平成19年8月26日 公開
平成21年7月25日 更新

『萩焼人国記』中の
「休和物語」の数々の誤り≠ニ
事実≠ニしての休和氏の歩み

 白石氏の「休和物語」の具体的≠ネ記述
は、[第二章]として設定しています。この左のをクリック≠オてください。

 なお、白石氏の記述では、敬称は略されていますが、私の解説においては、原則として、「氏」をつけています。



(その1)=三輪休和氏の「作品」は本当≠ノ、晩年の10年足らず≠ナないと芸術開花≠オていないのか?


朝日新聞の記者=白石明彦氏は、
(病気のため)五十二、三年作の茶碗は、微妙な厚みがわからなくなるのか、腰から高台にかけて厚ぼったく、轆轤の切れも乏しい。 (「休和物語」2.2頁2・3行目)
と書いているのに、
明治四十三年(一九一O)に土踏みを始めてから、昭和五十四年(一九七九)に最後の入院生活に入るまで作陶歴六十九年。
古陶磁や窯たきの研究成果の上に、作家としての個性を備えた休和芸術が開花するのは、最後の十年足らずにすぎない
(「休和物語」214頁14・15行目)
ということですから、
休和氏の作品として「昭和53(1978)年[83歳]作品」を一応¥Iわりとみる(最後≠ニなる「入院」されたのは、昭和54年で、昭和56年10月24日に亡くなられています)として、
「昭和44年」以降の10年間≠フ作品が休和芸術≠ナ、それ以前の「作品」は未完成作品ということになるのでしょうか。
 そもそも、昭和32年3月(昭和31年度)の「記録選択」意味をつかんでいません。
 「休和物語」において、昭和29年度の「記録選択」となっておられる中里無庵氏についても、「日本伝統工芸展」を機に世に出たというのですから、あきれてしまいます。

 もし本当に休和芸術という名に値するのは、最後の十年間足らずの「作品」にすぎない≠ニいうのなら、
文化財保護委員会は、「休和芸術」が未完成≠フ段階で、「記録作成」の完了を指示したことになりますし、

権威者≠ニして、誰もが認める林屋晴三氏「昭和42年」の「作品」を代表作%Iに扱っておられることも
おかしい≠ニいうことになります。




「左」の「写真」は、林屋晴三氏が「責任編集」された集英社刊『現代日本陶芸全集 中里無庵 三輪休和』の厚紙の「ケース」に載っている「作品」

 更に、『遺作展図録』をもとに、調べてみますと、
東京国立近代美術館所蔵=昭和33年作 萩茶碗 // 〃 萩編笠水指 // 昭和45年作 萩茶碗」
文化庁所蔵=昭和42年作 萩水指 // 昭和50年作 萩編笠水指」と、
未完成作品?=3作品=A完成作品=2作品≠ニ、未完成作品≠フ方が多く国≠ノ所蔵されていることになるわけで、
これまたおかしなこと≠ノなります。




昭和33(1958)年[63歳]の「作品」

「第5回 日本伝統工芸展」に出展され、「東京国立近代美術館」に所蔵されている作品

この白石記述≠ェ、本当に河野良輔氏や榎本徹氏の情報≠ノよって記しているのなら
河野良輔・榎本徹両氏にも「問題」があるといわざるを得ません。

この表現≠ヘ、「土踏み三年」〈145頁2〜8行目〉の
明治四十三年(一九一○)に萩中学校を中退してから、昭和二年(一九二七)に三輪家十代を継ぎ、休雪を名乗るまでが修業時代、三十一年(一九五六)の第三回日本伝統工芸展で初出品の平茶碗が入選するころまで、戦争をはさんで起伏はあったが、苦境時代が続く。三十年代は三輪窯の経営を軌道に乗せながら、休和様式を模索する作家時代。さらに、四十二年(一九六七)に十一代を現在の休雪に譲り、隠居して休和を名乗ってから、家の重みから解放されて、休和様式は完成に向かう。
と関連≠オての「記述」なのでしょう。

