平成19年8月25日 公開
平成22年12月5日 更新=@ 

『現代日本の陶芸 第3巻』 「月報 6」
 
対談 重要無形文化財指定のころを語る

前東京国立近代美術館工芸課長  杉原信彦  
東京国立博物館主任研究官     林屋晴三



 資材の斡旋から
 五万円の公開補助費
 第一回重要無形文化財の指定
 重文指定が日本工芸会設立を導く
 日本工芸会と松田権六先生との結びつき
 四科会が持たらしたもの

 資材の斡旋から

林屋昭和二五年に、文化財保護委員会ができまして、その活動の中で、現代の工芸というものも、何らかの形で技術保存を図らなければならないというような、ムードが出てきていたように思うのですが、たまたま杉原さんは、小山冨士夫先生、山辺知行先生とともに、そういった無形文化財選定とか、あの辺のところ、今や杉原さんがたしかな生き証人ということになります。そこで、どういう過程で無形文化財の方々が選ばれ、さらに重要無形文化財(いわゆる人間国宝)になっていく、あの辺の経過をひとつ記録に残しておきたいと思って、お話を承りたいというのが今日の主旨でございます。
杉原あれはね、戦後みな苦しい生活をしましたね。日本の伝統文化、工芸に限らず・・・食べることで汲汲としていて、芸術どころではない。戦後、敗戦ということから文化国家というもの目指したものの、それはもう経文みたいなもので、実際文化国家を標榜したものの、今日食べるということでせい一杯で、伝統文化が絶滅してしまうのではないかという危惧があったわけです。それが、法隆寺の本堂が焼失して、文化財保護ということを強化しなくてはいけないということになって、文化財保護法が制定されて(昭和二五年)、日本の伝統文化というものを無形文化財として保護しようとして定められたわけです。  だからその時の法文というのは、今から考えてみると非常に面白い。要するに、無形文化財のうち特に価値の高いものであって、国が保護しなければ衰亡の恐れがあるものという条件がついているのです。ただ立派だというだけでは駄目で、つぶれそうでなくてはいかん、そしてそういったものについて今度はどうするか、漆(しつ)の方々だと漆が手に入らない、金が手に入らない、そんなことから資材の斡旋ということがまず第一、そしてその他適当な助成の措置を講じなければならないという・・・材料を世話するということを、今から考えるとちょっと想像できないくらい重くみています。それでスタートしたわけです。
林屋文化財保護法委員会ができた時の役所の名前は?
杉原文化財保護委員会ですね。その下に事務局があって、総務部と保存部と二つに分かれていて、保存部というのがいわゆる学芸部的なセクションですね。当時は、まだ無形文化課というのが独立していなくて、記念物課の中に含まれていました。史跡、名勝、天然記念物を担当する課で、その中に無形文化部という部が設けられて。、その中がまた芸能担当と工芸担当に別れていたわけです。
林屋その工芸部門を杉原さんが担当なさって、併任として小山冨士夫先生、山辺知行先生などがおられたのじゃなかったですか。
杉原そうです。小山先生あたりはね、併任になっており、同時に専門審議会の委員なんですね。初期は事務局職員と専門委員と二足のワラジをはいているんですよ。本当は専門委員というのは諮問を受けてそれを審議するんでしょう。それが当初は、事務局としてどういうものを諮問していいかわからないから、専門委員の方々に提案者役も引き受けれていただき、コウモリみたいな位置であった時代があるんですね。そして昭和二七年の八月に初めて無形文化財課というのが、記念物課から独立するんです。それで、その独立した時に、私ともう一人女子美術を出た女の人がいましたが、そういったことではいかんというので、小山先生が工芸関係のチーフでみえたわけです。それでようやく何とか格好がついてきて、男性三人で担当することになったわけです。

