平成28年11月5日 houfukouteki≠ニいう「アドレス」で開始
平成28年11月16日  この「ページ」の「アドレス」を利用して ほぼ、同じ内容をアップ=@なお、一部、内容を補充
平成28年11月18日  この「ページ」が直接=u検索」可能になったことを確認して、houfukouteki≠ヘ削除
平成28年12月15日  更新=@


●「修正」された公的・準公的≠ネ「野村望東尼」の「解説」のこと


「ホームページ」の「Yahoo」・「Google」での「検索」は、量的に膨大≠ナ、「私作成の関連した<yージ」を見ていただくのは、難しいようですので、
この「ページ」に、野村望東尼」関連のページ」を「リンク」設定しておきます。、
野村望東尼(のむらぼうとうに・のむらもとに) =終焉の地「防府」を中心として

● 「山口県防府市」において「野村望東尼」が亡くなる寸前まで寄寓していた「荒瀬邸」の「一部」の「離れ」の公開のこと/b>



構  成

残念な≠アれまでの 野村望東尼 に関する 公的・準公的≠ネ「資料」

(1) 「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」         
(2) 「ホームページ」の野村望東尼

(3) 
現在≠烽る「野村望東尼終焉の宅前=vにある「石碑」の「解説」  // 「移築→保存」が検討されているということ

(4) 「まちの駅 うめてらす」

(5) 「アスピラート」の会場をほぼ埋め尽くした「望東尼の150回忌 記念祭」でも

(6) 『防州日記』によってわかる「七日間の 参籠=vは、間違いということ


二 「修正」された公的・準公的≠ネ野村望東尼の「解説」

(1) 新しくなった=uまちの駅 うめてらす」の「野村望東尼」に関する「解説」

(2) 「防府市教育委員会」の「修正」された「解説」



三 旧「離れ」の「玄関」には、望東尼が楫取素彦・山田顕義に贈った「歌」を掲示






 一 残念な≠アれまでの野村望東尼に関する公的=E準公的≠ネ「資料」




「山口県文化財」への「申請書類」を始め、これまでの野村望東尼に関する公的=E準公的≠ネ「資料」には、
残念ながら=A問題点があります。     
そのタメでしょうか、「望東尼の150回忌」を前に、様々な「企画」がなされたのですが、
紙面を大きく取った『読売新聞』=「維新支えた望東尼に学ぶ」[6月1日(水)]
『佐波の里』「野村望東尼と防府─楫取素彦と野村望東尼─」
「英雲荘」における「観月会」における「パンフレット」(「英雲荘」は「会場」であり、「英雲荘」で用意されたものではありません)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、困った≠アと含まれていました

公的=E準公的≠ネ「資料」のうち、野村望東尼終焉の地=「防府市」において、目に触れることの多いもの~を、少しばかり、示して見ましょう。






「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」










野村望東尼の墓への 入口 及び、そこに設けられている 「解説」 です。

 県指定 史跡
野村望東尼 終焉の宅
         及び宅跡並びに墓

昭和四一(一九六六)年六月一○日 指定
終焉の宅  岡村町五の三
宅跡 三田尻本町十の二
墓  桑山一丁目四


 野村望東尼は一八○六年(文化三)九月六日、福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれ、 その名を「もと」と称しました。二四才の時に野村新三郎貞貫の後妻として迎えられ、 夫婦共に和歌をたしなみ、五四才で夫に病死されると博多の明光寺で髪をおろし、禅尼となりました。
 一八六一年(文久元)京都に上った望東尼は、 尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、 帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。 一八六五年(慶応元)黒田藩による勤王派への弾圧により姫島に流されましたが、
翌年高杉晋作によって救出され、下関にかくまわれました。

 一八六七年(慶応三)薩長連合の倒幕軍東上のことを聞くと、望東尼は三田尻の歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参籠し、断食をして、和歌一首を手向け(後記)、倒幕軍の戦勝を祈願しました。 しかし、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。

(一日目)武夫の仇に勝坂越えつつも祈るねぎごとうけさせ給〈え≠ヘママ〉
(二日目)濃染なすます穂のすすき穂に出て〈出て≠ヘママ〉招くになびけ千種八千草
(三日目)御世を思う〈思う≠ヘママ〉やたけ心の一筋も弓取る数に入らぬかひなさ
(四日目)あづさ弓引く数ならぬ身ながらも思ひいる矢は唯に一筋
(五日目)道もなく乱れあひたる浪波江のよしあしわくる時やこの時
(六日目)唯七日我が日まゐりの果てなくに神無月ともなりにけるかな
(七日目)九重に八重居る雲やはれむとて冬たつ空も春めきぬらむ

 望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されて「終焉の宅」として、また旧宅は「宅跡」として、桑山の「墓」と共に、県の史跡に指定されています。

     平成十五年一月
山口県教育委員会
防府市教育委員会




この「解説」は、残念ながら、紫色にした箇所には疑問があります
「福岡県」では、わずかに「平尾山荘」「福岡市」の「指定」なのに、「山口県」「山口県指定」にしている意味がわかりません。
望東尼高杉晋作「平尾山荘」匿い「平尾山荘」に滞在している間に、
事態が切迫し、もはや一か八か≠ナ「腹を決め」て、「功山寺」での挙兵「太田絵堂」の戦いと、「藩論」をひっくり返し
「野山獄」処刑寸前であった小田村伊之助=楫取素彦楫取は、後に、「東上軍」の「参謀」として活躍)らを救うというように、
結果的≠ノ「明治維新」に繋がったということを記さないでは、「山口県」・「防府市」が、望東尼を「顕彰」する「意味」が伝わらないハズです。
この「解説」では、望東尼は、尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。とあるダケで、望東尼高杉によって救出≠ウれたことダケが書かれているに過ぎません。
そのうえで、参籠=E老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。 とあるワケですから老齢の身に七日間の断食、そのために亡くなったことが望東尼の功績=Hのようになってしまいます。

そもそも、「七日詣で」いつからいつまでかが記されておらず、「9月25日〜10月2日」参籠ではなく、の参詣のハズですし(ここをクリック) 、「11月6日」に亡くなるまで、『防州日記』確認すると、
望東尼はあちこち、出向いていますので、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れなんてことはありません。
『防州日記』初日の「9月25日」には、「昼食」を「鳴滝」でとっていることが書かれていますから、少なくとも、七日間の断食ということはありませんし、その他の日についても、「九月廿八日」楫取素彦らの「来訪」に際しては、それなりの=u接待」がされたでしょうし、望東尼も、なにがしかは′にしたハズです。
それに、「10月1日」荒瀬百合子と共に、「山城屋」を訪れた際にも、なんらかの「接待」を受けたと見るのが自然でしょう。

このことに関しては、谷川佳枝子氏が『筑前維新の道 7』73&ナにおいては、
(望東尼は薩長軍の戦勝を祈願)して毎朝斎戒沐浴し、宮市天満宮へも七日間の断食祈願をした
とされていたのですが、それを、
『野村望東尼』309&ナでは、
望東尼が神前にまかり出るために一定期間飲食を慎み、心身を清らかにした(すなわち物忌みをした)ということさえわかれば十分であるように思われる
訂正しておられることでよいと思います。
毎朝斎戒沐浴についても、引っ込めておられるハズです。(見落としはないと思いますが・・・。)

