平成28年9月25日 開始   
平成28年10月5日  なぜか、この「ページ」の「検索」が「Yahoo」・「Google」共にできないタメ、野村望東尼(のむらぼうとうに・のむら望東尼)に 「リンク」設定する
平成28年12月13日   funaguraという「ページ」が、「Bing」 での「検索」が可能になったことを確認      
平成29年1月11日 いまだに「Yahoo」・「Google」共に、「検索」にかからないタメ、新たに=A既に「検索」可能ながら、『萩焼・戸田焼』出版で、必ずしも必要のなくなったこの5555(「手作り幻想」)に、「アップ」して様子をみることにする
平成29年2月5日 「Yahoo」・「Google」の「検索」で、この5555が、ヒットするようになったので、この5555「正式」にします。
平成29年3月25日  更新


● 明治維新に大きな「役割」を果たした 「防府市 富海」の「船蔵」・「飛船」のこと


構 成


「下線」のある箇所は、ジャンプ設定をしています。 「下線部」をクリックされると該当箇所にジャンプします。
なお、「文中」においても、 (←クリック) と記している箇所のみならず、「下線のある箇所」には、 「リンク」設定 もしくは、ジャンプ$ン定をしています。



(1) ようやく注目されてきた「富海」の「維新史」における「位置」

(2)「ブログ」について

(3)「トンネル」を抜けるとそこは・・・//(4)「大和屋」の「船蔵」 //(5) 本来≠フ「船蔵」は? //(6) 「伊根」の「舟屋」

(7) 「小田浦」着の「薩摩艦」の兵を「飛船」で「上方」へ //実質的≠ネ「薩長同盟」の発効=I//残念≠ネ「維新ふるさとかるた」のこと

(8)  『防州日記』にある疑問な記述のこと//(8)「天橋立」に匹敵するかのような「伊根の舟屋」の「ポスター」での扱い

(9) 「富海」の「船蔵通り」の「予想復元図」のこと

「伊根」の「舟屋」を参考にしての「イメージ図」
「考証」に基づく「予想復元図」 (その1)=「船蔵通り」//「考証」に基づく「予想復元図」 (その2)=「大和屋の船蔵」



◇ 近年#ュ表の、代表的な「研究論考」・「新聞記事」

「山陽道」の宿駅と港の両方がある、つまり、「海・陸の接点=vとなるところ=陸路から海路に変更可能なところが 「富海」 であり、富海以西では、そういう地域はないこと
及び、
「上方」、「関東」に行くには、 
嶮しい「峠越え」を控えていることで、「鉄道開通」までは、要所であり、
「飛船」が栄え、「旅籠」もたくさんあった
等、
「歴史的」に重要な地であったことは、
「古文書」「大冊」の中のごく一部≠ニして、紹介されていたものの、一般≠ノは、残念ながら、あまり知られているとは言い難い状況だったと思います。

しかし、近年、「研究発表」「新聞記事」など、容易に£mることのできる「情報」が、出てきています。

○ 児玉 識氏 「富海の歴史的特質について(その1)」 
                       『佐波の里 第32号』  平成16(2004)年3月刊]=全63&ナ中の10&ナ分
を始め、

『幕末期における長州瀬戸内の村 富海の躍動』
                   [出穂稔朗氏 平成28年3月刊]=全87&ナ

幕末の富海は、・・・「上国に通じる咽喉」であり、
吉田松陰、来嶋又兵衛、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、  井上 馨、品川弥二郎、楫取素彦
数多くの志士たちがここを出入りして、各所で活躍し、明治維新への道を繋いだ。
富海の志ある人たちが長州、日本国に対する真正な忠誠心を常に胸に抱き、飛船による志士の支援は元より、
身を挺しての諜報活動や各種支援活動を行い、明治維新の裏方としての貴重な役割を果たしたことが、まさにこの期における富海の躍動であったといえる。

吉田松陰=吉田松陰、富海飛船で江戸へ 19&ナ〜
中山忠光=大和屋政助、七卿や中山忠光を富海飛船で運ぶ 29&ナ〜
高杉晋作=俗論党に追われた高杉晋作、富海飛船で下関へ 42&ナ〜
品川弥二郎=品川弥二郎と大和屋政助 71&ナ〜
・・・・・・・・・


