平成20年9月25日 公開
平成21年11月30日 更新





● 三輪休和氏の「防長新聞」連載のけさの卓話


構 成      下線部をクリック≠キると該当箇所に飛べます。

@ ご神託//A 割高台//◆B 朱鞘の大太刀 //◆C 火のこころ//D 自在庵//E 元勲揮毫の茶碗
F 花月楼//◆G 一汁一菜//H 井戸茶わん //I 御紋服//◆J 掘り出し物//K 古稀の若僧
◆L 田吾の浦//◆M 売立物



 次兄は何度もお目にかかっているようですが、私は、機会があるようでいて、その機会がなく、直接三輪休和氏にお目にかかったことはありません。そのため、父=英男を通しての理解・印象≠ノなってしまいますが、父に言わせると、大変な人格者≠ナあったといいます。
 その休和氏を、ここに、今は廃刊となってしまた地方紙『防長新聞』に連載された「けさの卓話」を紹介することでそのひととなり≠私同様に、間接的≠ノ理解していただけたらと思います。
 休和氏は、「岩国商工会議所会頭 久能寅夫」氏の後を受け、昭和36(1961)年3月11日(土)のけさの卓話≠フコーナーに、「写真」入りの紹介とともに掲載された文章を第1回目として、3月24日(金)まで、14回にわたる卓話≠連載しておられるのです。              
 なお、12代坂倉新兵衛氏は、この三ヶ月¢Oに亡くなっておられます。
 



 けさの卓話

「第一回目」に付けられた三輪休和氏の「紹介」。
「顔写真」もありますが、不鮮明なので、省略します。

萩市椿東の三輪休雪窯第十代の窯元、幼にして家業を九代雪堂に学ぶ、昭和十八年技術保存法指定、三十一年八月山口県無形文化財指定、三十二年三月国家無形文化財記録作成に指定され、同年五月社団法人日本工芸会正会員に推され今日にいたっている。
 明治二十八年四月の生まれである。



@ ご神託

『防長新聞』  昭和36年3月11日(土)
 
 私の遠祖は奈良県磯城郡大三輪町、世にいう三輪の里の住人で、東山時代−永正年間諸国を遍歴のうえ、長門萩の地に居を定め焼物を始めました。
 曾孫にあたる利近が希な名手であったので、毛利綱広公大照院さまに召されて「舜陶軒休雪」の号を賜わり、自来藩の焼物師として禄を食み、いま十代として私が家業を継いでおります。
 去る三十四年三月三日、ちょうど春窯の火入れをして窯煙たけなわなころに、ふと玄関に二人づれの来客がありました。名刺によれば奈良大神神社(広く三輪明神と呼ばれている)宮司中山和敬とあり山岸さんという随行の方と二人でした。大国主命を祀る工芸の神で日本最古のお社であり、出雲大社はその分社にあたる、春祭応援のため出雲に行き帰途、三輪の地にゆかりのある萩窯を訪ねたいのがかねての念願であったとのことでした。窯火入れという作陶上、一番大切な日に、かねて景仰の三輪神社宮司をお迎えし、家業の隆盛を祈念して頂いたことは、何よりの喜びでした。
 いま私の工房には三輪明神のご神符を祭り、毎朝拝礼の後、製作にかかります。
常に神の照覧のもので俗念を去り清浄三昧(まい)の境に入ることの出来るのは、全く神徳加護の賜というほかありません。本年も中山宮司より招待のお手紙もあり、神詣での日を楽しみとしています。
萩焼窯元 三輪 休雪




A 割 高 台

『防長新聞』  昭和36年3月12日(日)
     
