平城京概説

 

はじめに

 

  和銅三年(西暦710)に、大和北方の地奈良に新しい都が造営され、時の元明天皇はもとの藤原京から遷り住みました。平城遷都です。九条九坊の大路で構成された約四キロメートル四方からなる京域とその北に皇宮や役所を配した平城京は、その後延暦三年(西暦784)に桓武天皇によってさらに北の長岡に都が遷されるまでの間、一時期都を廃されたことがあるものの、七代の天皇による約70年間、政治の舞台となりました。

  平城京は唐の都、長安をまねて作られたと言われています。また聖武天皇による国家仏教奨励もあり、数多くの寺院が建立されました。

  ここでは、そうした平城京の状態を概説し、万葉集後期の歌人たちの生活の場となった環境を説いていこうと思います。

 

平城遷都の理由

 

  平城京に都が遷されるまでは、大和平野の南の地、明日香の北に藤原京が営まれていました。藤原京は、明日香浄御原宮時代に天武天皇によって計画されていた都城ですが、皇后が即位した次の持統天皇に代になってようやく完成を見た都でした。

  天武天皇の時代までは、一代一都制で天皇の代ごとに場所が移動していました。都というよりも天皇の住まいである宮で政治が行われるという体制であると言った方が正確かも知れません。政治を動かす高位高官は、大和を中心とした有力な豪族層であり、彼らは普段は本貫地と呼ばれる支配地で生活をしていました。そして政務のある時に皇居である宮に登るという体制でした。

  しかし隣の中国大陸や朝鮮半島はとっくの昔に確立した律令制度のもとに大規模な都が形成され、商業都市としても発展していました。大化改新以来先進的な大陸の国家体制である律令制度の整備に心血を注いだ天武天皇は、都の整備も中心課題の一つでした。そこでそれまで宮が置かれていた明日香の北のまとまった地に都を造ろうという計画になったのでした。

  都はそれまでの宮を中心とした形とは異なり、天皇ばかりでなく、朝廷に仕える人たちや役人、その家族までもが一つの町に住むという形をとります。いわゆる都市が形成されるわけです。従って自給自足中心だった当時の生活様式がわずかながらも消費型になり流通経済が派生します。彼らはそれを認識していたかどうかはわかりませんが、とにかく先進国である中国の都の形を取り入れて、朝鮮半島の外国使節たちにも日本の国威を見せたかったというのも事実でしょう。

  というわけで、藤原京の造営が行われたわけですが、なにぶんにも彼らは中国の本物の都を見たわけではありません。というのも遣唐使は天智八年(西暦669)を最後として中国に派遣されていないのです。彼らは周礼などの中国の書物を参考にして都の建設を行ったようです。

 

藤原京と長安

 

  ところが30年ぶりに遣唐使が派遣されました。大宝二年(西暦702)に帰国した彼らは中国の長安の都を目の当たりにして帰ってきました。帰ってきてわかったのは、長安を手本にして造られたはずの藤原京は、ずいぶんと本家長安とは異なった貧相な姿でした。

  時がたって今、藤原京は、かつては大極殿の場所すらもわかりませんでした。昭和三十二年に奈良県立橿原考古学研究所が大宮土檀と呼ばれていた場所を発掘調査した結果、初めてここが藤原京大極殿のあった場所であると認められました。それから徐々に発掘調査が行われましたが、当初研究者の間では、この長安の都を手本にしたという先入観が支配的でした。つまり皇宮は都の北に位置し、平坦な場所に南面して造られるはずであるという考えです。そこで発見された藤原宮を中心として、北は横大路と呼ばれた西は大阪、東は伊勢に向かうライン、西は下つ道である畝傍山東方のライン(どうやら見瀬丸山古墳を基準にしているらしい)、東は中つ道になる香具山山頂を通るラインを京域であると推定されました(旧京域  図参照)。しかしその後、とんでもない場所から次々と都大路跡らしい道路や側溝が発掘されました。その結果、当初考えていたよりも倍の京域であることがわかり、次第に藤原京の全体像が明らかになってきました(図)。

