平成19年8月26日 仮公開
平成22年9月10日 更新





● 『世界陶磁全集』  第5巻 「江戸篇  中」 の中の 「萩 焼」



『世界陶磁全集』  第5巻 「江戸篇  中」
「山陽・山陰諸窯−・姫谷・楽山焼−」
             河 出 書 房 
          昭和31年12月25日発行
 この項は、佐藤進三氏と佐藤雅彦(大阪市立美術館工芸部員)氏との共著
   となっていますが、「萩焼」については、佐藤進三氏の単独執筆です。
  [247頁〜254頁] (活字は原則として、新字体にして記しています。)
   「グラビア写真」として、(1頁に2作品×4)+(1頁1作品)=計9作品


[注意]

この中には、来年(昭和三十二年)にでもその主たる窯跡の本格的な調査を行うべく準備を進めている≠ニ、「萩焼古窯」の調査の計画をしているとあることに注意してください。
しかし、そのことは、「山口県」には、一切、連絡も相談もなかったのです。



 山口県萩市を中心にその附近に点在している萩焼は、今より三百五、六十年の長い歴史を誇って今も尚栄えているのである。この厖大な萩諸窯を語ることは誠に名誉な事であるが、只一つ非常に残念なことは、来年(昭和三十二年)にでもその主たる窯跡の本格的な調査を行うべく準備を進めている今日、その全貌を語れとはあまりにも残酷とも言うべきであるが、これ又仕方のないことである。
中央から遠く離れた本州の最西端の辺境については中央人士のよく知られていない所で、茶の湯では萩焼と言う漠然たる認識にすぎないのである。古くから「一楽、二萩、三唐津」と呼ばれ、和陶の尤なものとされていながら、案外真相を知られていないと言うのが現状である。早い話が松本萩と言うものと深川萩との距離的、歴史的、又作風の相違と言った事柄でさえ土地から出た人々以外には殆んど知られていないのである。こうした面から萩焼と言うものを明かにしたいのであるが、前記の如く筆者も今後の本格的な調査によるほかないので、現在では何回かに渡って垣間見た程度に過ぎず、又松本、深川両窯元から別れた多くの窯の事、作風、釉薬、胎土についても自信はないのであるが、ごく一般的の概念としての一通りを述べるに過ぎないことを了承願っておく次第である。

征韓の第一回戦で引上げた毛利輝元は文禄二年李勺光、李敬をともなつて帰国し、この両名を拠城萩の城下松本村字中の倉に居住せしめたのが萩焼の起りと言われている。そして兄李勺光〈リジヤクコウ〉(一説にシヤムカンと呼ばれた)に対し輝元は城下の古窯跡の調査発見につとめさせ、それを復興せよと命じたので中の倉から城下各地を探査し、ついに長門深川の三〈そう〉の瀬〈せ〉に歿するのである。萩中の倉では弟の李敬が兄の遺子をそだて、自分がかわって中の倉の即ち松本萩焼の頭領となって、ここに坂倉姓を名のり、後坂姓に改め、寛永二年高麗左衛門の判物をもらい自他共にゆるす高麗左衛門初代となるのである。
一方坂にそだてられた兄の遺子は同時に山村新兵衛作之允の判物を藩主より頂き、萩に別に家屋敷を賜って焼物を焼いたとなっているが、それ等の場所その他は不明である。ところが寛永十八年十一月作之允は囲碁の争いから、渡邊某なるものを殺し、やがて渡邊某遺子は明暦四年二月法華寺門前で山村作之允を討ちとるのである。ここでその遺子及李勺光の弟子の山崎平左衛門及び蔵崎五郎左衛門達は願い出て萩の地を捨て祖父の死歿した深川三之瀬へ家屋敷を拝領して移住、ここに李勺光三代山村平四郎光俊を中心に深川焼が始まり、後山村家を改め坂倉と名のったのである。
土地の山本勉弥氏の努力によって最近「大照院様御時代無給帳」なるものが発見され、この藩の分限帳なるものに僅か七行であるが当時(慶安二年調べ)の細工人のことが出ておりその様子がよく分るのである。左に記すと
 ヤキ物細工   市右衛門
三人米七石六斗  坂 助八
三人米四石    蔵崎五郎左衛門 
三人米二石二斗  松本ノ助左衛門 
五人銀二百五十目 山村松庵
二人切方無シ   松本ノ勘兵衛
         同所  助右衛門
となっている。山村松庵とは山村作之允の事で家督を譲って松庵と号したのであってその松庵在命中のしらべであろう。慶安二年の調べとすると、彼は渡邊某をあやめて事件落着まもなく隠居した事と思われる。この記録で見ると山村家は坂家と比べて非常な違いがあり、如何に弟の李敬より李勺光が重く見られていたかが解る。だから山村作之允の時代は松本窯の惣都合を仰せ付けられていたのではなかったかと山本氏は論じられている。
どちらにしても深川三之瀬〈そうのせ〉へ山村家三代平四郎光俊の時代に家屋敷を拝領してから氏を坂倉に改め、ここに始めて深川萩というものが成立したものと信じる。かくて松本中の倉は高麗左衛門が実際上実権をにぎり代々これを継ぎ、一方山村家の坂倉は代々新兵衛を名のり、ここに深川萩の基礎をきずくに至ったのである。(次頁系図参照)
こうした萩焼に関する歴史、及両家から頒れて独立した諸窯を記して行くとそれは容易な事ではなく、理解にも苦しむことで又この指定された僅かの頁には記し切れない。で筆者はまず萩焼なるものを大づかみに図示して、それに説明を加え、出来得る限り分窯に亙りたいと思う。

