平成24年3月25日 開始=@ 
令和3年8月8日   更新=@



[おことわり]

年を取っていますので、「契約」が切れても、「ホームページ」なるものが存在する限り、引き続き、見ていただくことができるように、
無料で使用させていただける「Yahoo!ジオシティーズ」を平成25年1月23日から使用させていただき、・・・・。  
と記して、「Yahoo!ジオシティーズ」を利用させていただいてきましたが、平成31(2019)年3月31日で、終了するそうです。
そこで、いくつかの「ページ」は、「ケーブル」にし、≠ノ変更しますが、 この「ページ」のように、「ケーブル」の「ページ」に「リンク」させている ≠ナ示している「Yahoo!ジオシティーズ」は、 「ご指定のURLは、このサーバでは見つかりませんでした。」という「メッセージ」が出るようになります。
私の「手元分」との「関係」で、このママにします。
それに、年を取っていますので、「ケーブル」による「ホームページ」も、止める時は、そう遠くはないと思いますので・・・。
お許しいただけたらと思います。
なお、Yahoo!ブログも、2019年12月15日で、終了するそうです。
≠焉Aまもなく、「リンク」できなくなります。






● 『土井ヶ浜遺跡』─ 発見・発 掘史≠ノ見られる「邂逅」の不思議=@─ (出版稿)



この「土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史」 は、
平成26年11月19日に、「出版」しました。
この「ホームページ」よりも詳しい<^メ、できましたら、「本」で御覧いただきますよう、御願いします。

この「ページ」を通して、「一年余」、「注文」を受けつけていましたが、注文は、「1冊」のみでした。
残念ながら、「問題」のある『書籍』は所蔵しているのに、「寄贈申込み」をしても、「一地方に関する『書籍』だ」として引き受けてくれない「公立図書館」が多いことを前著=『萩焼・戸田焼』で体験しています。
「国立国会図書館」が「市販」されている『書籍』の「所蔵」を「原則」としていることとて、「定価」を付け、「ホームページ」で「注文」を受けていたのですが、「定価」は、「実費」の半額以下です。
ただ、多くの「印刷業者」が、最低発行部数を「50部」としていますが、私がお願いした「開成社」は、「何冊でもよい」ということでしたので経済的には助かりますが、それでも、「実費負担」はかなりの「額」になりますので、売れればそれだけ、負担が増すこととて、「平成26年11月10日」で打ち切り、 「25部」という限定出版(うち、「10部」は身内用)をし、 公≠フ「施設」に寄贈することで、できるダケ多くの方に見ていただくことにしました。
次に示す「施設」に「所蔵」していただいています。
ただ、ご覧のように、限られた「地域」の「図書館」ですが、「地元の図書館」を通じて、「所蔵図書館」に「借り出し」の手続きをすれば、利用できます(私は、何度も利用しています)ので、この「ページ」をこのママ≠ノしておきます。



「国立国会図書館」 ( 「東京本館」 & 「関西 館=京都府相楽郡精華町精華台8-1-3 )

「山口県立図書館」 (二冊所蔵してもらっています。)
「山口県防府市立図書館」
「山口県長門市立図書館」
「山口県宇部市立図書館」

「札幌市立中央図書館」
 ↑「山口県」からは、離れていますが『萩焼・戸田焼』の「寄贈」を受けてくださった「図書館」です。

「福岡県立図書館」
「福岡市総合図書館」

「広島県立図書館」

での「利用」ができます


(参考) 「広島県立図書館」 ・「福岡市総合図書館」以外は 、付 「百万一心」・野村望東尼 が記されていませんが、 同じ「本」 です。
「百万一心 」野村望東尼は、父=河野英男 が個人的≠ノ関わりがあることによる ですが、「この本」にしか書かれていないこともあり、それなりに =Aお役に立つと思っています。

なお、「研究者」の方の場合は、
「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」でも、利用ができるか と思いますので、尋ねてみてください。(二冊所蔵してもらっています。)
さらに、浜田 敦氏、 三宅宗純氏・・・にいた だいた「資料」関係されている方々の「書簡」等、『出版 』においては、一部≠オか「紹介」できていないものもあるタメ、所蔵していただいています。( ただ、膨大≠ナあるタメ、「一部」ではありますが、それでも、 「考古学史」の「参考」になると思います。)
「研究者」の方で、 関心を持たれる方は、「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」 の方に、尋ねてみてください。
       ただ、「研究機関」ですので、こうした「資料」的なものについては、一般の方の利 用はできないハズです。




「京都大学図書館」・「九州大学図書館」・「山口大学図書館」、さらには、「東京国立博物館」にも、所蔵していただいています。

私の『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』は、わずかな部数の発行ですが、ありがたいことに、 「京都大学図書館」・「九州大学図書館」・「山口大学図書館」、さらには、「東京国立博物館」にも、所蔵していただくことで、 信じてもらえないような、超一流≠フ先生方の協力をいただいたことが、「今後の研究資料」として、皆さんに、活かされる可能性ができたことで、喜んでいます。

「山口大学図書館」
「土井ヶ浜遺跡」には、「山口大学」の「前身の一つ」である旧姓「山口高等学校」生徒であった 小川五郎氏、三宅宗悦氏らが深く関わっておられますし、
金関丈夫氏は、「医学部」の前身「山口県立医科大学」教授でもありました。
さらには、「山口大学教授」であった三坂圭治氏、田中 晃氏、粟屋和彦 といった方々にも、協力していただいていることを記していますので、「山口大学」学生さんに、見ていただければと思い、「寄贈」を申し入れてみたところ、 受け入れていただきました。

「京都大学図書館」にも、所蔵していただいています。

[「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘]には、
金関丈夫氏、三宅宗悦氏は言うまでもなく、
木下尚子氏が、『南島貝文化の研究─貝の道の考古学』 〈法政大学出版局刊 1996年3月29日発行〉(第6回「雄山閣考古学賞」受賞)の中で、
     さながら土井ヶ浜遺跡からみた人類学小史である
と書いてくださっているように、 間接的な♀ヨわりを含めると、
「日本近代考古学の父」と呼ばれる「京都大学」濱田耕作氏が、根幹において、深く関わっておられます し、多くの「京都大学」関係の方々が係わっておられます。
なかでも、「金関発掘調査」当時の「文化財保護委員会」におられた齋藤 忠氏は、
「京都大学考古学講座」の「設立」まもない頃に、「副手」→「助手」として、濱田耕作氏のもとにおられたことがあり、 カフェ・アーケオロジーと呼ばれる「濱田研究室」における「文化的サロン」のことも教えていただいています。
さらには、濱田耕作氏のご子息で、「京都大学」の「国語学」の「教授」→「名誉教授」であった浜田 敦氏にも、
協力していただき、多くの=u資料」も、いただいています。
ただ、残念ながら、この『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史』出版以前の、
「1996(平成8)年9月21日」に、氏が、
「2013(平成25)年7月21日」に、齋藤氏が、
お亡くなりになりました。

私の「調査・研究」には、「京都大学」には、「事務」への「お尋ね」が、「教授」の方からの「手紙」での「回答」をいただけるといった、協力もしていただいています。

そこで、できることなら、「京都大学図書館」に、置いていただき、「京都大学」の方々の目に触れ、当初≠フ「日本考古学」の状況を知る「参考」にしていただけたらと、お願いしたら、受け入れていただけることになりました。

「九州大学図書館」にも、所蔵していただいています。

[「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘]は、言うまでなく、「九州大学教授」であった金関丈夫氏を中心になされたものですが、 一般的に、言われていた、 「土井ヶ浜」で「人骨」が見つかり、「九州大学」に連絡されると、すぐにも「発掘調査」がなされ、「弥生人骨」であることが「確認」され、「大きな 研究業績」となった。 と言ったことではなく、
衛藤和行氏、椿 惣一氏・・・
といった方々による「邂逅≠フ連続」に、
「九州大学の研究者」の方々
   「考古学」の鏡山 猛氏、渡辺正気氏・・・
   「人類学」の永井昌文氏、原田忠昭氏、 中橋孝博氏、・・・ の「協力」による
地道な「調査・研究」による「確認」を経た上で、
大きな「業績」が上げられた
ということを、知っていただければ、ありがたいことです。

このように、僅かな発行部数ですが、「土井ヶ浜遺跡」に深く関わられた「京都大学図書館」・「九州大学図書館」・「山口大学図書館」に、所蔵していただいたことで、「研究資料」の一つとしていただける可能性が増しました。
それは、「大学図書館」に所蔵していただけたことで、「全国大学図書館の蔵書検索(CiNii)」という「蔵書検索」があることとて、「学者の方」にも、確認していていただける可能性ができたからです。
さらには、次に記すように、「簡易印刷」分『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史』(「付 「百万一心」・野村望東尼」は、「印刷」していません)を、「中立的に広く収集し、閲覧に供することを基本」とされているという「東京国立博物館」にも、「二次的資料」として、所蔵していただくことができました。


「東京国立博物館」に、「簡易印刷」による『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史』を「参考資料」として、所蔵していただけました。

「東京国立博物館」が、「研究者が、多様な資料の中からご自身の研究の中で確認・検証できるよう、中立的に広く収集し、閲覧に供することを基本」としておられるということを知り、「東京国立博物館」の「資料館図書検索」で、「土井ヶ浜遺跡」に関する「資料」が所蔵されていること、及び、それらの「資料」は、私の『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』発行以前の「資料」であるものの、私の手元には、線を引いたり、書き込みをしていて、寄贈できる『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』は、一冊もないことから、 付 「百万一心」・野村望東尼 を除き、
『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史』のみ
を、「一太郎」による「出版原稿」を、手元の「プリンター」で印刷し、「東京国立博物館」に、「所蔵」可能かどうかの「検討」をしていただくべく、送って検討をお願いしたところ、「所蔵」していただけることになりました。

『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』は、東京周辺では、「国立国会図書館」にしかありませんでしたので、「東京国立博物館」に所蔵していただけたことは、「研究者」の方々に、手にとって頂ける可能性が多くなるということで、ありがたいことです。





「土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 」 には、かなり取り入れていますが、この 「ページ」では、割愛していることが多いタメ、時間が許せば、クリックし てみてください。

◆@ [この「ページ」のモトとなっている「ページ」

(1) 「土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史≠覗くと、「考古学史」が垣間見える?
↑「土井ヶ浜遺跡」が「日本人の起源」 にかかわる重要な「遺跡」として、注目されるに至る経過≠ノは、 なぜ≠ニ思われることが少なくないハズです。
既に「江戸時代」には「出土」し、「元寇」の時の「蒙古人」のものと されていた「人骨」が、三宅宗悦氏、金関丈夫氏によって、「日本人の 起源」にかかわる重要な「遺跡」として位置づけ≠轤黷驍ノ至った過程 を述べています。

(2)発見・発掘史≠フなぜ?≠ニ解答
↑ この中に、(1)〜(16)の「疑問点 」を設定し、それそれについて、クリック≠キれば、私の調べによる「答 」が見られるようにしています。
なお、クリック≠キると、「疑問点」も記していますので、クリッ ク≠オた画面の手のマーク≠フ 「次へ」 をクリック≠キる と(16)まで、連続して見られます。
そのタメ、「土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史」  には、多くの「頁数」を当てていますが、 この「ページ」には触れていません。
直接=A「ホームページ」で、御 覧いただきたいと思います。

(3) 邂逅>氓アの不 思議≠ネるもの(戦前編)
(4) 邂逅>氓アの 不思議≠ネるもの(戦後編)
↑ この(3)及び(4)のエッセンス は、この『出版予定稿』の中に取り込んでいますが、
(3)には、三宅宗悦氏を中心に、邂逅 による結びつきが、「土井ヶ浜」出 土の「人骨」が、「古墳時代の日本人の人骨」と認定される経 過を、
(4)には、衛藤和行氏の異型貝製品に対する関心が、 「長府博物館」椿 惣一氏を経由したことで、 金関丈夫氏に繋がり、さらには、その若き=u協力者」が、 今日の日本を代表する「考古学者」に結びついていった過程 を述べています。
(3)にも(4)にも、日本を代表するような方々 の 人間模様 が現れています。


◆A [この「ページ」には割愛した が、一般的≠ノは知られていないことまで述べている「ページ」

三宅宗悦氏について
↑ 三宅宗純氏(「三宅本家」で 宗悦氏の甥にあたる方)、三宅宗和氏(宗悦氏のご子息)、「渡辺 家」の浩策氏及び賀代夫人小川 信氏(五郎氏のご子息)、さ らには、浜田 敦氏(耕作氏のご子息)といった方々の協力をいただ いて作成した「ページ」です。

浜田耕作氏について
↑ 耕作氏のご子息氏 にいただいた『文藝春秋』掲載の「随筆」を中心にして作成 しています。


金関丈夫氏について
↑ 国分直一氏を中心に、金 関 毅氏、金関 恕氏、永井昌文氏、衛藤和行 氏といった方々の協力をいただいて作成した「ページ」です。 


衛藤和行氏について
↑ 『ニギメ』に発表された衛藤 氏の「土井ヶ浜井関」に関するものに、多少≠フ「参考・訂正」 をつけ加えています。


河野英男の文
↑ 父=英男の「土井ヶ浜遺跡とわた し」という「随筆」があります。
そして、各種「土井ヶ浜遺跡」に関する「記述」について、私 の「見解」を記しています。
なお、金関丈夫氏からの「手紙」もあります。




◆B その他

出土人骨数について
↑ 「金関発掘調査」における 「出土人骨数」について、まとめ、『山口県地方史研究』第78号 =1997年10月に発表したたものを「補足」しています。
中橋孝博氏の協力を いただいています。

「土井ヶ浜遺跡」の 「山口県指定」から「国指定 史跡 名勝天然記念物」へのこと
↑ 「土井ヶ浜遺跡」「山 口県指定」→「国指定」に至る過程を述べています。


「土井ヶ浜遺跡・人 類学ミュージアム」について
↑ 私なりにまとめています。


(ブログ) 「土 井ヶ浜」の「航空写真」
↑ 「ブログ」ですが、特別に、「土 井ヶ浜」の航空写真のみ「紹介」しておきます。
大きく出てくるため、是非、御覧いただきたいと思います。 
出て来た「ページ」の「写真」の右下の+ をクリック≠キれば、鮮明≠ゥつ、大きな=u写真」となります。






この「土井ヶ浜遺跡」「発見・発掘史」 については、現在は、「私」の「調査」を受け入れていただいてい ますが、
当初は、間違った≠アとが流布していました 。

しかし、「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史は、『山 口県地方史研究 第67・75・78号』に、私の「投稿」として発表 、
その結果、
『山口県史』『豊北町史』において、乗安和二三氏の執筆の中で、
さらには、『南島貝文化の研究−貝の道の考古 学』という「第6回雄山閣考古学賞」受 賞の木下尚子氏の大著 ≠フ中にまでも紹介していただいています。
また、松下孝幸氏に も、今後の「出版」においては、『日本人と 弥生人 その謎の関係を形質人類学が明かす』の 記述を「訂正」するということを言っていただいています。

しかし、「人類学者 三宅宗悦博士―″山 高郷土史研究会″・″土井ヶ浜遺跡″事始め― 」に書き添えた邂逅≠フ不思議 については、
「山口県地方史学会」を退会したため、 「ホームページ」を利用して、「紹介」するとい うことにして今日まで来ていますが、
「ホームページ」は、「資・史料」として扱われない傾向にあるということで、
野村望東尼の「終焉の場」事実≠ニしての「萩焼」の歩みを、「自費出版」せざるを得ないタメ、
併せて=A「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ノ見られる「邂 逅」の不思議も、「活字」にしようと思います。
ただ、膨大な=Eかつ重複♂モ所の多い、 「ホームページ」編集するにしても、 一度$リり「出版」のこととて、ギリギリ≠ワで 「推敲」しようと思います。