これらは、楫取素彦「碑文」にひっばられたもので、楫取「碑文」は、記憶違いや、ディフォルメがあることを、確認すべきです。
野方春人氏も、このことに取り組んでおられ、現在は「ブログ」ですが、いずれ「出版」されるハズです。

なお、楫取能彦氏は、「至誠の人」 素彦 の子孫ですが、素晴らしい方で、私にスラ「資料・情報」を下さるだけでなく、「間違いであれば、直していただいて結構です。」とおっしゃっています。


望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されていることは間違いありませんが、「桑山」からの、長年に亘る山水の流れ込みで、「住めない家」になっているのに、「全責任」(修理費用等々すべて=jを「我々」に担わせていたのです。
しかも、「終焉の宅」は、「指定されている家」ではないという困った=u情報」満ちあふれ訪れる人サエないということとて、
「終焉」の場は、「荒瀬家」の庭を挟んだ「本宅(「指定申請書」では「主家」)」ですので、
「指定」は、「終焉の宅」「本宅」「離れ」「別の家」として、「離れ」「終焉の宅」としていることとて、
「離れ」は「終焉の宅」の一部≠ナはあっても、「終焉の場」ではない「指定解除」を申し出で、8年間経過した「平成26年10月」に、「終焉の宅」が「指定解除」になったことで、「防府市教委文化財課」が、検討をしています。

藤本尚志課長、原田光朗課長補佐など、現在の「文化財課」の方達は、私の「意見」も参考にするダケの度量があり、かつ、研究熱心ですので、
近いうちに、適切な「解説」になると思います。

この「離れ」は、「維新150年」迄は、手を加えながら、「管理」しますが、その後は、解体せざるをえません。

このようなことを「ホームページ」に記していたのですが、 「平成27年11月」から、中村 隆副市長さんを中心に、「移築・保存」をする可能性が出て来ました。
そのため、「解説板」の「訂正」は、「移築→保存」本決まりになってから訂正をしようということになったのです。

しかし、「望東尼150回忌」を迎えるに当たって、新たに¥oされる「資料」や「新聞記事」が、
困った「内容」を含んでいることとて、簡単なもの≠ナいいので、「対策」をと、要請してきたのです。(望東尼の150回忌直前≠ノ「実現」←クリック=j

残念ながら=A「防府野村望東尼会」の方には、最新の=u研究成果」を取り入れようとする「姿勢」が欠けるようです。
「望東尼150回忌 記念祭」「会場」には、この「解説板」の「写真」がありましたし、
「離れ」「望東尼終焉の宅」とし、「茶室」「終焉の室」とした「写真」もありました。
ただ、「パンフレット」には、「終焉の宅」「県指定」から除外されていました。
この「防府野村望東尼会」には、「防府史談会」が、深く関わっているようなので、
今後も続く「望東尼顕彰」ですので、是非、より%K切な「情報」を取り入れるべく、助言してほしいものです。


望東尼が「顕彰」されるのは・・・

無論、望東尼が、今日、「志摩望東会」(「姫島」は「糸島市」にありますが、もとは、「志摩町」であったための名称)、「平尾望東会」そして、「防府野村望東尼会」によって、 顕彰されるのは、「明治維新」への貢献ダケが「理由」ではないハズです。
離縁、その後、野村新三郎貞婚との再婚は、「しあわせ」であったとはいうが、授かった4人の子供は、いずれも「早世」、さらには、身近な人物を多く、亡くしていること「姫島」への流罪・・・といったように、決して恵まれていたとは言えない望東尼の人生ですが、 望東尼ぶれることなく
谷川佳枝子氏が『野村望東尼』サブタイトル的に
   ひとすぢ≠フ 道をまもらば たをやめも ますらをのこに 劣りやはする
から ひとすじの道をまもらば を用いているように、「ひとすじの道」を突き進んできた人物であり、
「維新」を見ることなく、没しているワケですが、
『防州日記』で判読できる歌としては最後の
  冬ごもりこらゑこらゑて一時に花咲きみてる春は来るらし
にあるように、新しい世の来ることを確信して没している
といった「姿勢・生き様」がその「理由」でしょう。

しかし、それも、「歴史的事実=v可能なかぎり、踏まえたうえでなされるベキではないでしょうか。

現状≠ヘ、恰も、老齢の身に七日間の断食、そのために亡くなったことが望東尼の功績のようになっていると思われるのですから。









「ホームページ」=「防府の文化財」の 野村望東尼





「ホームページ」=「防府の文化財」の 野村望東尼  (「平成28年11月10日」現在) 

山口県指定史跡 史跡
のむらぼうとうにしゅうえんのたくおよびたくあとならびにはか
野村望東尼終焉の宅及び宅跡並びに墓
所有: 個人・防府市
所在: 防府市岡村町・三田尻本町・桑山
指定: 昭和41年(1966)6月10日

野村望東尼は、文化(ぶんか)3年(1806)福岡県黒田藩士の三女「もと」として生まれた。
黒田藩士野村新三郎貞貫(のむらしんざぶろうさだつら)のもとに嫁ぎ、夫婦ともに和歌を嗜(たしな)んだが、安政(あんせい)6年(1859)の夫の病死後、禅尼となり向陵院松月(こうりょういんしょうげつ)望東尼と称した。
やがて勤王(きんのう)の志士(しし)との交流を深め、元治(げんじ)元年(1864)には高杉晋作を一時かくまっている。
慶応(けいおう)元年(1865)、弾圧により望東尼自身も姫島に流刑(るけい)となったが、高杉晋作らによって救出され、下関さらには山口へと移り住んだ。
慶応3年(1867)、薩長連合の討幕軍東上を聞くと、歌友荒瀬ゆり子宅の離れに身を寄せ、7日間防府天満宮に籠(こ)もり戦勝を祈願した。
しかし、間もなく病に倒れ、同年11月、62歳の生涯を閉じた。
その離れは、現在桑山東麓に移され「終焉の宅」として、「宅跡」・「墓」とともに史跡に指定されている。


問題点

O 「松月」→「月」
O この「ホームページ」にも、開始日が記されていない上に、「天満宮に籠もり」間もなく 亡くなったとなると、望東尼は、「荒瀬ゆり子宅」に、一体、何日、滞在したというのか?
取りようによっては、ほとんど≠「天満宮」にいたということになってしまうのではないか。
もしそうなら、「終焉の地」・「終焉の宅」は、ほんのわずかな¢リ在ということになり、「山口県指定史跡」申請する必要はなかったのではないか?
O さらに、「指定解除」から二年になるのに、依然として離れは、現在桑山東麓に移され「終焉の宅」として、「宅跡」・「墓」とともに史跡に指定されている。とあるのは、おかしいハズです。
(この「ホームページ」は、手を加えることが難しいとのことですが、「ホームページ」にしてこれですから、
「石碑」・「解説板」等の「修正」はされていなかったのです。「修正」された「解説板」は、ここをクリック)