○ 「朝日新聞」 平成28年5月27日

東に椿(つばき)峠、西に茶臼山が続く旧山陽道と港が近接した陸海交通の要衝として、古くから栄えてきた。
明治維新が間近に迫った幕末には、幾多の志士たちが「飛船(とびふね)」を使って大阪に向かい、京都への上洛(じょうらく)を果たした。
1700年代に登場した飛船は船乗り2人で、大阪に到着するまで5日間を要したという。

この海上輸送の手段があったからこそ、幕末の激動の時代が成り立ったともいえる。

街中には、歴史の名残が所々に顔をのぞかせる。
1864(元治元)年、英国留学中だった長州藩士、伊藤博文と井上馨が急きょ帰国し、山口に向かったことを記す「上陸記念碑」。
1863(文久3)年、志士たちを支援した公家の中山忠光が潜伏したという「大和屋政助船蔵」天璋院篤姫が江戸に向かう際、休憩に立ち寄ったという記録がある「富海本陣門」――などが残る。


といったものが代表的なものです。




「ブログ」について

この 「ケーブル」による「ホームページ」(http://www.c-able.ne.jp) の容量残り少ない≠アと
及び
多くの「写真」を取り込むことが可能で、かつ、「写真」が、大きく=u拡大」するというメリットがあることから、「Yahoo」の「ブログ」でも、同様な「ページ」を作っています。

クリック≠キると、「アクセス」できます。

「ブログ」による「船蔵」・「飛船」
 ↑ 「このブログ」には、多くの「写真」を取り込んでおり、かつ、「写真」の「右下」の+クリックすると、大きく=u拡大」します。




「トンネル」を抜けるとそこは、「船蔵通り」だった







「大和屋政助の「船蔵」

一見=Aごく普通の「蔵」or「倉庫」のようですが、 船を繋いでいた「蔵」に当たる所に、飛船問屋大和屋政助の船蔵 という「木札」があり、
その横に 「解説板」 も設けられています。







   本来≠フ「船蔵」は?














これは、後に示す「写真」(←クリック)の一部です。
が、「船蔵」らしき≠ニころに、繋がれているのがわかると思います。


























残念ながら=A現時点では、「大和屋政助の船蔵」「内部」の見学はできませんが、
「3枚目」の「写真」のように、かつては「船蔵」であったであろうと思われる「石組み」幾つも続いています。
そのうちの一つに、「船蔵」部分露出している「船蔵」跡があります。    (4枚目・5枚目・6枚目の「写真」は、方向を変えて撮った「写真」です。)
この、「船蔵」跡で、ある程度の「確認」はできます。
現状≠ノおいて、「船蔵」及び「飛船」の規模・大きさを知るには、この「写真」の「場所」がベスト≠ナす。
5枚目の「写真」の「右奥」の「石の階段」を上ると、「上」からも、「船蔵」の大きさ及び「飛船」の大きさを類推することができます。

4枚目の「写真」は、「旧街道」側から撮った「写真」ですが、「空き地」の向こうに、「石」が並んでいる箇所から向こうが「船蔵」箇所です。
隣の「建物」のような「建物」が「船蔵」の「上」ダケでなく、続いていたことが、類推できます。
今日の「一階」が「車のガレージ」で「二階」が「住まい」といった「家」もそうですが、「船蔵」5枚目・6枚目の「写真」のような「広さ」では、到底「生活の場」にはならないハズです。
この「船蔵」からして、「飛船」どの程度の大きさであったか推測できます。
無論、大きさは、一定していなかったとしても、大きな「違い」はないと、私は思います。

文久三(1863)年10月、明治天皇の叔父にあたる中山忠光卿は、
幕府に追われる身となって、長州を頼って大坂から飛船で富海に落ち延び
大和屋政助宅の土蔵の二階にしばらく潜伏した。

と、「大和屋」の「船蔵」前の「解説」にありますが、土蔵の二階というのは、潜伏ダカラであり、 この「写真」ダケが、多く使用されているタメ、誤解≠ウれそうですが、「船蔵」は、「住居」とセットであったハズですし、「大和屋の船蔵」の後ろには、現在≠焉u家」があります

