平成28年11月5日 houfukouteki≠ニいう「アドレス」で開始
平成28年11月16日  この「ページ」の「アドレス」を利用して ほぼ、同じ内容をアップ=@なお、一部、内容を補充
平成28年11月18日  この「ページ」が直接=u検索」可能になったことを確認して、houfukouteki≠ヘ削除
令和4年8月15日  更新=@


● 「修正」された公的・準公的≠ネ「野村望東尼」の「解説」のこと


hamadaatsushi≠ニatsushi≠ニ似た「アドレス」ですので、浜田先生の「ページ」と思われて「アクセス」された方は、ここをクリックしてください。



構  成


「下線」のある箇所は、ジャンプ設定をしています。 「下線部」をクリックされると該当箇所にジャンプします。
なお、「文中」においても、 (←クリック) と記している箇所のみならず、「下線のある箇所」には、 「リンク」設定 もしくは、ジャンプ$ン定をしています。


 残念な≠アれまでの 野村望東尼 に関する 公的・準公的≠ネ「資料」

(1) 「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」           
  望東尼が顕彰≠ウれるのは、なぜかを「確認」すべきでは・・・   

(2) 「ホームページ」の野村望東尼 ─ 「防府市」//「山口県」 ─

(3) 現在≠烽る「野村望東尼終焉の宅前=vにある「石碑」の「解説」(実際≠ヘ、「終焉の宅=荒瀬邸」の一部≠ナある「離れ」を移築した) 

(4) 「まちの駅 うめてらす」

(5) 「アスピラート」の会場をほぼ埋め尽くした「望東尼の150回忌 記念祭」でも

(6) 『防州日記』によってわかる「七日間の 参籠=vは、間違いということ


二 「修正」された公的・準公的≠ネ野村望東尼の「解説」

(1) 新しくなった=uまちの駅 うめてらす」の「野村望東尼」に関する「解説」

(2) 「防府市教育委員会」の「修正」された「解説」
三 野村望東尼「歌」の「短冊」

四 旧「離れ」の「玄関」には、望東尼が楫取素彦・山田顕義に贈った「歌」を掲示

(参考)  「文化財」修理に伴う「古材」を幾つか 

(参考)  「陶片」をほんの¥ュしダケ 






 一 残念な≠アれまでの野村望東尼に関する公的=E準公的≠ネ「資料」




「山口県文化財」への「申請書類」を始め、これまでの野村望東尼に関する公的=E準公的≠ネ「資料」には、
残念ながら=A問題点がありました。     
さらには、「平成28年」は、「望東尼の150回忌」 ということで、様々な「企画」がされたのですが、

紙面を大きく取った『読売新聞』「維新支えた望東尼に学ぶ」[6月1日(水)] 、

『佐波の里』(第44号)=「野村望東尼と防府─楫取素彦と野村望東尼─」

「英雲荘」における「観月会」において「展示」された望東尼の「歌」とその「パンフレット」 (「英雲荘」は「会場」であり、「英雲荘」で用意されたものではありません)

『望東尼物語』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、困った≠アと含むものが、続いて公表されました。

さらには、「維新150年」に因む
防府市の明治維新史をテーマに、イラストや版画、歴史資料、写真で志士闊歩の地・防府を楽しく遊んで学べるオリジナルかるたです。≠ニいう
「維新ふるさとかるた」
にも、望東尼に関係のあることにおいて、「疑問」のあるものがあります。

こうした現状において、まず、公的=E準公的≠ネ「資料」のうち、
野村望東尼の終焉の地=「防府市」
において、目に触れることの多いものを、少しばかり、示すことから始めましょう。






「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」










野村望東尼の墓への 入口 及び、そこに設けられている 「解説」 です。

 県指定 史跡
野村望東尼 終焉の宅
   及び宅跡並びに墓

昭和四一(一九六六)年六月一○日 指定
終焉の宅  岡村町五の三
宅跡 三田尻本町十の二
墓  桑山一丁目四


 野村望東尼は一八○六年(文化三)九月六日、福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれ、 その名を「もと」と称しました。二四才の時に野村新三郎貞貫の後妻として迎えられ、 夫婦共に和歌をたしなみ、五四才で夫に病死されると博多の明光寺で髪をおろし、禅尼となりました。
 一八六一年(文久元)京都に上った望東尼は、 尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、 帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。 一八六五年(慶応元)黒田藩による勤王派への弾圧により姫島に流されましたが、
翌年高杉晋作によって救出され、下関にかくまわれました。

 一八六七年(慶応三)薩長連合の倒幕軍東上のことを聞くと、望東尼は三田尻の歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参籠し、断食をして、和歌一首を手向け(後記)、倒幕軍の戦勝を祈願しました。 しかし、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。

(一日目)武夫の仇に勝坂越えつつも祈るねぎごとうけさせ給〈え≠ヘママ〉
(二日目)濃染なすます穂のすすき穂に出て〈出て≠ヘママ〉招くになびけ千種八千草
(三日目)御世を思う〈思う≠ヘママ〉やたけ心の一筋も弓取る数に入らぬかひなさ
(四日目)あづさ弓引く数ならぬ身ながらも思ひいる矢は唯に一筋
(五日目)道もなく乱れあひたる浪波江のよしあしわくる時やこの時
(六日目)唯七日我が日まゐりの果てなくに神無月ともなりにけるかな
(七日目)九重に八重居る雲やはれむとて冬たつ空も春めきぬらむ

 望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されて「終焉の宅」として、また旧宅は「宅跡」として、桑山の「墓」と共に、県の史跡に指定されています。

     平成十五年一月
山口県教育委員会
防府市教育委員会




この「解説」は、残念ながら、紫色にした箇所には疑問があります
「福岡県」では、わずかに「平尾山荘」「福岡市」の「指定」なのに、「山口県」「山口県指定」にしている意味がわかりません。
望東尼高杉晋作「平尾山荘」匿い「平尾山荘」に滞在している間に、
事態が切迫し、もはや一か八か≠ナ「腹を決め」て、「功山寺」での挙兵「太田絵堂」の戦いと、「藩論」をひっくり返し
「野山獄」処刑寸前であった小田村伊之助=楫取素彦楫取は、後に、「東上軍」の「参謀」として活躍)らを救うというように、
結果的≠ノ「明治維新」に繋がったということを記さないでは、「山口県」・「防府市」が、望東尼を「顕彰」する「意味」が伝わらないハズです。
この「解説」では、望東尼は、尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。とあるダケで、望東尼高杉によって救出≠ウれたことダケが書かれているに過ぎません。
そのうえで、参籠=E老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。 とあるワケですから老齢の身に七日間の断食、そのために亡くなったことが望東尼の功績=Hのようになってしまいます。

そもそも、「七日詣で」いつからいつまでかが記されておらず、「9月25日〜10月2日」参籠ではなく、の参詣のハズですし(ここをクリック) 、「11月6日」に亡くなるまで、『防州日記』確認すると、
望東尼はあちこち、出向いていますので、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れなんてことはありません。
『防州日記』初日の「9月25日」には、「昼食」を「鳴滝」でとっていることが書かれていますから、少なくとも、七日間の断食ということはありませんし、その他の日についても、「九月廿八日」楫取素彦らの「来訪」に際しては、それなりの=u接待」がされたでしょうし、望東尼も、なにがしかは′にしたハズです。
それに、「10月1日」荒瀬百合子と共に、「山城屋」を訪れた際にも、なんらかの「接待」を受けたと見るのが自然でしょう。

このことに関しては、谷川佳枝子氏が『筑前維新の道 7』73&ナにおいては、
(望東尼は薩長軍の戦勝を祈願)して毎朝斎戒沐浴し、宮市天満宮へも七日間の断食祈願をした
とされていたのですが、それを、
『野村望東尼』309&ナでは、
望東尼が神前にまかり出るために一定期間飲食を慎み、心身を清らかにした(すなわち物忌みをした)ということさえわかれば十分であるように思われる
訂正しておられることでよいと思います。
毎朝斎戒沐浴についても、引っ込めておられるハズです。(見落としはないと思いますが・・・。)

これらは、楫取素彦「碑文」にひっばられたもので、楫取「碑文」は、記憶違いや、ディフォルメがあることを、確認すべきです。
野方春人氏も、このことに取り組んでおられ、現在は「ブログ」ですが、いずれ「出版」されるハズです。

なお、楫取能彦氏は、「至誠の人」 素彦 の子孫ですが、素晴らしい方で、私にスラ「資料・情報」を下さるだけでなく、「間違いであれば、直していただいて結構です。」とおっしゃっています。


望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されていることは間違いありませんが、「桑山」からの、長年に亘る山水の流れ込みで、「住めない家」になっているのに、「全責任」(「修理費用」・管理に必要な「駐車場料金」・「下水道料金」・「電気料」・・・すべて=jを「我々」に担わせていたのです。
しかも、「終焉の宅」は、「指定されている家」ではないという困った=u情報」満ちあふれ訪れる人サエないのに、「県」・「市」共に、「対応」しようとしないタメ、最低限=A「望東尼の終焉の場」であることダケでも、はっきり≠ウせようとして、
「調査・研究」をしたところ、
「終焉の宅」の一部≠ナはあるものの、
「終焉」の場は、「荒瀬家」の庭を挟んだ「本宅(「指定申請書」では「主家」)」だということがわかり、
「指定」は、「終焉の宅」「本宅」「離れ」「別の家」として、「離れ」ノミ「終焉の宅」としていることとて
「離れ」は「終焉の宅」の一部≠ナはあっても、「終焉の場」ではないとして、「指定解除」を申し出で、8年間経過した「平成26年10月」に、「終焉の宅」が「指定解除」になったことで、「防府市教委文化財課」が、検討をしています。


藤本尚志課長、原田光朗課長補佐など、現在の「文化財課」の方達は、私の「意見」も参考にするダケの度量があり、かつ、研究熱心ですので、
近いうちに、適切な「解説」になると思います。

この「離れ」は、「維新150年」迄は、手を加えながら、「管理」しますが、その後は、解体せざるをえません。

このようなことを「ホームページ」に記していたのですが、 「平成27年11月」から、中村 隆副市長を中心に、「移築・保存」をする可能性が出て来ました。
そのため、「解説板」の「訂正」は、「移築→保存」本決まりになってから訂正をしようということになったのです。

しかし、「望東尼150回忌」を迎えるに当たって、新たに¥oされる「資料」や「新聞記事」が、
困った「内容」を含んでいることとて、簡単なもの≠ナいいので、「対策」をと、要請してきたのです。(望東尼の150回忌直前≠ノ「実現」←クリック=j

残念ながら=A「防府野村望東尼会」の方には、最新の=u研究成果」を取り入れようとする「姿勢」が欠けるようです。
「望東尼150回忌 記念祭」「会場」には、この「解説板」の「写真」がありましたし、
「離れ」「望東尼終焉の宅」とし、「茶室」「終焉の室」とした「写真」もありました。
ただ、「パンフレット」には、「終焉の宅」「県指定」から除外されていました。
この「防府野村望東尼会」には、「防府史談会」が、深く関わっているようなので、
今後も続く「望東尼顕彰」ですので、是非、より%K切な「情報」を取り入れるべく、助言してほしいものです。

この「解説板」は、「平成29年3月」に、撤去されました。
「維新150年」にあたる「平成30年4月」に、新しい「解説板」設置されました。






「野村望東尼終焉の旧地」にある「解説板」



「平成九年」設置ということで、この「解説」も問題があります。






望東尼が顕彰≠ウれるのは、なぜかを「確認」すべきでは・・・ 

無論、望東尼が、今日、「志摩望東会」(「姫島」は「糸島市」にありますが、もとは、「志摩町」であったための名称)、「平尾望東会」そして、「防府野村望東尼会」によって、 顕彰されるのは、「明治維新」への貢献ダケが「理由」ではないハズです。
離縁、その後、野村新三郎貞婚との再婚は、「しあわせ」であったとはいうが、授かった4人の子供は、いずれも「早世」、さらには、身近な人物を多く、亡くしていること「姫島」への流罪・・・といったように、決して恵まれていたとは言えない望東尼の人生ですが、 望東尼ぶれることなく
谷川佳枝子氏が『野村望東尼』サブタイトル的に
   ひとすぢ≠フ 道をまもらば たをやめも ますらをのこに 劣りやはする
から ひとすじの道をまもらば を用いているように、「ひとすじの道」を突き進んできた人物であり、
「維新」を見ることなく、没しているワケですが、
『防州日記』で判読できる歌としては最後の
  冬ごもりこらゑこらゑて一時に花咲きみてる春は来るらし
にあるように、新しい世の来ることを確信して没している
といった「姿勢・生き様」がその「理由」でしょう。

しかし、それも、「歴史的事実=v可能なかぎり、踏まえたうえでなされるベキではないでしょうか。

現状≠ヘ、高杉晋作匿い情勢の急変を受け、「死」も覚悟のうえ一か八か的に、「功山寺」における「決起」に踏み切り、
さらに、「太田絵堂」において、「勝利」することで、
 「藩論」を一変させるとともに、
「処刑」寸前であった楫取素彦楫取は、「東上軍」「参謀」)を救うことにもつながり、
 結果的に=u明治維新」に大きく=u貢献」してたことを無視しているのです。

それなのに、恰も、老齢の身に七日間の断食、そのために亡くなったことが望東尼の功績のようになっていると思われるようになっているのです。

望東尼は、全く、しなかった≠ニは言い切れませんが、「七日間」に亘る「参籠」・「断食」はしていないことは、『防州日記』を検討すれば、わかるハズです。
ましてや、「松崎天満宮」への「祈願」が原因で亡くなったのではありません。
七日間の「祈願」が終わったのは、「十月二日」であり、亡くなったのは、十一月六日です。

「薩摩軍」約束の期日に来なかったタメ、留まったのであり、「薩摩軍」十月九日に、「小田浦=vに到着したことを確認したものの、門出==u東上」は、先送りということで、
荒瀬家及び使用人を中心とした人々厚遇もあって、留まっているうちに、体調を崩し東上を見送ることなく十一月六日亡くなったのです。