  五万円の公開補助費

林屋その時は当然小山冨士夫先生は、陶磁担当だし、総括責任者であったわけですか。杉原さんは染織・・・。
杉原たった三人でしょう、だから小山先生が陶器ご専門で総括責任者、あとは山辺先生の他に、新たに東京国立博物館から併任になった漆芸(しつげい)の岡田譲先生、金工(きんこう)の蔵田蔵先生が各々専門を担当されて、私はそれぞれの意見を伺う係でした。
林屋そうするうちに、伝統工芸展を・・・。
杉原一番最初は、助成の措置を講ずべき無形文化財として選定された、選定無形文化財かな、簡単にいうと、そういう言い方をしたんですよ。それで二年目ぐらいに、公開補助費として五万円の予算が計上されました。それでどういうものを無形文化財として選んだかを大いにPRしようじゃないかと、そして将来、無形文化財の保護ということと公開(展覧会)ということとは、切っても切れないことだから、公開ということに力を入れようではないかということになったわけです。
[気づき]  ここで、杉原氏は「公開補助費として五万円の予算が計上されました」と語っておられますが、「公開」そのものは、「文化財保護法」に記されています。


それならば当時、東京と大阪で一番いい場所にあるデパートで展覧会をやるのが一番いいだろうと。当時、野口真造さんが専門委員だったんですが、野口さんと縁の深かった高島屋に一番最初に話を持ち出した。しかし、こちらの言い方も悪かったし、無形文化財というものがどんなものであるかよくわからないこともあって、とてもそういう大がかりな経費のかかる展覧会はできませんと断られた。それで次に、東京と大阪とヒモがつかないデパートがいいというので松屋に頼もうということになった。その当時朝日新聞の企画部の次長で松屋と縁の深かった松上倫美という方に頼んで、銀座の松屋ですることになった。ところがその当時松屋はPΧなんです。で、PΧが解除になって、戦後の復活に張り切っている時に、宣伝部長のところへ行ったら、二つ返事でやりましょうということになったわけです。
林屋その時選定されていた方々は、焼物では志野、瀬戸黒ということで荒川豊蔵さん、天目釉ということで石黒宗麿さん、織部ということで加藤唐九郎さん、備前焼で金重陶陽さん、それだけですか?まだ富本憲吉さんとか・・・。
杉原富本さんは入っていませんね。国で保護しなくても衰亡の恐れがないから。そこらがねえ、天目釉は石黒さんの個人的な仕事ですから、富本さんの色絵磁器も同じことなんですよ。だけど天目釉というと、いかにも伝統的で今にやり手がなくなるんだというふうに聞こえやすい。陶器の方はまだ比較的そうい作家的な感覚があった。ところが、染織の方はどうかというとね、お伊勢さん、伊勢神宮の式年(しきねん)の御神宝といいますか、神社特有の道具を作るような技術ばっかりが選定になったわけです。唐組(からくみ)とか羅(ら)とかね。それから金がないというんで表装金襴とか。それで染織の人たちぱ特殊な、それこそ宮中とか伊勢神宮とかしか関係のないようなことばかりやっていて、本当に、これからやっていかなくてはならないもので苦労している人たちに目を向けないという不満が非常に出てくるわけです。その時電産ストがあって、松屋の復旧工事が遅れてしまった。それでその年度内に松屋で開くはずが開けなくなったわけです。  ところが文化財保護委員会は、五万円の国庫補助金を使わなければならない。そこで、今度は三越へ行ったんです。それはその当時に文化財の専門審議会で、工芸技術の部会長をしておられた西沢笛畝(てきほ)さんのお世話になったのですが、三越の宣伝部の古川伊之吉さんという催物の主任の方が二つ返事で引き受けて下さった。その時の話がね、なるほどなあと思ったのは、「承知いたしました。当店で致します。高島屋さんで断られて松屋さんがだめになって、うちは三番煎じでも結構です。文化財保護委員会でおやりになる立派なことなら致します。」と、非常にきれいに出てこられたわけです。それで゜ホッとしていると、「ただし、今すぐやれと言われても会場は全部つまっているので、三越の上層部へ力を入れさせるなら、国の施設で一度催し、箔をつけるといい。一ぺん上野の博物館でやってもらうと非常にいいのですが、何かそういう手は打てませんかね。」ということであった。それで急遽、博物館の表慶(ひょうけい)館の二階で細々と展覧会をやったわけです。昭和二八年の三月でしたかな、  それで二九年の三月に初めて三越の七階の催場で「無形文化財・日本伝統工芸展」、無形文化財というサブタイトルがついたんです。ですから無形文化財の人しか並べられないんです。          

