構 成 ─ 下線部をクリック≠キると、該当箇所≠ノ飛べます ─」 [1] 私の「個人的な調査・研究」をまとめた『本』のこと [2] はじめに [3] 「昭和初期」の「土井ヶ浜遺跡」の「発見・発掘史」 [参考] 私どもと「土井ヶ浜」とのこと [4]「土井ヶ浜遺跡」の「発見・発掘史」の「戦後」のこと [5] |
| この 「土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史」 は、 平成26年11月19日に、「出版」しました。 この「ホームページ」よりも詳しい<^メ、できましたら、次の「寄贈」を受け入れていただいている「図書館」で御覧いただきますよう、御願いします。 名もなき私の『自費出版』であるタメでしょう、「送付」しても、「受取人払い」で「送り返される図書館」が、少なくなく。「所蔵していただけた図書館」は、「限られている」タメ、>この「ページ」を公開≠キるわけです。 残念ながら、「父=河野英男」が「遺跡の発見」に関係していることから、私が、とても信じてもらえないような「超一流≠ニされる方々」の「協力」をいただいて、「明らかにしたこと」が、、公開されている「ホームページ」では、ほとんど書かれていないことがら この「ページ」を公開する次第です。
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[2]はじめに
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小噺に、 ニュートンは、リンゴが落ちるのを見て、「万有引力の法則」を見つけたが、その時、青森県の人達は何をしていたのでしょう。 というのがあります。 思いますに、この小噺は、偶然ということの重要さと、その偶然を生かすには、それなりの必然が必要ということだと思いますが、「偶然」の積み重ねばかりのように紹介されきた「土井ケ浜遺跡」を巡る「発見・発掘史」を調べてみると、実は、この「必然と偶然が織りなした」好例だということがわかったのです。
邂逅=思いがけない出合いという偶然≠「人生の重大事である」と亀井勝一郎氏は書いておられますが、まさに、「土井ヶ浜遺跡」が人類学史上%チ筆される「遺跡」として注目されるに至るには、邂逅≠ニいう偶然をもとに、それを必然とした人と人とのつながり・人間関係≠ェあったということをここでは述べたいと思います。
どうでもいいようなことながら、まず、私が、「土井ケ浜遺跡」を巡る「発見・発掘史」を調べ始めたのが、偶然でした。 私の父「英男」は、昭和五年三月、「山口師範学校」を卒業してまもなく、この「土井ケ浜遺跡」と巡りあい、そのことが契機となって、その後の人生がいささか非凡≠ネものとなっていました。 父は、昭和六二年六月二三日に亡くなったのですが、それからまもなく、学校に勤めていた私が、「模擬試験」の監督のため、日曜に出勤する途中、耳にした「ラジオ放送」によって、昭和初年抜き≠フ「土井ケ浜史」があることを知ったのです。 私は、「ラジオ」を聞くのは車の中だけですので、まさに偶然≠ニいえます。
「土井ケ浜遺跡」に、今日の学術的価値を見出だされたのは、いうまでもなく、金関丈夫氏です。 そして、その「発表」は、『日本農耕文化の生成』における 金関 丈夫・坪井 清足・ 金関 恕 共著の『山口県土井浜遺跡』に、「概報」という形でされています。 しかし、この「概報」の記述にスラ、少しばかり=E誤り≠轤オきことがあるとわかったのです。 「ドーム」の建設がきっかけだったのでしょう、「中国新聞」を代表として、各紙が「土井ケ浜」を特集していましたので、私は、複数≠フ「新聞社」に、「もし、発見当時のことにふれられるなら、取材してほしい」と依頼しましたが、取材はなく、新たな誤りを付け加えただけでした。 私は、やむなく、私の手で、「土井ケ浜遺跡」を巡る「発見・発掘史」を調べ、「豊北町」の「教育委員会」(現在は、「下関市」と合併しています)に、「情報」を知らせていたのですが、私が「防府」からわざわざ=u豊北町教委」に何度となく、出かけることを気の毒≠ノ思ったのでしょう、「私たちに言われてもしかたがない。執筆されるのは、権威≠る方に依頼するのだから、何かに発表して、それが権威≠る方に認められることが必要だ」と言われたのです。 私は、正確な=u発見・発掘史」を記したものがなく、それでいて、「何通りもの土井ケ浜前史=vが存在するという現実に突き当たっていたため、『山口県地方史研究』に「入会」し、「投稿」したのです。 ありがたいことに、「活字」にしていてただきましたので、「抜き刷り」を主に、百人以上の方々に、郵送し、その結果、私の「発表」は、ありがたいことに、受け入れていただいくことができるようになりました。
傍線を附した箇所を「修正」しています。 その「調査」のプロセスにおいて、「日本」を代表するような先生方の協力をいただいてわかった=u土井ヶ浜遺跡」が今日≠フ「考古学界」・「人類学界」において、重要な=u遺跡」とされるに至るには、「邂逅を織り込む」という偶然≠ェきっかけ≠ナも、必然%Iな「関係」があったからだということについては、 『山口県地方史研究 第75号』に「人類学者 三宅宗悦博士―″山高郷土史研究会″・″土井ヶ浜遺跡″事始め― 」として、一部≠ヘ「発表」済みですが、 「野村望東尼の終焉の場」について、「萩焼」について、事実≠無視したことが流布しているタメ、 「野村望東尼」は、「山口県指定」の「史跡」となっている「終焉の宅」の「管理者」として「立場」から、 「萩焼」は、父=英男が「担当者」であったにも係わらず、後継者の「立場」にあった人物によって、事実≠踏まえぬことが流布しているのみならず、「萩焼」にとって、忘れてはならない12代 坂倉新兵衛氏を傷つけている≠アとから、 『自費出版』に踏み切らざるをえず、その中に、含めることにしました。 私の「調査」時点では、金関丈夫氏、椿 惣一氏以外は、健在でおられましたので、協力をいただき、わずかばかり≠ナすが、「修正」することができました。 まず、なによりもさいわい≠セったのは、「金関発掘調査」のきっかけ≠作られた衛藤和行氏には、お宅を、父に連れられて訪れたことがあり、それ以後も、父の依頼で衛藤氏に何度も会ったことがあって、何度も何度もの電話や対面を許してくださったことがあります。 (私の住む防府から、特牛港近くの衛藤氏のご自宅に行くには、かなりな時間がかかります。あまりに度重なったからでしょう、衛藤氏は、私に配慮してくださり、「あんたが定年になってからきんさい。わたしは死にゃあせんから。」 とおっしゃったのですが、不幸なことに、私の定年前に、「下関駅」での通り魔事件≠ナ、亡くなったしまわれました。) 更に、「金関発掘調査」の当時は、英男は「山口県教育庁社会教育課」において、「文化係長→課長補佐」として、その「調査」に係わりを持っていて、関係された先生方と面識があったということです。 例えば、「発掘調査」当時は「文化財保護委員会」におられ、「土井ヶ浜遺跡」の「国指定」のお世話になった斎藤忠氏は、その後、東大教授等を歴任され、その後もお忙しい方だったのです。