次に、佐々木信綱氏の野村望東尼 頌徳の歌 を示しますので、参考にしてください。


野村望東尼 頌徳の歌   佐々木信綱 作

 一.
すぐれし妻木よきははぞ 織るや言葉の綾錦
棚織女(たなばたつめ)か裁縫(たちぬい)の
わざにも長けし身ながらに
世の荒波のあらき瀬に 漕ぎ出しつるあま小舟

 二.
國を憂うるますらおを 平尾の里の山荘に
つどへかくまい百々千々(ももちぢ)の 心づくしは中々に
六十路に余る老いの身の 囚われ人となりにけり


 三.  
浪風高き玄海の 灘の中なる孤島(はなれじま)
名は姫島のやさしきも 暗き牢獄(ひとや)に繋がれて
身は流れ木の長き世に かき残しつる藻汐草

 四.  
助けし人に助けられ 島を出ても國のため
つくししまこと位山 高き誉れはよろづよに
文の林にうもれたる ほこらの花はよろづよに



望東尼が、
「参詣」の開始日=「九月二十五日」を、記すことなく、
一八六七年(慶応三)薩長連合の倒幕軍東上のことを聞くと、望東尼は三田尻の歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参籠し、断食をして、和歌一首を手向け(後記)、倒幕軍の戦勝を祈願しました。
しかし、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。
「墓の入口」の「解説」
のように、ことごとくしているのですから、
望東尼は、「天満宮」に、ほぼいたことになってしまいます。

となると、望東尼が、どこで亡くなろうと、たいした意味はないことになりかねませんが、「山口県指定」であることを無視≠オた「説」が流布していて、 どこで亡くなったかによって、望東尼の「人柄」が違ってしまうのです。
私の「ホームページ」・『出版』のみならず、ありがたいことに野方春人氏が、詳しい=u調査・研究」をしてくださり、かつ、
『野村望東尼と対馬藩士』
『野村望東尼の周辺』
『野村望東尼防長紀行』

といった『出版』もしてくださっていることで、「荒瀬邸」で亡くなったことは、いずれ、認められるハズです。

それに、望東尼「九月廿五日」に「防府」にやってきたのは、「維新史」においても、重要な≠アとのハズです。
「薩摩軍」が、「九月廿六日」にやってくる「約束」だったのですカラ!  

そのかどでを見送り、かつ、宮市の御神に、こたびのいくさをも祈り奉らんとて当初≠ゥら「七日詣で」(「十七日=vとした「公的℃送ソ」もありますが、違います。)を 予定していたこととて、「荒瀬」では、「離れ」望東尼に用意したのです。
その「離れ」は、福田東亜氏も、  
「江戸時代の商家の離れを感じさせる瀟洒な良い建物だと思う」と評されているように、望東尼への温かい#z慮だったのです。

その後、病が重くなって「荒瀬」の「主家=vの「南八畳の間」に移され、多くの人の看護・介護受け、亡くなったのですが、
残念ながら=A「指定申請」において、「離れ」のみを「終焉の場」とし、「指定対象」にしていなかったタメ、旧「荒瀬家」の「主家=vは、今日は、残っていないこととて、 「山水」が流れ込み、「床下浸水」を繰り返してきた「状況」の元、「山口県指定史跡」ということで、母=ユリコを中心に、守ってきた「離れ」「保存」されるなら(←「下線」クリック=j、ありがたいことだと思っています。









「ホームページ」=「防府の文化財」の 野村望東尼





◎ 「ホームページ」=「防府の文化財」の 野村望東尼  (「平成28年11月10日」現在) 

山口県指定史跡 史跡
のむらぼうとうにしゅうえんのたくおよびたくあとならびにはか
野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓
所有: 個人・防府市
所在: 防府市岡村町・三田尻本町・桑山
指定: 昭和41年(1966)6月10日

野村望東尼は、文化(ぶんか)3年(1806)福岡県黒田藩士の三女「もと」として生まれた。
黒田藩士野村新三郎貞貫(のむらしんざぶろうさだつら)のもとに嫁ぎ、夫婦ともに和歌を嗜(たしな)んだが、安政(あんせい)6年(1859)の夫の病死後、禅尼となり向陵院松月(こうりょういんしょうげつ)望東尼と称した。
やがて勤王(きんのう)の志士(しし)との交流を深め、元治(げんじ)元年(1864)には高杉晋作を一時かくまっている。
慶応(けいおう)元年(1865)、弾圧により望東尼自身も姫島に流刑(るけい)となったが、高杉晋作らによって救出され、下関さらには山口へと移り住んだ。
慶応3年(1867)、薩長連合の討幕軍東上を聞くと、歌友荒瀬ゆり子宅の離れに身を寄せ、7日間防府天満宮に籠(こ)もり戦勝を祈願した。
しかし、間もなく病に倒れ、同年11月、62歳の生涯を閉じた。
その離れは、現在桑山東麓に移され「終焉の宅」として、「宅跡」・「墓」とともに史跡に指定されている。


問題点

O 「松月」→「月」
O この「ホームページ」にも、開始日が記されていない上に、「天満宮に籠もり」間もなく 亡くなったとなると、望東尼は、「荒瀬ゆり子宅」に、一体、何日、滞在したというのか?
取りようによっては、ほとんど≠「天満宮」にいたということになってしまうのではないか。
もしそうなら、「終焉の地」・「終焉の宅」は、ほんのわずかな¢リ在ということになり、「山口県指定史跡」申請する必要はなかったのではないか?
O さらに、「指定解除」から二年になるのに、依然として離れは、現在桑山東麓に移され「終焉の宅」として、「宅跡」・「墓」とともに史跡に指定されている。とあるのは、おかしいハズです。
(この「ホームページ」は、手を加えることが難しいとのことですが、「ホームページ」にしてこれなのです。

ただ、現在は、 「望東尼150回忌」の直前≠ノ「修正」された「防府市教育委員会」の「解説板」 がありますし、
平成28年12月15日からは、準公的とも言える「まちの駅 うめてらす」の「解説」(←それぞれ、「下線部」をクリック) があります。)








「ホームページ」=「山口県の文化財」の 野村望東尼




一般向け説明

野村望東尼(「もとに」または「ぼうとうに」、1806〜1867)は幕末の勤王の女流歌人。
家集に「向陵集(こうりょうしゅう)」がある。
54歳で夫と死別した後、仏門に入って尼となった。
1864年(元治元)には、長州藩を脱した高杉晋作を厚遇している。
その後、福岡藩内の勤王派粛正により姫島(現福岡県糸島市)に流されたが、1866年(慶応2)高杉の部下らによって下関に救出された。
下関で高杉の死を看取った後は、山口の小田村伊之助(後の楫取素彦)のもとに身を寄せた。
1867年(慶応3)、討幕軍の東進を耳にして防府に赴き、防府天満宮に参籠してその成功を祈った。
そのために体を害し、三田尻中塚町(現防府市)の寓居で病死した。

行年62歳。
墓は桑山の山腹にある。

小学生向け説明

野村望東尼(1806〜1867)は、幕末に活動した女性です。
54歳で夫と死別し尼となっています。
高杉晋作たちと親しく交わり、1867年(慶応3)に薩摩と長州が幕府と戦ったときには、防府天満宮にこもって成功を祈りました。
そのため健康を害して、防府で亡くなりました。

墓は桑山の山腹にあります。


さすがに、「終焉の宅」の「指定」のことは削除されていますが、この「解説」も、十分とは言えません
単に=A「長州藩を脱した高杉晋作を厚遇している。」・「高杉晋作たちと親しく交わり」といった解説では、
高杉を匿ったことが結果的≠ノ、「維新」深く関わることになったということの説明にはなっていないハズです。
さらに、防府天満宮に参籠してその成功を祈った。
そのために体を害し、=E防府天満宮にこもって成功を祈りました。
そのため健康を害して
は、『防州日記』に比して、おかしいことは、明らかです。

小学生向け説明にある薩摩と長州が幕府と戦ったときとあるのもおかしく、戦うべく、防府から東上するという「情報」を聞きのハズです。
望東尼の在世中には、マダ、戦ってはいないハズです。

楫取素彦との関係も、
下関で高杉の死を看取った後は、山口の小田村伊之助(後の楫取素彦)のもとに身を寄せた。は、大雑把すぎます。
楫取のもとに、身を寄せたのは、短期間のハズです。

「防府市」が、「修正」 に動いてくれていることからも、「維新180年」を機会に、見直してほしいものです。





現在≠烽る「野村望東尼終焉の宅前=vにある「石碑」の「解説」






「石碑」にある「解説」

長年に亘る「山水の流れ込み」「住めない家」になりながら、しかも、「終焉の宅」であることを疑わせる「情報」バカリで、「見学者」は皆無≠ノ近いのに、
「焼けて無くならない限りは『指定解除』しないし、寄贈も受け付けない」「県教委」の「担当者」言い放たれていたこととて、
「調査・研究」の末、望東尼が亡くなったのは、「荒瀬家」の「主家」の「南八畳の間」であって、その「荒瀬家」の「主家」が、 「平成の初め」に、「解体」→「新築」されているのだから、「亡くなった部屋」のない「終焉の宅」「指定継続」はおかしい≠ニして
「指定解除」してもらった「家」の前現在もある 「山口県指定史跡」としての「終焉の宅」の、「石碑」「解説」です。   
   (「写真」の文字を確認ください。)

これにも、「七日間」の「参籠」、そのタメ、望東尼は亡くなったかのように≠ネっていますが、これはまだいい方です。
「一七日」ひとなのかを「17日」とした公的≠ネ「資料」もあります。
ただ、この「石碑」も、いつからの「七日間」かが書かれておらず、「参籠」して間もなく亡くなったようになっており、それなら、「終焉の宅」がどこであっても、たいした意味はないと言わざるを得ません。
望東尼は、当初から「七日間」は滞在するワケで、「豪商」である「荒瀬家」の「客間」ではなく、「離れ」を提供したのです。
しかし、薩摩軍が約束の期日に来ないタメ、三田尻に留まったのです。
9月25日から11月6日まで、望東尼は「三田尻」にいた
のです。
    (「読売新聞」にあるように、「転居」したのではありません。)
そして、体調を崩すまでは、望東尼は精力的に、活動しているのです。
つまり、「荒瀬家」の「離れ」は、望東尼が「介護」を必要となる迄、寄寓していたのであり、亡くなったのは、「主家」の「南八畳の間」に移され、多くの人に見守られてのことですが、
こうした「離れ」、「主家」を提供され、篤いもてなしを受けたことに、望東尼は感謝の涙を流したということなのです。
    




この「解説」は、地元の篤志家が建てられた
O 明治維新勤王志士 正五位野村望東尼終焉の宅 百拾周年記念之碑
という当時≠フ防府市長 鈴木 覚氏揮毫の「碑」(中央)
及び
O 望東尼の判読できないとされる「絶筆」をそのまま″盾だ「石碑」(左)
一体で、「右横」に設けられたものですが、
この「解説」は、防府市教育委員会による 『ふるさとをたずねて』 [昭和43年3月] の8&ナにある
    野村望東尼終焉の宅および宅跡ならびに墓
とほぼ%ッじ文章です。

「左の写真」は、平成18年の、「防府天満宮」の「望東尼像」の基礎工事なども工事され、この「碑」のアフターケヤーもしてくださっている「山根石工店」の方と、
「防府望東尼会」の方です。
「防府望東尼会」の皆さんは、「望東尼の墓」及び「望東尼の像・歌碑」周辺を中心とする「防府天満宮境内」の掃除・除草も、当番制で、なさっておられるのです。






 「野村望東尼」の「国指定」スラ願っておられた 田中龍夫氏






「左の写真」は、田中龍夫氏 揮毫 の 「野村望東尼終焉之家」 です。
「昭和二十六年九月」とありますから、まだ、「山口県指定文化財保存顕彰規程」もなかったのですが、 龍夫氏の田中義一氏の「別邸」は、 「夏みかん」の推奨者 小藩高政(おばた たかまさ)経由してはいますが、 「右田毛利家」の「萩」における「下屋敷」でした。
      (現在は、寄贈されて「萩市」の所有)
「維新戦争長州軍」の「総大将」の 毛利内匠(藤内) は、「右田毛利」ですから、望東尼に対しては、龍夫氏には、特別の思いがあって、「国指定史跡」となることを期待されていたのかも知れません。

龍夫氏は、「昭和22(1947)年」、36歳の若さ「山口県知事」に当選、「昭和28(1953)年」に「衆議院議員」になられますが、
その後、義弟 小澤太郎氏 が「知事」となられたことで、この「書」を託されたようです。

「昭和29年」になって、「顕彰規程」にもとづく「山口県指定史跡」として、「宅跡」・「墓」と共に、「指定」されますが、
思いも寄らぬことでしたが、「家」が 「終焉の宅」 とされたことで、小澤氏から、にくださったようです。

なお、「上」の「石碑」には、当時の防府市長鈴木氏が「揮毫」されたものが、刻まれていますが、
この「石碑」は、篤志家資金を出され、も「関係者」として、名前が刻まれてはいますが、「名前」のみで、関係しておらず、
のみならず、昭和51年と、「文化財」担当を離れて久しいこととて、この篤志家には、「文化財」を担当していたことも知られなかったようで、 への「相談」はなく、従って、龍夫氏の「書」 を利用する「機会」はなかったのです。

なお、父の「教育庁」勤務のころの「知事」は、どなたも、おおらかな方で、「一役人」にも、声をかけてくださっていたとのことで、龍夫氏からは、何度もお話をしていただいていたのみならず、代議士になられた後も、親しくしていただいていたようで、「書簡」「色紙」、さらには、「サイン入り」の『著書』も残っています。
小澤氏も同様ですが、小澤氏については、「土井ヶ浜遺跡」の関係で、小川五郎氏、三宅宗悦氏、三坂圭治氏、田中 晃氏と旧制「山口高校」「同窓」ということで、も、小澤氏をお訪ねし、長時間、対応していただいています。