そこで、いずれは「活字」として残しますよという「予告」 をし、実質「初版本」ともいうべきものを、
ここに、こうした形公開しようと思います。

「出版」という「手段」よりも、はるかに¢スくの方 々の目に触れるハズですので、そういった「効果」も期待しています。





はじめに


小噺に、
ニュートンは、リンゴが落ちるのを見て、「万有引力の法則」 を見つけたが、その時、青森県の人達は何をしていたのでしょう。
というのがあります。
思いますに、この小噺は、偶然ということの重要さと、その偶然を生かすには、それなりの必然が必要ということだと思いますが、「偶然」の積み重ねばかり のように紹介されきた「土井ケ浜遺跡」を巡る「発見・発掘史」を調べてみ ると、実は、この「必然と偶然が織りなした」好例 だということがわかったのです。

みなさんは、不思議・奇妙≠セと思われませんでしたか ?
・「昭和6年」の「土井ヶ浜出土」の「人骨」を、「考古学者」である 小川五郎氏が、「古墳時代」と推測≠ウれているのに、なぜ=A「病理 学教室」の三宅宗悦氏に「連絡」され、三宅氏が、「鑑定→発表」されてい るのか?
さらには、
・「京都帝国大学」の先生によって、「古墳人骨」と「鑑定」されてい るのに、なぜ、衛藤和行氏は、「昭和28年」に「出土」したという「人骨 」を、改めて=u九州大学」の「解剖学教室」に「連絡」されたのか? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その他、私が調べる前には、私に取っては、不思議・奇妙≠ニ思われ ることが少なからずありました。 



邂逅=思いがけない出合いという偶然≠「人生 の重大事である」亀井勝一郎氏は書いておられますが、まさ に、「土井ヶ浜遺跡」が人類学史上%チ筆される「遺跡」として注目され るに至るには、邂逅≠ニいう偶然をもとに、それを必然と した人と人とのつながり・人間関係≠ェあったということをここ では述べたいと思います。
ミスタージャイアンツ≠ニ呼ばれた長嶋茂雄氏に人気がある理由とし て、名前は忘れましたがある「漫画家」がテレビで、「私達漫画家でも書く ことをためらうような劇的≠ネことを長嶋はするんですね。」と言ってい たことを思い起こします。
まさに、事実≠ヘ「小説」よりも奇なりということでしょうか。

◆「漫画家」でさえ嘘っぽくて¥曹ュことをためらうと いうような長嶋の劇的なホームランのこと
そのホームラン≠ヘ、一九五九年六月二五日に後楽園球場で行 われ た、プロ野球・セントラル・リーグ公式戦、読売ジャイアンツ (巨人)対 大阪タイガース(阪神)の「天覧試合」で生まれました。
私も、テレビでその中継は見ていましたが、その「試合」の模  様を [フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』]から引用  させて いただきます。
試合は巨人が藤田元司、阪神が小山正明の両エースの先発で始 まっ た。両チームとも点の取り合いとなり、3回表・ 阪神が小山自 らのタイム リーヒットで先制点を挙げる。その後5回裏・巨人が長 嶋茂雄と坂崎一彦 の連続ホームランで逆転すると、6回表・三宅秀 史のタイムリーヒットと 藤本勝巳の逆転ホームランで3-4とする。
7回裏・巨人は王貞治のホームラン(王と長嶋が同じ試合でホー ムラ ンを放つことを表す「ONアベック弾」の第一号)ですかさず 同点に追いつ き、阪神は新人・村山実をマウンドに送る。同点のま ま9回に入った時に は9時を過ぎていたが、天皇・皇后が野球観戦 できるのは午後9時15分まで であったため、延長戦に突入した場 合は天皇は試合結果を見届けられず、 途中退席になる可能性があっ た。
しかし、午後9時12分、9回裏、先頭バッターの長嶋がレフトポ ールぎ りぎりに入るサヨナラホームランで接戦に終止符を打った。  天皇・皇后 は試合結果を見届けた上で、球場を後にした。・・  



どうでもいいようなことながら、まず、私が、「土井ケ浜遺跡」を 巡る「発見・発掘史」を調べ始めたのが、偶然でした。
私の父「英男」は、昭和五年三月、「山口師範学校」を卒業してまもな く、この「土井ケ浜遺跡」と巡りあい、そのことが契機となって、その後の 人生がいささか非凡≠ネものとなっていました。
父は、昭和六二年六月二三日に亡くなったのですが、それからまもなく 、学校に勤めていた私が、「模擬試験」の監督のため、日曜に出勤する途中 、耳にした「ラジオ放送」によって、昭和初年抜き≠フ「土井ケ浜史 」があることを知ったのです。
私は、「ラジオ」を聞くのは車の中だけですので、まさに偶然≠ニい えます。
この「ラジオ(KRY)」で昭和初期抜き≠フ話をされた国分直一 氏は、世界的な「文化人類学者」であり、金関氏とは懇意な方で、東京教育 大学(現 筑波大学)を定年で退官され、山口に帰っておられたのです。
そういう国分氏が、「ラジオ」で話されたことで、驚いた私は、電話を しました。
国分氏は、こちらが恐縮するほどの対応をしてくださり、「存じません でした。何かに発表してくださるとありがたいですね。」とまでおっしゃっ てくださったのです。
(後日、「金関先生は、『山口県土井浜遺跡』に、お父 さんのことをちゃんと書いておられたのですね。見落としていました」と、 電話をくださいました。
そして、後日、お宅を訪問させていただき、多くの「資料」の中から、 幾つかの「土井ヶ浜遺跡」関係のものを見せていただきました。)

「土井ケ浜遺跡」に、今日の学術的価値を見出だされたのは、いうまで もなく、金関丈夫氏です。
そして、その「発表」は、『日本農耕文化の生成』における 金関 丈 夫・坪井 清足・ 金関 恕 共著の『山口県土井浜遺跡』に、「概報」と いう形でされています。
しかし、この「概報」の記述にスラ、少しばかり=E誤り≠轤オき ことがあるとわかったのです。
「ドーム」の建設がきっかけだったのでしょう、「中国新聞」を代表と して、各紙が「土井ケ浜」を特集していましたので、私は、複数≠フ「新 聞社」に、「もし、発見当時のことにふれられるなら、取材してほしい」と 依頼しましたが、取材はなく、新たな誤りを付け加えただけでした。
私は、やむなく、私の手で、「土井ケ浜遺跡」を巡る「発見・発掘史」 を調べ、「豊北町」の「教育委員会」(現在は、「下関市」と合併し ています)に、「情報」を知らせていたのですが、私が「防府」からわ ざわざ=u豊北町教委」に何度となく、出かけることを気の毒≠ノ思った のでしょう、「私たちに言われてもしかたがない。執筆されるのは、権威 ≠る方に依頼するのだから、何かに発表して、それが権威≠る方に認 められることが必要だ」と言われたのです。
私は、正確な=u発見・発掘史」を記したものがなく、それでいて、 「何通りもの土井ケ浜前史=vが存在するという現実に突き当たっていた ため、『山口県地方史研究』に「入会」し、「投稿」したのです。
ありがたいことに、「活字」にしていてただきましたので、「抜き 刷り」を主に、百人以上の方々に、郵送し、その結果、私の「発表」は 、ありがたいことに、受け入れていただいくことができるようになりました 。


◆ 『山口県土井浜遺跡』
(金関 丈夫・坪井 清足・ 金関 恕 共著)

土井浜遺跡は、昭和六年三月、当時土地で訓導をしておられた河野 英男氏の発見に係わるものである。
同氏は、六体の人骨を容れた箱式石棺が、たまたま出土したことを小川 五郎氏に通報し、また、採集した二例の頭骨 を故三宅宗悦博士のもとに届けられた。
同博士は、昭和六年、現地を調査された。
これとは別に、昭和七年三月には、駒井和愛博士が同地で、弥生式土器 片を採集して、三宅博士に送られた。
三宅博士は、先に届けられた頭骨を計測した結果、計測値の上から、こ れらが、古墳時代に属するものであると断定し、報告しておられる。
遺跡は、その後長い間世に忘れられていたが、戦後、神玉中学校教諭の 衛藤寿一氏(参 寿一≠ヘ、「画家」としての「雅号」。本名=和行)が、 再び当地で出土した人骨を採集して、昭和二 十八年九州大学医学部解剖学教室に通報された。
これが五次にわたる調査の端緒となったものである。


傍線を附した箇所を「修正」しています。
その「調査」のプロセスにおいて、「日本」を代表するような先生方の 協力をいただいてわかった=u土井ヶ浜遺跡」が今日≠フ「考古学界」 ・「人類学界」において、重要な=u遺跡」とされるに至るには、「邂逅 を織り込む」という偶然≠ェきっかけ≠ナも、必然%Iな「関係」が あったからだということについては、 『山口県地方史研究 第75号』  に「人類学者 三宅宗悦博士―″山高郷土史研究会″・″土井ヶ浜遺跡″事 始め― 」として、一部≠ヘ「発表」済みですが、
「野村望東尼の終焉の場」について、「萩焼」について 、事実≠無視したことが流布しているタメ、
「野村望東尼」は、「山口県指定」の「史跡」となって いる「終焉の宅」の「管理者」として「立場」から、
「萩焼」は、父=英男「担当者」であったに も係わらず、後継者の「立場」にあった人物によって、事 実≠踏まえぬことが流布しているのみならず、「萩焼」 にとって、忘れてはならない12代 坂倉新兵衛氏を傷つけてい る≠アとから、
『自費出版』に踏み切らざるをえず、その中に、含めることに しました。
私の「調査」時点では、金関丈夫氏、椿 惣一氏以外は、健在でおられ ましたので、協力をいただき、わずかばかり≠ナすが、「修正」すること ができました。
まず、なによりもさいわい≠セったのは、「金関発掘調査」のきっ かけ≠作られた衛藤和行氏には、お宅を、父に連れられて訪れたことがあ り、それ以後も、父の依頼で衛藤氏に何度も会ったことがあって、何度も何 度もの電話や対面を許してくださったことがあります。
(私の住む防府から、特牛港近くの衛藤氏のご自宅に行くには、かなり な時間がかかります。あまりに度重なったからでしょう、衛藤氏は、私に配 慮してくださり、「あんたが定年になってからきんさい。わたしは死にゃあ せんから。」
とおっしゃったのですが、不幸なことに、私の定年前に、「下関駅」で の通り魔事件≠ナ、亡くなったしまわれました。)
更に、「金関発掘調査」の当時は、英男は「山口県教育庁社会教育課」 において、「文化係長→課長補佐」として、その「調査」に係わりを持って いて、関係された先生方と面識があったということです。
例えば、「発掘調査」当時は「文化財保護委員会」におられ、「土井ヶ 浜遺跡」の「国指定」のお世話になった斎藤忠氏は、その後、東大教授等を 歴任され、その後もお忙しい方だったのです。
百歳≠迎えられるのを契機に、平成20年3月、「静 岡県埋蔵文化財調査研究所」の所長職を辞されるまで、多くの役職をなさり 、「今後は、考古学の集大成となる本の執筆活動に専念」されるとのことで したが、その言葉の通り、平成20年12月26日の「読売新聞」には、 斎藤忠さん、100歳記念の著作選集≠ニいう「記事」がでていました。
なお、その「記事」の中に、今も朝4時半に起きて、5時から机に向 かう毎日。最近は、長年収集してきた、江戸時代から昭和にかけての学者の 著作や書簡などを1冊にまとめる作業に集中している。「私しか持っていな いような、びっくりするような資料がたくさんありますから」。来年秋には 『史学と考古学の人々とその文献をたどる』(仮称)として上梓する予定だ 。 ≠ニあります。
今後、ますます、貴重な刊行がなされるものと思います。

「写真」は、私がお訪ねした平成3年に、いただいたものを「スキ ャナ」で取り込みました。

しかし、3ヶ月後≠ネら、私のために、時間をとってく ださるとい うことで、東京のご自宅を訪問、「カセットテープ」をまわすことも許して くださり、そのお話の中で、浜田耕作氏は無論のこと、三宅宗悦氏、金関丈 夫氏と、京都帝大で一時期、一緒に勤めておられた方々の話を伺うことがで きたのです。
また、「豊北町(現 下関市)」は、父の勤務していた土地であるほか、 母の生まれた地であり、山口女子師範卒業後、北浦の地で勤務もしていたこ ととて、多くの知人がおられ、ユリコの子=A英男の子≠ニいうことで 、協力が得られたのです。
私がこの邂逅≠フ不思議さに思いをいたした最初≠ヘ 、

父=英男 が「考 古学者」の 小川五郎氏 に報告したのは自然だと思う のに、なぜ、その小川氏が、「病理学教室」の三宅 宗悦氏にさらに紹介し、その三宅氏が『防長史学』とい う地方誌≠ノは発表したのか。

という「疑問」を、小川五郎氏のご子息で、衆議院議員であっ た小川信氏の奥さんに、その「疑問」を投げかけ、その奥さんから、
「三宅宗悦先生は、旧制山口高校で義父と一緒に学んだ親友だったから ですが、三宅先生について、確か、先年、ツノダ≠ニいう方が発表された ものがあると思います。」
「宇部の渡辺さんにお尋ねになったら、いかがですか。」
と教えていただいたことで、宇部の渡辺♂ニ、つまり、現在の「宇部 興産」を興した渡辺祐策氏の孫にあたる、当時、「宇部興産病院」の院長で あった浩策氏のお宅に電話し、その奥さんから、親切に教えていただき、 ツノダ≠ニ言われる方=角田文衛氏の、「人類学者 三宅宗悦博士」という 論文の抜き刷り≠いただいたことからです。
つまり、三宅宗悦氏の姉にあたる方=柔子(なりこ)氏が、祐策氏の次男 =渡辺剛二氏に嫁いでおられたのが、宗悦氏が旧制「山高」に学ぶことにな られた「理由」の一つで、そこから「土井ヶ浜遺跡」の前史≠ェ始まって いたことを知ったのです。
剛二氏は、後に述べますが、「宇部興産」の会長を務められたり、山口 県医師会長、山口県議会の議長をなさったりした、祐策氏に匹敵するように 方でした。
その奥さんであった柔子氏のもとで、母を早く亡くし、父=宗悦氏の戦 死で、宗悦氏のご子息が、育たれたということも知り、そして、金関氏が宇 部市にある「山口大学医学部」の前身「山口県立医科大学」に一時期勤務さ れ、ご子息とも会われていたことも知ったのです。
角田文衛氏には、電話でお話を伺い、いろいろと教えてい ただくと共 に、「もし、ミスがあれば遠慮せずに訂正してほしい」とまで言っていただ いたのです。
地元=山口県≠ノ住んでいることがさいわい≠オ、角田氏の「論文 」の中に、ほんの部分的な間違い≠少しばかり見つけたのですが、それ よりも、この「論文」がもと≠ニなり、お話を伺った方々の温かい対応で 、ここに記すようなことがわかったのです。
ここでは、ごく概略的≠ノ、邂逅の不思議≠述べておきましょう 。
それも、偶然≠ニいう「縦糸」に、必然≠ニいう「横糸」が絡まっ た、まさに、不思議≠ニしかいいようのないありよう≠述べたいと思 います。
「考古学」が今日の開発?考古学 ≠ニ違い、まだ「考古学」が、 偶然≠ノ左右され、一般人≠フ関与が意味を持っていた頃の一つの例とし て、発見・発掘≠フありよう≠語ることもそれなりに∴モ味を持つ と思います。