しかし、3ヶ月後≠ネら、私のために、時間をとってく ださるということで、東京のご自宅を訪問、「カセットテープ」をまわすことも許してくださり、そのお話の中で、浜田耕作氏は無論のこと、三宅宗悦氏、金関丈夫氏と、京都帝大で一時期、一緒に勤めておられた方々の話を伺うことができたのです。 また、「豊北町(現 下関市)」は、父の勤務していた土地であるほか、母の生まれた地であり、山口女子師範卒業後、北浦の地で勤務もしていたこととて、多くの知人がおられ、ユリコの子=A英男の子≠ニいうことで、協力が得られたのです。 私がこの邂逅≠フ不思議さに思いをいたした最初≠ヘ 父=英男 が「考古学者」の 小川五郎氏 に報告したのは自然だと思うのに、なぜ、その小川氏が、「病理学教室」の三宅宗悦氏にさらに紹介し、その三宅氏が『防長史学』という地方誌≠ノは発表したのか。 という「疑問」を、小川五郎氏のご子息で、衆議院議員であった小川信氏の奥さんに、その「疑問」を投げかけ、その奥さんから、 「三宅宗悦先生は、旧制山口高校で義父と一緒に学んだ親友だったからですが、三宅先生について、確か、先年、ツノダ≠ニいう方が発表されたものがあると思います。」 「宇部の渡辺さんにお尋ねになったら、いかがですか。」 と教えていただいたことで、宇部の渡辺♂ニ、つまり、現在の「宇部興産」を興した渡辺祐策氏の孫にあたる、当時、「宇部興産病院」の院長であった浩策氏のお宅に電話し、その奥さんから、親切に教えていただき、ツノダ≠ニ言われる方=角田文衛氏の、「人類学者 三宅宗悦博士」という論文の抜き刷り≠いただいたことからです。 つまり、三宅宗悦氏の姉にあたる方=柔子(なりこ)氏が、祐策氏の次男=渡辺剛二氏に嫁いでおられたのが、宗悦氏が旧制「山高」に学ぶことになられた「理由」の一つで、そこから「土井ヶ浜遺跡」の前史≠ェ始まっていたことを知ったのです。 剛二氏は、後に述べますが、「宇部興産」の会長を務められたり、山口県医師会長、山口県議会の議長をなさったりした、祐策氏に匹敵するような方でした。 その奥さんであった柔子氏のもとで、母を早く亡くし、父=宗悦氏の戦死で、宗悦氏のご子息が、育たれたということも知り、そして、金関氏が宇部市にある「山口大学医学部」の前身「山口県立医科大学」に一時期勤務され、ご子息とも会われていたことも知ったのです。 角田文衛氏には、電話でお話を伺い、いろいろと教えてい ただくと共に、「もし、ミスがあれば遠慮せずに訂正してほしい」とまで言っていただいたのです。 地元=山口県≠ノ住んでいることがさいわい≠オ、角田氏の「論文」の中に、ほんの部分的な間違い≠少しばかり見つけたのですが、それよりも、この「論文」がもと≠ニなり、お話を伺った方々の温かい対応で、ここに記すようなことがわかったのです。 ここでは、ごく概略的≠ノ、邂逅の不思議≠述べておきましょう。 それも、偶然≠ニいう「縦糸」に、必然≠ニいう「横糸」が絡まった、まさに、不思議≠ニしかいいようのないありよう≠述べたいと思います。 「考古学」が今日の開発?考古学 ≠ニ違い、まだ「考古学」が、偶然≠ノ左右され、一般人≠フ関与が意味を持っていた頃の一つの例として、発見・発掘≠フありよう≠語ることもそれなりに∴モ味を持つと思います。
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(1) 「地元」の出身の母との結婚、 それが私の「調査」にも関係 父=英男は、同じ学 校に勤務していた山中ユリ子と、縁あって結婚しました。 ユリ子の12歳の時 に、母=サナが亡くなり 、主婦代わり・母代わりをしてきたユリ子 は、「近所」に住んでおられ、後に、「文化財」 関係の仕事をなさり、「俳人」でもあったことで、親しくさせていただくこ とになった井上十六氏が 、私に「あなたのお母さんは、この田舎から、家事一切を引き受けなが女子 師範に合格されており、お父さん以上の人でしたよ。」とおっしゃってくだ さっていますが、「田舎」では当時、珍しかった「女子師範学校」 に、父=熊吉の配慮で進 学させてもらい、卒業時、椿 惣一氏(「土井ヶ浜遺跡」にも関係されてい ます)から、下関市の中心部の大規模校への誘いがあったのをお断りし て、「実家」に近い「神玉小学校」に着任していました。 当時の「交通事情」からして、[防府市〜神田村]はとても往き来しや すい距離ではなく、 防府への「移住」は、母としては、決 して、気の進むものではなかったのですが、熱心な英男へのお誘いを受け て移住、 そのタメ、毎年、長期休暇の度に「実家」を訪ね、「墓参」 を繰り返していたワケで、同行させられていた私は、父と個人的に親しかった、 「特牛港」近くに住んでおられた衛藤和行 氏の家に、何度も、連れられて行ったことがあり ます。 「土井ヶ浜遺跡」そのものにも、何度か、立ち寄っていま した。 当時≠ヘ、「考古館」という小さな=u資料館」こそあっ たものの、側にあった「松濤苑」という「養老院」で、「鍵」を借 りて入り、「鍵」を戻すという「システム」で、その周囲に、「石棺」 が幾つかあったのですが、夏には、坪 井清足氏を驚かせた「海水浴客」の「駐車場 」と化しているのも、見かけています。 衛藤氏には、父が亡くなってからも、親しく させていただき、 「土井ヶ浜遺跡」の発見=E発掘史≠再調 査≠キるに際し、親切にしていただけた のです。 おそらく=A私でなければ、衛藤 氏から、新たな「疑問」、「矛盾点」が 出てくる度に、何度も、何度も、問い直すということはできなかった と思います。 