休和様式なる造語(榎本氏によると思われます)が、いかなるものかは、今一つ=Aわかりません(私は、「遺作展」で、ガラス越しに、わずか≠フ「作品」眺めた以外に、休和氏の休和様式≠ニいう「作品」を見ていませんし、父は、何度もお伺いして、手に取って′ゥせてもらっていますが、残念ながら、私に晩年≠フ「作品」をことさら=A取り立てて′黷驍アとはありませんでした)が、

休和はこれ(註 弟=節夫氏に、11代 休雪を譲ったこと)以後、まとまった数の作品が要る個展活動をほとんどやめ、日本伝統工芸展はじめ出品点数が少なくて済む展覧会に発表の場を絞る。作品の数は確かに減ったが。晩年の休和に、隠居という言葉の持つ消極的なイメージはない。家業の重みから解放され、休和様式は四十年代後半にかけて一気に完成に向かう。
 茶道にかなう茶陶、茶がおいしく飲める茶碗を追究する休和の姿勢は生涯、変わらない。休和時代に入ると、それに加えて、茶席で使うよりも、展覧会で見せることを意識した作品が現れる。造形から釉掛けに至るまで、作品一点一点について細かい計算を重ねるようになる。(「隠退」〈203頁〜〉)とか

形はむしろ限定され、工夫をこらした釉掛けのように装飾性が強まる。展覧会で見せることを意識した休和時代の茶碗は、
道具としてのやきものの用から一歩踏み出した「オブジェ化」と呼べないこともない。
もっとも、古萩に縛られることなく、自己の創造のために必要なものを自由に吸収した休和も、茶陶の枠組みから出ることはなかった。(「三代」〈215頁〉) ことを持って、
休和様式≠フ完成というのでしょうか。

 休和氏は、既に「昭和31年6月」の小山先生の「来県調査」によって、「人間国宝」の候補≠スり得ると認めていただき、それが「第三回 日本伝統工芸展」によって、多く≠フ方々の目で「確認」され、「記録選択」とはいえ、「昭和32年3月」(昭和31年度)「国指定無形文化財」と認定され、私に言わせれば長いプール≠フ期間にあって、精進を重ねられて、 昭和42年の文化財保護委員会の指示による「記録作成」、昭和45年3月の「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」認定≠ヨと繋がる<純Pで、
それを、さらなる完成を見せたというのならともかく、「休和芸術」の完成≠ヘ、晩年の10年足らずにすぎないというと、それ以前≠フ「作品」を否定するように私には思えます。

用≠念頭≠ノおいた休和氏の作陶人生≠、こんな乱暴な′セい方でもって、表現するのはふさわしくないと、私は思います。

そして、加藤唐九郎氏の言葉≠セとして、12代坂倉新兵衛氏を「技は手なれているが、平凡」と決めつけて≠「るのも、こうした視点≠ェあるからでしょうか。
 「茶陶」としての「萩焼」に、ひたすら=u用」を追究する段階から、方向転換する期間のなかった新兵衛氏への心ない=u評」は、放置≠ナきるものではありません。
 「第三回日本伝統工芸展」以後の、競い合いの場、高額な=u作品」への需要といった要素のない「時代」の名工として、位置づけるべきだと思います。


