平成19年8月26日 公開
平成20年8月4日 更新
「萩焼」の歴史 〈「山口県」以外の執筆者の場合〉

「萩焼」の歴史≠ノは、諸説≠ります。
「山口県」以外の方達に、どう受け取られていたかを「紹介」しておきます。

@ 『北村彌一郎窯業全集』
  山口県関係    
〈下線の文字=旧字に転換できなかった文字。本文にも外字≠ナないと示せない旧字が幾つもあり、対処しきれませんので、新字体で記します。〉〉
     
  [牟禮村末田陶業]〈大正二年三月〉=189頁〜194頁
  [大道陶業]〈大正二年三月見聞〉=194頁〜196頁
  [密會会製陶所]〈大正二年三月見聞〉=197頁〜199頁
  [須陶業]〈大正二年三月見聞〉=200頁〜208頁
  [長州燒]〈大正二年三月見聞〉=208頁〜209頁
  [小月燒]〈大正二年三月見聞〉=210頁〜212頁
▼[萩 燒]〈大正二年三月見聞〉=212頁〜215頁
名 称 萩焼は又松本焼とも云へり
製造家 2戸、坂高麗左衛門及び三輪禄郎
坂家は当主を九代目とす 職場は祖先より今の所なるも窯は八代高麗左衛門の時(67−68年前)現時の処に移せりと云へり 往時の位置は現場より数町を距れたる山腹にありと
三輪家も当主を九代目とす 八代目より今の処に移る共以前には小畑に居れりと(高麗左衛門氏印刷萩焼陶器由来なる一葉摺を参照)
原 料      略
坏 土      略
成 形      略
釉 釉(ママ)     略
窯         略
窯 詰      略
焼成時間     略
焼窯数 1箇年に坂工場は4−5回、三輪工場は3−4回(小畑にて坂工場は年産額約1万円、三輪工場は5000円なりと聞けるも焼窯及び職工数より見て恐らく其の半額以以内なるべし)
旧藩時代開窯の際は藩より検使立合を為し上等出来の物のみを取り(此等は多く進物品とす)其の他は破壊し一品も坂氏の私に取るを許さず
祖先の作品 当主高麗左衛門先年旧藩公の陛下の叡覧に供せし蟇仙人の置物を見たり 祖先の時より絵萩(或は絵松本)を作れり
従業者  坂工場 7―8名、内成坏工4名 三輪工場 4―絵名、内親子2名 成坏工2名
追 記      略
▼ [深川燒]〈大正二年三月見聞〉=216頁〜219頁
山口県長門国大津郡深川(フカハ)村
製造戸数 字三ノ瀬に6戸、字湯本に1戸、合計7戸何れも専業にして兼業者なし 往時安政の末頃製造家15-−16戸、維新の頃10軒許ありきと云へり 旧藩時代には藩外
移入を禁じありし為(禁か制限か)藩内各製陶地栄えしも維新後其の禁を解かれし為衰微せり
創始及び名称 高麗の法を伝へしより深川高麗焼或は萩藩公の保護により創れるを以て又萩焼とも云へり
文禄征韓の役毛利輝元公の軍に従ひ帰化せし李勺光の創始とす(李勺光は元和八年五月二十日死去)現在の三ノ瀬の製造家田原守雄は高麗陶兵衛と云ひ勺光より第十代の孫に当り第一位の製造家とす
製品品質  萩の坂・三輪と同じく大道土を用ふるものと地方の土を用ふるものとの2に大別し得べし 大道土を用ふるものは萩と同じく雅器にして地方土を用ふるものは日用雑器とす 大道土を用ふるものは田原守雄と坂倉平吉及び湯本の秋里長吉とし他は主として地方土を用ふ
原 土      略
坏 土      略
坏土と製品 大道土は茶器其の他雅物、河原土は火鉢・瓶掛の如き普通の荒物、川西土は型物成形に用ふ(湯本にて石膏型にて小皿を作れり)
水 簸      略
成 形      略
白 盛      略
素 焼      略
釉 釉(ママ)     略
窯         略
道具土       略
焼成温度     略
焼成回数     略
松 薪      略
  [小畑燒]〈大正二年三月見聞〉=219頁〜225頁
  [山口縣陶業に関する雑]〈大正三年三月記〉=225頁
  [田燒]〈大正三年三月〉=234頁〜235頁
  [佐野陶業]〈大正二年三月〉=381頁〜387頁
     参考 「視察」とあるのは[牟禮村末田陶業]のみ。なお、
       [田燒]・[佐野陶業]は、年月のみ記載している。
 