昭和六年の出土以後も、何度か人骨が出土した のに、なぜ衛藤氏は「人骨」を改めて「金関」氏に届けられたのか? ─ このことが「疑問」の中心≠ナした。 「先生、なして人骨を改めて九大に送っちゃったんですか?」 「なんで古墳人骨というのはおかしいと判断しちゃったんね?」 「なして、解剖学教室なんね?」 私は、親しさにまかせて、こんな失礼な言い方を衛藤氏としていました。 衛藤氏は、 「あんたは、記憶を呼び戻してくれるのぉ」 と言われたものです。 その結果、金関丈夫氏の後継者である永井昌文 氏のご親切もあって、『日本農耕文化の生成』中の「14 山口県土井浜遺跡」 という『原典』をも、一部=u修正 」する事実が見いだせたのです。 つまり、ささいなこと≠ネがら、地元の人間との「結婚」 ということも、邂逅の一つではあるのです。 (2) 長兄=頼人 ・長姉=浅田計子 の誕生の地 この「豊北」で、私の長兄・長姉が生まれています が、長兄は、「国文 学者」であると共に、「俳人」です。 ありがたいことに、「瑞宝中綬章」をいただき、句誌『木の実』の五代 目主宰であったこととて、その双方に「著書 」がありますが、その「奥付」において、 いずれにおいても、「山口県に生まれる」としています。 昭和7年9月25日生まれですが、昭和13年3月末に は、「防府」に移り、以後、昭和41年、「北九州大学」に勤務するよう になるまで、「防府」が「本籍」でした。 従って、実質=A「防府」出身ということで、敢えて、 山口県生まれとしているワケです。 ただ、六歳近くまで住んでいた地とて、どれほどの記憶が残 っているのかはわかりませんが、2歳違いの妹同様に、懐かしい £nであるハズであり、「土井ヶ浜」に関す る句を、幾つも詠んでいるようです。 |
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金関丈夫氏について
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金関丈夫 (かなせきたけお)
明治30年2月18日、香川県仲多度郡榎井村(その後、琴平町) 生 まれ。 岡山の小学校にいたことがあり、そのとき後の首相となる岸 信介 氏 と、わずかな期間ではあったが、同級であった。 岡山医専の教授をしていた岸氏の叔父の佐藤松助氏が岡山には秀才 教育て゜名高い一中があるからぜひ岡山に来て勉強するように≠ニいって 岸(当時は佐藤姓)氏を明治41年の九月に、「内山下高等小学校」の6年に 編入させたのだという。 「山口からすごいやつがきたぞ。」という言 われていたといい、岸氏 は、1番≠ナ卒業し、「岡山一中(現 朝日高 校)」に入学するが、一中 の二年の時、叔父が亡くなり、山口に帰っていったという。 金関氏は、中学は松江なので、ごくわずかな時期しか、岸氏とは一緒 ではなかった。 ただ、小学時代の二人は、合わなかったというが、 合う・合わない ≠いうほど、長い期間一緒であったわけではない。 この「内山下高等小学校」の岸氏の 同級生からも、岸氏、金関氏を始 め、優れた人々が輩出しているが、一中 時代には「おれは大学教授になる 」と、友人に語っていたという岸氏が政 治家となり、四国丸亀の勤王侠客 =「日柳燕石」に似たところがあり、「政治家」になろうと思っていたこと があると、語っていた(但し、いつの発言かは不詳)金関丈夫氏が学者 にな ったというのは面白いと思う。 大正5年(1916)9月第三高等学校入学。 そして、大正8年9月京都帝国大学医学部入学。 親友の坂田氏は、 医学部卒業の前頃、金関は小児科をやるようにいっていたのを小 生 は たしかに聞いたおぼえがある と、書いておられる。 大正14年助教授 しかし、事実は、大正十二年、京都帝国大学医学部卒業卒業と同時 に 「解剖学教室」の人となった。 ところが、教室の教授である舟岡氏から、研究姿勢を注意され、 し ょげていた≠アろに、同じ医学部教授であった足立文太郎・清野謙次氏の誘 いで人類学≠志すようになるのであった。 (舟岡教授の指導方針は、臨床に役立つものを ということらしく、 人間そのもの≠研究しかけていた金関氏に注意さ れたらしい。清野氏 らは、その金関氏の研究を、明確に、人類そのもの の研究≠ノ進むこと を勧められということである。) 大正14年助教授 金関先生の名声は、昭和三、四年頃、すでに鳴り響いていた。 当時、先生は、京都帝国大学の助教授で、医学部の解剖学講座を分担 されていた。 先生が早くも昭和三年に刊行された『人類起源論』は、極めて水準の 高い研究書であって、先生の人類学者としての地位を確立した名著であっ た。 同書は、清野謙次先生との共著という形をとっていたが、本文は金関 先生が執筆し、清野先生は校閲された程度であったことは、同書の序文に 明記されている通りである。≠ニいう。 なお、この本は、清野 氏からサイン%りで、土井ヶ浜の人骨に、 日本人のもののはず≠ニ 目をとめ、小川五郎氏を通して三宅宗悦氏につ ながる情報≠もたらし た河野英男に贈られており、現在も存在してい る。 |
三宅宗悦氏とのこと //(戻る) |
人類学≠志した金関氏は、必然的に、考古学教室とつ
ながりがで き、しかも、考古学の教授が浜田耕作氏であったこともあって
、 金関氏は、カフェ・アーケオロジイ≠フ常連の一人となり、他 大学=
「京都府立大学」の学生であった頃の三宅宗悦氏とも顔見知りと なられる
が、助教授になって五年後、清野謙次氏の助手として京都帝国大 学に入っ
てきた三宅氏とは、必然的に、深く関わりを持つことになるので あった。
金関氏は、この三宅氏を弟のように親しくしていたというし、事実 として、「解剖学教室」の金関助教授の解剖に「病理学教室助手」の三宅 氏が、たちあっていたという証言≠ェある。 例えば 「清野謙次博士=解剖学教室」という箇所が引っかかりはする (実際は 「病理学」教室)が、東大の 三上次男氏も、 京都大学の浜田耕作先生のところに挨拶にうかがったとき、浜田 先 生の指示で清野謙次先生の解剖学教室で、助教授の金関さんは三宅宗悦 さ んを助手にして、病理解剖をしておられたが、さそわれるままに解剖室 に はいり、こわいもの見たさに解剖なるものを見せていただいた。 と書かれている。 なお、当時、浜田氏のもとで、副手・助手として研究していた斎藤 忠 氏も、仲がよかった≠ニ証言される。 |
