては音楽のコンサートは初めての企画になります。
 「いのち」を使って郵便で皆様にお知らせするのは予算オーバーなのでネットの効果や口コミに期待して宣伝をすることにしました。


 これを見てくださった方はお知り合いの方への宣伝をよろしくお願いいたします。m(__)m 2019 8/12


一言法話が届いているので紹介します。
◇◆一言法話◆◇

 暑い季節となります。
 最高気温が25℃を超えた日を夏日、30℃を超えた日を真夏日、35℃を超えた日を猛暑日と言うそうです。以前は、「猛暑日」という言葉は聞かなかったような気がします。調べると2007年4月から気象庁が使い始めた言葉だそうです。温暖化の進行を感じます。  さて、お釈迦さまの生きたインドは、非常に暑い国です。お釈迦さまもあまりにも暑い時には、木陰などで日差しをさけていた事と思われます。木陰の涼しさは、心を静めるのに適していた事でしょう。

 お釈迦さまがお悟りを開かれたのも、菩提樹の下での坐禅でした。
 暑い時節、身体も心も疲弊していませんか。近隣の坐禅会を開催している寺院で、坐ってみてはいかがでしょうか。
(海禅寺では椅子座禅をおすすめしています。お寺の本堂で静かに座って瞑想を行ってみられるのもいいかもしれませんね。やってみようと思われる方は事前に連絡をくださいませ。)

盆前奉仕作業  盆前の奉仕作業が終わりました。
今回は田代・細野・橋本・親睦・長門峡・御堂原・大野上・大野下の皆様と総代さん方がご参加くださいました。皆さんいろいろとご自分のところで大変だったと思いますが世話人様方の呼びかけでご集合いただき大変感謝しております。
幸いにも熱中症で倒れる方も出ず事故もなく無事に終了いたしました。
また数名の方より道具の寄進がありました。ありがとうございます。
心配された総代長様の怪我も事後経過も順調で今回も一番にいらして指示を出されていて皆さんも喜んでいらっしゃいました。
お寺の内外も大変さっぱりとしてお盆を迎える準備が整いました。改めて感謝申し上げます。(2019 7/28)











 一言法話が届きましたので紹介いたします。(2019 7/15)
◇◆一言法話◆◇  お盆の季節を迎えました。  中国では、殷代(紀元前17世紀頃~紀元前1046年)には既に、病気や災害は天や祖先の祟りであると考えられ、周の時代(紀元前1046年頃~紀元前256年)には、福は祖先から、災いは天からもたらされると考えられ、子孫の幸福のために祖先を祀るという考え方、祖先崇拝が生まれたとされます。
 こうした思想背景とインド由来の仏教の思想文化、中国での思想展開、更には、日本での祖霊信仰が融合したものが、今日の私たちにとっての「お盆」であります。
 祖先崇拝という視点のみで捉えようとすると、自分たちの血縁ある祖先だけを供養するものと捉えがちですが、曹洞宗寺院でのお盆のご供養は、自分たちの血縁のご先祖に対してだけと選り好みするのではなく、ご縁の無いものを含む総ての霊に対して食を施し、ご供養することを本義とする「施食会」というご法要を、主としてお勤めしております。
 この様にお勤めすることが、引いては皆さまの功徳、ご先祖への回向となるのです。
 こうした機会に、改めて、ご供養、ご法要に込められた意義に、関心をお持ちになってみて下さい。
  ノウゼンカズラ 
 一言法話が届きましたので紹介いたします。
◇◆一言法話◆◇
 先日ある企業の社内イベントで、いす坐禅と写経の体験ブースを出展させて頂きました。多くの多彩で楽し気なブースに混じっての出展で、果たして参加してくれる方はいるのかと心配しながらのスタートでしたが、結果行列が出来るほど多くの方が参加して下さり、坐禅や写経に関心がある方がこんなに多いのだと改めて驚きました。
 写経は短めの『四弘誓願文』をお手本に、筆ペンとクリップを使った簡単な作法での体験でしたが、「20分の間、他の事を何も考えずに写経に集中できたのは、私にとってとても豊かな時間でした」と嬉しそうに話してくれた参加者の笑顔が印象的でした。
 「一行三昧」という禅の言葉があります。一つの修行に専念することでこころが静かに落ち着き、安らかな境地に達する事が出来るという意味で、写経はまさにこの世界を実現してくれるものです。
 忙しく慌しい毎日だからこそ、多くの方に写経で心が落着く時間を味わって頂きたいと思います。
 