現在≠烽る「野村望東尼終焉の宅前=vにある「石碑」の「解説」






「石碑」にある「解説」

長年に亘る「山水の流れ込み」「住めない家」になりながら、しかも、「終焉の宅」であることを疑わせる「情報」バカリで、「見学者」は皆無≠ノ近いのに、
「焼けて無くならない限りは『指定解除』しないし、寄贈も受け付けない」「県教委」の「担当者」言い放たれていたこととて、
「調査・研究」の末、望東尼が亡くなったのは、「荒瀬家」の「主家」の「南八畳の間」であって、その「荒瀬家」の「主家」が、 「平成の初め」に、「解体」→「新築」されているのだから、「亡くなった部屋」のない「終焉の宅」「指定継続」はおかしい≠ニして
「指定解除」してもらった「家」の前現在もある 「山口県指定史跡」としての「終焉の宅」の、「石碑」「解説」です。   
         (「写真」の文字を確認ください。)

これにも、「七日間」の「参籠」、そのタメ、望東尼は亡くなったかのように≠ネっていますが、これはまだいい方です。
「一七日」ひとなのかを「17日」とした公的≠ネ「資料」もあります。
ただ、この「石碑」も、いつからの「七日間」かが書かれておらず、「参籠」して間もなく亡くなったようになっており、それなら、「終焉の宅」がどこであっても、たいした意味はないと言わざるを得ません。
望東尼は、当初から「七日間」は滞在するワケで、「豪商」である「荒瀬家」の「客間」ではなく、「離れ」を提供したのです。
しかし、薩摩軍が約束の期日に来ないタメ、三田尻に留まったのです。
9月25日から11月6日まで、望東尼は「三田尻」にいた
のです。
    (「読売新聞」にあるように、「転居」したのではありません。)
そして、体調を崩すまでは、望東尼は精力的に、活動しているのです。
つまり、「荒瀬家」の「離れ」は、望東尼が「介護」を必要となる迄、寄寓していたのであり、亡くなったのは、「主家」の「南八畳の間」に移され、多くの人に見守られてのことですが、
こうした「離れ」、「主家」を提供され、篤いもてなしを受けたことに、望東尼は感謝の涙を流したということなのです。
     (「何処で亡くなったかの違い」はここをクリックしてください。)



この「解説」は、地元の篤志家が建てられた
O 明治維新勤王志士 正五位野村望東尼終焉の宅 百拾周年記念之碑
という当時≠フ防府市長 鈴木 覚氏揮毫の「碑」(中央)
及び
O 望東尼の判読できないとされる「絶筆」をそのまま″盾だ「石碑」(左)
一体で、「右横」に設けられたものですが、
この「解説」は、防府市教育委員会による 『ふるさとをたずねて』 [昭和43年3月] の8&ナにある
    野村望東尼終焉の宅および宅跡ならびに墓
とほぼ%ッじ文章です。





望東尼の寄寓した旧「荒瀬家の離れ」は、「移築・保存」が検討されているということ  

「平成26年10月16日」(「記録」としては「平成26年12月2日」になっているようです)に、「山口県指定文化財」の「指定解除」実現したものの、
皮肉≠ネことに私の「ホームページ」は、
福岡県糸島市野方春人氏の目に触れ、野方氏の『著書』(3冊)に、「写真」入りで紹介していただくようになったのを始め、
「花燃ゆ」では出てきませんでしたが、
     楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人 ─

が、一躍、注目≠ウれるようになったことで、「群馬県」の方も、訪ねて来られるといったように、 「指定解除」になって、ようやく$lに知られるようになったのです。

そこで、

「維新150年」にあたる 「平成30(2018)年」迄 は・・・

「ホームページ」&『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』において、「宣言」して、「私の管理している家」のことですが、
「定例教育委員会会議の要旨」
建造物として新たに指定して保護する価値も有していない
とあるものの、それは、「増築部分」が倍以上、それも、「大正・昭和」のもののある混合≠オた「建物」だからです。

「県教委 社会教育・文化財課」の主幹に、清水利宏氏が着かれたことで、、
「県教委」の「出版物」の「図面」が、望東尼に関係の無い、「増築部分」を含めた「全体」であるようになっていることの「訂正」を求めていた私の「要請」を、 受け入れてもらい
「平成18年」当時、「建造物担当」の委員であった福田東亜氏(その後、「文化財保護審議会会長」)と共に、「確認調査」に来られ、福田氏が、詳細≠ノ「調査・確認」され、
江戸時代の商家の離れを感じさせる瀟洒な良い建物だと思う
と「評価」され、そのことを公≠ノすることの「許可」もいただいて、
私の『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』の427&ナに記していたこともあってでしょう、
福田氏が、「防府市」の「委員」でもあることとて、「副市長」中村 隆氏が、福田氏の「意見」を聞かれ、「文化財課」とも相談され、 「望東尼の関係部分」のみを「移築保存」する方向で、進めてくださっています。








「左」の「平面図」赤枠&舶ェが本来≠フ望東尼寄寓していた「離れ」です。
この「確認」をされたのが福田氏です。

「右の写真」は、「調査」に出向いてくださった、
左から、

  原田光朗 文化財課 課長補佐
  中村 隆 副 市 長
  藤本尚志 文化財課課長(平成28年3月末で「退職」)



「指定のママ」なら、外観的にも、「建替」が必要と「判断」されるようになったら(私が「維持・管理」を続ける限り、それは、かなり後のことになります)
望東尼に関係のないものまで、そっくり=A「解体→復元」することになり、
その場合は、
私の負担はほとんど≠ネく、
「山口県」・「防府市」が、大半を「負担」することになるのです。
それが、「望東尼関係箇所」のみなら、「経済的負担」は少なくなりますし、
「荒瀬家の主家」が、「平成」の始めに、解体され、新しい家になっているいることとて、「指定」はともかく、「望東尼関係」、「江戸時代の瀟洒≠ネ建物」という点で、「保存すべき」という流れ≠ノなりつつあります
「結果オーライ」ということになりましょうか。

望東尼どこで亡くなったかは、望東尼の「人柄」に直結≠キることです。

▼@ 「土井栄作旧宅」=肺結核のタメ「空き家」になっていた「土井栄作旧宅」に移ることになり、ほとんど放置され、不平をもらしたりしていたが、
     誰にも看取られることなく、気がついたら亡くなっていた。


▼A 「荒瀬家の抱家=v謙虚で、慎ましやかな望東尼は、望んで、到底、立派とはいえない、「抱家」に移り、そこで、亡くなった。

▼B 「荒瀬家」多くの見舞客・看護人によって、大切にされ、望東尼素直にその好意を受け、感謝しつつ亡くなった。
             (「藤四郎告訃状」=御自分にも難有涙を被流、御厚慮之程を拝謝相成候程之次第に御座候。≠ネど)


