構 成
〈下線部をクリック≠キると、該当箇所に飛べます〉 ◎ 私の『自費出版の本』 (1) はじめに ▼=以下は、しばらく「時間」がかかるタメ、当面 ◎ の「項目」のみの「整理」です。 (2) 河野英男=「文化係」への土壌≠ニして (3) 「戸田焼」とは (4) ![]() (5) 我が家=「河野の窯」における「戸田焼」の「作品」 ◎ (6) 「周南市立美術博物館」に受け入れていただいた我が家の「戸田焼」の「作品」 ◎ (7) 「山口県立博物館」所蔵の「戸田焼」=『日本やきもの集成 9 山陽』の「戸田焼」に掲載の「作品」 |
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(1) はじめに |
![]() | 私どもの「父=河野英男」の生家は[戸田焼]の窯元でした。
左の大鉢は、「父=英男」が昭和54(1979)年9月 25日に出版した ![]() 父は、龍頭が鉢の下から上に昇龍のつよいすがたをくっきり出してい る。尚裏のふちに龍尾がおさめられた逸品である。≠ニいう解説をつけてい ます。 なお、この「大鉢」について、注目≠オていただきたいことは、 @ この「大鉢」の左右に、[我が家の家紋 =nが、半分ずつ&`かれているということ。 ![]() A さらに、この「大鉢」の高台裏 には、呉須で、明治十四巳五月□朝陽山 筆南抑≠ニ記されているということです。 [周博 1](←
「周南市立美術博物館」に「収蔵」していただいており、 その「整理」のタメに付けられた「番号」(←クリック≠キると、「該当箇所」に飛べます) を利用しています。)
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「周南市教委」の清水氏が、「受け入れていただいた作品」に、「整理番号」をつけて、「確認」を求められました。 その「添付」された「写真」に、「番号」を付けていただいていますので、その「番号」を利用させていただいています。 なお、「右下」にある「本」は、父=英男の『陶片の楽書』です。 父の手による「戸田焼」についての「記述」があることとて、「参考」として、ここには写っていない「薬研」と同様に、受け入れていただきました。 |
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これが、「山口博物館」の「サイト」に示されている「写真」で
す。
この「汁椀」は、『山口県の陶磁器展(U) 周防の部』のパン フレットにある茶碗2コ≠フうちの1つではないかと思います。(私が仮につけた作品番号でいうと1) この「汁椀」は、我が家の製品と思いましたが、この「汁椀」を始 め、「博物館」に所蔵の「戸田焼」を見せていただけないかと、お願いし (平成20年9月9日(火)に、許可をいただきました)、同時に、ここに天保年間の創業といわれています。 とあるのは、何を根拠にしてのことですかと尋ねました。 すると、『日本やきもの集成 9 山陽』によっていると 言われました。 この『山陽 9』の記述は、一流出版社=「平凡社」=A 美術館長の執筆≠ニいうことで、やはり=A信じ込まれている ようです。 しかし、私は、「博物館」の方が、その天保≠ネるものが、この『山 陽 9』によると言われた時、即座≠ノ、それはダメです≠ニ言い ました。 当然、手元に所持しています〈「陶芸」 関係の書籍は、あきれるほど¢ス数、父は所持しています〉が、失礼な言い方ながら、それは、父が問題にならない≠ニ した「書物」なのです。 |
『日本やきもの集成』では、上の「3作品」は、まとめて「下の写真」のように撮られています。 これらは、「博物館」の整理ラベルには「茶碗」、『日本やきもの集成』には「汁椀」とあります。 [左=作品番号1=n=径(10.0p)高さ(6.0p) 「中央=作品番号2=v(中に2つのラベル)=径(10.8p)高さ(5.8p) 「右=作品番号3=v(中に1つのラベル)=径(10.4p)高さ(6.0p)と、 いずれも、小さくて、「小鉢」といった方が適当かと思われる大きさです。 「右」の「写真」の二つの「茶碗」は、厳密には少し、大きさが異なりますが、手作りであるがゆえの違いであって、同じ「作品」と思ってよいと思います。 「山口県立博物館」の「ホームページ」に「紹介されているのは、1≠フ「作品」です。 |
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この「写真」は、「山口県立博物館」所蔵 の「作品」が我が家のものであるかどうかを確認する比較資料≠ニして持 参した「皿」を挟んで撮った「写真」です。(こ の「皿」は、上に「皿 その3」としているものの一つで、 「山口県立博物館」に 「所蔵」されているものではありません。) 最初の「整理」の時と思われる年月日が「ラベル」にあり、そ れに、[大正06・11・12]とありますので、「皿」の制作とは、1 0年以上≠フ隔たりがあるのですが、比較してみて、 ![]() 参考 大正≠ニあるように、「山口県立博物館」にある「戸田焼」の所 蔵には、父=英男はタッチ≠オていません。なお、この「平凡社」 『日本やきもの集成 9』の135頁≠ノ「高森皿山焼陶片」の写真 がありますが、その陶片に貼られているメモ的 ラベルの文字は、間違いなく、父=英男のもので す。 |
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![]() | 「博物館」にある、これら「3作品 」の内側≠ヘ、ほぼ同じですし、 ![]() 残念ながら、現在は、汚れた碗≠ェ、残っているに過ぎませんが、こ の売り物にならない「碗」が残っているということ は、「上」の「皿」以上に、 ![]() 「博物館」が、蒐集した時期と思われる大正6年11月 の頃は、間違いなく、「戸田焼」の「作品」と言え ば、我が家の「作品」だったはずです。 それなのに、 ![]() ![]() 左に其の沿革及び現下の状況を略記す として、そこに記されるの は、「我が家」のことは、一字≠煖Lされず、 山田靭臣弱年の頃(文化年間)堅田氏に従ひ長州萩に至り松本 焼を見て職工を雇ひ竈を築き自ら上絵を書き磁器を製造せり後にこれを永田 某に託し専ら日常の品を焼き堅牢なるを以て名あり 大正七年靭臣の孫稔之亟竈を改築し陶器を焼き現今は火鉢花瓶 等を盛に製造しつつあり≠フように、書いている のです。 |
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右」=「小鉢?=作品番号7=v 径(10.4p)高さ(5.5p) 「山」という文字が、側面に1ヶ所のみ記されている。 |
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『日本やきもの集成』の「写真」。 「左」は「皿と向付」とあり、「左」の皿≠フ径は、10.7p とあります。「右」の向付≠フサイズは記されていません。 |