平成19年7月5日 公開
平成23年5月20日 更新



● 「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノおけるなぜ?≠ノ答える



10 なぜ「清野蒐集人骨」なのか?


[答え]

清野謙次氏は、生体染色法の応用によって組織球性細胞系を発見した、「病理学」の世界的な学者で、大正11(1922)年に「帝国学士院賞」を受賞した「病理学者」であったダケでなく、「人類学」においても、第一人者でした。

三宅宗悦氏は、京都府立医大を卒業し、府立医大の研究室に残ることが決まっていたのですが、濱田耕作氏のカフェ・アーケオロジィで、清野氏によって京都帝大の「病理学教室」に招かれ、「人類学」の研究者として、清野氏の研究を助けておられたのです。

三宅氏は、当然=A清野氏の「研究資料」とて、「土井ヶ浜出土」の「人骨」を、清野氏に、「報告」されたのです。
だからこそ、清野蒐集人骨としての通し番号≠フモトに「整理」されているのです。

そのことは、清野から金関丈夫氏との共著『人類起源論』という大著の表表紙裏に為 紀念 謹呈 昭和六年十一月 著者 清野謙次≠ニサインをして、英男に贈って来られたことからもわかると思います。

(なお、裏表紙裏には山口高等学校小川五郎氏紹介ニヨリ京都帝国大学医学部病理学教室三宅宗悦氏十月二十日粗製組立石棺研究ノ為神玉村土井ヶ浜ニ来ル。氏の紹介ニヨリ医学博士清野氏ヨリ送ラル 六、一一、一 ひでを≠ニ書いています。)


「写真」は、清野氏と、清野氏から贈られた著書。
「土井ヶ浜人類学ミュージアム」に寄贈してあります。


▼ 「著者」とあることについて

清野氏は、ここに、『人類起源論』著者≠ニ記しておられますが、
実質=A金関氏の執筆であることは、「自序」として、清野氏が、
余が毫も補筆せざるのが良いと思つた
世の中の事情は之れを許さなかつたので、余は僅かに補筆して著者の一人たる光栄を担つた
日本に僅か数名よりしか無い人類学者の初陣である。=@
と、はっきり°Lしておられます。
「200万円」位の負担≠覚悟しさえすれば、「自費出版」可能な、今日≠ニ異なり、「京都帝国大学医学部助教授」「肩書」でも、「出版」は難しかった≠ニいうことでしょう。
(「博士号」もまだ、取得されてはおらず、「医学士」でした。なお、三宅宗悦氏、駒井和愛氏も、「博士」としたものが多く見受けれますが、「土井ヶ浜遺跡」に係わられた「昭和のはじめ」は、「学位」は取得されていません。 ただ、一般的≠ノ、後年の「地位」等で記すようですので、例えば駒井氏は、「東京大学教授」とされているのが少なくありません。)

「写真」や「図」を多く取り入れ、500頁°゚い、豪華≠ネ「書物」を[昭和3年4月20日]に「岡書院」から「定価 五圓」で「出版」するには、「人類学者」としても著名≠ネ清野氏の「名」が、必要≠ナあったということだと思います。
実質=A金関氏の「執筆」であったとしても、共著として清野氏が名を連ねられている以上、清野氏に、責任があるということですから。


    (参考)
清野氏は、三宅氏を自分の教室に招き、三宅氏に「人類学者」としての道を歩むようにされたダケでなく、金関丈夫氏が、「人類学者」としての道を歩くことになったきっかけにも、実は清野氏がかかわっておられるのです。
金関氏は、「解剖学教室」に入って、指導教授舟岡氏から与えられたテーマ「鼡の尻尾を動かす腱の構造」が期待に添えず、しょげておられた時、同じ「解剖学教室」のいま一人の教授で、「人類学者」でもあった 足立文太郎 氏および清野氏のすすめで、「人類学」を志すことになったというわけです。
(このことは、国分直一氏から、ぜひ読んでほしいと紹介されて購入した『えとのす 21= 金関丈夫博士 その人と学問の世界』(昭和58年7月 新日本教育図書株式会社刊)の中の浜田 敦氏の「金関先生を悼む」という「文章」の中に書かれていたものです。
この浜田氏の「一文」の存在を知ったことで、浜田氏への「電話」をしたワケですが、見ず知らず≠フ「私」に対して、思いもしなかったほどの暖かい=u対応」を、浜田氏がしてくださったことが、この「土井ヶ浜遺跡の発見=E発掘史=vを、私なりに調べようとしたきっかけ≠フ一つになっているのです。
浜田氏は、F先生としておられますが、すぐ≠かることですので、私は舟岡氏と記しています。
なお、舟岡氏の、「教授」としての指導方針は、臨床に役立つものを ということであったようで、浜田氏は、「批判」しておられるワケではありません。)



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