宮廷の人麻呂 ―安騎野遊猟歌―

一 はじめに

軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌
やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 都を置きて 隠口の 初瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉限る 夕去り来れば み雪降る 安騎の大野に 旗すすき 小竹を押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて(巻一・四五)
短歌
安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに(同・四六)
ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し(同・四七)
東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(同・四八)
日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ(同・四九)


 軽皇子は、天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子の忘れ形見であり、自らの直系に皇位継承を望んでいた祖母持統天皇に皇位に即くことを嘱望されていた皇子である。しかし天武天皇には他に多くの有能な皇子がいて、持統にとってすぐに実現するには困難な政情であった。この歌の対象となった安騎野遊猟は、時期的には歌の内容から持統三年に軽皇子の父草壁皇子が薨去した直後のことと思われるので、持統六年から七年の冬であり、軽皇子が十歳頃のことであったと推定される。
 安騎野とは、式内阿紀神社が現存することから、現在の奈良県宇陀市大宇陀区あたりであると考えられている。この付近には中之庄遺跡があり、平成七年八月の発掘調査により天武、持統頃の掘っ建て式建物遺構が見つかっている。おそらくこの行宮を拠点にした遊猟であったと考えられる。藤原の都から当時の速さで言えば五時間ぐらいの場所である。

二 長歌の表現と「読み」

 この歌は、軽皇子一行が安騎野に行旅する様子を描いている。しかし主語は「やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子」と表現される。この語句は、この当時まとめられてきた天つ神概念に基づくものと思われるが、天照大御神を中心とする天神系の子孫としての概念を強調して讃美した表現である。
 そして「神ながら 神さびせすと」してその行動を描く。この表現も人麻呂の他の用例は、持統天皇、草壁皇子、高市皇子に対してのみ用いられているものである。
何よりも注目されるのは、「押しなべ」という表現である。険しい岩場や行く手をさえぎる木を押し靡かせて進んでいく様子を述べたものであるが、この行動表現は、『古事記』の言問う草木や荒ぶる神々を「言向け和す」ニニギの降臨伝承や神武東征伝承に見られるものであり、平定伝承を意味するものである。同じく人麻呂は「高市皇子挽歌」において天武天皇の行動として描いている。
 このことは、ニニギの中つ国平定や神武の東征といった征服に赴く姿と重なっており、天つ神の皇統を継ぐものの行動として描いていることがわかる。神武東征伝承においても、神武が吉野から忍坂に向かう過程で安騎野を通過している。従って、安騎野に行く主体は、神武や天武天皇、草壁皇子として複合的に読み取っていかなければならない。
 ところが最後で現実に戻るように人麻呂は描く。「旅宿りせす いにしへ思ひて」という結びは、急に現実に引き戻すためのものである。しかしこの「旅宿り」はかつて壬申の乱の折に安騎野に仮泊した天武天皇であり、かつて同様に遊猟に来た草壁皇子が行ったものである。従って「いにしへ」は、天武天皇と草壁皇子が重なった「時」であり、更に往古のニニギや神武の「いにしへ」であることを彷彿とさせる。

三 「短歌」四首

 人麻呂歌で用いる「短歌」という題詞は、長歌から発展させて独立したものという意味であり、長歌のまとめや内容の繰り返しである「反歌」とは異なる。いくつかの歌に人麻呂は用いており、意識した用法であると言える。従って、ここでの「短歌」四首も長歌から発展した形として起承転結構成になっているものであるととらえていかなければならない。
 一首目は、長歌の末尾を受ける形で、「いにしへ」が強調される。そしてその「いにしへ」とは二首目で「君」が同じく安騎野に来た時であり、その形見として軽皇子がいることを告げる。ただ長歌で見たように「君」とは父草壁皇子であるとともに、天武、神武、ニニギまで皇統を溯る「君」であることを暗示している。こういったつながりを考えると安騎野に来た理由は単に遊猟ばかりでなく、周の文王に倣った天子として祖先を祀る「郊祀」としての目的を持っている可能性はある。
 しかし三首目は、この形見は、現実の王としてよみがえることを意味している。東の野の陽炎は朝日そのものであり、その朝日が昇るのを見届けるかのように月が西に沈んで行く様子を歌ったものである。一般に叙景であるととらえられているが、人麻呂の時代はまだ叙景意識は成立していない。一種の比喩的な表現であり、月は父草壁を始めとした皇祖であり、朝日は当然のことながら軽皇子に喩えられている。これは軽皇子が新たに皇統を継ぐ者として新生することを暗示した表現であると見なければならない。そして四首目では、父草壁皇子に代わって軽皇子が遊猟の主人となることを示し、「君」の新たな復活であることで結ぶ。
 このように見る背景にこの四首には大嘗祭の祭式構造が見られる。大嘗祭とは天皇が皇祖ニニギ命と同化して神になる儀式であり、天武天皇の頃に成立したものであると考えられている。本来は新嘗祭として穀霊であるニニギ命に新穀を捧げる感謝祭として行われていたものである。それが一世一代の祭りとして皇統継承の重要な祭りとして調えられたのが大嘗祭である。
 大嘗祭は皇室の秘儀として不明な部分も多いが、卜定された悠紀と主基と呼ばれる田から収穫された新穀を新天皇が穀霊であるニニギ命と共食し、同衾して一夜を過ごし、皇統を継ぐ新たな天皇として復活する儀礼としてとらえて誤りはない。
人麻呂の「短歌」四首もこの構造に従うと、 一行は夜の野宿の中で父草壁皇子を思い出し、草壁皇子を思い出すためだとして安騎野遊猟の目的を説く。しかし一夜を過ごした明け方に草壁皇子に代わって軽皇子が新たな日並皇子として復活することを言う。最後にかつての日並皇子と同じく復活した軽皇子が遊猟を始める様子を述べて結ぶという形になっていることがわかり、軽皇子が父草壁皇子と同一人格化したことを強調しようとしていることがわかる。

四 まとめ

 このように安騎野遊猟歌は、軽皇子が父草壁皇子として復活することを説くことに中心があり、軽皇子が皇統につながる次期皇位継承者にふさわしい皇子であるということを強調することを目的として歌われたと言える。そのことが持統天皇の意にかなったものとして宮廷人たちに滲透させることがこの歌の目的だったとも言えよう。