 ◆[開発=H考古学]
「土地に埋蔵されている文化財=埋蔵文化財」及びその包蔵地の発掘に ついては、届出・通知が義務づけられています。
多くの場合は、既にわかっている場所の、大規模な再開発に伴い、深く 掘り返すためのものですが、一般的な開発工事によっても、重 要な遺跡が 偶然に発見されることも少なくないようです。
工業用団地、住宅団地、高速道路建設、農場整備等の広域開発に伴う 発掘規模の拡大によって重要な考古学的発見が相次(『わかりやすい 文 化財保護制度の解説』〈中村賢二郎著〉)ぐといった 状況で、土地の所有 者又は占有者が貝づか、住居跡、古墳その他遺跡跡と認められるものを発見 したら、現状を変更することなく=A届け出、調査が済むまで、開発は延 期されるのです。
こうした開発に伴う発掘調査を要する数は膨大なもので、「考古学では 飯が食えぬ」といわれた時代は過去のものとなり、いまや「考古学」の卒業 生は引っ張りだこだといわれているのです。





[2−1]「土 井ヶ浜遺跡」の「発見・発掘史」の「昭和初期」のこと



● 昭和初期の「土井ヶ浜」遺跡  ─エッセンス ─ 
─ 「土井ヶ浜」からの人骨出土から三 宅宗悦氏の鑑定までのこと ─


昭和6年春、神 玉村(現 下関市)の村人が人骨≠発見、またまた「元寇」で戦死し た蒙古人の骨だと騒いだのを、神玉小学校に勤務し始めたばかりの河野 英男が、立派な「石棺」か出土したことから、「日本人の人骨」と判断 、
京都帝国大学考古学教室の第一回生であり、旧制山口高等学校講師で あった小川五郎に連絡すると、小川は、出土状態からして「古墳人 骨」であろうと推測すると共に、
京都帝国大学病理学教室の清野謙次のもとで、助手として「人 類学」の研究をしていた三宅宗悦に鑑定を依頼、三宅は、土井ヶ浜 に調査に訪れ、河野から人骨2体を譲り受け、当時、「弥生人骨」の発見が 皆無に近かったため、清野の蒐集人骨との比較から、 その「人骨」を「古墳人骨」と断定し、三宅も発起人に名を連ねる『防長史 学』という歴史雑誌に「報告文」を掲載した。その結論部分を引用すると、 土井ケ濱古墳人骨が伝説の所謂「元」の骨でなくもつと古い時代のもので あり、本邦一般の古墳時代人骨の内に含まれるものである事を断言し得るの である。≠ナある。
なお、やはり小川から情報を得て、土井ヶ浜を訪れ、人骨の出土地点付 近で採集した「弥生式土器片」を「資料」として三宅に送った東京帝大副手 の駒井和愛に触れ、東京帝國大学文学部考古学教室の駒井和愛学 士同所にて刷目ある弥生式土器片数個獲て届けられたので、同石棺の年代を やや明かにし得た≠ニいう一文もつけ加えて、発表しているが、これは、駒 井への配慮であるだけでなく、戦後、金関丈夫が、財政事情≠フ 厳しい中で、「発掘」に踏み切る一つの要素ともなっていることを忘れては ならない。





●  「土井ヶ浜遺跡」の「発見・発掘史」のエッセンス≠ノ「邂逅」を織り込 むと
─ 「昭和初期」=「土井ヶ浜」からの 人骨出土から三宅宗悦氏の鑑定までのこと ─

背景(その1)=村の人・河野英男 //(戻る)

村の人人骨≠フ発見は、「水車小屋」建設のための、石 を捜していたことに伴うものでした。
その「人骨」発見≠ェ警察沙汰≠ノならなかったのは、既に「江戸 時代」から、しばしば「人骨」は出土しており、「事件」とはされず、「元 寇」の時の戦死した蒙古人の人骨だと思われていたからです。

都濃郡戸田村(現 周南市)在住の河野がそこに 係わるのは、「山口師範学校」を卒業、「理科教育」を主体としていたため 、招かれて、神玉小学校に赴任したからです。当時は、新卒≠ニはいえ、 「資格」を持つ教員が少なかったこととて、師範出身者は、重用されたとい います。
当時、「短期現役(短現)」という制度があり、半年、勤めた後、神玉小 学校に実際に勤務を初め、その半年後に、「人骨出土」という知らせを受け たわけです。
当時の「小学校」は、地域においての情報センター≠フ役割を果たし ていました。
河野は、大がかりな石棺が、敵であるのみならず、日本に侵略してきた 蒙古人の戦死者なのに、手厚く葬るといった博愛的≠ネ扱いを「鎌倉時代 」の人達がするとは考えにくく、「日本人が葬られた墓」からの出土と考え たのです。
しかし、村の人達の理解は得られず、困った状況に陥っていた河野は、 たまたま北浦に調査に来られた旧制山口高校講師で歴史学の 小川五郎 氏を宿に訪ね、人骨のことを話したのです。


背景(その2)=小川五郎氏について
〈「工事」にお ける土器の出土/「美濃ヶ浜遺跡」の発見と島田氏による絶賛〉
//(戻る)

小川氏が歴史の先生になられた 背景≠ノは、実に多くの偶然=E邂逅≠ェ存在しています。
何から 語り始めたらよいのかと、迷うのですが、小川氏が旧制山口高校に在籍した 当時、防火用水槽建設工事に伴って、土器類が多量に出土したという偶然 ≠出発点として語り始めましょう。
大正十二年秋のことでした。
当時土器等に少し興味を持つて居た森本(註 勇)君と私(註  三宅氏)とは毎日掘り上げられる土地の中から、少しづゝ土器の破片を 蒐集した。
それが導火線となつて先輩の宮本君(註 忠孝)、小早川君(註 、欣 吾)、星野君(註 、隆一)達によつて次第に蒐集され、小川氏 は、三宅氏に誘われて、その仲間に入ったのです。
そして、採集品は一応まとめて学校の図書館に保管して貰ったがこう して同好者が次々に出来た結果、匹田教授を指導教官にお願いして大正十三 年五月山高郷土史研究会が結成≠ウれたのです。
ただ、匹田氏は、「考古学」に知識が深いというわけではなく、学生の 主体性が活動の要因であったといいます。(そのため、小川氏、三宅氏らが 卒業すると、「会」の活動は衰退しますが、小川氏が教員として母校=山口 高校に着任すると、再び活発となり、「考古学」への進路を取り、数人は、 全国的な考古学者となっています。)
そのため、会の方針とし て、「山口県の古代史を主として考古学的に研究する班」、「大内氏の文化 を研究する中世班」、「維新史を中心に研究する班」の三つのグループを設 定したが、ほとんどが考古学研究に集中したと書き残されています。
「文学」に深い関心を持ち、「国文学」への進路を考えていた小川氏は 、「郷土史研究会」に籍を置いただけでなく、「文学」にも関心が深く、あ る時、短歌創作のための取材旅行として、美濃ヶ浜を訪 ね、そこで、戦前最大の発見とされる「古墳時代の遺跡」を発見します。
それが、匹田氏や、塩田地主で考古学にも造詣が深く、山口に住んでお り多額の経済的援助を申し出た 弘津史文氏らの働きかけで、京都帝 国大学との「共同調査」へと進展したのです。
浜田耕作氏のもとにいた 島田貞彦氏を「チーフ」にして進んだ 「研究」成果をもとに、島田氏は、「山口高校」における講演において、小 川氏を絶賛したといいます。
そして、この島田氏の、全校生の前での小川氏絶賛が、小川氏に進路を 「考古学」にとらせる要因になったという土井ヶ浜遺跡の「発見・発 掘史」の出発点ともいうべきことが、小川氏の親友の一人 田中晃 氏によって、「記録」として残っています。
小川氏は、おそらく冗談のつもりだったのでしょうが、早くから、自分 の「弔辞」を読むのは田中だと友人連中に語っていたといいます。
それが現実≠ニなり、田中氏が「弔辞」を書くのですが、その「弔辞 」が小川氏の追悼出版物『防長文化史雑考−小川五郎先生遺文選集−』の中 に集録されています。
ただ、その中では、講演したのは、島田氏ではなく、梅原末治 氏とされていたため、私は田中氏を訪ね、当時、梅原氏は「留学」中であり 、さらに、梅原氏より当時は島田氏の方が上席であったはずで、講演すると すれば、常識的には島田氏のハズと、島田氏の写真を持参し、「左」の「は がき」も持参して確認しました。

[写真のはがき] 三 宅宗悦氏のことについては、なにせ幼くして両親に死別されていることとて 、情報≠ヘ、錯覚もありました。「山口県地方史研究大会」で発表した「 資料」をお送りした浜田敦氏に、そのことを指摘していただき、 本家≠ノお尋ねすることになりました。本家≠継いでいらっしゃる 三宅宗純氏は、膨大な「資料」を寄せてくださいました。左上の数字 ≠ヘその宗純氏のつけられた「整理番号」です。
この「はがき」に、嶋田氏が調査に来られることと、梅原 氏が留学されるということが書かれているのがおわかりでしょうか。〉




「写真」は、「 旧制山口高校」時代の「左」=小川氏、「右」=田中氏です。
2人は、旧制「山口中学」(小川氏)、旧制「防府中学」(田中氏)時代に 、「弁論大会」で出合い、旧制「山口高校」では、学年は1年違っていま した≠ェ、深い友情で結ばれたと言います。

病弱≠ナ、徴兵も猶予されるという状態で、学歴も「同志社普通 学校(現・同志社高等学校)」を卒業だけなのに、浜田耕作氏が京都帝国大 学総長となられた後の考古学教室の教授となり、大きな実績を上げられた 梅原氏だけに、
田中氏は、「私の間違いでした。ぜひ、訂正し てほしい」と私に「訂正」を託されたのです。
そして、その時、学生時代の小川氏や、三宅氏のことをいろいろと伺う ことができたのです。
島田氏の絶賛により、小川氏が、京都帝大における「考古学の専攻生」 の第一回生としての進路を選択されるにも、心の揺れ≠経ての ことであったといったことなど、田中氏にお会いしたことで、確認できまし た。(田中氏は、哲学の道を進まれ、多くの著作があるほか、山口大学・山 口女子大学の学長等を歴任した方です。)

(今日では考えられないことですが、当時は、医学部等のごく一部を除けば 、旧制高校卒業生は、ほとんど無試験≠ナどこの大学にでも進学できたこ と、「考古学」への進路を取る学生は、「一回生」以後も、数年間は少なく て、まったく学生のいない年もあったことが、「資料」からも明らかです。 )
なお、小川氏は、「考古学」に進路を取られ、考古学分野を中心に、多 くの業績を上げられた一方において、「国文学」への情熱を持ち続けられ、 『歌集』も、出しておられます。


背景(その3)=三宅宗悦氏について
〈「山口高校」 への進学/柔子氏のこと〉
//(戻る)

三宅宗悦氏のことを述べましょう 。宗悦氏が京都の地から山口に来るに至るには、前提がありました。
宗悦氏は、京都で、代々医業をなりわいとしてきた「三宅家」の九代の 宗淳氏と男依氏の四男として生まれています。
兄2人(1人は早世)はいずれも、[三高→京都帝大医学部]という道を とっていましたし、宗悦氏も当然のように、「医師」をめざしていました。 ところが、「三高受験」がうまくいかず、1年浪人をしますが、おそらく、 重複志願ができなくなったのでしょう、翌年に、高校は「山口高校」へ進み ます。
それには、姉=柔子氏の存在が関与します。
宗淳氏は、妻=男依氏に先立たれていたうえに、不幸にも、病に倒れて しまいます。その看護には長女=柔子氏が主としてあたりました。
その手厚い看護により、やがて、症状が落ち着きますが、その看護のた め、当時としては「婚期」の遅れた柔子氏に、さる宮家の紹介で、妻に先立 たれていた「山口県宇部市」の渡辺剛二氏との話が持ち込まれたの です。
祖父=宗仙氏が、孝明天皇皇子祐宮(後の明治天皇)が、嘉 永六年正月、御里亭中山家にて、御重態に渉らせ給ひ、典医等に拝診を仰 付けられ≠スが、其甲斐もなく、愈々御危急と拝せられたり。其際中山忠 能卿(御外祖父大納言)の果断によりて民間の町医を選抜せらるる事となり =A御召を蒙り、お救い申し上げたことや、長州(山口県)≠艪ゥりの「妙 法院」の侍医であったこともあって、三宅家では、宮家の方達と交際があっ たといいます。
柔子氏に取っては無論、初婚であり、剛二氏には、先妻との間に女の子 もあったのですが、結婚することになりました。
この結婚は、柔子氏にとってもしあわせなものであり、先妻の子とも違 和感なくかわいがり、嫁いだ時には山口県の偉人≠ニされる渡辺祐策 氏も健在であって、祐策氏にかわいがられ、医家に育っただけでなく、 父親の看護の経験のある柔子氏は、祐策氏の晩年を手厚く看取り、祐策氏は 感謝しつつ亡くなられたといいます。
のみならず、剛二氏との間に、男子が次々とうまれ、祐策氏の喜びは大 変なものであったといいます。この二人の男子は、京都帝大の医学部、法学 部に学ぶ俊才であったし、柔子氏は、剛二氏の「医学」における最大の協力 者(金関丈夫氏が「山口県立医科大学」にワンポイントリリーフ%Iに在 任されますが、この「県立医大」の創設、金関氏を招くのに、深く関わって おられます)であった水田信夫氏及びその妻千代子氏との係 わりのもとで、「俳句」の創作をし、晩年には、水田夫妻同様、「ホトトギ ス」同人になっておられます。
話を戻しますが、宗悦氏は、「京都」の「三高」ではなく「山口」の「 山高」を安全策≠ノとったのです。
「山口」と「宇部」はそう遠いわけではなく、しばしば宗悦氏は渡辺家 を訪ね、剛二氏は、「郷土史研究会」に資金的な援助もしたらしく、「研究 会」は、とても高校生レベル≠フものとは思えないほどの活動実績を残し 、その蒐集資料は、摂政宮の台覧の栄誉も受けていますし、京都帝大の浜田 耕作氏から、「考古学教室」に、出土品の寄贈を依頼されています。


小川 氏の親友であり、後に、日本を代表する歴史学者の一人となった三坂圭 治氏も、その著書において、「山高郷土史研究会」の活動を特記してい ます。
宗悦氏は、かくして、「山口の地」で、「考古学」の数々の実践≠ し、やがて進路として、「京都府立医科大学」と「京都帝大歴史学教室 」を志願します。
なぜ、小川氏と同じ「考古学」でなかったのかは疑問ですが、宗悦氏は 両方とも合格し、「京都府立医大」の方を選択します。
従って、それ以後は、「考古学」との縁は次第に薄れるはずでした。
しかし、「次」に述べるように、事実≠ヘそうではなかったのです。


◎ 私と三坂氏とのささやかな=u接点」のこと

私が、「土井ヶ浜遺跡研究」の関連で、小川五郎氏について調べて いたところ、小川氏の高校時代の「友人」である三坂氏の書かれたもので、 一箇所=A私の疑問に 思う箇所がでてきたことから、親しく話すという 機会を設けていただいたのです。
小川氏が引用≠ウれた「説」を、小川氏が直接書いたかのようにとれ るという件についてでした。
電話すると、自宅に来てほしいと言われ、もうその頃は、お年を召して おられ、一日の大半をベッドで過ごされるという状態だったのですが、わざ わざ服装を正して待っておられたのです。

