萩焼−小山冨士夫(富士夫)先生の「古萩の歴史と特質」

平成19年7月29日 公開
平成22年8月24日 更新


● 萩焼−小山冨士夫(富士夫)先生の「古萩の歴史と特質」
─ 「無形文化財」制度の発足当時≠ヘ認められていなかった「萩焼」だということの「立証」として ─


小山先生は冨士夫ですが、富士夫と思っておられる方も、相当数あるようです。





小山先生の「古萩の歴史と特質」なる「一文」は、「タイトル」は仰々しい≠フですが、
今日萩焼の研究会があるので、私にも何か話をするようにとのこと でありました。
私は萩焼については調べたこともありませんし、また、特に深い関心を持っているわけでもありません。
藤岡了一さんか満岡忠成さんのように、実際に窯をお調べになった方が適当だろうと申し上げたのですが、それでも何か話をしろということでありました。
殊に私は萩焼の歴史や特質等といったことは全く知らないのでありますが、この席に参りますと、私がこういう題で話をすることになっていました。
ということであり、この『小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁』への収録も、小山先生の意思とは関係ないのですが、
「萩焼」が、「無形文化財」制度の発足当時≠ヘ認められていなかったということの「立証」にはなる貴重なものだと言えます。

この「頁」は、もともと、朝日新聞の記者=白石明彦氏が、「山口県」の「陶芸」の権威者≠ノ取材して執筆したとされている、『萩焼人国記』なるものが、おかしいということを 立証するための一つ≠ニして設定したものですが、[Yahoo]、[Google]、等の小山冨士夫≠ニいう「検索」を始め、「小山冨士夫プロフィール あの人スパイシー」などで、目につく場所≠ノ設定されている(時によって、変わりますが、大抵、「検索」の冒頭頁に設定されています)ことがわかりました。

そこで、この「頁」ダケを見られても、ある程度=A前後関係がわかるように、「編集」しなおすことにしました。

私は、「萩焼」を典型≠ニして、「陶芸」が、[昭和二、三十年代において、エポックメーキング%Iな歩みをした]ということを、「証言」することを、「目的」としています。
といいますのは、当時=A「仕事」として係わったのが私の父=河野英男であり、「朝日新聞山口版」に「連載」当時、「間違っている」、「せめて、『資料』にダケでも目をとおしてほしい」と、要請したのに、「その必要を認めない」突き放されたのみならず、後日、そのママ≠、しかも、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った≠ニ「あとがき」に記して出版されているからです。

@ 「朝日新聞社」・A 「萩焼」関係で多数≠フ著作のある公的な立場≠ノあった人物の「証言」に基づく・B 「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った≠ニいう「あとがき」の記述は、「後世」に間違いなく=A誤り≠伝えることになると思うからです。

この「頁」は、
白石明彦氏が、小山先生から「昭和18年」には、評価≠ウれていたとして掲げる証拠≠アそ、
認められていなかった≠アとを示す資料
だったということを「立証」するための「頁」です。

なお、小山先生が、「陶芸」の世界において果たされた「業績」については、私がいうまでもないことのハズですが、こと「萩焼」の「場合」については、ろくに事情も知らない≠ナ執筆されているという現状からして、私の述べることで、補えるものと思っています。




朝日新聞社刊「小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁」
〈昭和53年1月25日発行〉


[1] 「古萩の歴史と特質」
[172頁14行目〜179頁8行目]