 
 A 「小山冨士夫」先生の講演≠フ中にあるものの抜き出し




 

朝日新聞社刊「小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁」
           〈昭和53年1月25日発行〉
     「古萩の歴史と特質」

 
 
抜き出し≠ナなく、「原文」は、次の「リンク」で、ご覧ください。
 
 これは既に皆さんもよくご承知のことですが、日本の陶磁史は文禄・慶長の役を契機として非常な違いが起こりました。文禄・慶長の役以前の窯というものは、日本に幾つもありません。・・・
 ご承知のように、文禄・慶長の役の後に日本の製陶業は急激な発達をとげました。萩焼もご承知のようにこの役の後に起こった窯の一つでありますが、ただ、ほぼ時を同じくして起こった高取、上野、薩摩に致しましても、また北九州一帯のいわゆる唐津に致しましても、ほとんどすべて九州に起こっていますが、九州以外に起こった窯としましては、萩焼だけのようであります。しかし今日言う萩焼は、文禄・慶長の役の土産として起こったものでありますが、それ以前にもこの地方で非常に焼物が発達していましたことは、さっき松本保三さんのお話にもありましたし、小川五郎さんも非常に精細な調べをされています。私も先年、ほんのちょっと、長州の焼物を調べたいと思って山口に寄ったことがありますが、長門はわが国でも非常に古くから焼物の発達した地方の一つで須恵器の窯跡が相当たくさんあります。殊に、ご承知のように『延喜式』には、長門と尾張、この二つの国だけから瓷器(しのうつわ)を奉ったという記録があり、平安初期には、尾張と共に、最も良い焼物を焼いたということが記録の上から推察されます。この瓷器についてはいろいろ意見がありますが、私の今の解釈としましては、これは今日のような陶器ではなく、須恵器の上手なもので、これに人工的な釉薬のかかったものであろうと思っています。
 尾張で瓷器を焼きました場所は、瀬戸ではなくて尾張の末(すえ)であろうと思います。ご承知かと思いますが、名古屋の北約三里ほど、瀬戸の西南約二里に末という小さな部落があり、付近の山稜にたくさんの須恵器の古窯址がありますが、ここから須恵器に人為的な薄い灰釉(はいぐすり)のかかったものが発見されています。またこの付近の古墳から、たまに終末期の須恵器で、これに釉薬のかかったものの出ることがあり、帝室博物館にも出陳されたことがあります。私はこの類の釉薬のかかった終末期の上手の須恵器が瓷器であろうと思っていますが、長門でもこれが発見された所があります。
 これについては小川さんが精細な調べをされており、山口県小野田町の字楢原というところに須恵器の窯址があり、ここから釉薬のかかったごく上等な須恵器が発見されているそうであります。これは私が調べのではありません。小川さんが発見されたものです。・・・この小川さんが周防、長門にある須恵器の古窯址を丹念に調査され、現在発見されている、はっきりとした地点十一ヵ所を『陶器講座』の「防長陶磁器沿革史」の中に挙げておられます。それで防長の須恵器の窯も恐らくは奈良時代に最も盛んで、藤原中期ぐらいで終わっているのではないかと思いますが、それ以降、文禄・慶長の役によって萩焼の興こるまでの三百年間ほどは、防長には窯はなかったのではないかという解釈を小川さんはとられております。私は確実な知識はもっていませんが、遺物を見ても、これに該当するような物は、どうもないようでありまして、防長地方には備前、信楽、丹波等に並行するような吉野朝・足利時代の窯はどうもないようであります。
 今日萩焼と言われておりますものは、ご承知のように文禄・慶長の役が終わった時、毛利輝元に従って来朝した李敬によって起こされたものとされています。萩焼は、これを大別して松本萩と深川(ふかがわ)萩に区別していますが、松本萩は更にこれを焼いた家によって、坂、三輪、林の三つの窯に分けています。それから深川の方も同じく焼いた家によりまして坂倉、倉崎、赤川の三つの窯に分けております。しかし、これ以外にも、周防、長門でいわゆる萩焼風の陶器を焼いた窯はずいぶん多いようでありまして、小川さんの調べによりますと、泉流山、東光寺、指月、総瀬、須佐、深川、俵山、山口、八幡、宮野、堂道、浅地、原河内、大原、旦、岩淵、西浦、鞠生、三田尻、玉祖、戸田等の窯はすべて松本・深川の萩焼の影響で起こった窯とされています。