「野村望東尼終焉の家」である「荒瀬家」が、池田正介少将の「所有」を経て、林川長兵衛氏の「所有」となって、
「林川家」は、もともと「荒瀬家」の「隣」であり、隣接≠オた、それも、いずれも広大な=u二軒」を所有されたことで、「離れ」は不要として、「桑山」の東麓にあった「林川家」の広大≠ネ「所有地」の一画に、望東尼関連として、移築されたようです。
林川氏は、まさか=A「亡くなった場所」が、後年、「指定」されるとは思っていなかったのでしょう、望東尼が寄寓していたということ、壊すには惜しい≠ニいうことで、「離れ」ダケを移築されたと思われます。
なお、「借家」として「利用」するために、「移築」当時から、増築されていました。 (その後、林川家の東京移住に際し、「借家」として利用していた「我が家」が求められて「購入」することになったワケですが、野村望東尼関係≠ニいったことは一切′セわれていませんでしたので、8$l家族でしたので、購入後、倍°゚くなる増築をしていました。)
移築された「離れ」ノミが終焉の宅として、「指定申請」されたタメ、望東尼亡くなった「南八畳の間」のある「主家」は、「平成の初め」「解体」されていますが、
望東尼が、「防府滞在中」の大半≠ノわたって、「寄寓」していた「離れ」ですし、福田氏によって、「評価」されている「離れ」ですので、「移築」→「保存」されることになれば、望東尼に対しての「待遇」が、疎かではなかったということの「証=vともなろうかと思われることとて、龍夫氏も、喜ばれるかもしれません。
なお、は、著名な方々から、「書」「色紙」をいただいていますが、「公開」する機会がなかったのが、「移築→保存」「実現」すれば「参考資料」として、公開できるかもしれません。


 


「左」=小山冨士夫先生
「中」=藤島亥治郎先生
「右」=「画家」の 海老原喜之助




 この 望東尼 の寄寓した 旧「荒瀬家の離れ」 は、「移築・保存」が検討されているということ 




「維持・管理」が託されることになった「家」は、 
「山水」が流れ込み、「住めない家」にされているのみならず、春山育次郎氏の『野村望東尼傳』を筆頭≠ノ、望東尼「終焉の宅」は、「別の家」だとする「情報」が流布≠オ、訪れる人は皆無に近いのに、
「県教委」も「市教委」も、何等の「対応」をしようとしないでおいて、
   「焼けて無くならない限り、『指定解除』はしないし、『寄贈』も受け付けない」
と、「平成16年当時=vの「県教委」の「担当者」言い放たれたのに加えて、
「指定申請」に同意を求めた「防府市」なのに、
『防府市史 通史U 近世』において、
望東尼は荒瀬家に身を寄せていたが、一説には土井新兵衛家にも身を寄せたのではないかといわれている。
これについては確証がないのでふれない。
と、望東尼亡くなった家は、定かでないかのように記しています。

私の「両親」が、「指定」を求めたのではありません。

「松崎小学校」に招かれた際、「借家」として、入ったダケで、望東尼との関わりなど、知りませんでした。
林川氏が東京に移るので、「購入」か「明け渡し」をと持ちかけられたため、購入 し、8人家族でしたので、購入後増築していたのです。
それが、「防府市」が「一括℃w定申請」したいので、「了承」をというので、「県教委」の「文化財担当」の位置にいたですので、「了承」したに過ぎません。
「指定問題」には係わらないということで、課長の了解も得ていたのです。
ただ、としては、
@ 本来の£nから、離れている。
A 望東尼の寄寓していたころの3倍近くになっている。
ということで、「終焉の宅」については、「指定」は見送られると思っていたようですが、「移築」までして保存されているといった捉え方がされたらしく、「指定」されたのです。)



そこで、 最低限=A「望東尼の終焉の場」であることダケでも、はっきり≠ウせようとして、
「調査・研究」をしたところ、
望東尼の亡くなったのは、『防州日記』等々の「資料」からして、「荒瀬邸」であることは、間違いないが、
「防府市」「昭和29年」に、提出した「指定申請書」が、「主家」(「指定申請書」による)と「離れ」「別の家」として、「離れ」のみを望東尼終焉の宅としており、それが認められて、「離れ」「指定」している。

しかし、望東尼亡くなったのは、「介護」が必要な病状となったことで、旧「荒瀬家」の「主家」の「南八畳の間」に移され、そこで、も手厚い「介護」を受けつつ、亡くなったということがわかりました。
「山口県指定文化財保存顕彰規程」が、「昭和41年」に、「山口県条例」昇格し、望東尼関係は、「指定」が継続しますが、困ったこと≠ノ、
『文化財資料』「ホームページ」は、問題がありました。
望東尼寄寓していた「離れ」は、「大正」林川氏による)、「昭和」購入後私の両親による)の増築があり、「3倍」になっているのに、増築部分を含めて、「全体」がそうだという「図面」になっていました。
  (このことの確認調査を、福田東亜氏がされたのです。)

そこで、「離れ」は、旧「荒瀬家」の一部ではあるが、
肝腎≠フ「主家」が、存在しない以上、「指定」は解除スベキ

として要請したものの、「話し合いの場」スラなかなか、設定してもらえなかったため、
「ホームページ」を作成して、私の「見解」世の「識者」に問おうとしたところ、
福岡県糸島市野方春人氏の目に触れ、野方氏が「案内」を求められたのに応じたところ、
予想もしなかった野方氏による『著書』(3冊)に、「写真」入りで紹介していただくようになったのも幸いしたのでしょう、
「平成26年10月16日」(「記録」としては「平成26年12月2日」になっているようです)に、「山口県指定文化財」の「指定解除」実現しました。
▼▼▼◆◆◆//(戻る)
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当初≠ゥら、「松崎天満宮」=「防府天満宮」への「七日詣で」目的での「来防」であり、
少なくとも=u七日間」は、滞在することとて、「豪商」=「綿屋」「主家」の「客間」望東尼に提供したのではなく、
庭を挟んだ「離れ」が、「江戸時代の商家の離れを感じさせる瀟洒な良い建物」 (←クリック)であったこととて、提供したのであったが、
「薩摩軍」が約束の期日に来なかったこと、さらには、「10月9日」に、小田浦に投錨したものの、「倒幕」のタメの「東上」が、先送りになったこととて、
そのまま、留まっていた望東尼であったが、十月中旬から、体調を崩し、
病状が重くなったことで、十月末に、「荒瀬邸」の「主家」に移され、「南八畳の間」において、手厚い介護を受けながら、亡くなったのに、
「防府市の指定申請書」(「山口県指定文化財保存顕彰規程」のもと、「昭和29年」に「申請」)は、「主家」「離れ」「別の家」としているのみならず、「離れ」のみ望東尼の「終焉の宅」とし、
それが「審議会」で認められたタメ、
「指定」から外れた「主家」は、「平成の初め」に、解体され、立派な「邸宅」になっています。

山水の流れ込みで「「住めなくなっている 家 」であり、望東尼亡くなった「主家」がないのに、「未来永劫、維持・管理せよ」というのは、納得できないこととて、
「主家」がないのに、旧「荒瀬邸」の「一部」である「離れ」のみを「終焉の宅」として「指定」というおかしいからして、「指定解除」するように、要請し、
「指定解除」の「前例」がないタメ8年かかりましたが、「指定解除」実現したのです。


しかしながら、その「指定解除」を「報じたマスコミ」は、全く、「取材」に来ぬママ困ったことを伝えました。

のみならず、河野俊乎≠ニいう「検索」で出てくる◆ 平成26年3月定例教育委員会会議の要旨 なるものは、 これまでの「経過」を無視≠オたかのように≠ネっていました。

「県教委社会教育・文化財課」「訂正」を要請しましたが、「会議録」なので、「いらえない」というこしとでした。
そこで、私は、『自費出版』の中に事実「記録として残す」といって、電話を置きました。

時が経過すれば、「無くなる」と思ってのことです。

ところが、




それなのに、この「指定解除」を伝えた「マスコミ」報道は、「取材」なきママで、困ったことに
「離れ」は、全く*]東尼には 関係がないかのごとくしていたタメ、誤解している人が少なくないようですが、
それは、誤り望東尼は、「防府」滞在大半、この「離れ」にいたのです。

私は、「文化財審議会」及び、それを受けた「指定解除」の「会議」には、当然、出してもらってはいませんが、
それまでの「指定解除」の話し合いの場においては、私作成の「資料」が中心でしたし、時間の大半は、私が喋っていました。
「担当者」は、人事異動で、代わりましたが、「文化財審議会」の直前≠フ「話し合い」には、
開地元典県教委社会教育・文化財保護課主幹吉瀬勝康防府市教委文化財課課長らに加えて
「文化財審議会」の中心となる「史跡」関係の「文化財審議委員」木下尚子熊本大学教授田中誠二山口大学教授中川明子徳山高専准教授という3人「文化財審議委員」が加わられての話し合いでしたが、それにも、参加しているダケでなく、私の「見解」検討してもらったのです。

当然のように、吉瀬氏の「記録」を調べられて、中村副市長末吉教育部長は、「移築→保存」を検討されているのです。


中村副市長は、この平成29年3月末で、
「任期を1年3カ月残しているが、年齢(70歳)に加え、後任にスムーズに引き継ぐため年度末での退任を決意した」(「山口新聞」)として、退任されましたが、
「新聞発表」の後、私と会ってくださり、「後任の副市長に、引き継ぐ」といわれ、
後任の村田 太新副市長は、新着任で忙しい中「5月8日」「20分」ではありましたが、
総務部長になられた末吉氏、新教育部長原田みゆき氏、
産業振興部長神田博昭氏と同席で、「議会の承認が必要だが、執行部としては、保存の方向で進める。」と言っていただけました。
十日前(4月28日)に、「秘書」の方から「連絡」がありましたので、「資料」が用意できたうえに、その「資料」を届けていたことで、それを、村田 太副市長同席の方々は、読んでくださっていたことで、短時間ではあっても、十分な「確認」ができたと思っています。




しかし、皮肉≠ネことに私の「ホームページ」や、 野方春人氏の『著書』 に加えて、「大河ドラマ 花燃ゆ」の放映で、私の「ホームページ」
     楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人 ─

が、一躍、注目≠ウれるようになった(「アクセス数」は瞬く間に「2万」を越え、現在≠ヘ無くなっていますが、楫取素彦「インターネット内の検索結果」なるもので、「ウィキペディア」に継いで2位とありました)ことで、「群馬県」の方も、訪ねて来られるといったように、 「指定解除」になって、ようやく$lに知られるようになったのです。
(この楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人 ─という「ページ」を始め、幾つもの「ページ」に、次のように、記しています。)


◆ 「連絡」について

Εメール

気づきや、「望東尼終焉の宅=vの「見学」申し込みについては、
「↑」のΕメール≠ニある箇所をクリックして「連絡」してください。
また、この「ページ」に関しては、今後も、随時、推敲、加筆していく予定
ですので、お気づきがあれば、ここから連絡を御願いします。


そこで、

「維新150年」にあたる 「平成30(2018)年」迄 は・・・

「ホームページ」&『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』において、「宣言」して、「私の管理している家」のことですが、
「定例教育委員会会議の要旨」
建造物として新たに指定して保護する価値も有していない
とあるものの、それは、「増築部分」が倍以上、それも、「大正・昭和」のもののある混合≠オた「建物」だからです。


それまで、何度となく、「県教委」の公式≠フ「出版物」に掲載されている「図面」が、望東尼に関係の無い、「増築部分」を含めた「全体」であるようになっていることの「訂正」を求めていたのに、「引き継ぎ」さえされていなかったのですが、
「県教委 社会教育・文化財課」の主幹に、清水利宏氏が着かれたことで、 受け入れてもらっただけでなく「平成18年」当時、「建造物担当」の委員であった 福田東亜氏 (その後、「文化財保護審議会会長」) と共に、「確認調査」に来られ、福田氏が、詳細≠ノ「調査・確認」され、
江戸時代の商家の離れを感じさせる瀟洒な良い建物だと思う」
と「評価」され、そのことを公≠ノすることの「許可」もいただいて、
私の 『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』 に、
 O 野村望東尼の「寄寓」していた「離れ」をせめて=A「写真」として残しましょう
として、福田氏の「評」を含め、12枚の「写真」を載せていたこともあってでしょう、
福田氏が、「防府市」の「委員」でもあることとて、「副市長」中村 隆氏が、福田氏の「意見」を聞かれ、「文化財課」とも相談され、 「望東尼の関係部分」のみを「移築保存」する方向で、進めてくださっています。

   (私の『本』でも、「国立国会図書館サーチ」「検索」で、◆ 土井ヶ浜遺跡◆ 百万一心◆ 野村望東尼(←クリック=jのどれでも、ヒットしますので、それなり≠フ「意義」はあろうかと、思っていました。)


「左」の「平面図」赤枠&舶ェが本来≠フ望東尼寄寓していた「離れ」です。
この「確認」をされたのが福田氏です。

「中の写真」は、「平成27年11月20日」に「調査」に出向いてくださった
中村 隆 副 市 長
藤本尚志 文化財課課長(平成28年3月末で「退職」)

「右の写真」は、平成29年1月6日における原田光朗氏と
末吉正幸教育部長

なお、中村副市長末吉教育部長には、二度、原田氏の場合は、それこそ、何度となく、「調査・確認」に赴いてもらっています。
























「指定のママ」なら、外観的にも、「建替」が必要と「判断」されるようになったら
(私が「維持・管理」を続ける限り、それは、かなり後のことになります。
過日、「調査」に訪れられた「業者」の方から、
「床下は腐食しているものの、こんな状態で保たれているのは、大変なこと」
と言っていただきました。
が、「文化財」に係わっていたこととて、「疑問」はありながらも、少なくとも、「週2日」は、風通しに訪れていますし、 「願い」を出して、「私の負担」」で、「修理」もしてきていました。)

望東尼関係のないものまで、そっくり=A「解体→復元」することになり
その場合は、私の負担はほとんど≠ネく
「山口県」・「防府市」が、大半を「負担」することになったのです。
それが、「望東尼関係箇所」のみなら、「経済的負担」は少なくなりますし
旧「荒瀬家の主家」は、「平成」の始めに、解体され、新しい=u邸宅」になっているいることとて、「指定」はともかく、「望東尼関係」、「江戸時代の瀟洒≠ネ建物」という点で、「保存すべき」という流れ≠ノなりつつあります
もし、「移築→保存」実現すれば、私が「指定解除」を要請したことは、この「離れ」が、望東尼「寄寓」していたということを知らしめることになったことに加えて、本来≠フ旧「荒瀬家」の「離れ」のみが「復元」されるということですので、「結果オーライ」ということになりましょうか。

