伝承のうたびと ―雄略天皇―

『万葉集』は第二十一代雄略天皇の歌で始まる。

  雜歌
  泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇
  天皇御製歌
籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも(巻1・1)

 万葉集開巻第一の歌である。書物の巻頭にあるというのは非常に重用視されていたことを示している。
籠はまあ、よい籠を持ち、スコップはまあ、よいスコップを持って、この丘で山菜取りをしているお嬢さん。お家はどこ? お名前は?
空に生気が満ちているこの大和の国は広く見て自分がいる。総じて自分こそいるのだ。自分こそは言おう。家をも名前をも

という意味になるであろうか。後半部分は少し文字や訓読に異同があるが、だいたい同じ意味になる。
 素直にこの歌の意味を解釈すると、天皇が野山を歩いていて、山菜取りの娘に出会って声を掛けている様子である。 しかし古代では名前を聞くというのは求婚を意味すると言われている。とすると天皇が娘に求婚している場面を歌ったものということになる。いくら古代でも一国の王者が野山で庶民の娘に声を掛けるというのはあり得ない。しかし『万葉集』を編纂した当時の人たちは、本当のことだと思っている。また江戸時代の人たちも実際にあったことだと解説している。むしろ古代は、王も庶民も分け隔てなく話をしていた時代であると思っている。しかしそれはウソである。しかしその考え方は本当である。それは君臣和楽の思想を背景とした考えである。
 万葉集編纂の時代は、王と庶民が共に苦楽をともにすることが理想的であり、天皇に親しみを込めて讃美した歌が多くある。この儒教思想を背景とした考えが、この雄略天皇の歌にも当てはめられていたようである。だから万葉集巻頭に置かれた理由の一つにもなる。つまり、万葉集の編纂の時代は、雄略天皇の頃は、天皇が野山で娘に声をかけて求婚するというような理想的な時代だったという讃美を込めた解釈があり、巻頭にこのめでたい歌を置いたというわけである。
しかし、実態はそんなものではない。雄略天皇は倭王「武」として『宋書倭国伝』にも見えている五世紀中頃の実在の大王であるが、『日本書紀』に描かれている雄略像は残虐であり、専制君主として人々に恐れられ、君臨した様子が描かれている。「有徳天皇」として称えられている反面、「大悪天皇」として恐れられてもいる。確かに東は関東地方、西は九州まで統治した強力な大王は、絶対的でなければその力を集中することは出来ない。ただ『万葉集』の歌も含めて、これらの伝承はまだ文字のない時代であることを基本にして考えていかなければならない。文字は四世紀の初め頃に朝鮮半島の国、百済よりもたらされたと『日本書紀』には書かれているが、日本語の歌や文章を漢字で表記出来るようになったのは、早く見積もっても七世紀の中頃である。当然雄略天皇の事蹟や歌は長い間の口承伝承の期間がある。従って歌と実態の間には開きがある。『日本書紀』の実態も事実かどうかはわからない。これは磐姫皇后の歌も同様である。
このように実態と異なった君臣和楽の大王像として万葉編纂時に描かれるのは、天武天皇と重ね合わされているからではないであろうか。天武天皇も壬申の乱を勝ち抜き、天皇親政のもと、律令国家体制固めに強力な力を発揮した天皇である。しかも万葉集編纂時代の天皇は天武天皇の直系であり、雄略天皇の時代を讃美するということは天武天皇を讃美することにつながるととらえられる。従って万葉集編纂者は、天武天皇を讃美する目的で、朝廷に伝わったこの伝承歌を巻頭に置いたと考えられる。
この歌の実態は、野遊びにおける歌垣の歌であると考えられる。おそらくこの歌の原初的な場は、歌垣における妻問いの掛け合い歌であろう。それはこの歌が二段に別れており、中間に相手の歌が混ざっていたと思われる節があるからである。  この歌の第一段は、山菜摘みの娘に語りかける言葉である。そして第二段は自分が名乗る内容になっている。この一段と二段の間には娘の返答があったと想像される。想像でいうと以下のような形であろう。

男:よい道具を持ってこの丘で山菜詰みをしている娘さん。自分と結婚しませんか。
娘:私が言うよりも先に問いかけた方から名乗ってくださいよ。
男:自分はこの大和に住んでいるものだ。大和を支配しているものだ。さあ、私の素性を明らかにしたのだから次は娘さんの番ですよ。

とまあ、こんな感じである。
そうすると、もちろんこの歌を歌っているのは雄略天皇ではない。村の若者である。大和がまだ一村落の名称に過ぎなかった頃の野遊びの歌であろう。実際、現在天理市の南部に延喜式内大和神社がある。また、仁徳記歌謡に「小盾大和を過ぎ」という小地名としての大和の名前が見えている。
春になって当時は各地で行われていたと考えられる野遊びの行事が大和村にもあり、そこで行われた歌垣における若者の妻問い歌が原形態であると理解出来る。しかしこの歌は伝承されていく内に、単に村の若者の妻問いから大和の王者の妻問いとしての意味を持つようになった。それは「大和」が単なる村ではなくなったからである。大和王権の伸張とともに、大和村は現在の奈良県を指すようになり、さらには日本国を意味するようになってきたからである。当然、この歌の歌い手は、大和を支配する王者という再解釈が行われた。その時に作者とされたのが古代で英雄とされた雄略天皇である。そして伝承されたということを考えた時、この歌は雄略天皇の妻求ぎという意味を持って演劇的所作を伴って野遊びの場で演じられたと思われる。それが「我こそ告れ」といった一人称の敬語(自称敬語)として表現された句のある理由であろう。演じている役者がその主体である雄略天皇に敬意を払ったために敬語になったのである。古代の聖帝は、神武天皇の高佐士野の妻まぎ伝承など、妻を求めるという伝承がある。雄略もそのイメージがあったのであろう。 当然、大王が作者に比定されているので宮廷での伝承となっていった。そして万葉集編纂者が先ほども述べたように君臣和楽の考え方で、編纂時に巻一巻頭に置いたものと思われる。