『考古学史の人びと』(昭和60年 11月25日 「第一書房」刊)より //(戻る) |
昭和七年三月、東京帝国大学文学部国史学科を卒業するこ
とになった私(注 斎藤氏)は、主任教授であった黒板勝美先
生のお宅に、同窓生とともに訪れた。
毎年の恒例の一つで、就職について相談するのであった。 応接間に待っていた私は、やがて先生の前にすわった。 私は、考古学をやりたいと思うので、その方面の仕事のできるところに 就職したいとお願いしたのであったが、先生は、言下に答えられた。 「考古学をやるなら、まだ就職なんか早い。 京大の考古学研究室で、浜田耕作君のところで勉強し給へ。 僕が紹介状を書いてあげるから」と。 それから、私の京都行きはきまった。 四月になってから、考古学研究室で、浜田先生にお目にかかった。 「君、大学院に入るより、副手にしてあげるから、勉強し給へ。 僕の講義を聞いてかまわないから」と。 そして、昭和七年六月副手になり、その後、十月からは助手 にさせていただいた。 先生は、毎日、御自宅から和服姿で研究室にこられた。 私は、それよりもはやく、研究室でお待ちしていた。 机にすわると、必ず前日きた手紙等に目を通し、一々返事をかかれるの が、朝のお仕事であった。 それから本を読まれる。 少し退屈になると、「斎藤君、お茶を飲もう」とでてこられ、円い テーブルで、お茶をいただいた。 そのときの色々な思い出や新しい出来事をうかがうのが最高の楽し みであった。 午後三時頃になると、末永雅雄さんや水野清一さんや三宅宗悦さんなど の顔もそろうことがあり、助手の島田貞彦さんも一緒で、しばらくの歓談に 花を咲かせた。 「カフエ・アーケオロジー」の名の通り、浜田先生を中心とし た和気藹々の集まりであった。 昭和九年、私は、黒板先生と浜田先生とのお世話で、慶州の博物館に移った。 赴任の前に、挨拶にいったとき、先生は、次のようなことを話された。 斎藤君、君には研究室にいたとき、学問のことは何も指導できなかった 。 しかし、雑談のとき、色々と君に話したことは 、君の将来にとって、大事なものになるだろう。 と。 私は、いまも、この言葉が耳朶に響いている。 |
思いもかけなかった「清野事件」に遭遇し、昭和9年、金
関氏 は、台北帝国大学医学部の前身ともいうべき医学専門学校教授となり
、1 1年、帝国大学医学部開設とともに教授となる。
台北帝国大学は、従来からの「南方学」研究に便利であったわけだ が 、氏は、単に研究だけでなく、『民俗台湾』の刊行を推し進め、台湾の 文 化の保存に尽力、はたまた、金関学≠ニ世にいわれるように、幅広い 教 養を有しながら、奢りも高ぶりもないその人格は、人々の尊敬を集めた 。 金関氏をよく知るアメリカの研究者=E・H・カー博士は、戦争中 の 台湾爆撃の指導をすることになった際、金関教授邸と言語学の浅井恵倫 教 授邸は爆撃しないように配慮したと終戦後、台北駐在の総領事としてき た 時に金関先生に語っているという。 この台湾時代の金関氏を評して 一言で言えば、歴史的には大正デモ クラシーが生んだ知識人の一人で 、科学者である。≠ニある。 |
この「台北帝国大学」で、「森鴎外氏の長男=於莵」氏(教
授)と同僚となり、親しいつきあ いをすることになり、森氏から幾つもの鴎
外ゆかりの物を貰われたといい 、その一つを大学時代の友人であり、金関
氏を「山口県立医科大学」に招 いた水田信夫氏に贈られたと言う。
なお、この金関氏の台湾赴任は、「土井ケ浜遺跡」の発見・発掘 史 ≠ノも大きな意味を持つことになる。 つまり、当時、台湾師範学校教授であった国分直一氏との 出会いがあ ったほか、坪井清足氏との巡りあわせ、さらには、敗 戦に伴って、九州大 学教授へ赴任することにつながるからである。 金関氏は、台北帝大に赴任後も、京都帝国大学へ、人類学の出 張講義 に出ていたが、その受講生に、坪井氏がいた。 そして、戦争は坪井氏を学生のまま、台湾へと遣る。 坪井氏は、暇を見ては、文化の香りを求めて、金関邸をしばしば訪 ね 、後に、金関の発掘の主要メンバーとして信頼される人間関係ができる 。 金関氏は、「三津永田遺跡」、「土井ケ浜遺跡」と、発掘調査の際 、 坪井氏に協力を要請、坪井氏もそれに応えた。 土井ケ浜遺跡発掘のシナリオ≠ヘ、坪井氏が主として立てたもの だ という。 |
敗戦後も、金関氏は、台湾の人たちから、引き留められた
というが 、昭和25年(1950)1月に九州大学教授となり、医学部解
剖学教室 第二講座に勤務することになる。
そして、研究テーマ≠「弥生 人骨」に変更し、「三津永田遺跡」 、「土井ケ浜遺跡」の発掘と、その研 究から、「混血説」を展開されるに いたるのです。 昭和35年(1960)3月九州大学を定年退官し、鳥取大学教授 ( 35年4月〜37年3月)となられる。 |
「教室」総掛かりで「可能性」の
調査・確認
//(戻る) |
しかし、そうした慎重な調査≠ノもかかわらず、[発掘1
年目]の調査では、思ったような人骨の出土はなかったのです。
金関恕氏は、「断念することもありえたのだが、父(=金関丈夫氏)が、 衛藤さんに、調査後、数カ所指定して、掘ってみてほしいとした場所から出 土したことで、2年目以降の調査を継続することになった。」と教えてくだ さいました。
こうして、5次≠ノわたる「発掘調査」が 実施され、予想以上の多量の「人骨出土」をもと に、金関丈夫氏は、日本人「渡来説」を提唱されたのです。 かくして、「土井ヶ浜遺跡」は、金関氏の研究によって、日本の代表的な遺跡の 一つとなったのです。 |
「台北帝国大学」に転じ
ていた金関丈夫氏でしたが、その地で、その後の金関氏の研究を支えた
国分直一氏、坪井清足氏との深い関わりが生じています。