これは萩焼系統の窯ですが、それ以外、ご承知のように徳川中期頃から京焼の風も山口県下に興こっております。また九州の有田焼の流れをくんだ磁器の窯もあります。それから三島刷毛目(はけめ)等朝鮮風のものを焼いた窯もあるようです。吉向が行って楽焼をやいたこと等もあります。山口県下全体で焼けた焼物には、いろいろさまざまなものがありまして、山口市の郷土館には、各窯別にその代表的な遺品が陳列してあります。もしご覧になる機会があれば、一目でどんな種類の焼物が山口県にあるかがおわかりだと思います。中には、こんなものが山口県で焼けたかと思うような物がありまして、大変勉強になります。しかし山口県の焼物の主流をなすものはやはり萩焼であります。小川さんの調べによりますと、山口県下には萩焼系の窯が三十四あり、これに対し、京焼系のものは十、磁器は九つ、それ以外のものが十七というわけで、断然、萩焼系統の窯が多いようであります。また、発達史的に見ても、萩焼系のものが最も古く、京焼、有田焼風のものは江戸中期以降、多くは幕末の窯のようであります。このたくさんな萩焼系の窯の宗本をなすものはご承知の松本萩、その中でも坂家の窯で、ご承知のように萩焼は坂高麗左衛門という人が始めたということになっております。 
 しかし、萩焼の起源については次の三つの説があります第一の説は、坂家四代の新兵衛という人の上申書に、『焼物師由来書』というものがあり、この中に自分の曽祖父の高麗左衛門が、朝鮮から毛利輝元に連れられて来て、松本の唐人山という所に屋敷を建て、ここで初めたのが坂焼、松本焼の起こりだということを言っています。これに対し第二の説は、防長郷土史の権威者である近藤清石という人が書いた『霜堤雑草』という本の中にある説で、松本の萩焼の起こりというものは、李敬、すなわち高麗左衛門が開いたように一般には言われているが、実は間違いである。松本萩を起こしたのは、李敬の兄の勺光(シヤムカン)で、この勺光という者が、文禄の役にわが国の捕虜になって大阪に連れられてきていた。秀吉はこの者を、輝元にお預けになった。慶長六年(一六〇一年)、輝元が長門に居を移して後、屋敷を唐人山に賜って、勺光が起こしたのが深川焼(ママ 松本焼の誤りと思われます。この後の深川焼≠ニ矛盾しますので。)であって、その後に勺光が弟の李敬を本国から呼んで李敬も焼くようになった。李敬は初めは坂助八といったが、寛永二年(一六二五年)に高麗左衛門という名前をいただいて、それから後、坂家は代々高麗左衛門と呼んでいる。勺光が死んだ事は分らないが、その子の山村作之進という者が初めは高麗左衛門に養われていたが、後に深川焼を起こし、これが深川焼の起源だという説であります。すなわち、第一は坂高麗左衛門が始めたという説、第二は高麗左衛門の兄の勺光という人が始め、高麗左衛門は後に兄に呼ばれて日本へ来たのだという説であります。第三の説深川の窯元に言い伝えとしてい残っている説で、これは二つの説を折衷したような話です。勺光も弟の李敬も一緒に朝鮮から来て、兄の勺光の方は深川焼を始め、弟の李敬の方が松本焼を始め、松本萩も深川萩も同時に起こったという説であります。このうちどれが正しいかということは小川さんもはっきりとは述べておられませんし、私も調べたことがありませんが、一般には、李敬すなわち坂高麗左衛門が起こしたということになっています。今の坂高麗左衛門は十代で、この人に子供がないので、東京美術学校を出た方が養子(注十一代で、後に、山口県の無形文化財になっておられる)となり、今親子で焼いていますが、とにかく萩焼では坂家が総本家ということになっています。そして坂家ではそれ以外の窯はみんな弟子分だと言っています三輪休雪(現三輪休和)、坂倉新兵衛(十二代)などは今日の作家としてなかなか上手です。
 萩焼の歴史はざっとこういう風ですが、各窯で焼きましたものは、原料も、釉も同様で、作品の判別はなかなか困難ではないかと思いますが。、私はこれについては特に研究したことがありませんので、何とも申せません。・・・

B 『世界陶磁全集 5』「江戸編」→「山陽・山陰諸窯−萩・姫谷・楽山焼−」 発行所=株式会社 河出書房 昭和31年12月15日初版発行  (次の『陶説』とほぼ同じ内容です)

C 『陶説』昭和33年4月号掲載の「萩焼」 <97頁-101頁>  
 

D 『陶器全集21 萩・上野・高取・薩摩』佐藤進三著 平凡社刊 (昭和36年11月発行)