困ったこと≠ノ
野方氏の複数の=w著作』
及び、
私の 『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』
私の「ホームページ」
以外においては、 [関係のない=u家」=▼@・▼A]を記した『著書』が未だに、流布しており、しかも、まだ、その「説」を信じている人が少なくないという現実のモト、
望東尼亡くなった「主家」は、存在しませんが、
望東尼介護を受けるようになるまで、寄寓していた、この「荒瀬家の離れ」は、望東尼「賓客」として受け入れられていたことを事実≠ニして示すことになりますし、

「荒瀬家」は、豪商であり、最低≠ナも「七日間」は、滞在する望東尼に、「客間」を提供することは難しく、「庭伝い」にある「離れ」を提供したのですが、
それは、決して、「粗末」なものではなかったのです。
ただ、介護を必要とするようになって、「主家の南八畳の間」に移り、多くの人々に見守られながら、最期を迎えたのですが、
望東尼は、感謝しつつ亡くなったのです。


のみならず、 『防州日記』に、「九月廿八日のよ(夜)
小田村ぬし(小田村伊之助→楫取素彦)山田ぬし(山田市之允→山田顕義)も訪れたと記されていることもあって、楫取のみならず、山田も、「侯爵」「日本大学」の「創始者」という、「歴史」に残る人物ですので、それなり≠ノ、「保存」する意味はあると思います。

まだ、決定ではありませんが、「萩市」に、萩まちじゅう博物館なるものがあり、「文化財指定」ではないものについても「維持・管理」されているように、「防府市」においても、この「望東尼寄寓≠フ離れ」が、「維持・管理」されるようになることを、願っています。





「うめてらす」   





「まちの駅 うめてらす」 にあった「解説」

「まちの駅 うめてらす」 は、「防府天満宮」の入口にあり、多くの人が立ち寄る「防府観光の拠点=vともいえる「施設」です。
「左」は、その 「まちの駅 うめてらす」に掲げてあった「解説」です。
「写真」で読めるとは思いますが、「活字」にしてみます。

 幕末の勤皇歌人と知られる野村望東は、 福岡藩士・野村貞貫の妻。元治元年(1864)11月、長州から九州に逃れてきた晋作を、平尾山荘に匿ったことで知られる。 菅原道真が「歌の神様」であることから、望東も熱心な天神信者だった。 そのため、晋作と精神的に相通じるものがあったのかもしれない。
 慶応3年(1867)4月13日、29歳の生涯を閉じた晋作の葬列を望東は見送る。 その後、上方に向かう長州の倒幕軍第一陣が、同盟国である薩摩藩の軍勢三田尻で待っていると聞き、 松崎天満宮戦勝を7日間祈願し和歌を献上する。 体調が悪いところを無理をして参詣したため、望東尼は同年11月6日三田尻の地で62歳の生涯を閉じる。


私の指摘で、現在≠ヘ除けてあり、私の「原稿」をもとに、「防府市観光協会」「おもてなし観光課」で、検討してくださっていますが、
残念ながら=A「望東尼の150回忌」には間に合いませんでした。


9〜10″s目に、
体調が悪いところを無理をして参詣したため、望東尼は同年11月6日に
亡くなった
とあるのは、どういう「資料」に基づいているのか、はたまた、どういう人物 or どうい経過「解説」であるのか、まったくわかりませんが、
「9月25日」には、山口から、徒歩で、防府に来ているのに、体調が悪いところを無理をして参詣なんてことは、ありえないハズです
それに、10月2日〜11月6日は、かなり≠フ日数です。
しかも、望東尼『防州日記』からは、「七日詣」以後も、望東尼は、いろいろと、活動していたことが伺えるのですから。

「維新150年」間近なこととて、できるダケ早く、新しい=u解説」が掲示されることを望んでいます。


なお、「観光案内図」については、既に対応していただいています。

  明治維新に大きな「役割」を果たした「富海」の「船蔵」・「飛船」のこと
↑ 「構成」の中の
  「(7) 「小田浦」着の「薩摩艦」の兵を「飛船」で「上方」へ
            =実質的≠ネ「薩長同盟」の発効=I

をクリック≠オてください。










「アスピラート」の会場をほぼ埋め尽くした「望東尼の150回忌 記念祭」でも




望東尼の150回忌記念祭 にも「影響=v?

「アスピラート」の会場をほぼ埋め尽くした「望東尼の150回忌 記念祭」ですが、、

「第3部」 望東尼を偲ぶひととき

2. 吟舞「高杉晋作と望東尼」の場合は、過去における「作品」であるタメ、ヤムを得ないにしても、

1. 音楽劇「野村望東尼〜嵐に咲く花〜」の場合は、
「新聞記事」によると、
「直木賞」作家というダケでなく、十分な「考証」に基づく「歴史小説」ということでも、著名な古川 薫氏が、
この「150回忌記念祭」のために
脚本を書き下ろしたオリジナル作品で、音楽を通じて当時の世界観を表現し望東尼の生きざまを伝える。
というもので、
音楽劇は「野村望東尼〜嵐に咲く花」と題し約40分間のステージ。
ピアノやフルートなどの演奏とともに、防府高合唱部と市民でつくる「望東尼をうたおう会」のメンバー計約50人が合唱するほか、小学生が朗読を披露する。
望東尼が詠んだ和歌も吟詠し、ナレーションで望東尼の生涯に迫る。


とあるのですが、驚いたことに、望東尼は、「防府天満宮」に、水ゴリ・絶食潔斎二十日間もしたとあったのです。(耳にしたダケですが、間違いはないと思います。)
水ゴリ・絶食潔斎「防府市教委文化財課」の「資料」を信頼してのことと思いますが、
「一七日」ひとなのか「17日」という勘違い≠ナはなく、二十日間というように、古川氏にして、このようになっていたのです。

「左」は、以前、古川氏から、「学校図書館」「山口県」出身の「芥川賞」・「直木賞」受賞「作家」の方の「色紙」を飾りたいとして、お願いした「色紙」です。
古川氏は、快く、提供してくださいました。
その際、「予備」として「2枚」、お渡ししたのですが、「2枚」共、くださったので、「学校図書館」には、現在も飾られていますが、「1枚」は、私の「手元」にあるワケです。

この言葉からも伺えるように、古川氏は、素晴らしい方です。
この音楽劇「野村望東尼〜嵐に咲く花〜」は、今後も、演じられると思われることとて、
私が耳にしたように、「脚本」がなっているとしたら古川氏には、検討をお願いしたいのですが、
この「色紙」を紹介することで、古川氏のお人柄を「理解」していただけたらと思っています。





 『防州日記』によってわかる 「七日間の 参籠=vは、間違いということ



『防州日記』による「七日詣」

「防府天満宮」に現存する望東尼「奉納歌」や、
『楫取素彦伝』との「比較・検証」によって、『防州日記』の記述には、信頼性があることがわかります。

ここでは、「七日詣」についてのみ、記しておきます。

初日=「九月二十五日」=「山口」から「防府」へ来て、「天満宮」参詣し、「荒瀬家」で宿泊。
↑ 「途中」、「鳴滝」昼食を取っていることが明記されている。
 さらに、常識的≠ノ、荒瀬ゆり子は、望東尼のために、「夕食」を用意していたと思われる。
 なお、「荒瀬家」の「離れ」には、「台所」等はなく (←クリック=j、防府滞在中「食事」のほとんどは、「荒瀬家」で用意され、「使用人」によって、上げ下げされていたと思われる。