 第一回重要無形文化財の指定

林屋それで無形文化財になっていた人は何人ぐらいいましたか?
杉原四0人ぐらいですかね。正確な数字は調べないと。
林屋そうしますと、まだ、日本工芸会はできていなくて、国の指定した人だけですね。
杉原そうです。今でも覚えていますが、この展覧会に五島慶太さんがこられて、荒川さんの志野の茶碗と木版複製の四天王寺の扇面古写経ね、それを一点づつお買上げになったんだね。
林屋今五島美術館にある荒川さんの茶碗はその時の。
杉原現代作家の茶碗が一0万円で売れたというんでみんなびっくりしたんです。まあそんで第一回はフタがあいたわけ。ところが最初に申しあげたように、特に価値が高いものであると同時に、国が保護しなければ衰亡の恐れのあるものという条件があるでしょう。だから非常に立派なものでも、いい仕事をしているものでも、国が保護しなけりゃ、衰亡の恐れがなけりゃ手がつけられなくなってしまう。だからどうも選定する時にギクシャクギクシャクするのと、 仕事上消極的になるわけですね。で、おかしいじゃないかという声が、部内にも専門委員の先生にも起こったわけです。それで保護法を改正すべきだという建議があって、昭和二九年の五月に保護法が改正になるんです。それで指定制度をとるわけです。で、昭和三0年の二月一五日に第一回重要無形文化財の指定が行なわれるわけです。その時の第一回目の指定というのが、志野、瀬戸黒で荒川豊蔵、鉄釉陶器ということで石黒宗麿、色絵磁器ということで富本憲吉、浜田そーさんので困ってね、名前のつけようがない。結局、わかったようなわからんような民芸陶器という名称で浜田庄司さんの四人が指定になったわけですね。続いて五月一二日に第二回目の指定があるわけです。その時に金重陶陽さんが入ったんですね。

 重文指定が日本工芸会設立を導く

杉原ところが、こういうのを指定してみると芸能関係というのは、歌舞伎でも何でも団体的だが、工芸の場合は個人でしょう。で、展覧会をやるにしても何をやるにしても事業主体がない、これは困ると、それで文化財専門審議会の先生方に、何か団体を作っていただけませんかとお願いしたわけです。いわゆる重要無形文化財の保持者と、専門委員と両方に声をかけたわけです。  そこで、虎の門の霞会館へ、西沢笛畝、野口真造、水町和三郎、明石染人さんら文化財専門審議会の工芸技術部門の先生方と、重要無形文化財保持者の主だった方と、無形文化財保護委員会の事務局から局長や担当課長らが集まって協議して、日本工芸会の設立についての話がまとまったのです。社団法人、日本工芸会として、総裁に高松宮さまを、そして文化財保護委員で工芸には一番理解の深い、細川護立氏を会長にして、専門審議会の工芸技術部会会長である西沢笛畝さんに理事長になってもらって。
 そして、その秋に展覧会をしようということになり、第二回日本伝統工芸展という名前で発足したわけです。その時にはまだ趣旨が徹底していないのと、趣旨を間違えて落選者ばかり出してもいかんというので、よく趣旨を説明して、わかった人に出してもらうと。だからしばらくは推選制度によっています。公募ともいえない、準公募という形で。
[気づき]  ここで、杉原氏は「第二回日本伝統工芸展」は、「しばらくは推選制度によっています。公募ともいえない、準公募という形で。」と語っておられますが、私は杉原氏の記憶違い≠セと思っています。下にその「理由」を記しています。

