平成19年7月5日 公開
平成23年1月30日 更新



● 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノおけるなぜ?≠ノ答える



16 なぜ、長い年月放置されていた≠フに、「発掘調査」が再開され、「人類学ミュージアム」ができることになったのか?



[答え]
 16−1 坪井氏と金関丈夫氏との邂逅
 「京都帝国大学助教授」から「台北帝国大学教授」に転じられた後も、京都帝国大学に「人類学」の出張講義にこられていた金関氏の講義を、京都帝国大学の学生であった坪井清足氏が受講されたとのことです。
そして、その後、「学徒動員」で徴兵されて台湾に行くことになった坪井氏は、折をみては、金関邸を訪れていたといわれます。(坪井氏から直接=Aお聞きしたことです。)
 そういった関係で、「京都大学大学院学生」でありながら、九州大学の金関氏に、
「佐賀県三津永田遺跡」の弥生人骨調査
更に続いて「土井ヶ浜」の発掘調査の協力を求められ、重要な役をこなされることになったというわけです。
 この「土井ヶ浜遺跡」に係わった人たちは、その後も、立派な仕事を積み重ねられ、坪井氏は、金関氏のご子息恕氏、水野正好氏とともに、日本を代表する考古学者となられています。
特に、坪井氏は、その卓越した指導力で評判の方です。
その坪井氏にとって、「土井ヶ浜遺跡」は、若き日の思い出の地≠ナした。

 16−2 坪井氏の迫力ある£壕モ
その坪井氏が、後年、「土井ヶ浜遺跡」を訪れられた時のことです。
「山口県」の関係者の案内で「土井ヶ浜」に立寄ったところ、 小さな「資料館」はほこりにまみれ、海水浴客の車が遺跡の中に、無造作に数多く乗り入れていたのです。(私の母の実家が「豊北町」にあることから、墓参の際、何度か、「土井ヶ浜」に立ち寄っており、その「駐車場」と化した「遺跡」を私も何度も見ています。)

これでは余りひどいではないかと注意したことがきっかけになって土井ヶ浜遺跡の整備が県、豊北町でとりあげられ、今日の整備が実現したのは誠に有難いことである。
遺跡保存整備にあたって、土井ヶ浜遺跡は砂丘なので露出展示することは不可能であり、文化庁記念物課の安原啓示主任調査官の意見でネクロポリス(墓地)は薄暗いドームにしてはとの案を採用することになったことしも付け加えておきたい。   [『山口県史資料編 考古1』(平成12年3月21日発行)の中に入れられていた「附録」=「防長二国とのおつきあい」より。]
と記しておられます。

坪井氏がこうした文を書かれる以前に、私はこのことを既に活字にしています。 (『山口県地方史研究 第75号』〈平成8年6月発行〉の中の「人類学者 三宅宗悦博士 ―山高郷土史研究会=E土井ヶ浜遺跡℃鮪nめ―」58頁)
それは、既に「土井ヶ浜遺跡」に関して、何度か会っている乗安和二三氏が、「防府市文化福祉センター」において「講演」をされたのを聞いた後に、乗安氏に会いに行き、乗安氏に「昭和6年の出土」の「写真」が載っている「新聞」があるということを話すとともに、私がある「県教委」関係者に教えてもらった坪井氏の迫力≠る「注意」≠ェ、今日まで続く「発掘調査」に至った要因であるらしいということを話していると、
この坪井氏の「土井ヶ浜遺跡」訪問のすぐ後に、坪井氏と会ったという「市教委」に在籍される方がたまたまおられ、次のようにその「背景」を解説してもらったことを踏まえてのことでした。
(次に記すのは、平成19年に「ブログ」に載せるに当たって、「メール」で、「確認」した上で記しています。)

「市教委」に在籍される方≠フこと

この「市教委」関係者の名前は記さずにいたのですが、「防府市文化財郷土資料館」ができたということで、行ってみたところ、
その「資料館」の「初代館長」になっておられた吉瀬勝康氏(「文化財課課長」を兼務)と出会い、その場で、「名前を記してはいけないでしょうか」と聞き、
「どちらでもいい」という「回答」を得たため、その「市教委」関係者が吉瀬氏であることを記すことにしました。

吉瀬氏は、「下関市」に住んでおられたことから、「下関・北浦方面」の遺跡発掘調査に、「学生時代」から係わってこられており、「土井ヶ浜」にも詳しい方で、
国分直一氏、坪井氏、金関恕氏、水野氏といった方々と関わりを持たれていた
のです。
のみならず、「大学卒業」後は、「防府市教委」に勤務され、「周防国衙遺跡」を中心とした「調査」に深くかかわってこられたのです。


当時の状況を、考えてみます。
県の担当者が怒られることを予想もしていなかった、不意を食らったのは本当でしょう。
だからこそ、坪井氏が求めるままに土井ヶ浜へ案内したのでしょう。
当時、史跡の管理、整備については、現在に比べるとまだまだの時代でした。
国指定の史跡でも当時の土井ヶ浜のような状況は、全国、県内でも多くありました。
当時は北九州からのマイカー客が急激に増えた時代で、海水浴客の駐車場整備も遅れていた状況です。
県教委や豊北町はこのような状況が良いとは思っていなかったとしても、それほど困ったことだという認識は無かったものと考えられます。そこで、坪井さんを土井ヶ浜に案内することに何の危機感も無かったと思うのです。
坪井さんが県教委に対し、具体的にどのような怒り方をしたのか、どのような注意、指導を行ったのかについては、私は聞いておりませんのでお伝えできません。