二日目=「九月二十六日」「参籠=v可能性は あり
三日目=「九月二十七日」「参籠=v可能性は あり
但し、『防州日記』に、
まりふ松原にて、こたびのいくさだてを、公のみ試みせさせ給へるを見奉りける時、・・・
として、日付なしで記してあるのが、『修訂防長回天史』によると、九月二十七日のこととあるので、
この日も、「参籠=vしていないことになる。

四日目=「九月二十八日」[我が旅のやど==u荒瀬家」の「離れ」]に、小田村ぬし国貞ぬし山田ぬしなどが訪れている。
五日目=「九月二十九日」「参籠=v可能性は あり

六日目=「九月三十日」
↑ このことは、「防府」の野村望東尼&晋作・望東尼の「おもしろきことも」考 において、「山口県立図書館資料情報課」からの「回答」を記しています。
一流≠ニされる方々が、『防州日記』によると、九月二十五日(「鳴滝」で、昼食)が、最初≠フ日であることは、疑いようのないことなのに、
九月二十六日開始日とされ、望東尼七日間の参籠=E断食したとされていることに、疑問を持ったのです。
六日めは、はや十月一日にもなりたれば
   ただ七日わが日まうでもはてなくに神無月ともなりにけるかな
とあることを逆算して、九月二十六日開始日とし、楫取素彦「碑文」「舎菅祠」・「絶粒週日」にあわせようとしたのではないかという疑問からです。
なお、野方春人氏は、「ブログ」において、
  十月1日 6日目(この年は、九月30日は無かったのです!! このことを最初に指摘されたのは河野俊乎氏でしょう。)
と、記してくださっています。


六日目=「十月一日」=ついたちの日に、ほりのわたりに、荒瀬ゆり子が案内して、山城屋てふ家の二階にて・・・
         とあり、この日は、当然=A「参籠=vは、していない。
七日目=「十月二日」「七日詣」終了日なので、この日は、当然=A「参籠=vは、していない。

「天満宮」「参籠所」なるものがあったことは、 「山口県文書館」山本明史氏に、
「山口県文書館」所蔵の「古社寺取調書 佐波郡寺 院」( 行政文書県庁戦前A 社寺121)という明治28年 [1895]作成の史料に
「境内」の図があり、 その中に、記されていることを教えていただいています。




さらに、「家の整理」をする過程で、が、収集していた「資・史料」の中に、
周防国宮市(旧号天満宮)松崎神社之図(←「活字」は旧字) (明治三十三年七月印刷 大阪 森川印刷所)
という大きな「図」を見いだしました。  (「写真」は、「参籠所」の部分の「スキャナ」)
それにも、はっきり≠ニ参籠所が図示されていますので、望東尼「参籠」をしていないとは言い切れませんが、
最大限=A「三日」or「二日」です。

それに、初日=「九月二十五日」は、はっきり≠オていますが、九月二十八日十月一日には、茶菓子程度は、用意されていたハズで、
  望東尼も、口にした可能性はあり、断食を、ことさら、強調≠オている「資料」は、はなはだ疑問です。





 二 「修正」された公的・準公的≠ネ野村望東尼の「解説」





準公的≠ニもいえる「まちの駅 うめてらす」で新しく≠ネった「野村望東尼」に関する「解説」







新しく≠ネった「まちの駅 うめてらす」の「解説」

「写真」から読めるかとは思いますが、「文字数」が多くなり、小さくなったタメ、「活字」で示しておきます。

晋作ゆかりの人 野村望東尼

 幕末の歌人の野村望東尼は、1806年(文化3年)9月6日 福岡藩士 浦野重右衛門勝幸・みちの三女として、現在の福岡市で生まれ、名を「もと」と称した。 24歳で野村新三郎貞貫に嫁ぎ、夫婦で和歌を嗜んだが、夫亡き後は禅尼となり、向陵院招月望東尼と称した。 勤王志士との交流が深く、福岡平尾の「平尾山荘」に志士を匿ったり、志士たちの密会の場として提供もしている。
中でも、高杉晋作の場合は、「山荘」に匿われている時に、「萩藩」の情勢が急迫、一か八か的な「功山寺挙兵」に踏み切ったことが「藩論」を一変させ、処刑寸前だった楫取素彦を救うことにも繋がるなど、望東尼は、結果的に「維新」に大きな役割を担った人物と言える。
後に、福岡の姫島に流刑となっていた望東尼は、高杉の指示によって救出され、その後下関に身を寄せている。その頃、既に病床にあった高杉を看病し、高杉が「面白きこともなき世を(に)面白く」と詠むと、「住みなすものは心なりけり」と望東尼が続けて詠んだことはよく知られている。
高杉没後、望東尼は山口に移り住むが、1867年(慶応3年)9月、三田尻から薩長連合の討幕軍が東上すると聞き、天神信仰の篤かった望東尼は、9月25日から松崎天満宮(現・防府天満宮)に「七日詣で」をして戦勝を祈願し、一日一首の和歌を奉納している。
しかし、薩摩軍が約束の期日になっても来なかったため、望東尼は、そのまま三田尻に留まって到着するのを心待ちしていたところ、10月9日になって、薩摩艦「翔鳳丸」・「平運丸」が小田浦に到着した。 それを桑山から確認した望東尼は、その喜びを歌にして詠んでいる。
しかし、まもなく体調を崩し、手厚い看護を受けたが、持ち直すことなく、1867年(慶応3年)11月6日、62歳の生涯を閉じた。
 望東尼の「墓」は、贈位を受けたことをきっかけに、楫取素彦が、昭憲皇太后三条公毛利公といった方々からの資金援助を受け、改修したものである。




「平成28年12月15日」「防府市観光協会」局長岩本邦男氏が、「遅くなりましたが」として、「メール」に上の「写真」を添付して「送信」してこられました。

岩本氏は、楫取素彦の「葬儀」が、「墓」のある「曹洞宗」の「大楽寺」ではなく、「浄土真宗」の「明覚寺」であることを突き止めたように、
単に「資料」を信じ込むのではなく、「調査・検討」を重ねる誠実な人物
であることから、時間的には 望東尼の「150回忌」には間に合いませんでしたが、
こうした「姿勢」で事に当たる岩本氏に、「私の原稿」に沿った「解説」を作ってもらえたことは、私の「調査・研究」を裏付けてもらえたということで、ありがたいことです。
私としては、以前の 野村望東尼に関する「解説」 よりは、はるかに史実≠ノ近いと思っていますので、
「維新150年」を前に準公的≠ネ「うめてらす」の「解説」が、新しく≠ネったことを、うれしく思っています。