 

なんだか違う

 

  現在考えられている藤原京は、図で示しているとおりですが、長安とは大きく違います。まず、先ほども言ったように皇宮が都城の北にあり南面しているのが長安ですが、藤原宮は都の中心に位置します。これはおそらく周礼の天子畿内説を拠り所にして造られたために天子の住居は中央であるという想像のもとに造られたためであると考えられます。

  また長安は京域全体の地盤が北から南に向かって低くなっています。南には黄河が流れている地形を考えてもわかるでしょう。しかし藤原京は大和平野の南に位置しますので、飛鳥川が北流しているように、南から北に向かって低くなります。従って皇宮に排水や汚物が流れ込むという実態が考えられます。

  それに長安は、朱雀門から南の明徳門まで大路が延びています。しかし藤原京は朱雀大路がすぐに丘陵にはばまれる地形になっています。実際には切り通しで南に道路が造られたものの、すぐに飛鳥川が横切っています。つまり都のメインストリートとしてはずいぶんと貧弱な形です。また道路幅も25m70尺)しかなく、長安に比べてずいぶんと貧相な姿であると実際に長安を目の当たりにした人たちは思ったでしょう。

  また長安はその地形上、外国使節は黄河沿岸から南の明徳門を入り、北上して皇宮に行くという経路になりますが、藤原京は西の横大路から入り、外国使節は西中央部からの入京になります。これでは天子南面して臣下と接するという考えに合わなくなり、国威を示すことが出来ません。

  従来は、大宝令にもとずいて官衙(役所建物)を整備するにあたって手狭になったためと言われていましたが、それだけではなく以上に述べてきたことの方が遷都理由の中心だったかも知れません。そこでたった二代で藤原京は棄てられてしまったのでしょう。

 

平城京の規模

 

  元明天皇を中心とした朝廷の人たちはそうした思いの中で、思い切った計画をたてました。彼らが育ってきた明日香や藤原の地を棄てて、条件に合う場所に都を建設するために、大和国北方の奈良の地を候補に上げたのです。

  ここは大和平野北方に位置し、北は佐保丘陵が広がり、佐保川が斜めに南流する北高南低の土地です。そして東は春日山地、西は生駒山脈に囲まれた盆地になっています。

  彼女は何度か視察を実施して、この地に新しい都を建設すると判断しました。遷都の詔勅にあるように四神図にかなう天子居住にふさわしい場所として認めたようです。東の春日に青龍、南には朱雀、西の生駒には白虎、北には玄武が守り、気の合一する場所が平城宮であると言われています。

  これは想像ですが、平城京の地割りは次のように行われたのではないでしょうか。

  まず、神の山である御笠山山頂から生駒山山頂をつなぐ線が都の東西の基本線となります。そして藤原京から伸びる下つ道の延長を都の南北の中心線、朱雀大路とします。そして中つ道を東の境界線にします。そして京域全体を縦、横8区画に割りますので、中心線と東境界を4区画にします。その1区画分の距離を南北に等距離に区割りして、正方形になるように横の大路を立てます。その結果平城京の区画が完成します。

  もちろんこれには大陸の測量技術が用いられたのでしょう。ただ実際には、西は矢田丘陵になっていますので、西京極大路(西四坊大路)は造られなかったでしょう。また北域は一条文付け加えられています。そして何よりも前後の都城にはない東張り出し部分が付けられています。現在の奈良市の旧市街にあたるこの東張り出し域が何故付けられたのかは不明です。ただ想像出来ることは、この中には北に佐保郷、中央付近は春日郷になりますので、古くからの居住地になっており、郊外に出すよりも京域として取り込んだと考えられることです。

 

 

 

 

 

大路の規模、形態

 