(この「台北帝大」では、同僚に、森鴎外氏の子息がやはり医学部教授 としておられ、金関丈夫氏とのあいだに逸話もあるのですが、「土井ヶ浜遺 跡」とは関係ありませんので、触れないことにします。) 国分氏は、「台湾市販師範学校」の教授であったことからの「学問」を 仲介としての出合い≠ナしたが、坪井氏との関わり≠ヘ、こんな偶然 ≠ェありました。 金関氏は、台北帝大に赴任後も、京都帝国大学へ、「人類学」の出張講 義に出ておられ、その受講生に、京都帝大の学生だった坪井氏がおられたの です。 第二次大戦の戦況から、学徒も招集され、坪井氏を学生のまま 、台湾へ行くことになりました。 坪井氏は、台湾において、時間が取れる時は、文化の香りを求めて、金 関邸をしばしば訪問、単なる受講生というだけでなく、後に、金関の発掘の 主要メンバーとして信頼される人間関係ができたのです。 金関氏は、「三津永田遺跡」、「土井ケ浜遺跡」と、発掘調査の際、坪 井氏に協力を要請、坪井氏もそれに応えました。 「土井ケ浜遺跡発掘」のシナリオ≠ヘ、坪井氏が主として立てたもの だといいます。平成四年度「朝日賞」を受賞したこの坪井氏を初めとして、 土井ケ浜遺跡発掘に関係された方々が、今日、代表的な学者となってお られることを見ても、「土井ケ浜」は幸せな「遺跡」であったといえる のではないでしょうか。 |
◎ 国分直一氏と「土井ヶ浜遺跡」 お手紙拝見しますと、土井ヶ浜遺跡をめぐる研究史を御執筆とのこと、 ありがたいことと存じます。 私が土井ヶ浜遺跡の調査に最初だけ参加してあとは参加してい ないのは、種子ヶ島の広田の埋葬遺跡の調査をしなくてはならなく なったからです。 この調査はわが南島先史時代の研究を進める上で決定的に重要な調査と なりました。 金関丈夫先生も金関恕教授もあとで広田の調査に御参加なさって下 さいまして、重要な成果を上げる上で指導的役割を果して下さいました 。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (国分氏は、「学生」にも丁寧な言葉を使
われたと聞いていますが、私への手紙も、「原稿用紙」を用いるというよう
な「心配り」をして下さっていました。)
◎ 国分氏と金関丈夫氏及び 丈夫氏の「家族」との関係 国分氏と、金関氏との「関係」は、「台湾」以後も、続いています。 『えとのす 21』において、「金関丈夫先生との半世紀」 という「一文」を載せておられます。 金関丈夫先生は私にとっては、人生の教師であり、学問研究 の上では、導きの星であった。 で始まるその「一文」は、お二人の深い「人間関係」を綴られた、貴重 なものですが、かなり長いものですので、現時点では、「紹介」はできませ んが、 金関先生のお誕生日は二月十八日であった。 我が家ではその日をよく覚えていて、必ずお祝いの電報をさし上げるこ とにしていた とあり、 金関 恕氏の『考古学は謎解きだ』には、 山口から親父の長年の友人であった国分直一先生が来られ、泣きなが ら新聞のための追悼文を執筆してくださった。 とあります。 なお、この『考古学は謎解きだ』によると、金関 恕氏と奥様の文子さ ん(当時、国分氏の勤務しておられた「下関水産大学校」の同僚の松沢寿一 教授のお嬢さん)とが結婚なさるきっかけ≠ヘ、国分氏がつくられたよう ですから、いろいろな意味で、国分氏と「金関氏一家」の関係は深かったと いうことでしょう。 |
◆ 背景(その4)=金関恕氏のこ
と
//(戻る) |
と、一見≠キると、私に話してくださったこ とと違った≠アとを書いておられるように見えます。 ツマリ、親父の意に反して≠ニあり、私がお聞きした時は、 蛙の解剖のことは触れられなかったからです。 しかし、 今、医者も決して飽食しているわけではない。 同じ飢えるのなら、好きな考古学をやってみよう。 と、好きな=u考古学」への道に進むことができた のは、結局は丈夫氏が折れられたからこそと思われますので、実質 的な違いはないと思います。 なお、長男毅氏の場合も、丈夫氏に無理矢理押しつけられたという わけではなく、「いずれ、軍隊に取られることは間違いない。それなら 、人を殺す方より、人を救う軍医の方がいい」と、医学の道に進まれたとの ことですし、結果的に解剖学(但し、人類学とは無縁)の道を歩まれ、丈夫 氏ゆかりの、九州大学の解剖学教室の教授となられたのです 。(私が電話で話を伺った時は、「佐賀県立医科大学」の副学長として、佐 賀におられました。 また、国分氏の話では、丈夫氏の三男=悳(とく)氏は、「東京 都立研究所所長」等を務められた「微生物学研究」における世界的権威 だとのことでした。 恕氏は、「発掘調査」の最初≠フ年=昭和28(1953)年に、 京都大学文学部史学科考古学専攻を卒業され、確か「大学院」に在籍で、「 発掘メンバー」の一人となって参加しておられるハズです。 そして、今日は、坪井氏ともども、日本考古学界 の指導的な立場におられることは、周知のことと 思います。 (「写真」は、「金関先生を知るには、ぜひ、 読んでほしい」と国分氏に紹介された『えとのす 第21号』( 1983年7月10日 新日本教育図書株式会社刊)からスキャナ≠ナ 取り込みました。 「1940年、台北の自宅にて」という「解説」がありますが 、「左」から、丈夫氏→長男毅氏→次男恕氏→丈夫氏の夫人=ミドリさん→ 三男悳氏と思われます。 この『えとのす 21』は、金関丈夫博士その人と学問の世界−金 関学の周辺 発見と研究の展開−という「特集号」であり、編集主幹 として国分氏が係わっておられるものです。 この「本」を手に出来たのは、国分氏の配慮によるものですが、この中 の浜田 敦氏の「金関先生を悼む」 という「一文」は、角田文衛氏の「人類 学者 三宅宗悦博士」という「論考」とともに、私のこの邂逅≠フ不 思議という「調査・研究」のきっかけになっています。) |
◆背景(その5)=小川五郎氏のこ
と
//(戻る) .html |
「土井ヶ浜」出土の「人骨」について、三宅宗悦氏が『防
長史学』という地方研究誌に発表されていたことを、金関丈夫氏は、知って
おられました。
それは、三宅氏と金関氏とは、清野謙次氏の、兄弟弟子≠ニいった関 係が「京都帝国大学」においてあり、当時、浜田耕作氏の教室で「助手」と して勤めておられた斎藤忠氏によると、「病理学教室」の三宅氏が、兄弟 子%Iな、「解剖学教室」の助教授=金関氏の解剖時の助手≠何度か務 められていたとのことです。 当然のように、金関氏は、三宅氏が在世でしたら、協力を呼び かけられたでしょうが、既に亡くなっていたこととて、山口県において、旧 制「山口高校」から、新制の高等学校の校長に転じておられた小川 氏に、協力を求められたのです。 それは、小川氏も、待っておられたことでした。 |
金関丈夫氏や三宅宗悦氏