「左」は、岩本氏が旧家で捜しあてた楫取素彦の「葬儀案内」の「はがき」です。
「大河ドラマ=花燃ゆ」の放映決定に伴う岩本局長「調査・研究」によって「発見」されたのですが、
この「はがき」の発見によって、楫取葬儀が、「浄土真宗」の「明覚寺」で行われたことがわかり、
楫取「法名・謚」が、「浄土真宗」「法名・謚」であることが
楫取能彦氏によって、「確認」され、
「明覚寺」においても、「副住職」香川 大氏が、「記録」を調べられ、確認されたのです。
時の経過で、「墓」のある「寺」=「葬儀の行われた寺」という思い込み≠ェあったようです。
さらに、楫取が亡くなった日が「8月14日」でなく、「8月15日」であるという
「誤解」が流布≠オた「理由」の推測も、可能になったのです。
(「本文」に本日≠ニあり、「日付」が「十五日」とあるタメですが、
おそらく、「印刷所」の好意≠ナ、「日付」を印刷のできあがった日に修正≠オたのだと思われます。)

なお、この「平成28年12月15日」という日は、 ロシアプーチン大統領が、東京・京都・大阪ではなく、
山口県長門市の、それも、公的な「施設」ではなく、「大谷山荘」で、安倍晋三首相会談という、「歴史的な日」です。
私は、「大谷山荘」について、「ホームページ」を作って、どういう「旅館」かを述べていますので、 時間的な余裕がある方は、クリック≠オてくださると、うれしいです。
   「大谷山荘」にある「百万一心」の「額」のこと







「防府市教育委員会」の「修正」された「解説」





「防府市教育委員会」による「解説」


既述しているように、
残念ながら=A「野村望東尼」に関する「防府市」の公的=E準公的≠ネ「資料」には、「問題」がありました。
しかし、「望東尼の150回忌」の直前(11月4日)に、「左」及び「下」に示している 「防府市教育委員会」名の「解説」が作成、展示されました。


私の
『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』
のみならず、
野方春人氏の
『野村望東尼と対馬藩士』
『野村望東尼の周辺』
『野村望東尼防長紀行』
によって、「活字」にはなっていますが、
『防府市史』を始め、「文化財課」公的≠ネ「資料」影響力には到底、及ばないタメ
訂正を依頼したものの、公的≠ネ「資料」「修正」は、容易ではないらしいこととて、私が、
杉山一茂 教育長
藤津典久 総務部長
末吉正幸 教育部長 に直接、お目に掛かってお願いし、
原田光朗 文化財課課長補佐 を中心に作成され、
望東尼「150回忌」の直前に、設けられたのです。






 「解説板」の「写真」






 「 活 字 」 にすると



野村望東尼寄寓の家(荒瀬ゆり子宅の離れを移築し、現在は増築されたもの)

野村望東尼は、文化3年(1806年)黒田藩士浦野重右衛門勝幸三女として生まれ、その名を「もと」と称しました。
24歳の時に野村新三郎貞貫(のむらしんざぶろうさだつら)に嫁ぎ、夫婦ともに和歌を嗜んだが、安政6年(1859年)夫の死後禅尼となり 向陵院招月(こうりょういんしょうげつ)望東尼と称した。
やがて勤王の志士との交流を深め元治元年(1864年)には藩内の保守派などに追われた高杉晋作自らの山荘に10日余り匿っている
その後、高杉馬関(下関)挙兵し、維新への足がかりを作った。
翌慶応元年(1865年)黒田藩における勤王派への弾圧で、望東尼玄界灘の姫島に流されるが、高杉の指示によって救出され、下関に身を寄せ、 高杉介護、最期を看取った。
その後、小田村素太郎(小田村伊之助後の楫取素彦)寿吉田松陰の妹)の親身な世話を受ける。
慶応3年(1867)9月薩長連合の倒幕軍東上を聞くと、山口から勝坂を A 超え三田尻(防府)に入り、歌友荒瀬ゆり子「離れ」に身を寄せ、9月25日から10月2日まで防府天満宮「七日詣」をし、戦勝を祈願した。
しかし薩摩軍が約束された期日に来ず、望東尼は三田尻に留まるが、 その到着を見届けた後病に倒れ、荒瀬家本宅南8畳の間で手厚い介護を受けたが、 同年11月6日、62歳の生涯を閉じた。

望東尼が多くの勤王の志士に影響を与え、明治維新の功労者のひとりであることから、「終焉の宅跡及び墓」は山口県史跡として、指定されている。

なお、桑山共同墓地にあるは、明治24年(1891年)望東尼正五位贈位に際して、昭憲皇太后三条公毛利公などから資金援助を受け、B 楫取素彦 の撰文本田国敬彰辞を刻み、@ 明治27年(1894年)に改修されたものである。

平成二八年十一月
                 防府市教育委員会



「移築→保存」が実現しなくても、「維新150年」までは、保存する「家」の前の、臨時%Iな「解説」ですが、
望東尼「150回忌法要」のある「大楽寺」近くにあるタメ、
それなりの=u効果」はありました

望東尼の150回忌記念祭の会場でお会いした「ほうふ日報」の前「社主」で、「歴史」にも詳しい、窪田耕二(←クリック=jは、御覧になっており、「よく出来ている」とおっしゃっていました。
その他にも、顔見知りの方が、私に、同様の感想を述べられました。

「移築」を前提に、毎日のように「整理」に通っているのですが、「見学希望」の方があり、私の「ホームページ」から、「群馬県」からも訪れて来られています。
これまでは、まず、予備知識の「訂正」から始めなければならなかったのですが、この「防府市教育委員会」とある「解説」があることで、
「明治維新」大きな=u役割」を果たした望東尼ですので、
間近な=u維新150年」に向けて、多くなると思われる見学希望の方に、説明が容易になります。

ただ、「移築→保存」が実現しない場合は、それっきりになってしまいますが、
「防府市教育委員会」とあるこの「解説板」は、「写真」として、私の『自費出版』の中に載せますし、
「移築→保存」に関する決定が出た段階で、「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」(←クリック=jが、「訂正」されることになっていますので、
少なくとも、それまでのつなぎという意味はあるのです。


一般の方々には、原田氏を中心に 検討→作成
            →「防府市教育委員会」としての「検討」→承認

を経ての この「解説板」
さらには、遠からず、「作成」→「展示」される「うめてらす」の「解説」によって、
これまでよりは∞はるかに=u正確」な 野村望東尼  が知られると思いますが、
活字≠ノよる正式≠ネ「文化財解説」が何としても「必要」です。
なにせ、「防府市」の公的=u資料」には、一流≠フ「研究者」を含め、多くの方の信頼≠ェあるようで「基礎資料」として広く、使用されています。
しかし、こと 野村望東尼関連 については、問題点が少なくないことゆえ、
直接=A目にするか、この「私」の「ホームページ」で知るしかないといった「解説」 、しかも、限られた「スペース」の中でのことではなく、
活字≠ノよる正式≠ネ「文化財解説」を、
「学識経験者」を交えて、検討されることを、 
早急≠ノ お願いしたいと思います。

「望東尼研究家」として、「防府」にも度々、「調査」に来られ、複数≠フ『著作』『出版』されている 野方春人氏は、『防府市史』についても、 『著書』の「参考文献」を記す中で、

