平成21年3月23日 公開
平成21年7月2日 [Google]での検索≠ェ可能になる
平成30年5月8日  更新=@  


 野村望東尼=終焉の地「防府」を中心として

 〈文責〉  「野村望東尼終焉の宅or室」とされた、「平成18年」以降の管理者    河野 俊乎




は、「山口県指定文化財保存 顕彰規程」によって、昭和30年1月25日、「史跡」に指定の際の、「石柱」に刻まれたものです。
なお、「終焉の室」は、旧「荒瀬家」の「主家」の「南八畳の間」であり、私の管理している「家」は、望東尼が寄寓していた「離れ」であることを、立証し、
旧「荒瀬家」の「主家」は、既になく、本当の=A「終焉の室」のないこととて、「文化財指定」は、「解除」してもらいました。
ただ、望東尼が亡くなる直前まで、寄寓していたことは、間違いありません。




[1]  「防府」の野村望東尼&晋作・望東尼の「おもしろきことも」考

[2] 野村望東尼はどこで*Sくなったのか?


望東尼の終焉の場どこかということは、望東尼の「人柄」に係わることなのに、困った=u紹介」がされています。


「野村望東尼」を論ずる前提の「終焉の場」のハズなのに・・・
「望東尼研究」の「原典」とも目される春山育次郎著・筑紫豊翻刻の『野村望東尼傳』にも、「疑問」があります。
しかし、多くの=u研究者」は、「検討」することなく?、鵜呑みにして、困ったこと流布させているのです。


私の「考察」









「ホームページ」の形では、「研究資料」としては扱われないようですので、
「野村望東尼」の「終焉の場」を中心≠ニしたことは、「活字」にして「出版」することにしています。

ただ、事実探求される福岡県糸島市(望東尼の流された姫島のある「市」)の人野方春人氏は、「防府」まで調査に来られ、その上で、「出版」されました。
その中で、「終焉の場」のことを詳しく′沒「してくださり、ありがたいこと≠ノ、私の言うことを「肯定」してくださっています。

野方氏の 野村望東尼関係 の 『著作』

『野村望東尼と対馬藩士』  維新史の一断面
─ 高杉晋作・桂小五郎・多田荘蔵の交流 ─

『野村望東尼の周辺』   維新史の序章
─ 薩長連合・高杉晋作・山田顕義・三田尻の薩長艦隊 ─



野方氏の『著作』は、「望東尼研究」の「基礎資料」の一つ≠ニなることは間違いないと思います。

私は、とりあえず、「望東尼の終焉の場」についてのみ、「活字」にしました。 (平成26年11月19日)

一流なるもの≠フ「訂正」を試みる

『 土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼 』 ─
「野村望東尼」  





[3] 野村望東尼の「終焉の地= 防府市」における史跡≠ニその「写真」


関連
  楫取 素彦 ─吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人─

(6)の『防州日記』の「原本」なるものについても同様なのですが、
「Yahoo!ジオシティーズ」による「ホームページ」の場合、
私の「パソコン」ダケかも知れませんが、最近
geocities.jpは、長時間実行中のスクリプトが原因で応答しません。
geocities.jpは応答していません
という「メッセージ」がしばしば出て、「Yahoo!ジオシティーズ」の「ページ」≠ノ「アクセス」できないことがあります。

ただ、データ容量が多くないもの=例えば、
楫取素彦・寿子・美和子の「法名・謚」について

などは、「アクセス」が可能です。
この「ページ」は、『楫取素彦伝 耕堂 楫取男爵伝記』における疑問点を、楫取能彦氏に協力をしていただいて作成した、貴重≠ネ「ページ」
と、私は思っています。
楫取素彦については無論のこと、野村望東尼について関連した疑問点をも、指摘していますので、クリック≠オていただけると、ありがたいと思います。