 今日萩焼の研究会があるので、私にも何か話をするようにとのこと でありました。私は萩焼については調べたこともありませんし、また、特に深い関心を持っているわけでもありません。藤岡了一さんか満岡忠成さんのように、実際に窯をお調べになった方が適当だろうと申し上げたのですが、それでも何か話をしろということでありました。殊に私は萩焼の歴史や特質等といったことは全く知らないのでありますが、この席に参りますと、私がこういう題で話をすることになっていました。何か話を致そうとは思っていましたが、折悪しく親戚に取り込みがありまして、何も準備する暇がなく、せめて一時間程前に来て小川五郎さんが書かれたものでも読み、それを代読でもして責めを塞ごうと思ったのですが、その時間もなかったような次第であります。私には古萩を中心にして、その前後の日本陶器全体の展望とでもいったことを話せということでありましたが、そんな大きい問題を僅かな時間に話すことも出来ませんが、ごくザッとした古萩の日本陶磁史上のポイントとでもいうようなことをお話(ママ)してみようと思います。
 これは既に皆さんもよくご承知のことですが、日本の陶磁史は文禄・慶長の役を契機として非常な違いが起こりました。文禄・慶長の役以前の窯というものは、日本に幾つもありません。ご承知のように文禄・慶長の役以前にあった瀬戸、信楽、常滑、丹波、備前、の五つの窯をわが国の五古窯といっておりますが、これ以外にもう一つ古い窯があります。この窯のことは、昨年ごく一部の方にお話(ママ)したことがありますが、今日はこの窯についてほんの一言申しそえて見たいと思います。従来知られている五つの窯については、それぞれの研究が相当進んでおります。
 私は専門ではありませんが、皆さん方の調べでずいぶん細かい深い点までわかるようになりましたが、これ以外に、もう一つ福井県の鯖江の近くに古い窯があります。これは名称を何と言っていいかはっきりしませんが、織田焼と呼ぶのが適当かも知れません。従来一部では小曽原焼と呼んでいます。この窯は昨年の夏、私もざっと調べて参りましたが、福井県の鯖江から西へ北陸線から分かれた電車が通じております。その終点に織田という小さな町があります。ここには織田神社という有名な社がありますが、この町を中心として、日本でも珍しい、大きな古窯址群が聚落しています。土師器の窯があったかどうかはまだ調べがついていませんが、須恵器の窯址は、織田から東の一帯の丘陵、直径約三里ほどの間に相当あり、今日発見されているものだけでも二十幾つかあります。藤原末、鎌倉時代にかけての窯のことはよくわかりませんが、備前、信楽、丹波に並行する足利時代の窯址がまたいくつかあります。これら足利時代の窯のあることは古くから一部の人には知られておりまして、俗には、これを小曽原焼と呼んでいました。小曽原の名称は、明治の中ごろ小曽原の窯元で大変宣伝上手な人がありまして、付近の窯は、古い窯も新しい窯もすべて小曽原焼で通してしまったものですから、この名前がひろまりましたが、実際に足利時代のの窯址のあるのは小曽原の西北約半里、織田の南西約一里のところにある平等と書いてタイラと読む小さな部落にあります。平等の部落から更に南へ十町ほど行った山の中に、土地で大窯といっているところがありますが、ここに足利時代の窯址がいくつかあり、はっきり窯の構造のわかる穴窯が二つ残っています。これは今日まで私が歩きましたわが国の古窯の中でも、最も完全に当時の様式を残しているものの一つであります。付近には、たくさんに甕・擂鉢類の破片が散乱していますが、一番によく似ているのは丹波で、古丹波そっくりのにような焼物を焼いております。
 この平等には、この他にもいくつか古い窯址があるらしく、相当たくさんの窯が昔からあって、盛んに壺・甕・擂鉢等の雑器類を焼き、北陸地方の需要をみたしていたようであります。細かいことはいずれ何かに発表したいと思いますが、とにかく福井県の鯖江市の近くに日本でも珍しい古窯址群のあることを、この席上で簡単にご紹介申し上げておきたいと思います。ですから今日まで五つの古窯と言っておりましたが、もしこの織田焼(注 後に、これを「越前」としておられるようです)も入れれば六つの古い窯があるのですが、ご承知のように、文禄・慶長の役の後に日本の製陶業は急激な発達をとげました。萩焼もご承知のようにこの役の後に起こった窯の一つでありますが、ただ、ほぼ時を同じくして起こった高取、上野、薩摩に致しましても、また北九州一帯のいわゆる唐津に致しましても、ほとんどすべて九州に起こっていますが、九州以外に起こった窯としましては、萩焼だけのようであります。しかし今日言う萩焼は、文禄・慶長の役の土産として起こったものでありますが、それ以前にもこの地方で非常に焼物が発達していましたことは、さっき松本保三さんのお話にもありましたし、小川五郎さんも非常に精細な調べをされています。私も先年、ほんのちょっと、長州の焼物を調べたいと思って山口に寄ったことがあります