と「京都帝国大学」で副手という立場で親交のあった斎藤忠氏は、この時、
「文化財保護委員会」の考古学担当の技官でした。
斎藤氏は、単に「視察・調査」に訪れられただけではなく、短期間では ありましたが、発掘作業現場にも出向かれて、その人柄から、中央≠フ偉 い先生であるのに、発掘作業を手伝った婦人たちから、「長府博物館」の伊 秩洋子氏の話では、チュー先生=Aチューさん≠ニ、親しみを込めて呼 ばれていたとのことですし、斎藤氏も、むしろ喜んでおられていたといいま す。 「敬意」を持たれつつ、親しみを込めて作業の おばさん£Bから話しかけられるという、チ ュー先生≠ネらではのことと思います。 斎藤氏は、その後、「東京大学」の教授になられますが、そこで「同僚 」となられた金田一京助氏と、北海道に研究のため、一緒に行かれ たときのことを話していただいたことが今も、強く記憶に残っています。 石川啄木の理解者、国語学の権威で、「国語辞書」の監修者 といった面で知られているのみならず、横溝正史の「小説」の 「主人公=金田一耕助」や、「漫画」=『金田一少年の事件簿』(金 田一耕助の孫=一)にも、その名に因んだ「人物」が登場している金田 一氏ですが、特に著名なのは、ご承知のように、「アイヌ叙事詩の研究 家」ということです 。 「小学校」の『教科書』に確か「心の小径」という題だったと思います が、協力が得られず、 傷心の思いで、せめて「絵」でも書こうとしたこと から、子供との交流が生まれ、アイヌの研究がはじ まったという内容だっ たと記憶しています。 その金田一氏と、アイヌの人達のところを訪ねた時のこと、「作業着」 の老婆と、「スーツ」を着た金田一氏が、お互いの姿を確認すると、どちら からともなくすがりつかれ、抱き合われたといいます。 老婆は。「センセイ」と言いながら、金田一氏は「元気でいてくれ て ありがとう」と言いながら、二人とも、「再会」に涙されていたとのことで した。 そして、こうした二人の姿を見て、心の交流が、研究者の原点 だと思ったといわれたのです。 斎藤氏の、おばさん≠スちに対する対応も、この原点≠ェ響いてい るのだと思います。 |
「金関発掘調査」の当時
、河野英男は、「山口県教委」の「社会教育課」の「文化係長」
でした。
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斎藤氏には、御自宅にお邪魔し、「録音テープ」をま わしながらの「調査」を許していただいたのをはじめ、多くの「手紙」・「 はがき」をいただいています。 当然、「父=英男」宛のものもありますが、その中の「昭和30年11月4日付」の「手紙」の一部≠紹介しておこうと思います。 「発掘調査」が開始されて3年目≠フ「終了 」の時点の「手紙」ですが、藤島亥治郎 氏のおっしゃったプールの「実例」となろうかと思います 。 ・・・・・・・・・・・・・・ 土井ヶ浜遺跡も弥生式文化の墓制を示す上に重要なものと存ぜられます 。 幸にも、地元におきましても保存についての熱意をもっておりますので 、取り敢えず貴教育委員会において、縣指定等の適切な措置をおとり下さい ますれば幸甚と存じます。 何卒ふしてお願い申し上げます。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ と、父より年上であるのみならず、いわば、雲の上≠ニもい うべき「地位」にある斎藤氏にして、このように、事務的≠ナは ない言葉をつづってくださっています。 (参考)
◎ 「土井ヶ浜遺跡」の「発掘調
査」の「記録」 (『山口県地方史研究』の12・13頁には詳しく
記しています)
「第一次」=昭和28年10月6日〜10月26日(21日中の12日 間) 「第二次」=昭和29年9月2日〜9月12日(11日間全日) 「第三次」=昭和30年9月7日〜9月20日(14日間全日) 「第四次」=昭和31年9月27日〜10月8日(12日間全日) 「第五次」=昭和32年8月1日〜8月16日(16日間全日) ◎ 「指定」の年月日
「山口県指定文化財保存顕彰規程」による「県指定」= [昭和31年9月27日](4年目≠フ「発掘調査」の「開始日」 と一緒ということは、当然=A斎藤氏の意向を受けて、それまでに、「県 指定」への申請をしていたということです。 なお、金関丈夫氏による本格的な=u発表」は、まだ、されていなかった ハズです。) 「国指定史跡」への昇格=[昭和 37年6月21日] |
● (大きな=u疑問」)
金関丈夫氏の「履歴」に「山口県立医科
大学」が抜けている≠アと
//(戻る) |
『鏡外余話』の
「第一解剖学教室の歴史」において、粟屋氏が、「次」のよ
うに、金関氏を語っておられることからも、金関氏が「山口県立
医科大学」の「教授」であったことは間違いないことです。
昭和三十七年四月二日・金関
丈夫氏が尾曽越教授の後任として着任。第二代目教授。
(ほぼ、一年間は、「教授」の席は空
いていた形になっているようです。)
・・・・・
昭和三十九年三月三十一日・金関丈夫教授定年退職。新設の帝塚山 大学教授に就任。 金関丈夫教授は台北医専(昭和九年 ─
十一年)、台北大学(昭和十一年 ─ 二十四年)、九州大学(昭和二十五年
─ 三十五年)、鳥取大学(昭和三十五年 ─ 三十七年)の教授を歴任され
たのち、本学に二年間在職された。
同教授は人類学者として有名であるが、先史古学、民族学、医学史にも 深い学識をもつておられた。 本学の在職期間は短かかったとはいえ、その学問的深さの故に当時の教 室員が受けた感化にははかり知れないものがあった。 金関教授は台湾時代には東亜の古人骨と東亜各人種の生体計測、九州大 学時代には主に弥生人骨について研究を進められた。 この研究によって、弥生時代に北九州方面に多量の大陸的人種の流入が あったことを証明し、日本民族の成立に新知見を加えられたことはあまりに も有名である。 同教授は今日なお帝塚山大学教授として活躍中である。最近、詩集「洵 異集」を出版された。 ・・・・・ |
◆参考(その1)=「山口県立医科
大学」と渡辺剛二氏、水田信男氏のこと
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金関氏の「山口県立医科
大学教授」への着任の件の前に、話しておくことがあります。