防府市史は防府市が発行者であり望東尼の終焉の地でありながら、その市史の望東尼に関する記述には間違が多く新版に至っては記述の分量が旧版に比してはるかに少なく、記述も平衡を欠いている。
防府市での望東尼の年忌には多数の人が訪れているようなので、改訂が望まれる


とし、残念がっておられるのです。
野方氏の『著作』を、私は、谷川佳枝子氏の『著作』に 匹敵 あるいは、それ以上「資料」として、「後世」においても、「尊重」される貴重な=u資料」と思っています。

事実として、「防府」の「研究者」においても、野方氏の『著書』は、
出穂稔朗氏の『幕末期における長州瀬戸内の村 富海の躍動』山口県立大学ブックレット「新やまぐち学」bR)を初めとして、「参考文献}として使用されています。

今後も、複数の『出版』の準備をされている野方氏に、膨大な『防府市史』一部<_ケ「改定」(他にも、少しばかり=A「疑問」のある箇所があります)ということは、難しいにしても、
   「的確な『資料』」が、発行された
と、記してもらえるよう、早急≠ネ「対応」がなされることを望んでいます。







なお、「防府市教育委員会」の「解説」には、次のような、少しばかり=A疑問が残っていますが、私が信頼している、誠実な原田氏ですので、間違いなく、「再検討」してもらえると思っています。

@ 明治27年(1894年)に改修されたものである。
 ↑ 『野村望東尼全集』 ( or この『全集』を「底本」にした『防府関係 野村望東尼史料』) に拠ったと思われますが、
   『楫取素彦伝』186&ナに野村望東尼墓碑銘 明治二十六年五月撰として碑文が次頁に亘って記されている(こには、「詩」で終わっています)うえに、
  「年譜」に、「明治二十六年八月」と、「墓」の通りが記されています。
  「碑文」ができてから、3ヶ月後ですし、刻む最後°゚くですから、「完成」の時と一致≠オても、なんらおかしくはないハズです。
  私は「墓」に刻まれた 明治二十六年八月を記すべきと思っています。

『野村望東尼全集』の「編者」の誤り=H

『野村望東尼全集』の840&ナに、
桑山山麓墓碑 として、全文が記された後、
編者云ふ、防府市桑山なる碑文によれり。
望東禪尼傳、及び、楫取家文書第一の明治二十六年五月撰のとは小異あり。
なお文中の「二女」は三女の誤とおぼし。
また「西麓」は長嶋防府市長の来書に、「正確には南西麓なり」とあり。

とあるわけですから、編者の誤りのハズです。
    野村望東尼墓碑(裏面=楫取素彦撰の碑文) ←クリック
という私の「ブログ」で、確認してください。
「このブログ」は、「Yahooのブログ」ですから、「写真」の「右下」のをクリック≠キると、大きく♀g大しますので、「明治二十六年八月」とあるのが「確認」できます。



A 山口から勝坂を超え三田尻(防府)に入り、→越え≠ェいいでしょう。単なる「入力ミス」でしょう。
B 楫取素彦にとって、望東尼は、間接的ながらも「命」の恩人的存在ということが記されていない。
↑ このことについて、私の楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人─(←クリック)
 に、詳しく、述べています。
 要するに、処刑寸前であった楫取は、高杉「功山寺挙兵」→「太田絵堂の戦い」によって、助かったのです。



なお、窪田氏は、準公的≠ネ 「維新 ふるさとかるた」において、
 私よりも、もっと、積極的に、 素彦の命の恩人望東尼 としておられます。
残念ながら=A『男爵 楫取素彦の生涯』における野村望東尼の記述は、
楫取素彦望東尼に関しては、ほとんど語られていません。
(わずかに、313&ナに、晋作の死後、望東尼楫取素彦により下関から山口の熊丸家へ移った≠ニある程度です。
しかも、楫取「碑文」の紹介も、漢詩が抜けています。)

しかし、刊行に深く関わっている窪田氏ですので、さすがに、よく読んでおられ、小山良昌氏、小田村四郎氏の記事を踏まえられています。
ただ、「解説」のこの墓も楫取素彦によって建てられたものです。
については、原田氏が中心になって「作成」された
桑山共同墓地にあるは、明治24年(1891年)望東尼正五位贈位に際して、昭憲皇太后三条公毛利公などから資金援助を受け、楫取素彦 の撰文本田国敬彰辞を刻み、・・・改修されたものである。
の方が、適切と、私は思いますが・・・・・・・・・。







 私が 楫取素彦に取って、望東尼は間接的≠ネがら「命の恩人」とする「根拠」


重複しますが、既述している楫取素彦 ─ 吉田松陰・野村望東尼にゆかり≠フ人─ の中から、 少し、「紹介」しておきます。



◇ 村田峰次郎 著 『耕堂 楫取素彦男爵伝記』 「活字本」の 76頁〜
「著者」は、村田清風の孫であり、 かつ、 楫取と同じ時期に、「野山獄」に投獄されていた 村田次郎三郎(清風の 次男で、楫取同様、「俗論派」に捕らえられており、村田姓と家禄を剥奪され、「大津唯雪」と名乗る)の次男ということで、峰次郎 は、楫取素彦と親しかった。

甲子の冬、勤王志士に対する疑獄は、反対党の末期に 於ける窮余の手段なり。その権力を持続せんかため、如何なる 横暴をも辞せすして、正義派の言論生命を絶滅せんと務めたり 。
柵欄を鎖して犢牛を逐ひ、灯火を滅して暗撃を喜ふものの 如し。
真個憂国の名士にして自殺せるものあり。
斬刑に遇ふも のあり。
牢舎幽閉のみにして殺戮を免れたるものあり。
主戦諸士も頗る窮境に陥りしか、恭順政府にして既に奇策 の施すへきを知らす、四顧茫然何人も俗論の雰囲気中に彷徨したりしか、その大風雨の暗夜に乗し、神竜一躍、忽ち天地の禍 運を掃蕩し、防長の正気を瞬間に回瀾したる者は、 高杉晋作その人にあら すして誰そ。
高杉は、真に快男子と謂ふべし。
当時、高杉身既に危かりしか、徒に奸人の毒刃に斃るるは 智者にあらす、忠臣にあらす、この処決して死処を得るにあらす、一誠以て国家を救ふの良策なかるへからすと、暫く反対派 の鋭鋒を避け、熟慮する所あらんため、一旦筑前に潜行して、 野村望東か 平尾山の別荘に隠れたりしか、郷国に於ける反対派の暴 戻殆と曰ふに忍ひさるもののみ、同志の名流続々縲紲に繋り、 斬戮項背相望み、之を済はんとするも手を下たすに術なしとの 報に接したれは、高杉は豁然髀を拊ち、飛信をろ♂ホに投し 、夜半舟を艤して馬関に帰り、潜に同志を聚めて、断然挙兵の 策を決す。
高杉は 、雪夜俄に馬を馳せて、長府なる功山寺に到り、 三条以下五公 卿に謁を乞ひ、国運回復のため、爰に正義の師を起し、俗論党 を討伐し以て勤王の本領を成就せんと欲す。
晋作この行固より万死を期す。
幸に功成り生を得は、更にまた再謁の 栄を得へしと、頗る謹厳の別辞を述へ、直ちに同志を麾き、快馬に鞭うちて得々馬関の陣営に帰りたり。
明くる年慶応元年乙丑年正月には、憂国の念切 なる高杉、遂に義兵を提けて伊崎の役庁を襲へり。
是に於て、諸隊勇兵の来りて義旗の下に聚るもの、日に多 きを加へ、各々部署を定めて伊佐より北進す。
恭順兵の諸隊を防かんとするもの、孰れも美祢郡方面に向 つて南進したり。
南北両軍相接し、絵堂、大田間の各地に交戦す。
北軍敗れ、南軍全捷を得たり。
南方諸隊悉く進て萩に入り、事始めて鎮定す。
仍て二月二十五日、君(=楫取素彦)等同囚四人は 、無事野山獄を出つることを得たるなり。   
(峰次郎の父も、この四人の中の一人。
なお、濁点≠ヘ、疑問がありますが、『原典』もこのようになっています。)