萩 焼 窯 別

現在の萩窯は前記の古い伝統を誇る二つの窯元、即ち松本萩の坂家、及深川萩の坂倉家はゆるがず連綿としてつづき、それに松本の三輪家がある。この三家の製品を見ればおよそ現在の萩焼の在り方が大づかみに知れるわけである。三輪窯も元は坂窯の弟子すじであったので、その古い作品は坂窯と共通しているし、深川萩も元は松本坂家の惣都合であったのであるから、その作風も皆共通したものと言う事が出来る。又深川から別れた古畑窯(萩市中津江区内古畑)は蔵崎五郎左衛門が始めた窯で、現在僅かにその窯跡から陶片が出土するのみで、その後嗣は亡んで了っている。又惣之瀬窯も松庵の弟子山崎平左衛門が明暦後開窯したもので、現在は僅かに窯跡が残るのみである。その他深川には坂倉家より別れた赤川窯、及び上窯中窯下窯新窯が起っている。がそれ等をまとめ深川窯という可きである。その他松本萩にも坂窯より分れた多くの窯があるが、それ等重だったものをひろって記する事にしよう。

 この図示の通り深川萩の開祖李勺光は元松本萩の開祖でもあったのである。ところが三代山村平四郎光俊の時代に祖父李勺光の歿した地に移って焼き始めたのが深川萩で、松本萩は李敬が高麗左衛門の名をもらってから後兄の子山村松庵を守っていたが、前記三代光俊の時に深川へ移ってからは坂家は二代助八忠孝が高麗左衛門を名のって坂家の基礎を築くのである。これらに対するいきさつや歴史等はかなり複雑であり古くより種々の説がある様であるので、後段にその両家の年表・判物・古記録を別記したからそれによって十分検討されん事を願う。

坂倉古窯跡
李勺光が発見して後三代光俊によって仕事を始めたと思われる最古窯趾であるが、在来多くの人によって探査されたが深川萩古窯は現在坂倉家の本家住宅と工場との中間約三十間に互りその附近にあったらしく、それ等は坂倉家前の道路拡張の節、地ならしされて窯は煙滅して了ったのである。 現在はその地点の上手にその後の窯が二基残っており、又その上手に幕末から明治にかけての産物窯と言うのが割に完全に残っている。

