平成19年7月5日 公開
平成23年1月20日 更新



● 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノおけるなぜ?≠ノ答える



11 なぜ三宅氏は「古墳人骨」としたのか


[答え]

11−[1] 三宅宗悦氏の「鑑定」
「骨」の主成分は「リン酸カルシウム」「酸」に溶けやすく、酸性の強い土壌のなかに埋まると、長い年月を経るうちにかたもなく溶けるといいます。
従って、土壌の多くが酸性である日本の場合、人骨の保存には適していないということになります。
このことから、「甕棺」等に収められた場合はともかく、通常の場合、人骨は残らないのです。
ただ、
たまたま、石灰岩地帯であったり、「貝塚」であったりすると、土壌中の「カルシウム・イオン濃度」が高く、土質が「弱酸性」あるいは「アルカリ性」になるため、骨が溶けずに保存されることがあるのです。
清野・三宅両氏の研究に、「弥生」に先立つ、縄文人の人骨が「貝塚」から多量に供されたのはそのためであり、「土井ケ浜遺跡」の場合は、「風成砂丘」で貝粉≠多く含んでいたことが、例外的に、弥生時代人の人骨を多量に遺したということのようです。

『日本人の起源』の記述がヒント

このことは、私が発表する時点で書かれたものを少なくとも私は見受けていません。
山口大学教授で「郷土史」に大きな実績を残されている松岡利夫氏の
砂とそのなかにふくまれる貝の細片の保護によって、人骨は腐朽せずよく遺存していた。
といった記述がそれらしき=u解説」でした。

私は、納得しかね、長く、「疑問」に思ってきましたが、「発表誌」にも注記(14)として記している、
「歴史の謎を探る会編」 『日本人の起源』の中に、
「鍾乳洞に人骨がある」ことを説明した記述がある(「下」の枠℃Q照)のを見つけ、
平成4年、私の勤務していた「山口県立新南陽高校」理科教諭「S」氏 (名は載せないでほしいと言われており、S℃≠ニしていますが、立派な方でした) に指導をあおぎ、「土井ヶ浜」にも適用できる=u考え方」だとお聞きして、記述したのです。)




諸説ふんぷんの大論争 ― 日本人の起源 面白すぎる雑学知識 我らのご先祖様はどこから来たのか?

[1991年5月5日第一刷/歴史の謎を探る会編/青春出版社発行]


〈 3 ハイテク分析技術が明らかにする 旧石器時代人は我らの祖先なのか?(81〜110頁)中の
● 日本ではなぜ旧石器時代人が発見されにくいのか?(98頁8行目〜100頁2行目)のうちの、
更に(99頁10行目〜 )を引いておきます。


化石人骨がこの程度しか発見されていないのはなぜなのだろうか?

骨の主成分はリン酸カルシウムで酸に溶けやすく、酸性の強い土壌のなかに埋まると、数十年から数百年のうちに、あとかたもなく溶けてしまう。日本の土壌の多くは酸性で、人骨の保存には適していないのである。
古い人骨が発見された牛川、三ヶ日、浜北の遺跡は、いずれも石灰岩の採石場だった。こうした石灰岩地帯では、土壌中のカルシウム・イオン濃度が高く、土質が弱酸性あるいはアルカリ性になっているので、骨が溶けずに保存されるのである。
貝塚についても同じことがいえる
縄文時代の人骨が貝塚から、旧石器時代の人骨が石灰岩地帯で多くみつかるのはそのためなのである。


今日の「人類学」の成果から、
@ 「縄文人骨」
A 「土井ケ浜遺跡の弥生人骨」
B 「古墳人骨」
C 「現代人の人骨」
を比較してみると、@は極端に他と異なっているが、A・BACはある意味では似ており、特に、Aは、B以上にCに近いという関係が明らかになっているといいます。

比較する「弥生人骨」が無いに等しかった当時、「大学に持ち帰った」二つの頭骨の計測の結果を、それまでの人骨の数値と比較し、かつ、駒井氏から届けられた「弥生式土器片」とから、三宅氏は、「弥生時代」に近い「古墳時代」の人骨であろうと小川氏の推測を肯定、その発表を小川氏が編集し、三宅氏自らも創立発起人として名を連ねていた「防長史談会」の機関誌『防長史学』にされたのです。


「京都大学理学部自然人類学研究室」の 石田英實氏 からいただいた「手紙」

拝復
御返事が遅れ恐縮です。
御依頼の件ですが、880号の木箱には、880 と記された頭骨と、 881 a・b と記された少量の獣骨と人骨がありました。
今回の引越しで、木箱よりプラスティックの箱に入れ換えました。
 bW80 の木箱は捨てますので、もし記念にと御希望でしたらお送り致します。
先ずはご連絡まで。
草々。
十二月八日
 
石田 英實



三宅宗悦氏の「報告文」に、第二例は寄贈を受けた清野蒐集人骨第八百八十号にしてとあることから、「京都大学」の「事務室」宛に、「手紙」で、今日も「資料」として「存在」しているかどうかを[平成6(1994)年]に、お尋ねしたところ、石田英實氏から、「上」に示した「手紙」が届いたというワケです。
御返事が遅れ恐縮です。
とありますが、決して、遅かったワケではありません。
「事務室」の御好意=Aさらには、教授御自身から、「返事」をいただいくという御好意≠いただいたということです。(石田氏は、[昭和63(1988)年]から、教授と「ネット」で「確認」できます)
了解なし≠ナの「公表」になりますが、
「清野蒐集人骨」なるものが、「土井ヶ浜出土人骨」以前に、800∞以上は「資料」として存在していたということを、現在≠ナも「確認」できるということ。
の「紹介」といった意味で、敢えて、ここに示させていただきました。




11−[2] "他日〃詳細を発表は・・・?
しかし、その『報告文』において、改めて"他日〃詳細を発表するとしながらも、結局まとめる機会を持たないまま三宅氏は「昭和十九年」、「レイテ」にて戦死されたのです。

「昭和6年」から「昭和19年」の間には、少しばかりの期間≠ェあることから、「まとめる機会がなかった」ということには、「戦死」よりも、直接的には、昭和13年、思いもかけなかった清野氏の退官、さらには、清野氏が三宅氏を助手として招くことになるきっかけ≠作り、終始、三宅氏の理解者であった京都帝国大学総長 浜田耕作氏の死が重なったことで、翌十四年、大学を離れたことの方がより深く関係しているかもしれません。


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