平成20年4月29日 公開
平成22年9月30日 更新



流布している事実≠踏まえぬ[萩焼の歴史]を正す

 もっとも詳しい≠ゥらもっとも誤りの多い
『萩焼人国記』中の「休和物語」    
公的立場≠フ人の全面的な協力≠得、記者も足で取材という鉄則≠守ったというが・・・     





 問題の書物の問題部分


『萩焼人国記』 〈葦書房刊〉  執筆者は、昭和27年生まれの、朝日新聞山口支局員だった白石明彦氏であるが、なぜか、編者=朝日新聞山口支局として出版されています。

この「書物」の「休和物語」は、「巻頭」部分に
茶陶、萩焼の近代化に主導的な役割を果たし、昭和五十六年十月二十四日に八十六年の生涯を閉じた重要無形文化財萩焼保持者(人間国宝)、三輪休和。その人間像と陶芸とを通して、萩焼近代史をたどる(作品の写真は山口県立美術館提供)。

とあります。
 ここに、(三輪休和の)人間像と陶芸とを通して、萩焼近代史をたどる。≠ニあるように、この中で語られていることは、単に、三輪休和氏のことではなく、「萩焼近代史」を語っており、そのため、その事実≠ニ異なる数々の記述≠ヘ、一流紙=「朝日新聞社」≠フ「記者」が、権威者≠ニされる方々の協力のモトに執筆したものとして、無視≠ナきぬものとなっているのです。
 従って、『萩焼人国記』の他の箇所についても、いささかの疑問のある箇所がないわけではありませんが、「休和物語」に限定して述べていきます。
 残念ながら、「問題箇所」はかなりの箇所に及びます。
 「山口県立美術館長」・「専門学芸員」・「山口県埋蔵文化財センター次長」という公的な立場にいる方々の協力≠フモト、一流紙=「朝日新聞」の「記者」の「執筆」ということで、その影響力≠ヘ、計り知れないものがありますが、
 及ばずながら=A事実≠知る者として、事実≠「後世」に語り継ぐべく、努めてみようと思っています。
 「時間的余裕」が出てきたら、順次=A追加していくつもりです。


構 成
〈下線部をクリックするとそこに飛べます〉

あとがき(293頁〜)

「台頭」(177頁〜/「新聞掲載=昭和57年11月21日(日)」)

「作家へ」(190頁〜/「新聞掲載=昭和57年12月1日(水)」)

「静と動」(193頁〜/「新聞掲載=昭和57年12月2日(木)」)

「休雪白」(196頁〜/「新聞掲載=昭和57年12月5日(日)」)

「未」(頁〜/「新聞掲載=昭和年月日()」)

「未」(頁〜/「新聞掲載=昭和年月日()」)

「未」(頁〜/「新聞掲載=昭和年月日()」)

「未」(頁〜/「新聞掲載=昭和年月日()」)

「休和物語」の問題記述≠フエッセンス≠ご覧になる場合←「リンク」させています。



あとがき
293頁〜

「萩焼」という言葉を知ったのは、昭和五十六年一月十三日、朝日新聞山口支局への転勤で、山口市に着任したその夜、萩市で死去した十一代坂高麗左衛門さんに関する新聞報道が、確か最初だったと思う。それまで、陶芸はもとろん、美術全般についても、ほとんど関心はなく、二年半に及ぶ山口生活で、ここまで萩焼にかかわることになろうとは、想像もつかなかった。
 山口県の文化担当である以上、萩焼は避けて通れない。茶碗の高台を「たかだい」としか読めない私は、萩焼の本を読んでは、山口県立美術館へ質問に通った。そんな私が引かれたのは、萩焼というモノそのものよりむしろ、ひたすら土に向かう男たちのさまざまな生きざまだったと言っていい。肉声に接することはできなかった故三輪休和さんをはじめ、言葉ではなしに、土によって自らを表現しようとする人たちの生き方は、言葉による表見を仕事とする私の眼に、新鮮に映った。人間への興味から出発した点において、普通の取材活動と何ら変わるところはない。いつしか、「たかが、やきもの。されど、やきもの」という思いが、高まっていた。
この本の第三部「古萩」は昭和五十六年十月から十一月まで、次に、第二部「休和物語」は五十七年十月から十二月まで、最後に、第一部「萩焼人国記」は五十八年八月から十月にかけて、それぞれ朝日新聞の山口版か第二県版に連載した。出版に当たって、その記事に全面的に加筆し、特に「古萩」については、山口県埋蔵文化財センターの発掘調査に基づく最新のデータを加えている。
一連の記事を通じて、近世(「古萩」)から近代(「休和物語」)を経て、現代(「萩焼人国記」)に至る萩焼の流れを俯瞰し、併せて、現在の萩焼がかかえるいくつかの問題を提起したかった。不十分な点は多いが、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った。
 多くの人に支えられ、この本までたどり着くことができた。萩焼の文献的考証に優れる山口県立美術館の河野良輔館長。中国陶磁から前衛陶芸まで見つめる視野の広さに、教えられるところが多かった榎本徹・専門学芸員。考古学者の立場で古萩に取り組む山口県埋蔵文化財センターの中村徹也次長。心よく取材に応じて下さった萩焼作家の方々。井之上一夫・支局長をはじめ、さまざまな形で援助して下さった朝日新聞山口支局の同人たち。写真の面で協力を惜しまなかった栗林和彦さん。感謝は尽きない。
 記者生活の中で、陶芸は今後も一つの大きなテーマになるだろう。萩焼は、その原点となった。私は今、「陶芸家も新聞記者も、根幹は人間だ」と熱っぽく語った三輪龍作さんの言葉を、改めてかみしめている。

                     昭和五十八年十月
                       朝日新聞山口支局員
                             白石 明彦


────(問題点)────────────────────── 
この「休和物語」は、一流紙≠ニされている「朝日新聞」の記者が、山口県立美術館長=E専門学芸員=E山口県埋蔵文化財センターの次長≠ニいった公的な立場≠ノある人達の「全面的な協力」を受け 、更には、記者自身が、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った≠ニまで「あとがき」に書いて出版された書籍なのです

 しかし、ここで注意していただきたいことは、「朝日新聞 山口版」に連載されている時、「誤りがある。当時担当した人間が、健在であるし、当時の資料≠烽ることとて、せめて資料だけでも見てほしい」と要請したにもかかわらず、「その必要は認めない」と言い放っておいて、ほぼそのまま≠ェ「出版」されたものだということです。
 
それでいて、この「あとがき」にあるように、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った。と記しているのです。
 その影響≠スるや、 「朝日新聞社東京本社」の「広報部」すら、私が事実≠確認するように依頼し、せめて、白石氏から「不十分な点があったことを認めざるをえない」という言質を引き出したいと願ったのに、その「回答」に、「・・・河野良輔さんに取材しています。したがいまして、記事内容の訂正の必要はないと判断いたしております。」とあることが端的に示しています。
 新聞記者≠フ「足」とは、いったいどんな「足」なのでしょうか。
 肩書≠竍権威≠ノ寄り掛からず、真実≠追求するはずの「新聞社」に取っては、自殺行為≠フようなことを平気≠ナ書き送ってきたのです。
 なによりも、「朝日新聞社」は、「伝統工芸展」に当初から係わり、多くの貴重な「資料」を持っているのです。
 私のこの[HOMEPAGE]も、その「朝日新聞」から、その「資料」の一部を提供していただいているのです。
 つまり、私が具体的に、「確認」すべき事項を指摘し、そのことによって、河野良輔氏や榎本氏の「証言」によったとしても、河野良輔氏の執筆されたものの中には、事実≠ニは異なる≠ニころがあること、「資料のとらえ方に問題がある」、or「十分な調査に基づいているとは思えない」ということを証明≠キることが「朝日新聞」ならできるのにです。
 そして、それが、「休和物語」の誤りを知ることになるというのにです。
 かつての「朝日新聞」の良識≠ヘどうなったのだろうと、私は思うのです。