「左の写真」2枚は、昭和38年9月8日(日)=「朝日新聞」の「記事」についていたものです。
この「山田家本屋」は、「山口県指定文化財保存顕彰規程」に基づく「指定」で、「予算的裏付け」がなかった当時、「徳山市立体育館」の横に、「公民館」的に利用するということで、主要部≠ェ「移築→保存」されましたが、「山口県条例」に「改正」されたことで、現在≠ヘ、湯野の地完全復元されています。

「右の2枚の写真」は、私が「管理」することになって、私の負担で、補修した「野村望東尼終焉の宅」とされる「茶室」附近の「工事」のもの
及び、
「市道」からの「山水」の流れ込みに対する「対応」が、何度、要請しても、「個人的陳情は受け付けられない」として、してもらえなかったこととて、「床下」が剥がせるように、二箇所=A「工事」をしてもらったうちの1箇所≠ナす。
「住めない家」の「管理」ということで、梅雨時や台風、大雨の時は、「除湿器」をかけっぱなしという状態にして、夕刻、帰宅するのですが、翌朝行ってみると、この比較的@e量の大きい「除湿器」でも、「満水」で自動停止≠オているといったことの繰り返しだったのです。
しかも、困ったこと≠ノ、「写真」の「除湿器」は発火の虞があるとして、リコール対象だったのです。
幸い、何事もなく、新しい「除湿器」に交換となりましたが、平成20年8月まで、2年間は、火災の虞があったということですので、ぞっとしたものです。
「市道」からの「山水」の流れ込みに対する「工事」は、「岡村町自治会」からの「要請」ということで、「平成22年8月24日・25日」にされました。)


従って、現在≠「内部」の見学・確認は可能です。

先日も、福岡県糸島市の「歴史研究会」の方々糸島市は、「姫島」のある地)が、「講師」野方春人と共に訪れられましたし、

地元=防府市の、古田光儀氏は、「樹木医」として著名な方であるのみならず、
平成26年4月からは、 望東尼の滞在した華浦地区」「華浦の歴史を学ぶ会」会長として、山口県内の「歴史」に興味のある方を案内されており、
六人の方を案内される途次、「この家」にも立ち寄られました。
なお、古田氏は、「大河ドラマ 花燃ゆ」放映時には、「大楽寺」において、「案内」をされていたのを始め、幾つもの「イベント」において、ボランティア的な活動をされています。

・十月二十六日=花浦の松の葉しげく置く霜と消ゆればあはれ一盛かな 

・十月二十九日=雲水の流まどひて華浦の初雪と我降て消ゆ也

『防州日記』より









望東尼どこで亡くなったかは、望東尼の「人柄」に直結≠キることです。

▼@ 「土井栄作旧宅」=肺結核のタメ「空き家」になっていた「土井栄作旧宅」に移ることになり、ほとんど放置され、不平をもらしたりしていたが、
     誰にも看取られることなく、気がついたら亡くなっていた。


▼A 「荒瀬家の抱家=v謙虚で、慎ましやかな望東尼は、望んで、到底、立派とはいえない、「抱家」に移り、そこで、亡くなった。

▼B 「荒瀬家」多くの見舞客・看護人によって、大切にされ、望東尼素直にその好意を受け、感謝しつつ亡くなった。
       (「藤四郎告訃状」御自分にも難有涙を被流、御厚慮之程を拝謝相成候程之次第に御座候。≠ネど)



困ったこと≠ノ
野方氏の複数の=w著作』
及び、
私の 『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』
私の「ホームページ」
以外においては、 [関係のない=u家」=▼@・▼A]を記した『著書』が未だに、流布しており、しかも、まだ、その「説」を信じている人が少なくないという現実のモト、
望東尼亡くなった「主家」は、存在しませんが、
望東尼介護を受けるようになるまで、寄寓していた、この「荒瀬家の離れ」は、望東尼「賓客」として受け入れられていたことを事実≠ニして示すことになりますし、

「荒瀬家」は、豪商であり、最低≠ナも「七日間」は、滞在する望東尼に、「客間」を提供することは難しく、「庭伝い」にある「離れ」を提供したのですが、
それは、決して、「粗末」なものではなかったのです。
ただ、介護を必要とするようになって、「主家の南八畳の間」に移り、多くの人々に見守られながら、最期を迎えたのですが、
望東尼は、感謝しつつ亡くなったのです。





のみならず、この「離れ」を、「九月廿八日のよ(夜)
小田村ぬし(小田村伊之助→楫取素彦)
国貞ぬし(国貞直人)
山田ぬし(山田市之允→山田顕義)
などが訪れたと『防州日記』に記されています。
楫取国貞は、「倒幕軍総督」 毛利内匠「参謀」ですが、
山田も、
戊辰戦争で討伐軍の指揮をとり、その際、西郷隆盛から
「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」「用兵の妙、神の如し」
と評されたと言われており、
さらに、その後、「侯爵」「日本大学」の「創始者」という、「歴史」に残る人物です。

「写真」は、外から「茶室」〜「六畳の間」を撮った1枚です。
この「写真」を含め、「離れ」の「写真」は、次の≠クリック≠ウれれば、何枚もあります。
「終焉の宅」の「指定解除」は、「野村望東尼寄寓の『離れ』」の否定にあらざること!
ただ、「このページ」と重複≠オた「記述」も、少なくないことを、予め、お断りしておきます。



吉田松陰「留魂録」 と 福島藩士能勢久米次郎の家臣という 沼崎吉五郎 のこと

「留魂録」(りゅうこんろく)は、吉田松陰が、安政6年自身の処刑を察知して、獄中で、10月25日から26日にかけて書き上げた、松下村塾の門弟のために著した「遺書」ともいうべきものです。
この「留魂録」は、松下村塾門下生のあいだでまわし読みされ、松門の志士達の行動力の源泉となったと言われます。
高杉晋作らの手にわたった「留魂録」は、残念なことに、いつの間にか所在不明になったといいますが、一応の使命は、果たせたということで、
「牢名主」であり、その後、三宅島遠島となっていた沼崎吉五郎が、明治9年に、もたらしたもう一つ≠フ「留魂録」は、その内容を今日も、知ることができるという程度に受け取られるかもしれませんが、
そもそも松陰が、「留魂録」を二日がかりで「留魂録」を書き上げたこと自体沼崎吉五郎の協力なしには不可能だったハズです。
(一通行方が不明ということで、その真偽の確認はできませんが、高杉らの読んだ「留魂録」は、松陰筆跡と違っており、沼崎の手にあったものが松陰自筆で、いま一通は別人に依頼した「写し」だったとする「ホームページ」もあります。)


彼が本土に帰った明治7年、江戸は東京となり、世情は一変していました。
それから2年後の明治9年になって、当時 「神奈川権令」だった野村 靖(明治11年7月から「県令」)に
「私は長藩の吉田松陰先生の同獄沼崎吉五郎というものです。」と言っていきなり「留魂録」をさしだしたと言われます。
野村「留魂録」を渡したあと、何の代償も求める気配も無く松蔭との約束を果し終えて 淡々と立ち去ったといいます。
野村彼を引き留めようともせず、ましてや、後を探して追うこともなかったようです。
 
沼崎その後行方は、わからないといいます。
そして、没年も、そして年齢さえも 記録に残っていないようです。
私は、沼崎を、労ってほしかったと、「次」に示す古川 薫氏に共感を覚えます。

古川氏は、沼崎に対しての対応について、
「それにしても、この留魂録の成立を側面から助け飯田正伯らの手に届くように骨折り、さらに預けられた一通を守り通して原本を伝えた沼崎吉五郎の存在を忘れてはなるまい。
野村に渡したあと、彼は飄然と姿を消すのである。
野村が彼を引き停めて、何らかの職を与えるくらいはわけもないことだったろう。
生き残り政府の高官にのしあがっていく長州人の、弱者に対する惻隠の情の薄さを嘆くばかりである。
と述べ、さらに、
「地下の松陰とすれば、明治九年のこのとき、留魂録を萩に送るより、沼崎吉五郎の労をねぎらうことのほうを喜んだのではあるまいか。」
と、『留魂録』についての「著書」における「解題」に記しておられます。

私は、恩人≠ニもいうべき野村望東尼を、可能な限り、手厚く、介護したということは、重要なこと≠フハズだと思いますのに、
大した「調査」もせずしとて安易≠ノ
誰にも看取られることなく、寂しく亡くなったかのような≠アとを記したり
手厚い看護≠疑問視せざるを得ないような「抱え家」としていることは、
「維新」新しい=u日本」に生まれ変わった「契機=vと捕らえる我々には、看過できないことではないでしょうか。

沼崎に対する扱いは、残念の一言ですが、
望東尼に対しては、「長州藩」を揚げて、手厚く、接したという事実は、忘れてはならないことと、私は思います。
そして、その「証=vとしての「荒瀬家」の「離れ」ですので、
「住めない家」とされながら、未来永劫=A個人で「維持・管理」せよという当時≠フ「県教委担当者」の要求には、応えられないこととて、亡くなった「主家」のない「離れ」のみを「望東尼終焉の宅」とする「山口県指定史跡」は、「解除」してもらったのですが、
福田氏によって、
  「江戸時代の商家の離れを感じさせる瀟洒な良い建物だと思う」
と評されている望東尼寄寓していた「離れ」が、残してもらえるなら、有り難いことと思っています。

中村副市長末吉教育部長原田文化財課課長補佐といった方々によって、「調査」が継続されていますが、「防府市の市議会」の「承認」が「必要」ということで、どうなるかは「未定」ですが、「萩市」に、萩まちじゅう博物館なるものがあり、「文化財指定」ではないものについても「維持・管理」されているように、「防府市」においても、この「望東尼寄寓≠フ離れ」が、「維持・管理」されるようになることを、願っています。




「両親の家=望東尼の寄寓していた『荒瀬家』の『離れ』」ということを知らず、「借家」として入り、その後、購入した「家」ですから、望東尼寄寓していた当時「離れ」に、どのような「調度品」があったかは、わかりません。
しかし、それなり「調度品」は、「茶人」でもあったですので、「移築→保存」される場合には、寄贈しようと思っています。

さらに、父=英男は、終戦後
「文化財保護法」の制定に伴い、「山口県教育委員会社会教育課」に、新たに$ンけられた初代の「文化係長」にしていただき、「文化財」に、ほぼ¥\年、係わっていました。
少なくとも、当時≠ヘ、「廃材」等を、廃棄・焼却してしまうのではなく、
「記念」として、残せる物は遺そうという「方針」だったそうで、
の手元にも、幾つもあり、のみならず、「転出」した後も、関係者から、いただいていたようです。
「戦争」を挟んだことで、重要な=u建造物」「修理」何件もあり
さらには、「キジア台風」によって、「錦帯橋」が流出、
「秋吉台」の「米軍演習場」問題・・・・・
と、「文化財」の「歩み」に係わる「記念物」的な物が、少なからず、あります。 ここをクリック
「月輪寺」の「古材」も、その一例ですし、「洞春寺」の「柱」を利用して作った「火鉢」
錦帯橋の「廃材」を利用した「茶托」(「岩国市」が作成)などがあります。
「木材」は、何百年、経過しても想像以上に荒廃せず、むしろ、よい「味」を出しています。

また、「陶片」など、一般的には価値はないものの、それなり≠ノ貴重なものもあります。
「博物館」など、「公的施設」にも、話を持って行きましたが、「収容スペースに余裕がない」と言われているものの、
廃棄してしまえば、それきり≠ナすが、小山冨士夫先生から、直接℃w導を受けていることとて、「学術的」には、意味あるものもあります。
さらに、「テレビ」や「新聞」でも紹介されたように、並外れた「整理」をしていたですので、「担当者」が何代も代わっていて、「保存」が確認できないものが、 「手元」にのみに残っているものもあります。
事実=A既に、関係が特定できる「施設」には、幾つも寄贈しています。

「周南市立美術博物館」が、「展示」は約束できないが、「所蔵」はしておこうとして、「戸田焼」を受け入れてくださったように、
本来「荒瀬家」の「離れ」には、「押し入れ」が幾つもありますし、そこに「蒲団」等を入れることはないと思われますので、 この「押し入れ」等に、「古材」を利用した「表札」「資料」「陶片」等々を、保存していだけないかという提案をしています。
無論、「寄贈」した後は、廃棄等、扱いは一任します。

もし、実現するようでしたら、私の『出版』及び「ホームページ」に記しておくつもりですので、研究者の方のみならず、関心のある方は、「事務所」に尋ねてもらうということにしたいと思います。
  (「戸田焼」の場合は、『萩焼・戸田焼』 に、「写真」入りで、「周南市立美術博物館」に、所蔵されていることを紹介していますし、
 「戸田焼(へたやき)」 にも、─  「周南市立美術博物館」に受け入れていただいた我が家の「戸田 焼」の「作品」 ─ としてアップ≠オています。)








「うめてらす」   





「まちの駅 うめてらす」 にあった「解説」

「まちの駅 うめてらす」 は、「防府天満宮」の入口にあり、多くの人が立ち寄る「防府観光の拠点=vともいえる「施設」です。
「左」は、その 「まちの駅 うめてらす」に掲げてあった「解説」です。
「活字」で示しておきます。


 幕末の勤皇歌人と知られる野村望東は、 福岡藩士・野村貞貫の妻。元治元年(1864)11月、長州から九州に逃れてきた晋作を、平尾山荘に匿ったことで知られる。 菅原道真が「歌の神様」であることから、望東も熱心な天神信者だった。 そのため、晋作と精神的に相通じるものがあったのかもしれない。
 慶応3年(1867)4月13日、29歳の生涯を閉じた晋作の葬列を望東は見送る。 その後、上方に向かう長州の倒幕軍第一陣が、同盟国である薩摩藩の軍勢三田尻で待っていると聞き、 松崎天満宮戦勝を7日間祈願し和歌を献上する。 体調が悪いところを無理をして参詣したため、望東尼は同年11月6日三田尻の地で62歳の生涯を閉じる。


私の指摘で、現在≠ヘ除けてあり、私の「原稿」をもとに、「防府市観光協会」「おもてなし観光課」で、検討してくださっていますが、
残念ながら=A「望東尼の150回忌」には間に合いませんでした。


9〜10″s目に、
体調が悪いところを無理をして参詣したため、望東尼は同年11月6日に
亡くなった
とあるのは、どういう「資料」に基づいているのか、はたまた、どういう人物 or どうい経過「解説」であるのか、まったくわかりませんが、
「9月25日」には、山口から、徒歩で、防府に来ているのに、体調が悪いところを無理をして参詣なんてことは、ありえないハズです
それに、10月2日〜11月6日は、かなり≠フ日数です。
しかも、望東尼『防州日記』からは、「七日詣」以後も、望東尼は、いろいろと、活動していたことが伺えるのですから。

「維新150年」間近なこととて、できるダケ早く、新しい=u解説」が掲示されることを望んでいます。


なお、「観光案内図」については、既に対応していただいています。

  明治維新に大きな「役割」を果たした「富海」の「船蔵」・「飛船」のこと
↑ 「構成」の中の
  「(7) 「小田浦」着の「薩摩艦」の兵を「飛船」で「上方」へ
      =実質的≠ネ「薩長同盟」の発効=I

をクリック≠オてください。


    (「平成28年12月15日」〜は 新しくなっています。  ここをクリック)









「アスピラート」の会場をほぼ埋め尽くした「望東尼の150回忌 記念祭」でも




望東尼の150回忌記念祭 にも「影響=v?