 私の宅には愛陶家が諸方より見えまして、多くの方が高台の切ってある理由をきかれます。中には博識の方は藩主ご用品と区別して、民間に出すものが切ってあるとされているのが、通説となっているようです。
          ◇  
 私は先代よりそのようなことは伝聞しておりません。所蔵の古萩茶碗の中にこんなのがあります。箱書付きに文政十三年十月於東都為御遺物拝領、竹田とあります。竹田とは毛利重就すなわち英雲公の茶道指南役であった竹田休和宗匠で、二代宗羽、三代純朴といい、これは忠正公のお茶道でした。これは英雲公ご他界の後、お遺身として公ご愛用の茶碗を拝領された訳です。
 さてその茶碗はいかにも風格堂々、むろん初期の作、やや薄造りで、萩特有のビワ色を呈し、径五寸、高さ三寸一分くらい、唐物茶碗に列して見劣りありませぬ。萩茶碗が朝鮮に化けるというのはこんなものが、唐物箱に納められるからでしょう。この茶碗の高台はトモエ状の削りに、十文字に切ってあり、世にいう割高台の手で、まことは非凡の作です。お殿様ご愛飲野ほどがしのばれ、雨もりの変化も強く出ています。
 朝鮮の茶碗には、ご本、半使、金海茶碗などの切高台のものがたくさんあります。また古いものに割高台と称する手もあり、非常に貴重なものになっています。萩は朝鮮陶法を正しく伝えているから、切高台が多いのが当然ですが、しかし他窯でも朝鮮系にはたくさんあります。
萩焼窯元 三輪 休雪




B 朱鞘の大太刀

『防長新聞』  昭和36年3月13日(月)
   
 私の祖父八代は幼名を猪吉郎泥介、号を雪山、無塵庵と称しまして、大正十二年、八十二才で歿しました。その作風は時代の影響からでもありましょう。気迫にとみ風格を存しております。壮年のころは防長の天地は尊皇攘夷(じょうい)の真ッただ中で、安閑として茶碗を焼いてばかりはいられません。血気の走るところ土を捨て馬関に走り、奇兵隊に投じたのでした。総督は高杉晋作、伊藤博文公あたりは、隊長くらいのところで、日夜同じ釜の飯を食い、国事に悲憤の涙を絞ったと申しておりました。
 高杉さんがよほどかわいがっていられたと見え、ある時、萩に置いてある朱鞘(さや)の大刀が入用につき、泥介に萩に帰って持って来いと命ぜられましたそうで、さあ大変、当時の過激派奇兵隊の一員が萩に潜入するということは実に死にひとしいものでありましたのでしょう。辛苦の末、やっと呉服町の高杉邸にたどりつき、ご両親にことの次第を告げ涙ながら出して頂いた大刀を受け取り、せん索の目の厳しい折からとて早々に辞去カゴの担棒(にないぼう)にコモ巻きとして大刀をしばりつけ、明木村の鹿背坂を越した時には、始めて人心地がついたそうです。
 祖父は胃腸が弱い方で、当時の奇兵隊の粗食には参っていたようです。国事に命を捧げるのは惜しくはないが、麦飯にたおれては名折れと、とうとう脱党して萩に帰り、再び陶業に精進しましたが、その苦労がやがてその作品にも反映したものと思います。
萩焼窯元 三輪 休雪


 


C 火のこころ

『防長新聞』  昭和36年3月14日(火)
   
 昼食をすませてひと休みしていると、テレビの画面にお料理の講習が始まります、 /ママ/娘さんは花嫁の用意とて料理学校に通います。前者も後者も実にリッパな材料が用意されている。
 学校でできたオムレツやケーキは、宅ではうまくいかない。ついに試食に終わってしまう。これも結構ですが、さて伺いたいのは、ご飯がリッパにたけますか、ミソ汁はお上手ですか、電気ガマでは便利にご飯がたけるというだけで、味はありません。よい飯よい汁は結局上手に火をたくという一語につきます。
          ◇
 私はまったくこの道五十年陶窯の炎に苦労を続けました。薪の乾燥のころ合い、 空中の湿度、風力の差異、四季の気候の変化、日々に火の燃え方が変わっています。焼物に火の作用でどんなに美しくも汚なくもなります。きれいな火をたくということが、すべての根源となりますが、さて前述の通り、日々一定の条件で炊事することは不可能です。ではどうすればよいか、神火と申して炎は清浄そのものです。もろもろの不吉を払わねばなりません。まずまず己の気持を正した後、おカマのたきぐあいを長年の経験により上手に火を燃やせばきっとよいご飯となりましょう。
 テレビの講習も料理学校の勉強も、そのうえで始めて実を結ぶことになります。 夫婦げんかをした日には、必ず味気ないご飯がたけたご記憶はありませんか。
萩焼窯元 三輪 休雪


 


D 自 在 庵

『防長新聞』  昭和36年3月15日(水)
   