なお、この4枚目・6枚目の「写真」は、「平成28年11月3日」に、「確認」に訪れた際の「写真」ですが、
誰もおられないタメ、現状に変化がないように、注意を払いながら「立ち入らせてもらいました」が、許可が必要かもしれません。
注意されれば、その注意に従ってください。






「左」の「写真」は、
「伊根湾めぐり遊覧船」の「ポスター」の一部ですが、
「左」から3件目の船が繋がれている「舟屋」が、上に示した「写真」です。

「伊根」の「舟屋」については、随分前のことになりますが、「伊根湾めぐり遊覧船」に乗って、「海上」から眺め
かつ、その後、個人的に、御願いして、「内部」を見せていただいています。






「伊根」の「舟屋」 






児玉氏の「富海の歴史的特質について(その1)」によると、
天保年間には五十数人の船主がいたことが史料の上から確認できます。
とのことですので、
この「伊根」の「舟屋」のように、「富海」の「船蔵通り」も、「船蔵」が、 連なっていたのだろうと思います。
「伊根」の「舟屋」ほどではないにしても、「上」の「写真」(←クリック)のように、かなり¢アいていたことは、想像できます。


Εメール 

「富海」の「船蔵通り」 の「写真」、「絵図」をお持ちの方
もしくは、
何かに掲載されていることを御存知の方は、
できれば、上のΕメール≠フ部分をクリックすると、私=河野宛 の、「メールアドレス」が設定されていますので、お知らせくださるよう、御願いします。
いずれ、『出版』も予定していますが、
とりあえずは、「このページ」にお名前を掲載させていただきます。





「小田浦」着の「薩摩艦」の兵を「飛船」で「上方」へ



「上」の「図」は、観光拠点施設「防府市まちの駅」=「うめてらす」「観光案内図」の一部です。

残念ながら=A野村望東尼『防州日記』には、望東尼誤解と思われることがあり(←クリック)、
はたまた、『防府市史』に、問題があるタメ、
「おもてなし観光課」「防府市観光協会」に「検討」を御願いし、「基礎資料」である『防長回天史』「調査・研究」を重ねておられる野方春人氏の『野村望東尼の周辺』の 4 薩摩艦隊三田尻着港と長州の方針転換 を初めとする複数≠フ野方氏の『著作』なども「確認」していただき、
このように、「光寺」(『防府市史』では「光℃宦vという「伊佐江」に実存する大きな℃宸ノなっています)・「小田浦=v「翔鳳丸・平運丸」投錨の地「小田港」といった箇所をつけ加えていただきました。
 (ここ以外にも、「訂正」「追加」と、誠実に′沒「していただいています。)

「翔鳳丸」・「平運丸」でやってきた「薩摩兵」859$lを、上坂させたのが「飛船」なのです。

「望東尼研究の決定版=vといわれている谷川佳枝子氏の『野村望東尼』 ですが、野方氏もも、幾つかの「疑問点」を見つけていますが、この「薩摩兵」 859$l のことも、問題があります。

九日には、島津主殿の率いる八百五十人の薩摩藩兵を乗せた「翔鳳丸」と「平運丸」の二隻が中関の対岸に位置する向島の「小田浦」に投錨した。(『修訂防長回天史』九。)
藩兵を揚陸したあと、二隻の船は後続の兵を運ぶため再び薩摩に戻って行った。 

(312&ナ)

とありますが、『修訂防長回天史』(←クリック)、の記述は、後掲しているようなハズで、
此後一定の人員をして上陸せしめ接待饗応すること之れを 屡々すというのですから、 野方氏が、「他の資・史料」をも検討されて『野村望東尼の周辺』等で述べられているごとく、

翔鳳・平運で運ばれてきた兵士たちは十月九日の小田浦到着から、大坂に向けて飛び船で出発する十月二十四日までの二週間、狭い艦内での生活を余儀なくされる。
この間の長州側の提供した食事や風呂がありがたいものになったであろう事はたやすく想像できるが、もてなしの回数は不明だ。

(『野村望東尼の周辺』132&ナ)