三坂氏には膨大な著書や監修された資料がありますが、山川出版社の 県史シリーズ35=w山口県の歴史』という一般の人を対象にした執筆もあ ります。
その「山口県の考古学」の中に、かつて小川五郎は「山口大湖説」と いう論文のなかで、・・・・といっている。≠ニいう箇所があるのです。
しかし、それは、小川氏自身が、「横山三郎」なる人物のものと明記さ れています。
つまり、三坂氏にとっては、あら探し≠ニ取られても仕方のないよう な、ごく些細なことなのです。
しかし、三坂氏は、こんな些細なこと≠ノついて、直接、確認した いから≠ニおっしゃって、自宅に招いてくださり 、私の持参した「資料」 に目を通された上で、誤りだと認められ、感謝してくださり、「是非、訂正してほしい」と言 ってくださったのです。
(私は、ここに記すの は、先の田中氏同 様、些細なことでも♀ヤ違いがあれば、正しくしたいという、両 氏の思い≠伝えたいと思ってのことです。
そうした姿勢は、逆≠ノ、両氏の「業績」への自信 ≠ノも通じるように思いました。)

「左」は〈「大正15年1月7日」と、旧制山口高校の卒業直前に友人 と4人で撮った写真の中から三坂氏のみを「スキャナ」で取り込んだもので す。 全員が、こうした服装ですので、上に示した小川氏・田中氏の「学生服」と は別に、こうした服装も珍しくはなかったようです。〉





背景(その4)=浜田耕作氏について
〈「カフェ・アーケオロジィ」/清野謙次氏・三宅宗悦氏のこと〉
//(戻る)

ここで、浜田耕作氏について語る 必要があります。
浜田氏の存在が、三宅氏の人生に間接的≠ニはいえ、深く関 わっているからです。
浜田氏が京都 帝国大学の「教授」であった当時、防火の点から、喫煙を自粛するようにと いう通達があったにもかかわらず、本人の自覚の問題だとして、浜田氏は研 究室での喫煙をやめなかったといいます。
そのことも一因だと、梅原氏は書いていますが、浜田氏の研究室の お茶≠フ時間には、いつしか、京都帝大の同僚は勿論、多くの人達が 集い、談笑の場≠ニなっていったと言います。
それを「毎日新聞」の記者は「カフェ・アーケ オロジィ」と名付けたのです。「喫茶=考古学 =vとでもいうことでしょうか。
この談笑の場≠ェ、実は、「学問」についての知識を深める場であっ たとは、ここに一時期、副手として勤務した斎藤忠氏が証言されて います。

左から順に梅原氏、浜田氏、水野氏、三宅 氏です。(「写真」は、角田文衛氏に許可をいただき、角田氏の論文 「人類学者 三宅宗悦博士」〈『考古学京都学派』にも所収〉につけられて いたものを使用しています。なお、地元≠ナあることが幸いして、角田氏 の「論文」にわずかばかりの誤り≠見つけました。角田氏に伝えると、 角田氏は、ぜひ訂正してほしいといってくださっており、私の文章では、そ れを踏まえて執筆しています。)
松本清張氏の小説「断碑」に描かれている浜田氏をモデルとしたと思われる 人物像、更には、後に、推されて京都帝大の総長になっていることからも推 測される、その包容力のある人柄も大いに影響していたのでしょう、そうそ うたる学者や学生が集ったのですが、その中に、清野謙次氏や三 宅宗悦氏がいたのです。
特に、清野氏とは、「北野中学」の同窓?≠ニいうこともあって、気 があったようです。
同窓?≠ニ、?≠つけたのは、浜田氏が大阪の北野中学在籍中、 体操教師への暴言ということを理由に退学させられ、卒業は早稲田中学だか らです。
(この顛末は、浜田氏が父親宛に文書 をしたためており、それを耕作氏の次男=敦氏が、耕作氏の「法要」の際、 写真製版で印刷し、参列したも耕作氏に深く係わりのあった方々に配られた というものを私はいただいています。
要約すると、卒業間近い中学五年生の一学期、体育の授業時、教師から 、いじめに近い叱責を執拗に受けていた同級生に同情し、発した言葉が「教 師を侮辱した」とされて、そのことを認めるよう、執拗に迫られたので、し かたなく、認めて謝ることで解決しようとしたところが、 有無を言わさずに金曜日第二次ノ初メニ方リ監督ヨリ呼ビ来ル余其ノ命ニ 応ジテ至レバ∞突然余ハ放校ノ処分ヲ受ケタリ≠ニなってしまったという ことのようです。)

清野氏は、「考古学関係者」の宴会にもしばしば顔を出し、浜田氏の隣 りに席を占めたと言います。
三宅氏は、別の大学の医学生であったにもかかわらず、 この京都帝大の「浜田研究室」のお茶の会=カフェ・アーケオロジィ ≠ノしばしば参加しています。
それは、小川氏との縁が主たるものですが、「三宅家」は、有 名な医者であり、かつ、宗悦氏の兄二人は、学部 は違うとはいえ、「京都 帝国大学」の「医学部」出身であることのみならず、宗悦氏も、遠く「 山口」の地で、宗悦氏個人≠ニし ての浜田氏との出会いがあったと いうのです。
「ホームページ」には「スキャナ」で示していましたが、三宅氏が父宛 にだした「はがき」に、
(「山高郷土史研究会」で発掘した中の)石鏃・石製模製品・土器把手 等浜田博士の懇望により少し京大へ寄贈しましたから御覧下さい。
とあるなど、三宅宗純氏に「コピー」していただいた「資料」 からも「確認」できます。
当時の「考古学教室」は、学生数が少なかったこともあって、 三宅氏は「京都府立医科大学」の「学生」でありながら、「考古学教室」の 発掘調査にも参加しています。

本来は「考古学」に進みたかったという清野氏は、医師であった父 親の反対で医学の道に進み、生体染色の分野での世界的第一人者とて1922年 には日本学士院恩賜賞を受賞するといった「病理学者」としての実績の 一方、「人類学」の研究でも第一人者でした。
しかも、当時は、教室の主任教授の意向で、「研究室」と直接の関係の ないスタッフも採用できたということで、1930年、 三宅氏が京都府立医大を卒業し、府立医大の研究室に残ることが決まってい たにも係わらず、この「カフェ・アーケオロジィ」を通して清野氏に知られ ていたタメ、京都帝大の「病理学教室」に招かれ、「人類学」の研究者とし て、清野氏の研究を助けることになったのです。

この本来なら、まるで接点≠フあるはずがない係わり≠フ背景 には、「カフェ・アーケオロジィ」を介しての、 邂逅≠ェあったということは、浜田氏の「経由」 あればこそだったということです。

かくして、「人類学者」としての道を歩み始めた三宅氏のもとに、 小川氏が人骨の出土を知らせ、鑑定を依頼することは、ごく自然な≠ネり ゆきとなったのです。


背景(その5)=清野謙次氏について
     〈金関丈夫氏・三宅宗悦氏〉
//(戻る)

清野氏が、三宅氏を自分 の教室に招き、三宅氏に人類学者としての道を歩ませることになったことは 既に述べました。
ところで、「土井ヶ浜遺跡」を「弥生人の集団墓地」として世に紹介し 、「朝日賞」を受賞された金関丈夫氏の「人類学者」としての道を 歩ませることになったきっかけ≠焉A実は清野氏が作っておられるのです 。
金関氏は、解剖学教室に入って、指導教授の舟岡氏から与えられたテー マ「鼡の尻尾を動かす腱の構造」が期待に添えず、しょげておられた時、同 じ解剖学教室のいま一人の教授で、人類学者でもあった足立文太郎 氏および清野氏のすすめで、「人類学」を志すことになったというわけです 。
金関氏は、最初の本格的「人類学」に関する著書『人類起源論』 を清野氏との共著≠ニいう形で出版されていますが、その「序」にお いて、清野氏は、実質、そのすべては金関氏の執筆であることを記しておら れることから、清野氏が、その名前を貸して、助けたということだと思いま す。
(なお、「土井ヶ浜」からの人骨の出土を 知らせた河野に、清野氏は、この本に為 紀念 謹呈 昭和六年十一月  著者 清野謙次≠ニサインして、贈ってくださっています。
この「本」は、「土井ヶ浜人類学ミュージアム」に「寄贈」し ていますので、御覧になることもできるかと思います。)

かくして、金関氏は、三宅氏の兄貴分≠フような形で、二人は京都帝 大に共に勤務し、金関氏の解剖の際、助手を三宅氏がつとめたことがあると 、斎藤氏は証言されています。
ただ、残念なことに、清野氏は、蒐集に対する異常ともいうべき熱があ り、そのため、いうところの清野事件≠起こされ、そのため、清野氏が 退職されます。
親友であった浜田氏は、この時、京都帝大の総長の職にあったのですが 、辞意を表明され、時の文部大臣から、その必要はないと慰留されていた時 期に、病気で、総長のママ、亡くなられています。
金関氏は、京都帝大助教授から、台北帝大の教授へという道をとられる ことになり、
三宅氏は、「病理学教室」における「人類学者」ということで、病理学 への研究もされてはいたものの、清野氏無きあとの「病理学教室」にはいず らかったのでしょうか、ある浜田氏が亡くなられたことも重な ってでしょう、大学を去られるのです。


背景(その6)=駒井和愛氏について //(戻る)

駒井和愛氏が、早稲田大学 文学部東洋史学科の卒業ながら、東京大学の副手となったのは 、原田淑人氏が、東京開成中学校時代の駒井氏を指導したことがあ って、駒井氏が原田氏を慕っていたからといわれます。
昭和2年、駒井氏は、東京帝国大学の副手となり、専攻の学問でも原田氏と 駒井氏は、師弟の関係に結ばれ、昭和13年、東京大学講師、同20年助教 授、同26年教授、そして同40年退官し、その後、早稲田大学の客員教授 に迎えられ、同46年に、享年六十六歳で、恩師の原田氏よりも先に亡くな っておられます。
原田氏は、
駒井君は君の中学校当時からよく私の 家に遊びに見え、私の家族とも親しんでいた。紺がすりの筒っぽの若々しい 姿が今なお眼前に浮んでくる。
私は東大の講師で母校開成中学校の職員を兼ねていたが、・・ ・。
また君は早稲田大学の卒論に「西王母の研究」を選んで、私にも相談し た。これが駒井博士の他日東洋考古学者として活動した濫觴であった。
その後、君は早稲田大学の会津・津田両博士の許に東洋史学の研究を続 けた傍、東大の私の研究室に出入して東洋考古学の研究に専念し、私の学風 に感染して文献と遺物との相互補助によって東洋史学を研修し、進んで東西 洋古文化の交流の検討に没頭した。
と記しておられます。(『貝塚』八)

さらに、この原田氏と浜田耕作氏が親しかったこと とて、東京帝国大学と京都帝国大学の「考古学」関係者は、教室ぐるみで親 しく、それが、小川氏が駒井氏に、土井ヶ浜≠ゥらの「人骨出土」のこと を知らせることになったのです。
そして、土井ヶ浜≠訪れられた駒井氏によって、「弥生式土器片」 が発見され、三宅氏に送られることにつながるのです。
「土井ヶ浜遺跡」=「弥生時代の集団墓地」の可能性を最初≠ノ つかまれたのは、駒井氏であったといえるかもしれません。


背景(その7)=三宅宗悦氏について //(戻る)

京都帝大を去った三宅氏 は、当時、満州国の総務長官であった叔父=駒井徳三氏の紹介で、 満州の「博物館」にいきますが、病弱であった妻の夫規氏の体調が、満州の 寒さにあわず、帰国されます。
ただ、三宅氏は、「満州」での勤務を腰掛けとは思われず、当時と しては特出すべき、満州の人達を日本人同様に≠ニいう思いを抱いて生活 していたことが、遺品からわかります。
(斎藤 忠氏は、「古書店」で三 宅氏の「満洲の新聞への寄稿原稿」や「感謝状」等を発見され、購入されて います。
「三宅家」及び宗悦氏のご子息=宗和氏がおられた「宇部」の「渡 辺家」は、「戦後の動乱期」であったとしても、「生活」のために「売 却」されるということは考えられませんので、私の推測≠ナは、宗悦氏が 「戦場」に持っていかれていたものを、託された方が、誰に渡していいかが わからず、「廃棄」するよりはよいと思われれて、「古書店」に渡ったもの と思っています。
「左」の「写真」は私に「コピー」をくださった三宅宗悦氏関係の「資 料」の内の「感謝状」を「デジタルカメラ」で、撮ったものです。斎藤氏も 、「コピー」で保存され、実物≠ヘ、ご子息の三宅宗和氏に寄贈されてい ます。)

三宅氏は、帰国後まもなく、軍医として召集され、フィリッピンのレイ テ島において、昭和19年11月6日、壮絶な戦死をされています。
三宅氏は、「防長史学」において、詳細な発表は他日人類学雑誌 に譲る事として、ごく簡単に防長古墳人骨を紹介する。 ≠ニ書かれていたのですが、結局、その機会はないままに、亡くなられ ました。
かくして、この地方誌≠ノすぎない 『防長史学』への発表は、当時としては、日の目をみないまま埋もれて しまうという運命にあったはずですが、清野氏の兄弟弟子≠ナあった関係 で、当然のように、三宅氏から、金関氏に手渡されており、金関氏は、この 三宅氏の「報告文」を参考にされ、駒井氏の「弥生式土器」採集という記述 を「発掘調査」に踏み切るきっかけ≠フ一つとされたほか、「報告文」= 「長門國土井ケ濱古墳人骨に就いて」から、土井ヶ浜≠フ名を取 って「遺跡名」とされたのです。


背景(その8)=藤島亥治郎氏と浜田氏、それが「編集用 」記述のヒント≠いただくことになったということ //(戻る)

「建築学」の権威者≠ナ、「文化財専 門委員」として、「山口県」の「建造物」について、お世話になっ たことを知っている私は、「山田家本屋」の、「山口県指定文化財 保存顕彰規程」に基づく「指定」のころの話をお聞きしたいとして、平泉等 で、不滅の功績を残され、日本芸術院恩賜賞を受賞しておられる藤島亥 治郎氏に、御高齢のタメ、15分≠ナよければという条件≠ナお話 を伺うということで、上京、初めは、「一問一答」式的な展開だったのです が、「君は、僕に会うためだけに来たのかい?」とおっしゃったので、「い え、実は、先生もご存知の斎藤忠先生にもお会いしました。浜田耕作とおっ しゃる先生の話など、とても参考になりました。」というと、「浜田君なら 、僕と親友だよ。」とおっしゃり、その場の雰囲気≠ェ一変したのです。
それはそうでしょう、河野英男の子ならとして、会ってやってもよいと おっしゃっただけなのですから。
斎藤氏とも親しく、その他、私の調べている方々の多くをご存知で、藤 島氏は、興味を持ってくださり、時間はいつのまにか、1時間≠はるか に越え、新幹線の時刻が迫り、おいとませざるを得なくなったのです。
(藤島博士は、「手紙」の中で、それこ そ時間を忘れてお話に夢中になりましたわけで、それこそ貴台当日の御予定 がどうかも考へずあるいは御迷惑であったのではないかとまで思った次第で ございましたが、予想に反してそのことを大変お喜び被下、去る九月二十七 日付御手紙で御ていねいな御書翰たまはり、まことに恐縮いたした次第でご ざいました。・・・≠ニ、私如きへの手紙とは思えないほど、丁重なものを いただいております。藤島博士といい、斉藤忠博士・・・・といい、本当の 権威者≠ヘ、人格的にも高潔な方々だと実感した次第です。)

