平成20年6月14日  公開=@ 
平成22年12月10日  「周南市教育委員会」&「周南市立美術博物館」の「理解」により 、ほぼ一年の検討を経て、「周南市立美術博物館」に、「作品」の「寄贈」を受け入れていただくことになる。
令和7年7月12日  無料で使用させていただいていた「Yahooのhome page」が無くなったことで、「私の『戸田焼研究』」が「ネット」から無くなり「困った′ヒ田焼」のみが出ていることで、
                    「ケーブル」でやり替え、皆さんに「比較・検討費していただこう」と思います。  



● 戸 田 焼 (へたやき)








「私の『自費出版の本』」

私は、「写真」の『萩焼・戸田焼』を『自費出版』前に、「識者の方」の「意見」がいただければと、「無料で使用させていただけた『YahooのHOMEPAGE』で、膨大な量の『萩焼・戸田焼』についての「出版原稿」をアップしていました。

そして、「平成25年9月25日」に「出版」しました。

「幾つかの図書館」に寄贈申し込みをしましたが、「山口県の図書館」には「所蔵」してたいただけたものの、「県外の図書館」には残念ながら、わずかな「図書館」にしか所蔵していただませんでした。

そこで、「萩焼・戸田焼の歴史」をより正しいものにしたい」というのが「出版の目的」ですから、思いついて、「学者の方」に、目を通していただけたらと、「大学図書館」に送ったみたところ、ありがたいことに、「六つの大学図書館」に所蔵していただいています。

しかし、「YahooのHOMEPAGE」が無くなりましたので、私の「HOMEPAGE」はなくなりました。

その後、歳月が経過しましたが、『私の本』にある「メールアドレス」から、現在、「検索」ででる「ネット」は、『私の本』とはかけ離れた内容です」と知らせてくださった方が数人、おられたのです。

「山口県」・「福岡県」以外の方は、『私の本』を手にされることは、難しい」と思い、「ケーブルのHOMEPAGE」で、少しばかり、「戸田焼」を語ろうと思うのです。








(1)  はじめに




私どもの「父=河野英男」の生家は[戸田焼]の窯元でした。

左の大鉢は、「父=英男」が昭和54(1979)年9月 25日に出版した『陶片の楽書』の表紙にも使用した作品で、橋上の3人の唐子が、淵の 龍に見入っているという景が描かれています。
父は、龍頭が鉢の下から上に昇龍のつよいすがたをくっきり出してい る。尚裏のふちに龍尾がおさめられた逸品である。≠ニいう解説をつけてい ます。

なお、この「大鉢」について、注目≠オていただきたいことは、
@ この「大鉢」の左右に、[我が家の家紋 =nが、半分ずつ&`かれているということ。



A さらに、この「大鉢」の高台裏 には、呉須で、明治十四巳五月□朝陽山 筆南抑≠ニ記されているということです。

  [周博 ](← 「周南市立美術博物館」に「収蔵」していただいており、 その「整理」のタメに付けられた「番号」(←クリック≠キると、「該当箇所」に飛べます) を利用しています。)







[参考]=「周南市立美術博物館」に受け入れていただいた我が家の「戸田焼」の「作品」

─ 「周南市教委」清水氏が送ってくださった「写真」を利用しての「整理」 ─




「周南市教委」清水氏が、「受け入れていただいた作品」に、「整理番号」をつけて、「確認」を求められました。
その「添付」された「写真」に、「番号」を付けていただいていますので、その「番号」を利用させていただいています。
なお、「右下」にある「本」は、父=英男『陶片の楽書』です。
父の手による「戸田焼」についての「記述」があることとて、「参考」として、ここには写っていない「薬研」と同様に、受け入れていただきました。




[6]=「山口県立博物館」収蔵資料 としての「戸田焼」


「インターネット」で戸田焼≠ナ検索 すると収蔵資料紹介/ 歴史 山口県立山口博物館≠ニいうものがあるこ とに気がつきました。
クリック≠オてみると、「戸田焼 染付 汁椀」という説明 で「1枚の写真」がでていました。