金関氏の着任された「山口県立医科大学」は、三宅宗悦氏の義理の 兄渡辺剛二氏ゆかりの大学でした。 兄の死去により、「宇部興産」の会長を勤められ、奨学資 金等も設けておられる剛二氏は、もともと熊本医科大学出身の医者でした。 それが、兄の死去により、今日の「宇部興産」の関係会社の世話をする ようになられたのですが、父=祐策氏の看護には、自ら何度も当た られ、祐策氏も、それを喜ばれ、「剛二の注射は痛くない」と言われたとい います。 (なお、三宅宗悦氏の姉=柔子氏との間に生まれたご子息の一人 は、京都大学医学部を卒業され、宇部興産中央病院の院長などを歴任されい ていました。) 更に、剛二氏は、山口県議会の議長なども務められるという父= 祐策氏に劣らぬ活躍をされた方であるが、「山口県に医者」の学校を作 ることが夢であったといいます。 そのことは、粟屋和彦氏が、「論文」にしておられますが、「 山口県立医科大学」の設立に当たっては、剛二氏が大いなるバックアップを され、会社の病院を大学の付属病院に提供されていますし、 また、付属病院=「同仁病院」の院長として、剛二氏が招き、右腕とし て頼りにされていた水田信男氏も、大学設立について尽力され、大 学が開校されると、元、京都帝国大学医学部助教授であったこととて、教授 として、研究職に復帰されています。 この水田氏は、金関氏の大学時代の親友の一人であったのです。 |
昭和35年(1960)
3月九州大学を定年退官し、鳥取大学教授(35年4月〜37年3月)とな
られます。
周知のように、「大学」は定年となる年齢がマチマチで、鳥取大学より も更に「定年」が遅かった「山口県立医科大学」(現 山口大学医学部)に 2年=A教授として勤務されています。 このワンポイントリリーフ≠ノついては、次のような逸話があるので す。 ワンポイントリリーフの件 山口県立医科大学の当初からおられた尾曽越文亮氏が、画 期的な業績をあげられ、岡山大学に招かれることになった際、後任の解剖学 教室の教授に、九州帝国大学出身で、助教授だった粟屋和彦氏を推 薦されたのですが、粟屋氏が若すぎるという声が教授会であり、その対策と して、水田氏が、京都帝大医学部の学生、助教授として旧知の友人である金 関氏の了解のもと、ワンポイントリリーフ≠提案し、金関氏が教授にな られたというのがそれです。 金関氏は、九州大学時代の「教え子」の方達のアドバイス 等をするのに便利だとして、承認されれば、喜んで引き受けようと言われて いたと言います。 尾曽越氏は、その後、母校の京都大学の医学部教授に戻られるなど、大 きな業績をあげられていますが、その尾曽超氏が、私に、もう時効だろう ≠ニして、話してくださったのです。 粟屋氏は、金関氏が2年間=A教授を務められた後、教授となられた だけでなく、その後、学部長、更には、国立に移管された「山口大学」の学 長等を歴任されていますが、私がお訪ねした時は、「宇部短期大学学長」で した。 山口県立医科大学時代の金関氏は「研究室」に寝泊りされ、週末に 松江に帰られるという生活であったといいます。 わずか2年≠ニいう期間がわかっていたためでしょう。 なお、この「山口県立医科大学」教授をうけられたことが、金関氏 の学問的な協力者≠ナある国分直一氏の命を救う≠アとにつな がっているのです。 国分氏は、階段を踏み外され、強く頭を打たれたのですが、痛みはまも なく引いたため、そのままにしていたといいます。 ある時、宇部の大学に金関氏を訪ねられ、帰られる際、不自然に転倒さ れ、それを見た金関氏や、金関氏の教室員の方々が、すぐ、検査を勧められ 、緊急手術をすることになったといいます。。 その手術が成功し、なんの後遺症も残らず、国分氏は、その後、「東京 教育大学(現 筑波大学)」に招かれ、大きな業績をあげられるのです。 後に、大学を辞められ、「防府市」で開業されていた河村武夫氏の見事 な執刀であったといいます。 国分氏は、どういう症状であったかを知られてもいいとして、河村氏を 紹介してくださったのですが、「例え国分先生ご本人がいいと言われたとし ても、他人に言うことはできません」と、教えてはくださらなかったのです が、河村氏は、「一瞬の動きも見落とさないことが、人を救う」という体 験≠身をもってしたことが、いい思い出になっていると言われました。 |
三宅宗悦氏の妻=夫規氏
は、宗悦氏の戦死の直前に亡くなっており、軍医として召集された宗悦氏の
子息=宗和氏は、柔子氏の嫁ぎ先の渡辺家で育たれました。
金関丈夫氏が、「山口県立医科大学」の教授として着任されたことで、 金関氏と成人されていた宗和氏とは「宇部」の地で、対面され、宗悦氏につ いて語りあわれたといいます。 |
昭和39年三月退官し、4月から帝塚山大学教授として迎
えられ、 奈良の岩室≠ノ住居を構えられた。
岩室は奈良盆地の真中辺にある裕福な村である。 その村の旦那衆の屋敷のひとつが事情があって売り物に出た。 帝塚山大学に移られた金関氏が、静かな田舎で、通学に便利で、ご子 息の金関恕氏の勤務先=天理大学にも近いということでそれをお 求めにな り、母屋を建て直してお入りになったのである。 |
昭和54年1月 「南島の人類学的研究の開拓と弥生時代研究の業績 」に
より、昭和53年度朝日賞を受けられています。
(参考) 「1978(昭和53)年」の
「朝日賞」
金関丈夫 南島の人類学的研究の開 拓と弥生時代人研究の功績 朝比奈隆 交響楽運動での貢献 土門拳 「古寺巡礼」をはじめとする写真家としての多年の業績 藤田晢也 中枢神経系細胞発生の研究 金関氏の晩年について、『えとのす 第21号』(98 頁〜)にある福本雅一氏の「晩年の金関先生」を下敷きにし て、記してみます。 先生の晩年は、あれほどの精励の当然の報いとして、安らかな休 息とのどかな日々を享けるべきであった≠ノもかかわらず、金関氏は、糖尿 病にかかって、次第に記憶力の減退をみるようになられ=A言葉を失≠ れるようになっていったといいます。 最後の論文は、松本清張さんに頼まれた「倭人のおこり」である。 清張さんがわざわざ研究室まで訪ねてきたので、先生は断りきれなくな ったのである。 それに対して、私は一つのアイディアを提供し、簡単にまとめるよう勧 めた。 しかし先生は、倭に関する架蔵の書物をすべて読み返し、当時、求めら れる限りの新刊──ずいぶんくだらぬものも多いが──を買い込んで読破し た。 