いろいろと話が飛ぶ中に、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝 )」「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」との関係 のヒント≠つかむことができたのです。
私の中で、「土井ヶ浜遺跡」と「萩焼の歴史」が結びついたわけです。
つまり、「指定」は、絶対的な=u基準」があるワケではなく、 予算等の関係もあって、価値≠ェあればよいというものではなく、保留 =プール≠オて置かざるをえないことがあるということです。
私の「土井ヶ浜遺跡」・「萩焼の事実≠ニしての歩み」とい う2つのテーマ≠ェ、単に父だけでなく、私にとっても、結びつくことに なったのです。
私は、藤島氏が「もう帰るのか」とおっしゃってくださったことがいま でもうれしい思い出として残っています。






[参考] 私ど もと「土井ヶ浜」とのこと


(1) 「地元」の出身の母との結婚、 それが私の「調査」にも関係

父=英男は、同じ学 校に勤務していた山中ユリ子と、あって結婚しました。
ユリ子の12歳の時 に、母=サナが亡くなり 、主婦代わり・母代わりをしてきたユリ子 は、「近所」に住んでおられ、後に、「文化財」 関係の仕事をなさり、「俳人」でもあったことで、親しくさせていただくこ とになった井上十六氏が 、私に「あなたのお母さんは、この田舎から、家事一切を引き受けなが女子 師範に合格されており、お父さん以上の人でしたよ。」とおっしゃってくだ さっていますが、「田舎」では当時、珍しかった「女子師範学校」 に、父=熊吉の配慮で進 学させてもらい、卒業時、椿 惣一氏(「土井ヶ浜遺跡」にも関係されてい ます)から、下関市の中心部の大規模校への誘いがあったのをお断りし て、「実家」に近い「神玉小学校」に着任していました。
当時の「交通事情」からして、[防府市〜神田村]はとても往き来しや すい距離ではなく、 防府への「移住」は、母としては、決 して、気の進むものではなかったのですが、熱心な英男へのお誘いを受け て移住
そのタメ、毎年長期休暇の度に「実家」を訪ね、「墓参」 を繰り返していたワケで、同行させられていた私は、と個人的に親しかった、 「特牛港」近くに住んでおられた衛藤和行 氏の家に、何度も、連れられて行ったことがあり ます。
「土井ヶ浜遺跡」そのものにも、何度か、立ち寄っていま した。
当時≠ヘ、「考古館」という小さな=u資料館」こそあっ たものの、側にあった「松濤苑」という「養老院」で、「鍵」を借 りて入り、「鍵」を戻すという「システム」で、その周囲に、「石棺」 が幾つかあったのですが、には、坪 井清足氏を驚かせた「海水浴客」の「駐車場 」と化しているのも、見かけています。
衛藤氏には、が亡くなってからも、親しく させていただき、 「土井ヶ浜遺跡」の発見=E発掘史≠再調 査≠キるに際し、親切にしていただけた のです。
おそらく=A私でなければ衛藤 氏から、新たな「疑問」、「矛盾点」が 出てくる度に、何度も、何度も、問い直すということはできなかった と思います。
昭和六年の出土以後も、何度か人骨が出土した のに、なぜ衛藤氏は「人骨」を改めて「金関」氏に届けられたのか?  ─  このことが「疑問」の中心≠ナした。
「先生、なして人骨を改めて九大に送っちゃったんですか?」
「なんで古墳人骨というのはおかしいと判断しちゃったんね?」
「なして、解剖学教室なんね?」
私は、親しさにまかせて、こんな失礼な言い方を衛藤氏としていました。

衛藤氏は、 「あんたは、記憶を呼び戻してくれるのぉ」 と言われたものです。
その結果金関丈夫氏の後継者である永井昌文 氏のご親切もあって、『日本農耕文化の生成』中の「14 山口県土井浜遺跡」 という『原典』をも、一部=u修正 」する事実見いだせたのです。
つまり、ささいなこと≠ネがら、地元の人間との「結婚」 ということも、邂逅の一つではあるのです。


(2) 長兄=頼人 長姉=浅田計子 の誕生の地

この「豊北」で、私の長兄・長姉が生まれています が、長兄は、「国文 学者」であると共に、「俳人」です。
ありがたいことに、「瑞宝中綬章」をいただき、句誌『木の実』の五代 目主宰であったこととて、その双方に「著書 」がありますが、その「奥付」において、
いずれにおいても、「山口県に生まれる」としています。
昭和7年9月25日生まれですが、昭和13年3月末に は、「防府」に移り、以後、昭和41年「北九州大学」に勤務するよう になるまで、「防府」が「本籍」でした。
従って、実質=A「防府」出身ということで、敢えて、 山口県生まれとしているワケです。
ただ、六歳近くまで住んでいた地とてどれほどの記憶が残 っているのかはわかりませんが、2歳違いの妹同様に、懐かしい £nであるハズであり、「土井ヶ浜」に関す る句を、幾つも詠んでいるようです。


「第三句集」 としての 『流し雛』 の、
平成十四年度彩雲賞に応えて 自注五○句 ─ わが来し方を顧み て ─ において、
「土井ヶ浜」の句三句取り上げて記しています

海涼し絣模 様にうさぎ波
(うさぎ波=群青の海の上に打ち寄せる白 波のこと。)

水草も彌生の色に大賀蓮
(大賀蓮=昭和26年、千葉市の東京大学 農学部検見川厚生農場で、ハス博士といわれた故「大賀一郎」博士(当時関 東学院大学教授)が、縄文時代に咲いていた古代ハスの種3粒を発 見し、そのうちの一粒の開花に成功したものです。
「土井ヶ浜人類学ミュージアム」の「公園」部分では、「大賀 蓮」と「赤米」が植えられ、弥生時代の環境に近い状況にするよう 、務められており、毎年、蓮の花が咲いています。)

鵜を抱いて彌生の巫女の瞳の涼し
(鵜を抱く女=「金関発掘調査」 において、最初≠ノ出土した「人骨」
女性人骨の左胸から鵜の骨が検出されたことから、こう呼ばれる。
長兄は、「(ミュー ジアムで)鵜を抱いて葬られている女性の骨に、鳥と霊魂の関係を具体的に イメージすることが出来た」と記しています。 )

(「装丁」は、前の『 紙魚の宿』・『アカシヤの大連』に続き、文部大臣賞・総理大臣賞 等々を受賞されている福岡芳忠氏に御願いし、協力をいただいています。)






[2−2]「土 井ヶ浜遺跡」の「発見・発掘史」の「戦後」のこと

 
〆□♀◆「戦後」エッセンス //(戻る)
◆□◆[★@「」−A「」−B「」−C「」 −D「」]
● 戦 後の「土井ヶ浜」遺跡  ─エッセンス>  
─ 女生徒の話から貝製品を採集した衛 藤和行氏からの出発=@─


終戦後、地元出身で、新制の神玉中学校に勤務していた衛 藤和行が青年研修所建設工事に伴って出土した人骨≠フ中から、見慣れぬ 貝製品を発見、長府博物館の椿惣一のところに持ち込んだところ、「古代展 」開催のために、しばしば来館し、相談に乗っていた九州大学考古学教室の 助教授鏡山猛、助手渡辺正気に、椿が紹介した。
鏡山は、「弥生時代」ではないかと思い、それが「人骨」とともに出土 したということから、医学部解剖学教室教授で、人類学者でもある金関丈夫 が、終戦に伴って、台北帝国大学から九州大学に転勤してこられ、必然的に [研究テーマ]を弥生人≠ノ変更されながらも、肝心の弥生人骨≠ェ発 見されないで、困っておられたことを知っていたので、知らせた。
「予算」の少なかった当時において、金関は教室の助手等による「弥生人の人骨」の可能性 周到な「調査」をし、永井昌文を始め坪井清足・金関の次男=恕、水野 正文・国分直一・小川五郎らの協力の下に、発掘調査が実施された。
最初の「発掘調査」時には、思うような出土がなかったものの 、金関は、予測のモトに、衛藤数カ所の試掘を依頼、その結果、二年度以降の 「調査」も継続されることなになり、
「土井ヶ浜」からの出土人骨は、「弥生人骨」ということが判明、かつ 、膨大な「弥生人骨」の出土であったことから、金関丈夫は、今日の「日本 人起源論」の主柱となっている、いわゆる「金関の渡来説」を発表、その根 拠となった日本における重要な「遺跡」の一つとして、広く知られるように なった。
なお、衛藤は、単にきっかけ″ったというだけでなく、この「発掘 調査」のメンバーの一員にもなり、かつ、「第一次」で終了しかけた「発掘 調査」が継続し、大きな成果をあげるに至る要因を、金関の指示のモトに行 なったということは、忘れてはならない。
また、この「土井ヶ浜遺跡」の発掘当時、文化財保護委員会の技官であ り、「国指定」となる際、窓口として世話をしたのが斎藤忠であったこと、 この時、河野は、「山口県教育庁社会教育課」の文化係長であり、かつて、 神玉小学校の教員であったことから、「地元」の調査団発足に、いささかの 係わりを持つことになったということも付言しておきたい。
さらには、「金関発掘調査」の後、二十余年もの空白≠フ後、「発掘 調査」が再開され、「土井が浜遺跡・人類学ミュージアム」の設立につな がる=u契機」として、「金関発掘調査」時の「有力メンバー」であった坪 井清足の「提案」も、忘れてはならないことである。




●  「土井ヶ浜遺跡」の「発見・発掘史」のエッセンス≠ノ「邂逅」を織り込 むと
─ 女生徒の話から貝製品を採集した衛 藤和行氏からの出発=@─

背景(その1) 衛藤和行氏につい て

昭和27年のことでした 。
新制の「神玉中学校」に勤務していた衛藤和行氏に、女生徒が、「骨が 道ばたにいっぱい置かれている」と話したというのです。
衛藤氏は興味本位≠ナとおっしゃったのですが、その場に衛藤氏が向かっ たことが「土井ヶ浜遺跡」の大げさに言えば、日本人の起源≠把握する きっかけ≠ノなったのです。
河野とも親しかった衛藤氏は、既に、人骨≠ェ「元寇」のものではな いことを知っておられました。
衛藤氏は、人骨≠セけを見たのではありません。
その「人骨」の中に、奇妙な=u貝で作られたもの」があることに注 目したのです。
その「貝で作られたもの」をとりあえず採集し、かねてから知人で、衛藤氏が尊敬する教育者であった椿 惣一氏が 、退職後、「長府博物館」の館長をされていたことを思い出して、椿氏のも とを訪ねたのです。
そのころ、「長府博物館」は、来場者がほとんどないという状態が続い ていました。
椿氏は、そのことをなんとかしたいと、当時としては大規模な古代展 ≠思いつき、九州大学考古学教室の鏡山猛氏に協力を求めるては ずになっていた時だったのです。、
椿氏は、鏡山氏及び、助手の渡辺正気氏にその「貝で作られた もの」を見せました。
お二人は、「弥生時代」ではないかと鑑定されたのですが、当然、出土 状況を衛藤氏に尋ねられました。
そして、大量の「人骨」と共に¥o土ということを確認 されると、同僚の金関教授が、台北帝大から引き上げられて、 九州大学に着任されたことを契機に、研究テーマを「弥生時代人」にされた こと、そして、肝心の「弥生人骨」が見つからないことを知っておられたの です。
さっそく、そのことを金関氏に知らされました。

鞆状のものが、「土井ヶ浜遺跡」の発掘調査に至る、そもそもの きっかけであったことを、衛藤氏は、忘れておられたのですが 、私の問いに対して、「あんたは記憶を呼び戻してくれるのぉ」として、教 えていただき、実は、そのことが、既に永井氏によって、「論文」とし て発表されていたことによって、確実に「証明」 されたのです。

「上」の「写真」は、衛藤氏に「人 骨」のことを教えた生徒と衛藤氏、
「左」=永井昌文氏の論文「土井ヶ浜出土の異型貝製品」にお いて、問題≠フ「貝で作られたもの」を永井氏が描かれた図〈永井氏は、 鞆≠ニいう説を提示〉



衛藤和行氏と椿惣一氏、鏡山猛氏 、渡辺正気氏のことを今少し


椿氏が、衛藤氏にとって、敬愛 していた人物であったことも、「土井ヶ浜」の「発掘調査」には、 大きな=u要因」であったことに加えて、衛藤氏の持ち込んだ時期 幸いしました。

当時の「長府博物館」は、椿館長と、伊秩(当時は旧姓の岡村)洋子氏 の二人がスタッフでした。
椿氏は、「博物館」に来館者が少ない(というより、一日の来館者が数 人程度ということが少なくなかった)ことに心を傷め、啓蒙の意味も含めて 、大規模な『古代文化展』を企画、そのためのアドバイザーとして、九州大 学助教授の考古学者鏡山猛氏に協力を要請されていたのです。
この企画の煮詰まった"好機〃に出土した貝の加工品が持ち込まれたの です。
そこで、椿氏によって、鏡山氏が紹介されました。
鏡山氏および氏のもとで研究していた助手の渡 辺正気氏が鑑定、両氏とも、「古墳時代」をかな り遡るものと判断されたといいます。
さらに、「人骨」とともに出土したとい うことから、鏡山氏は、同じ九州大学の金関氏に紹介されたのです。


鏡山氏が金関 氏に紹介されたのは、「台北帝国大学教授」から、敗戦に伴って 「九州大学教授」に転任されていた「解剖学教室」の金関氏が「人類学」の権威 であり、帰国に伴って、研究対象≠「弥生人の人骨」にされた ものの肝心の「弥生人骨」そのものの発掘 ≠ェほとんどなく、その発見を渇望されていたことを知っていたため であるといいます。
しばらくして、衛藤 氏へは、金関氏の教室の助手、原田忠昭氏がコンタクトを取ってこられたといいます。
 出土品を「解剖学教室に」といういささか意表をつく経 路もこうして、ごく自然なことと立証されたのです。



この鏡山氏に見せたという日時の記録は、残念ながら、『長府博物館日 誌』にはみあたりません。
ただ、鏡山氏に 正式に協力の確約を得た時のことは、『昭和二七年度日誌』に 次のようにあります。

六月十九日(木曜日)雨
今秋九下月句に開催予定の古代文化遺品展連絡のため椿館長諸鹿吉 村両氏及岡村九大行 
鏡山日野干潟の三教授と懇談其の後三岸節子個展と九州古陶器を見る
何もかも順調に進行して満足であった 
留守は大宮に依頼  入館者なし

従って、この「昭和二七年六月十九日」という日以後、衛 藤氏への金関氏の使者= 原田忠昭氏が、その「礼 状」を投函している「八月二三日」以前のある日ということで 、満足しなければならないようです。

(当時、鏡山氏 と行動を共にしておられた渡辺氏も、私の『発表誌』の「抜き刷り」をお送りしたお礼をい ってこられた手紙の中で、
夏の日ざしのさんさんと照る昼間だった気がします。
その時持参してこられた方が衛藤和行先生であるとは名前を一切覚え ていません。
(椿先生、鏡山先生、渡辺氏の)外にも何人もいられました≠ニ書いて おられます。)



「写真説明」
前列中央が鏡山氏。右隣が渡辺氏。
2列目で二人の間に見えるのが永井氏です。
なお、「土井ヶ浜遺跡」には関係がありませんが、永井氏のすぐ左は岡 崎敬氏、さらに左は森貞次郎氏で、お二人もまた著名な考古学者です。



では、なぜ、「土井ケ浜遺跡発 掘」に鏡山氏の名が出てこないのかということに なりますが、
渡辺氏は「鏡山先生には当時手掛けておら れた発掘があったこと、九州の大学はできるだけ"九州≠ノ主力をおくべき だと考えておられたこと、
そして、なによりも、"人骨"中心の発掘を「権威者=金関丈夫教授」が指揮されるの だから、他の発掘を置いてまで参加する必要を認めなかった」と説明されま した。

