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    ここのページもそろそろ更新しなくては・・・と思いつつ今日に至り、速いとこ紹介しておかなければ
  終わっちゃう行事が有るので、紹介しときますね。

   来る10月2日(土)、3日(日)、今年で9年目を迎え、秋の風物詩として定着したイベント「アートふる山口」が
  山口市後河原などを中心とした、一の坂川周辺で開催されます。

   毎年、古い民家など50軒位が美術館に早変わりして自慢の古美術品などを展示したり、多彩な催しが繰り
  広げられたりして、家族連れらでにぎわっているんですよ。

   まっ早い話、まち全体がミュージアムになっていると思って頂ければいいのかなと思います。
  臨時駐車場もありますので、ゆっくり散策して楽しんでいただければと思います。 

  ・・・って紹介して、今日、10月3日に行ってきたもんね。早めにUPしたいと思いますが、更新途中でオマス。
  もう少し待ってチョ!!!!


  やっほ〜。このページでは、できるだけ広範囲な、あっちこっち情報をUPしますネ。

  お待ち!!今回は、西の小京都・・・山口県中央部の山口市の巻!!
 国宝瑠璃光寺(るりこうじ)の五重塔があります香山(こうざん)公園を中心に&
残暑お見舞いを兼ねまして
“涼感”漂う?市内の滝巡りなんぞを紹介するよん。

んでもって今回も写真が多いので、2部作とさせて頂きました。心して見るべし。ぐへへ

“原チャリで行ける範囲で”の決定版第1弾だじょ〜』・・・・に、なるといいなぁ!

ほんじゃあ 紹介しマッスル!                               


  まず、この写真からのほうがいいかな?

 このお寺は『曹洞宗 保寧山 瑠璃光寺』です。

 本山は、福井の永平寺と横浜鶴見の総持寺で、
 本尊は、薬師如来(瑠璃光寺如来とも言う)。

  大内氏家老陶(すえ)氏六代弘房の菩提寺です。
 
  陶弘房は、応仁の乱で京都の相国寺にて戦死したので、
 その夫人「妙栄大姉」が夫の菩提を弔うため、弘房稔持
 佛の薬師如来をもって本尊として、山口市の仁保の地に
 文明3年(1471)創建されましたが、元禄3年(1690)に
 現在地に移されました。  【地図】


  写真は、重要文化財国宝瑠璃光寺の五重塔です。余りにも
 有名過ぎて・・ってか知らない人は、やっぱりいるのかしらん

  この塔は、金閣寺を建てた足利義満と戦った応永の乱で戦死
 した大内義弘の霊を弔うために、地元を護っていた弟の26代
 大内盛見が建てた塔です。だから塔は、一種のお墓だそうです。
  塔を建てた大内盛見の本当の墓は、福岡県粕屋町の泉蔵寺
 に有ります。

  完成は、嘉吉2年(1442)で、塔の高さは31.2m。屋根は
 檜の皮を葺いた檜皮葺(ひわだぶき)で、各層とも軒の出が深く
 屋根の勾配が緩やかで、形状優美なことで有名です。
  檜皮は、ほぼ30年ごとに葺き替えだよ。
  
 

  さて、今春の桜の時期に、撮り貯めていた中から1枚をUPして
 説明は更に続く。
  
  五重塔で檜皮葺は、奈良の室生寺・長谷寺、広島県宮島の
 厳島神社の4基で、後はほとんど瓦葺きだそうです。
  ここの五重塔は、全国で10番目に古く、国宝の五重塔は9基
 有ります。

  奈良の法隆寺と京都の醍醐寺と瑠璃光寺の塔が日本三名塔
 と言われています。

  五重塔の右側には、司馬遼太郎の文学碑が建立されていて
 司馬遼太郎の『街道をゆく』の「長州路」から五重塔を見た感想
 の一節が次のように刻まれています。
 
       長州は、いい塔を持っていると、惚れぼれするおもいであった。
      長州人の優しさというものは、山口に八街九陌をつくった大内弘世やザビエルを保護した義隆などの
      大内文化を知らねばわからないような気もする。 以上        【地図】


  明治維新史跡「枕流亭」です。

  蛤御門の戦いなどで、薩長両藩に
 大きな溝が出来たが、王政復古の
 大義を果たすには両藩の結合は絶対
 必要であると土佐の坂本龍馬が仲介
 の労をとり、密議をこらした山口の旧家
「安部家」の離れ部屋で、市内道場門前の一の坂川を望む河畔に
あったので「枕流亭」と呼ばれ、昭和35年ここに移したものです。
 
  慶応3年(1867)9月、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀、品川
 弥次郎、伊藤博文、木戸孝允等が合同密議し、明治維新の曙を造
 ったとされる記念すべき建物です。常時開放されています。 【地図】


 「露山堂」です。
 
  文久3年(1863)4月、萩藩主毛利敬親(たかちか)は、幕末の
 政情を処するため、藩庁を萩から山口に移し、今の県庁の所に
 政治堂を建てました。

  その政治堂の近くに一露山(いちろざん)の麓に茶室を設け、
 一露山の一の字を省いて「露山堂」と名付けたのが、この始まりで
 明治24年4月、品川弥二郎らの有志により現在地に移された。

  まぁぶっちゃけ、家老としか話し合いの出来ない藩主毛利敬親は
 茶事にことよせて、階級を分かたず、井上馨や桂小五郎等と王政
 復古の密議をこらした茶室なのよん。  【地図】               


  これは、上の「露山堂」の写真左奥に有る
         「誰が袖の手水鉢」
 と名付けられた手水鉢です。 

  この手水鉢は、京都の小堀家から岩国の吉川(きっかわ)家に
 贈られたものを更に毛利家に贈られた由緒あるものだそうです。
 
  女性の振り袖のような形をしているので、この名前がついている
 そうザンス。

  吉川家では、本物を手放したので、これをまねて作成したものが
 残っているそうです。何か変だじょ〜!!
               


  それでもってコリは、「誰が袖の手水鉢」の下に造られた
         「水琴窟(すいきんくつ)」
 なんだじょ〜。
  コリは、江戸時代の造園技術の粋と言われておりまして、耳を凝らす
 と「コロン、キンコンキン」と乾いた音色が聴こえてきます。
  仕組みは、底に穴を空けたカメ(亀じゃあないわヨン)を逆さまに埋め
 込んで水を流すと、その下には小石などが敷いてあり、水滴がしたたる
 音がカメに反響して涼感たっぷりの音色になるんざんす。次も見てチョ!

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