精力の衰えた先生にとって、これは辛い仕事だった。 こうしてわずか二十数枚の原稿を書くのに、ほとんど一年を費やした。 掉尾の努力、それは『ゼミナール・日本古代史』に収められているが、 先生の作としては決してよい出来とは思われない。 しかしその始終を見ていた私は、胸が熱くなった 「朝日賞」受賞の時も、途中でつまづいて、謝辞を原稿通りに読め なかった≠ニいう。 そして、先生は何もいわず、煙草の灰が燃えつきて落ちるように 、 何の未練もなく忽焉として逝った。 先生はただ淡々とボケてゆき、そして恍惚の人となる少し前に、 全 く人に迷惑をかけることなく、この世を去った。 また、次男=金関 恕氏の『考古学は謎解きだ』(257頁)に は、「次」のような「記述」があります。 深夜テレビの映画、イングリット・バーグマン主演の「汚名」を 見ていた親父は番組が終わると「つまらなかったな」と言って立ち上がり「 気分が悪い」と訴えた。 「横になりなさいよ」といった時、よろよろとぼくに倒れかかってきた 。 あわてて抱きとめて寝かせると、瞳孔が開いたようになっている。 救急車を頼み、病院で手当を受けたが、蘇生しなかった。 二月二十七日の夜明けのことだった。(註 5時10分) 病名は心筋梗塞と診断された。 享年八十六。 文字通り死の直前まで映画を楽しんでいた。 「京都帝国大学」を出られてから、京都、台湾、九州、中国、畿内とそ れぞれの地で、その土地を愛し、研究をつづけた金関氏の死であった。 奈良駅の近くの「教会」で告別式が行われた後、「九州大学」に御遺体 がつ き、献体式(おわかれの会)の後、御令息で、当時、九州大学医学部 教授であった金関 毅氏(九州大学退官後は、佐賀県立医科大学の副学長等) と永井昌文教授(金関氏が「九州大学」に着任した時、「助手」となり、以 後、金関氏と「解剖学」及び「人類学研究」を共に歩まれた方)の手によっ て、「解剖」にふされたという。 この「献体解剖」は、医学部で教鞭を執られた方々には珍しくない こ とであるが、金関氏の場合は、「父=喜三郎」 氏はご自身の手で、金関氏 は、「遺言」によって、「形質人類学の研究資料」のために、「骸骨 」と して、九州大学の研究室に立ち続けておられることを付け加えておきたい。 なお、いらぬことながら、「遺体の解剖」には携わられた毅氏は、その 後、「骨」にされる際は、永井氏お一人に託されたと、永井氏は、私に語っ てくださいました。 (『考古学は謎解きだ』によると、恕氏が、遺骸の「病理解剖」を亡く なられた「病院」にお願いされ、毅氏と悳氏が立ち会われた(258・25 9頁)ように書かれています。 「医学部教授」への「献体解剖」との関係が私にはわかりませんので、 「病理解剖」とは別に、改めて「医学」のための「解剖」が「九州大学」で なされたのかどうかを、残念ながら、永井氏は亡くなられていますので、お 聞きすることもできません。 永井氏の「マンション」をお訪ねした時、奥様と御一緒で、思いもかけ なかった、長時間の対応してくださり、いろいろなことを話してくださった のですが、「メモ」を取っていなかったため、私の「聞き違え」の可能性も ありますが、ただ、「骨」にされる時、永井氏が「毅氏から託された」とお っしゃったことは、間違いありません。 奥様も、金関氏の「研究室」におられたということで、金関氏が九州大 学にお出でになった当時のこと、金関氏の深い「教養」等、興味深い話をお 聞きしたものです。) |
「土井ヶ浜遺跡」は、金関丈夫氏を中心に、金関氏
の教室の永井昌文氏を始め、坪井清足氏・小川五郎
氏・国分直一氏・金関 恕氏・水野正好氏、更には
、杉原荘介氏といった、「考古学界」をリードされ
る、多くの方々によって、発掘調査がなされ、大きな成果をあげて、
昭和31年9月27日の「山口県指定文化財保存顕彰規程」のもと での「県指定」を経て、 昭和37年6月21日に「国指定史跡」 となります。 「考古館」が建てられ、史跡の傍らにあった養老院「松濤苑 」の職員が鍵をあずかっていて、申し出によって、見せてもらうという 「システム」で、「土井ヶ浜」という美しい=u海水浴場」 近くで、多くの海水浴客はあるのですが、残念ながら、いつのころか、 「考古館」には、来訪者はほとんど≠ネくなっていきました。 私は、母の実家があることとて、何度も行っていますが、残 念ながら=A一度も、私たち以外の「見学者」に会ったことはありませんで した。 時が経過して、「京都大学の大学院生」であった坪井 氏は、「考古学」の指導者として、活躍されるようになっておられまし た。 その坪井氏が、ある年の夏=A「土井ヶ浜遺跡」を訪れられた時のこ とです。 「山口県」の関係者の案内で「土井ヶ浜」に立寄ったところ、小 さな「資料館」はほこりにまみれ、海水浴客の車が遺跡の中に、無造作に数 多く乗り入れていたのです。
坪井氏がこうした文を書かれる以前に、私はこのことを既に活字にして います。 (『山口県地方史研究第七5号』の中の「人類学者三宅宗悦博士 ―山高郷土史研究会=E土井ヶ浜遺跡℃鮪nめ―」) そして、「土井ヶ浜」について、既に何度か話をしたことのある「 県教委」の乗安和二三氏が防府市文化福祉センターで講演された後 に乗安氏に出会い、その乗安氏に「昭和6年の出土」の「写真」が載ってい る「新聞」があるということを話すとともに、 私が当時≠フ「県教委」におられた方に教えてもらった坪井氏の迫 力ある注意≠ェ、再び、「土井ヶ浜」の発掘がされるきっかけ≠ノなった ようだということを話していると、この坪井氏の「土井ヶ浜遺跡」訪問のす ぐ後に、坪井氏とあったという「防府市教委」の吉瀬勝康氏がたま たまおられ、 その「背景」を、解説してもらいました。 「次」は、改めて「メール」で確認したことに対しての「回答」からの 引用です。
さて、この坪井氏の迫力ある注意がきっかけとなり、とり あえず、どこからどこまでが「遺跡」かの「範囲確認」の調査を始 めたところ、その調査で新たな出土が次々とあり、「調査」が続いていくこ とになったのです。 そして、それが、「土井ヶ浜人類学ミュージアム」の建設へと続い たのです。 従って、「土井ヶ浜遺跡」が新たな歩み≠大きく踏み出すこと になったのも、金関丈夫氏と坪井氏の邂逅≠ニ無縁ではないので す。 |