平成19年7月5日 公開
平成23年1月20日 更新



● 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノおけるなぜ?≠ノ答える



9 出土地点は、どんなところだったのか?


[答え]

道すぐそば

但し、残念ながら三宅氏の「報告文」では、
本道から約三十間余入つた道の北側
となっており、
距離が違っています (三≠ナはなく、の印刷ミスだと思います。)

この「図」を見られた永井昌文氏は、「そうだろう。おかしいと思っていたよ」とおっしゃったし、その箇所の発掘に関係された乗安和二三氏は、ほぼその箇所で、大きな石が発掘されたと証言されています。




◆ 『日本農耕文化の生成』の中の「山口県土井浜遺跡」より

(二)         (225頁18行目〜)

昭和六年に発見された組合式箱式石棺は、県道より約六〇メートルほど北で出土したことを伝え、昭和二十七年、県道より約一〇〇メートル北の砂丘南端に、煙草乾燥場を建設した際にも、人骨と弥生時代前期の華麗な木葉文を施した土器片が出土したという。

注3         (253頁5行目〜)

参考文献7の報告による。
しかし、われわれが現地で聴いた限りでは、その出土地点は、より北の煙草乾燥場附近であったという。




春成秀爾氏が、生前、父=河野英男に「出土地点」を教えてほしいと依頼して来られ、英男が指摘した図があります。
 「上の図」は、そのことを知っていた私が、春成氏にお願いし、逆に¢翌チてもらったものです。
道すぐそばの文字は、藤本菊二元「山口県教育長」が、『陶片の楽書』「序」例の小さい字でと書いてくださっているように、大きな体であるのに、細かな文字≠書くと、ある意味では評判だった父=英男が、目が不自由になりつつあるころだったこととて、大きな文字≠ナ書いています。

英男は、単に=A[1982(昭和57)年−1931(昭和6)年=51#N前]の「記憶」によって「図示」しているワケではなく、「金関発掘調査」時は、「山口県教育庁社会教育課」の[文化係長→課長補佐]という形で係わっており、位置の指示は的確≠ノなされているハズです。

(引用した『日本農耕文化の生成』「山口県土井浜遺跡」の中で、 注3 に記してある、金関丈夫氏らの、現地で聴いた「情報」とも一致≠オています。
当然=A本道から約三十間余入つた道の北側なら、住宅のある場所ですから、おかしいワケです。
従って、当時≠ヘ、英男に「確認」はされなかったといいます。
なお、春成氏が、英男に「確認」をされたのは、金関 恕氏が、「健在なので、直接、聞かれた方がよい」と、「アドバイス」されたからとのことでした。
氏の「学問的な姿勢=vとして、心に留めておきたいと思い、付記しています。)

春成氏は、英男に「発表稿」の「抜き刷り」を送ってくださっています。
(「山口県文書館」に寄贈してあります。[河野英男収集資料 bV6= 「土井ヶ浜集団の構造」 ])


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