小田村四郎氏が「母=治子」の話として    (『男爵楫取素彦 の生涯』 43頁)
小田村氏は、楫取素彦「曾孫」で、元大蔵官僚、拓殖大学第16代総長

母の話によれば・・・、
(元治元年12月19日野山獄に 投獄され)既に斬首の日は決まってゐたが、その直前に高杉晋作の功山寺挙兵に続く太田絵堂の決戦で政府軍が敗れ、藩政府が正義党によって一新されたため、翌慶応元年二月十五日に出獄することを得た
とのことである。

治子氏は、楫取道明次女で、「小田村家」を継がれた、 明治21年12月26日〜昭和62年1月31日という方で、
楫取 寿は、「1881(明治14)年1月30日」に亡くなっていますが、 楫取素彦が亡くなったのは、「1912(大正元)年8月14日」ですから、 直接素彦から、聞いていたと思われます。



小山良昌氏氏    (『男爵楫取素彦の生涯』の「敬親公の懐刀 男爵楫取素彦」の74頁〜)
「幕末・維新」に関する権威であり、私のような者に対しても、対応してくださる誠実な=u研究者」
「山口県文書館副館長」、「短大教授」、「毛利博物館館長」等を歴任。

素太郎野山獄に入獄中の元治元年(1864)12月、高杉晋作は俗論党政権による三家老ら14名の処刑を聞き、大いに憤って長府 功山寺で挙兵し、馬関の新地会所を襲撃して俗論党政府への叛旗の烽火を上げた。
この高杉の挙兵を契機として、奇兵隊など諸隊の 正義派軍と俗論派政府軍が美祢郡太田絵堂で戦い、慶応元年(1865)二月十五日、正義派が勝利を 納めて再び藩政を奪還した。
そして即日の十五日素太郎は許されて目出度く野山獄を出獄した。



なお、「本宅」については、私は「指定申請書」にある「主家=vを使っていますが、ここにある「本宅=vの方がわかりやすいと思います。



原田氏からの「回答」

ご指摘分2点ほど修正いたしましたので、ご確認ください。
として、「メール」に、「ワード」による「全文」添付という形での「回答」をいただきました。

B≠フ望東尼楫取素彦との関わり方については、今少し、「検討」されるようです。

いずれ、「解説板」も、「訂正」されると思います。







 旧「離れ」の「玄関」には、望東尼が楫取素彦・山田顕義に贈った「歌」を掲示







望東尼楫取素彦山田顕義に贈った「歌」
   「右後ろ」にあるのが、以下に示す「解説」のエッセンス≠ナす。
   いずれも、「月輪寺」の修復工事の際の「廃材」を利用して「展示」しています。


 野村望東尼寄寓していた「荒瀬家」の「離れ」を、慶応三年の「九月廿八日」に、訪れていることが
『防州日記』に記されている
楫取素彦(小田村)国貞直人山田市之允(山田顕義)には、望東尼うまの餞す≠ニして「歌」を贈っていることが、同じ『防州日記』に記されています。
  (他に方野十郎への「歌」があり、「離れ」を訪れた人物がなどとあることとて、方野も訪れている可能性もないワケではありませんが、「奇兵隊参謀兼東上諸隊の総参謀」という人物であることとて、方野ぬし≠など≠ナ済ますのは不自然ですので、少なくとも、この日には訪れていないと、考えています。)

 この「離れ」は、
「望東尼の終焉の宅」の一部ではあっても、亡くなったのは、「主家南八畳の間」であり、その「主家」は、「平成」の初めに「解体」されていること、
「山水」の流れ込み「住めない家」になっているのに、未来永劫∞すべて=A自己負担で「管理」せよというのは納得しがたいこととて、
「指定解除」をしてもらいましたが、
望東尼亡くなった「荒瀬家」一部≠ナある「離れ」であり、
望東尼が、防府在住中、主として寄寓していたのだということ

既述しているように、「山口県文化財審議委員」福田東亜氏が、
「江戸時代の商家の『離れ』を感じさせる瀟洒な良い建物だと思う。」
と評価されていることから、「移築→保存」されることが検討されていることで、旧「離れ」に、楫取山田への望東尼の「歌」を掲示しようと考えました。


       「倒幕軍」の中心≠ナあり、「明治維新」後≠焉u活躍」した楫取山田

楫取素彦
「東上軍」の「参謀」
初代「群馬県令」
「男爵」

<山田顕義
25歳の時に戊辰戦争で討伐軍の指揮をとる。
その際、西郷隆盛から「あの小わっぱ、用兵の天才でごわす」、見事な軍才から「用兵の妙、神の如し」と評されたと伝えられる。
約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。
明治21年 日本古来の法と外国の法を研究する教育機関として、日本大学の前身である日本法律学校を創設
伯爵


「終焉の宅」の「指定解除」の「話し合いの場」を設定してもらうタメ、「ホームページ」を作成したことで、皆無≠ノ近かった「見学者」が増えていますし
「維新150年」迄は、管理を続けようと思っていますので。

そして、「移築→保存」が、実現しなくても
「解体」迄としても、それなり≠フ意味はあろうと、考えましたし、
旧「荒瀬家」の近くであり、「維新」に関係の深い「英雲荘」において、「資料」として保存してもらい、 なんらかの=u機会」に紹介してもらえそうです。




そのため、「書」としても「価値」があるようにと、
「梅光学院大学」「准教授」(「書道」)である松田政道氏に、お願いしました。
松田氏は、親しくしていただいている方で、私の勝手な@v望にも、親切に対応してくださいました。
しかも、「好意」でよいと言われるのです。
ここに掲示する「短冊」がそれです。







小田村大人

いつしかと わかまちわひし たつむらの こゑをくもゐに あくる時きぬ

みよのため いくさたちする ものゝふに こころはかりは おくれやはする




山田大人いくさつかをしてゆかるゝを

月と日の くもきりはらひ ゆくあきの 風になひかぬ くさも木もなし

みよのためいくさひきゆく物部に 老かこころもたくへてそやる




山田のうしにまもりをつかはすふくさにかいつくとて

すほうなる 山田のほなみ うちいてゝ みよのあくたを さらすとよとし












mini-counter