「アスピラート」の会場をほぼ埋め尽くした「望東尼の150回忌 記念祭」ですが、、

「第3部」 望東尼を偲ぶひととき

2. 吟舞「高杉晋作と望東尼」の場合は、過去における「作品」であるタメ、ヤムを得ないにしても、

1. 音楽劇「野村望東尼〜嵐に咲く花〜」の場合は、
「新聞記事」によると、
「直木賞」作家というダケでなく、十分な「考証」に基づく「歴史小説」ということでも、著名な古川 薫氏が、
この「150回忌記念祭」のために
脚本を書き下ろしたオリジナル作品で、音楽を通じて当時の世界観を表現し望東尼の生きざまを伝える。
というもので、
音楽劇は「野村望東尼〜嵐に咲く花」と題し約40分間のステージ。
ピアノやフルートなどの演奏とともに、防府高合唱部と市民でつくる「望東尼をうたおう会」のメンバー計約50人が合唱するほか、小学生が朗読を披露する。
望東尼が詠んだ和歌も吟詠し、ナレーションで望東尼の生涯に迫る。


とあるのですが、驚いたことに、望東尼は、「防府天満宮」に、水ゴリ・絶食潔斎二十日間もしたとあったのです。(耳にしたダケですが、間違いはないと思います。)
水ゴリ・絶食潔斎「防府市教委文化財課」の「資料」を信頼してのことと思いますが、
「一七日」ひとなのか「17日」という勘違い≠ナはなく、二十日間というように、古川氏にして、このようになっていたのです。

「左」は、以前、古川氏から、「学校図書館」「山口県」出身の「芥川賞」・「直木賞」受賞「作家」の方の「色紙」を飾りたいとして、お願いした「色紙」です。
古川氏は、快く、提供してくださいました。
その際、「予備」として「2枚」、お渡ししたのですが、「2枚」共、くださったので、「学校図書館」には、現在も飾られていますが、「1枚」は、私の「手元」にあるワケです。

この言葉からも伺えるように、古川氏は、素晴らしい方です。
この音楽劇「野村望東尼〜嵐に咲く花〜」は、今後も、演じられると思われることとて、
私が耳にしたように、「脚本」がなっているとしたら古川氏には、検討をお願いしたいのですが、
この「色紙」を紹介することで、古川氏のお人柄を「理解」していただけたらと思っています。





 『防州日記』によってわかる 「七日間の 参籠=vは、間違いということ


  次回『出版予定』の「防府天満宮」のことを「次のページヶに記しています。 次をクリック≠オてみてください。
     ◎『出版』予定の仮アップ=「防府天満宮」のこと



『防州日記』による「七日詣」

「防府天満宮」に現存する望東尼「奉納歌」や、
『楫取素彦伝』との「比較・検証」によって、『防州日記』の記述には、信頼性があることがわかります。

ここでは、「七日詣」についてのみ、記しておきます。

初日=「九月二十五日」=「山口」から「防府」へ来て、「天満宮」参詣し、「荒瀬家」で宿泊。
↑ 「途中」、「鳴滝」昼食を取っていることが明記されている。
 さらに、常識的≠ノ、荒瀬ゆり子は、望東尼のために、「夕食」を用意していたと思われる。
 なお、「荒瀬家」の「離れ」には、「台所」等はなく (←クリック=j、防府滞在中「食事」のほとんどは、「荒瀬家」で用意され、「使用人」によって、上げ下げされていたと思われる。

二日目=「九月二十六日」「参籠=v可能性は あり
三日目=「九月二十七日」「参籠=v可能性は あり
但し、『防州日記』に、
まりふ松原にて、こたびのいくさだてを、公のみ試みせさせ給へるを見奉りける時、・・・
として、日付なしで記してあるのが、『修訂防長回天史』によると、九月二十七日のこととあるので、
この日も、「参籠=vしていないことになる。

四日目=「九月二十八日」[我が旅のやど==u荒瀬家」の「離れ」]に、小田村ぬし国貞ぬし山田ぬしなどが訪れている。
五日目=「九月二十九日」「参籠=v可能性は あり

六日目=「九月三十日」
↑ このことは、「防府」の野村望東尼&晋作・望東尼の「おもしろきことも」考 において、「山口県立図書館資料情報課」からの「回答」を記しています。
一流≠ニされる方々が、『防州日記』によると、九月二十五日(「鳴滝」で、昼食)が、最初≠フ日であることは、疑いようのないことなのに、
九月二十六日開始日とされ、望東尼七日間の参籠=E断食したとされていることに、疑問を持ったのです。
六日めは、はや十月一日にもなりたれば
   ただ七日わが日まうでもはてなくに神無月ともなりにけるかな
とあることを逆算して、九月二十六日開始日とし、楫取素彦「碑文」「舎菅祠」・「絶粒週日」にあわせようとしたのではないかという疑問からです。
なお、野方春人氏は、「ブログ」において、
  十月1日 6日目(この年は、九月30日は無かったのです!! このことを最初に指摘されたのは河野俊乎氏でしょう。)
と、記してくださっています。


六日目=「十月一日」=ついたちの日に、ほりのわたりに、荒瀬ゆり子が案内して、山城屋てふ家の二階にて・・・
   とあり、この日は、当然=A「参籠=vは、していない。
七日目=「十月二日」「七日詣」終了日なので、この日は、当然=A「参籠=vは、していない。

「天満宮」「参籠所」なるものがあったことは、 「山口県文書館」山本明史氏に、
「山口県文書館」所蔵の「古社寺取調書 佐波郡寺 院」( 行政文書県庁戦前A 社寺121)という明治28年 [1895]作成の史料に
「境内」の図があり、 その中に、記されていることを教えていただいています。




さらに、「家の整理」をする過程で、が、収集していた「資・史料」の中に、
周防国宮市(旧号天満宮)松崎神社之図(←「活字」は旧字) (明治三十三年七月印刷 大阪 森川印刷所)
という大きな「図」を見いだしました。  (「写真」は、「参籠所」の部分の「スキャナ」)
それにも、はっきり≠ニ参籠所が図示されていますので、望東尼「参籠」をしていないとは言い切れませんが、
最大限=A「三日」or「二日」です。

それに、初日=「九月二十五日」は、はっきり≠オていますが、九月二十八日十月一日には、茶菓子程度は、用意されていたハズで、
  望東尼も、口にした可能性はあり、断食を、ことさら、強調≠オている「資料」は、はなはだ疑問です。

のみならず、「七日詣で」のタメに、体調を崩し、程なく、亡くなったかのような°Lし方は、論外です。クリック
『防州日記』には、
「七日詣で」の終了した「翌日」=「十月三日」には、
「光明℃宦vに行って、山田ぬしともなひ桑野山にのぼりて、勤王諸有志の墓にまうでて、
君がため身を腐してぞ朽ちやらぬいはほにきよき名はとどめける
もののふの君にささげししかばねの朽ちぞくちぬ名をしるしいし
とあるのです。
望東尼が、山田を誘って「桑野山」にのぼっているのです。
ここに、「光明℃宦vとあるのは、「光妙℃宦vの間違いのハズですが、もし、本当≠ノ「光明℃宦vなら、真尾にまで出かけたことになり、
体調の悪いなんてことは、あり得ないのです。






 二 「修正」された公的・準公的≠ネ野村望東尼の「解説」





準公的≠ニもいえる「まちの駅 うめてらす」で新しく≠ネった「野村望東尼」に関する「解説」







新しく≠ネった「まちの駅 うめてらす」の「解説」

「防府市観光協会」局長岩本邦男氏にいただいた「写真」は、「バイト数」が大きく、それを「Yahooブログ」(←クリック)にアップしており、 その「ブログ」では、「松崎天満宮」への「七日詣で」の「奉納歌」における望東尼「筆跡」も確認できるのですが、この「ページ」では、「活字」にしておきます。


晋作ゆかりの人 野村望東尼

 幕末の歌人の野村望東尼は、1806年(文化3年)9月6日 福岡藩士 浦野重右衛門勝幸・みちの三女として、現在の福岡市で生まれ、名を「もと」と称した。 24歳で野村新三郎貞貫に嫁ぎ、夫婦で和歌を嗜んだが、夫亡き後は禅尼となり、向陵院招月望東尼と称した。 勤王志士との交流が深く、福岡平尾の「平尾山荘」に志士を匿ったり、志士たちの密会の場として提供もしている。
中でも、高杉晋作の場合は、「山荘」に匿われている時に、「萩藩」の情勢が急迫、一か八か的な「功山寺挙兵」に踏み切ったことが「藩論」を一変させ、処刑寸前だった楫取素彦を救うことにも繋がるなど、望東尼は、結果的に「維新」に大きな役割を担った人物と言える。
後に、福岡の姫島に流刑となっていた望東尼は、高杉の指示によって救出され、その後下関に身を寄せている。その頃、既に病床にあった高杉を看病し、高杉が「面白きこともなき世を(に)面白く」と詠むと、「住みなすものは心なりけり」と望東尼が続けて詠んだことはよく知られている。
高杉没後、望東尼は山口に移り住むが、1867年(慶応3年)9月、三田尻から薩長連合の討幕軍が東上すると聞き、天神信仰の篤かった望東尼は、9月25日から松崎天満宮(現・防府天満宮)に「七日詣で」をして戦勝を祈願し、一日一首の和歌を奉納している。
しかし、薩摩軍が約束の期日になっても来なかったため、望東尼は、そのまま三田尻に留まって到着するのを心待ちしていたところ、10月9日になって、薩摩艦「翔鳳丸」・「平運丸」が小田浦に到着した。 それを桑山から確認した望東尼は、その喜びを歌にして詠んでいる。
しかし、まもなく体調を崩し、手厚い看護を受けたが、持ち直すことなく、1867年(慶応3年)11月6日、62歳の生涯を閉じた。
 望東尼の「墓」は、贈位を受けたことをきっかけに、楫取素彦が、昭憲皇太后三条公毛利公といった方々からの資金援助を受け、改修したものである。




「平成28年12月15日」「防府市観光協会」局長岩本邦男氏が、「遅くなりましたが」として、「メール」に上の「写真」を添付して「送信」してこられました。

岩本氏は、楫取素彦の「葬儀」が、「墓」のある「曹洞宗」の「大楽寺」ではなく、「浄土真宗」の「明覚寺」であることを突き止めたように、
単に「資料」を信じ込むのではなく、「調査・検討」を重ねる誠実な人物
であることから、時間的には 望東尼の「150回忌」には間に合いませんでしたが、
こうした「姿勢」で事に当たる岩本氏に、「私の原稿」に沿った「解説」を作ってもらえたことは、私の「調査・研究」を裏付けてもらえたということで、ありがたいことです。
私としては、以前の 野村望東尼に関する「解説」 よりは、はるかに史実≠ノ近いと思っていますので、
「維新150年」を前に準公的≠ネ「うめてらす」の「解説」が、新しく≠ネったことを、うれしく思っています。


「左」は、岩本氏が旧家で捜しあてた楫取素彦の「葬儀案内」の「はがき」です。
「大河ドラマ=花燃ゆ」の放映決定に伴う岩本局長「調査・研究」によって「発見」されたのですが、
この「はがき」の発見によって、楫取葬儀が、「浄土真宗」の「明覚寺」で行われたことがわかり、
楫取「法名・謚」が、「浄土真宗」「法名・謚」であることが
楫取能彦氏によって、「確認」され、
「明覚寺」においても、「副住職」香川 大氏が、「記録」を調べられ、確認されたのです。
時の経過で、「墓」のある「寺」=「葬儀の行われた寺」という思い込み≠ェあったようです。
さらに、楫取が亡くなった日が「8月14日」でなく、「8月15日」であるという
「誤解」が流布≠オた「理由」の推測も、可能になったのです。
(「本文」に本日≠ニあり、「日付」が「十五日」とあるタメですが、
一般的? には、亡くなった「月日」or「月日時分」があることとて、おそらく、「印刷所」の好意?≠ナ、確認することなく、「日付」を印刷のできあがった日=投函されるハズの日修正≠オたのだと思われます。)

なお、この「平成28年12月15日」という日は、 ロシアプーチン大統領が、東京・京都・大阪ではなく、
山口県長門市の、それも、公的な「施設」ではなく、「大谷山荘」で、安倍晋三首相会談という、「歴史的な日」です。
私は、「大谷山荘」について、「ホームページ」を作って、どういう「旅館」かを述べていますので、 時間的な余裕がある方は、クリック≠オてくださると、うれしいです。
   「大谷山荘」にある「百万一心」の「額」のこと