 

 一言法話が届きましたので紹介いたします。
 ◇◆一言法話◆◇
五月晴れの空に、木々の新緑をサッと吹き抜ける一陣の清風は、何ともいえない心地よさを感じます。
「歩歩清風起こる」という禅の言葉があります。
「一歩一歩足を運ぶたび、その人が歩いた後から清らかな風が吹く」という意味です。
迷いや煩悩に惑わされない人は、一挙手一投足が清々しくじつにさわやかです。そんな人の立ち居振る舞いに接すると、心が洗われる気持ちになります。 「歩歩」とは、私たちの一歩一歩の 歩みで、とくに歩き方にはその人の心のありようがあらわれます。
禅の修行道場では、常に足の運びや足音に気を配るように教えられます。それは自分の行動の動作一つひとつにまで気を配り、丁寧に行なうことによって、自然とその心まで整えることができるからです。
私たち一人ひとりも周りに対して、清風を起こせるような人になりましょう。
 「歩歩清風起こる」は「ほほせいふうおこる」と読んで、鎌倉時代の高僧・南浦紹明(なんぽしょうみょう、嘉禎元年(1235年) - 延慶元年12月29日(1309年2月9日))(大応国師)が記されました。
 禅の言葉なのであなたなりの解釈をしなくてはなりません。あなたはこれをどう読み解かれますか(^^)。
 タニウツギの花が満開になって目を楽しませてくれています。
タニウツギ

一言法話が届きましたので紹介いたします。
 「いただきます」、「ごちそうさま」。
食事の際に発するこの言葉は、古来から受け継がれてきた誇るべき言葉であり、素晴らしい文化であると感じます。日本以外の国では、「いただきます」「ごちそうさま」に該当する言葉が無かったり、皆が揃ってから食べ始めるという習慣を持たないところも多く、日本で、皆が「いただきます」と言って食べ始める光景を見ると、とても驚かれるそうです。
「いただきます」「ごちそうさま」の言葉には、「いのちをいただく」ことへの感謝と、「馳(は)せ走(はし)って(=馳走)、懸命に食べ物を作ってくれた多くの方々のまごころをいただきました」という感謝の気持ちが詰まっています。
さらに「自分自身が、あらゆることを疎かにせず、きちんとできているか」ということにも繋がっていきます。
食事の際には「いただきます」「ごちそうさま」に包まれている意味を噛みしめながら、いただきましょう。