 私が、[HOME PAGE]に、この「休和物語」に問題≠ェあると指摘する前には、古書≠ニして、2万円≠フ値がついていました。このことからも、無視≠ナきないことがおわかりいただけると思います。



台  頭
177頁〜
「新聞掲載」=昭和57年11月21日(日)

 苦境時代が長かったとはいえ、戦前から戦中にかけての一時期、休和は中央でも名をあげる。
 窯日誌によると、休雪時代の休和は、平均して年に三・一回、窯をたいた。昭和七年(一九四三)まで細々と毎年二回で、これが翌年には四回に跳ね上がり、十八年(一九四三)まで平均四回のハイ・ペースが続く。特に十一年(一九三六)には、二月、四月、六月、九月、十一月、十二月と、生涯で最も多い六回を記録する。この時、休和四十一歳。陶工として脂が乗り、働き盛りだった。
 台頭の指標は、窯たきの回数だけではない。この時期に、百貨店などの展覧会へも出品するようになる。
 窯日誌の年譜などによると、九年(一九三四)にパリで開催された日本輸出工芸連合会主催の工芸品展に、萩焼のほかの窯元と一緒に、菓子器などを出品した。
 翌年には、名古屋の松坂屋で、名工作品展がある。全国から選ばれた名工十二人のうち、九人を京焼が占め、地方では、休和と、京焼の流れを組む(ママ)二代宮川香山(神奈川県)、大樋(おおひ)焼の九代大樋長左衛門(石川県)しかいない。 窯日誌には、東京、大阪、名古屋の松阪屋の各美術部長が萩に入ったのを報じる地元新聞の記事が貼ってある。百貨店の美術部長の目に、休和の作品は「売れる」と映った。
 さらに、戦時中の十九年(一九四四)、大阪の大阪美術倶楽部(クラブ)で初の個展を開く。休和の述懐によると、井戸茶碗の評判がよかったという。
 やはり窯日誌のスクラップの中に、「奮闘列伝 萩百人物」という地元新聞の連載記事がある。「歴史は輝く十代 萩焼に精神を打込む三輪休雪(当時)君」」と、仰々しい見出しがあり、「萩焼の代表者」、「作品は古萩を凌駕(りょうが)するの感あり」といった表現が目につく。さらに引用すると、「兎もすれば物質文明に流れ大量生産に傾き真の萩焼の本質を失はんとするの秋(とき)、彼休雪氏は独り時潮を超越して歴史を穢(けが)さず良品主義をモットーとし本窯の生命のために頑張って(がんば)ってゐる。萩市内数ヵ所の萩焼窯元が団結して萩焼振興会を組織し大量生産を目標に躍進せんとした時の如きも、休雪氏は独り芸術の殿堂に納まって之(こ)れを斥(しりぞ)け」「各地の茶人から注文が来ても眼前の利に迷はず」。延々と休和讃歌が続く、誇張された記事ではあるが、当時の休和が中央で評価されていたからこそ、地元でもこんな記事が書かれたのだろう。
 萩出身の日本画家、楢崎鉄香は、十八年発行の著書「はぎやき」の中で、「井戸風の茶碗を作っては近世に比を見るものなし」と、休和をたたえた。同じ年に萩を訪ねた東洋陶磁研究の大家、小山冨士夫も、休和と十二代坂倉新兵衛(山口県長門市、一八八一 ― 一九六○)とを、「今日の作家としてなかなか上手」(「日本の陶磁」)と評している。
 興味深いのは十七年(一九四二)の「からひね会」である。実業家でありながら陶芸に没頭した川喜多半泥子 (かわきたはんでいし) (三重県、一八七八 ― 一九六三)は、志野焼、瀬戸黒の荒川豊蔵、備前焼の金重陶陽 (かねしげとうよう)、休和の三人を自宅に招き、裏山の名にちなんで、この会を結成した。「秋風の吹くよろくろの廻るまま」の句通り、無心に轆轤(ろくろ)に向かった半泥子の目は確かだ。当時の休和には、それにかなうだけの力量があった。
 戦前の休和の作品にも、昭和三十年以降につくられた作品の骨格を備えたものがある。もし戦争がなかったならば、休和様式はずっと早く開花していたかも知れない。


──[問題点]─────────────────────

・白石氏は、ここにまさに休和讃歌を引用によって書き連ねながら、後に、作家としての個性を備えた休和芸術が開花するのは、最後の十年間足らずにすぎない≠ニ書いている(214頁14・15行目) こととの落差≠ェ私には気になります。

 楢崎氏の評価≠ノついて
確かに、昭和十八年発行の「萩焼」の85頁において、
 当代は十代休雪氏あつて〈ママ〉父雪堂の後を継ぎて、三輪窯中の名工と云はれてゐる。技術の優秀にものを云はせて多種多様の仕事をし、井戸風の茶碗を作つては近世に比を見るものなしの感がある
 此度技術保存の指定を受けて他の萩焼の二つの窯元と共に萩焼を代表するものとなつた。
とあるのですが、の感がある。≠省略しています。この感がある≠ェあるのとないのとでは随分、印象がちがうのではないでしょうか。

さらに、楢崎氏は、休和氏だけを褒めているのではなく、82頁においては、
十代坂高麗左衛門氏をして、
当代十世高麗左衛門氏は父韓峯の後を継ぎ、坂窯の作風に新らしきいぶきを吹き込み、温雅なる仕事をなし、萩焼名家として昭和十八年二月技術保存の指定を受けた。これによつて萩焼の存在は日本全国の斯界各名家と同列になり、将来共伝統の技術は確保された。

とあります。
(註 父韓峯≠ニありますが、韓峯≠ヘ、「10代」の号です。「9代」の号は、韓岳のハズです。)

また、12代坂倉新兵衛氏については、
当代の坂倉新兵衛氏は若年の頃、萩の坂窯に居て技術を研究され、其の作風は全く所謂萩焼の作風、焼成を用ひ、近年古萩復興の仕事に於て井戸・呉器・三島等の古い処を巧みに写し、茶人の間に名声を高めている。昭和十八年二月技術保存に指定されて新兵衛氏の存在は萩焼に重要な地位を確保された。
とあります。

楢崎氏は「11月」の発行において、「この年=昭和十八年二月」(「工藝ニュース」2603 3 (商工省 工藝指導所)  「14.内外工藝産業情報」に記載 )の「技術保存の指定」根拠≠ノ褒めているように思えます。

この「技術保存の指定」は、それなりに価値があるもの≠ナすが、この二月発表分のあと、正式ともいうべき、「発表」があり、「萩焼」からは、高麗陶兵衛・吉賀大雅が、追加≠ウれているのですが、楢崎氏の「出版」には、間に合わなかった≠謔、です。

この「技術保存の指定」の第一次#ュ表で「認定」されたハズなのに、その後(「工藝指導」 昭和18年10月號 (商工省工藝指導所編輯) 「10.工藝技術保存資格者決定」に記載)に発表されたものの中には名がない人or団体があるほか、
あの金重勇=陶陽の場合は、第一次≠フ時には「認定」、「10月號」の時は名≠ェなく、「工藝指導」 昭和19年1月號 (商工省工藝指導所編輯) 「13.工藝技術保存資格者(追加)」 の中に名があるといった具合です。
なお、北大路房次郎=魯山人の場合は、追加にのみ、その名があります。 

なにせ、数が多いのです。
たしかに、白石氏が「休和物語」(180頁)に引用しているように、休和が窯日誌に記した名簿によると、九谷焼(石川県)、京焼(京都府)、有田焼(佐賀県)が多い
のですが、「九谷焼」の中に、徳田八十吉の名は、ありませんし、京焼≠ゥどうかはともかく、京都≠ニして、名があがっているのは、26≠烽ります。
 楢崎氏が「技術保存の指定」だけ≠ノ拠っておられるとは思いませんが、「萩焼」が全国的≠ノ、認められていた≠ニいう証拠≠ニするのは弱い≠ニ私は思います。