が、長門はわが国でも非常に古くから焼物の発達した地方の一つで須恵器の窯跡が相当たくさんあります。殊に、ご承知のように『延喜式』には、長門と尾張、この二つの国だけから瓷器(しのうつわ)を奉ったという記録があり、平安初期には、尾張と共に、最も良い焼物を焼いたということが記録の上から推察されます。この瓷器についてはいろいろ意見がありますが、私の今の解釈としましては、これは今日のような陶器ではなく、須恵器の上手なもので、これに人工的な釉薬のかかったものであろうと思っています。尾張で瓷器を焼きました場所は、瀬戸ではなくて尾張の末(すえ)であろうと思います。ご承知かと思いますが、名古屋の北約三里ほど、瀬戸の西南約二里に末という小さな部落があり、付近の山稜にたくさんの須恵器の古窯址がありますが、ここから須恵器に人為的な薄い灰釉(はいぐすり)のかかったものが発見されています。またこの付近の古墳から、たまに終末期の須恵器で、これに釉薬のかかったものの出ることがあり、帝室博物館にも出陳されたことがあります。私はこの類の釉薬のかかった終末期の上手の須恵器が瓷器であろうと思っていますが、長門でもこれが発見された所があります。
 これについては小川さんが精細な調べをされており、山口県小野田町の字楢原というところに須恵器の窯址があり、ここから釉薬のかかったごく上等な須恵器が発見されているそうであります。これは私が調べのではありません。小川さんが発見されたものです。小川五郎さんはさっきもご紹介がありましたように熱心な研究家ですが、故浜田耕作先生の愛弟子で、京都大学の考古学教室におられた非常な秀才であります。山口県の郷土史については深い調べをしておられ、防長の陶磁史だけでなく、広く考古学、郷土史にわたっての権威者です。お気の毒なことに多年蒐められたたくさんの資料を火事で焼かれたという噂を聞いています。この小川さんが周防、長門にある須恵器の古窯址を丹念に調査され、現在発見されている、はっきりとした地点十一ヵ所を『陶器講座』の「防長陶磁器沿革史」の中に挙げておられます。それで防長の須恵器の窯も恐らくは奈良時代に最も盛んで、藤原中期ぐらいで終わっているのではないかと思いますが、それ以降、文禄・慶長の役によって萩焼の興こるまでの三百年間ほどは、防長には窯はなかったのではないかという解釈を小川さんはとられております。私は確実な知識はもっていませんが、遺物を見ても、これに該当するような物は、どうもないようでありまして、防長地方には備前、信楽、丹波等に並行するような吉野朝・足利時代の窯はどうもないようであります。
 今日萩焼と言われておりますものは、ご承知のように文禄・慶長の役が終わった時、毛利輝元に従って来朝した李敬によって起こされたものとされています。萩焼は、これを大別して松本萩と深川(ふかがわ)萩に区別していますが、松本萩は更にこれを焼いた家によって、坂、三輪、林の三つの窯に分けています。それから深川の方も同じく焼いた家によりまして坂倉、倉崎、赤川の三つの窯に分けております。しかし、これ以外にも、周防、長門でいわゆる萩焼風の陶器を焼いた窯はずいぶん多いようでありまして、小川さんの調べによりますと、泉流山、東光寺、指月、総瀬、須佐、深川、俵山、山口、八幡、宮野、堂道、浅地、原河内、大原、旦、岩淵、西浦、鞠生、三田尻、玉祖、戸田等の窯はすべて松本・深川の萩焼の影響で起こった窯とされています。これは萩焼系統の窯ですが、それ以外、ご承知のように徳川中期頃から京焼の風も山口県下に興こっております。また九州の有田焼の流れをくんだ磁器の窯もあります。それから三島刷毛目(はけめ)等朝鮮風のものを焼いた窯もあるようです。吉向が行って楽焼をやいたこと等もあります。山口県下全体で焼けた焼物には、いろいろさまざまなものがありまして、山口市の郷土館には、各窯別にその代表的な遺品が陳列してあります。もしご覧になる機会があれば、一目でどんな種類の焼物が山口県にあるかがおわかりだと思います。中には、こんなものが山口県で焼けたかと思うような物がありまして、大変勉強になります。しかし山口県の焼物の主流をなすものはやはり萩焼であります。小川さんの調べによりますと、山口県下には萩焼系の窯が三十四あり、これに対し、京焼系のものは十、磁器は九つ、それ以外のものが十七というわけで、断然、萩焼系統の窯が多いようであります。また、発達史的に見ても、萩焼系のものが最も古く、京焼、有田焼風のものは江戸中期以降、多くは幕末の窯のようであります。このたくさんな萩焼系の窯の宗本をなすものはご承知の松本萩、その中でも坂家の窯で、ご承知のように萩焼は坂高麗左衛門という人が始めたということになっております。 