(その2)=12代坂倉新兵衛、休和が、昭和18年当時から小山冨士夫によって、「なかなかの上手」と評価されていた


確かに、小山先生は、なかなかの上手≠ニいう表現を用いておられますが、文脈≠考えておらず、読解に問題があると思います。
 ココ≠クリック≠オて小山先生の「全文」を見ていただきたいと思います。
白石氏は、この小山先生の評≠フ直前に、萩出身の日本画家、楢崎鉄香は、十八年発行の著書「はぎやき」の中で、「井戸風の茶碗を作っては近世に比を見るものなし」と、休和をたたえた。≠ニ記しています。
確かに、昭和十八年発行の「萩焼」の85頁において、「井戸風の茶碗を作っては近世に比を見るものなし」とあるのですが、その後に続いているの感がある。≠省略しています。この感がある≠ェあるのとないのとでは随分、印象がちがうのではないでしょうか。
そして、続きとして、此度技術保存の指定を受けて他の萩焼の二つの窯元と共に萩焼を代表するものとなつた。≠ニ記しています。
さらに、楢崎氏は、休和氏だけを褒めているのではなく、82頁においては、十代坂高麗左衛門氏をして、当代十世高麗左衛門氏は父韓峯 (注 名人と評された陶工です) の後を継ぎ、坂窯の作風に新らしきいぶきを吹き込み、温雅なる仕事をなし、萩焼名家として昭和十八年二月技術保存の指定を受けた。これによつて萩焼の存在は日本全国の斯界各名家と同列になり、将来共伝統の技術は確保された。とあります。
また、12代坂倉新兵衛氏については、当代の坂倉新兵衛氏は若年の頃、萩の坂窯に居て技術を研究され、其の作風は全く所謂萩焼の作風、焼成を用ひ、近年古萩復興の仕事に於て井戸・呉器・三島等の古い処を巧みに写し、茶人の間に名声を高めている。昭和十八年二月技術保存に指定されて新兵衛氏の存在は萩焼に重要な地位を確保された。とあります。
つまり、楢崎氏は「11月」の発行において、「この年=昭和十八年二月」の「技術保存の指定」を根拠≠ノ褒めているように思えます。

 この「技術保存の指定」は、それなりに価値があるもの≠ナすが、なにせ、数が多いのです。
 楢崎氏は、3つの窯元≠ニしていますが、それは、第一次≠フ時の「認定」で、「工藝指導」(商工省工藝指導書編纂 昭和18年10月號)における
「10 工藝技術保存者決定」においては、高麗陶兵衛、吉賀大雅が加わって、計 5名が「萩焼」から「認定」されています。

 なお、「萩焼」の場合、第一次≠フ3名≠ヘ、そのまま≠ナすが、第一次≠ナ「認定」された方々が必ずしも、「次」では、「認定」されていない方もおられます。
 亡くなられたことが「理由」の場合もあるでしょうが、例えば、第一次≠ナ「認定」されていた「備前焼」の金重 勇は、「工藝指導」(商工省工藝指導書編纂 昭和19年1月號)において、
「13工藝技術保存資格者(追加)」に金重陶陽の名があります。
 御承知のことと思いますが、金重勇=金重陶陽氏です。「人間国宝」として、昭和30年度に認定された陶陽氏が、こんな状況≠ニて、どういう「基準」かが今一つ=Aわかりませんが、が認められての「認定」であることは間違いないと思われます。



(その3)=昭和30年の「全日本産業工芸展」において「会長賞」を受賞し、「記録選択」の伏線≠ノなった


休和氏は、昭和30年=入賞=A翌31年=「新聞社賞」≠ニいう「はがき」をくださっています。(三輪休和氏からの「はがき」)
「はがき」の文面からして、「昭和30年の入賞=vは「会長賞」ではないはずです。
 大賞は、大ぶりで、華やかな=u作品」に向けられることが多く、 「抹茶茶碗」は、その出来≠フ如何によらず、受賞しにくいハズで、連続≠フ入賞というのも、希有なことと思ってよいのではないでしょうか。
 この「会長賞」情報は、河野良輔氏も書いていますが、その根拠≠ノついては、榎本徹氏が「休和遺作展」における『図説』の中で、
 「昭和三二年三月と八月にはさまれて、自筆の履歴書がとじこまれている。昭和三四年の記述まであるので、おそらく三五年に作成されたものであろう。その前半は以下のとおりである。」として、
 縣立萩中学校卒業 ・・・・
 一、昭和三十年九月全日本産業工芸展(丸技作家限定作品展) ニ於テ會長賞ニ刷毛目抹茶碗入賞 (個人受賞最高位) ・・・
と書いているのがそれにあたるようです。
 しかし、本当に休和氏の自筆≠ネのでしょうか。
 第一、この自筆の履歴書≠フ書き出しは、縣立萩中学校卒業≠ナ始まっていると、榎本氏は書いているのです。
 しかし、休和氏は、家業を継ぐために、「中退」させられることで、「陶芸」の道に入られたことは、周知≠フことのはずです。