 ちょっと話はそれますけれど、その前に二つほど・・・、一つはこれは特に陶芸界で意味が深かったなと思うのは、朝日新聞が主催した「現代日本陶芸展」です。僕は戦後の陶芸を語る場合、その功績というものは欠かせないと思うね。あれは大阪朝日の企画で在野の中心人物がどう石黒さんらしいんです。それで石黒さんが荒川豊蔵とか加藤唐九郎とか金重陶陽に呼びかけて、日展から何人、在野から何人という、同じ人数で審査をするんです。それが工芸界を作ったりなんかする時もつながりとなり、いい効果をもたらしている。在野の方がたにとって一つのトライヤルになっていますね。だから伝統工芸展が軌道に乗ったら、その朝日の現代陶芸展、やめましたよ。  もう一つその前に、無形文化財が始まったとたんに、東京の染織作家であった中村勝馬さんという方が一番敏感に動いて無形文化財ということで、戦時に引続き染色関係の技術者が、再び陽の目が見られないということであってはいかんというので、戦時中の技術保存資格者であった染織作家に声をかけて、東京と京都で工人社というのができるんです。東京工人社、京都工人社といって、それを一体化して日本工人社にしようじゃないかという時に、今度はさっき申しあげた無形文化財の選定が始まった。それで石黒さんとか、唐九郎さんとか金重さんとか荒川さんが無形文化財になった。それで工人社の中に、石黒さんが入ってくるんです。石黒さんは、染屋さんだけに任せておいたんじゃだめだからというので、荒川さんや唐九郎さん、金重さんを引き入れて、日本工人社ちというのを全国的な大きな工芸の総合団体にしょうとして活動を始めました。

 日本工芸会と松田権六先生との結びつき

杉原その時には、文化財の専門委員でもあるし、芸術院会員でもある松田権六氏、東京で重きをなしていた松田氏の協力がないといい会には育たないというので、石黒さんは松田先生を再三訪ねておられます。参画して下さいという懇請に行かれるわけです。それで松田先生がまだ腹を決めないうちに、重要無形文化財の指定制度が始まり、期せずしてそういうことが一元化されて、日本工芸会になったんです。
林屋すると、まあその辺のいきさつがお話を聞いておりますと、石黒宗麿、小山冨士夫先生と永年の昵懇でしたし、石黒、小山ラインが、この日本工芸会というものができていく上で、かなり大きな推進力であったことは確かなわけですね。
杉原そうですね。伝統工芸展における陶芸部門の、目のさめるような活躍もそこにあるでしょう。そしてまた、朝日の陶芸展と石黒さんとのかかわりなんかをみると、日展工芸に対する非常な反感があるんですね、石黒さんは。それから十何代何とかいうお家柄があるでしょう。千家十職とか、ああいう規制の権威ね。そういうものに対してものすごく反感がありましたね。強烈なレジスタンスね。それで何かしなけりゃいかんと考えていた時に朝日がやると、それやれ、というので、どうも石黒さんのアイデアじゃないかな。だから、石黒さんの、あの時のファイトというのは大したものだったんですよ。  もう一つ、水町和三郎さんという方、彼がまた九州っぽでね。非常にレジスタンスの親分みたいな人で、それがカーッと燃えちゃったわけだね。みんな既成の権威に対してうっぷんがある人ばかりでしたよ。
林屋まあ工芸といえば日展だったですからね、それまでは。松田権六さんは日展の重要な人物でもあったわけだけど。
杉原松田さんは最初は義務感みたいな形で日本工芸会に参画していたのではないかなあ。専門審議委員だから、国から頼まれたから、あるいは重要無形文化財保持者に指定されたからという、義務感みみたいなものでね。先頭に立って、畠を振るというタイプではなかったですよ。