 しかし、萩焼の起源については次の三つの説があります。第一の説は、坂家四代の新兵衛という人の上申書に、『焼物師由来書』というものがあり、この中に自分の曽祖父の高麗左衛門が、朝鮮から毛利輝元に連れられて来て、松本の唐人山という所に屋敷を建て、ここで初めたのが坂焼、松本焼の起こりだということを言っています。これに対し第二の説は、防長郷土史の権威者である近藤清石という人が書いた『霜堤雑草』という本の中にある説で、松本の萩焼の起こりというものは、李敬、すなわち高麗左衛門が開いたように一般には言われているが、実は間違いである。松本萩を起こしたのは、李敬の兄の勺光(シヤムカン)で、この勺光という者が、文禄の役にわが国の捕虜になって大阪に連れられてきていた。秀吉はこの者を、輝元にお預けになった。慶長六年(一六〇一年)、輝元が長門に居を移して後、屋敷を唐人山に賜って、勺光が起こしたのが深川焼(ママ 松本焼の誤りと思われます。この後の深川焼≠ニ矛盾しますので。)であって、その後に勺光が弟の李敬を本国から呼んで李敬も焼くようになった。李敬は初めは坂助八といったが、寛永二年(一六二五年)に高麗左衛門という名前をいただいて、それから後、坂家は代々高麗左衛門と呼んでいる。勺光が死んだ事は分らないが、その子の山村作之進という者が初めは高麗左衛門に養われていすたが、後に深川焼を起こし、これが深川焼の起源だという説であります。すなわち、第一は坂高麗左衛門が始めたという説、第二は高麗左衛門の兄の勺光という人が始め、高麗左衛門は後に兄に呼ばれて日本へ来たのだという説であります。第三の説は深川の窯元に言い伝えとしてい残っている説で、これは二つの説を折衷したような話です。勺光も弟の李敬も一緒に朝鮮から来て、兄の勺光の方は深川焼を始め、弟の李敬の方が松本焼を始め、松本萩も深川萩も同時に起こったという説であります。このうちどれが正しいかということは小川さんもはっきりとは述べておられませんし、私も調べたことがありませんが、一般には、李敬すなわち坂高麗左衛門が起こしたということになっています。今の坂高麗左衛門は十代で、この人に子供がないので、東京美術学校を出た方が養子(注十一代で、後に、山口県の無形文化財になっておられる)となり、今親子で焼いていますが、とにかく萩焼では坂家が総本家ということになっています。そして坂家ではそれ以外の窯はみんな弟子分だと言っています三輪休雪(現三輪休和)、坂倉新兵衛(十二代)などは今日の作家としてなかなか上手です。
 萩焼の歴史はざっとこういう風ですが、各窯で焼きましたものは、原料も、釉も同様で、作品の判別はなかなか困難ではないかと思いますが。、私はこれについては特に研究したことがありませんので、何とも申せません。今もお話がありましたが、これを決めるのは、やはり発掘をするのが一番早いのではないでしょうか。最近日本各地の窯址の発掘調査が次々と行われ、日本の主な窯跡は大体調べがついたようですが、萩焼だけは、まだ組織的な発掘がされていないようであります。ただここにおられ、後でお話される藤岡了一さんが、先年萩の窯址に行かれまして、お持ちになった破片がここにあります。それから満岡さんも行かれまして、今日はまあ満岡さん、藤岡さんのお話があるので、私はそれを拝聴するつもりで参ったのありますが、ここに立って話をさせられました次第です。萩焼の特質と申しますと、まあ萩はご承知のように軟らかい、親しみがあるのがその特質で、平々凡々な何の取りえもないようなところに、かえってその特徴があるのではないでしょうか。昔から一井戸、二萩、三唐津、または一楽、二萩、三唐津といいますのも、やわらかい、おだやかなものを愛する日本人の好みから発したものでしょう。萩焼は日本的な焼物のうちでも、特に日本らしい、やわらかさのあるもので、ひろく日本人に愛されるもそのためでありましょう。取りえといえば、軽いやわらかいその器地は日本にも中国・朝鮮にもない特別な親しみのあるものですが、作風にも、器形・釉薬にも、これといって人を牽くところがありません。時には和臭の過ぎる鼻もちのならないものもありますが、総じて茫寞とした大きさがあり、何ということのない親しみがあり、こんなところにかえって萩焼の特質とでもいうべきものがあるのではないでしょうか。
 大変まとまりのない話を致しましたが、私はこれで失礼させていただきます。