 それに、仮にそれが「会長賞」であったとしても父=英男が「文部技官」で「陶芸」についての最高権威者≠ナある小山先生「来県調査」を御願いしたこととは、関わりがないことですし、ましてや、(会長賞を受けたことが)二年後の無形文化財選択への伏線として注目される(「休和物語」〈194頁〉)なんてことは、事実≠ノ反します。
 父=英男は、別の視点≠ゥら、三輪休和氏と12代坂倉新兵衛氏の「同時申請」を決意したのであり、やっとかなった「来県調査」において、小山先生の目≠ナ、人間国宝相当≠ニ認められたというのが事実≠ネのです。


(その4)=「日本伝統工芸展」の「第二回展」には、推薦によって若手作家も出品している。


若手は、「支部会員」としての出展であって、推薦によるものではありません。
ただ、「支部会員」になるには、推薦が必要ですので、結果的には差≠ェないかも知れませんが、
次≠フ「日本伝統工芸展は第三回展から公募制をとり、休和は平茶碗を出品している。」≠フ導入≠ニして記するのは、
適当ではありません
『第三回日本伝統工芸展図録』に、昨年は第二回総合展覧会を催して好評を博したが、このたびは正会員支部会員の外に、会員紹介の作家の作品を厳選して、第三回展を開らく運びとなった。≠ニあるわけですから、
当然=A「第二回展」は、正会員支部会員での「工芸展」のハズであり、「第三回展」からが会員紹介=「理事」又は「正会員」の推薦なのです。
ツマリ、「第二回展」、「第三回展」の両方の性格誤っているということです。


(その5)=休和氏は、公募制≠ニなった「第三回日本伝統工芸展」に出展、「平茶碗」が入選する。


「第三回展」は公募≠ナはありませんし、入選作品は、「平茶碗」ではありません
二人の「重要無形文化財指定申請」のための昭和31年6月の「来県調査」によって、その力≠認められた小山先生が、
まだ、「発表」はしていないが、秋の「第三回展」では、「理事または工芸会正会員」の推薦によって「出展」が可能になるからとして、
全国的には認められていなかった=u萩焼」の力≠「無形文化財」の認定に関する「会議」前にできるだけ多くの方≠ノ見ていただけるようにというお勧めで、小山先生の推薦≠ナ、新兵衛、休和両氏が2作品ずつ出展、その2作品ともに入選したのです。
但し、『図録』には、1作品ずつしか載ってはいません。

(権威者≠ニしての小山先生でも、お一人が、「無形文化財」認定を決められるワケではないからです。
このようないきさつ≠ェあるのですから、「日本伝統工芸展」の「入選」(しかも、「平茶碗」)によって、初めて=u認められた」とする通説?≠ヘおかしいのです。
小山先生に、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の候補≠スりうるとして認められた12代坂倉新兵衛、三輪休和両氏の「作品」のお披露目%Iなが、この「第三回日本伝統工芸展」だったのです。)

「第三回日本伝統工芸展」において、
「工芸会」以外の陶工にも「出品」の機会があることを発表するのは、
「8月10日発行」の『工芸会報』bPにおいてです。
その3頁に、

  第三回日本伝統工芸展開催要項
 出品資格
 1 重要無形文化財保持者として認定された者
 2 社団法人日本工芸会正会員、支部会員
 3 社団法人日本工芸会理事又は正会員一人以上の推せんする
作家又は技術者。

 出品申込料(一品につき)
  A 重要無形文化財保持者  無料
  B 日本工芸会正会員    無料
  C 日本工芸会研究会員   200円
  D 日本工芸会理事又は正会員が推せんする者     500円

 と明記≠ウれています
(「工芸会事務局」で見せていただいた時、メモ≠ウせていただいきました。)