さて、この坪井氏の迫力ある注意≠ェきっかけとなり、とりあえず、どこまでが「遺跡」かの「範囲確認」の調査を始めたところ、その調査で新たな出土が次々とあり、「調査」が続いていくことになったのです。
(なお、「次」に触れる『史跡 土井ヶ浜遺跡 保存管理計画策定報告書』の中の「保存管理計画」には、具体的な環境整備事業の内容としては、次の事項を考慮し「史跡土井ヶ浜遺跡保存整備委員会」を設けて検討することが望ましい。しょっぱなに、未調査地区の発掘調査の実施とありますから、数年≠フ「調査」は当初≠ゥら「予定」されていたということかもしれません。  
「土井ヶ浜遺跡」の「指定」のことを「参照」してください)

 
▼ 『昭和53年度文化庁補助事業 史跡 土井ヶ浜遺跡 保存管理計画策定報告書』 豊北町教育委員会 昭和54年3月31日の
   豊北町長の「あいさつ」にも「次」のように記されていることに気がつきました。(平成23年1月30日)
   坪井氏の迫力≠る「注意」があったことは伺えませんが、いわば、公的な資料≠ノも、坪井氏と「土井ヶ浜遺跡」「発掘調査」の
   「再開」
が不可分≠フ関係にあることが明記されていると言えます。

長門ブルーラインとよばれる国道191号線ぞいの矢玉・和久間に、土井ヶ浜遺跡があります。
この附近一帯は昔からときどき人骨を掘り出していましたが、鎌倉時代に元軍が来集した古戦場だという云い伝えがありましたため、それらの人骨も当時の元軍の戦死者を埋めたものと信じられていました。
(註 「昭和6年」のことにはまったく、触れられていません。)
戦後衛藤和行氏がここで土器・人骨を発見されたのがきっかけとなって、昭和28年から32年にかけて発掘調査が行われ、これが弥生時代の集団墓地遺跡であることが確認されました。
しかも発掘された人骨数は207体で、弥生時代の人骨の数としては全国最大でありました。
昭和37年文化財保護委員会はこれを国の史跡に指定し、昭和38年には国の補助事業として囲柵がほどこされましたが、附近の道路のかさあげが実施されたため柵が破壊され、最近では車が進入できるほどになっていました。
たまたま一昨年の夏(註 昭和52年夏)、坪井清足先生が土井ヶ浜遺跡を訪問された際環境整備が話題となり、その後坪井・金関・安原諸先生にご出張いただき、今回国庫補助事業としての「土井ヶ浜遺跡保存管理計画」が策定されたことはまことに喜ばしい限りであります。
町としては今後策定会議を継続して、初期の目的を達成するための努力を重ねるつもりでおりますが、今後とも各方面のご協力を懇請して止みません。


そして、それが、「土井ヶ浜人類学ミュージアム」の建設へと続いていくことになったのです。
その建設・整備には、[昭和62(1987)年から国や県の補助を受け、約2億2000万円の経費を要した]とされています。これは推測ですが、当時の竹下登首相の提唱した「ふるさと創生事業」として、全国の市町村に対し1988年から1959年にかけて一律1億円を交付税措置したものも、含まれているのではないかと、私は思っています。 
但し、「朝日新聞」(1993(平成5)年1月16日 土曜日)の「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」の「開館」を伝える「新聞記事」においては、
九○年度から三年計画でスタートした「弥生パーク」は、予算規模(一般会計)が七十五億円の町の単独事業で、総事業費十二億八千万円。
面積約二万平方bで、「人類学ミュージアム」のほか、「土井ヶ浜ホーム」と休息所「ほねやすめ」が主な施設。
とあります。
この「記事」の方が正しいとすれば、「ふるさと創生事業」の「交付金」が含まれていたとしても、ごく一部≠ニいうことになります。

なお、蛇足的なことですが、坪井氏は、さきの「防長二国とのおつきあい」の中で、(主語は金関氏か?)昭和二十九年夏、豊北町在住の衛藤和行の情報から、土井ヶ浜遺跡の発掘を計画され、三十年夏と二度発掘調査のお手伝いをさせていただいた。≠ニあるのは、坪井氏の記憶違いと思われます。
既に述べたように、衛藤氏の情報≠もとに、「発掘調査」されたのは「昭和28年」ですし、金関氏の衛藤氏への「手紙」の中にも、坪井氏の名があげられています。
それに、「記録」によると、坪井氏は、「昭和28年」の第一次発掘調査、「昭和29年」の第二次調査、「昭和30年」の第三次調査と「計3回」、調査に加わっておられるようになっています。


 [参考]

◎ 金関丈夫氏
   「朝日賞」=〈昭和53(1978)年度〉
      南島の人類学的研究の開拓と弥生時代人研究の功績

◎ 坪井清足氏
   「朝日賞」=〈平成3(1991)年度〉
       大規模遺跡の調査発掘法と考古学における学際および国際研究の推進
   「文化功労者」=〈平成11(1999)年度〉 








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