薩摩兵は、「薩摩艦」に寝泊まりし、順次、「光永℃宦v「善正寺」で、「入浴」・「食事」等の世話を受けながら、
ほぼ、「二週間」かけて「飛船」で、大坂へ輸送されたということのハズです。
(富海の船は、三田尻の船よりも速力があり、しかも数も三田尻の二倍もいた
児玉氏 「富海の歴史的特質について(その1)」
とあるように、富海が主体ですが、三田尻からの上坂もあったかと思われます。)


薩摩兵上坂したのは、十月二十四日に、一度に順次かということを野方氏に、「メール」でお尋ねし、
「河野さんとおなじく、順次、出発しただろうと考えています。」
「当然、中隊ごと、大隊ごとにある程度まとまって出発したと思います。」
という「回答」をいただいています。
野方氏は、即時、「回答」をくださる「誠実」な「研究者」です。






「薩摩軍」が、約束の「九月二十五日or二十六日」に来ず、薩摩に対する「疑念」が生じていた中で
「十月九日」「小田浦」に「薩摩兵」がやってきて
その「薩摩兵」を「飛船」で上坂させた
ことが、
実質的≠ネ「薩長同盟」の出発点として、「維新史」に、特記すべきでしょう。

ただ、望東尼は、「長州藩士」送りがてらということですので、
「長州第一陣」の出発≠フ日(予想外に、遅れて「十一月二十五日」)までは、三田尻滞在するつもりであったと思われますが、病はそれを許さなかったということでしょう。

ただ、それでも、望東尼は、
 冬ごもり こらゑこらゑて 一時に 花咲きみてる 春は来るらし
という「歌」を詠んでいることとて、夜明けを確信していたと思われます。






千三百年の=u史都」「防府」「おもてなし観光課」

「おもてなし観光課」「防府市観光協会」に「提言」したきっかけ≠ヘ、「大河ドラマ 花燃ゆ」 によって、楫取素彦注目されるようになり、著名≠ネ方の『出版物』に、
楫取素彦野村望東尼「墓」が、「同じ&謦n」にあるように、記されていたことからです。
「桑山」という点では同じでも、400b£度、離れた「別の墓地」なのにです。

観光拠点施設「防府市まちの駅」=「うめてらす」「観光案内図」が、
「上」のようになっていたことも、誤解≠フ一因と考え、
「山口県指定史跡 野村望東尼終焉の宅」なるものを「管理」してい私は、
≠フ位置を変更すれば済むこととて、「訂正」「提言」したのです。
(「前」の大きい「観光案内図」で、野村望東尼≠フ「位置 」が「左」になっていることを確認してみてください。)

千三百年の=u史都」=「防府」の「観光課」なるがゆえに、「歴史」にも、理解があり、
いろいろと=A「提言」を検討してもらえたのです。

さらに、「防府市観光協会」の「局長」が、楫取素彦「葬儀」が、「墓」のある「曹洞宗」「大楽寺」ではなく、「浄土真宗」「明覚寺」であることを突き止めたように、「歴史」に詳しい、岩本邦男氏であることも、幸いしました。
(「葬儀」の「寺」と「墓地」のある「寺」がなぜ、違うのかは、現時点≠ナは、不詳です。)







「富海」についても、「追加」が・・・

「おもてなし観光課」「防府市観光協会」に、私が「提言」したのは、「富海」については、
「琴音の滝」海水浴場ダケでなく、
せめて「大和屋」くらいは、「千三百年の史都」「観光案内図」において、示すべきでは、
ということでしたが、「おもてなし観光課」「防府市観光協会」は、
伊藤・井上両公上陸地についても、「追加」してくださっています。






『防州日記』 における上の関(『天理大学本』=かみのせき)のこと

『防州日記』には、

やうやう神無月六日の夕つかた、薩摩船、上の関に入りぬとて、人々いひさわげば、このほどのうきもヽ、なごしがほなりや。



周防の国と心をあはせて、御代のあたほろぼさんとて、薩摩の大船にあまたのりて、上の関にとまれるをみむとて、桑の山にかれこれさそひければゆきたりしに、菊の花のをかしげなるを折りたりしにあきつ虫のすがりたるが、さながらにとばんともせざりければ、かしこきことども思ひあはせられて、