この『工芸会報』は、一般の人間には見ることは難しいにせよ、複数の「公立図書館」には蔵書されている『第3回 日本伝統工芸展 図録』にも書かれていることです。
さらに、「朝日新聞社」には、当然、あるのです。
(私は、この『第3回 日本伝統工芸展 図録』より以前の『第1回 日本伝統工芸展 図録』・『第2回 日本伝統工芸展 図録』も、コピー≠ナの蔵書とはいえ、「朝日新聞社」に見せてもらっているのです。その時から十年余=Aなんと、現在の=u朝日新聞社」は、私の「萩焼」の記述がおかしい≠ニいう指摘≠ノ、それを確かめてみよう≠ニすらせず、肩書≠フある人間に丸投げ≠オ、間違い≠広め続けているのです。)


(その6)=この「入選」をきっかけに、会場の「三越」により開催されることになった休和氏の「個展」に際し、在京の名士によって、自然発生的に=u後援会」が結成された


一人の陶工が、東京のデパートで「個展」を開催するからといって、自然発生的に「後援会」ができるはずはありません。
「萩焼」の力≠フ全国的な認知≠フための「萩焼」の「重要無形文化財」への「指定・認定」を目指していただいていたからこそ、意欲的な=高価な″品となる作陶活動の支え、そうした作品を受け入れるための「後援会」を立ち上げようとしたのであり、
何か、休和氏だけのような感じですが、「高島屋」で個展を開催された新兵衛氏にも、当然、「後援会」ができています。
重ねて言いますが、「力」を正当に評価されていない≠ニいう現実≠フもと、新兵衛、休和両氏は「重要無形文化財」の認定≠ニいう形での萩焼の評価≠高めるために、努力してくださっていたのです。
休和氏の「後援会」設立にあたっては、岡崎茂樹氏が根回ししてくださったのです。
ただ、当然のことながら、両氏の人間的な魅力・人柄が、その発足をスムーズに展開させてという面は忘れてはならないことです。


↑   「三輪休和」氏の「三越個展」のパンフレット。以後、回を重ねていきます。


(その7)=「休雪白」という語は、昭和三十年代に入って世間が使い始めた言葉≠ナ、休和自身は初め知らなかった。
当代の茶碗の名手を指して、一時は「東の荒川(豊蔵)、西の三輪(休和)」と言ったように、個展などの歌い文句だろうか。それとも、白砂糖をさらに精製、脱色した純白の砂糖である「三盆白」からの、類推かも知れない。山口県の無形文化財保持者になったのを報ずる三十一年当時の各新聞記事には、休雪白の一言もない。



この「休雪白」なる呼称≠ヘ、小山先生に「来県調査」をなにがなんでもしていただくために、依頼する過程で、父=英男が「白い釉薬が素晴らしく、それは休和氏特有のものです」と説明したのに対し、
小山先生が思わず発せられた「休雪白ってわけか」という言葉が最初でした。
それを父=英男が「休雪白ともいうべき特有の色」と記者発表したのを
休和氏の「重要無形文化財指定申請書」を担当した人物(形≠フ上では萩市長となっています)が、「休雪白」という呼称で、広く呼ばれていると断定的に書いたことが定着≠オたのです。
新聞記事に一言もない≠ニありますが、
当時≠フ「新聞」は、「紙面」が少なかったこともあるのでしょう、
「毎日新聞」の記事(「左」)は、
「山口版」にも係わらず、一番下の欄に、今日からは考えられないほど小さな扱い≠ナしかないし、
「朝日新聞」は、記事にさえしなかったはずです。
比較的大きく扱っていただいた「新聞社」も、
とも言うべき≠ニいう言い方であったために、
単に特有の色と言った表現に留まっているのです。