 なお、「休和物語」(196頁)は、
萩焼が世に出る前に、自分の様式を確かにもっていたのは休和と新兵衛しかいない
と記しており、何を根拠{r誰の「証言」によっているのかはわかりませんが、ひどいとしか言いようがありません。
 休和氏と、同年で、互いに競って来られた高麗左衛門氏は、楢崎氏も認められているように、力≠ヘあったのです。
 ただ、そうは言っても、休和氏との間に、いささか≠フ差≠ヘあると父=英男は判断=A残念ながら、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」申請という状況においては、とても3人≠推薦≠ネどできるハズはなく、休和氏を推薦したということです。
 「坂家」には、この「無形文化財」制度がマイナス≠ノ働いてしまい、ある意味では申し訳ないと父=英男は言っていました。
 (なお、11代坂高麗左衛門氏は、後年、「山口県指定無形文化財」に「認定」されています。)

 小山先生の評価≠ノついて
@ まず、小山先生の「講演」の日時からして、同じ年=昭和18年≠フ来萩はありえないことです。 (ここに白石氏のいう「日本の陶磁」は、その中に収められている「古萩の歴史と特質」という一文を指していますが、小山先生の「講演」をもとにしたものです。)
Aなによりもおかしいのは、この「古萩の歴史と特質」の文脈を無視し≠トいることです。私は、誤読していると、「朝日新聞東京本社広報部」に告げています。
小山先生の「萩焼」に対して、興味を引かない≠ニいう文脈の中でのことで、たいして興味もない「萩焼」であるが、その中では、マァ、12代坂倉新兵衛氏と三輪休和氏が上手といってよいと思う≠ニいうことなのです。
この「一文」の載った『小山冨士夫著作集』を編集された長谷部楽爾氏も、題名≠ノ惹かれて、なおこの六古窯の章の末尾に、先生が好まれた・姫谷等数種の日本陶磁についての解説を収録してあるのは、必ずしも妥当な処置ではないかもしれない。しかしいずれも先生らしい要を得た構成・表現と鋭い観察を示す好論文で、他に適当な位置が見当たらないため、この章に加えたものである。≠ニ解説されているのですから、誤読≠ヘ白石氏だけではないようです。
 つまり、ここで言っておきたいことは、少なくとも小山先生にとって、「萩焼」に対する評価≠ヘ、決して高いものではなく、「昭和31年」に、「萩焼」の二人=12代坂倉新兵衛氏と、三輪休和氏の「重要無形文化財(「人間国宝」)」の「指定申請」のために、「来県調査」をお願い時も、その印象のママ≠ナ、小山先生の「来県」は極めて難しかったということです。
 ぜひ、次の「リンク」から、小山先生の「一文」のすべて≠ノ、皆さんの目で直接=A確かめていただきたいと思います。




作 家 へ
190頁〜
「新聞掲載」=昭和57年12月1日(水)

 休和の生涯では、人間国宝になった昭和四十五年(一九七0)よりむしろ、第三回日本伝統工芸展に初入選した三十一年(一九五六)が、大きな意味をもつ年と言える。陶工から作家への転機である。
 二十年の後半に入ると、文化財や伝統に対する関心が高まって来る。まず二十四年(一九四九)に法隆寺金堂が炎上したのがきっかけになり、翌年、文化財保護法が制定される。この法律は無形文化財の選定を定めていたため、二十七年(一九五二)に陶芸部門で、荒川豊蔵や加藤唐九郎ら八人が選ばれた。
二十九年(一九五四)には、文化財保護委員会が文化財協会と共催して、「第一回無形文化財・日本伝統工芸展」を開いた。この展覧会は、無形文化財に選ばれている作家らの 作品を広く紹介する目的があり、評判となった。この翌年には、伝統工芸技術の調査と後継者の育成とを目的に結成されていた日本工人社が母胎となって、日本工芸会が発足し、文化財保護委員会との共催で、第二回日本伝統工芸展を開催した。第二回展には、推薦によって若手作家も出品している。
 日本伝統工芸展は第三回展から公募制をとり、休和は平茶碗を出品する。応募四十八人、百二十八点に対して、入選三十三人、七十九点。休和は以後、五十一年(一九七六)までほぼ毎年、出品しては入選した。
日本伝統工芸展をきっかけにして、休和は、地元の需要に応じて、主に数物を量産する「陶工」から、中央を舞台に、作品一点一点に個性的な表現を見せる「陶芸作家」へと、徐々に変わって行く。もっとも、三十九年(一九六四)に執筆した「日本のやきもの4 萩」の中で、自らを「一介の陶工」と称しているように、休和自身は必ずしも、この過程を意識してはいない。
唐津焼の中里無庵のように、休和と同時代の一群の陶芸家の中には、この日本伝統工芸展を機に世に出た人が多い。萩焼では、休和に次いで、弟の休雪が三十二年、坂田泥華が三十六年、田原陶兵衛が四十四年に、それぞれ初出品している。茶碗を主体にしているため、これまで発表の場に恵まれなかった地方の伝統窯にとって、日本伝統工芸展は画期的な出来事だった。
 なお、三十年には文化財保護法が改正され、重要無形文化財、つまり人間国宝の制度が設けられている。
 休和は初入選した三十一年、山口県の無形文化財萩焼保持者に認定され、翌年には、文化財保護委員会から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受けると共に、日本工芸会の正会員になった。
 当時六十二歳の休和には、日本工芸会に注目されるだけの力の蓄えがあった。それは古陶磁や窯たきなどの地道な研究成果と言ってもいい。しかし、もし仮に日本伝統工芸展がなかったならば、休和も、結果的には萩焼も、日の目を見られなかったのではないだろうか。あれほどの苦境時代を生き抜いて来た休和でさえ、自分の力だけでは世に出られなかっただろう。
「(日本伝統工芸展が一つの引き金となった)陶芸ブームが、あと十年か十五年遅れていたならば、三輪窯でさえ休和の代で窯の火を止めていたかも知れない」という三輪栄造の言葉は、この見方を裏付けている。
 その陶芸ブームが、くしくも休和の死とほぼ時を同じくして終わろうとしている。外国では例を見ない、単にブームと呼んで片付けるにはあまりに複雑な社会現象だった。 その根底には、経済の高度成長がある。展覧会や個展、陶磁出版物、陶芸教室、窯場めぐりと、やきものはもとはやされて来た。日本伝統工芸展の応募者も、三十一年の四十八人から、四十年百六十四人、五十年五百七十三人へと、増え続けて来た。
 陶芸ブームが確実に去ろうとしている今、「あまりに恵まれすぎて来た現在の萩焼作家も、実は依然として、休和の時代と同じく、他律的で社会的に弱い存在である」ことを、かつての日本伝統工芸展との関係は思い起こさせる。
 「陶工の場合はまず、カネもうけるとよくない。有名になるとよくない。地位ができるとよくない。それから人が各所からおだて上げるようになるといよいよいけない」(「紫匂ひ」)。  現代を代表する陶芸家、加藤唐九郎のこの言葉を、萩焼作家はどう聴くのだろうか。



── [問題点] ─────────────────────
 休和の生涯では、人間国宝になった昭和四十五年(一九七0)よりむしろ、第三回日本伝統工芸展に初入選した三十一年(一九五六)が、大きな意味をもつ年と言える。とありますが、そのことは条件付きで≠ネら事実≠ナすが、「初出展=初入選」の「第3回展」の持つ歴史的意味≠ェ消されています。 (あとでまとめて述べます。)
「第3回展」の性格≠焉Aきちんと≠ニらえるべきです。