「防府市教育委員会」の「修正」された「解説」





「防府市教育委員会」による「解説」


既述しているように、
残念ながら=A「野村望東尼」に関する「防府市」の公的=E準公的≠ネ「資料」には、「問題」がありました。
しかし、「望東尼の150回忌」の直前(11月4日)に、「左」及び「下」に示している 「防府市教育委員会」名の「解説」が作成、展示されました。


私の
『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』
のみならず、
野方春人氏の
『野村望東尼と対馬藩士』
『野村望東尼の周辺』
『野村望東尼防長紀行』
によって、「活字」にはなっていますが、
『防府市史』を始め、「文化財課」公的≠ネ「資料」影響力には到底、及ばないタメ
訂正を依頼したものの、公的≠ネ「資料」「修正」は、容易ではないらしいこととて、私が、
杉山一茂 教育長
藤津典久 総務部長
末吉正幸 教育部長 に直接、お目に掛かってお願いし、
原田光朗 文化財課課長補佐 を中心に作成され、
望東尼「150回忌」の直前に、設けられたのです。






 「解説板」の「写真」






 「 活 字 」 にすると



野村望東尼寄寓の家(荒瀬ゆり子宅の離れを移築し、現在は増築されたもの)

野村望東尼は、文化3年(1806年)黒田藩士浦野重右衛門勝幸三女として生まれ、その名を「もと」と称しました。
24歳の時に野村新三郎貞貫(のむらしんざぶろうさだつら)に嫁ぎ、夫婦ともに和歌を嗜んだが、安政6年(1859年)夫の死後禅尼となり 向陵院招月(こうりょういんしょうげつ)望東尼と称した。
やがて勤王の志士との交流を深め元治元年(1864年)には藩内の保守派などに追われた高杉晋作自らの山荘に10日余り匿っている
その後、高杉馬関(下関)挙兵し、維新への足がかりを作った。
翌慶応元年(1865年)黒田藩における勤王派への弾圧で、望東尼玄界灘の姫島に流されるが、高杉の指示によって救出され、下関に身を寄せ、 高杉介護、最期を看取った。
その後、小田村素太郎(小田村伊之助後の楫取素彦)寿吉田松陰の妹)の親身な世話を受ける。
慶応3年(1867)9月薩長連合の倒幕軍東上を聞くと、山口から勝坂を A 超え三田尻(防府)に入り、歌友荒瀬ゆり子「離れ」に身を寄せ、9月25日から10月2日まで防府天満宮「七日詣」をし、戦勝を祈願した。
しかし薩摩軍が約束された期日に来ず、望東尼は三田尻に留まるが、 その到着を見届けた後病に倒れ、荒瀬家本宅南8畳の間で手厚い介護を受けたが、 同年11月6日、62歳の生涯を閉じた。

望東尼が多くの勤王の志士に影響を与え、明治維新の功労者のひとりであることから、「終焉の宅跡及び墓」は山口県史跡として、指定されている。

なお、桑山共同墓地にあるは、明治24年(1891年)望東尼正五位贈位に際して、昭憲皇太后三条公毛利公などから資金援助を受け、B 楫取素彦 の撰文本田国敬彰辞を刻み、@ 明治27年(1894年)に改修されたものである。

平成二八年十一月
           防府市教育委員会



「移築→保存」が実現しなくても、「維新150年」までは、保存する「家」の前の、臨時%Iな「解説」ですが、
望東尼「150回忌法要」のある「大楽寺」近くにあるタメ、
それなりの=u効果」はありました

望東尼の150回忌記念祭の会場でお会いした「ほうふ日報」の前「社主」で、「歴史」にも詳しい、窪田耕二(←クリック=jは、御覧になっており、「よく出来ている」とおっしゃっていました。
その他にも、顔見知りの方が、私に、同様の感想を述べられました。

「移築」を前提に、毎日のように「整理」に通っているのですが、「見学希望」の方があり、私の「ホームページ」から、「群馬県」からも訪れて来られています。
これまでは、まず、予備知識の「訂正」から始めなければならなかったのですが、この「防府市教育委員会」とある「解説」があることで、
「明治維新」大きな=u役割」を果たした望東尼ですので、
間近な=u維新150年」に向けて、多くなると思われる見学希望の方に、説明が容易になります。

ただ、「移築→保存」が実現しない場合は、それっきりになってしまいますが、
「防府市教育委員会」とあるこの「解説板」は、「写真」として、私の『自費出版』の中に載せますし、
「移築→保存」に関する決定が出た段階で、「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」(←クリック=jが、「訂正」されることになっていますので、
少なくとも、それまでのつなぎという意味はあるのです。


一般の方々には、原田氏を中心に 検討→作成
      →「防府市教育委員会」としての「検討」→承認

を経ての この「解説板」
さらには、遠からず、「作成」→「展示」される「うめてらす」の「解説」によって、
これまでよりは∞はるかに=u正確」な 野村望東尼  が知られると思いますが、
活字≠ノよる正式≠ネ「文化財解説」が何としても「必要」です。
なにせ、「防府市」の公的=u資料」には、一流≠フ「研究者」を含め、多くの方の信頼≠ェあるようで「基礎資料」として広く、使用されています。
しかし、こと 野村望東尼関連 については、問題点が少なくないことゆえ、
直接=A目にするか、この「私」の「ホームページ」で知るしかないといった「解説」 、しかも、限られた「スペース」の中でのことではなく、
活字≠ノよる正式≠ネ「文化財解説」を、
「学識経験者」を交えて、検討されることを、 
早急≠ノ お願いしたいと思います。

「望東尼研究家」として、「防府」にも度々、「調査」に来られ、複数≠フ『著作』『出版』されている 野方春人氏は、『防府市史』についても、 『著書』の「参考文献」を記す中で、

防府市史は防府市が発行者であり望東尼の終焉の地でありながら、その市史の望東尼に関する記述には間違が多く新版に至っては記述の分量が旧版に比してはるかに少なく、記述も平衡を欠いている。
防府市での望東尼の年忌には多数の人が訪れているようなので、改訂が望まれる


とし、残念がっておられるのです。
野方氏の『著作』を、私は、谷川佳枝子氏の『著作』に 匹敵 あるいは、それ以上「資料」として、「後世」においても、「尊重」される貴重な=u資料」と思っています。

事実として、「防府」の「研究者」においても、野方氏の『著書』は、
出穂稔朗氏の『幕末期における長州瀬戸内の村 富海の躍動』山口県立大学ブックレット「新やまぐち学」bR)を初めとして、「参考文献}として使用されています。

今後も、複数の『出版』の準備をされている野方氏に、膨大な『防府市史』一部<_ケ「改定」(他にも、少しばかり=A「疑問」のある箇所があります)ということは、難しいにしても、
   「的確な『資料』」が、発行された
と、記してもらえるよう、早急≠ネ「対応」がなされることを望んでいます。







なお、「防府市教育委員会」の「解説」には、次のような、少しばかり=A疑問が残っていますが、私が信頼している、誠実な原田氏ですので、間違いなく、「再検討」してもらえると思っています。

@ 明治27年(1894年)に改修されたものである。
 ↑ 『野村望東尼全集』 ( or この『全集』を「底本」にした『防府関係 野村望東尼史料』) に拠ったと思われますが、
   『楫取素彦伝』186&ナに野村望東尼墓碑銘 明治二十六年五月撰として碑文が次頁に亘って記されている(こには、「詩」で終わっています)うえに、
  「年譜」に、「明治二十六年八月」と、「墓」の通りが記されています。
  「碑文」ができてから、3ヶ月後ですし、刻む最後°゚くですから、「完成」の時と一致≠オても、なんらおかしくはないハズです。
  私は「墓」に刻まれた 明治二十六年八月を記すべきと思っています。

『野村望東尼全集』の「編者」の誤り=H

『野村望東尼全集』の840&ナに、
桑山山麓墓碑 として、全文が記された後、
編者云ふ、防府市桑山なる碑文によれり。
望東禪尼傳、及び、楫取家文書第一の明治二十六年五月撰のとは小異あり。
なお文中の「二女」は三女の誤とおぼし。
また「西麓」は長嶋防府市長の来書に、「正確には南西麓なり」とあり。

とあるわけですから、編者の誤りのハズです。
    野村望東尼墓碑(裏面=楫取素彦撰の碑文) ←クリック
という私の「ブログ」で、確認してください。
「このブログ」は、「Yahooのブログ」ですから、「写真」の「右下」のをクリック≠キると、大きく♀g大しますので、「明治二十六年八月」とあるのが「確認」できます。



A 山口から勝坂を超え三田尻(防府)に入り、→越え≠ェいいでしょう。単なる「入力ミス」でしょう。
B 楫取素彦にとって、望東尼は、間接的ながらも「命」の恩人的存在ということが記されていない。
↑ このことについて、私の楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人─(←クリック)
 に、詳しく、述べています。
 要するに、処刑寸前であった楫取は、高杉「功山寺挙兵」→「太田絵堂の戦い」によって、助かったのです。



なお、窪田氏は、準公的≠ネ 「維新 ふるさとかるた」において、
 私よりも、もっと、積極的に、 素彦の命の恩人望東尼 としておられます。
残念ながら=A『男爵 楫取素彦の生涯』における野村望東尼の記述は、
楫取素彦望東尼に関しては、ほとんど語られていません。
(わずかに、313&ナに、晋作の死後、望東尼楫取素彦により下関から山口の熊丸家へ移った≠ニある程度です。
しかも、楫取「碑文」の紹介も、漢詩が抜けています。)

しかし、刊行に深く関わっている窪田氏ですので、さすがに、よく読んでおられ、小山良昌氏、小田村四郎氏の記事を踏まえられています。
ただ、「解説」のこの墓も楫取素彦によって建てられたものです。
については、原田氏が中心になって「作成」された
桑山共同墓地にあるは、明治24年(1891年)望東尼正五位贈位に際して、昭憲皇太后三条公毛利公などから資金援助を受け、楫取素彦 の撰文本田国敬彰辞を刻み、・・・改修されたものである。
の方が、適切と、私は思いますが・・・・・・・・・。

なお、原田氏、岩本共に、楫取素彦「碑文」には、「皇后」と記されているのに、
昭憲皇太后 とされているのは、困ったこと≠ノ、大正天皇皇后である 貞明皇后 とした「資料」(『防府関係 野村望東尼史料』他)があるタメ、私がお願いしたことが影響していると思います。







 私が 楫取素彦に取って、望東尼は間接的≠ネがら「命の恩人」とする「根拠」


重複しますが、既述している楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人─ の中から、 少し、「紹介」しておきます。



◇ 村田峰次郎 著 『耕堂 楫取素彦男爵伝記』 「活字本」の 76頁〜
「著者」は、村田清風の孫であり、 かつ、 楫取と同じ時期に、「野山獄」に投獄されていた 村田次郎三郎(清風の 次男で、楫取同様、「俗論派」に捕らえられており、村田姓と家禄を剥奪され、「大津唯雪」と名乗る)の次男ということで、峰次郎 は、楫取素彦と親しかった。

甲子の冬、勤王志士に対する疑獄は、反対党の末期に 於ける窮余の手段なり。その権力を持続せんかため、如何なる 横暴をも辞せすして、正義派の言論生命を絶滅せんと務めたり 。
柵欄を鎖して犢牛を逐ひ、灯火を滅して暗撃を喜ふものの 如し。
真個憂国の名士にして自殺せるものあり。
斬刑に遇ふも のあり。
牢舎幽閉のみにして殺戮を免れたるものあり。
主戦諸士も頗る窮境に陥りしか、恭順政府にして既に奇策 の施すへきを知らす、四顧茫然何人も俗論の雰囲気中に彷徨したりしか、その大風雨の暗夜に乗し、神竜一躍、忽ち天地の禍 運を掃蕩し、防長の正気を瞬間に回瀾したる者は、 高杉晋作その人にあら すして誰そ。
高杉は、真に快男子と謂ふべし。
当時、高杉身既に危かりしか、徒に奸人の毒刃に斃るるは 智者にあらす、忠臣にあらす、この処決して死処を得るにあらす、一誠以て国家を救ふの良策なかるへからすと、暫く反対派 の鋭鋒を避け、熟慮する所あらんため、一旦筑前に潜行して、 野村望東か 平尾山の別荘に隠れたりしか、郷国に於ける反対派の暴 戻殆と曰ふに忍ひさるもののみ、同志の名流続々縲紲に繋り、 斬戮項背相望み、之を済はんとするも手を下たすに術なしとの 報に接したれは、高杉は豁然髀を拊ち、飛信をろ♂ホに投し 、夜半舟を艤して馬関に帰り、潜に同志を聚めて、断然挙兵の 策を決す。
高杉は 、雪夜俄に馬を馳せて、長府なる功山寺に到り、 三条以下五公 卿に謁を乞ひ、国運回復のため、爰に正義の師を起し、俗論党 を討伐し以て勤王の本領を成就せんと欲す。
晋作この行固より万死を期す。
幸に功成り生を得は、更にまた再謁の 栄を得へしと、頗る謹厳の別辞を述へ、直ちに同志を麾き、快馬に鞭うちて得々馬関の陣営に帰りたり。
明くる年慶応元年乙丑年正月には、憂国の念切 なる高杉、遂に義兵を提けて伊崎の役庁を襲へり。
是に於て、諸隊勇兵の来りて義旗の下に聚るもの、日に多 きを加へ、各々部署を定めて伊佐より北進す。
恭順兵の諸隊を防かんとするもの、孰れも美祢郡方面に向 つて南進したり。
南北両軍相接し、絵堂、大田間の各地に交戦す。
北軍敗れ、南軍全捷を得たり。
南方諸隊悉く進て萩に入り、事始めて鎮定す。
仍て二月二十五日、君(=楫取素彦)等同囚四人は 、無事野山獄を出つることを得たるなり。   
(峰次郎の父も、この四人の中の一人。
なお、濁点≠ヘ、疑問がありますが、『原典』もこのようになっています。)




