「生」への未練 ―「老身重病経年辛苦及思兒等歌」

 憶良は晩年期に「老い」を嘆く歌を残している。

老身重病経年辛苦及思兒等歌七首 長一首短六首
たまきはる うちの限りは 謂瞻浮州人壽一百二十年也 平らけく 安くもあらむを 事もなく 喪なくもあらむを 世間の 憂けく辛けく いとのきて 痛き瘡には 辛塩を 注くちふがごとく ますますも 重き馬荷に 表荷打つと いふことのごと 老いにてある 我が身の上に 病をと 加へてあれば 昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし 年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ ことことは 死ななと思へど 五月蝿なす 騒く子どもを 打棄てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ(巻五・八九七)


 老いの愚痴のような歌であるが、共感の持てる歌である。老は人間として避けがたいことであるが、自分は老苦の上に病苦まで重なっている。いっそのこと死のうとも思うが幼子がいるので死にきれないと言ったものである。
 長歌は四段落から構成されている。まず一般的な「生」への願いを述べた部分が序論。そして生老病死の苦しみである世間の辛苦から逃れることを願う本論前段、しかし子どもへの愛着を示し、死の障害となっている心の葛藤を述べる本論の後段。最後に病死と生への希求にはさまれた迷いで終わる。
 この主題は、これに先立つ「悲歎俗道假合即離易去難留詩」と類似している。この詩も仏教的視点から生者の死を免れない無常を述べたものに見えながら、生への執着を主題とする。本文は長いので意味だけを紹介する。
仏教で説くように世の中の者は一つとして留まっているものはない。だから一瞬で人間も年老い、死を迎える。生を希求するが死もまた対になってやってくる。
 この内容は、世間無常の諦念を語っているように見えながら、生への執着を主題とする。病を嘆き、生に固執することを内容とした「沈痾自哀文」とも同じ主題を持っており、病から引き起こされた生への執念という感情と無常という思想性との狭間で揺れ動く憶良の気持ちを表したものである。
 反歌において彼は次のように述べる。
慰むる心はなしに雲隠り鳴き行く鳥の音のみし泣かゆ(同・八九八)
すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へどこらに障りぬ(同・八九九)
富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも(同・九〇〇)
荒栲の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべをなみ(同・九〇一)
水沫なすもろき命も栲縄の千尋にもがと願ひ暮らしつ(同・九〇二)
しつたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも
 去神龜二年作之 但以類故更載於茲 (同・九〇三)

 子どもへの愛情を示すのに富裕へのひがみの気持ちも入っているように受け止められる歌であるが、子どもの存在が死ぬことを躊躇しているかのような気持ちでまとめられている。憶良は「思子等歌」や「戀男子名古日歌(巻五・九〇四)」に見られるように子ども好きであったと見られているが、六〇歳を越えて幼な子がいるとは思えないことや、歌自身が思想的であるように見えることから、儒教的惻隠や仏教的愛子を主題とした歌を作っていて、その中に人間としての普遍的な子ども愛を込めているというのが実際の所であろう。
 世間の究極の無常は、この世に愛する者を残して死ななければならないということであり、仏教的無常の諦念ではぬぐいきれない未練を普遍的なものとして描いたのがこれらの歌である。そこに仏教や儒教を熟知しながら、極めて現実主義から来る人間感情をありのままに描こうとした憶良の人物像が浮かび上がってくる。
 憶良は儒教や仏教の思想への造詣が深いものの、自らの人生をその教えに従わせていない。「生」の絆を説く儒教は人間関係から苦しみを開放するところにある。個人の徳が社会的秩序を保たせ、それが争いから逃れる方法であるとする。また仏教も様々な因縁や無常の観念を説くことにより、生きる苦しみから逃れさせようとする。しかし憶良は子どもを愛し、家族を慈しみ、煩悩の中に生きている。そのような思想の根幹にある人間感情を そのまま訴えたのが憶良の文学であると言えよう。
次の歌は、憶良の辞世の歌とされているものである。
士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして(巻六・九七八)
 この歌は、士(をのこ)という中国の士大夫層の持っていた意識(江戸時代の武士道に近い考え方)を憶良は持っていて、名声を上げないでこの世を去る嘆きを歌ったものであるという解釈が一般的であるが、儒教書の一つ「孝経」に「名を上げ、功を為さざるは不幸の始まり也」という一節があり、憶良は親に孝行しないまま世を去ることを嘆いたものであるという考えが当たっているように思われる。しかしこれは憶良の「生」に執着する本質を儒教的な意味合いで飾ったものとも言える。憶良の本質は「生」に執着し、「生きる」ことを願うことであったであろう。そこには仏教や儒教を越えた人間としての命の本質があり、憶良はそのことを歌で訴えたと言える。
憶良に幼年期に師事したと思われる大伴家持が後年次のような歌を残している。
水泡なす仮れる身ぞとは知れれどもなほし願ひつ千年の命を(巻二〇・四四七〇)
 このことが端的に憶良の考えを伝えたものだと言える。そこには仏教に支配されない人間の「生」への希求があり、それが自然だと思えるからである。