金関氏が、教 え子≠ナある「京都大学大学院生」(「台北帝国大学転任後も、「人類学 」の出張講義に「京都帝国大学」に来校されていました)の坪井清足氏、ご子息の氏に、「考古学」的協力 を求められたのも、鏡山氏が他に発掘を抱えておられたからです。


かくして、「女生徒」の情報→衛藤氏の「奇妙な貝製品」へ の好奇心(衛藤氏の言葉)→衛藤氏の敬愛する椿氏の存在→椿氏から鏡山 氏への紹介→鏡山氏の金関氏への紹介 を経て、「以下」に述べるように、
→衛藤氏への問い合わせと教室員による「調査 」→九州大学医学部解剖学教室を中心とし、ご子息の恕氏に、坪井清足氏ら のメンバー、そして、重要な役割≠果たす衛藤氏らによる発掘・・・・ 必然%Iな流れ≠ェできあがったのです。



金関丈夫氏について //(戻る)

金関丈夫 (かなせきたけお)

明治30年2月18日、香川県仲多度郡榎井村(その後、琴平町) 生 まれ。
岡山の小学校にいたことがあり、そのとき後の首相となる岸 信介 氏 と、わずかな期間ではあったが、同級であった。
岡山医専の教授をしていた岸氏の叔父の佐藤松助氏が岡山には秀才 教育て゜名高い一中があるからぜひ岡山に来て勉強するように≠ニいって 岸(当時は佐藤姓)氏を明治41年の九月に、「内山下高等小学校」の6年に 編入させたのだという。
「山口からすごいやつがきたぞ。」という言 われていたといい、岸氏 は、1番≠ナ卒業し、「岡山一中(現 朝日高 校)」に入学するが、一中 の二年の時、叔父が亡くなり、山口に帰っていったという。
金関氏は、中学は松江なので、ごくわずかな時期しか、岸氏とは一緒 ではなかった。
ただ、小学時代の二人は、合わなかったというが、 合う・合わない ≠いうほど、長い期間一緒であったわけではない。
この「内山下高等小学校」の岸氏の 同級生からも、岸氏、金関氏を始 め、優れた人々が輩出しているが、一中 時代には「おれは大学教授になる 」と、友人に語っていたという岸氏が政 治家となり、四国丸亀の勤王侠客 =「日柳燕石」に似たところがあり、「政治家」になろうと思っていたこと があると、語っていた(但し、いつの発言かは不詳)金関丈夫氏が学者 にな ったというのは面白いと思う。
大正5年(1916)9月第三高等学校入学。
そして、大正8年9月京都帝国大学医学部入学。
親友の坂田氏は、
医学部卒業の前頃、金関は小児科をやるようにいっていたのを小 生 は たしかに聞いたおぼえがある
と、書いておられる。
大正14年助教授
しかし、事実は、大正十二年、京都帝国大学医学部卒業卒業と同時 に 「解剖学教室」の人となった。
ところが、教室の教授である舟岡氏から、研究姿勢を注意され、 し ょげていた≠アろに、同じ医学部教授であった足立文太郎・清野謙次氏の誘 いで人類学≠志すようになるのであった。
(舟岡教授の指導方針は、臨床に役立つものを ということらしく、 人間そのもの≠研究しかけていた金関氏に注意さ れたらしい。清野氏 らは、その金関氏の研究を、明確に、人類そのもの の研究≠ノ進むこと を勧められということである。)
大正14年助教授
金関先生の名声は、昭和三、四年頃、すでに鳴り響いていた。
当時、先生は、京都帝国大学の助教授で、医学部の解剖学講座を分担 されていた。
先生が早くも昭和三年に刊行された『人類起源論』は、極めて水準の 高い研究書であって、先生の人類学者としての地位を確立した名著であっ た。
同書は、清野謙次先生との共著という形をとっていたが、本文は金関 先生が執筆し、清野先生は校閲された程度であったことは、同書の序文に 明記されている通りである。≠ニいう。
なお、この本は、清野 氏からサイン%りで、土井ヶ浜の人骨に、 日本人のもののはず≠ニ 目をとめ、小川五郎氏を通して三宅宗悦氏につ ながる情報≠もたらし た河野英男に贈られており、現在も存在してい る。  


三宅宗悦氏とのこと //(戻る)

人類学≠志した金関氏は、必然的に、考古学教室とつ ながりがで き、しかも、考古学の教授が浜田耕作氏であったこともあって 、 金関氏は、カフェ・アーケオロジイ≠フ常連の一人となり、他 大学= 「京都府立大学」の学生であった頃の三宅宗悦氏とも顔見知りと なられる が、助教授になって五年後、清野謙次氏の助手として京都帝国大 学に入っ てきた三宅氏とは、必然的に、深く関わりを持つことになるので あった。
金関氏は、この三宅氏を弟のように親しくしていたというし、事実 として、「解剖学教室」の金関助教授の解剖に「病理学教室助手」の三宅 氏が、たちあっていたという証言≠ェある。
例えば
「清野謙次博士=解剖学教室」という箇所が引っかかりはする (実際は 「病理学」教室)が、東大の 三上次男氏も、
京都大学の浜田耕作先生のところに挨拶にうかがったとき、浜田 先 生の指示で清野謙次先生の解剖学教室で、助教授の金関さんは三宅宗悦 さ んを助手にして、病理解剖をしておられたが、さそわれるままに解剖室 に はいり、こわいもの見たさに解剖なるものを見せていただいた。
と書かれている。
なお、当時、浜田氏のもとで、副手・助手として研究していた斎藤 忠 氏も、仲がよかった≠ニ証言される。   


『考古学史の人びと』(昭和60年 11月25日 「第一書房」刊)より //(戻る)


昭和七年三月、東京帝国大学文学部国史学科を卒業するこ とになった私(注 斎藤氏)は、主任教授であった黒板勝美先 生のお宅に、同窓生とともに訪れた。
毎年の恒例の一つで、就職について相談するのであった。
応接間に待っていた私は、やがて先生の前にすわった。
私は、考古学をやりたいと思うので、その方面の仕事のできるところに 就職したいとお願いしたのであったが、先生は、言下に答えられた。
「考古学をやるなら、まだ就職なんか早い。
京大の考古学研究室で、浜田耕作君のところで勉強し給へ。
僕が紹介状を書いてあげるから」と。
それから、私の京都行きはきまった。
四月になってから、考古学研究室で、浜田先生にお目にかかった。
「君、大学院に入るより、副手にしてあげるから、勉強し給へ。
僕の講義を聞いてかまわないから」と。
そして、昭和七年六月副手になり、その後、十月からは助手 にさせていただいた。
先生は、毎日、御自宅から和服姿で研究室にこられた。
私は、それよりもはやく、研究室でお待ちしていた。
机にすわると、必ず前日きた手紙等に目を通し、一々返事をかかれるの が、朝のお仕事であった。
それから本を読まれる。
少し退屈になると、「斎藤君、お茶を飲もう」とでてこられ、円い テーブルで、お茶をいただいた。
そのときの色々な思い出や新しい出来事をうかがうのが最高の楽し みであった。
午後三時頃になると、末永雅雄さんや水野清一さんや三宅宗悦さんなど の顔もそろうことがあり、助手の島田貞彦さんも一緒で、しばらくの歓談に 花を咲かせた。
「カフエ・アーケオロジー」の名の通り、浜田先生を中心とし た和気藹々の集まりであった。
昭和九年、私は、黒板先生と浜田先生とのお世話で、慶州の博物館に移 った。
赴任の前に、挨拶にいったとき、先生は、次のようなことを話された。
斎藤君、君には研究室にいたとき、学問のことは何も指導できなかった 。
しかし、雑談のとき、色々と君に話したことは 、君の将来にとって、大事なものになるだろう。
と。
私は、いまも、この言葉が耳朶に響いている。



金関氏、台湾へ //(戻る)

思いもかけなかった「清野事件」に遭遇し、昭和9年、金 関氏 は、台北帝国大学医学部の前身ともいうべき医学専門学校教授となり 、1 1年、帝国大学医学部開設とともに教授となる。
台北帝国大学は、従来からの「南方学」研究に便利であったわけだ が 、氏は、単に研究だけでなく、『民俗台湾』の刊行を推し進め、台湾の 文 化の保存に尽力、はたまた、金関学≠ニ世にいわれるように、幅広い 教 養を有しながら、奢りも高ぶりもないその人格は、人々の尊敬を集めた 。
金関氏をよく知るアメリカの研究者=E・H・カー博士は、戦争中 の 台湾爆撃の指導をすることになった際、金関教授邸と言語学の浅井恵倫 教 授邸は爆撃しないように配慮したと終戦後、台北駐在の総領事としてき た 時に金関先生に語っているという。
この台湾時代の金関氏を評して 一言で言えば、歴史的には大正デモ クラシーが生んだ知識人の一人で 、科学者である。≠ニある。


巡りあわせ //(戻る)

この「台北帝国大学」で、「森鴎外氏の長男=於莵」氏(教 授)と同僚となり、親しいつきあ いをすることになり、森氏から幾つもの鴎 外ゆかりの物を貰われたといい 、その一つを大学時代の友人であり、金関 氏を「山口県立医科大学」に招 いた水田信夫氏に贈られたと言う。
なお、この金関氏の台湾赴任は、「土井ケ浜遺跡」の発見・発掘 史 ≠ノも大きな意味を持つことになる。
つまり、当時、台湾師範学校教授であった国分直一氏との 出会いがあ ったほか、坪井清足氏との巡りあわせ、さらには、敗 戦に伴って、九州大 学教授へ赴任することにつながるからである。
金関氏は、台北帝大に赴任後も、京都帝国大学へ、人類学の出 張講義 に出ていたが、その受講生に、坪井氏がいた。
そして、戦争は坪井氏を学生のまま、台湾へと遣る。
坪井氏は、暇を見ては、文化の香りを求めて、金関邸をしばしば訪 ね 、後に、金関の発掘の主要メンバーとして信頼される人間関係ができる 。
金関氏は、「三津永田遺跡」、「土井ケ浜遺跡」と、発掘調査の際 、 坪井氏に協力を要請、坪井氏もそれに応えた。
土井ケ浜遺跡発掘のシナリオ≠ヘ、坪井氏が主として立てたもの だ という。


引き揚げ=ィ九州大学教授 //(戻る)

敗戦後も、金関氏は、台湾の人たちから、引き留められた というが 、昭和25年(1950)1月に九州大学教授となり、医学部解 剖学教室 第二講座に勤務することになる。
そして、研究テーマ≠「弥生 人骨」に変更し、「三津永田遺跡」 、「土井ケ浜遺跡」の発掘と、その研 究から、「混血説」を展開されるに いたるのです。
昭和35年(1960)3月九州大学を定年退官し、鳥取大学教授 ( 35年4月〜37年3月)となられる。


「教室」総掛かりで「可能性」の 調査・確認 //(戻る)


「人骨」は、酸性土壌≠フ日本においては、ほとんど残りません。
「弥生人骨」よりも先立つ「縄文人骨」の出土がはるかに多かったのは 、「貝塚」といったカルシウムの影響で、アルカリ性≠ゥ、それ に近かったからです。
金関氏は、衛藤氏を通じて、「人骨」そのものを研究するとともに、 三宅氏の「報告文」にあった駒井和愛氏が届けたという「弥 生式土器」、更には、「教室」の助手=原田忠昭氏を中心に、現 地°yび周辺≠フ過去における「出土品」を確認させられたのです。

その調査の間に、「弥生人骨」らしき「人骨」が、土取り工事≠フ際 、佐賀県の「三津永田遺跡」から、甕棺入りで多数¥o土するという偶 然≠ェありました。
そのため、限られた@\算を使うこととて、いっそう慎重に、その 可能性を調べられたのです。
(永井昌文氏の「証言」)
 原田氏は、「角島の出土品も調べに行った」と証言してくださいまし た。
 そして、「発掘調査」に踏み切られたのです。

金関氏の「写真」は、 山口大学医学部第一解剖学教室  の開講三十八年記念 という 『鏡外余話 』 の「グラビアページ」に、1ページ¢S体 を使って、発掘調査中の金関丈夫教授 下関市にて 昭和39年3月  という「解説」のもとに大きく′f載されているもので、スキャ ナ≠ナ取り込みました。
なお、この『鏡外余話』は、粟屋和彦氏からいただいた多くの「資料」の中の一冊です。

しかし、そうした慎重な調査≠ノもかかわらず、[発掘1 年目]の調査では、思ったような人骨の出土はなかったのです。
金関恕氏は、「断念することもありえたのだが、父(=金関丈夫氏)が、 衛藤さんに、調査後、数カ所指定して、掘ってみてほしいとした場所から出 土したことで、2年目以降の調査を継続することになった。」と教えてくだ さいました。


恕氏は、『考古学は謎解きだ』28頁)において、
(最初の年は、なかなか弥生人骨が見つからず、)経費と労力 の割に えられた資料は少ないが、もう一年かけて掘ることにした。
発掘場所を移した次の年には、人骨が続々と出土し始めた。
と書かれているダケですが、丈夫氏と衛藤氏とのいわば「舞台裏」 があったというワケです。


こうして、5次≠ノわたる「発掘調査」が 実施され、予想以上の多量の「人骨出土」をもと に、金関丈夫氏は、日本人「渡来説」を提唱されたのです。
かくして、「土井ヶ浜遺跡」は、金関氏の研究によって、日本の代表的な遺跡の 一つとなったのです。

背景(その3)=「台湾」での国分 直一氏・坪井清足氏とのこと //(戻る)

「台北帝国大学」に転じ ていた金関丈夫氏でしたが、その地で、その後の金関氏の研究を支えた 国分直一氏、坪井清足氏との深い関わりが生じています。
(この「台北帝大」では、同僚に、森鴎外氏の子息がやはり医学部教授 としておられ、金関丈夫氏とのあいだに逸話もあるのですが、「土井ヶ浜遺 跡」とは関係ありませんので、触れないことにします。) 
国分氏は、「台湾市販師範学校」の教授であったことからの「学問」を 仲介としての出合い≠ナしたが、坪井氏との関わり≠ヘ、こんな偶然 ≠ェありました。
金関氏は、台北帝大に赴任後も、京都帝国大学へ、「人類学」の出張講 義に出ておられ、その受講生に、京都帝大の学生だった坪井氏がおられたの です。
第二次大戦の戦況から、学徒も招集され、坪井氏を学生のまま 、台湾へ行くことになりました。
坪井氏は、台湾において、時間が取れる時は、文化の香りを求めて、金 関邸をしばしば訪問、単なる受講生というだけでなく、後に、金関の発掘の 主要メンバーとして信頼される人間関係ができたのです。
金関氏は、「三津永田遺跡」、「土井ケ浜遺跡」と、発掘調査の際、坪 井氏に協力を要請、坪井氏もそれに応えました。
「土井ケ浜遺跡発掘」のシナリオ≠ヘ、坪井氏が主として立てたもの だといいます。平成四年度「朝日賞」を受賞したこの坪井氏を初めとして、 土井ケ浜遺跡発掘に関係された方々が、今日、代表的な学者となってお られることを見ても、「土井ケ浜」は幸せな「遺跡」であったといえる のではないでしょうか。



◎ 国分直一氏と「土井ヶ浜遺跡」

お手紙拝見しますと、土井ヶ浜遺跡をめぐる研究史を御執筆とのこと、 ありがたいことと存じます。
私が土井ヶ浜遺跡の調査に最初だけ参加してあとは参加してい ないのは、種子ヶ島の広田の埋葬遺跡の調査をしなくてはならなく なったからです。
この調査はわが南島先史時代の研究を進める上で決定的に重要な調査と なりました。
金関丈夫先生も金関恕教授もあとで広田の調査に御参加なさって下 さいまして、重要な成果を上げる上で指導的役割を果して下さいました 。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(国分氏は、「学生」にも丁寧な言葉を使 われたと聞いていますが、私への手紙も、「原稿用紙」を用いるというよう な「心配り」をして下さっていました。)