ただ、新しい=uパソコン」では、問題はないようですので、
 c-able.ne.jp=においても、「ホームページ」を作成しました。

楫取 素彦 ─吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人─

↑ 二つとも、ほぼ=u同じ内容」ですが、≠ヘ、「許容容量」の関係で、「写真」の箇所は空白になっています。
上の優先してクリック≠オていただき、「アクセス」できない場合は、「下」の≠クリック≠オてください。




[4] 野村望東尼の「肖像」

[5] 野村望東尼の「短冊」・「書簡」・「絶筆」


[6] 望東尼研究「基本的資料」である『防州日記』について

『野村望東尼─ひとすじの道をまもらば』 における
 谷川佳枝子氏の「原本」なるものを「根拠」にした「記述」に対する「疑問」をきっかけとしての私の「見解」です。
     「望東尼研究家」の方には、是非とも、クリック≠オていただき、ご批判をいただきたいと願っています。
               下に設定している「Eメール」から、お願いします。

望東尼の「150回忌」 を 来年=平成28年 に控えていることとて、
おそらく、関係した『出版』や「講演会」等が、多く、企画されると思います。
かつて、「定本」と「評価」されてきた春山育次郎氏の『野村望東尼傳』にも、少なからぬ疑問・誤りがあることを、
私も「ホームページ」で述べましたし、なによりも、野方春人氏が詳細≠ネ「調査」・「研究」によって、立証してくださったように、
谷川氏の 『野村望東尼─ひとすじの道をまもらば』 についても、
谷川氏の まさに30年をかけた研究の成果 として、その努力讃えるのは当然のこととしても、 
それを
安易≠ノ「野村望東尼伝の決定版」といった決めつけ方をせず、
はたまた、「資料」の利用の仕方についても、確認をすることなく
原史料に即して活写しています
既刊の活字本もこまかくチェックされています。
などとせず、
望東尼研究の、貴重な=u参考資料」「望東尼研究の基礎資料」という位置に置いて、
「研究」には「終わりは無い」ということを確認しあい、更なる「完成」の「資料」として活用したいものだと思います。

既に、「資料」の「確認」をせずして、谷川氏の『野村望東尼』にあることを孫引きしている「資料」も、少なからずあるのです。

谷川氏は、『野村望東尼』の「二刷」平成27年10月15日刊)において、かなり≠フ「訂正」をされているのですが、残念ながら=A『改訂版』ではなく、「二刷」とあるタメ「ネット」で見る限り、「福岡県」・「山口県」の「図書館」においてスラも、「初版本」しか、所蔵されていないようです。
私の「提言」も、いくらかは受け入れておられ、望東尼が、人生を終えた「防府」関係の「訂正」がされていることから、防府の方には、「防府関係」ダケでも、確認してほしいと思い、「防府市立図書館」には、森川信夫館長に会っていただき、購入をお願いしています。
ただ、残念ながら=A「どこを、どう「訂正」したか」ということが、記されていないこととて、「訂正」されていることを含め、
次の「ページ」には、谷川氏の、「資料」の扱い方についての「疑問」を少し=A取りあげています。


↑ この場合は、「写真」が多くないこととて、二つとも、ほぼ=u同じ内容」です ので、「下」の≠クリック≠ウれる方がよいかと思います。
 なお、どれくらい、見ていただけるかと、「カウント設定」をしていますが、=E≠ノ共通の「カウント」としています。
 「大河ドラマ=花燃ゆ」において、

こともあろうに、望東尼の誕生日である「9月6日」(日)に、望東尼は、「大河ドラマ=花燃ゆ」から、切り捨て≠轤黷トしまいました。
この日は、高杉晋作の最期を描いたのですが、その「臨終の場」に、望東尼はおらず

のみならず、「平成27年8月2日」の[「花燃ゆ」 31回 「命がけの伝言」] に、望東尼は、ほんの一瞬¥oてきたダケで、「姫島への流罪」、高杉の指示による救出のことスラ、触れられてはいなかったのです。