  藤原京二条にあたる下つ道が平城京の南、九条大路に至りつく場所に羅城門があります。都城の入り口です。中国の城郭都市をまねたために実態と合わず、平野の真ん中に大きな門だけが屹立している姿は異様だったかもしれません。ただ門の前は佐保川が東西方向に流れており堀のような景観になっていただろうと想像出来ます。門の左右はどこまで続いていたかどうか不明ですが、一応壁で仕切られていたようです。

  この羅城門を北に入ると朱雀大路になります。朱雀大路は幅74mあり、平城宮朱雀門まで約4km近くの長さになります。現代のジャンボ機でも着陸可能と言います。左右には側溝があり、柳や槐などの街路樹が植えられていたようでした。ここを唐や新羅の外国使節が通ることになります。

  しかし大路の幅は場所によりまちまちのようでした。平城宮の南を東西に走る二条大路は幅36mあるのに対して、他の大路は、24m16m14m13m9mと様々な幅になっています。そして道の両側には側溝があります。しかしこの側溝も幅や深さは場所によって様々です。七条東一坊大路の東側溝は幅3m、深さ0.25mであるのに対して、西側溝は幅8m 深さ1.6mあります。また八条西一坊中央坊間路の東側溝は幅1.0m、深さ0.3mなのに対して西側溝は、幅5.5m11m、深さ1.5m1.7mあります。

  それに左京二坊には佐保川を改修した幅10m以上になる東堀河が南流していますし、秋篠川が右京西一坊大路を西堀河として流れています。

  それに対して橋がかけられていますが、必ずしも全部ではなかったようです。例えば二条大路東一坊大路西側溝には幅13.4m、長さ3.8mの橋がかけられていたようで、擬宝珠も出土していることから欄干もあったと推定されますが、朱雀大路の左京三条条間北小路の東側溝4m幅や、右京側三条条間南小路西側溝3m幅には橋の形跡はありません。治安上のこともあったのでしょうか。それにつけても思い出されるのが次の歌です。

 

佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか(04/525

 

  坂上郎女が藤原麻呂に対して答えた歌の一つですが、佐保川を渡るとあります。文学的表現での虚構とも受け取ることの出来るものですが、大路には場所によっては橋がなかったという考古的結果と合致しているとも言えます。

  また坊を取り囲む築地塀などもあったようですが、これも京域全体に及んでいたかどうかは不明です。

  そして、平城宮東院東側の東二坊坊間路と東院南側二条条間路北側溝のすぐ北側に東西方向に掘っ立て柱の塀か冊と見られるものが出土しています。ここは北に向かって藤原不比等の邸宅(後の法華寺)と平城宮東院との間の道路になりますので、治安上時間によっては通行止めになっていた箇所かも知れません。律令に

 

 夜鼓から暁鼓までは、公使、婚嫁、喪病のような正当な理由以外は通行禁止(宮衙令分街条)

 

のように通行禁止の条がありますので、それを裏付ける結果になっています。

 

この坊間は、道路中心線で533m間隔で大路が配され、その間を四等分した三本の小路が走っていました。従って大路で囲まれた四角形は一六分割されることになり、それぞれを坪と称していました。坪数については図のような数え方になっています。また一坪は貴族の邸宅などで覆われる以外は、さらに16分割されます。そして住居表示はこの坪数で行われていました。例えば二条東一坊五坪といった感じです。しかし万葉集にはこういった言い方は一言も出ていなく、「菅原里」とか「坂上里」といった旧里名がそのまま使われています。ですから一般的にはお役所的な住居表示が普及していたのかどうか疑問です。

 

宅地班給

 

藤原京(持統512月)

右大臣(二〜三位)

4

直広弐(従四位以下)以上

2

直大参(正五位上)以下

1

勤(六位)以下無位以上

上戸1

中戸1/2

下戸1/4

  こうした都の地割りに対して、朝廷に仕える官人たちは、位階によって広さは異なりますが、住宅地の班給がありました。平城京の場合の程度はよくわかっていませんが、藤原京の資料がありますので、だいたい同程度のものかと思われています。それが右の表です。