朝日新聞社刊「小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁」
〈昭和53年1月25日発行〉


[2] 長谷部楽爾氏の疑問≠フある「解説」
[535頁〜542頁]のうち [538頁下段20行目〜539頁上段2行目]



 
(「古萩の歴史と特質」なる一文について)

 なおこの六古窯の章の末尾に、先生が好まれた萩・姫谷等数種の日本陶磁についての解説を収録してあるのは、必ずしも妥当な処置ではないかもしれない。しかしいずれも先生らしい要を得た構成・表現と鋭い観察を示す好論文で、他に適当な位置が見当たらないため、この章に加えたものである。




[3] 白石の問題記述


 


  [「台頭」=177頁8行目〜179頁最終行のうちの〔179頁7行目〜10行目〕]  [新聞への掲載日=昭和57年11月21日(日)]

 萩出身の日本画家、楢崎鉄香(ならさきてつこう)は、十八年発行の著書「はぎやき」の中で、「井戸風の茶碗を作っては近世に比を見るものなし」と休和たたえた。同じ年に萩を訪ねた東洋陶磁研究の大家、小山冨士夫も、休和と十二代坂倉新兵衛(山口県長門市、一八八一−一九六○)とを、「今日の作家としてなかなか上手」(「日本の陶磁」)と評している。





[4] 私の「考察」



 
[疑問あることども]

 @ まず、揚げ足取り%Iなことですが、小山冨士夫先生が、昭和十八年に萩を訪ねた≠ニ記していることについて

  「小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁」の出典一覧表より
    [547頁〜549頁]

548頁1行目

表題=古萩の歴史と特質

書名または掲載紙名=古美術C(149号)