 (文化財保護法は無形文化財の選定を定めていたため、二十七年(一九五二)に陶芸部門で、荒川豊蔵や加藤唐九郎ら八人が選ばれた≠ニあることについてですが、
 この最初の「無形文化財」に、衰亡の虞≠ニいう条件≠ェあったことを触れていないのは「萩焼の歴史」を語るには困ったことと言わねばなりません。
 (「第一回無形文化財・日本伝統工芸展」)は、無形文化財に選ばれている作家らの作品を広く紹介する目的があり、評判となった。≠ニありますが、『第1回 日本伝統工芸展の図録』を見ると、工程の紹介にも力を入れていたことがわかります。
 このことは、『第4回 日本伝統工芸展の図録』の巻末にある三度目の正直≠ニいう社団法人日本工芸会理事長 西沢笛畝氏の一文の中に実は第一回展の折は指定を受けた、資格保持者の作品を中心に、各種類の作品工程を展示したのであった。≠ニはっきり書かれています。
 つまり、工程≠熨蜴魔ネ要素であったわけです。
 次の 第二回展には、推薦によって若手作家も出品≠ヘ、違います。
 この誤り≠ヘ、白石氏が絶対的に信頼している河野良輔氏や榎本徹氏≠フ情報そのもの≠ェ違っているのですから、困ったものです。
 特に榎本氏の場合は、『三輪休和氏の遺作展の図録』に、はっきりと、活字として書き残しています。
 この「第2回展」の出展資格が、正会員支部会員≠ナあったことは、「萩焼」の二人が初出展した、いわば歴史的≠ネ意味を持つ、『第3回展図録』の冒頭の「日本伝統工芸展開催趣旨」に、はっきりと書かれているのです。
 白石氏の頼り≠ノした河野良輔氏、榎本徹氏が、この『第3回 日本伝統工芸展の図録』さえ、確認することなく、「萩焼の歴史」を書いていること自体、大きな問題なのです。
 英男は、「他県の状況」の確認のため、「第1回 日本伝統工芸展」には、無理をして行っていますが、この「第3回展」には行っていません。しかし、その『図録』はあります。
 三輪休和氏が、複数購入され、その一部を英男に報告を兼ねて、くださったからです。
 この『図録』は、ある意味で、画期的≠ネものですので、「現物」は今も私が所持していますが、「コピー」は、「山口県文書館」に納めてあります。
 また、「国立国会図書館」を初め、かなりの公的施設で見ることができます。
 なのに、良輔氏も榎本氏も「確認」していないのです。
 そのことの端的な現れ≠ェ、休和氏の「入選作品」が「平茶碗」であると、間違い≠延々と垂れ流していることです。
 この『図録』の巻末に、「出品者住所録」というところがありますが、『第5回展の図録』が、残念ながら、「国立国会図書館」を初め、どこにも見当たらないため、断定≠ヘできませんが、この『第3回日本伝統工芸展の図録』の「出品者住所録」にのみ、出品者≠フ応募資格≠ェ印刷されています。
 つまり、 重・・・重要無形文化財保持者    正・・・正会員     支・・・支部会員    其・・・理事又は正会員の推せん
とあるのです。
 その中で其≠ニあるのは、次の方々です。
   北出藤雄  /  坂倉新兵衛  /  雲雀民雄  /  三輪休雪 
ただ、誰にも見ることができるという「資料」ではありませんが、「8月10日発行」の『工芸会報』=bP=にはもっと明確に¥曹ゥれています。 (この「資料」も当然=A白石氏に見てもらおうとしたのでが、既述のように、「見る必要を認めない」と断られています。)

  3頁に


  第三回日本伝統工芸展開催要項
 出品資格
 3 社団法人日本工芸会理事又は正会員一人以上の推せんする作家又は技術者。
 出品申込料(一品につき)
  A 重要無形文化財保持者  無料
  B 日本工芸会正会員    無料
  C 日本工芸会研究会員   200円
  D 日本工芸会理事又は正会員が推せんする者     500円
 

と明記≠ウれています。
 なお、この「第3回日本伝統工芸展」について、「毎日新聞」において、三輪休和氏が、次のように語ったことになっていますが、 その真意≠述べることで、この「第3回展」の性格≠解説しておきましょう。 (但し、既に[1章]でも述べています。ここに限らず、[HOMEPAGE]は、予想外の検索≠ェ可能になっていますので、いきなり該当ページを御覧になってもわかるように重複≠ウせています。)


「毎日新聞」=『閑話対談』/職人に徹したい(3)/緑はゆる休雪白」
    〈昭和四十二年 五月九日〉(聞き手・西部本社編集委員 河谷日出男)
の中に、こんな記述があります。

 −−ざっくりした茶碗のハダざわり、あの材質にあわせるために、まっ白い真綿のような志野風の釉(くすり)がけ。あの風趣が休雪白と騒がれはじめたのはいつご   ろからで・・・。
 休雪 さあ、三十才前後でごわしたろうか。三十一年に山口県の指定を受けました。東京で伝統工芸展というのがあることを、それまで県が知らず第三回のこの展覧会に、先代の坂倉新兵衛氏(山口県湯本の窯元)と私と二点ずつ出品しましたら、二人とも全部、とおりました。それで三越しから話があり、三十二年に第一回の個展を三越でやった。それがきっかけで萩焼きが中央で話題になりはじめました。
 県の指定を受けたときに、解説に休雪白と書いてあった。それから秘法のように一般にいわれ、広まりました。
 自分がとくに調合したものではなくて、以前からある調合でごわす。萩焼きは一時それを用いていなかったが、私は白い釉が好きだから、それを多分に使ってみると、非常に発色がよくて・・・・。


この中の東京で伝統工芸展というのがあることを、それまで県が知らず≠ニいう書き方≠ヘ間違い≠ナ、おそらく、
「(この昭和31年秋に)東京(三越)で行われる『第3回日本伝統工芸展』(が、推薦≠ノよって応募が可能になるということ)を県の担当者(もまだ正式発表前であっため)知らず(、小山先生が6月の段階で教えてくださり、かつ、推薦してくださることになって)」と休和氏は言ったハズなのですが、「毎日新聞」の方で抜かした≠フだと思っています。(「毎日新聞西部本社」にも確かめましたが、休和氏が言ったのをそのまま書いた可能性の方が強いと言っていました。どちらが間違い≠ゥは確かめようがありません。)
 別の箇所で述べていますが、旧「無形文化財」だけを対象とした「第1回日本伝統工芸展」への出展ができないのは当然としても、「日本工芸会」のメンバー≠ニして誘ってもらっていなかった「萩焼」ですから、
「第2回日本工芸展」への応募もできなかったのですから、「伝統工芸展」があることを「県」が知っていようが知らないだろうが*竭閧ノならないのです。ましてや、英男は、「第一回 日本伝統工芸展」に行っているのですから、知らないわけはないのです。
 「日本工芸会」が主催となった「第2回日本伝統工芸展」は、狭い=u日本工芸会」の関係者だけが対象≠ナしたから、当然=A「6月」の時点では、秋の「工芸展」の「要項」を発表しているはずがありません。
 現在の完全な公募展≠ナも、私が取り寄せた時は「8月」でした。
 いかに、この休和氏が語ったという「毎日新聞」の記述が不十分な≠烽フであったかがわかってもらえると思います。
 肝心なのは、「第3回日本伝統工芸展」においては、「工芸会員」でなくても応募≠ナきるようになると言った情報≠ニ、応募≠フために必要な「推薦」を理事≠ナある小山先生がしてくださることになったということです。
絶対にありえないことですが、もし、万一休和氏が言ったとしたら、むしろ、例の川喜多半泥子氏の「からひね会」での仲間≠ナある荒川豊蔵・金重陶陽両氏から、休和氏に、「日本工芸会」への参加の勧めがなかったことをいうべきだと思います。
このように、間違い≠フある「新聞記事」の中から、都合のいい所引用≠キることには、抵抗≠ェあるのは事実ですが、
 この中の、
県の指定を受けたときに、解説に休雪白と書いてあった。それから秘法のように一般にいわれ、広まりました。
というのは参考≠ノなります。
ここにあるように県の指定を受けたときの解説≠ノ書かれていたのではなく、「国指定」を視野≠ノおいてのものでしたから、「重要無形文化財指定申請書」が「県指定」段階でも用いられたわけで、その「重要無形文化財指定申請書」にあったのです。