さらには、この高杉の死から、「慶応4年」に飛んでしまい、 「慶応3年」に、「薩摩軍」が約束の期日に来ないこととて、「長州藩」疑心暗鬼に陥っていたこと、 望東尼「松崎天満宮」への「七日詣」のことなど、一切=A描かれませんでした。
楫取素彦は、「倒幕軍総督」=毛利内匠「参謀」であり、当然、大きな役割を担っていたのですから、カットするなんてことは、「史実」を踏まえているハズの「大河ドラマ」にあるハズはないのですが、当初≠ゥら「史実」的には「疑問」があり、久坂玄瑞の描き方は、久坂気の毒だと、私は思っています。
そして、この「史実」離れが、「視聴率」に影響したとも、思っています。

(「写真」は、その一瞬≠フ「画面」です。「左上」に望東尼がいます。
なお、「写真」は、事実を示すのが「目的」ですが、もしも=A「写真掲載」に「著作権侵害」といった「クレーム」がきたら、即刻=A削除します。)

当然≠フように、間接的≠ネがら、楫取素彦が、望東尼に拠って「処刑」を免れ、その後の「活躍」へと繋がるハズのこともカット≠ウれていました。

◆ 「大河ドラマ=花燃ゆ」の「視聴率」なるもの

「最高視聴率」=[第1回 1月4日 16.7%]

「最低視聴率」=[第36回 9月6日 9.3%]
(「9%台=「第15回」・「第20回」・「第26回」・「第34回」・)

望東尼無視=E防府無視」以後の「視聴率」

「最高視聴率」=[第40回 10月4日 13.8%]

「最低視聴率」=[第38回 9月20日 10.7%]

「平均視聴率」=[12.3%]

「第1回〜最終回」までの全体の「年刊平均視聴率」=[12.00%]


私には、『防州日記』に基づき、望東尼臨終近い頃に、楫取寿子が、「山口」から駆けつけ、望東尼感涙にむせんだ「場面」を描くほうが、他の「回」よりは、遙かに=u視聴率」がアップしたハズと思っています。
「9月6日」は、「高杉の最期」という「タイトル」のタメに、「視聴率」が低かったというのではなく、「選挙」の影響もあったと思われますが、「望東尼無視=E防府無視」=「史実≠無視=vすることで、それダケの「効果」があったのでしょうか。(「上」の「表」参照)

「防府の花燃ゆ館」では、主演の二人が、「防府に来る」と言っている「画面」が、「花燃ゆ」が終了した後でも、流されていたのです。(「平成28年1月11日」まで「開館」)
しかも、「1893(明治26)年」以後
楫取素彦「1912(明治45)年」迄 (享年=84歳のうち、19年間)、
美和子「1921(大正10)年」迄 (享年=79歳のうち、28年間)、
「防府」に住んでいたことをすべて「カット」して、「大河ドラマ」と言えるのでしょうか。

望東尼「墓」が、現在の、立派な=u墓」になったのには、防府に住んだ楫取素彦抜きには考えられませんし、美和子も、協力しているハズなのですが、
困ったことに、「大河ドラマ=花燃ゆ」の開始直前に、「NHK 山口放送局」の「ご当地サイト」なるものを見てみましたが、
「NHK 山口放送局」の「ご当地サイト」でスラ
野村望東尼ついては、
【防府市 大楽寺】という箇所に、
楫取素彦・美和子の「墓」の「写真」の「解説」として、

明治16年、は義兄の小田村伊之助と再婚。文は、群馬県令をはじめ数々の要職を歴任し多忙を極める夫を支えた。
後に夫婦は防府に居を移し晩年を過ごす。
大楽寺には夫婦が眠る墓があるほか、少し歩けば勤王の志士たちを支えた野村望東尼の墓ある。