◎ 国分氏と金関丈夫氏及び 丈夫氏の「家族」との関係

国分氏と、金関氏との「関係」は、「台湾」以後も、続いています。
『えとのす 21』において、「金関丈夫先生との半世紀」 という「一文」を載せておられます。

金関丈夫先生は私にとっては、人生の教師であり、学問研究 の上では、導きの星であった。
で始まるその「一文」は、お二人の深い「人間関係」を綴られた、貴重 なものですが、かなり長いものですので、現時点では、「紹介」はできませ んが、
金関先生のお誕生日は二月十八日であった。
我が家ではその日をよく覚えていて、必ずお祝いの電報をさし上げるこ とにしていた
とあり、

金関 恕氏の『考古学は謎解きだ』には、
山口から親父の長年の友人であった国分直一先生が来られ、泣きなが ら新聞のための追悼文を執筆してくださった。
とあります。
なお、この『考古学は謎解きだ』によると、金関 恕氏と奥様の文子さ ん(当時、国分氏の勤務しておられた「下関水産大学校」の同僚の松沢寿一 教授のお嬢さん)とが結婚なさるきっかけ≠ヘ、国分氏がつくられたよう ですから、いろいろな意味で、国分氏と「金関氏一家」の関係は深かったと いうことでしょう。



◆ 背景(その4)=金関恕氏のこ と //(戻る)

金関丈夫氏の次男である氏が、「医学」への道ではな く、「考古学」への道を 取られた「理由」を恕氏からお聞きすることができました。
父=丈夫氏は、恕氏の兄=氏に続き、恕氏にも、「医学部」 の受験を望んでおられたそうですが、戦後の混乱の中で、食糧事情 等から、祖父喜三郎氏以来ゆかりのある松江の「松江高等学校理科 」で学んでいた恕氏に、「どうなるかわからない時勢のことゆえ、好きな学 問をしてもいい」と丈夫氏が折れ、恕氏は、考古学への道を取ることになっ たというのです。
そして、結果的に、丈夫氏の研究を「考古学」の立場から、支える 大きな柱となられたわけです。
もっとも、恕氏が「考古学」に興味を持たれたのも、「人類学」専攻の 丈夫氏には不可欠≠ニもいえる「発掘調査」を見たり、手伝ったりされた ことが「理由」のようですから、混乱の中でなかったとしても、丈夫氏も、 最終的には、「考古学」への道を許されたと思います。

(金関氏は、「1999(平成17)年」に『考 古学は謎解きだ』という「自伝」ともいうべきものを「出版」されてお り、
その中の(124頁・126頁)においては、


昭和二十三年、食糧事情も好転し始めたころ、転機と なった出来事が起こった。
ある日、動物学の授業に出ると、先生が無造作に蛙の頭を切り落として 解剖を始めた。
空腹のせいかぼくは気持ちが悪くなった。
そして考え込んだ。
こんな神経で医学部に行けるだろうか。
台湾の親父の研究室で、人骨はなじみになったが、骨にはそれを覆う筋 肉や内臓があることを忘れていた。
見回せば、今、医者も決して飽食しているわけではない。
同じ飢えるのなら、好きな考古学をやってみよう。
親父から反対の手紙が届いたが、あえて志望を変更した。
高校も終わりごろ、親父の意に反してぼくは考古学への転進を決心し た。


と、一見≠キると、私に話してくださったこ とと違った≠アとを書いておられるように見えます。
ツマリ、親父の意に反して≠ニあり、私がお聞きした時は、 蛙の解剖のことは触れられなかったからです。
しかし、
今、医者も決して飽食しているわけではない。
同じ飢えるのなら、好きな考古学をやってみよう。
と、好きな=u考古学」への道に進むことができた のは、結局は丈夫氏が折れられたからこそと思われますので、実質 的な違いはないと思います。

なお、長男毅氏の場合も、丈夫氏に無理矢理押しつけられたという わけではなく、「いずれ、軍隊に取られることは間違いない。それなら 、人を殺す方より、人を救う軍医の方がいい」と、医学の道に進まれたとの ことですし、結果的に解剖学(但し、人類学とは無縁)の道を歩まれ、丈夫 氏ゆかりの、九州大学解剖学教室の教授となられたのです 。(私が電話で話を伺った時は、「佐賀県立医科大学」の副学長として、佐 賀におられました。
また、国分氏の話では、丈夫氏の三男=(とく)氏は、「東京 都立研究所所長」等を務められた「微生物学研究」における世界的権威 だとのことでした。
恕氏は、「発掘調査」の最初≠フ年=昭和28(1953)年に、 京都大学文学部史学科考古学専攻を卒業され、確か「大学院」に在籍で、「 発掘メンバー」の一人となって参加しておられるハズです。
そして、今日は、坪井氏ともども、日本考古学界 の指導的な立場におられる
ことは、周知のことと 思います。

(「写真」は、「金関先生を知るには、ぜひ、 読んでほしい」と国分氏に紹介された『えとのす 第21号』( 1983年7月10日  新日本教育図書株式会社刊)からスキャナ≠ナ 取り込みました。
1940年、台北の自宅にて」という「解説」がありますが 、「左」から、丈夫氏→長男毅氏→次男恕氏→丈夫氏の夫人=ミドリさん→ 三男悳氏と思われます。
この『えとのす 21』は、金関丈夫博士その人と学問の世界−金 関学の周辺  発見と研究の展開−という「特集号」であり、編集主幹 として国分氏が係わっておられるものです。
この「本」を手に出来たのは、国分氏の配慮によるものですが、この中 の浜田 敦氏の「金関先生を悼む」 という「一文」は、角田文衛氏の「人類 学者 三宅宗悦博士」という「論考」とともに、私のこの邂逅≠フ不 思議という「調査・研究」のきっかけになっています。)


◆背景(その5)=小川五郎氏のこ と //(戻る)

「土井ヶ浜」出土の「人骨」について、三宅宗悦氏が『防 長史学』という地方研究誌に発表されていたことを、金関丈夫氏は、知って おられました。
それは、三宅氏と金関氏とは、清野謙次氏の、兄弟弟子≠ニいった関 係が「京都帝国大学」においてあり、当時、浜田耕作氏の教室で「助手」と して勤めておられた斎藤忠氏によると、「病理学教室」の三宅氏が、兄弟 子%Iな、「解剖学教室」の助教授=金関氏の解剖時の助手≠何度か務 められていたとのことです。
当然のように、金関氏は、三宅氏が在世でしたら、協力を呼び かけられたでしょうが、既に亡くなっていたこととて、山口県において、旧 制「山口高校」から、新制の高等学校の校長に転じておられた小川 氏に、協力を求められたのです。
それは、小川氏も、待っておられたことでした。



◆背景(その6)=斎藤忠氏のこと //(戻る)

金関丈夫氏や三宅宗悦氏 と「京都帝国大学」で副手という立場で親交のあった斎藤忠氏は、この時、 「文化財保護委員会」の考古学担当の技官でした。
斎藤氏は、単に「視察・調査」に訪れられただけではなく、短期間では ありましたが、発掘作業現場にも出向かれて、その人柄から、中央≠フ偉 い先生であるのに、発掘作業を手伝った婦人たちから、「長府博物館」の伊 秩洋子氏の話では、チュー先生=Aチューさん≠ニ、親しみを込めて呼 ばれていたとのことですし、斎藤氏も、むしろ喜んでおられていたといいま す。
「敬意」を持たれつつ、親しみを込めて作業の おばさん£Bから話しかけられるという、チ ュー先生≠ネらではのことと思います。
斎藤氏は、その後、「東京大学」の教授になられますが、そこで「同僚 」となられた金田一京助氏と、北海道に研究のため、一緒に行かれ たときのことを話していただいたことが今も、強く記憶に残っています。

石川啄木の理解者、国語学の権威で、「国語辞書」の監修者 といった面で知られているのみならず、横溝正史の「小説」の 「主人公=金田一耕助」や、「漫画」=『金田一少年の事件簿』(金 田一耕助の孫=一)にも、その名に因んだ「人物」が登場している金田 一氏ですが、特に著名なのは、ご承知のように、「アイヌ叙事詩の研究 家」ということです 。
「小学校」の『教科書』に確か「心の小径」という題だったと思います が、協力が得られず、 傷心の思いで、せめて「絵」でも書こうとしたこと から、子供との交流が生まれ、アイヌの研究がはじ まったという内容だっ たと記憶しています。
その金田一氏と、アイヌの人達のところを訪ねた時のこと、「作業着」 の老婆と、「スーツ」を着た金田一氏が、お互いの姿を確認すると、どちら からともなくすがりつかれ、抱き合われたといいます。
老婆は。「センセイ」と言いながら、金田一氏は「元気でいてくれ て ありがとう」と言いながら、二人とも、「再会」に涙されていたとのことで した。
そして、こうした二人の姿を見て、心の交流が、研究者の原点 だと思ったといわれたのです。
斎藤氏の、おばさん≠スちに対する対応も、この原点≠ェ響いてい るのだと思います。



◆背景(その★)=山本 信氏のこ と //(戻る)

「金関発掘調査」の当時 、河野英男は、「山口県教委」の「社会教育課」の「文化係長」 でした。


「土井ヶ浜出土の人骨」が、三宅宗悦氏によって評価 されたことで、そのことが一つの契機となり、いろいろとチャンスを与 えられ、それをこなすことで、英男は、小学校の理科教員としては、それな りに知られるようになるのです。
そのことを、英男の『陶片の楽書』32&ナから抜いてみま す。
・・・この文の後半でまた述べてい るように、私はいわば「超人」と化した。周りは、私しを以前にも増して好 意的にみてくれるようになった。私の「人生の充実期」は意外に早く訪れた 。(好きなことを思うままにさせてもらい、それが評価してもらえたのだか ら、まさに「充実期」そのものであった。)
私はやがて、研究をまとめたらとか、発表をと、勧められるようになり 、その機会も与えてもらった。すると、それが引金となって、連鎖反応のよ うに、そうした機会が続いていったのである。
この期の比較的大きなものだけでも、昭和七年の「私の理科教育」の研 究論文、山口県第二位、十月の「小学校各学年教材研究」、山口県第一位と いったものが上がる。研究に一応の句切りの付いた昭和十年四月、私はやは り小学校に勤めていた妻の理解もあって、師範の専攻科に学びなおすことに し、卒業して、小串小に転勤、ここで新たにに研究をはじめ、それがやがて 、松崎小学校上利恭助校長に招かれることにつながるわけである。

その「松崎小学校」において、伊藤周 一校長の「推薦」をいただき、「理科教育担 当」として、「山口県教委社会教育課」の「主事」になり、 当時≠ヘ、少人数≠ナ、多くの「担当」をしていたこととて、「文化 財」関係も、担当したのですが、その仕事ぶりが「評価」され、「 文化財保護法」の制定に伴い新設された「文化係長」に していただいたのです。
「発掘調査」は、昭和28年からですから、「係長 」に゜なって、三年後ということです。



「神玉小学校」 時代、担任した山本至公氏の父親であり、教育活動に協力的であった山本 信氏が、「地元」の 発掘調査団をまとめてくださることになったのを始め、かつて、「神玉 小学校」に勤めていたことからのから、わずかばかり、お役 に立ったのであろうと思います。

金関氏は、 貴方の御斡旋により村方面より多大の御支援をいただくことが出来、 円滑に且つ極めて経済的に通行することが出来ました≠ニ、いささか面 はゆい言葉を寄せてくださっていますが、山本氏など皆さんは、英男に関わ りなく、協力してくださったと思います。

「写真」は、山本信氏。



◆背景(その7)=プール≠フこ と //(戻る)

斎藤氏には、御自宅にお邪魔し、「録音テープ」をま わしながらの「調査」を許していただいたのをはじめ、多くの「手紙」・「 はがき」をいただいています。
当然、「父=英男」宛のものもありますが、その中の「昭和30年11月4日付」の「手紙」の一部≠紹介しておこうと思います。
「発掘調査」が開始されて3年目≠フ「終了 」の時点の「手紙」ですが、藤島亥治郎 氏のおっしゃったプールの「実例」となろうかと思います 。

・・・・・・・・・・・・・・
土井ヶ浜遺跡も弥生式文化の墓制を示す上に重要なものと存ぜられます 。
幸にも、地元におきましても保存についての熱意をもっておりますので 、取り敢えず貴教育委員会において、縣指定等の適切な措置をおとり下さい ますれば幸甚と存じます。
何卒ふしてお願い申し上げます。
・・・・・・・・・・・・・・・・

と、父より年上であるのみならず、いわば、雲の上≠ニもい うべき「地位」にある斎藤氏にして、このように、事務的≠ナは ない言葉をつづってくださっています。

(参考)
◎ 「土井ヶ浜遺跡」の「発掘調 査」の「記録」  (『山口県地方史研究』の12・13頁には詳しく 記しています)
「第一次」=昭和28年10月6日〜10月26日(21日中の12日 間)
「第二次」=昭和29年9月2日〜9月12日(11日間全日)
「第三次」=昭和30年9月7日〜9月20日(14日間全日)
「第四次」=昭和31年9月27日〜10月8日(12日間全日)
「第五次」=昭和32年8月1日〜8月16日(16日間全日)


◎ 「指定」の年月日
「山口県指定文化財保存顕彰規程」による「県指定」[昭和31年9月27日](4年目≠フ「発掘調査」の「開始日」 と一緒ということは、当然=A斎藤氏の意向を受けて、それまでに、「県 指定」への申請をしていたということです。 なお、金関丈夫氏による本格的な=u発表」は、まだ、されていなかった ハズです。)
「国指定史跡」への昇格[昭和 37年6月21日]


● (大きな=u疑問」)
金関丈夫氏の「履歴」に「山口県立医科 大学」が抜けている≠アと //(戻る)

『鏡外余話』「第一解剖学教室の歴史」において、粟屋氏が、「次」のよ うに、金関氏を語っておられることからも、金関氏が「山口県立 医科大学」の「教授」であったことは間違いないことです。

昭和三十七年四月二日・金関 丈夫氏が尾曽越教授の後任として着任。第二代目教授。
(ほぼ、一年間は、「教授」の席は空 いていた形になっているようです。)
・・・・・
昭和三十九年三月三十一日・金関丈夫教授定年退職。新設の帝塚山 大学教授に就任。
金関丈夫教授は台北医専(昭和九年 ─  十一年)、台北大学(昭和十一年 ─ 二十四年)、九州大学(昭和二十五年  ─ 三十五年)、鳥取大学(昭和三十五年 ─ 三十七年)の教授を歴任され たのち、本学に二年間在職された。
同教授は人類学者として有名であるが、先史古学、民族学、医学史にも 深い学識をもつておられた。
本学の在職期間は短かかったとはいえ、その学問的深さの故に当時の教 室員が受けた感化にははかり知れないものがあった。
金関教授は台湾時代には東亜の古人骨と東亜各人種の生体計測、九州大 学時代には主に弥生人骨について研究を進められた。
この研究によって、弥生時代に北九州方面に多量の大陸的人種の流入が あったことを証明し、日本民族の成立に新知見を加えられたことはあまりに も有名である。
同教授は今日なお帝塚山大学教授として活躍中である。最近、詩集「洵 異集」を出版された。
・・・・・