 この休和氏の「重要無形文化財指定申請書」は、形式的≠ノは、「萩市長」が提出したようになっていますが、実際は=A当然、「萩市教委」の担当者が書いたものであり、かつ、当然=A休和氏も関係≠オており、前もって目を通している≠ヘずです。
 休和氏の「指定申請」は、『指定申請書』と「写真帳」とからなっていますが、その「写真帳」では、休和氏自身で墨による説明を加えておられます。
 当然、『指定申請書類』にしても、休和氏の人柄からして、他人任せにしきられるわけはなく、ましてや、本人が知らないままに「休雪白」の語を特色≠示す語として勝手に使われてしまったというわけはないでしょう。
 『申請書』は薄いものですし、是非確認してみてほしいものです。(当面、最低限のものは、「休和物語」が間違いだらけ≠ナあることを述べた頁に、「スキャナ」で取り込んでしめしています。)

 ところで、「萩焼の歴史」にとって、最大の問題であり、現在流布している萩焼の歴史における最大の誤り≠ヘ、この後に続く、日本伝統工芸展は第三回展から公募制をとり、休和は平茶碗を出品する。 とあることです。
 白石氏(おそらく、良輔氏、榎本氏も)も、まったくのデタラメ≠書いたわけではないようです。
 つまり、応募四十八人、百二十八点に対して、入選三十三人、七十九点。≠ニいう数字≠ヘ、『第36回日本伝統工芸展の図録』の巻末の「出品及入選状況」という一覧の数≠ニは一致するからです。
 しかし、この「一覧」の数字≠ヘ、疑問があります。
 翌「第4回展」の数≠見てみますと、「第4回展」の実際の状況≠記している「日本工藝會報bP0」の記録≠ニ違っているからです。
 つまり、「陶芸」部門では、
正会員=出品数56/合格数24
 支部会員=出品数29/合格数5
 その他=出品数26/合格数5
  合 計=出品数111/合格数34〈合格率 34%〉
 なお、「重要無形文化財保持者」及「鑑査員」は審査対象外です。
『36回展図録一覧』の「記録」には、
 出品=人数48人/点数125
 入選=人数26人/点数48
とありますので、[48点−34点=14点]のb>14点の差は不可解≠ニいうしか言いようがありません。
 この『第36回日本伝統工芸展の図録』の巻末の資料≠ノ、2 第2回展より推せん制度による一般募集、出品点数制限なし。とあるのは明らかに間違いですし、3 第3回展より1人5点以内という記述の根拠≠ェわかりません。(出品数の制限は、『工芸会報』=bP=には書かれていません。)
 つまり、「資料」も調べさえすればよいということではないのです。

 唐津焼の中里無庵のように、休和と同時代の一群の陶芸家の中には、この日本伝統工芸展を機に世に出た人が多い。とあるのも困った表現です。
 中里無庵氏は、「工芸展」での「入選」より前に、「記録選択」となっておられ、当然=A「日本工芸会」の「正会員」でしたのですから。
 「記録選択」の実態を理解していない≠フです。


──[参考]「社団法人 日本工芸会」の「正会員」について]────────

「社団法人 日本工芸会」の「正会員」の〈条件〉

 わが国伝統工芸の精神を体得し、その研究修練に特に熱意を有する者で、次の各項の何れかに該当する者
  1=伝統的な工芸に優れた技能を有する者
  2=伝統的な工芸技術を基盤とし、優れた創作力及び技術を有する者
  3=伝統的な工芸の研究修練に特に熱意を有し、かつ、優れた素質を有する者
といった、仲良し倶楽部≠ニは違うと、宣言した「日本工芸会」では、
 なぜか、「萩焼」に参加要請≠ヘありませんでした。 
設立当初の「日本工芸会正会員」=47名〈『日本伝統工芸展50年記念展図録』中の内山武夫氏による〉
  [陶芸=13名]荒川豊蔵/石黒宗麿/今泉今右衛門(十二代)/宇野宗太郎/加藤唐九郎
         /加藤土師萌/金重陶陽/川瀬竹春/酒井田柿右衛門(十三代ママ)
         /徳田八十吉(初代)/富本憲吉/中里太郎右衛門(十二代)/浜田庄司
   [染織=10名]上野為二/木村雨山/小宮康助/清水幸太郎/芹沢ケイ介
         /田畑喜八/千葉あやの/中村勝馬/松原定吉/山田栄一
   [漆芸・木竹工=8名]磯井如心/稲木東千里/飯塚ロウカン斎/音丸耕堂/木内省古
         /高野松山/松田権六/前大峰
   [金工=9名]石田英一/伊藤徳太郎/海野清/魚住為楽(初代)/香取正彦/鹿島一谷/高橋貞次/高坂雄水/内藤春治
   [人形=5名]岡本正太郎/鹿児島寿蔵/野口光彦/平田郷陽(二代)/堀柳女
   [七宝=2名]太田良太郎/早川義一
 
[参考]『第3回 日本伝統工芸展図録』との違い

 「陶芸」関係について言えば、次の4氏が、『第3回 伝統工芸展図録』巻末にある「一覧」では、上の一覧以外に、「正会員」として紹介されています。追加して「正会員」として認められたのでしょう。  
   宇野三吉/近藤悠三/辻晋六/藤原啓の4氏
 
・休和は初入選した三十一年、山口県の無形文化財萩焼保持者に認定され、翌年には、文化財保護委員会から「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受けると共に、日本工芸会の正会員になった。
とあるのは、あたかも「初入選」によって「山口県の無形文化財」に認定されたように受け取れますが、「重要無形文化財指定申請」のための小山先生の「来県調査」→「県指定」をしておくようにという小山先生の指示と「工芸展」への推薦→「工芸展」への2点≠フ応募→2点≠ニも入選→「記録選択」として認定というのが順序≠ナす。
 当時六十二歳の休和には、日本工芸会に注目されるだけの力の蓄えがあった。それは古陶磁や窯たきなどの地道な研究成果と言ってもいい。しかし、もし仮に日本伝統工芸展がなかったならば、休和も、結果的には萩焼も、日の目を見られなかったのではないだろうか。
とあるのはおかしなことです。
日の目を見る≠ニはどういうことを指すのでしょうか。
 昭和29年度「記録選択」となっている中里無庵氏も、いっしょくた≠ノして、「記録選択」としての「認定」を無視していますが、無視というより、理解できていないだということではないでしょうか。
「日本伝統工芸展」というのは、いわば公開≠フ場にすぎないのです。
「工芸展」で「入選」することによって日の目≠見るのは、次の世代≠ゥらです。
「休和物語」の隠退(203頁9−11行目)に、
(昭和42年)奈良県桜井市、三輪神社の神前で世襲の儀式を済ませ、休和はよほど安心したのか「五十余年間、作陶一筋に生きて来ましたが、仕事も一区切りつき、ようやく老境をおぼえるようになりました。これからは、国の無形文化財として恥ずかしくない余生を静かにおくりたい」ともらす。≠ニ書いていることと矛盾≠オていませんか。
ここで休和氏の言ったという国の無形文化財は、昭和45年「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の「認定」を予測≠オて言っておられるわけではなく、当然、「記録選択」です。
「記録選択」とは言え、国の無形文化財≠ナす。選択されている陶工・陶芸家の人数も決して多いものではありません。