◆ 「西日本新聞」(昭和31年8月26日)の場合

二陶匠を無形文化財に
萩焼の坂倉、三輪両氏

 県教委は二十五日、長門市深川湯元坂倉新兵衛(七六)萩市椿東三輪邦広(六一)の両氏を県下で初の重要無形文化財(陶芸)に指定した。
 両氏はサビ≠ニ暖かみのある茶器類でむかしからよく知られている萩焼の代表的陶匠として工芸技術を高く評価されたもの。十二代新兵衛を名乗る坂倉氏は四百数十年前、征韓の役
のさい毛利輝元が朝鮮からつれかえった陶工で萩焼の元祖といわれる李勺光の子孫、坂倉家は代々毛利藩の御用窯としてすぐれた茶器類を作り、十二代坂倉氏にひきつがれた。
 三輪邦広(休雪)氏は四百年ほど前、陶工として大和国から毛利藩に招かれた三輪源太左衛門の子孫。両氏の芸風は坂倉氏が線の鋭さを特色とするのにたいし、三輪氏はやわらかい形と色に個性をだしている。
 なお、県教委では両氏を国の人間文化財〈ママ=rとして指定するよう申請の準備を進めている。

 色に個性というのですから、そのがどんなものかを言わなかったのなら、当然=A記者は「どんな色か」と尋ねたハズです。
 それなのに、書かれていないというのは、父=英男が、ともいうべきという修飾語≠用いたからでしょう。 

 お二人を「同時申請」ということですし、「申請書」提出までの時間的余裕がなかったため、「申請書類」の作成は、「長門市」・「萩市」のお世話になったのですが、
「萩市」作成の「資料」が、次に示すように、世上、休雪白と称するに至りて、一般萩焼窯にても之に倣ふもの多くとしたことが、モトだと思います。
なお、休和氏の場合、「申請書」と「写真帳」の2冊がセット≠ネのですが、
その「写真帳」の「写真説明」は、誠実な休和氏にふさわしく、休和氏ご自身が、で、説明を記しておられるわけで、
「指定申請書」に書かれた内容を当人の休和氏が知られないはずはないのです。
 更に、休和氏自身の証言≠ェ形としても残っています。





















「写真」はいずれも休和氏の「重要無形文化財指定申請書」からのものです。左の「写真」の終わりから4行目以降は其の作品はその大小を問わず多分に白釉を流し、世上、休雪白と称するに至りて、一般萩焼窯にても之に倣ふもの多く、遂に近時の萩焼とて一転機を画し、現今の隆昌の機運を招≠ワで、「右の写真」は、拡大しているために、部分≠ナすが、来せるは大なる変革となすべきなり。≠ニ続きます。
又これと別個に抹茶碗の施釉に休雪白と称へらるものは牟礼長石、和薬長石、灰を混合せる濃釉にして、これを茶碗の地釉の上に二段掛として、焼成するときは、頗る荒□入を来し茶白色の軟釉は地薬と著しく変化して、片身替りとなり、萩茶碗の特長たる茶馴より来る、所謂萩の七化げ現象を更に効果的ならしむるものにて、是又古萩作品に比類なく、その素地独自の作風に加へ、この濃釉を以て一見休雪茶碗と呼ばるるに至りたり。更に同釉井戸写茶碗に於ては素焼を省き生掛とし、完全なるカイラギを現出して現在休雪茶碗中得意の作として挙ぐべきものにて、如述の釉薬は萩窯中最も特異性あるものと称すべきものなり。≠ニ続いているのです。
要するに、「休雪白」という言葉は、既に世上≠ェ称していると言っているのです。更に、その「休雪白」なるものは、「抹茶茶碗」と、その他では、違う≠ニも。


(その8)=伝統工芸展」の存在が休和らに日の目≠みさせることになった唐津焼の中里無庵のように、休和と同時代の一群の陶芸家の中には、この「日本伝統工芸展」を機に世に出た人が多い。そして、この「工芸展」の存在と休和らの作品発表は、「萩焼」全体が日の目≠見ることに通じた。



(その1)でも触れたように、この記述は、とんでもない=Aものを知らぬ=u人間」の言うことです。
「伝統工芸展」は、「文化財保護法」にある力≠ニ衰亡の虞≠条件≠ニした「無形文化財」として「認定」された方々の、技の公開≠フ場として始まった「展覧会」です。
改正された=u無形文化財」=「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」・「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財(記録選択)」の人達にとっても、公開≠フ場でした。
従って、「昭和29年度」に「記録選択」に認定されていた中里無庵氏も、当然、「工芸展」は、公開の場≠ナあって、
「工芸展」によって日の目≠見たわけではありません。(但し、形≠ニしては、「人間国宝」と異なり、審査≠経てということになっていました。)