 旧萩城内、ただいまの志都岐公園の中に、コケむした茶室があります。もと堀内花の江のご別邸に、忠正公のお好みにより、石州流の茶人井上正吉という方が建てられたと聞いています。
 明治に入ってもこれが不用となったのを惜しみ、明治二十年ごろ品川弥二郎子爵の肝入りで、これを現今の場所に移築になったのです。忠正公は御茶ごとにことよせて、勤皇の大義のはかりごとをめぐらされたことはあまりに有名な話であり、この貴重の史実、忠正公の徳をしのばんがため、当時自在庵保存会が発起され、初代会長に杉民治翁が当たられ、萩の茶人の方々は石州、遠州その他諸流がみな参加されて、月釜がかかることになりました。
 忠正公の御命日五月十七日にちなみ、毎月十七日を釜日とし、十月十七日は特に神前で献茶式を奉仕する習しとなり、連綿として今日に及んでいます。二代会長門田翆、三代滝口吉郎、四代玉井日亮師の各氏でした。
 発会当時からの茶会記もことごとく記録して、今なお保存しています。ひもといてみるとき、茶道の興亡、故人のおもかげ、茶器の変遷、真に今昔の感があります。ただ惜しいことは玉井会長時代、敗戦の憂き目からいろいろと苦労をし真下が、ついに三年ばかり休会して記録を断ったことを、残念に思っています。
 山口の香山園の露山堂も、やはりそのころ品川子〈ママ=「子爵」の爵≠フ字が落ちていると思われます。以下、同様の箇所が何カ所もあります。 〉により萩城から移されて、今なお茶煙豊かに、香たけなわときいています。
萩焼窯元 三輪 休雪


 


E 元勲揮毫の茶碗

『防長新聞』  昭和36年3月16日(木)
   
 功名多在一杯中(ママ (≠ェ落ちていると思われます)木戸侯書の盃)寿の一字(伊藤公書の茶碗)影うつる花と月とのたかどのににる木のめさへ香りけるかな(山県有朋公書の     (ママ=5字分空白) 茶碗)このほか品川弥二郎子〈ママ〉、杉孫七郎子〈ママ〉、山田顕義伯〈ママ〉、野村靖子〈ママ〉、宍戸【ここに王偏に幾という字が入る】氏など明治維新の諸元勲揮毫(ごう)の抹茶茶わんが私宅に残されていて、土蔵内はさながら松下村塾の延長のような観を呈している。
 祖父雪山は一奇騎兵隊に投じ、当時同志として辛苦をともにした間柄であったので、顕官となられた後の諸公も、帰国のつど雪山を訪ねられ、茶わんに筆を染められたのである。                        元来揮毫は素焼の生地に鉄粉で書くので、水分吸収が早くて、なかなか手なれぬ人では書けぬ物だが、このいずれを見ても実に見事な筆跡で、驚嘆に値いするものがある。もとより当時は、幼年より書道は最大の勉学の一であったとはいえ、紙や絹本と異なり陶器の上に、これだけの筆をものせらるるということは偉人の一面をよりよくしのばれて、ゆかしいことである。
 面壁の達磨大師に縁ありて名をどろすけといふはおもしろ(雪山の本名泥介)は杉聴両公の狂歌、箱には「今朝もまた茶をにるほどの落葉かな」とある。実に風流三昧である。雪山はまた、御七卿三条実美卿より「不走時流」の扁額をいただき、自来私小屋を不走庵と呼び、今なお作陶上の指針として固守している。
萩焼窯元 三輪 休雪


 


F 花 月 楼

『防長新聞』  昭和36年3月17日(金)
   
 防長国内で由緒ある名茶席のうち、もっとも大切なのが三つある。萩指月公園内の自在庵、山口香山園の露山堂、萩松陰神社境内の花月楼のそれである。
 もともと毛利藩は文教尚武の国是が盛んであって、風流雅人と呼ばれる藩主はまれであった。歴世のうち茶人としては、輝元公はもっとも著名で、千利休を師とし茶道を学ばれ、当時の茶会記にはしばしばその名を見出すことができる。次には十代重就英雲公ていある。公は国政に意を用いられるかたわら茶事を愛され表千家如心斉門人川上不白師を招き、竹田休和などをこれに学ばせた。
 三田尻御茶屋に書院式広間の席を造られ、花月楼と呼ばれた、七事式という七カ条の茶技があり、そのうちの花月にちなんだものです。文化のころですが、後年竹田師にこれをたまわり、師はこれを萩平安古の宅に移築した。そのご故あって明治二十年ごろこの席が売りに出たので、品川弥二郎氏が荒廃を惜しみ、公出生の地松本の旧邸内に移された。
 買取りの節、下見検分に私の祖父雪山を伴われ、公は身辺を変装し、一野人に化けて行かれたが、うっかり絹の白たびだったので正体がわかりだいぶ高い取引となったよしそんなしだいで花月楼および品川家の世話は父の雪堂まで多年にわたりお引き受けしていた。松陰神社百年祭を機に境内に移され、永久保存の道が講ぜられ、さっそく昨年秋は高松宮のご参拝の節、この席でお茶を差し上げた。
萩焼窯元 三輪 休雪


          

G 一汁一菜

『防長新聞』  昭和36年3月18日(土)
   
 旅の疲れの折柄ふるまわれた一服の茶が、どんなにおいしいことか、そんな意味で来客にお薄を差上げることにしている。ところが、茶碗の底に三分の一ほど茶が残され、お菓子が半分ほどそのままにしてあることがある。自分の宅でそんなまねはされないでしょう、〈ママ 。≠ニあるべきでしょう〉茶道といえば何もむずかしい物の数ではない。日常の常識の解明である。
 人間は案外日々の生活の指針となるものがない。麻雀に夜ふかし、朝寝をする、 万年床で新聞を見て起きあがって物ごとに節度がない、早朝庭を清掃して、椿一輪をいける楽しみを知らない。犬猫より人間が尊い存在ならば、その常識もまた優れていなければならぬ。
 利休時代のお茶事の懐石は大名高貴の方といえども、概ね一汁一菜、すなわち飯に汁および白付一種であった。後二菜三菜、すなわち菓子椀や焼物の類いが増して丁重となり、近時はさらに強者と華美になっている。一汁一菜または二菜とは腹八分、最上の量ですこぶる衛生的である。
 当節の宴会では三汁七菜くらいが普通となって、二日酔に苦しみ、ガンの遠因となる。これが今の紳士道というべきか、お茶のお手前とは常住座臥の在り方、すなわち人間の常識を手際よく説いた技法である。佗(わび)とか寂(さび)とかの意義も要約すれば物のムダを省き、素朴の人間本来の姿を表現させるものと思う。茶の湯の世界もまた楽しみが多いものである。
萩焼窯元 三輪 休雪




H 井戸茶わん

『防長新聞』  昭和36年3月19日(日)
   
 朝鮮には李朝時代に焼いた茶湾に、ずいぶん多くよいものがある。熊河、伊羅保、斗々屋、三島手、刷毛目、割高台、御所丸、堅手、半使、呉器、御本茂山など多様である。李朝の前時代にできたものは朝鮮人の日常の食器として生まれたもので、抹茶わんとして作られていない。わが国の茶道より早く焼かれていて、利休その他茶人により、茶わんとして見立てられたもので、江戸時代初期には日本の茶人の注文により、釜山、金海などで焼かれたものがたくさんあり、御本など代表作である。
 さて井戸は茶わん中の王座に位するものとされ、李朝初期の作、窯所は明らかにされていない。井戸を地名といい、また井戸某の所蔵によるなど伝えらる。喜左衛門、筒井筒柴田、有楽、信長など各井戸は国宝級の存在で代表的である。批把〈ここの批把はママ。なお、後の「田吾の浦」には、正確に枇杷≠ニあります。〉釉(びわくすり)の火色、土の味など萩焼と酷似している。井戸には茶わんの約束の見所が数々あるが、高台のワイラギ〈ママ=カイラギ≠フ誤り〉は最たるもので窯の不完全燃焼と五六個の茶わんを重ね焼きするため、高台周辺に火の回りが悪しく、半焼の現象を呈したのである
 高台は竹節といいこれは作陶の作行が、竹の切り節に似ている故に竹節高台と呼ばれている。いずれにしても朝鮮陶工の熟練した手になったもので、素直な姿は気品にあふれている。ちなみに毛利家には幾秋と銘せられた井戸が有名である。
萩焼窯元 三輪 休雪




I 御 紋 服

『防長新聞』  昭和36年3月20日(月)
   
 昔は重臣の賀寿などのせつには藩公より一行物あるいは御短尺などお祝いとして下された。拝領品としてこれを家門最大の誉れとして、善美をつくした表装の幅に仕立て盛宴を張って祝福した由である。それほどに拝領ということは大事であった。
 明木村滝口吉朗明城翁は当時憲政会の重鎮、貴族院議員として、政界の大立者であり風格高姿、抜群であった。明治時代に毛利家の旧恩を徳とする人々により萩懐恩会が組織され、翁がその会長にあたられた。毛利家御定紋、一に三星の御紋服を着用、そのころの人力車に乗り、真白の美髯(ぜん)をなびかせて、懐恩会総会に出席の折などは道行く人も足を止めて仰ぎ見たものである。むろん積年の功により拝領された御紋服で他ではあまり見かけたことがない。     
 私の祖父は七子地(ななこじ)の瀉(おもだか)の御紋羽織を頂いていた。父九代雪堂もよく毛利家にはお仕絵師低他ので、かねての望がかなって元昭公から一に三星塩瀬羽二重の表地に沢瀉 模様の緞子(どんす)裏地までそろえて、御羽織を頂だき、大変に喜んで、懐恩会などには着用出席していた。御用窯として多年にわたる御恩の賜とありがたきことと思っている。私も一度この羽織で人力車に乗ってみたいと思うが、洋服生活とハイヤー時代では無理な注文で残念なことである。
萩焼窯元 三輪 休雪




J 掘り出し物

『防長新聞』  昭和36年3月21日(火)
   
 大正十年旧正月縁故の者に招かれて上海に渡った。盛んな爆竹の音に迎えられ、色々と変わった異国情緒に驚きの目をみはった。市内見物に出かけるとまず気になるのは、焼物のことである。宗、明、清と陶磁の王国だけに期待がもてたしかし一巡してみると、それは日本製の万暦赤絵であり、古染附の壷のたぐいで、すっかり落胆させられた。
 この地方の観光コースとして蘇州、杭州の史跡案内ということになった。日本人の身だしなみとして羽織ハカマを着用におよぶと、乗物はロ馬との話に当惑したが、そのうちに乗りなれてゆるやかなる石畳の小道を濶歩して、まず蘇州に馬首を進めた「梅咲くや騎乗百里蘇州城」騎上の一吟ゆえダ句といわれてもしかたがない。寒山寺詣の帰途とある道具店があり、片隅にホコリに埋れた壷を発見した。無釉の四つ耳、南蟹物で胴径四寸高さ八寸くらい、席使としてすこぶる格好のものである。シナ式の商談に手間取りながらようやく安直に入手した。
 脇棚にさらに褐色の小品が目に入った。象牙の香合で、丸亀の密なる彫刻は実に微細にわたる名作であった。はからずもこの二品を入手、旅□ /活字が潰れており判読不能/を肥すことができた。今泉祐作先生には「初明時代香合見事に侯也」と箱書され南蟹壷は即中斎宗匠に御書付を願い今なお四季折々の花を得て愛用している。掘り出し物は欲のないときの目にとまるらしい。
萩焼窯元 三輪 休雪




K 古稀の若僧

『防長新聞』  昭和36年3月22日(水)
 
 長州出身で財界の大立者として世外井上馨侯は別として、蓬雪藤田伝三郎氏、霞峰久原房之助氏は東西両横綱である。久原氏は阿武郡須佐の産、青雲の志を立て郷関を出るや、たちまちにして久原王国を築き、政界に転身
               
するや、政友会総裁として天下を把握された。あに男子の本懐これに過ぎるものあらんや。翁は明治二年生まれ私父雪堂は明治元年生まれで、わずかに長兄であった。昭和四年は翁の古稀の寿二あたりたれば、これを祝して雪堂は、自作の抹茶わんを贈った。今その謝状を掲げてみる。拝啓古稀翁(雪堂古稀の作)としての最後作逸品
                     
御恵送に預り洵に難有奉存候、爾来毎朝愛用満喫□在候生も当年人並に古稀に達し候、併し生のは之れから活動致さんと存居候処に有之、永年鍛え上げられたるその気分を受入れ之れからの活躍の道連れにと毎朝楽しみ居候次第に候、誠に難有感謝に不堪不取敢一書如此御座候敬具
  丙寅春彼岸       古稀若僧
   雪堂翁梧下
 偉材のこの意気は尋常ならざるを見るべきである。翁当年九十三才、壮者をしのぐ元気で頃日は渡米中、大宰相の印綬をもって迎えらるる日まで彼地に滞在さるる由。
              
幸に天寿百才千才を重ねられ、加餐を念する次第である
萩焼窯元 三輪 休雪




L 田吾の浦

『防長新聞』  昭和36年3月23日(木)
   
 大正名器鑑を飾る古萩茶碗(わん)が三個ある。それは元祖萩、是界坊、田吾の浦である。東京麻布三井守之助翁は明治、大正ごろにかけて輩出した東都名流の中にも優れた大茶人であった。そのころ田吾の浦は翁のもとに宝蔵されていることを知った私は、青年の強気から上京の機に突然拝見を申し出た。
 さすがは三井邸、その玄関事務室もお役所のような構えである。来意をこころよく引受けて頂き、応接室に招ぜられた。古萩などしばらく陶談に花が咲いた後、翁自から足を運んで右の茶碗を持参せられた。容器は曲物で、表に田吾浦、蓋裏は玄々斉の歌銘になっている。小砂を多く含みやや長方沓形(くつがた)。削りはすべて楽焼風の作行にて軽く釉(くすり)は枇杷色を呈している。初期作とは思われぬが、さすがはかの高橋箒庵氏の眼識にかなったものだけに名器である。そのほか高麗茶碗など、数々の重器を拝見、眼福を満たした。
 とくに感じたことは、器物の持出しやお仕舞には、家従のものを用いずして翁自から歩を運ばれた。名器尊重からの心構えであろう。一国の文化の消長は、すなわち美術の興廃である。先人の手により残された宝器は、継承者によって永久に保護の途を尽くされねばならぬ。茶道は新しきを知るとともに、古器尊重の扱いを相伝物として教えてある。
萩焼窯元 三輪 休雪




M 売 立 物

『防長新聞』  昭和36年3月24日(金)
 
 旧大名や富豪、長者の家は数多くの珍器、佳什(じゅう)が久しく宝蔵されていた。昭和十年前後、財界の事情やその他の原因から、これらの大所蔵家の品が続々と大売立となり、空前の盛況を呈した。大阪では鴻池家、藤田家、東京の赤星家、井上侯、徳川、伊達、前田、島津、酒井、池田、佐竹の大名筋など相継いだ。入札目録もすばらしく見事のものになり後世の美術史として保存さるべきものも多々ある。
 第一回藤田家入札は参観した。数多くの秘宝が惜し気もなく赤毛せんの上に並べたてられ、下見の客は遠慮なく手に取って拝見する。われわれにはこれに越した勉強はなく喜ばしきことであった。柴田勝家所持井戸茶碗が十三万円利休七種早船茶碗は五つに割れていて十万円、交趾大亀香合が十五万円というあんばい、総額百余万円であったと思う。貨幣価値が三百倍といわれる現今下では、どんな計算になるだろう。
 記憶に残った当時のものでは土井家の鎌倉時代手箱三十万円、大名物国司茄子茶入二十万円、大名物北野茶入十六万円、岩城又淋十五万八千円御所丸茶碗銘夕陽十一万円、名物曜変天目十六万七千円、書画では佐竹家の信実三十六花仙の巻物が三十六万円で圧巻であり、芸阿弥真山水三十二万円でこれについだ。その後この品々がどんなに転々としていることやらと思う。
萩焼窯元 三輪 休雪


 


────以 上─────────────────
 @ご神徳==q『防長新聞』昭和36年3月11日(土)〉から M売立物==q『防長新聞』昭和36年3月24日(金)〉までの「14回分」

 
(参考)
 翌、昭和36(1961)年3月25日(土)には、『けさの卓話』なる欄はなく、翌々日、昭和36(1961)年3月26日(日)から「下関市税務部長 阿月健治」に継がれている。