これが、「山口博物館」の「サイト」に示されている「写真」で す。
この「汁椀」は、『山口県の陶磁器展(U) 周防の部』のパン フレットにある茶碗2コ≠フうちの1つではないかと思います。(私が仮につけた作品番号でいうと1)

この「汁椀」は、我が家の製品と思いましたが、この「汁椀」を始 め、「博物館」に所蔵の「戸田焼」を見せていただけないかと、お願いし (平成20年9月9日(火)に、許可をいただきました)、同時に、ここに天保年間の創業といわれています。 とあるのは、何を根拠にしてのことですかと尋ねました。

すると、『日本やきもの集成 9 山陽』によっていると 言われました。
この『山陽 9』の記述は、一流出版社=「平凡社」=A 美術館長の執筆≠ニいうことで、やはり=A信じ込まれている ようです。
しかし、私は、「博物館」の方が、その天保≠ネるものが、この『山 陽 9』によると言われた時、即座≠ノ、それはダメです≠ニ言い ました
当然、手元に所持しています〈「陶芸」 関係の書籍は、あきれるほど¢ス数、父は所持しています〉が、失礼な言い方ながら、それは、父が問題にならない≠ニ した「書物」なのです。

ただ、この『日本やきもの集成 9 山陽』の[77頁]の全体を 使って、 「山口県立博物館」所蔵として、ここに示す「9作品」が示されている ことはありがたい≠アとでした。
私にとって、「この『日本やきもの集成』にある作品が、我が家の作品 かどうかの確認をさせてほしい」ということ、及び「山口県立博物館所蔵の 全作品≠見せていただくとともに、写真に撮らせていただけな いでしょうか」と、御願いするきっかけになったからです。
その結果、[平成20年9月12日(金)]に「写真撮影」ができました 。〈担当してくださった方は、とても感じのよい方で、親 切に対応してくださいました。〉

父=英男が、「山口県教育庁社会教育課」に在籍し、「山口県立博 物館」にも兼務で関係していた当時、
「戸田焼」が相当数、収蔵されていたと言っていたので、期 待したのですが、
時の経過による破損や担当者の判断もあってのことでしょうか 、予想に反して=A『日本やきもの集成』にあ る「9作品」は「戸田焼」として整理されている一部≠ナはなく すべて≠ナあるのみならず、この9作品≠フうちの 「左」の花瓶は 現在、所蔵されていないということでした。


この現在、所蔵されていないという「作品」は 、「写真」ダケでは断定できませんが、私の目に は、一般的≠ネ「戸田焼」ではないように思えます。
つまり、「我が家の窯」でもなく、「山田の窯」の作品でもないように 思えるということです。
ただ、『やきもの集成』の「執筆者」の河野良輔氏が、遺存の白磁花生には佳品もありと記されているのは、「花生」は、 2つ≠オかないのですから、この「花生」をさしておられるのだと思います。
しかし、佳品云々という「評価」をされるなら、わずかな「作品」しかない「山口県立博物館」ダケの「所蔵品」にかぎらず、少なくとも=A「山口県の陶磁器展 ―郷土陶磁器展の手引 ―」「資料」とされているワケですから、 その「陶磁器展」展示品が、「博物館」所蔵の「作品」ではなく、河野英男 蔵バカリでもって、展示しているということからして、もっと、「作品」を見てからしてほしかったと思います。
そうした姿勢河野良輔氏にあれば、「萩焼」の歴史・歩みについても、もっと、 事実≠ノ即したものが語られたハズなのです。



なお、この現在の=u博物館」所蔵の「戸田焼」 は、収集に偏り≠ェあるように思われることも残念です。
つまり、「汁椀」3つ≠ヘ、2つ≠ヘほぼ同じ物であり、 他の1つ≠燻嵐ハっており、「博物館」の「ラベル」には「茶碗」とある のですが、「汁椀」・「飯茶碗」というには小さすぎます=B が記されていませんが、私が計ったところ、10p弱≠フ径しかありませ んでした。
「皿」と「向付」、「湯呑」2個≠ヘ、ほとんど差≠ヘなく、しか も、いずれも文字入り≠ニいう特殊な≠烽フ ですし、とりたててできのよい作品≠ニいうわ けではありません=B村井氏も、「山口県の陶磁器展(U)、周防の部」 の際、この4作品≠ニも、展示対象にはしておられません。