と、二箇所、かみのせきが出てきます。
当然=A防府かみのせきはないこととて、「中の関」望東尼誤記したor聞き違えたハズですが、
のみならず、『防州日記』には、「薩摩艦」の到来についての、明確な記述がされていないタメ、誤解≠オて記されているものがほとんどです。

「十月六日」到着の「薩摩艦」と、望東尼「桑(の)山」から見た「薩摩艦」を、同じ「薩摩艦」であるかのごとく、受け取っていますが、
神無月六日の夕つかたに到着したのは、三坂圭治氏、野方氏の指摘されているように「三田尻港」であり、

しかも、「三田尻港」に到着したのは、豊瑞丸であり、を上陸させず、翌七日夜には、大坂へ向かっているのです。  (「左」は『修訂 防長回天史』の一部。京都とありますが、「船」ですから、大坂のハズです。)

この「三田尻港」に到着した薩摩艦を見るとしたら、「荒瀬家」の「離れ」寄寓
していたこととて、「道具二階」の「窓」から見られたハズですし、歩いても、わずかな°覧」です。
                         ( この「ホームページ」には、「後半」に「写真」を載せています。)
高齢望東尼がわざわざ=A桑の山(上の「観光図」の「右上」)に登って、「薩摩艦」の遠景を見るでしょうか?
多くの=u史料」が、神無月六日=十月六日としているのは、誤りのハズで、「十月九日」に到着した「薩摩艦」を、「九日」以後に見たハズです。

それに、桑の山からは、上の関(=「中の関」)と思ったかも知れませんが、実際は、「小田港」と「中の関港」の間≠フ「小田浦」投錨していたのを、遠景であるタメ、「手前」の上の関(=「中の関」)に着岸していると思ったようです。


『修訂 防長回天史』

九日薩摩翔鳳平運の二隻鹿児島より来り小田浦に投錨す
我軍二艦の監軍士官に各々酒一挺鶏五羽を贈り皆副するに 蔬菜を以てす
又兵四百を中関善正寺四百五十九人に入らしめ浴を設け宴を張て之れを饗す
此後一定の人員をして上陸せしめ接待饗応すること之れを 屡々す


          (「左」も、『修訂 防長回天史』該当箇所「スキャナ」で取り込んだものです。)

詳しくは、次の≠クリック≠オてみていただきたいのですが、
          楫取素彦─吉田松陰・野村望東尼ゆかり≠フ人─

「中関港」は、 今でこそ、「自動車会社=マツダ」の「車の積出港」となって いるが、
昔は、「対岸」の「向島」と共に「 遠浅」(=海や川の岸から遠方まで 水の浅いこと。また、そのような所。)のため、
大きな船が着けられるのはごく一部であり、
水深≠フ深い、「対岸」の小田港と中 関港の間の「小田浦 」に投錨せざるをえなかったハズ
それに、「小田浦」への投錨は、風を避けるタメにも、好都合であったと言われている。


ということを、「善正寺」の住職であり、はたまた、「山口県議会議長」 を12年間、務められた島 田 明氏からお聞きしています。






残念ながら、この 『修訂 防長回天史』 の「記述」が、「維新ふるさとかるた ─志士闊歩の地・防府─ 」 においては、 「上」のように、
   [ に ] 入港す 薩船降りて 善正寺 
とあるのみならず、「解説」には、
慶応3年(1867年)10月9日薩摩藩の軍艦「翔鳳」「平運」が
向島小田に着き、乗っていた薩摩兵善正寺で接待、饗応され、旅の疲れを癒したと言われています。
と書かれています。