今から見ると広くってうらやましいですね。大貴族はともかく中下級官人たちは、庭を畑にして生活の足しにしていたといいます。今のような水道設備もありませんから、井戸も掘られていたことでしょう。また畑で屎尿処理も出来ます。井戸の横で屎尿を撒くというのもどうかと思いますが、当時のことです。

  ただし宅地班給は、位階が上昇した場合、それに見合う宅地に転居したのか、売買が自由なのかはよくわかっていません。

 

都の人たち

 

  都には、こうした官人以外に僧尼、商工業者、奴婢、元来平城の地に居住していた人たち、地方からの上京者などで構成され、その人口は約一〇万人ぐらいと考えられています。特に地方から上京してくる人は、番上官と呼ばれる交代制で兵衛や舎人にやる役人、祖や調といった税金を納めに来る運脚がいて、特に運脚には各国の調邸と呼ばれる宿泊施設があったようです。ただ帰国も旅費は自前ですので、帰国出来ずに浮浪人になったり、寺院や建物の建設人夫になり都に居着く人も大勢いたようです。

 

寺院

 

下にまとめたように、大きく分けて飛鳥からの移設と新設になる。そして奈良時代後半にも創建されているので、現在の道路のように 絶えずどこかで建設工事があったということになります。

 

飛鳥からの移設    薬師寺     養老二(718)薬師寺縁起

                             霊亀二(716)境内出土の木簡  このころから工事か

                    元興寺   霊亀二(716)続日本紀   大安寺のことか? 大安寺はその後天平十四(742)金堂 天平十九(747)塔院以外の完成

                             養老二(718)続日本紀   法興寺(飛鳥寺)を遷す

                    興福寺   和銅三(710)興福寺縁起

                             養老四(720)続日本紀  造興福寺仏殿司(北円堂か中金堂)

 

新設寺院            東大寺   天平十七(745 発願  前身金鐘寺

                             天平勝宝四年()完成(大仏開眼)

                    法華寺                   不比等邸を死後、光明子が施入

                    唐招提寺 天平宝字三年(759 新田部皇子邸を鑑真が開基

                    西大寺   神護景雲元年(767

                    西隆寺   神護景雲元年(767

                    佐伯院(香積寺) 宝亀七年(776

 

 こうやって見ると、今の奈良の観光の目玉は最初からあったのではなく、都の間に何年かかけて姿を現したということになります。春日大社も奈良時代終わりの創建ですから、奈良遷都の時は何もなかったわけです。

 

平城京での生活

 

  官人を中心にその勤務状況を追ってみます。まず平城京の朝は早い。現在の午前三時(寅の一点)に平城京諸門が開く第一開門鼓がなります。続いて午前六時半(卯の四点)に大極殿や朝堂院の南門である大門開門の知らせ(第二開門鼓)が鳴ります。官人たちは第二開門鼓までに出勤して、朝堂院にはいる大門の開くのを待つ。

  そして、正午頃に退朝鼓が鳴り大門が閉まります。通常勤務時間はここまでとなります。しかし公式令京官上下条には、

 

  凡そ京官は、皆開門の前に上(もう)で、閉門の後に下(さが)れ。外官は、日出て上で、午の後に下れ。務(つとめ)繁くは、事を量りて還れ。宿衛の官は、此の例に在らず。

 

  とあり、外官(舎人や衛士等)の例ですが、残業がある場合はそのまま仕事をしたようです。そして宿直もあります。

  後、特筆出来るのは、律令に

 

凡そ在京の諸司には、六日毎に並に休仮一日給へ。中務、宮内、供奉の諸司、及び五衛府には、別に仮五日給へ。百官の例に依らず。五月、八月には田仮給へ。分ちて両番為れ。各十五日。其れ風土宜しきを異にして、種収等しからずは、通ひて便に随ひて給へ。外官は此の限りに在らず。  (仮寧令)

 

  とあり、農繁期には領有地に行って農事に従事するということが認められていたようです。天平時代といっても、その辺りは前時代性を引きずっていたと言えるでしょう。万葉集にも、

 