坂古窯跡
又松本中の倉坂高麗左衛門の古窯と呼ばれている窯は在来坂家の上手を少し登った道路にそった右側、小高い丘であると言われていたが先年二回に亙ってしらべたが、この窯からは新古とりまぜ陶片が出土するので、本年夏又々調査した所、この丘より南の田畑にそって進むこと約三、四十間、唐人山に分け入ろうとする小路附近が窯跡である事を発見したのである。

深川系古畑窯
この窯は古くは李勺光が再興した窯であると言われているが、蔵崎五郎左衛門が主として働らいた窯である。現在の中津江区内古畑であってこの窯についても未だ忠実な調査発掘はされていない。この窯の製品は坂窯裏手の道路右丘より出土する陶片によく似たもので、黒、海鼠、黄褐色その他種々なものが出土する。

深川系惣之瀬窯
この窯も李勺光の弟子山崎平左衛門が松庵没後他国へ移らんとしたが許されず、禄を増し惣之瀬の地に土地を賜って開窯したものである。そして如何なる理由からか平左衛門一代でほろんで居ると言われている。場所は阿武川上流にあって丁度唐人山をはさんで坂家が西麓、惣之瀬が東麓の位置になっているが、今はその窯跡さへ不明と言われている。この窯の製品は萩固有の白釉のもの、枇杷釉に薄茶、褐色を呈したものが主体をなしていると言われている。

松本系三輪窯 
三輪窯は元前小畑の現在吉賀窯に接した東側にあった。この附近は小丸山の麓をすっかり切り取って開かれて了って昔日の面影は全くなく、只そこより出土した陶片が古格を帯びているので三輪窯の元の窯場であった事が知れる。現在は松本中の倉への入口椿東小学校の北側にある小丘の麓が窯場である。この窯の創立については不明であるが佐伯実清がその創立者となって居り、その実清は天和二年十一月五十三歳で歿しているので少くも寛文延宝頃であったろうと想像される。実清歿した時嫡子義勝が幼少であったため、藩主の命をうけて三輪中兵衛がここに移り住んで佐伯にかわって今日に及んでいるのである。
その代々の年譜及判物伝書については附属文献を見られたい。
三輪窯の作品については前に少しふれておいたが、初代二代三代位迄は全く坂窯と共通していて、その区別も普通では判然としかねるのである。然し萩固有胎土に対して藁白土灰を掛けたものが多く、又粉引風のもの及御本の手の様なものもある。代々休雪を名乗ったもの多く○印又は○印を三コ重ねたものがある。

松本系佐伯林窯 
佐伯実清半六死去の際遺児子幼少であったため佐伯窯は三輪窯に変って了った。二代義勝半六一本立になるに及んで坂窯を借り御用を勤めていたが、御銀子借用を許されて唐人山東北麓大釜の畑端に窯を打ち立てて焼き出したのである。そして佐伯を古林とかえ後林姓を名のる様になっている。同地は坂窯の上手の旧道の途中から手水川に沿った道を登ること四五丁、その近くに田村某なる家から右折し、吉田の渓と呼ばれる渓間を一丁程登った所で、竹藪の中が窯跡である。
製品は萩固有の堅い胎土に土灰を塗って焼き上げて主として酸化焼成であってそのための変化で枇杷色及び青磁に近い青味をもつものもある様である。製品は茶器より雑記の皿類が多い。古文書、系図その他は文献を見られたい。

 松本系大賀窯
前小畑流泉山大賀窯は文政九年開窯、弘化三年一時中止、その後大賀幾介によって再開、大正十四年七月廃止となっている。現在は大正時代新窯を県道沿、小丸山の南麓に築いている。旧窯は大賀窯であったが、新窯は吉賀窯と呼ばれている。現吉賀窯は大眉の代で大眉氏は在来の萩と異った黒釉を用い日展等に出品して異彩を認められている

松本系蜂ケ坂窯
この古窯は前小畑小字向山、石井氏所有の山中にあるが、その窯の関係者の歴史的事実も不明で誰がいつ頃創立していつ頃滅んだか等全く判っていない。只その作品から見ると松本坂系統に属することは判然として居る。そして作品には古格のものと比較的新しいものと混合している様である。 古格を帯びているものは紫海鼠、赤海鼠風のもので、これは古畑窯と似たものである。又比較的新しいものは萩固有の土に白釉がうすくかかるもの、それが枇杷色に変化したものがある。