発行社=宝雲舎

発行・掲載の年月日=昭18・6・1
   
(楢崎鉄香氏が『はぎやき』なる著書を発行した昭和十八年と)同じ年≠ノ萩焼を訪ねた≠ヘおかしい。
古萩の歴史と特質」は、「昭和18年の6月」の発表の中で「先年」とあるのだから、先年=18年≠ヘありえないことです。
 
 それに、小山先生は、「萩」を訪れられているかどうかも疑問です。
 というのは、12代坂倉新兵衛氏を追悼して発行された『陶匠 坂倉新兵衛』
   〈昭和39年10月10日発行〉の第一編 新兵衛の業績
                  第一部 陶芸と新兵衛
   の最初に、小山先生の「新兵衛翁の陶芸について」という「一文」がある(←クリック≠キると、「全文」を御覧になれます)のですが、その中において、
 九州からの帰途、河野英男氏と厚狭で落合い、同氏に案内されて、長門市湯本三之瀬の御宅をおたづねした。
    〈中略〉
萩の窯を見たのはその時が始めてだが、・・・  
とあるからです。
 小山先生が、わざわざ「萩」を訪ねられて、「窯元」を訪れられないはずはないのです。
古萩の歴史と特質(注 175頁4行目〜)に、
 私も先年、ほんのちょっと、長州の焼物を調べたいと思って山口に寄ったことがあります
とあるわけで、山口≠ニあり、「萩」ではないのです。
 では、「山口」のどこ寄られたのかということについてでずが、これも、(177頁1行目〜)
 山口県下全体で焼けた焼物には、いろいろさまざまなものがありまして、山口市の郷土館には、各窯別にその代表的な遺品が陳列してあります。もしご覧になる機会があれば、一目でどんな種類の焼物が山口県にあるかがおわかりだと思います
ということで、「山口市」の訪問だったのではないでしょうか。
「昭和20年生まれ」の私の記憶からしても、「山口」から「萩」へ行くのは、道も悪く、交通の事情もそうよかったわけてではないのです。ましてや、「昭和18年前=vはなおさらです。
 ただ、「山口市」であったかないかは別にして、「坂」の十代か、後の十一代かには会われていることは間違いないと思います。

  A 一番の問題は次のことです。

つまり、小山先生が、
休和と十二代坂倉新兵衛(山口県長門市、一八八一 ― 一九六〇)とを、「今日の作家としてなかなか上手」(「日本の陶磁」)と評している
と記していることです。
 
白石氏は、小山先生のこの「一文」を、 小山先生が新兵衛氏と休和氏を、既に昭和十八年当時には、実力を認められていた 証拠≠ニしていますが、私は、これは、文脈≠無視した、いわば誤読であると思っています。
 のみならず、この「一文」こそ、「萩焼」が中央≠ナは認められていなかった∞証拠≠セということです。
 「朝日新聞」の「広報部」にも、当然、そう伝えています。

 まず、最初≠ノも記していますが、
今日萩焼の研究会があるので、私にも何か話をするようにとのこと でありました。
私は萩焼については調べたこともありませんし、また、特に深い関心を持っているわけでもありません。
藤岡了一さんか満岡忠成さんのように、実際に窯をお調べになった方が適当だろうと申し上げたのですが、それでも何か話をしろということでありました。
殊に私は萩焼の歴史や特質等といったことは全く知らないのでありますが、この席に参りますと、私がこういう題で話をすることになっていました。
ということであり、この『小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁』への収録も、小山先生の意思とは関係ないのです。
しかして、小山先生のこの「稿」は、この「研究会」で述べられたものを、テープから起こしたと考えられるものなのです。