日常雑器≠ニしての収集物だとしても、現存している 8作品≠フみでは、疑問がありますし、『日本 やきもの集成』において紹介されている他県(「備前 周辺の諸窯」〈桂又三郎氏担当〉・「播磨の諸窯」〈青木重雄氏担当〉・「 備後・安芸の諸窯」〈村上正名氏担当〉)の作品の数°yび種類≠フ 豊かさ〈特に、「備後・安芸の諸 窯」の、それも「姫山」・「洞山」・「岩谷」・「宮島」・「江波」の場合 〉に対して 、「周防の諸窯」の作品の場合は、その多くが「山 口県立山口博物館」所蔵の「作品」〈全作品の63%_の内、43%_〉か「岩国徴古館」の「作品」〈全作品の63%_の内、11 点〉ですので質=E量≠ノおいて問題がありま すが、「山口県立山口博物館」所蔵の「作品 」に限定しても、「戸田焼」以外の「作品」には、 意欲的≠ネものがあるだけに、 「戸田焼」においても、私の所有している「作品」の、寄贈を受け入れ ていただけないかと、検討をお願いして帰ったのですが、既述のようなワケで、「周 南市立美術博物館」に、「寄贈」を受け 入れていただけることになりました。

ここで是非とも押さえておきたいことは、
@ 父=英男「山口県立博物館」に関与する「昭 和23年」以後に、収集された「作品」は、1点もないという ことです。収集された時期は、ここにある「写真」でも確認 できますが、いずれも、「大正6年」以前なのです。
ツマリ、「博物館」にある「戸田焼」の「作品」の収集には、父は関与 しておらず、大正6年以前≠ノ、「博物館」の「職員」であった 人物によって、客観的≠ノ収集されたものだということです。
A 「山田家本屋」の「ショーケース」に筆字の「解説」とと もに展示されている「戸田焼」の最盛期だという大力伝吉 氏の「作品」に類似した「作品」は、1点もないということ、そして、 我が家の「作品」とほぼ断定できる「作品」は存在しているという ことです。
[参考]
(大力傳吉氏は、 明治参年八月拾五日祐藏・セイ二男として生まれ、昭和弐拾九年参月拾九日 に亡くなられています。
「山田家本屋だより」第5号によりますと、明治38年 (35歳前後)に山田の窯にやってきて、赤土を使ってなまこ(火鉢) や大きな花瓶などを焼きましたとあります。
「戸田焼」の最盛期を担ったという大力氏の「作品 」らしきものが、1点も収集されていないということは、不思議と しかいいようがありません。)


 なお、『日本やきもの集成』の中の「写真 」を「スキャナ」で取り込んだものと、私の撮ったものを、敢えて&タべ て示して置きます。
『日本やきもの集成』の中の「写真」は、ここに「スキャナ」で取り込 んだ「写真」とはかなり違っているのですが、『日本やきもの集成』の ママでも、どれも実際とはかなり違っており、現物は、どちらかと いえば、ここに示す私の撮った「写真」の方が実際の色≠ノ近い といえます。(不明≠フ「花瓶」は当然、除きます。)  
手続きを踏めば、親切に対応していただけることとて、機会があれば、 是非、「博物館」を訪れて確認していただければありがたいと思います。


〈注記〉 作品番号≠ヘ、私が便宜上、勝手につけたもので す。







『日本やきもの集成』では、上の「3作品」は、まとめて「下の写真」のように撮られています。
これらは、「博物館」の整理ラベルには「茶碗」、『日本やきもの集成』には「汁椀」とあります。
[左=作品番号1=n=径(10.0p)高さ(6.0p)
「中央=作品番号2=v(中に2つのラベル)=径(10.8p)高さ(5.8p)
「右=作品番号3=v(中に1つのラベル)=径(10.4p)高さ(6.0p)と、
いずれも、小さくて、「小鉢」といった方が適当かと思われる大きさです。

