>歴史考2

龍吟山海禅寺は誰が銘々したのでしょう?どう思いますか?

 資料が少ないので推量がほとんどになります(これって小説のたぐいかな)。資料は日本史・「防長社寺由来」・寺文書。

 開山頭室長源大和尚を招いて禅宗の寺としたのは、「防長社寺由来」から不高和尚として、その前後の寺に関する日本史の記述を追ってみました。

 江戸幕府は、キリスト教徒の排除を目的として寺請制度を実施します。
<慶長17年(1612年)にキリスト教禁止令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める。その際に、転びキリシタンに寺請証文(寺手形)を書かせた。>
 これによって、人々はどこかの寺の門徒であることを義務づけられました。寺手形がないと身分保障されないということになります。これを檀家制度の始まりとする説が有力です。それ以前は、一般的には領主一族とその家来の一族、または土地の有力者の一族が寺の保護を行っていたか、寺自体が荘園を持って自ら運営していたようですね。
 海禅寺の前身の龍吟庵は真言宗であったとすると、おそらく加持祈祷はしたでしょうし、土地もあったかもしれません。

<元和8年(1622年)堅田元慶死去>

 不高和尚の亡くなる前111年前のこと。そして堅田元慶は54歳でなくなった。さて、江戸時代の平均寿命となると・・・30歳くらい。不高和尚さんは長生きして60歳で亡くなったとして(兄弟弟子の方がさらに20年生きています。長寿として80歳とすればですから・・・もっと若くて亡くなったというところが本当でしょう。)生まれたのは1673年。
 つまり、不高和尚さんは堅田元慶に会ったことがないということになりますね。
 堅田元慶さんの戒名は、海禅寺殿慈天龍哲大居士。
 ということは・・・海禅寺という名称は1622年には存在したことになります。それとも後からつけたのでしょうか。
 1622年には、このお寺は香華所となっています、篠目の人々がお参りしたのでしょう。
 大きな石を3つ建てて供養塔をこしらえたのは、この後かこの時かでしょう。かなり重いので数人で引き上げなくてはなりませんから土地の人々が動員されたのでしょう。

さてと、次はちょっと重要かもしれません。

<寛永9年(1631年)寺院の新寺建立禁止令:新寺の創建を禁止し、翌年以降、各本山に対して「末寺帳」の提出を義務づけた。これによって、各地方の古刹が幕府の命によって、形式的に特定の宗派に編入されることとなった。そのため各宗派は新規にではなく、廃寺の復興といった名目で、末寺を増やしていった。>
 真言宗であった海禅寺が曹洞宗になったのは、これがきっかけではないでしょうか。この頃には海禅寺は廃寺となっていて真言宗の管理下ではなかったと考えると都合がよさそうです。
 さきほどの不高和尚さんの生まれた年を1673年と考えると、彼は復興を志したとすれば20代後半から40歳ぐらい。
 若い不高和尚さん、篠目あたりの出身ではないでしょうか。たぶん篠目出身?でないとこのお寺を知らないでしょうし。25歳で志したとして1698年の頃。
 大いなる檀家であった堅田氏が去って、76年も経過していますし・・・。

<万治九年(1658)頭室長源大和尚死去>
 さきほどの考え方から、不高和尚は、この方に会ったことがないことになります。しかし・・・なぜ、これを開山としたのでしょう。
 生まれていない不高和尚さんが、お招きすることができません。「防長社寺由来」の記録はちょっとおかしいことになります。

 1631年には、長源和尚さんは、もしも60歳で亡くなったとすると、1631-(1658-60)=33
 寺院の新寺建立禁止令を逆手にとって末寺を増やそうと考え、龍吟庵を禅宗の寺にしようと発案し着工したのかもしれません。それか、無住になっていたこの寺を隠居場所にしたか(??)
 隠居となると50代。1648年の頃。堅田元慶が亡くなって26年が過ぎている頃になりますが。

 堅田元慶が亡くなった時は、さきほどの計算でいくと24歳。まだ住職には若すぎるような気がしますがどうでしょうか。長源和尚は堅田元慶に会ったかもしれません。
 堅田元慶に戒名をつけたのは長源和尚の師匠と考えたら・・なぜなら彼は有名な人ですし、それは妙喜寺かその上の泰雲寺の住職が妥当なところではないでしょうか。

<寛文5年(1665年)に幕府が諸藩にも宗門改帳の作成を命じる。この宗門改帳と人別改帳が一緒になる。>
<寛文11年(1671年)に幕府は宗門改帳を法的に整備し、宗門人別改として定期的に調査を行うように義務付ける。>
 お寺は幕府の出先機関のような役割を果たすことになります。

 1673年頃かもう少し後、不高和尚様が誕生。

<享保元年(1716)海禅寺二世死去>
 この方も60歳で亡くなったとすると・・・1656年生まれ。不高和尚さんが20歳なら37歳くらい。まあだいたいこのくらいの差だと不高和尚さんの師匠であってもおかしくありませんね。

<享保6年(1721年)以降、徳川吉宗による諸国人数調査>
 海禅寺も協力したのでしょうか。

<享保十八年(1733)戒雲不高大和尚死去>
 何歳でなくなられたのか、またどこで亡くなられたのか不明です。位牌は二十五世代に新規に設置されて示寂の年号しか書いてありません。まだどこかに資料があるかもしれませんが。
<宝暦三年(1753)四世不高和尚の兄弟弟子?である三世泰翁寂隠大和尚死去 不高さんより20年長生きされた。>