 四科会が持たらしたもの

杉原伝統工芸展というのは、第二回展、第三回展とやるごとに燃えててね、特に陶芸部がリードしてますね。従って三越も大事にしてね。ところが昭和三三年に、四科会(よんかかい)問題という事件が起きたんです。それは日本工芸会には、伝統工芸というものをやろうじゃありませんかということで、重要無形文化財の指定になっている人も、そうでない人も会員になっている。その中には在野の方もおれば日展に所属している方もおる。ところが伝統工芸展というものが非常に盛んになってきてから、日展側としては面白くないわけですよ。それでその人たちが、伝統工芸展と両方に関係のある日展の作家のところへ旗色(きしょく)を鮮明にしなさいと、あなた方は日展で育ったんだから日展に帰り、日展のみで活躍すべきだと、工芸会を辞めなさいと、工芸会の伝統工芸展に出すのであれば日展を辞めなさいという文章を作ったわけです。それで両方に所属している人たちは大いに揺れるわけです。そうして、高野松山ら何人かが工芸会を離れ、日展に帰りました。
そのときにとった松田さんの態度がね、きちんとしていましたね。文化財保護法に協力するのは国民の義務であると。日本工芸会を去れということは、保護法に協力するなということである。それは法を守るなということで、国民のとるべき態度ではない。私は日本人だから法律に忠実でなくてはいかんといって、微動だにしなかったです。
結局、四科問題というのは、ではどういう効果をもたらしたかというと、さっき申しあげたように、日本工芸会の成立当初は、在野の石黒さんたち、それから日展に関係のあった松田先生ら、寄り合い所帯なんですね。石黒さんたちはカーッと燃えているけれど、こっちはまあくすぶっている程度でね。四科会という問題で、日展に帰る人は帰る。残る人は残るでしょう。だからかえって日本工芸会の結束を固める結果になったわけです。
林屋そうすると昭和三四年から日展と、日本工芸会というものが、対立する会派として両立するようになってくるわけですね。結論的に。
杉原そうですね。
林屋なるほど、松田さんがそこに至ったのは、名目的には国の法律に従おうということだげど、やはり日展に何か食い足りないものを感じてたんだろうか
杉原松田さんはもう骨の髄まで伝統工芸でしょう。だから伝統工芸ということを嫌うような場は自分の住むところではないというので、芸術論的にはっきりと・・・。
林屋 こうして重要無形文化財指定当時の話を聞いてきたわけでせすけれども、必ず石黒宗麿や小山冨士夫先生がそこにありますね。
杉原やっぱり小山先生を抜きにして、伝統工芸の初期とか現代の陶芸というものは語れないのではないですか。それからもう一つは、僕が少々失敗しても小山先生がおられるからというので、みんな信頼して、許していただけましたしね。
林屋本日は、おいそがしいところ、貴重なお話を伺いまして、ありがとうございました。  (完)




[備考]
杉原氏は「第二回日本伝統工芸展」は、「しばらくは推選制度によっています。公募ともいえない、準公募という形で。」と語っておられますが、私は杉原氏の記憶違い≠セと思っています。≠ニする「理由」

@ まず、次の「第貳回日本伝統工芸展」の『図録』の「リンク」をご覧ください。



A 次に、「第4回 日本伝統工芸展」にあわせて発行された「工芸会報」にある「第三回展」について述べた記述を見てください。
 最終ページに、「鑑査授賞選衡委員会の経過」なる一文があります。

 鑑査選衡委員会については、鑑査員の所感等の中にも述べられ、若干重複するところもあるが記録的な意味と実際の方法等につき事務的に述べることにした。
 鑑査は九月二十三日から二十五日迄東京国立博物館に於て行われ日程、出席鑑査員は次のとおりである。
 二三日、漆芸(磯井如真、岡田譲、高野松山、福沢健一○松田権六、吉野富雄)金工(○香取正彦鹿児一谷、北原三佳、蔵田蔵二、橋美衡)人形(鹿児島寿蔵○西沢笛畝、堀柳女▽山辺知行)その他(▽香取正彦▽小山冨士夫○野間清六)
 二四日、陶芸(小山冨士夫、近藤悠三、○浜田庄司、水町和三郎)染織(○木村雨山、芹沢@介中村勝馬、野口真造、森口華弘、山辺知行)木竹工(飯塚琅F斉、仰木政斉▽岡田譲○堀捨己、▽松田権六)
二五日、総合鑑査(前記鑑査員出席)○は鑑査主任◎は鑑査員長▽は兼任。
[注意]◎≠ヘ、印刷されていません。