小田村四郎氏が「母=治子」の話として    (『男爵楫取素彦 の生涯』 43頁)
小田村氏は、楫取素彦「曾孫」で、元大蔵官僚、拓殖大学第16代総長

母の話によれば・・・、
(元治元年12月19日野山獄に 投獄され)既に斬首の日は決まってゐたが、その直前に高杉晋作の功山寺挙兵に続く太田絵堂の決戦で政府軍が敗れ、藩政府が正義党によって一新されたため、翌慶応元年二月十五日に出獄することを得た
とのことである。

治子氏は、楫取道明次女で、「小田村家」を継がれた、 明治21年12月26日〜昭和62年1月31日という方で、
楫取 寿は、「1881(明治14)年1月30日」に亡くなっていますが、 楫取素彦が亡くなったのは、「1912(大正元)年8月14日」ですから、 直接素彦から、聞いていたと思われます。



小山良昌氏氏    (『男爵楫取素彦の生涯』の「敬親公の懐刀 男爵楫取素彦」の74頁〜)
「幕末・維新」に関する権威であり、私のような者に対しても、対応してくださる誠実な=u研究者」
「山口県文書館副館長」、「短大教授」、「毛利博物館館長」等を歴任。

素太郎野山獄に入獄中の元治元年(1864)12月、高杉晋作は俗論党政権による三家老ら14名の処刑を聞き、大いに憤って長府 功山寺で挙兵し、馬関の新地会所を襲撃して俗論党政府への叛旗の烽火を上げた。
この高杉の挙兵を契機として、奇兵隊など諸隊の 正義派軍と俗論派政府軍が美祢郡太田絵堂で戦い、慶応元年(1865)二月十五日、正義派が勝利を 納めて再び藩政を奪還した。
そして即日の十五日素太郎は許されて目出度く野山獄を出獄した。



なお、「本宅」については、私は「指定申請書」にある「主家=vを使っていますが、ここにある「本宅=vの方がわかりやすいと思います。



原田氏からの「回答」

ご指摘分2点ほど修正いたしましたので、ご確認ください。
として、「メール」に、「ワード」による「全文」添付という形での「回答」をいただきました。

B≠フ望東尼楫取素彦との関わり方については、今少し、「検討」されるようです。

いずれ、「解説板」も、「訂正」されると思います。





◆□◆


「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」










野村望東尼の墓への 入口 及び、そこに設けられている 「解説」 です。

 県指定 史跡
野村望東尼 終焉の宅
   及び宅跡並びに墓

昭和四一(一九六六)年六月一○日 指定
終焉の宅  岡村町五の三
宅跡 三田尻本町十の二
墓  桑山一丁目四


 野村望東尼は一八○六年(文化三)九月六日、福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれ、 その名を「もと」と称しました。二四才の時に野村新三郎貞貫の後妻として迎えられ、 夫婦共に和歌をたしなみ、五四才で夫に病死されると博多の明光寺で髪をおろし、禅尼となりました。
 一八六一年(文久元)京都に上った望東尼は、 尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、 帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。 一八六五年(慶応元)黒田藩による勤王派への弾圧により姫島に流されましたが、
翌年高杉晋作によって救出され、下関にかくまわれました。

 一八六七年(慶応三)薩長連合の倒幕軍東上のことを聞くと、望東尼は三田尻の歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参籠し、断食をして、和歌一首を手向け(後記)、倒幕軍の戦勝を祈願しました。 しかし、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。

(一日目)武夫の仇に勝坂越えつつも祈るねぎごとうけさせ給〈え≠ヘママ〉
(二日目)濃染なすます穂のすすき穂に出て〈出て≠ヘママ〉招くになびけ千種八千草
(三日目)御世を思う〈思う≠ヘママ〉やたけ心の一筋も弓取る数に入らぬかひなさ
(四日目)あづさ弓引く数ならぬ身ながらも思ひいる矢は唯に一筋
(五日目)道もなく乱れあひたる浪波江のよしあしわくる時やこの時
(六日目)唯七日我が日まゐりの果てなくに神無月ともなりにけるかな
(七日目)九重に八重居る雲やはれむとて冬たつ空も春めきぬらむ

 望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されて「終焉の宅」として、また旧宅は「宅跡」として、桑山の「墓」と共に、県の史跡に指定されています。

     平成十五年一月
山口県教育委員会
防府市教育委員会




この「解説」は、残念ながら、紫色にした箇所には疑問があります
「福岡県」では、わずかに「平尾山荘」「福岡市」の「指定」なのに、「山口県」「山口県指定」にしている意味がわかりません。
望東尼高杉晋作「平尾山荘」匿い「平尾山荘」に滞在している間に、
事態が切迫し、もはや一か八か≠ナ「腹を決め」て、「功山寺」での挙兵「太田絵堂」の戦いと、「藩論」をひっくり返し
「野山獄」処刑寸前であった小田村伊之助=楫取素彦楫取は、後に、「東上軍」の「参謀」として活躍)らを救うというように、
結果的≠ノ「明治維新」に繋がったということを記さないでは、「山口県」・「防府市」が、望東尼を「顕彰」する「意味」が伝わらないハズです。
この「解説」では、望東尼は、尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。とあるダケで、望東尼高杉によって救出≠ウれたことダケが書かれているに過ぎません。
そのうえで、参籠=E老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。 とあるワケですから老齢の身に七日間の断食、そのために亡くなったことが望東尼の功績=Hのようになってしまいます。

そもそも、「七日詣で」いつからいつまでかが記されておらず、「9月25日〜10月2日」参籠ではなく、の参詣のハズですし(ここをクリック) 、「11月6日」に亡くなるまで、『防州日記』確認すると、
望東尼はあちこち、出向いていますので、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れなんてことはありません。
『防州日記』初日の「9月25日」には、「昼食」を「鳴滝」でとっていることが書かれていますから、少なくとも、七日間の断食ということはありませんし、その他の日についても、「九月廿八日」楫取素彦らの「来訪」に際しては、それなりの=u接待」がされたでしょうし、望東尼も、なにがしかは′にしたハズです。
それに、「10月1日」荒瀬百合子と共に、「山城屋」を訪れた際にも、なんらかの「接待」を受けたと見るのが自然でしょう。

このことに関しては、谷川佳枝子氏が『筑前維新の道 7』73&ナにおいては、
(望東尼は薩長軍の戦勝を祈願)して毎朝斎戒沐浴し、宮市天満宮へも七日間の断食祈願をした
とされていたのですが、それを、
『野村望東尼』309&ナでは、
望東尼が神前にまかり出るために一定期間飲食を慎み、心身を清らかにした(すなわち物忌みをした)ということさえわかれば十分であるように思われる
訂正しておられることでよいと思います。
毎朝斎戒沐浴についても、引っ込めておられるハズです。(見落としはないと思いますが・・・。)

これらは、楫取素彦「碑文」にひっばられたもので、楫取「碑文」は、記憶違いや、ディフォルメがあることを、確認すべきです。
野方春人氏も、このことに取り組んでおられ、現在は「ブログ」ですが、いずれ「出版」されるハズです。

なお、楫取能彦氏は、「至誠の人」 素彦 の子孫ですが、素晴らしい方で、私にスラ「資料・情報」を下さるだけでなく、「間違いであれば、直していただいて結構です。」とおっしゃっています。


望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されていることは間違いありませんが、「桑山」からの、長年に亘る山水の流れ込みで、「住めない家」になっているのに、「全責任」(「修理費用」・管理に必要な「駐車場料金」・「下水道料金」・「電気料」・・・すべて=jを「我々」に担わせていたのです。
しかも、「終焉の宅」は、「指定されている家」ではないという困った=u情報」満ちあふれ訪れる人サエないのに、「県」・「市」共に、「対応」しようとしないタメ、最低限=A「望東尼の終焉の場」であることダケでも、はっきり≠ウせようとして、
「調査・研究」をしたところ、
「終焉の宅」の一部≠ナはあるものの、
「終焉」の場は、「荒瀬家」の庭を挟んだ「本宅(「指定申請書」では「主家」)」だということがわかり、
「指定」は、「終焉の宅」「本宅」「離れ」「別の家」として、「離れ」ノミ「終焉の宅」としていることとて
「離れ」は「終焉の宅」の一部≠ナはあっても、「終焉の場」ではないとして、「指定解除」を申し出で、8年間経過した「平成26年10月」に、「終焉の宅」が「指定解除」になったことで、「防府市教委文化財課」が、検討をしています。


藤本尚志課長、原田光朗課長補佐など、現在の「文化財課」の方達は、私の「意見」も参考にするダケの度量があり、かつ、研究熱心ですので、
近いうちに、適切な「解説」になると思います。

この「離れ」は、「維新150年」迄は、手を加えながら、「管理」しますが、その後は、解体せざるをえません。

このようなことを「ホームページ」に記していたのですが、 「平成27年11月」から、中村 隆副市長を中心に、「移築・保存」をする可能性が出て来ました。
そのため、「解説板」の「訂正」は、「移築→保存」本決まりになってから訂正をしようということになったのです。

しかし、「望東尼150回忌」を迎えるに当たって、新たに¥oされる「資料」や「新聞記事」が、
困った「内容」を含んでいることとて、簡単なもの≠ナいいので、「対策」をと、要請してきたのです。(望東尼の150回忌直前≠ノ「実現」←クリック=j

残念ながら=A「防府野村望東尼会」の方には、最新の=u研究成果」を取り入れようとする「姿勢」が欠けるようです。
「望東尼150回忌 記念祭」「会場」には、この「解説板」の「写真」がありましたし、
「離れ」「望東尼終焉の宅」とし、「茶室」「終焉の室」とした「写真」もありました。
ただ、「パンフレット」には、「終焉の宅」「県指定」から除外されていました。
この「防府野村望東尼会」には、「防府史談会」が、深く関わっているようなので、
今後も続く「望東尼顕彰」ですので、是非、より%K切な「情報」を取り入れるべく、助言してほしいものです。

この「解説板」は、「平成29年3月」に、撤去されました。
クリック「平成30年4月」に、新しい「解説板」設置されました。





望東尼の「歌」






父=英男が、「県指定」になったことで、買い求め、「茶室」に展示している望東尼自筆の「短冊」です。
「野村望東尼研究家」である谷川佳枝子氏が、我が家を訪ねられ、(歌意)をつけておられますので、併せて 記しておきます。


きられてもつまれても猶さりげ無〈なく〉繁りて花のさくつばき哉   望東
(歌意) 切られても摘まれても猶もなにげないふうに繁って花を咲かせている椿であることだなあ。

遠かたの山もちさと〈千里〉もうすずみ〈薄墨〉にかきくらしたる五月雨のそら  望東
(歌意) 遠く向こうの山も多くの村里も、薄墨色に空一面を暗くしている五月雨の空であることよ。

しらぬひのこころづくしの枯のはらいつもにかへるはるはたつらむ  望東
  註 しらぬひ=「つくし(筑紫)」にかかる枕詞

 (歌意) あれこれと心を砕いた枯野のような筑紫の国が、ふだんの平生な状態に戻って春が立つのだろうか。(行く 末が案じられる筑前藩が平穏に治まって春はやってくるのだろうか。)






 旧「離れ」の「玄関」には、望東尼が楫取素彦・山田顕義に贈った「歌」を掲示







望東尼楫取素彦山田顕義に贈った「歌」
   「右後ろ」にあるのが、以下に示す「解説」のエッセンス≠ナす。
   いずれも、「月輪寺」の修復工事の際の「廃材」を利用して「展示」しています。


 野村望東尼寄寓していた「荒瀬家」の「離れ」を、慶応三年の「九月廿八日」に、訪れていることが
『防州日記』に記されている
楫取素彦(小田村)国貞直人山田市之允(山田顕義)には、望東尼うまの餞す≠ニして「歌」を贈っていることが、同じ『防州日記』に記されています。
  (他に方野十郎への「歌」があり、「離れ」を訪れた人物がなどとあることとて、方野も訪れている可能性もないワケではありませんが、「奇兵隊参謀兼東上諸隊の総参謀」という人物であることとて、方野ぬし≠など≠ナ済ますのは不自然ですので、少なくとも、この日には訪れていないと、考えています。)

 この「離れ」は、
「望東尼の終焉の宅」の一部ではあっても、亡くなったのは、「主家南八畳の間」であり、その「主家」は、「平成」の初めに「解体」されていること、
「山水」の流れ込み「住めない家」になっているのに、未来永劫∞すべて=A自己負担で「管理」せよというのは納得しがたいこととて、
「指定解除」をしてもらいましたが、
望東尼亡くなった「荒瀬家」一部≠ナある「離れ」であり、
望東尼が、防府在住中、主として寄寓していたのだということ

既述しているように、「山口県文化財審議委員」福田東亜氏が、
「江戸時代の商家の『離れ』を感じさせる瀟洒な良い建物だと思う。」
と評価されていることから、「移築→保存」されることが検討されていることで、旧「離れ」に、楫取山田への望東尼の「歌」を掲示しようと考えました。
「終焉の宅」の「指定解除」の「話し合いの場」を設定してもらうタメ、「ホームページ」を作成したことで、皆無≠ノ近かった「見学者」が増えていますし
「維新150年」が間近なこととて、平成30(2018)年までは、管理を続けようと思っているタメです。


 「倒幕軍」の中心≠ナあり、「明治維新」後≠焉u活躍」した楫取山田

楫取素彦
「東上軍」の「参謀」
初代「群馬県令」
「男爵」

山田顕義
25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。
その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」と評されたと伝えられる。
約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。
明治21年 日本古来の法と外国の法を研究する教育機関として、日本大学の前身である日本法律学校を創設
伯爵

『防州日記』には、
東行大人かき給ひし書小田村ぬし(=楫取素彦)、国貞ぬし山田ぬしなどが見たことがありますが、残念ながら父=英男遺したものの中に、高杉「書」はありません。
ただ、『東行庵だより』があり、その『東行庵だより』の中にありますので、
を御覧ください。



↑ 『東行庵だより bP5』にある「血盟書」で、高杉「書」真ん中にあります。(より詳しくは、上のブログ」=「高杉晋作の書」(その2)を クリック≠オてください。)