 それなのに、朝日新聞社刊の「小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁」の「解説」を書いておられる長谷部楽爾氏が、
 この「古萩の歴史と特質」なる一文をして、
 先生が好まれた萩・姫谷等数種の日本陶磁についての解説を収録してあるのは、必ずしも妥当な処置ではないかもしれない。しかしいずれも先生らしい要を得た構成・表現と鋭い観察を示す好論文
「解説」しておられるのは、おかしい≠ニいうことです。
 長谷部氏には、電話で、
「この一文は解説には該当しないのではないですか。講演すること自体、心ならぬものであったとされる先生の話を誰かが記録して掲載したと思われるこの一文を活字にすることは、小山先生の意思ではなかったと思いますよ。萩焼を小山先生が愛してくださったのは、事実ですが、それは、戦後の昭和三十一年の来県調査∴ネ後のことのはずです。解説とチグハグだとは思われなかったのですか。他に、萩焼についてのふさわしい論稿があるはずだから、調べていただけませんか。」
とお願いし、私の電話番号をお知らせしたのですが、その後、まったく、連絡はありません。
 私は、電話の中で、解説にふさわしくない論稿を載せたという誤り≠ヘ認めていただけたと思っています。
私は、残念ながら、長谷部氏は、「一文」をよく読まれず、「古萩の歴史と特質」という題名≠ノだけ惹かれて結びつけられたのだろうと、今日、日本を代表する立場におられる一人であるダケでなく、生前の小山冨士夫を最もよく知る三人衆、林屋晴三、長谷部楽爾、弓場紀知の三氏(「月刊やきものネット」)といった「解説」をされる方だけに、寂しく思っています。
(何が「基準」かはわかりませんが、「小山冨士夫プロフィール あの人スパイシー」において、「つながりの強いひと」の一人≠ニして、父=英男の名もあります。
さらに、キーワード=その他においても、私の作成した「頁」を幾つも取りあげていただいています。)
 
 「上」に記している「古萩の歴史と特質」の本文をみてください。注意≠キる箇所は、カラーにしたり、で目立つようにしています。
 
 萩焼については調べたこともありませんし、また、特に深い関心を持っているわけでもありません。・・・殊に私は萩焼の歴史や特質等といったことは全く知らないのでありますが、
と、当時の「萩焼」についての関心はあまりないという状況で、のみならず、
取りえといえば、軽いやわらかいその器地は日本にも中国・朝鮮にもない特別な親しみのあるものですが、作風にも、器形・釉薬にも、これといって人を牽くところがありません。
と述べておられるのです。
 「人を牽くところがない」と、「萩焼」には厳しい目をむけられた上で、問題の休和氏、新兵衛氏も、萩焼の起源についての三つの説を紹介された流れの中で、
このうちどれが正しいかということは小川さんもはっきりとは述べておられませんし、私も調べたことがありませんが、一般には、李敬すなわち坂高麗左衛門が起こしたということになっています。今の坂高麗左衛門は十代で、この人に子供がないので、東京美術学校を出た方が養子なり、今親子で焼いていますが、とにかく萩焼では坂家が総本家ということになっています。 そして坂家ではそれ以外の窯はみんな弟子分だと言っていますが、三輪休雪(現三輪休和)、坂倉新兵衛(十二代)などは今日の作家としてなかなか上手です。
という文脈の中でのことなのです。
 つまり、これといって人を牽きつけるところのない「萩焼」であって、小山先生としてはたいして興味もないが、「三輪休雪、坂倉新兵衛」などは、「坂」の弟子分=Aつまり、格下≠ニいうニュアンスで坂氏は言っているが、「坂」に劣らない存在=「今日の作家としてなかなか¥緕閨vだといっておられると思うのです。

 つまり、小山先生は、新兵衛氏、休和氏ダケを称えたのではなく、坂高麗左衛門氏も同列≠烽オくはそれ以上だと言っておられるに等しいことで、白石氏が、この後、萩焼が世に出る前に、自分の様式を確かにもっていたのは休和と新兵衛しかいない。(「静と動」193頁〜)
とされているのは、何を根拠にされているのか、例え、河野良輔氏、榎本 徹氏の「証言」によったとしても、大いに疑問だとしかいいようがありません。
 