    ももしきの大宮人は今日もかも暇をなみと里に出でずあらむ(06/1026

    ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてここに集へる(10/1883

 

とあり、この暇とは、法律で認められた休暇であると考えられます。

 

 

平城京には、東西それぞれに官立の市が設けられていました。市は午の刻(午前十一時)に開かれ、日没に閉じられたようです。東西の市司によって管轄され、市の中は肆(いちくら)と呼ばれる店が多くありました。絹肆や布肆などと書いた資料がありますので、それらの店は専門店であったようです。これらの市で商売をしていたのは、市人とよばれる商人です。

  官人たちの給料は、いはば現物支給になります。季録という現在のボーナスのようなものが主要な給料ですが、それらはアシギヌ、綿、布といったものです。それを生活の糧に替える必要があります。そこで市が必要となったわけです。

  市で様々な物品の交易が盛んになると、まず必要になるのは物資の運搬です。しかし現在の運送業とは異なって、荷車を所有する豊かな人たちと車を動かす人とにわかれていたことです。牛馬の使用は都の中ではまだ形跡はありません。運送賃が車代と労賃に別れていることがわかります。

  このようにみると、都は天皇を頂点として皇族、貴族、官人、僧尼、商人、職人、人夫、農民、浮浪者とさまざまな階層の人たちが一同に暮らした町であって、古代としては初めての都市が形成されていたということが言えます。同時にそれは衛生観念の未発達なこともあり、下水対策もなされていない都市形成であり、大路の側溝は汚水が流れ、異臭がたちこめていたということも想像に難くありません。

 もし将来平城京ツアーなどというものが出来るとするならば、病気対策はおろか、相当の覚悟と度胸がいりますね。

 

平城宮

 

羅城門から朱雀大路を北上して二条大路の交差点に来ると、朱雀門にぶつかります。平城宮の正門です。ここから北の広大な区域が平城宮になります。平城京の中心建物である 大極殿、朝堂院は、その遺跡から朱雀門から東に少しずれた所にあると考えられていました。しかし朱雀門の中心線上にも大極殿の存在したことが発掘によってわかってきました。その結果、平城京には二つの大極殿、朝堂院があるという不思議なことが知られてきました。当初は、聖武天皇の時の恭仁京や難波京遷都の時の立て替えと思われていました。ですから朱雀門中心線上の建物を第一次として遷都時のもの。東にずれたものを第二次として奈良還都以降のものと区別されていました。現在でもその名称が使われています。しかし、第二次大極殿の下層部分に遷都時のものと思われる掘っ立て式の柱跡が見つかりました。その結果、遷都時から二つの建物は存在していたと考えざるを得なくなりました。もっとも第一次大極殿は宝亀年間(715年)に完成したようで、第二次の掘っ立て式の建物を先に建てて大極殿の機能を持たせ、第一次大極殿の完成後に機能を分けたようです。

  そうすると疑問になるのは、なぜ同じ機能を持つ大きな建物が二つもあったかということです。そこで考えられるのは長安の様式です。長安には中心建物として太極宮太極殿がある一方で、西に大明宮含元殿があります。どうやらこの形式をまねたようです。第一次大極殿は、元日朝賀や即位式、外国使節謁見といった儀式に用いられ、第二次大極殿の下層建物は、日常の政務の空間かと考えられています。

  ちなみに第一次大極殿は、恭仁宮に移築後、山城国国分寺の金堂となり、鎌倉時代に戦火にあい、現在蟹満寺の本尊丈六釈迦如来像を残して消失しています。平城還都後、第一次大極殿跡に、長安大明宮の鱗徳殿を模した楼閣建物が建てられ、饗宴の区画となり、後の平安京豊楽院の原型とされています。また同じ頃に第二次大極殿は礎石建物に改築され、大極殿の機能を持つようになりました。

