平成20年7月24日 公開
平成年月日 更新


●小山先生の12代坂倉新兵衛氏追悼の文

『陶匠坂倉新兵衛』〈昭和39年10月10日刊〉

序    不審庵   千宗左
緒 言 十二代坂倉新兵衛後援会
        会長 横山繁雄
第一編 新兵衛の業績
第一部 陶芸と新兵衛

新兵衛翁の陶芸について

小山「富 (ママ)」 士夫



 坂倉新兵衛翁は古く大正時代から萩焼の名工として知られ、私も随分古くから御名前はきいていた。しかし翁に初めて御会いしたのは確か昭和三十年 (註 実際は、「昭和三十一年」) だったと記憶している。
 九州からの帰途、河野英男氏と厚狭駅で落合い、同氏に案内されて、長門市湯本三之瀬の御宅をおたづねした。流れに添った山峡に、地方には珍しい数寄屋風の閑雅な住居があり、仕事場と窯は流れに添って上手に並んでいた。門に立ってわれわれを迎えられる翁と初対面の挨拶を交わしたが、童顔をほころばせてにこにことされ、円転滑脱、少しも心にわだかまりのない人である。伝え聞くところによると、翁は若い時に先考を失われたり、家が再度の火事にあわれたり、いろいろと人世の風雪にあわれたとのことだが、そんな翳は少しもなく、どんな艱苦もにこにこと笑って過されるたちの人のようであった。茶席で御茶をいただいたり、所蔵の古陶を拝見したり、仕事場で轆轤をまわして見せて下さったり、半日あまり御邪魔した。その頃既に七十五を越しておられたろうが、実に壮者をしのぐ元気さで、頭も躰もよく動く人だった。
 萩の窯を見たのはその時が始めてだが、今は失われた古い伝統が萩焼にはいろいろと残っているのに感服した。たとえば、白土は遠く防府に近い大道から運び、赤土は日本海海上十八里沖の見島から採り、今猶土の選択の厳しいことは何よりも萩焼の生命である。
 また窯詰に今猶天秤焼といって匣鉢を用いない古風な方法を用いているが、之は九州では一二の処を除いてはもうなくなってしまった技法である。しかし無駄の多い、ゆとりのある天秤焼で作ったものと、今のように少しの隙間もなく、ぎっちりと詰めて焼いたものでは自ら違いが生じ、萩焼の持つ釉調の変化、うるおいといったものは、@火で焼成しなくては生じない。翁から釉薬には柞灰(いすばい)を使っているという話を聞き、目に見えないところにいろいろの苦心や無駄のあることを知った。
 山口県下には萩焼の作家が相当にいるが、茶碗にかけては何といっても坂倉新兵衛新兵衛翁が一頭地(他?)を抜いている。翁の茶碗は、この三四十年間、器形も作風も一見変らない。また材料も窯も同じだし、茶碗という制約の中で作るのだから、そう大きな変化が起るわけはないが、仔細に眺めると不断の精進のあとが茶碗にも表われ、晩年の作ほど魅力がある。茶の方では昔からから『一萩二楽三唐津』ということが言われているが、これは和を尊び、おだやかさ、温さを第一にする茶の精神から来たものであろう。翁の茶碗にはよく練れて、行きとどいた、強い個性を表現すると云うよりは、茶に司えるということを第一のモットーとされた翁の人生への態度が良く現れている。それだけに奇異なものもなく、人を刺戟する強いものも無かったが、中道こそ尊いのだと云うことを、作られた茶碗で物語っている
 坂倉翁は萩焼近世の名工である。今更に惜しい人を失ったと痛恨に絶えないが、しかし人間は何時迄も生きると云うわけには行かない。死と云うものは必ず来るものだが、翁のように作品の残る人は幸いである
 文化財保護委員会も御譲りいただいた茶碗を何点か保管しており、昨年わが国各地で開かれた日本伝統工芸秀作展にも、ずっと翁の茶碗を列べたが、華やかなもの、きらびやかなもの、勁いもの、手のこんだもの等と列んで少しの遜色もない。枯淡な、おだやかな美しさが深くわれわれの心を引く。翁の作られた茶碗は今後もわが国を代表する優れた焼物の一つとして永く後世に残るだろう。

        (鎌倉市二階堂
                                 文化財保護委員会技官)