「記録選択」については、東京大学名誉教授であった藤島亥次郎博士の言葉をヒント≠ノ、私が考察した、次の「リンク」をご覧ください。

「柿右衛門」三代 −「記録選択」がプール≠ナあったとする推定の根拠の一つとして


 「陶工の場合はまず、カネもうけるとよくない。有名になるとよくない。地位ができるとよくない。それから人が各所からおだて上げるようになるといよいよいけない」≠ニいう「人間」としての生き方の指標ともいうべき言葉≠ェ、あの「永仁の壷」騒動の加藤唐九郎氏の言葉だ(私は確認していません)としたら、唐九郎氏の自らの生き方の反省の上に立つの言葉≠ニして、貴重なものだと言えると思います。
 
 なお、この「作家へ」には、14代坂倉新兵衛氏が、坂田泥華(現 泥珠)氏と共に、公募≠ニなった「第七回展」の次≠フ「第八回展」に、「初出品・初入選」していることがなぜか、記されていません


静 と 動
193頁〜
「新聞掲載」=昭和57年12月2日(木)


 萩地方の一陶工だった休和が、昭和三十年代から四十年代にかけて、陶芸作家として中央に出て行く過程はさまざまな面からとらえられる。
 第一に、作品の所在地。二十年代前半まで萩市に集中していたが、後半は全県に広がり始める。三十年代前半は抹茶茶碗がまだ十万円以下の値段で買えたのに、半ばになると、高すぎて萩市では手に入りにくくなる。値段の倍々ゲームが続き、四十年代には県内でも高根 (ママ) の花となる。休和が人間国宝になった四十五年(一九七○)以後、良品は全国各地へ散らばった。
 山口県立美術館が五十七年に三輪休和展を開いた時、展示した作品の所在地は、東は茨城から西は熊本まで及んだ。
 第二に、窯たきの回数。窯日誌によると、敗戦後の一時期、落ち込んでいたが、二十六年に年三回のペースを取り戻す。第三回日本伝統工芸展に初入選した三十一年(一九五六)から、三輪窯を弟の休雪に譲った四十二年(一九六七)まで平均三・四回。三十一年四月の記録に、「コノ窯空前の佳作品多シ」という異例の評価が見られる。 三十三年九月には、月に二度も窯をたいた。このようなことは、四十年間に及ぶ休雪時代にたった二回しかない。
 第三に、展覧会や個展の回数。山口県立美術館が作成した三輪休和年譜によると、二十年代は、朝日新聞社が主催して二十七年から開催した現代日本陶芸展だけ。この展覧会は日展(日本美術展覧会)系に片寄ることなく、さまざまな方面の作家の作品を集めて、好評を博した。休和は九十九人の招待作家の一人だった。これが、三十年代前半には十四回、後半には二十二回へとはね上がる。特に三十年の全日本産業工芸展は、戦時中の技 (註 技≠ニいう漢字を○で囲んでいます)作家を集めたもので、休和の抹茶碗が会長賞を受けた。 この展覧会は二年後の無形文化財選択への伏線として注目される。
 デパートの催し場で作品を展示して即売するパターンが今では普通になっているが、これに先鞭をつけたのは荒川豊蔵や加藤唐九郎、そして萩焼では十二代坂倉新兵衛だった。陶芸ブームは多分にデパートによって支えられて来た傾向がある。
 第四に、パトロン(後援者)の存在。三十二年に、東京の三越で三輪休雪茶陶展が開催されたのを機に、「三輪休雪(当時)後援会」が結成され、休和が中央で名を上げるのを助ける。就任早々の岸信介首相を会長に、発起人には、大阪商工会議所会頭の杉道助、毛利家当主の毛利元道、日本画家で元帝室技芸員(皇室用の美術、工芸品を制作した美術家)の松林桂月ら、山口県出身の 政治、経済、文化界の知名士が名を連ねている。窯日誌に、「盛況ヲ極ム」とあるように、この茶陶展は成功した。
 こうして休和は世に出て行く。それは田舎窯、萩焼が中央で認められて行く過程でもあった。
 故立原正秋が備前焼の金重素山を形容した言葉を借りるならば、休和は「芸術の政治とは無縁の陶工」である。後援会にしても、休和が根回しした訳ではなく、そんな才覚はかけらもなかった。
 休和より十四歳年上で、休和にはない政治的な手腕をふるい、「萩焼中興の祖」呼ばれた一人の作家がいる。坂窯で修行し、古萩写しを追求した十二代坂倉新兵衛。彼抜きに、萩焼近代史は語れない。
新兵衛は三十二歳の時、「萩焼陶器販路調査嘱託」という奇妙な肩書きを、知事にかけ合って得てから、晩年まで、作陶のかたわら、萩焼の市場を開拓するために、日本各地で巡回展などを開いた。休和の名器巡礼とは対照的だ。表千家と関係が深く、現在でも、新兵衛茶陶の人気は萩焼作家の中で群を抜く。
 萩焼が世に出る前に、自分の様式を確かにもっていたのは休和と新兵衛しかいない。ただ、茶界に深入りしすぎたばかりに、作風は茶人うけはするが、型や枠にはまり、休和様式に見るような豊さには欠ける。加藤唐九郎は「技は手なれているが、平凡」と評した。
新兵衛は休和と同時に、山口県の無形文化財萩焼保持者に認定され、第三回日本伝統工芸展に初入選し、「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受け、日本工芸会の正会員になる。休和よりむしろ先に、人間国宝へ、という動きもあったらしい。しかし、三十五年(一九六0)に七十九歳で死去している。
 休和と新兵衛―いわば静と動。対照的な生きざまで苦境時代を生き抜きながら、萩焼を愛しんでやまなかった。


──[問題点]─────────────────────

 この〔静と動〕なる一文を白石氏が書かなかったら、事実≠ノ基づかない「萩焼の歴史」でも、そのままにしたかも知れないのです。

 この一文の困るのは、前回の「作家へ」と結びつけると、
「第三回伝統工芸展」は、公募≠ナあって、休和氏はそこから出発≠オた。
そして、大きく成長していった。
同時に「記録選択」になった12代坂倉新兵衛氏は、力≠烽スいしたことはなく、平凡≠ナ、本当に実力のある休和℃≠謔閧熈むしろ先に「人間国宝」にしようとした、作品の価値≠フわからないものもいた≠ニいうことになってしまうのです。

 これは、とんでもないことなのです。
 [12代坂倉新兵衛氏が「萩焼」の第一人者=nというのは、当時の常識≠ナした。
 このことは、白石氏が取材すら拒否するという状況の元、上司≠ノあたるとともに陶芸の事情に詳しい=u朝日新聞西部本社」の学芸部長の源弘道氏も「それは常識だよ。白石君に教えてやる人間はいなかったのかなぁ。」と言われていることです。 (但し、源氏は、私が何か言おうとすると、先手を打っては、「文書にして送ってこい」というばかりでした。なお、他の「朝日新聞」の人間も、ほとんどが同様の言い方をします。「文書」にするとなると、「資料」等をこと細かく記す必要があります。そして、私にしては多額の経費と時間をかけて「文書」にまとめ、電話でなく、直接手渡そうと、面会できる期日を尋ねた時には、「僕はもう学芸部長ではないよ。」の一言でした。本当は、もっと出世しておられたのにです。その時、電話を切ろうとするのをなんとか食い下がった私に言った言葉がこの常識だよ≠フ一言だったのです。) 