◆参考(その1)=「山口県立医科 大学」と渡辺剛二氏、水田信男氏のこと

金関氏の「山口県立医科 大学教授」への着任の件の前に、話しておくことがあります。

金関氏の着任された「山口県立医科大学」は、三宅宗悦氏の義理の 兄渡辺剛二氏ゆかりの大学でした。

兄の死去により、「宇部興産」の会長を勤められ、奨学資 金等も設けておられる剛二氏は、もともと熊本医科大学出身の医者でした。
それが、兄の死去により、今日の「宇部興産」の関係会社の世話をする ようになられたのですが、父=祐策氏の看護には、自ら何度も当た られ、祐策氏も、それを喜ばれ、「剛二の注射は痛くない」と言われたとい います。
(なお、三宅宗悦氏の姉=柔子氏との間に生まれたご子息の一人 は、京都大学医学部を卒業され、宇部興産中央病院の院長などを歴任されい ていました。)
更に、剛二氏は、山口県議会の議長なども務められるという父= 祐策氏に劣らぬ活躍をされた方であるが、「山口県に医者」の学校を作 ることが夢であったといいます。
そのことは、粟屋和彦氏が、「論文」にしておられますが、「 山口県立医科大学」の設立に当たっては、剛二氏が大いなるバックアップを され、会社の病院を大学の付属病院に提供されていますし、
また、付属病院=「同仁病院」の院長として、剛二氏が招き、右腕とし て頼りにされていた水田信男氏も、大学設立について尽力され、大 学が開校されると、元、京都帝国大学医学部助教授であったこととて、教授 として、研究職に復帰されています。
この水田氏は、金関氏の大学時代の親友の一人であったのです。



◆参考(その二)=金関丈夫氏「山 口県立医科大学」のこと //(戻る)

昭和35年(1960) 3月九州大学を定年退官し、鳥取大学教授(35年4月〜37年3月)とな られます。
周知のように、「大学」は定年となる年齢がマチマチで、鳥取大学より も更に「定年」が遅かった「山口県立医科大学」(現 山口大学医学部)に 2年=A教授として勤務されています。
このワンポイントリリーフ≠ノついては、次のような逸話があるので す。

ワンポイントリリーフの件 

山口県立医科大学の当初からおられた尾曽越文亮氏が、画 期的な業績をあげられ、岡山大学に招かれることになった際、後任の解剖学 教室の教授に、九州帝国大学出身で、助教授だった粟屋和彦氏を推 薦されたのですが、粟屋氏が若すぎるという声が教授会であり、その対策と して、水田氏が、京都帝大医学部の学生、助教授として旧知の友人である金 関氏の了解のもと、ワンポイントリリーフ≠提案し、金関氏が教授にな られたというのがそれです。
金関氏は、九州大学時代の「教え子」の方達のアドバイス 等をするのに便利だとして、承認されれば、喜んで引き受けようと言われて いたと言います。 

尾曽越氏は、その後、母校の京都大学の医学部教授に戻られるなど、大 きな業績をあげられていますが、その尾曽超氏が、私に、もう時効だろう ≠ニして、話してくださったのです。
粟屋氏は、金関氏が2年間=A教授を務められた後、教授となられた だけでなく、その後、学部長、更には、国立に移管された「山口大学」の学 長等を歴任されていますが、私がお訪ねした時は、「宇部短期大学学長」で した。

山口県立医科大学時代の金関氏は「研究室」に寝泊りされ、週末に 松江に帰られるという生活であったといいます。
わずか2年≠ニいう期間がわかっていたためでしょう。

なお、この「山口県立医科大学」教授をうけられたことが、金関氏 の学問的な協力者≠ナある国分直一氏の命を救う≠アとにつな がっているのです。
国分氏は、階段を踏み外され、強く頭を打たれたのですが、痛みはまも なく引いたため、そのままにしていたといいます。
ある時、宇部の大学に金関氏を訪ねられ、帰られる際、不自然に転倒さ れ、それを見た金関氏や、金関氏の教室員の方々が、すぐ、検査を勧められ 、緊急手術をすることになったといいます。。
その手術が成功し、なんの後遺症も残らず、国分氏は、その後、「東京 教育大学(現 筑波大学)」に招かれ、大きな業績をあげられるのです。
後に、大学を辞められ、「防府市」で開業されていた河村武夫氏の見事 な執刀であったといいます。
国分氏は、どういう症状であったかを知られてもいいとして、河村氏を 紹介してくださったのですが、「例え国分先生ご本人がいいと言われたとし ても、他人に言うことはできません」と、教えてはくださらなかったのです が、河村氏は、「一瞬の動きも見落とさないことが、人を救う」という体 験≠身をもってしたことが、いい思い出になっていると言われました。



◆参考(その3)=三宅宗和氏(宗悦 氏子息)とのこと //(戻る)

三宅宗悦氏の妻=夫規氏 は、宗悦氏の戦死の直前に亡くなっており、軍医として召集された宗悦氏の 子息=宗和氏は、柔子氏の嫁ぎ先の渡辺家で育たれました。
金関丈夫氏が、「山口県立医科大学」の教授として着任されたことで、 金関氏と成人されていた宗和氏とは「宇部」の地で、対面され、宗悦氏につ いて語りあわれたといいます。


山口県立医科大学退官、帝塚山大 学へ //(戻る)


昭和39年三月退官し、4月から帝塚山大学教授として迎 えられ、 奈良の岩室≠ノ住居を構えられた。

岩室は奈良盆地の真中辺にある裕福な村である。
その村の旦那衆の屋敷のひとつが事情があって売り物に出た。
帝塚山大学に移られた金関氏が、静かな田舎で、通学に便利で、ご子 息の金関恕氏の勤務先=天理大学にも近いということでそれをお 求めにな り、母屋を建て直してお入りになったのである。



金関丈夫氏の「朝日賞」受賞、そ して「死」のこと //(戻る)


昭和54年1月 「南島の人類学的研究の開拓と弥生時代研究の業績 」に より、昭和53年度朝日賞を受けられています。
(参考)  「1978(昭和53)年」の 「朝日賞」

金関丈夫 南島の人類学的研究の開 拓と弥生時代人研究の功績
朝比奈隆 交響楽運動での貢献
土門拳 「古寺巡礼」をはじめとする写真家としての多年の業績
藤田晢也 中枢神経系細胞発生の研究

金関氏の晩年について、『えとのす 第21号』(98 頁〜)にある福本雅一氏の「晩年の金関先生」を下敷きにし て、記してみます。

先生の晩年は、あれほどの精励の当然の報いとして、安らかな休 息とのどかな日々を享けるべきであった≠ノもかかわらず、金関氏は、糖尿 病にかかって、次第に記憶力の減退をみるようになられ=A言葉を失≠ れるようになっていったといいます。
最後の論文は、松本清張さんに頼まれた「倭人のおこり」である。
清張さんがわざわざ研究室まで訪ねてきたので、先生は断りきれなくな ったのである。
それに対して、私は一つのアイディアを提供し、簡単にまとめるよう勧 めた。
しかし先生は、倭に関する架蔵の書物をすべて読み返し、当時、求めら れる限りの新刊──ずいぶんくだらぬものも多いが──を買い込んで読破し た。
精力の衰えた先生にとって、これは辛い仕事だった。
こうしてわずか二十数枚の原稿を書くのに、ほとんど一年を費やした。
掉尾の努力、それは『ゼミナール・日本古代史』に収められているが、 先生の作としては決してよい出来とは思われない。
しかしその始終を見ていた私は、胸が熱くなった
「朝日賞」受賞の時も、途中でつまづいて、謝辞を原稿通りに読め なかった≠ニいう。
そして、先生は何もいわず、煙草の灰が燃えつきて落ちるように 、 何の未練もなく忽焉として逝った。
先生はただ淡々とボケてゆき、そして恍惚の人となる少し前に、 全 く人に迷惑をかけることなく、この世を去った。

また、次男=金関 恕氏の『考古学は謎解きだ』(257頁)に は、「次」のような「記述」があります。

深夜テレビの映画、イングリット・バーグマン主演の「汚名」を 見ていた親父は番組が終わると「つまらなかったな」と言って立ち上がり「 気分が悪い」と訴えた。
「横になりなさいよ」といった時、よろよろとぼくに倒れかかってきた 。
あわてて抱きとめて寝かせると、瞳孔が開いたようになっている。
救急車を頼み、病院で手当を受けたが、蘇生しなかった。
二月二十七日の夜明けのことだった。(註 5時10分)
病名は心筋梗塞と診断された。
享年八十六。
文字通り死の直前まで映画を楽しんでいた。

「京都帝国大学」を出られてから、京都、台湾、九州、中国、畿内とそ れぞれの地で、その土地を愛し、研究をつづけた金関氏の死であった。
奈良駅の近くの「教会」で告別式が行われた後、「九州大学」に御遺体 がつ き、献体式(おわかれの会)の後、御令息で、当時、九州大学医学部 教授であった金関 毅氏(九州大学退官後は、佐賀県立医科大学の副学長等) と永井昌文教授(金関氏が「九州大学」に着任した時、「助手」となり、以 後、金関氏と「解剖学」及び「人類学研究」を共に歩まれた方)の手によっ て、「解剖」にふされたという。
この「献体解剖」は、医学部で教鞭を執られた方々には珍しくない こ とであるが、金関氏の場合は、「父=喜三郎」 氏はご自身の手で、金関氏 は、「遺言」によって、「形質人類学の研究資料」のために、「骸骨 」と して、九州大学の研究室に立ち続けておられることを付け加えておきたい。
なお、いらぬことながら、「遺体の解剖」には携わられた毅氏は、その 後、「骨」にされる際は、永井氏お一人に託されたと、永井氏は、私に語っ てくださいました。
(『考古学は謎解きだ』によると、恕氏が、遺骸の「病理解剖」を亡く なられた「病院」にお願いされ、毅氏と悳氏が立ち会われた(258・25 9頁)ように書かれています。
「医学部教授」への「献体解剖」との関係が私にはわかりませんので、 「病理解剖」とは別に、改めて「医学」のための「解剖」が「九州大学」で なされたのかどうかを、残念ながら、永井氏は亡くなられていますので、お 聞きすることもできません。
永井氏の「マンション」をお訪ねした時、奥様と御一緒で、思いもかけ なかった、長時間の対応してくださり、いろいろなことを話してくださった のですが、「メモ」を取っていなかったため、私の「聞き違え」の可能性も ありますが、ただ、「骨」にされる時、永井氏が「毅氏から託された」とお っしゃったことは、間違いありません。
奥様も、金関氏の「研究室」におられたということで、金関氏が九州大 学にお出でになった当時のこと、金関氏の深い「教養」等、興味深い話をお 聞きしたものです。)



◆参考(その4)=「土井ヶ浜人類 学ミュージアム」の設立と坪井清足氏とのこと //(戻る)


「土井ヶ浜遺跡」は、金関丈夫氏を中心に、金関氏 の教室の永井昌文氏を始め、坪井清足氏・小川五郎 氏・国分直一氏・金関 恕氏・水野正好氏、更には 、杉原荘介氏といった、「考古学界」リードされ る、多くの方々によって、発掘調査がなされ、大きな成果をあげて、
昭和31年9月27日の「山口県指定文化財保存顕彰規程」のもと での「県指定」を経て、
昭和37年6月21日に「国指定史跡」 となります。
「考古館」が建てられ、史跡の傍らにあった養老院「松濤苑 」の職員が鍵をあずかっていて、申し出によって、見せてもらうという 「システム」で、「土井ヶ浜」という美しい=u海水浴場」 近くで、多くの海水浴客はあるのですが、残念ながら、いつのころか、 「考古館」には、来訪者はほとんど≠ネくなっていきました。
私は、母の実家があることとて、何度も行っていますが、残 念ながら=A一度も、私たち以外の「見学者」に会ったことはありませんで した。

時が経過して、「京都大学の大学院生」であった坪井 氏は、「考古学」の指導者として、活躍されるようになっておられまし た。
その坪井氏が、ある年の夏=A「土井ヶ浜遺跡」を訪れられた時のこ とです。
「山口県」の関係者の案内で「土井ヶ浜」に立寄ったところ、小 さな「資料館」はほこりにまみれ、海水浴客の車が遺跡の中に、無造作に数 多く乗り入れていたのです。


これでは余りひどいではないかと注意したことがきっか けになって土井ヶ浜遺跡の整備が県、豊北町でとりあげられ、今日の整備が 実現したのは誠に有難いことである。
遺跡保存整備にあたって、土井ヶ浜遺跡は砂丘なので露出展示すること は不可能であり、文化庁記念物課の安原啓示主任調査官の意見でネクロポリ ス(墓地)は薄暗いドームにしてはとの案を採用することになったことしも付 け加えておきたい。
[『山口県史資料編考古1』(平成1二年 3月二1日発行)の中に入れられていた「附録」=「防長二国とのおつき あい」より。]


坪井氏がこうした文を書かれる以前に、私はこのことを既に活字にして います。 (『山口県地方史研究第七5号』の中の「人類学者三宅宗悦博士 ―山高郷土史研究会=E土井ヶ浜遺跡℃鮪nめ―」) 

そして、「土井ヶ浜」について、既に何度か話をしたことのある「 県教委」の乗安和二三氏が防府市文化福祉センターで講演された後 に乗安氏に出会い、その乗安氏に「昭和6年の出土」の「写真」が載ってい る「新聞」があるということを話すとともに、
私が当時≠フ「県教委」におられた方に教えてもらった坪井氏の迫 力ある注意≠ェ、再び、「土井ヶ浜」の発掘がされるきっかけ≠ノなった ようだということを話していると、この坪井氏の「土井ヶ浜遺跡」訪問のす ぐ後に、坪井氏とあったという「防府市教委」の吉瀬勝康氏がたま たまおられ、
その「背景」を、解説してもらいました。
「次」は、改めて「メール」で確認したことに対しての「回答」からの 引用です。


当時の状況を、考えてみます。
県の担当者が怒られることを予想もしていなかった、不意を食らったの は本当でしょう。
だからこそ、坪井氏が求めるままに土井ヶ浜へ案内したのでしょう。
当時、史跡の管理、整備については、現在に比べるとまだまだの時代で した。
国指定の史跡でも当時の土井ヶ浜のような状況は、全国、県内でも 多くありました。
当時は北九州からのマイカー客が急激に増えた時代で、海水浴客の駐車 場整備も遅れていた状況です。
県教委や豊北町はこのような状況が良いとは思っていなかったとしても 、それほど困ったことだという認識は無かったものと考えられます。
そこで、坪井さんを土井ヶ浜に案内することに何の危機感も無かったと 思うのです。
坪井さんが県教委に対し、具体的にどのような怒り方をしたのか、どの ような注意、指導を行ったのかについては、私は聞いておりませんのでお伝 えできません。


さて、この坪井氏の迫力ある注意がきっかけとなり、とり あえず、どこからどこまでが「遺跡」かの「範囲確認」の調査を始 めたところ、その調査で新たな出土が次々とあり、「調査」が続いていくこ とになったのです。
そして、それが、「土井ヶ浜人類学ミュージアム」の建設へと続い たのです。

従って、「土井ヶ浜遺跡」が新たな歩み≠大きく踏み出すこと になったのも、金関丈夫氏と坪井氏の邂逅≠ニ無縁ではないので す。











Εメール  「気 づき」や「わかりにくいところ」などがありましたら、ここを クリックして、お教え下さい。
また、「引用」をされる場合は、ここから連絡を御願いします。
もしも、「連絡」をいただいた後に、更新した場合 は、「連絡」しますし、既に「活字」になっていたら、私の「出版 」において、「フォロー」します。




「リンク」設定


「野村望東尼 」
 ↑ クリック≠キると、野村望東尼についての「構成」が出ます。
「百万一心」
 ↑ クリック≠キると、「毛利家」の「百万一心」に関する「構成」が出ます。 








mini-counter