ただ、「移築→保存」が、実現しないことも、ないとはいえませんが、
「解体」迄としても訪れられる方に見ていただくことは、それなり≠フ意味はあろうと考えますし、
その後は、旧「荒瀬家」の近くであり、「維新」に関係の深い「英雲荘」において、「資料」として保存してもらい、 なんらかの=u機会」に紹介してもらえそうです。


そのため、「書」としても「価値」があるようにと、
「梅光学院大学」「准教授」(「書道」)である松田政道氏に、お願いしました。
松田氏は、松田 鶴信という「号」で、「作品」を発表しておられ、著名な方ですが、私とも親しくしてぐさり、私の勝手な@v望にも、親切に対応してくださいました。
ここに掲示する「短冊」がそれです。







小田村大人

いつしかと わかまちわひし たつむらの こゑをくもゐに あくる時きぬ

みよのため いくさたちする ものゝふに こころはかりは おくれやはする




山田大人いくさつかをしてゆかるゝを

月と日の くもきりはらひ ゆくあきの 風になひかぬ くさも木もなし

みよのためいくさひきゆく物部に 老かこころもたくへてそやる




山田のうしにまもりをつかはすふくさにかいつくとて

すほうなる 山田のほなみ うちいてゝ みよのあくたを さらすとよとし








 「文化財」修理に伴う「古材」を幾つか







上に紹介している「月輪寺」は、本格的な「修理」でしたので、多くの「古材」がありますが、それ以外の「文化財関係の古材」を、少し、紹介しておきましょう。
「左の写真」は、「手前左」から、
@ 「洞春寺」の「柱」を利用した「火鉢」。(加工は、父が「業者」に依頼。「2つ」セットです。)
B 「キジア台風」で流失した「錦帯橋」の「木材」を利用して作られた「茶托」
   「錦帯橋再建記念 茶托 岩国市」 と「箱書」されており、関係者に渡された物。
B 「周防国分寺」の「古材」を利用した「表札」
    昭和三十二年 解体修理記念 周防国分寺 仁王門古材 贈呈 河野英男殿 と「墨書き」
 「奥」
C 旧 「長谷(泊瀬)観音堂」の「古材」。
   「毛利家」の「家紋」があります。なお「裏面」に、山口市宮野長谷観音堂 古材 贈 河野氏 昭和二十八年十二月と「墨書き」

「右」の「写真」は、「@」に祀られていた「観音像」です。「観音堂」の荒廃にともない、現在は、「神福寺」に祀られています。
が、『陶片の楽書』「仏を慕うもの―○○薬師・神福寺観音立像―」として、係わったことを記しており、参考になると思いますので、 示しておきます。


● 仏を慕うもの―○○薬師・神福寺観音立像―



山口県を代表する仏像である「神福寺」の重要文化財「木造十一面観音立像」は、
多くの欠損箇所があるにも関わらず、修理されないのは、
「文化財保護委員会」から申請却下されたから
なのですが、
それは、修理することが却って「仏像の美」を損ないかねないという、
清岡卓行氏のミロのヴィーナスの腕に通じるような「理由」であった
のだ
と父=英男は書き残しています。
「修理さえすればよい」というものではないということです。

清岡氏『手の変幻』に収録された、
ミロのヴィーナスの両腕の欠落を、想像力による全体への飛翔の契機だとする「ミロのヴィーナス」は、
高校の国語の『教科書』に多く採用され、私も何度となく、生徒とともに読んできました。



長年心にかけながら、ついついのびのびになっていた○○の薬師堂を拝する好機に恵まれた。
田舎の講の人たちが、たいせつにしている信仰仏である。
わたしはその日、足どりも軽く佐波川筋をのぼっていった。
佐波川のアユの解禁は六月一日と聞く。
例年のように解禁を前に十五日、防府天満宮で今年のアユの豊漁を祈る「金鮎〈あゆ〉祭」がある。
祭神の菅原道真公が九州に下られるとき防府に上陸、周防国司土師信貞に家宝の黄金製アユ十二個を贈ったといういわれからきた由緒ある祭りの前日、
漁協組合員たちが佐波川で取ったアユ十二匹を神前に供えその年の豊漁を祈る。
こうしたことを思い出しながら、佐波川筋を右側に眺めて進んでいる。
佐波川もたびたびの災害復旧の河川工事で、川の水が濁りエサになる新鮮なコケも少なくなったことだろう。
稚魚は県内産や琵琶湖、鹿児島から相当求められて放流されると聞く。
かつての佐波川の鮎の持ち味とはほど遠いことだろうとひとり思いめぐらしてみた。
車は、佐波川を右から左に変り走り続けた。
道巾こそ細くなってきたがこんな所までと思う奥まで舗装されている。
いよいよ山の手なかかり渓谷へはいった。
濃い緑の樹木と道の緑の草叢をのぼって小高い平たい岩の目的地についた。
薬師堂は地元の人々で清掃されている。
そのそばを流れる清水の音もここならではの風物である。
先ず縁起を示され、ご本尊を拝ませてもらった。実に行き届いている。
というのは後補(修理)が多いからである。ほとんど後補といってよい仏で、ご本体の一部に藤原末期の箇所が残存しているといってよい。
今迄随分調査で県下をまわり歩いたが、信仰の篤い仏ほどある意味の保存はされているといえる。
わたしは、しみじみともう一度お顔を拝した。その瞬間なぜか胸が熱くときめくのを覚えた。
しかも次の瞬間、突然厚ぼったい弾力のある何かに突き当たったように感じた。
思わず息を呑んだ。
この想いは、何か恥じらいにも似たやさしさをともなって過ぎ去った青春にゆくりなくも再会するような思いであった。
今、この薬師様がわたしの目の前に立ちはだかり、息を呑ませたものを、心を落ちつけて省察してみる。
鑑賞者をして陶然たらしめる美、仏像のもつ相と姿、純粋の美とは何であろう。
この薬師様のお顔は特異性が豊かではない。目鼻が整備された美というわけではない。
なのに、この仏様が、田舎の講の人々から仰がれるゆえんのものは、ひとえにこの陶然たらしめるほどの情感のゆたかさにあると思う。
思うに古来、人々の美の理解は、知識による理論的なものではなく、情操からきたものであった。
薬師様に対しているうちに、わたしの体の中に山口市の神福寺の十一面観音さんが想い出されてきた。
今、神福寺に保存されている木造十一面観音立像(重要文化財)は、県下で製作年代が一番古く、しかもその作成の最も優秀といわれる像である。

十一面観音は、頭上に十一面の化仏を戴いているが、この像は多くが脱落して僅かに五面を残しているにすぎない。
両手の指先も欠損している。
右手は垂下して施無畏印をしており左手は臂を屈しているだけである。

もとは、水瓶か、蓮華をもったものと考えられる。 相貌も鼻頭や口唇が破損していて著しく尊容を害している。

 地元の古老の話では、神福寺に所蔵される以前の長谷のお堂にある当時、子どもたちが人形がわりに背におぶって遊び、口に自分達のおやつの餅を食べさせたり、おむすびを食べさせたりしたのでそれに鼠でもついた結果、あんな大切な所の破損に及んだのだろうということであった。 しかし、僅かに窺い得る面相は、円満優美であり刀法は正確で洗練されている。
また肩から前面に二段に垂れている天衣の下を同じく両肩から珠□〈活字がありません〉をかけ、それを腰辺で交叉させてさらに背面へ廻しているその珠□と胸綴、臂釧に美しい彫刻が施されている。像としては一尺三寸七分という小像で、材は檀像といわれ、彫法が非常に精緻をつくしている。(檀像というのは白檀或いは黒檀の如きもので造った像で後には一般に堅木で造った像をもいうよう記されたものをみる。)この十一面観音立像は、材は楠とも桜ともいわれているがはっきりしない。
寺伝によると本像は、百済国の琳聖太子が来朝の際伝来したもので、後に大内政弘の念持仏であったといわれている。
唐代の作で被地よりの伝来であることはほとんど疑いがない。大内氏の盛時には、堂塔伽藍壮麗を極めていたという。宮野江良の泊瀬(長谷)観音堂の本尊として安置されていたものである。
長谷観音堂のある地区の代表者から十一面観音立像が盗難にあった旨、社会教育課へ届出があった。当時わたしは、当課に勤務していた。いろいろ盗難現場の調査がすすめられた。大きな地下足袋様のゴム底の履物の跡、残された煙草の吸殻等から、元山口歩兵第四十二連隊に当時進駐していた進駐軍という所まで明白になった。しかし進駐当時のことである。むつかしい手続きで相当な時間を要し、仏像をもとめることは、なかなか安易なことではなかった。ようやく営所内に入り取調べる所まで進展した。
進めてみると案にたがわず一兵士の枕元(ベッド)の棚上に丁寧に保存してある。美術に対して造詣深き一兵士が私有化していたのである。ようやく返却の手続きがとられ、荒廃された観音堂から現在の神福寺に移ったのである。昭和二十四年頃だったと記憶している。このことで十一面観音立像の即、文化財に対する認識が一般の人々に新たにされ、ある一面大きな効果をもたらしたともいえる。
その数年後の昭和二十七年、県下の重要文化財の仏像修理が国庫補助を受けて施行されることになり、その期間も相当長期にわたった。
修理は、
O国分寺(防府市)
 木造 四天王二躯
O二尊院(大津、向津具)
 木造 釈迦如来立像
 木造 阿弥陀如来立像
O龍蔵寺(山口市)
 木造 大日如来坐像
O西長寺(大島、日見)
 木造 阿弥陀如来坐像
で、仏師は白石義雄、生島喜斉、野間清三の三氏によってなされた。
係であったわたしは、修理も長期にわたることだし、この機会に神福寺に収蔵してある十一面観音立像の鼻頭や口唇が破損したのを引続いて修理してもらうことを思いついた。さっそく地元、県の許可をうけて、国(当時の文化財保護委員会)へ修理申請の手続きをとった。ところが、ただちに却下された。修理することで仏像の美を損ずるやもという事由が耳に入った。
文化財に対する美的価値への追求は如何なる態度で、接するべきか、今更のように自己に大きな反省をさせられた。

なお文化財保護委員会から当時(今から二十余年前)百五十万円で国で買上げようという話もあった。これは国立博物館か文化財研究所か、適当な場所への収蔵をと思われたことだろう。
法的な
 国宝又は重要文化財売渡申出書等に関する規則
 文化財買収協議会及び文化財買収価格評価員に関する規定
等によっての価格であろうと思われる。
   ×     ×     × 
信仰仏、薬師のお顔に拝する情感美を見ていると、円熟した時代精神をひしひしと感じ、過去が活き返ってきた。過去には、後の時代にとって反省すべき事柄も多い。過去こそ真実である。
わたしたちが、現在何気なく拝している一体の仏の相好に、ほのぼのとした、明るい美しさがみなぎり、そこに何らの苦渋も見られないからといって、人々はその作者が明朗であり、その時代が平安だったとのみ考えてはなるまい。日本的性格が盛り込まれ、民族が強く美への目ざめに立ったときの矜恃と苦難とが背景になっているだけに、わたしはしきりにひかれるのである。
仏像(みほとけ)の近くにいると、そこには千年のいにしえの日からの大気がじいんと重く静まっている。
そしてふと、みほとけと視線が合った思いがしたとき、みほとけと自分とのあいだに感じる、ある距離がなくなったかと感動をおぼえたのである。
仏像が人々の信仰の対象から外れて、美術品として取り扱われるようになってから、もう数十年を経ている。古い美術は、日本の心のふるさとといわれるが、大いなる寺々や心あたたまる仏像の、形成と継承の精神についても、みずからの眼もて、みずからの心もて、美を発見する、人生創造の熱情に燃えたいものである。





 「陶片」を幾つか






「左」=酒井田柿右衛門
「中」=中里太郎左ヱ門
「右上」=長崎大学教授 岡田喜一氏 にいただいた「唐津陶片」
「右下」=小山冨士夫先生 にいただいた「南宋の陶片」

「萩焼」など「県内」の「窯」の「陶片」は言うまでも無く、ここにあるような「陶片」が多くあります。
これらの「陶片」は、単なる「興味」ではなく、研究テーマでした。
「上」の「写真」の背景 クリックに、 「陶片居」という「額」 がありますが、
書・画・篆刻・陶芸と幅広い分野に活躍された 小林雲道人氏 が、「山口市」におられたことで、書いていただいたものです。
雲道人氏は、「文字を指定されて書くことは、されない」と言われた方だそうで、それだけに、この「額」の「文字」=「陶片居」は、貴重です。
「師範学校」卒「姿勢」を評価してくださったのだろうと、思います。
この「陶芸」研究は、
「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」制度発足当時、 「萩焼」から、
12代 坂倉新兵衛氏と三輪休和氏のお二人を 「同時申請」し、小山先生に「来県調査」していただくことができた 「鑑識眼」 を培った要素になったのですから。
残念ながら=A「枠」の厳しかった「人間国宝」は実現しませんでしたが、「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」という「国指定無形文化財」として認められました。
そして、「推薦」の必要であった「第三回日本伝統工芸展」に、「理事」であった小山先生から、直々に推薦していただき、
お二人 及び 「萩焼」 が、注目されることに繋がったのです。

(このことは、『萩焼・戸田焼』として「出版」しており、「山口県立図書館」・「防府市立図書館」・「萩市立図書館」・「長門市立図書館」・「周南市立図書館」・「宇部市立図書館」に所蔵されていますので、興味がありましたら、読んでみてください。
なお、次の「ホームページ」でも、触れていますので、クリック≠オてみてください。

   ●「萩焼」の「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」前史 ─  「二人申請」の意味  ─


「左」は、小山先生からの「手紙」です。
本来なら、このような「手紙」は、公開すべきではないのですが、12代坂倉新兵衛氏に対して、権威者≠フ「証言」のモト、一流新聞社≠フ「記者」の手で、とんでもない≠アとが流布しているため、小山先生のご長男岑一〈しんいち〉氏の「了承」をいただいき、
@ 「ホームページ」において公開≠オているほか、
A 「山口県文書館」に「寄贈」し、◆ [河野英男収集資料 bX2]として整理されています。










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