古代文学への誘い                             backindexnext

 


文学の基本構造

 

  古事記の中にこんな話があります。

 

  奈良の三輪山の麓に活玉依(いくたまより)毘売(ひめ)という美しい女の人がいた。そこに夜な夜な通ってくる美しい男があった。しかし名も素性もわからなかった。父母はいぶかしんで、男が帰る時に糸を付けた針をそっと着物に刺して、明るくなってから糸の後を追っていった。すると、なんと三輪山の神の社の前で終わっていた。夜な夜な通ってきていた男は実は、三輪の神だったのである。

 

  というような筋です。三輪式神婚説話と呼ばれているこの話は、様々な形で展開して行きます。今昔物語に次のような話があります。

 

  ある所に美しい娘がいた。そこに夜な夜な通ってくる美しい男があった。しかし名も素性もわからなかった。父母はいぶかしんで、男が帰る時に糸を付けた針をそっと着物に指して、明るくなってから糸の後を追っていった。すると、糸は裏山の蛇の穴に入っていた。夜な夜な通ってきていた男は実は、裏山の蛇だったのである。

  蛇の穴からううんううんとうめき声がする。父母はなんだろうと耳を傾けると、針を刺された若い蛇がうめいていた。「だから、人間の所なんかに行ってはいけないと注意しただろう。」

  蛇の親が話した。

「だけど、あの娘には自分の子を宿してきた」

若い蛇が答えた。

「人間は賢いから、五月五日に菖蒲の入った風呂に浸かったら、全部出てきてしまうことぐらい知っているよ。」

親が言った。

  それを聞いた娘の親はたまげて、いそいで風呂を沸かして菖蒲の葉を入れ、娘を浸からせた。今も五月五日の節句に菖蒲湯をするのは、これが起源である。

 

  三輪山の話に似せてざっとあらすじを言うとこのようなものです。基本的には同じパターンになっています。ただ三輪の神が蛇に変わっています。これは「神の磊落」ということで理解されています。古くは神として尊敬されていたものが、様々な要因で邪悪なものにされて行くという原理があります。かつて河の神として尊敬されていた神がカッパになり、山の神であったものが天狗になったようなものです。蛇もその一つなのでしょう。

 

  さらに、賀茂伝説。葵祭りで有名な京都の賀茂神社の縁起譚です。山城風土記逸文にあります。

 

  玉依姫という美しい女の人が、川遊びをしていた所、川上から赤く塗られた矢が流れてきた。それを手に取って寝床の傍らに置いておくと、懐妊して男の子が生まれた。父は火雷神、子は賀茂別雷命である。

 

  古事記にも同様の話があります。

 

  セヤタタラ姫を見初めた三輪の大物主の神が赤く塗った矢になって、姫が大便をしている時に上流から流れてきて「ほと」を突いた。驚いた姫はその矢を持って帰って寝床の傍らに置くと、美しい男になった。その間に生まれたのがイスケヨリ姫で、後に神武天皇の皇后となるのである。

 

  丹塗矢伝説と呼ばれるもので、この話自身で一つの意味があるのですが、大きな筋として神が女の所に行って子どもを生むという形になっています。

  この形は、神迎えをする巫女のパターンと同一であると言えます。古代の神事は、神の降臨を憑依が受けるという形でしたので巫女が神を迎える役割をしています。現在でも祭礼の中心になっています。有名な沖縄の久高島に伝わるイザイホーという祭りでは、島の女たちは、祭りの時は、全て神迎えをする巫女になり、古代の祭りの姿を残していると言われています。

  古事記や風土記に載せられている話自身が文学とも言えますが、古代文学の基本的な構造になっていると言ってもよいでしょう。同じ構成でよく知られているものに他に七夕伝説があります。

  七夕というともともとは中国のように感じますが、それで誤りはありません。しかし日本にも「タナバタ」という言葉はあったようです。

 

(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の (うな)がせる 玉の御統(みすまる) 御統に 穴玉はや み谷 (ふた)渡らす 阿治(あぢ)志貴(しき)(たか)日子根(ひこね)の神ぞ。(記歌謡  6

 

  アジシキタカヒコネの神の名前を讃美する歌謡ですが、ここに「弟棚機」という言葉を見出すことが出来ます。この歌謡はかなり古いものであり、七夕行事が中国から日本に入って来る前の歌だと考えられていますので、本来からある言葉だということになります。

  本来「タナバタ」とは、機織り機の支柱のことを指していた言葉であり、機を織りながら川の向こうから訪れる神を待っていた巫女のことを棚機つ女と言ったと解説されています。

  中国の七夕はそのまま読めばシチセキであって、本来揚子江支流の漢水地方に伝わった牽牛織女逢会伝説であり、乞功奠(きっこうてん)の行事を伴ったものであったようです。乞功奠の行事とは、七月七日の夜に棚に瓜や果物などとともに、女子が針を供えて裁縫の技術達を天の織女に願う行事だったようです。それが日本に入って宮廷行事となっていったと考えられています。現在でも北家藤原氏の流れを汲む冷泉家における乞功奠行事などが知られています。

  もちろん行事とともに七夕伝説も日本に入って来ました。本来は漢水地方の河の女神であった織女があまりによく働くので天帝が褒美として牛飼いを紹介した。ところが今度は遊び惚けて天帝を怒らせ、牛飼いを川向こうに追いやって一年に一度しか逢わせないようにしたという話だったようです。

  日本に伝来してきて七夕行事とともにこの話も知られるようになり、主人公が織女であったこともあって、棚機(たなばた)と習合したようです。その結果、たなばたを七夕とも書かれるようになりました。

  もとへ戻って、本来の七夕は、川向こうの神を迎える織女が原型だとすると、今まで見てきた三輪山神婚説話などと基本的に変わりません。

  また通い婚社会であったこともありますが、万葉集では女の人が夕方になって通ってくる男を待つという歌が山ほどあります。文学の構造原型の一つになっていることは確かでしょう。

 


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