 入選のレベルの高さ≠艪ヲに、「工芸展」によって日の目≠見たというのは、「日本工芸会」の発足時=A「正会員」ではなかった人や「無形文化財」でなかった人達についてであって、それなのに、こんな情報提供≠竅u記述」をするのは、酷なようですが、ものを知らない$l間の言うことだと言えます。


(その9)=休和と同時に、山口県の無形文化財萩焼保持者に認定され、第三回日本伝統工芸展に初入選し、「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択を受け、日本工芸会の正会員になった坂倉新兵衛は、技は手なれているが、平凡≠ネのに、この新兵衛を休和よりもむしろ先に、人間国宝へ=Aという動きもあったらしい



このことがとんでもない間違いであることは、 をクリック≠オて、確認していただきたいと思いますが、小山先生の「手紙」だけは、ここにも示しておきます。
このことを正す≠アとこそが、私がこの[ホームペー]を立ち上げた主たる目的なので、かなりのスペースを使っています。是非、確認してくださるよう、お願いします。

小山先生から[来県調査]後にいただいた「手紙」



 この「手紙」は、現在「山口県文書館」[河野英男収集文書 bX3]として整理されています。


・・・ 作品としては坂倉新兵衛氏が最も優れていると思います。三輪休雪氏も人物作品ともに魅力を感じます。先ず御両氏を県の無形文化財に御指定されることが適当ではないかと存じます。
重要無形文化財の指定は有田・京都並□製陶地のことも考慮の上、坂倉氏の技術を先ず指定したい下心ですがいづれ他の方とも相談の上方針定めたいと思っています。・・・



(その10)=休和は、「工芸展」入選を機に「陶工」から「陶芸作家」に変身する


「記録選択」というプール¥態におかれた「記録選択」の人達は、
プライド≠ニプレッシャー≠フ狭間≠フ中で、「工芸展」という競う場≠ノおいて、精進を重ねられたのです。
それは、時代≠フ変化≠ニともに、轆轤を挽けない北大路魯山人氏が「人間国宝」を辞退したというニュース≠ノより、意匠性=E芸術性≠ェ問われることが明らかに≠ネったからでもありました。
そして、その休和氏の努力は、「萩焼」の正当な力の認知≠してもらうためのものでした。
「後援会」という形を考え、バックアップ≠したのもそのためでした。
「手作り幻想」〈川田 順造氏『サバンナの博物誌』〉という一文も、参考になると思います。


(その11)=休和は、「人間国宝」に認定されることを望んでいたわけではない。


休和氏が、稀に見る人格者≠ナあり、名利≠ノは執着されず、父=英男が、「重要無形文化財」への「申請」の話をした際、乗り気でなかったのは確かですが、「萩焼」のために、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」を目指すことを了解してくださったのです。
「人間国宝」は、北大路魯山人氏や河井寛次郎氏のように、望まないのに=A推薦されるというケー≠烽ネいわけではありませんが、それはごく特殊≠ネものです。
休和氏が、「人間国宝」たりうるように、精進してくださったことは、「書簡」からもあきらかです。
ただ、プール¥態が長かったために、休和氏に、御迷惑をおかけしたことは確かです。(枠≠ェ空くまでに、十年、経過しました。)


(その12)=振り返ってみると、「人間国宝」認定の時より、「第三回日本伝統工芸展」の初入選の方が大きな意味を持ったといえる


既述したように、「日本伝統工芸展」は、「萩焼」にとって、登竜門≠ニしての役割ではなく、力を全国的に認知させるための場≠ナあったのです。
 こんな捉え方≠セから、「昭和31年当時=v、既に、「人間国宝相当」と小山先生に認められていたという事実≠無視し、当時≠フ「作品」すらまともに調べることなく=A12代坂倉新兵衛氏をして、平凡≠ニ切って捨てることになるのです。
モトモト、優れた=u陶工・陶芸家」が、高度成長を背景として、意匠性・芸術性≠重んじて、量≠ナはなく、質≠目指した「作品」にも需要があり、10年≠熕ク進されれば、当然=A「作品」が変わるでしょう。
しかし、用≠重んじ、量≠熄dんじねばならなかった当時≠フ「作品」も、正当に評価≠キべきではないでしょうか。


