有間皇子事件とその歌

 有間皇子は、系譜によると孝徳天皇と阿倍倉梯麻呂の娘小足媛の間に生まれ、皇位継承も可能な皇子である。当然皇后間人皇女の兄である中大兄皇子の警戒すべき対象となっていた。斉明天皇四年十一月に事件は起こる。有間皇子の薦めで斉明天皇が牟呂温湯(現在の和歌山県白浜温泉)に行幸の時、天皇不在の京において、蘇我赤兄が有間皇子に斉明天皇の失政を語り、有間皇子が謀反の意思を表明したと『日本書紀』にある。即刻有間皇子とその一党が捕らえられ、白浜に護送。有間皇子とその近習が藤代坂で処刑された。有間皇子は中大兄皇子(後の天智天皇)の尋問に「天と赤兄のみ知る。我もはら知らず」と答えたという。
 歌は、白浜へ行く途中にある岩代という場所で詠まれたものである。

  有間皇子自傷結松枝歌二首
岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む(巻二・一四一)
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(同・一四二)

 第一首目は、「岩代の浜松の枝を引き結んで無事を祈るが、本当に無事であったらまた戻ってきて見よう」という意味。枝を結ぶとは具体的にどのようにすることなのかはよくわからない。旅の安全や自分の生命の無事を祈る意味があったことだけは確かである。
 二首目は「家にいる時はきちんとした器で飯を盛っていたが、今は不自由な旅であるのでそこら辺りの椎の葉に盛ることである」と言ったもの。自分の食事のために飯を盛るのか、手向けの神に供えるためなのかは意見が分かれている。事件に引きつけて考えると、次に続く歌のような気持ちになる。

  長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首
  岩代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも(同・一四三)
岩代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ 未詳(同・一四四)
  山上臣憶良追和歌一首
鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(同・一四五)
 右件歌等雖不挽柩之時所作准擬歌意 故以載于挽歌類焉
  大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首 柿本朝臣人麻呂歌集中出也
後見むと君が結べる岩代の小松がうれをまたも見むかも(同・一四六)

 いずれもずっと時代が降った持統天皇の紀州行幸時に追懐したと考えられる歌である。長忌寸意吉麻呂は持統宮廷の宮廷歌人。山上憶良の歌はその長意吉麻呂の歌に後に都で唱和したものである。意吉麻呂歌は、「岩代の崖の松の枝を結んだという人は戻ってきてまた見たのだろうか」というのと「岩代の野の中に立っている枝が結ばれた松よ。その枝が結ばれているように心もうち解けないで、暗い気持ちのまま昔のことが思われてならない」という意味になる。「未詳」という脚注は意味が不明。憶良の歌は「鳥のように常に通ってきて見ている皇子の魂は人間は知らないだろうが松は知っているだろう」という意味になる。初句は難訓で定訓がないが、たぶん「鳥のように」の意味だと解せられる。
 そして持統天皇にとって二度目である大宝元年の紀州行幸時の人麻呂の歌「後で見ようと皇子が結んだ岩代の小松の梢をまたも見ただろうか」という意味。いずれも皇子の悲劇と結び付けて同情的な気持ちで歌われている。
有間皇子の結び松の歌が詠まれた時が、白浜への往路であるのか、帰路であるのかも不明。往路であるとすると再び見ていることになる。帰路であるとすると永遠に見ることはなかった。

 有間皇子が実際に謀反を計画したのかどうかは不明である。『日本書紀』は皇子の謀反を事実として伝えているが、肝心の自白については先ほども触れたようにあいまいである。状況的には父孝徳の亡き後、強い後ろ盾を失った有間皇子は、中大兄皇子に粛正されたという同情的見方が強い。中大兄皇子を中心とする体制に不満を持つ豪族たちに擁立されようとされた有間皇子が中大兄皇子に抹殺されたというのが実際の所であろう。有間皇子自身の考えはともかくも、その立場が招いた悲劇であると言える。

 ただし歌の詠まれた背景にこの事件が背景となっているかどうかはまた疑問の余地がある。有間皇子が最初に白浜に行った時のものであるとすると旅の寂寥感を詠んだものとも受け取れるからである。しかし『万葉集』の編纂者はこの歌は有間事件の時のものであり、この謀反事件を悲劇的にとらえて持統朝の頃に成立していたと考えられる歌物語の解釈により『万葉集』に収載したという考えがあり、その可能性は高いであろう。
<\body