萩の作品について

萩焼は申す迄もなく朝鮮系の陶器であって従ってそれ迄朝鮮李朝期に作られたあらゆる茶碗その他が出来ている。例えばよく作られた井戸茶碗にしても筆洗茶碗にしても朝鮮茶碗のそれに共通したうまさを出している。所謂萩の七化けと言われている様に萩焼のそれらが、全く本歌そのもので通る場合がある。唐人笛とか俵形茶碗と言った場合でも朝鮮茶碗であると信じられたり、又箱書附に萩焼と書かれてない場合が多くあるため朝鮮茶碗として通っている事実がある。こうした所から七化けの理由もないではない。然し本来は朝鮮茶碗の写しを専らやったのではない。萩焼の主目的に茶器の製作と言う一つの藩主からの命令から自然発生の形によって生れたものであると考えるのが普通であると考える。それにしても如何に朝鮮渡りの李勺光、李敬が名工であったとしても我が国茶道に関し何等のそれに関心のあった筈の人達でもなかったことで、これには必ずやそれの指導的立場の者がなければならなかったかと思われる。今これについて少し勘考して見たが、直接指導にあたったと思われる茶人は出て来ない。が、考えられることは家光の御噺衆として知られた毛利宰相秀元と古田織部の関係である。長府毛利家文書の内に数通の織部の書状があって、それ等は伏見に於ける茶事に関する両者の関係のものばかりである。又寛永十七年秀元は品川で大茶会を催して将軍家光外大勢を招いて盛大を極めた事が「藩翰譜」にのせられている。こうして見ると輝元によって萩指月城は基礎をきずいたが、次の時代、即ち秀元に及んで萩焼の基礎も磐石となったのではなかろうか然も織部によって指導された秀元はその意を体してこれ等萩焼の向うべき指針がここに始めて確立したものと信ずるのである。かくて深川萩も松本萩も名工続出して茶器としての萩焼がここに定まったものと考えるのである。


萩焼の胎土と釉薬

山口県と北九州の地は地質学上より見て近似の地形をなしているときく。はたしてその粘土類は花崗岩、石英粗面岩、石英斑岩等の中にあって、山口県下は九州唐津方面と酷似している。そして萩焼に古くより使用されている陶土は左の四ヵ所と言われている。
阿武郡椿村小畑の内中ノ口台       豊浦郡阿川村の中原山
大津郡深川村湯本の内イバノ台      吉敷郡小俣村の内大道堂山
ことに享保年代発見された大道土は今日に至る迄盛んに使用されて、現在萩焼を作らんとして焼物土を使用する時この大道土を使用しない陶家は一軒もないと言われる位である。その他右の四ヵ所の外その土地々々の地土を使用するが、色の調子を強める意味で見島土(見島嶋嶼)を使用している所が多い。次に釉薬であるが、松本萩系の窯では、越ケ浜の柞〈いす〉灰を主体として使用しているが、その他、栗皮灰、欅灰、つつじ灰等を使用して如何にもやわらかな萩らしい釉薬を表すのである。尤も萩固有の白色の焼き上げには藁灰、芋の灰等を用うる場合が多い様である。
どちらにしても萩の胎土は大道土を発見されない以前は土も固く唐津に似た土味であったが、大道土の発見から胎土はやわらかくなり、釉薬も柞灰、栗皮灰等が使用されて肌合もやわらかとなって、萩独得の味が出て来る様になるが、一方このやわらかさを物足りなく言う人もある様である。