 鑑査の方法は、最初各部会毎(陶芸、染織、漆芸、金工、木竹工、人形その他)の部会鑑査を行い次いで各部会の総合鑑査を行った。
部会鑑査は一点毎に各鑑査員が鑑査用紙(受付番号を記載した表)と受付番号を附した作品と照合し○×をつけ、一次二次三次と行い、集計して合否を決定した。(例へば五人の鑑査員が五人とも○をつけた作品は第一次に於て合格逆に×五人のときは不合格○二×二のものについては第二次を行うというように) 
総合鑑査は、部会鑑査に合格した作品を一堂に集め、鑑査員全員がそれぞれ投票(白紙に不適当と認められる作品「番号」を記入し集計して合否を決定した。
本年は投票鑑査員数の三分の一(七点)以内の作品は合格とし、八点以上のものは不合格とした。
 部会鑑査総合鑑査共鑑査の厳正をはかるため出品者の氏名は一「際切」ふせて行った。 授賞選衡委員会は二十六日午後一時から東京国立博物館に於て、河井弥八、細川護立、梅原竜三郎谷川徹三、遠山孝緒先生と各部の鑑査主任が出席し、堀口捨己先生が選衡委員長となり、各部から推薦された授賞候補作品二十一点について慎重審議の結果、投票により、最初最高賞の三点を選び次いで奨励賞五点を選出決定した。
 授賞作品授賞候補作品は別掲のとおりであるが日本工芸会総裁賞は、最高賞三点の中から総裁高松宮殿下が御選びになったものである。

 搬入締切後の出品作品ついて
 搬入締切後に数点の出品者があったが鑑査の厳正をはかるためやむを得ず御断りしましたが御了承願います。

後  記
 昨年第三回展のとき、出品者一同から、鑑審査の結果等を細かく報告するようにこ(「と」の誤植)の御注問があり大変おしかりをうけましたので、本号は、できるだけ鑑査を中心にとりあげました。
鑑査員の所感をたくさん掲載しようと努めましたが、時間的に充分でなかったことは残念です。
 次号には各方面からのいろいろな批評を掲載し、伝統工芸についての今後のありかたと理解に役立つようにと心掛けています。  本年度の鑑査は昨年以上に厳正で選外の出品者には御気のどくですが本会の性格を強く表しております。(多計安記)

 つまり、「第貳回 工芸展」とは様変わりした本格的≠ネ「審査」が「第3回 工芸展」においてなされ、予想外≠フ「落選」にとまどった応募者が少なくなかったということだと思います。



●  関連した私の「ページ」です。 

「文化財保護法」の「無形文化財」の条文

「重要無形文化財」保持者 としての「個人認定 俗称「人間国宝)」 「保持団体」としての認定/「総合認定」]について
─ [参考] 「助成の措置を講ずべき無形文化財」・「記録作成等の措置を講 ずべき無形文化財」─
↑ 口幅ったいことながら、一部≠フこととはいえ、権威≠る「情報」の疑問点を、「情報 モト」に「確認」し、修正してもらっています。

中ノ堂一信氏の「技の継承=重要無形文化財の保持者たち」

「萩焼の歴史」=エポックメーキ ング≠ニなった昭和二、三十年代のその歩み
↑  この、「萩焼」の「歩み」は、単に「萩焼」の「歴史」 というダケでなく、「陶芸史 」においても「参考」になると、私は思っています。