@ 「小田に着き」ではなく、「小田≠ノ投錨」であることは、間違いなく、「入港」ではありません。 「投錨す」だと、「」であって、「」にはなりませんが・・・。「軍艦」とあるのも、疑問です。「うめてらす 観光図」参照(←クリック=j
A この「解説」だと、「善正寺」(中関)・「光宗℃宦v(「光永℃宦vなら「中関」ですが、「光宗℃宦vだと、「中関」からは、かなりの距離のある華城)は、「向島」にあると思われるハズです。
B 「光宗℃宦vは、明らかに「光永℃宦vの間違いですが、『防府市史』にも同じ間違いがあります。
C さらに、薩摩兵は善正寺・光宗寺で接待、饗応され、旅の疲れを癒した≠ナは、「維新」との関わりは、ない≠ノ等しいのです。
「浴」が無視≠ウれているのですから、単に、「食事・酒」を一回こっきり、二つの「寺」でふるまわれたとされているに等しいのです。
私は、浴を設け==u風呂」 こそ、一度には、わずかな人数しか入れないハズですし、 何日も入浴していない「薩摩兵」ですから、「汚れ」も大変なハズで、何度も、水を抜き、焚きかえたハズですので、 大変なことです。
しかも、次第に、人数は減りますが、2週間の間、食事・入浴屡々すというのですから、 防府市内の多くの「寺」が、「長州軍」の「宿所」となっていた(光宗℃も、一時=A奇兵隊の「本陣」でした)など、それぞれに「維新」との関わりがありますが、中でも光永℃善正寺「薩長同盟」における「薩摩兵士」への「対応」は、 「約束の期日」に来ず、「疑心暗鬼」に陥っていた中での、 実質的≠ネ「薩長同盟」の発効ですから、「維新史」の一つ・として、書き残すべきことだと、私は、思っています。

望東尼も、『防州日記』において、
十月朔日 荒瀬ゆり子の案内でほり≠フ〈「堀口」の誤り〉山城屋(註 「旅館」業 主人=土井利兵衛)に行った際、
薩摩が約束した九月廿六日七日はおろか、日をふれどもおとづれもなかりければとして、
 ちぎりおきて帆かげも見えぬ薩摩舟またうき波や立ちかへるらむ
と詠み、やはり「山城屋」を訪れていた福田侠平に見せたと記しています。



なお、「おもてなし観光課」では、なんらかの形での「修正」を検討してくださっています。






なお、「小田浦=vは、望東尼が見た時代とは異なり、現代≠ヘ、「桑山」からは、「建物」の関係で、見えにくいタメ、
「右田ヶ岳」からの「写真」を提供していただきました
「左」の「島」が「小田港」のある「向島」
「右」の山の麓近くに「光永℃宦v「善正寺」があります。
            (「上」の「観光案内図」参照。)
「小田」「中関」ですが、「小田浦」と呼ばれています。







「天橋立」に匹敵するかのような「伊根の舟屋」の「ポスター」での扱い






「富海」の「船蔵通り」の「予想復元図」ができまいかと、「提案」しています

Εメール「富海」の「船蔵通り」 の「写真」、「絵図」をお持ちの方、 もしくは、 何かに掲載されていることを御存知の方は、 できれば、Εメール≠通して、お知らせくださるよう、御願いします。 としているように、
可能な限り「データ」を求め、 「富海」の「船蔵通り」の「予想復元図」を、
とりあえずは、「このページ」に、
いずれは、私の『出版』の中に載せるべく、考えているダケでなく、
できることなら公的≠ネ『出版物』or「看板」等にも、「紹介」してほしいこととて、
「英雲荘」館長山根俊夫氏が、「歴史家」のみならず、「画家」でもあるので、 御願いしているところです。(後述←クリック)

「画家」としての山根

平成 6年 「第7回 上野の森美術館 日本の自然を描く展」 「優秀賞」
平成21年 「第8回 熊谷守一大賞展」 「優秀賞」
平成27年 「第1回 アートオリンピア2015展」 「入賞」
             ・・・・・・・・・・・・・・・・