 繰り返しますが、大して評価しないが、萩焼の中では、二人が本家に劣らず、力を持っているといってよいが、所詮、「萩焼の世界」でのことだということを言われていると思うのです。
 要するに、小山先生は、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」への「指定申請」のために、「来県調査」をされる迄は、「萩焼」に対する評価は、決して、高いものではなかったのです。

 それが、事もあろうに、二人≠「同時申請」したいとして、「来県調査」をお願いしたのですから、簡単に事が運ぶワケはなかったのです。  
 とりあえず、ここまで現段階では示しておきましょう。
(白石氏は、この小山先生の一文を別の箇所でも引用され、自分の論≠フ中に取り入れておられます。)

 なお、
萩出身の日本画家、楢崎鉄香(ならさきてつこう)は、十八年発行の著書「はぎやき」の中で、「井戸風の茶碗を作っては近世に比を見るものなし」と休和をたたえた。
とあるのも、「疑問」であるということを言っておきたいと思います。
 
確かに、昭和十八年発行の「萩焼」の85頁において、
「井戸風の茶碗を作っては近世に比を見るものなし」
とあるのですが、その後に続いているの感がある。を省略しています。
この感がある≠ェあるのとないのとでは随分、印象がちがうのではないでしょうか。
そして、続きとして、
此度技術保存の指定を受けて他の萩焼の二つの窯元と共に萩焼を代表するものとなつた。
と記しています。
 さらに、楢崎氏は、休和氏だけを褒めているのではなく、82頁においては、十代坂高麗左衛門氏をして、
当代十世高麗左衛門氏は父韓峯 (注 名人と評された陶工です) の後を継ぎ、坂窯の作風に新らしきいぶきを吹き込み、温雅なる仕事をなし、萩焼名家として昭和十八年二月技術保存の指定を受けた。これによつて萩焼の存在は日本全国の斯界各名家と同列になり、将来共伝統の技術は確保された。
とあります。
 また、12代坂倉新兵衛氏については、
当代の坂倉新兵衛氏は若年の頃、萩の坂窯に居て技術を研究され、其の作風は全く所謂萩焼の作風、焼成を用ひ、近年古萩復興の仕事に於て井戸・呉器・三島等の古い処を巧みに写し、茶人の間に名声を高めている。
昭和十八年二月技術保存に指定されて新兵衛氏の存在は萩焼に重要な地位を確保された。
とあります。
 つまり、楢崎氏は「11月」の発行において、「この年=昭和十八年二月」の「技術保存の指定」を根拠≠ノ褒めているように思えます。
 この「技術保存の指定」は、それなりに価値があるもの≠ナすが、なにせ、数が多いのです。
 楢崎氏は、3つの窯元≠ニしていますが、それは、第一次≠フ時の「認定」で、「工藝指導」(商工省工藝指導書編纂 昭和18年10月號)における 「10 工藝技術保存者決定」においては、高麗陶兵衛、吉賀大雅が加わって、計 5名が「萩焼」から「認定」されています









●  「関連」した「ページ」 ─ 私の「ページ」の抜粋>氈@

「萩焼の歴史」=エポックメーキング≠ニなった昭和二、三十年代のその歩み

   ↑  小山先生あっての「萩焼」の「歩み」です。
 なお、「萩焼」の「歩み」は、「陶芸史」における典型≠ニしての「歩み」をしたワケで、「陶芸史」の「参考」になると、私は思っています。

「萩焼」からの同時二人=u指定申請」のこと
「人間国宝」候補者の「プール」としての「記録選択」?
    ↑  藤島亥治郎博士の話、 小山先生の「手紙」 及び 鈴木健二氏との「電話」をモトに推測しています。
「重要無形文化財」保持者としての「個人認定 俗称「人間国宝)」/「保持団体」としての認定/「総合認定」]について
─ [参考] 「助成の措置を講ずべき無形文化財」・「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」─

     ↑ 口幅ったいことながら、一部≠フこととはいえ、権威≠る「情報」の疑問点を、「情報モト」に「確認」し、修正してもらっています。