とあるのみで、楫取素彦望東尼とが、親しかったということはおろか、「望東尼の墓」が、楫取の世話で、昭憲皇太后の御下賜金や毛利公三条公からの援助金等によって、新しく立派な=u墓」にされたということスラ、触れていないということを知り、「改善」を提案したのですが、
二人が「結婚」した時の「名」は、それぞれ、変わっているという「指摘」に対してのみ、
文は美和(文)はに、
小田村伊之助楫取素彦(小田村伊之助)とにしたダケで、
その後、「山口放送局」松浦一博副局長には何度も、また、 「東大」で「考古学・歴史学」を専攻したと「ネット」にある坂井律子局長にも、「修正」を求めたのですが、「ドラマ」終了まで、変わることはありませんでした。


のような驚くべき∴オいであったことへの「疑問=vや、
望東尼の「150回忌」 が近いからでしょうか、「萩焼」「「土井ヶ浜遺跡」に比し、いま一歩≠ナあった、この「野村望東尼」への「アクセス」が急増していますし、『防州日記』の「原本」という「ページ」の「アクセス」も、3ヶ月余≠ナ2000≠ノ達しました。

 ( 「下」に、「日毎」の「アクセス数」がわかる「カウンター」を設定していますが、
 今年になってからは、「一日」に100°゚い「アクセス」のある日も、何度かありました。
 但し、同じ方が重複≠ウれていることも十分、考えられます。)



[7] 野村望東尼の参考資料=『星甫随筆』の望東尼関係の全文


[8] 「防府望東尼会」について

[9] 明治維新に大きな「役割」を果たした「防府市 富海」の「船蔵」・「飛船」のこと

望東尼「桑山」から眺め、確認した「薩摩艦」は、「小田浦=v投錨したのだということ、
さらには、「富海」の「飛船」に拠って、「上方」に上ったことなどを、述べています。
望東尼関連として、クリック≠オてみてください。




「ブログ」関係

(「Yahoo!」の「ブログ」です。「写真」が綺麗ですし、「写真」の「右下」の+≠ノマウスをあててクリック≠キれば、拡大≠ナきるという「利点」があります。




 ↑ 「正福寺」
この「正福寺」で、「望東尼の葬儀」が行われたハズです。
(「次」の「大楽寺」とこの「正福寺」については、すこしばかり=A「説明」が必要です。
ここをクリックしてご覧ください。
なお、このクリック♂モ所は、「上」の[3] 野村望東尼の「終焉の地= 防府市」における史跡≠ニその「写真」 と同じものです。)



 ↑ 「大楽寺」の桜と案内板
「案内板」の2行目に 野村望東尼香華所 とあるのがわかるでしょうか。
望東尼法要は、毎年多くの人が参列して、行われています。
[平成21年3月21日の撮影]ですので、御大師参りの方が、沢山おられました。




◆ 「連絡」について

Εメール

春山氏の『野村望東尼傳』が、
地元=「山口県」の「研究者」にも受け入れられるほど、大きな=u影響力」があったこともあって、
私が「ホームページ」をアップするまでは、ほとんど無視されてきましたが、
野方春人氏の複数≠フ『著作』に、記していただいたこともあって、
ようやく
望東尼「どこで亡くなったか?」
亡くなった「家」によって、望東尼人柄が違ってくる
ということが、理解していただけたようで、
以前に比べれば、飛躍的≠ノ注目されるようになりました。
私の「ホームページ」がきっかけ≠ナすから、
「維新150年」までは、管理を続けます。
気づきや、「望東尼終焉の宅」の一部≠ナ、看護される迄、「寄寓」していた「離れ」への「見学」申し込みについては、
「↑」のΕメール≠ニある箇所をクリックして「送信」してください。
また、この「野村望東尼」に関しては、今後も、随時、推敲、加筆していく予定ですので、転用したり「リンク」を される場合は、ここから連絡を御願いします。










これまで使わせていただいていた「カウント」が、なぜか、出なくなりました。
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、8576≠ナしたが、[平成23年2月17日午後10時]から、別≠フ「カウント」を使わせていただくこととします。
従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります