平成19年7月5日 公開
平成23年1月20日 更新



● 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノおけるなぜ?≠ノ答える



8 駒井氏はある意味では、「弥生の可能性」を発見していたと言えると思う。「発見・発掘史」上での意義はないか?



[答え]

後述しますが、衛藤和行氏が、「異型貝製品」の「採集」をきっかけ≠ノ、椿 惣一氏→鏡山 猛氏を経由して、金関丈夫氏に、「土井ヶ浜」から、「弥生時代人」の可能性≠フある「人骨」の「出土」という情報を寄せられたのは、昭和28年ではなく前年の昭和27年なのですが、「下」に引用している『日本農耕文化の生成』にあるのが主≠スる「理由」となって、昭和28年ということになっていました。

当時≠ヘ、人骨そのもの≠ナ年代を鑑定するというよりも、同時に出土した出土品≠ナ推定≠キるという方が有効な方法であったと言います。
従って、「人類学者」としての金関氏は、 「出土した人骨」が「弥生時代人」の「人骨」である「可能性」を「調査」されたのです。

金関氏が「九州大学」に赴任された際に助手となられ、土井ケ浜遺跡発掘のメンバーであるとともに、金関氏の協力者、後継者として後には教室の教授となられた永井昌文氏は、「なぜ、発掘まで一年間の空白があるのか」という私の「疑問」に対して 明確≠ノ「金関教授は弥生時代の人骨≠ニいう可能性が高くなかったら、発掘はされなかった」という、重要な証言をしてくださいました。

財政的に厳しい時代であったこととて、可能性≠ェ低いのに「発掘」するということはなかったのです。

「参考」となるのが、「昭和32年」の「萩焼古窯の発掘調査」に付けられた「予算」が、超一流≠フ「研究者」を網羅しての「計画」であったのに、50万円≠オか付かなかったという ことです。(この「計画」は、別の「ページ」で述べていますが、「渉外担当者」に「問題」があったこともあって、結果的に、「延期or中止」となりました。)

また、「発掘調査」にあたって、衛藤氏に、金関氏が、調査中は貴校生徒諸君の御援助もお願ひいたし度く、貴校長へもよろしく御願ひいたします。 と「手紙」で依頼されていることも「参考」になるハズです。
ここをクリックされれば、詳しく述べていますが、「次」のように記しています。

[河野の気づき]

・この「発掘の通知」の時点で、貴校生徒諸君の御援助もお願ひいたし度く≠ニある。
なお、当時「神玉中学校」に在職しておられた方々を『教職員録』をもとに、現存しておられる方にはすべてあたってみた結果、特に「職員会議」などが開かれた覚えはないそうで、当初は、衛藤氏の「美術」の時間を融通した程度のものだったし、その他では、数人の先生が、やはり「授業」の時間を割いて、多少の協力はされていたが、とのことです。
当時は、教師の裁量≠ノ対して、保護者がクレームをつけるということはなく、 その点では特に問題はなかったようです。
なお、現「豊北第三中学校」の校長・教頭に調べていただいた(平成6年の時点)が、残念ながら、『教務日誌』等の類は、保存年数をとっくに経過していることもあって、現存しないといいます。
ただ、『卒業アルバム』に発掘の場を写したものがあることを、教えていただきました。(当然、見せてもいただきました。)
やがて、「神玉中学校」の生徒が、発掘に参加するようになり、さらに、豊北町≠フ中学生が「発掘」に協力することになりますが、[37]の私の注にも書いているように、尾潟慈朗教育長が、町の「中学校長会」の場で、「社会教育の一環」として、協力してもらえまいかと提案、了承されて、各中学校が協力してからのことだ言います。


一年の違いは、この「弥生時代の人骨」である「可能性」 を求めての「調査」に要した「時間」だったのです。
私は、永井氏の「証言」の裏付け≠得るため、衛藤氏に、金関氏の「使者」として、衛藤氏と接触≠ウれた方々及びその「連絡方法」を衛藤氏からお聞きし、既に、『山口県地方史研究 第67号』(1992年6月)において、記しています。

「一年」の違いの持つ意味   (6頁下段9行目〜)

・・・・・・金関氏は原田氏ら教室の助手に依頼しての予備調査に、自らの調査も加え、「青年研修所」建設の際はもとより、それ以前の「出土調査」から、「弥生式の人骨」の可能性を強くもたれたのである。
(この頃でも、当然「人骨だけ」で時代を決定することは無理であった。)
原田氏も、「近くの角島≠フ出土品まで確認した上で、発掘に踏み切られた」と、証言する。


駒井氏の、この「弥生式土器」の発見が、三宅氏を介して、金関氏が知られることとなり、財政的に厳しい時代≠ノあって、「弥生人骨」の可能性≠強くされ、発掘に踏み切られる一つのきっかけ≠なしたことが、『日本農耕文化の生成』の中に、金関氏ら(註 金関丈夫・坪井清足・金関 恕三氏の共同執筆≠ニなっています )は、はっきり記しておられます。
つまり、十分に意義あること≠セったと言えるのです。


◆ 『日本農耕文化の生成』の中の「14 山口県土井浜遺跡」より

(一)         (223頁〜)

山口県豊浦郡豊北町神田上、江尻下字沼田八九一番地にある土井浜遺跡は、本州の西北端、響灘に面した海岸近くの砂丘に位置している。
この遺跡の調査は、昭和二十八年より同三十二年にいたるまで、五次にわたり、主として九州大学医学部解剖学教室によっておこなわれた。
第一次は、昭和二十八年十月六日より二十六日にいたる一二日間、第二次は、昭和二十九年九月二日より十二日にいたる一一日間、第三次は、昭和三十年九月七日より二十日にいたる一四日間、第四次は、昭和三十一年九月二十七日より十月八日にいたる一二日間、第五次は、昭和三十二年八月一日より十六日にいたる一六日間の計六五日間におよぶものである。
これらのうちの第三次調査は、九州大学医学部解剖学教室と日本考古学協会弥生式土器文化総合研究特別委員会の協同によっておこなわれた。

(二)         (223頁9行目〜)

土井浜遺跡は、昭和六年三月、当時土地で訓導をしておられた河野英男氏の発見に係わるものである。
同氏は、六体の人骨を容れた箱式石棺が、たまたま出土したことを小川五郎氏に通報し、また、採集した二例の頭骨を故三宅宗悦博士のもとに届けられた
同博士は、昭和六年、現地を調査された。

これとは別に、昭和七年三月には、駒井和愛博士が同地で、弥生式土器片を採集して、三宅博士に送られた。
三宅博士は、先に届けられた頭骨を計測した結果、計測値の上から、これらが、古墳時代に属するものであると断定し、報告しておられる。
遺跡は、その後長い間世に忘れられていたが、戦後、神玉中学校教諭の衛藤寿一氏が、再び当地で出土した人骨を採集して、昭和二十八年九州大学医学部解剖学教室に通報された。
これが五次にわたる調査の端緒となったものである。


土井浜遺跡は、山陰本線二見駅と特牛駅から、ほぼ等距離にあたる地点に位置している。
山陰本線は長門二見駅より山間に入って北上するが、海岸よりには、同駅より矢玉、和久をへて、特牛港に向う県道が走っている。
この県道沿いの、浜屋集落のあたりには、小規模ながら低地帯が展開している。
すなわち、中国山脈の西端が、まさに海に没する先端に刻まれた、二つの小さな谷が、W字形の低地帯となっている。
小低地の出口から、北方和久に至るまで、南北方向に弧を描いて、美しい砂浜が連り、これにそって海岸砂丘が形成されている(第三図版)。
遺跡名の土井浜は、この弧状の海浜の名称であるが、同時に附近一帯の俗称でもあり、先の、故三宅博士の報文に、遺跡名として採用されているので踏襲した。
低地中央には、海岸砂丘と直角方向をなして、洪積丘陵が突き出ており、この丘陵の尖端は、遺跡の立地する砂丘となっている。
東西に延びているこの砂丘は、中央部より東寄の処で、北に張り出した部分があり、海岸砂丘との間には、極く狭いながらも低地帯を挟んでいる。
こうした砂丘の平面形は、この両側を流れる川の浸蝕によって、形成されたものであろう。
砂丘の規模は、東西約三〇〇メートル。
南北(最も広い箇所)約一六〇メートル。
その最高点は、水田面との比高約三.五メートル。
海抜標高約五.五メートルを測る。
砂丘の基部に近い附近では、稜線が南に偏って通っている。
砂丘の表面は、現在松の木の点在する草原となっており、西半の一部には、林がある。
なお県道は、砂丘基部の洪積丘陵を切断しているので、砂丘と県道との間に、恰も塚状に高地が遺存している(第一図版)。

この砂丘を中心とする附近一帯の地形の変遷は、昭和三十二年度、第五次調査に参加された、井関弘太郎氏によって、詳しく調べられた。
同氏の説明を略述すると、次の通りである。

現在、砂丘の南北両側にある水田の下二〜二.三メートルに、厚さ一メートル余の鹹水産の貝類を含む砂層が、横たわっている。
これらの貝類は、湾内に棲育するものであるから、一時この低地帯が、入江であったことがわかる。
この層の上に、厚さ三〇〜五〇センチメートルの青味がかった細砂層があり、この層の上面は、現海面高にほぼ等しく水平に広がっている。
含貝層と青味がかった細砂層は、相次いで堆積したとみられるものである。
砂丘内でもこの両層は認められるが、青味がかった細砂層上面は、砂丘内ではやや高くなっている。
そして砂丘内では、この層の上に、弥生時代の遺物を包含する砂層が、横たわっている。
当時、湾内の潮流によって運ばれた砂は、低地帯の中央に突き出た丘陵尖端に、砂嘴を形成する。
これが遺跡の立地する砂丘の中核となったものであろう。
その後、海面高の変化によって、従来海面下にあった、この低地帯にあたる一帯は陸化するのである。
中央の丘陵を、はさんだ両側の低地は、河川による浸蝕を受けて幾分低くなり、さきに砂嘴として形成された丘陵尖端部は、とり遺され、低地面との間に比高の差ができる。
同時に、湾口には、波浪による浸蝕を受け、低地帯中央の丘陵とは直角方向の、礫堤が形成され、湾口は閉塞される。
これによって湾内は湿地帯となり、青味がかった細砂層の上には、水田植物が生い繁り、徐々に泥炭層が形成し始める。
こうした時期に、弥生時代人が来住し、中央丘陵の尖端部に墓地を営む。
墓地が廃絶して以降この砂丘の上面に季節風によって運ばれた細砂が、いくらか堆積したようであるが、砂丘は概して安定し、おそらくは潅木などが生い茂ったのであろう。
このことは弥生式土器を包含する層の上に、炭化物を多く含む層が形成されていることから推察される。
そしてこの炭化物を含む層の上面では、土師器やこれにともなう炉址などが発見されており、この砂丘で再び住民の活動した証跡が明らかである。
この土師器の示す時期よりさほど降らない頃海退が始まり、海岸線に平行な砂丘が発達する。
季節風は砂浜から砂を運び、遺跡の立地する砂丘上にも厚い風成砂層が形成される。
その際最も軽い貝粉等が、一番遠くまで運ばれ、海岸線より約四〇〇メートルも入り込んだ遺跡附近に堆積する。

遺跡の上に形成された風成砂層は、極く細い砂粒より成っていて、貝粉を多く含んでいるが、こうした風成砂層の形成が、下層の人骨を保存するのに好適な条件となったものであろう。

遺跡はこの砂丘の基部近くに位置している。
昭和六年に発見された組合式箱式石棺は、県道より約六〇メートルほど北で出土したことを伝え、昭和二十七年、県道より約一〇〇メートル北の砂丘南端に、煙草乾燥場を建設した際にも、人骨と弥生時代前期の華麗な木葉文を施した土器片が出土したという。
昭和二十八年以降の五次の調査によって夥しい遺骸・遺構が出土したのは、この煙草乾燥場附近一帯であった。
もとより遺跡の範囲を厳密にきめることはできない。
しかし従来までに人骨が出土したという地点の聴書や、処々に設けた試掘壙の状況から推定するならば、弥生時代に営まれた墓地は、この煙草乾燥場を中心に、南北約七〇メートル、東西約六〇メートルの範囲に亘るものであったようである。
尤も遺骸や遺構がこの範囲に同じように分布しているわけではない。
煙草乾燥場の東に隣接する二〇平方メートルの区域内に、特に稠密に分布し、その区域外では比較的疎であるといえる。
現地表も、この遺骸が稠密に出土する附近が最も高く、さきに述べた、炭化物を多く含む層によって明示される旧地表も、またこの附近が最高点をなし、北方にはなだらかに、南方には急激に下降する。
この砂丘最高点附近では、現地表を約〇.五メートルほど掘り下げると旧地表が露出し、しかもこのような表層の比較的厚くない処に偏って遺骸の出土が多かったことは、調査の労力を省く上に、非常に好都合であった。
以下五次にわたる調査の概要を述べよう。


(三)以下、 省略         (226頁10行目〜)




(参考)

この『日本農耕文化の生成』の中の「14 山口県土井浜遺跡」の「記述」の中にも、少しばかり=u問題」があるのですが、ここでは、「引用」に留めます。



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