 境内ではシャガの花が咲き始めて目を楽しませてくれています。ちょっと撮ってみました。
 今日から令和。5月1日
シャガの花
平成31年4月30日  今日で平成が終了ですね。昭和・平成・令和と3つ生きてしまったことになるわけでずいぶんと長生きをしたものです。さてと、お墓への参道の工事の今日現在の様子です。工事を担当された池田建設の社長さんがいろいろご心配してくださってあとはアスファルトを設置すればいいようになっています。アスファルトの工事は短期間で終わるとのことです。
 お寺の境内ではサツキやツツジの季節になってきました。ただ、気温がぐっと下がって雨に打たれてしまってちょっと元気がないです。
 現在もっとも時間を使っているのが仏像の修理です。外形を整えるのはわりと簡単。しかし、表面に描かれた模様を戻していくのはなかなか大変。水性の塗料を使っているのですが、細い筆だとすぐに乾燥して団子状になり細い線が描けなくなります。
 また相当時間が経過していて金箔を使った部分は落ちてしまって模様自体もはっきりしません。
 ただ少しだけ残っている部分を見るとすばらしい線(太さも一様)ですらすら描いてあって、昔の職人さんの腕前にはただただ感心するばかりです。おそらくは習字に使う墨汁のように膠をつかった塗料であったはずです。乾燥が少し遅いのが欠点ですけれど色の伸びはよいですね。
 模様は、とても参考になります。いくつかの仏像の模様から素敵だなと思う模様を真似て作業をすすめているところです。完成はまだまだ先。仏像が終わったらその椅子や靴の修理が待っていますから。
 一言法話が届きましたので紹介いたします。
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◇◆一言法話◆◇ 4月15日は遺言の日だそうです。
様々な死後のトラブルを防ぐ為の遺言制度利用の普及の為に神戸の弁護士会が始めたものが全国に広まったもののようです。
さて、禅僧が臨終にあたり自己の思い、信仰について、弟子・後世への教訓を偈頌と呼ばれる漢詩にしたものを遺偈といいます。中には新年を迎えると、新たな遺偈をつくっておく習慣を守る僧侶もいるようです。変わってゆく一瞬一瞬を大切に生きる、禅僧にとって、いつ自身に何があっても大丈夫なように遺偈を準備しておくという事なのでしょう。
高祖道元禅師の遺偈をご紹介いたします。
 五十四年 第一天を照らす 箇の勃跳を打して 大千を触破す
 渾身覓むる無く 活きながら黄泉に陥つ
(五十四年間、仏道の第一線を歩んで来た。この世界を飛び出して、これからも仏道を歩み続けて行くのである。
 懸命に生きてきたこの身、求めるものはもう無い。生きたまま黄泉に陥ちるのだから)
自らの亡くなった後の事を心配して書く遺言とは違う、遺偈。力強さ、覚悟を感じずにはいられません。
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   雑感:これは禅師が皆さんとのお別れの挨拶として書かれたものです。「活きながら」とは、死んでしまってではなく、今、私が行っているとおり私はこのまま「黄泉に」私の姿は見えなくなって次の世界に「陥つ」行っても、修行する方々を指導していくぞ。
(あなた方も今の世でしっかりと人々を導きなさいと)
いう決意を示していらっしゃいます。
 そういうわけで禅師様は向こうで自ら座禅もし修行者を叱責もしながら私達を見守ってくださっています。それを忘れないようにとお寺には必ず道元禅師様の像が置いてあるのです。
 さて供養も終わって本堂や位牌堂の片付けにとりかかっています。いろいろとあってなかなか進みません。位牌堂の霊供膳の片付けは私の担当。いくつかネズミさんが荒らしていました。おいしかったかな(苦笑)、あれ?ご飯がない?丸ごと食べた?ここご飯が少なかったね。器が傷んでるなぁ。取りのけたら、今度は拭いてまわるのですけどこれがまた時間が過ぎていきます。まあ・・・これも修行のうちでしょうね。
 墓地までの道路の工事が始まっています。5月までちょっと不便ですが下の駐車場をご利用ください。
(令和元年4月16日)

開山忌から お寺の最大行事である開山忌の供養が終わりました。総代長の白松様が大変心配していただき手配や準備についてこまかく指示され、総代様方そしてお手伝いの奥様方によって前々日から準備もすすみ当日を迎えました。
 近隣のご住職様方をお迎えしてご本尊様への報恩感謝・お寺を開かれた方々やそれにご助力いただいた檀家各家のご先祖様方・当日にお参りされた方々のご先祖様への回向を行いました。
 その後、徳佐の大源寺ご住職様から法話をいただきました。現在介護士としても活躍されていらっしゃるのでその体験談をされながら私達が将来迎えなくてはならないこと(介護を受けることや介護をすることについて)の心配りなど有益なお話をされみなさん熱心に聞いていらっしゃいました。
 この後で施食会供養・和讃塔婆回向を行いました。総代様方のてきぱきしたお働きによってスムーズに終わりました。また、ご詠歌の講員様方のお唱えによって塔婆回向も無事終了。お接待にも多くの方がいらしてくださいました。台所では奥様方が大活躍。(大きな功徳を積まれたことになりますね。)それからさらに片付けもされて帰られました。このようにお寺は多くの方々によって支えられて活動が続いています。
 今回参加が難しかった方も次回はぜひいらして法話やお接待のお布施を受けられてくださいませ。
 ああ・・・今年も無事終わって良かった・・・(^^)/と喜んでいたら膝が急に・・・前期高齢者ですね・・・(令和元年4月14日)