  内裏を一番北にして大極殿、朝堂院という南に配するという構成は、前時代の藤原宮に見ることが出来ますが、それ以前の浄御原宮にその原型を確認することが出来ます。最近になって浄御原宮は、中心建物の東南側にエビノコ郭と称される建物が存在していたことが確認されました。中央に正殿があり南北に長い建物が延びている構成になっています。この構成は北から天皇の住まいである内裏、儀式の時に用いられる大極殿、それから日常の政務の場所である朝堂という構成であると認められ、朝廷機構の複雑化とともに朝堂が追加されたことを示しています。

  平城宮の、中心建物は、このように南から朝堂院、大極殿、そして第二次大極殿の北に内裏があります。その周辺を役所の建物が取り囲んでいました。そして東端には東院建物のあったことが知られています。東宮としての機能を持たせたこの宮域は、皇太子不在の時は天皇の宮内離宮として用いられたようで、奈良時代の終わり、光仁天皇の時に改造して柳梅宮となりました。

 

平城宮の保存

 

  明治の頃、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大)で建築学の教授であった関貞一は、平城宮跡と伝えられていた田圃の中を散歩していて、百姓さんたちが大黒様と呼ぶひときわ盛り上がった丘のような土地があることを見つけました。そして大黒様というのは大極殿のなまった言葉ではないかということに気が付きました。さっそく調査した彼は、予想通りその丘は大極殿の基壇であることがわかりました。当時は、江戸時代に奈良町奉行であった松浦   の平城宮図があるだけで、実際にはどのあたりになるのかはまったくわからない状態でした。

  大極殿の発見によって周辺が調査された結果、その南に朝堂院のあることが知られました(現第二次大極殿、朝堂院)。そうした中、奈良の植木職人であった棚田嘉十郎は平城宮の保存運動に乗り出しました。当時は大極殿周辺は一面が田圃でした。そしてこの保存運動が一気に盛り上がったのが近鉄電車の車庫問題です。

  当時大阪軌道鉄道と称していた近鉄電車は、奈良大阪間の鉄道敷設にあたり、尼ヶ辻町の反対にあって西大寺町にそのルートを修正し、 平城宮の南を横断する形で鉄道建設を行いました。地下遺構を破壊しないためにも敢えて地上を走らせる形にしました。そうした中、西大寺駅南に車庫を造る必要性が起こり、平城宮西南の一画を候補地に掲げました。その反対運動の中で、奈良国立文化財研究所は国と協議の上、平城宮の全面土地買収と保存を決定しました。

  また、昭和39年に奈良市内を走る国道24号線のバイパス道路建設計画で平城宮を横切るルートのために発掘調査を行ったところ、平城宮は方形ではなく、東に張り出していることがわかりました。現在の東院庭園がそれにあたります。そのために現在の国道24号線バイパスは、この部分で東に大きく迂回するルートになっています。

  このような保存努力の結果、平城宮は奈良国立文化財研究所の発掘調査が進展する中で、平成10年の朱雀門の復元、奈良遷都1300年祭に合わせた第一次大極殿の復元など、往年の姿を見せ始めて、世界に類のない史跡公園としての整備が進んでいます。

  また昭和42年に平城宮の一画にある井戸を発掘していたところ、木片に文字が書いてあるものが多数発見されました。木簡第1号の発見です。今は倒産した奈良そごうデパート建設に伴った発掘調査で大量の文字の書かれた木くずが見つかり、そこが悲劇の王、長屋王の邸宅であったことがわかったのは記憶に新しいことです。地方の国府遺跡からも相次いで見つかる木簡は、現在のコンピュータデータベースのような役割を持っていたと考えられ、記録、並び替え、不要になったら削って削除、更新の便に供されていたと考えられています。棄てられた木くずや木片は、地下水のために空気と遮断され、木も腐ることなく、墨が現代まで消えないで残りました。このことが当時の実情をありのままに伝えていて、往年の歴史を明らかにする一等資料となっています。

  奈良を訪れる機会があれば、古寺散策も重要なことですが、平城宮に足を運んでみましょう。近鉄西大寺駅から徒歩10分で平城宮資料館に行くことが出来ます。