これまで、公≠ノなっていないこととて、ないのかもしれませんが、
「『古地図』を使ったまち歩きの講座」等を担当しておられる「山口県文書館」の「専門研究員」である山本明史氏に、お尋ねし
「探して見ましょう」と、言っていただいています。
「山口県文書館」には、これまでにも、金谷匡人氏、吉本一雄氏、山田 稔氏・・・・
と、素人≠フ「研究」にも、適切≠ネアドバイス「史料」の「紹介」をしていただいています。
山本氏には、「松崎天満宮」に、「参籠」の施設があったことを、
「山口県文書館」所蔵「古社寺取調書 佐波郡寺 院」( 行政文書県庁戦前A 社寺121)という明治28年 [1895]作成の史料
「境内」の図があり、 その中に、記されていることを教えていただいています。
(なお、これは、望東尼「天満宮」七日間、「参籠」し、絶食したという流布≠オている誤りを「確認」するタメのことで、
「参籠施設」があることとて、数日≠ヘ、「参籠」していた「可能性」を述べるタメの「調査」でした。
『防州日記』を読んでみれば、七日間、「参籠」し、絶食ということが誤りであることは、容易にわかります。)

        楫取素彦─吉田松陰・野村望東尼ゆかり≠フ人の中に、記しています。

「維新」は、「日本の歴史」を語るには不可欠≠フことのハズですので、
かつての「船蔵通り=vを、「訪れる方々」が、思い描かれる切っ掛けになればと、思ってのことです。






山根氏は、「維新史」に大きな位置を占める「英雲荘」「館長」であることで、 「協力」を約束してくださり、私の持参した「伊根の舟屋」の「写真」を参考にされ、
「昼休み時間」であったこととて、 即座≠ノ「こんな感じの絵になりそうです」として、手元の「用紙」に描いてくださいました。
「左」のバック≠ノ「文字」が写っているのは、側にあった「用紙」の「裏面」を利用されて描かれたからです。

これは、あくまで、山根氏の「イメージ」ですが、「富海の船蔵」を、再度、訪れてみるし、「参考資・史料」が出てくれば、
何度でも、やり替えるつもりとおっしゃっくださっています。




↓ 「考証」に基づく「予想復元図」 (その1)=「船蔵通り」


山根氏は、「文献」研究 & 現地の調査 をされ、新しい=u復元予想図」を描いておられます。
ただ、まだ、「途中」 (その1としている「理由」です )なのですが、「維新150年」を「目前」にしていることとて、「富海」の「船蔵通り」訪れられる方も少なくないと思われるのに、ごく普通の「蔵」or「倉庫」としか思えない現状ですので、「想像力」をかき立ててもらうべく、  山根氏に、お願いし、この「完成前=v「復原予想図」(「右下」に 富海飛船〜飛船倉  2017 1/14 とあるのがわかるでしょうか)を、私の「このページ」に、「紹介」させてもらうことにしました。
私が言うのは僭越ですが、私の「ホームページ」は、それなり≠フ「アクセス」(←クリック)があります。 これまでの「他のページ」の「リンク」設定からのみならず、「このページ」そのものが、「Yahoo」・「Google」での「検索」を可能にしてもらえたことで、「アクセス数」も増えると思っています。


「右」の建物が、「大和屋政助の船蔵」(←クリック=jです。
なお、 「伊根」の「舟屋」(←クリック=j と異なり「幕末」には、「船蔵」は、波・風によって、「海」との間に「砂」が堆積していて、「舟蔵」「海=vとは離れていて「飛船」に運んでいたことも、山根氏は、「研究・調査」され、この「復元予想図」に取り込んでおられます。
  (「船蔵」のそれぞれに、砂場に、波打ち際まで運ぶための「石組み」のようなものを描いておられます。)

私は、山根氏に、「調査・研究」されたことを、「活字」として残されるよう、お願いしています。




↓ 「考証」に基づく「予想復元図」(その2)=「大和屋の船蔵」


山根氏は、「英雲荘館長」という「立場」で、既に、「富海地区」をも「対象」として、「調査・研究」をされており、「現地見学会」の「講師」の一人であることとて、
「大和屋の関係者」「理解」のもと、 現在≠ヘ、公開されていない「船蔵」の「内部」も、確認(「巻尺」・「写真」等も利用)されているのみならず、
『佐波の里』第41号出穂稔朗氏の「富海飛船の歴史」「参考資料」にされて、
「大坂迄」への「三艘」「復元図」も、描いておられます。    (「大和屋」の内部からで、既に、二艘は、海上に描かれています。)
8人、9人、8人25名が乗船したようです。  (この「復元図」は、1月17日とあります。)














mini-counter