 萩焼の作風

事新しくここで又述べる迄でもないが、萩焼は申す迄もなく朝鮮直系の蹴りロクロであり、又登り窯で焼いた事も言うまでもなくそれ等は九州窯を代表している唐津窯と全く同様である。だからその手法によって出来上った品も自から同様のものが出来るのがあたり前である。我々は萩の古窯を調査して、そこから出土する陶片を見てその事を判然と認識する。所が伝世している萩の多くがあまりにも初期萩焼と異っているものに出会うことが多いのに驚ろくのである。それは何故か。その答に二つあると思うのである。一つは享保以後発見された大道土が萩焼の主体たる胎土となって了ったからである。本来萩特有の持味の固い、いい土味が、ごく柔らかな一見軽そうにさえ見える大道土によってそれ以来萩焼特有の持味が一変したのである。第二は三輪窯の出現である。在来朝鮮系の萩焼は朝鮮本来の持味のものであった。即ち井戸風であり伊羅保であり呉器であり唐人笛であったのである。三輪の出現はそこへ日本化された楽風のもの、織部風のもの、古伊賀、古備前風のものを出現させたのである。
都会人士の多くが萩の窯元でみせられる初代、二代、三代の作と言われるものがあまりにも大道土の混入以後の作品、そして似て非なる高麗茶碗写であることに驚ろかざるを得ないのである。これ等の不一致は徹底的な調査発掘の完了の暁にはすべて明らかとなることを特筆してこの稿を終るとしよう。〈萩焼古窯文献は二六〇−二六六頁を参照のこと〉                                 (佐藤進三)  
  「萩焼本文」中の「写真・図」類
    248頁=「萩古窯分布図」+「萩深川古窯分布図」
    249頁=「写真2枚」
        深川本窯坂倉新兵衛氏工房(上手に陶祖松あり)+「深川本窯跡」
    250頁=茶碗の「写真」 4枚
       「萩焼(坂窯)伝初代茶碗(窯元伝来)銘 李華」
       「萩焼(坂窯)伝初代茶碗 銘 翁」
       「萩焼(坂窯)伝初代俵茶碗 銘 豊年」
       「萩焼(深川三代平四郎)三島写茶碗(窯元伝来)」
    251頁=茶碗の「写真」 4枚
       「萩焼(初代休雪)茶碗」
       「萩焼(二代休雪)茶碗」
       「萩焼(三代休雪)熊川写茶碗」
       「萩焼 井戸写茶碗」
    252頁=茶碗の「写真」のみ 8枚
        「写真」8枚が、「萩焼茶碗高台各種」という題で載せられている。
        「深川二代伊羅保写茶碗」
        「深川三代平四郎斗々屋写茶碗〈窯元伝来〉」
      「坂窯伝初代李華茶碗〈窯元伝来〉」
        「坂窯伝二代茶碗〈窯元伝来〉」
        「萩焼井戸写茶碗」
       「萩焼茶碗 銘 大名 根津美術館蔵」
        「二代休雪茶碗」
        「萩焼割高台茶碗」  
    253頁=茶碗の「写真」 3枚+扁壷1枚
        「萩焼 茶碗」
        「萩焼 井戸写茶碗」
        「深川御産物焼 敷茶碗」
        「深川御産物焼 扁壷」
    254頁=「中国地方諸窯分布図


「萩古窯文献」=260頁〜266頁



まえがき%Iな一文〈佐藤進三氏による〉

 坂倉・坂家古文献に就て
坂倉(山村家)坂(高麗左衛門家)両家の古文献は古くより伝えたものであって、これ等を無視しては萩焼の正統は解せないそれと共にこの古文献をまる飲みにする事も又非常な危険性があることを注意されたい。両家の文献は今度その古文書からこの稿の為めに寫書されて送附してもらったのであるが時間と原稿の枚数に制限されて十分にそれを生かし得なかったので、この古文献の大部分をまとめて文献として発表した次第である。頁数の関係で全部をのせ得なかさった事を両家及読者に深くお詫びする。又佐伯家及三輪家の文献も坂倉、坂二家に次で大切であるのでこれも加えることにした。今後萩焼を研究する人々がこの四つの文献を十二分に検討されて利用、真に萩焼の究明に努力されんことを希って一言附け加えた次第である。
  ↓ 以下、「文献」が並んでいます。