(その13)=「人間国宝」になった休和は、萩焼のシンボルとして、大きな意味を持ったが、「人間国宝」になってまもなく、休和は、思ったような作品ができなくなった。それでも、制作意欲だけは旺盛であった。


休和氏に申し訳なかったのは、
「人間国宝」という制度≠ヘ、現在進行形≠ニしての力≠要求され、作品ができなくなると、認定解除≠キるという「条文」があることを「昭和31年」に「人間国宝」に同時=u申請」する「理由」として、
休和氏に、このことを話していたことです。
 この解除≠ヘ、理念≠ニしては、今日も引き続き、存在していますが、事実≠ニしては発効≠オたことはないのです。
 しかし、それは結果論≠ナあって、まじめで、高潔な°x和氏は、そのことが頭から離れなかったのだと思うのです。なんとしても作品を作らねばならないという思い≠ェあったのだと思うのです。

ただ、多少の気持ちの救いは、当時、休和氏と同年代の陶工・陶芸家が「萩焼」には存在せず、次≠ヘ、かなり年の離れた≠P2代坂倉新兵衛氏の二男の14代新兵衛氏か、休和氏の弟の11代休雪〈現 壽雪〉氏であろうと思われていたということです。
〈ここでは名前は秘しますが、中央の権威者≠フ先生の言葉です。〉


[参考]
「参考文献」として、この「休和物語」をあげている『山口・人物ものがたり』〈『山口・人物ものがたり』研究会編・「フレーベル社発行」〉 (但し、「三輪休和物語」朝日新聞社≠ニなっており、三輪≠フ文字が付け加わっています)においては、小学生向き≠ネのに、随分おかしな内容≠ニなっています
このもととしての「休和物語」がおかしいことは既に述べましたが、この『山口・人物ものがたり』の[139頁〜147頁]の[三輪休和 −長い修業を積み重ねて、名器「休雪白」を生み出した陶工−]もわかりやすく記述≠オたとはいえ、困ったことがかなりあります。
まず、「顔写真」が、休和氏ではなく、弟の壽雪氏の「十一代休雪」時代のものだということ、さらに、この見出し≠ノの「休雪白」につけられたふりがながきゅうせつぱくであること、更に、「休雪白」は、名器≠フ呼称≠ナはなく、特徴的な釉薬についてのものだということです。
「休雪白」をドラマチック≠ノするためでしょう、随分フィクション≠取り入れています。それには目くじらをたてることもないのですが、「休雪白の完成したのは、昭和三十一年四月のことでした」と断定≠オているのは困ったことです。
「休雪白」的なものは、戦前からあったのですし、「昭和31年4月」というのは、「山口県無形文化財」の指定 (「山口県」としては、残念ながら「条例」での制定ができず、「保存顕彰規程」で代用したため、「萩焼」は、一気に「国指定」を目指していたのですが、小山先生の指示で、8月に「県指定」になったのです。) から逆算≠オたのでしょうが、困ったものです。
さらに、一九六七年(昭和四十二年)五月、休雪は三輪家十一代を弟にゆずって、休和というもとの名まえにもどりました。≠ニまで書いているのです。
このように、次々と誤り≠付け加えていくのが残念ながら、「萩焼」に関する実態≠ネのです。

 なお、どうしてこんな誤りが?≠ニ思われる「萩焼の歴史」を伝えている出版物には、一流紙=u読売新聞」の県内支局で編集・発行しているものもあります。
 大昔≠フことならともかく、関係者≠ェ存在しているのに、たまたま公的な立場≠ノあった人間によって、事実≠ェ歪められる、困ったものです。
 私も若いとは言えません。父=英男から引き継いだことを、できるだけ早く、まな板の上≠ノ乗せ、その妥当性≠権威者≠ノ調べ直してほしいものです。










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