 既に述べているように、新兵衛氏の次の世代の人をなんとしてもという思いと、[休和氏の力量]が、新兵衛氏に匹敵≠キると父=英男が判断して、「二人同時申請」に踏み切ったことです。
 小山先生の「萩焼」に対する認識≠ヘ、決して高いものではなかったため、二人申請≠フための「来県調査」をなかなか受けようとはしてくださらなかったのです、
 このことは別に述べていますが、それでもなおかつ、あくまで同時に≠ニ迫る英男に根負け≠ウれたように、出張のついでに∞自費≠ナ「調査」というより見に行ってやろうとして、実現したのが「来県調査」だったのです。
 その過程で、あくまで「差≠ヘほとんど見られない」として食い下がっていた父=英男ですから、白石氏(良輔氏・榎本氏もそうかも知れません)が批判≠オているのは、まず新兵衛氏を≠ニされた小山先生ということになるのです。(これには、当然=A英男も異論はありませんでした。)
 この「新兵衛は平凡=v「申請したのはおかしい」と受け取れるような書き方に、英男は怒りました。
 「一人申請」なら、結果≠ヘともかくとして、「来県調査」はそう難しくはなかったのです。しかし、中央審査≠ノ二人≠ゥけて、「二人とも駄目」というのは小山先生の気持ちを重くしていたのです。
 小山先生は、「一人に絞りなさい」と口にもされたといいます。しかし、それだと、世代%Iに、遅れ≠取ります。
 従って、新兵衛氏は父=英男に、迷惑をかけられた立場≠ノあったのです。
 もし、新兵衛氏一人を申請し、その結果、「人間国宝」でなく、「記録選択」であったのなら、決して、こんなとんでもない評価≠されはしなかったはずなのです。
 父=英男は、もはや目が不自由になっていたこともあって、私に新兵衛氏の名誉回復≠託したのです。

 なお、新兵衛氏と同時に°x和氏を同時申請したことは、結果的にも=A大きな意味を有しているということも述べておきましょう。
 なぜなら、榎本徹氏が「山口県立美術館」の開設に伴って、「陶芸の専門家」として採用されるまで、「陶芸に詳しい」だけでは、「文化財」の担当は出来なかったからです。
 もし、英男があの時、同時申請≠オていなかったら、「萩焼の歴史」は、かなり今日とは様相が違っていたと思います。
 父=英男は、「師範学校」卒ということで、「課長補佐」の次≠ヘ、教育現場への転出でした。
 「昭和33年4月」徳山市立櫛ヶ浜小学校の「校長」として、転出しました。
 それからは、「陶芸」には、形≠フ上では、関係ないハズですが、事実≠ニして、いささかの関わり≠持っていました。
 つまり、「陶芸」に詳しい&は、後任としてはおられなかったのです。
 新兵衛氏が4年後(「記録選択」という発表があってからでは3年後)に亡くなられた時、果たして、次≠フ「申請」をしたでしょうか。
 第一、旧「無形文化財」の基準≠ェ、「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」と推測される状況にあったからの「申請」でした。
 全国的≠ノ見ても、「人間国宝」ではなく、「記録選択」としての「認定」をしてほしいという「申請」はなされなかったと思います。
 更に、「記録選択」に2人≠ニいうことが、「日本工芸会」の「支部」を山口県単独で″ることを強行できたということです。上でも述べましたが、むしろ、「支部」をまとめようとする動きのもと、「山口県」という中途半端な位置′フに、「工芸会」への誘い≠ェなかったことが新兵衛氏を駆り立てたのです。
 (現在でも、「山口県」の各種団体が、「九州各県」と手を結んでいる例は多いのです。)
 河野良輔氏は、こんな言い方をするのはいけないとは思いますが、事実≠ニして、「陶芸」には素人≠セったのです。そのことは、良輔氏自身も書いておられますし、証言者が何人もおられます。
 [昭和32年3月]の「記録選択」としての認定から10年後、「人間国宝」の方々が次々と亡くなられ、枠≠ェ空いて、「記録選択」の完了を「文化財保護委員会」から指示されるという時点≠ナたまたま=u社会教育課」に在籍していた良輔氏が、その「まとめ」を担当されたということなのです。

──[「人間国宝」の枠(?) の推移 ]─────────────────────

昭和29年度=4人
昭和30年度〜35年度=5人〈参考 34年12月 断り続けていた§D山人氏・35年12月「記録選択」の新兵衛氏死去〉
昭和36年度〜37年度=6人
昭和38年度=5人(富本氏死去・〈「記録選択」の柿右衛門氏死去〉)
昭和42年度4人(陶陽氏死去)
昭和43年度〜44年度=2人(43年6月石黒氏・9月土師萌氏死去)
昭和45年度=4人(休和氏・藤原啓氏認定)
昭和46年度〜50年度=4人+総合指定2団体(今右衛門窯・柿右衛門窯)
昭和51年度=5人(無庵氏認定)+2団体
[参考] 私のこれはあくまでも推測≠ノ過ぎませんが、[昭和38年]に枠≠ェできたはずですが、小山先生が「永仁の壷」の件で、辞任されていたことと関係があるのではないかと思っています。小山先生は、「文化財専門審議会専門委員」としての「昭和40(1965)年」に復帰されています。

────────────────────────────
 
 「朝日新聞」の「広報部」がいうように、良輔氏のまとめ方≠ェよかったから休和氏が「人間国宝」になられたのではなく、あるいは、それが一因かも知れませんが、「人間国宝」であった方々が亡くなられ、枠≠ェ空いたのが最大の理由だと、私は確信しています。
 休和氏と藤原啓氏が「人間国宝」として認定されたのは、[昭和45年]と、間≠ェ空き、「人間国宝」は2人≠ノなっていたのですから、良輔氏の「記録」が優れていたカラという「朝日新聞」の認識≠ヘ大いに疑問だと思います。
 
(藤原啓氏の場合は、金重陶陽氏の後継ということで、以後の先例≠ニなりました。「備前焼」の「人間国宝」の方は、不幸にも、認定後、亡くなられるまでの期間が短く、層≠ェ厚いこともあって、次々と「人間国宝」になっておられます。)
 地方の時代≠ニいうことで、中央の「出版社」からの依頼で、次々と執筆、出版されていきましたが、多分に問題を抱えていたと思います。
 ただ、その後、三十余年もの間、権威者≠ニして、「陶芸」にタッチされ、直接、手に取って作品を見ることができるという立場≠ナ成長されたと思います。
 「三輪休和遺作展」の際、林屋晴三氏、加藤唐九郎氏、三輪龍作氏に良輔氏が加わって「パネルディスカッション」をされた時、自己紹介として、加藤唐九郎氏のめがねにかない=A唐九郎氏から歓待を受けたと、唐九郎氏の前でしゃべっておられることとて、それは間違いないことでしょう。
 しかし、以前≠ノ書いた誤り≠訂正しようとはされませんでした。

 なお、「人間国宝)」の枠は、その後、拡げられていますし、分野においても、新たに加わっていることは周知のことだと思います。


休雪白
196頁〜
「新聞掲載」=昭和57年12月5日(日)