「右」の「写真」の二つの「茶碗」は、厳密には少し、大きさが異なりますが、手作りであるがゆえの違いであって、同じ「作品」と思ってよいと思います。

「山口県立博物館」の「ホームページ」に「紹介されているのは、≠フ「作品」です。



 ↑ 「染付 汁椀 高さ6.0p」と一括して記さ れています。  〈右側に折り目があるため、「スキャナ」がうまくいかず 、右側の汁碗はいびつ≠ノなっています。〉

 

この「写真」は、「山口県立博物館」所蔵 の「作品」が我が家のものであるかどうかを確認する比較資料≠ニして持 参した「皿」を挟んで撮った「写真」です。(こ の「皿」は、上に「皿 その3」としているものの一つで、 「山口県立博物館」 「所蔵」されているものではありません。)


最初の「整理」の時と思われる年月日が「ラベル」にあり、そ れに、[大正06・11・12]とありますので、「皿」の制作とは、1 0年以上≠フ隔たりがあるのですが、比較してみて、我が 家の「作品」と認めてよいと思いました。


参考
大正≠ニあるように、「山口県立博物館」にある「戸田焼」の所 蔵には、父=英男はタッチ≠オていません。なお、この「平凡社」 『日本やきもの集成 9』の135頁≠ノ「高森皿山焼陶片」の写真 がありますが、その陶片に貼られているメモ的 ラベルの文字は、間違いなく、父=英男のもので す。











「博物館」にある、これら「3作品 」の内側≠ヘ、ほぼ同じですし、「我が家」に残っている「左」の「碗」( ツマリ、「山口県立博物館」の所蔵ではありません。)の内側≠焉A同様 です。
残念ながら、現在は、汚れた碗≠ェ、残っているに過ぎませんが、こ の売り物にならない「碗」が残っているということ は、「上」の「皿」以上に、「博物館」にあるものが、我が 家の「作品」であることの、証拠と言えると 思います。

「博物館」が、蒐集した時期と思われる大正6年11月 の頃は、間違いなく「戸田焼」の「作品」と言え ば、我が家の「作品」だったはずです。
それなのに、具体的な「作品」は示さず、文字だけで済む 、 「村役場」が 関与≠オたと思われる大正13(1924)年5月刊『都濃郡誌』は、殊に陶器は戸田焼と称し有名なりとし ながら、
左に其の沿革及び現下の状況を略記す として、そこに記されるの は、「我が家」のことは、一字≠煖Lされず
山田靭臣弱年の頃(文化年間)堅田氏に従ひ長州萩に至り松本 焼を見て職工を雇ひ竈を築き自ら上絵を書き磁器を製造せり後にこれを永田 某に託し専ら日常の品を焼き堅牢なるを以て名あり 大正七年靭臣の孫稔之亟竈を改築し陶器を焼き現今は火鉢花瓶 等を盛に製造しつつあり≠フように、書いている のです。

もし『都濃郡誌』の記述が正しい≠フなら、ど うして、「我が家」の「作品」が「博物館」に、「戸田 焼」として、蒐集されているのでしょうか。
我が家が、「博物館」とささやかな関わり≠持つのは、父=英男が 、「山口県教育庁社会教育課」の「主事」として、着任した[昭和23 年]以後のことで、我が家の変な働き≠フ如きものは、ありえません 。
小川五郎氏?の「調査」といい、「ふるさとの文化財」 (「西徳山農事放送」)の田中義春氏といい、実際≠ノ、「 作品」を見つめた方には、「我が家」こそ「戸田焼」の中心 であったことが、わかっていただけているのです。





左」=「盃?=作品番号6=v  径(10.6p)高さ( 2.4p)の高さの低いもの  「城」という文字が、中に1ヶ所のみ記されている。
右」=「小鉢?=作品番号7=v  径(10.4p)高さ(5.5p)  「山」という文字が、側面に1ヶ所のみ記されている。



 『日本やきもの集成』の「写真」。

「左」は「皿と向付」とあり、「左」の皿≠フ径は、10.7p とあります。「右」の向付≠フサイズは記されていません。