休和芸術の代名詞として、すっかり定着した「休雪白」。もっとも、昭和三十年代に入って世間が使い始めたこの言葉を、休和自身は初め知らなかった。
 当代の茶碗の名手を指して、一時は「東の荒川(豊蔵)、西の三輪(休和)」と言ったように、個展などの歌い文句だろうか。それとも、白砂糖をさらに精製、脱色した純白の砂糖である「三盆白」からの、類推かも知れない。山口県の無形文化財保持者になったのを報ずる三十一年当時の各新聞記事には、休雪白の一言もない
 休和は、萩焼の代表的な釉薬の一つであるわら灰釉、萩白に冷たさを感じ、柔らかな温かみを求めて、休雪白を生み出した。 施釉の方法にしても、従来は、大きな作品の一部分にしか掛けなかったわら灰釉を、改良した末に、作品の大小を問わず、あらゆる作品の全体に掛けた。幕末以来、萩焼は疲弊し、窯ごとの個性も失われがちな時期が長く続いていた。枇杷色やモミジを散らしたような御本の模様に慣れた目に、休雪白は新鮮に写る。
 休雪白の形容は多い。「春の淡雪」。「柔らかいぼたん雪」。「真っ白な真綿」。「志野焼風」。「三盆白をどろどろに溶かして、たっぷり掛けた」とも言われる
 休和が「世間では秘伝のように言うが、わら灰が命の松本萩には、もともと伝統があった。煎茶器など小品に調和するように苦心しただ」と述懐する休雪白だが、いくつかのポイントがある。
 第一に、釉薬を掛ける前の素焼き。焼き締めすぎると、釉薬ののりが悪い。まず、生地にからくりがある。
 第二に、釉薬の調合。休和自身は「焼いたわらを臼であまり細かくつかないようにするのが秘訣」と語っている。濃度はやや濃く、粒子の大きさも関係する。
 第三に、釉薬の掛け方に、言葉にはならない苦心を重ねたようだ。
 だが、窯たきには、無数の条件が重なり合い、休和でさえ、同じ休雪白の作品を二度とはつくれない。
 「わら灰釉の調合方法は、ほかの窯元と大差ないだろう。ただし、各窯元の窯ごとに焼き上がりには特性があり、休雪白と同じ釉薬を、全く同じように掛けたとしても、よその窯では決して三輪窯のようには焼けない。自分の窯に合う釉薬を求め続けた末に、休和は休雪白を生んだ」(休雪)。
 「同じ土、釉薬、窯でも、違う思想や感覚が働けば、違う作品ができる。それが芸術のおもしろさだろう」(三輪龍作)。
 休雪白を単なる技術の面だけからとらえることはできない。
 萩焼の歴史の中で、わら灰釉の総掛け(ずぶ掛け)は、もともと休和の特殊な個人様式だった。それが今では、土産品に至るまで使われ、萩焼が昔からこうであったかのような印象さえ与えている。休和の大きさ、と言うしかない。
 一方、現在の若い萩焼作家の間では、作家の数だけ技法があるかのようだ。だが、一つの技法に秀でていたとしても、それを取り去った時、例えば造形力の確かさといったように本質的なものが残る作家が一体、どれだけいるだろうか。展覧会を意識するあまり、早い時期から技法の一本釣りに走ることは、長い目で見た場合に、危険性さえはらんでいる。
 日本工芸会副理事長として、日本伝統工芸展や、日本工芸会山口支部主催の伝統工芸新作展の審査を通して、萩焼を見つめる陶芸家、田村耕一(栃木県)は、こう指摘する。「若い間は、まず造形に力を注ぎたい。土や釉薬の味わいとか、技法にとらわれすぎてはいけない。最初から、こびたような作品はいけない。ほかのやきものに比べて、今の萩焼では、技法の殻にこもり、日本伝統工芸展に通るための作品が多すぎる。安全地帯から、もっと出てはどうでしょうか」。


──[問題点]─────────────────────
 推測は、十分、調べてもなお、わからない時になされるものだと思います。

 しかし、白石氏は、父=英男には、何らの聞き取りすらされませんでした。

この「休雪白」なる呼称≠ヘ、小山先生に「来県調査」をなにがなんでもしていただくために、依頼する過程で、父=英男が「白い釉薬が素晴らしく、それは休和氏特有のものです」と説明したのに対し、
小山先生が思わず発せられた「休雪白ってわけか」という言葉が最初でした。
それを父=英男が「休雪白ともいうべき特有の色」と記者発表したのを
休和氏の「重要無形文化財指定申請書」を担当した人物(形≠フ上では萩市長となっています)が、「休雪白」という呼称で、広く呼ばれていると断定的に書いたことが定着≠オたのです。
新聞記事に一言もない≠ニありますが、
当時≠フ「新聞」は、「紙面」が少なかったこともあるのでしょう、
「毎日新聞」の記事(「左」)は、
「山口版」にも係わらず、一番下の欄に、今日からは考えられないほど小さな扱い≠ナしかないし、
「朝日新聞」は、記事にさえしなかったはずです。
比較的大きく扱っていただいた「新聞社」も、
とも言うべき≠ニいう言い方であったために、
単に特有の色と言った表現に留まっているのです。


◆ 「西日本新聞」(昭和31年8月26日)の場合

二陶匠を無形文化財に
萩焼の坂倉、三輪両氏

 県教委は二十五日、長門市深川湯元坂倉新兵衛(七六)萩市椿東三輪邦広(六一)の両氏を県下で初の重要無形文化財(陶芸)に指定した。
 両氏はサビ≠ニ暖かみのある茶器類でむかしからよく知られている萩焼の代表的陶匠として工芸技術を高く評価されたもの。十二代新兵衛を名乗る坂倉氏は四百数十年前、征韓の役
のさい毛利輝元が朝鮮からつれかえった陶工で萩焼の元祖といわれる李勺光の子孫、坂倉家は代々毛利藩の御用窯としてすぐれた茶器類を作り、十二代坂倉氏にひきつがれた。
 三輪邦広(休雪)氏は四百年ほど前、陶工として大和国から毛利藩に招かれた三輪源太左衛門の子孫。両氏の芸風は坂倉氏が線の鋭さを特色とするのにたいし、三輪氏はやわらかい形と色に個性をだしている。
 なお、県教委では両氏を国の人間文化財〈ママ=rとして指定するよう申請の準備を進めている。

 色に個性というのですから、そのがどんなものかを言わなかったのなら、当然=A記者は「どんな色か」と尋ねたハズです。
 それなのに、書かれていないというのは、父=英男が、ともいうべきという修飾語≠用いたからでしょう。 

 お二人を「同時申請」ということですし、「申請書」提出までの時間的余裕がなかったため、「申請書類」の作成は、「長門市」・「萩市」のお世話になったのですが、
「萩市」作成の「資料」が、次に示すように、世上、休雪白と称するに至りて、一般萩焼窯にても之に倣ふもの多くとしたことが、モトだと思います。
なお、休和氏の場合、「申請書」と「写真帳」の2冊がセット≠ネのですが、
その「写真帳」の「写真説明」は、誠実な休和氏にふさわしく、休和氏ご自身が、で、説明を記しておられるわけで、
「指定申請書」に書かれた内容を当人の休和氏が知られないはずはないのです。
 更に、休和氏自身の証言≠ェ形としても残っています。























「写真」はいずれも休和氏の「重要無形文化財指定申請書」からのものです。左の「写真」の終わりから4行目以降は其の作品はその大小を問わず多分に白釉を流し、世上、休雪白と称するに至りて、一般萩焼窯にても之に倣ふもの多く、遂に近時の萩焼とて一転機を画し、現今の隆昌の機運を招≠ワで、「右の写真」は、拡大しているために、部分≠ナすが、来せるは大なる変革となすべきなり。≠ニ続きます。
又これと別個に抹茶碗の施釉に休雪白と称へらるものは牟礼長石、和薬長石、灰を混合せる濃釉にして、これを茶碗の地釉の上に二段掛として、焼成するときは、頗る荒□入を来し茶白色の軟釉は地薬と著しく変化して、片身替りとなり、萩茶碗の特長たる茶馴より来る、所謂萩の七化げ現象を更に効果的ならしむるものにて、是又古萩作品に比類なく、その素地独自の作風に加へ、この濃釉を以て一見休雪茶碗と呼ばるるに至りたり。更に同釉井戸写茶碗に於ては素焼を省き生掛とし、完全なるカイラギを現出して現在休雪茶碗中得意の作として挙ぐべきものにて、如述の釉薬は萩窯中最も特異性あるものと称すべきものなり。≠ニ続いているのです。
要するに、「休雪白」という言葉は、既に世上≠ェ称していると言っているのです。更に、その「休雪白」なるものは、「抹茶茶碗」と、その他では、違う≠ニも。