「ホームページ」の「Yahoo」・「Google」での「検索」は、量的に膨大≠ナ、「私作成の関連した<yージ」を見ていただくのは、難しいようですので、 この「ページ」に、野村望東尼」関連のページ」を「リンク」設定しておきます。、 |
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一 残念な≠アれまでの野村望東尼に関する公的=E準公的≠ネ「資料」 |
「山口県文化財」への「申請書類」を始め、これまでの野村望東尼に関する公的=E準公的≠ネ「資料」には、 残念ながら=A問題点があります。 そのタメでしょうか、「望東尼の150回忌」を前に、様々な「企画」がなされたのですが、 紙面を大きく取った『読売新聞』=「維新支えた望東尼に学ぶ」[6月1日(水)]
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と、困った≠アとが含まれていました。
『佐波の里』「野村望東尼と防府─楫取素彦と野村望東尼─」、 「英雲荘」における「観月会」における「パンフレット」(「英雲荘」は「会場」であり、「英雲荘」で用意されたものではありません) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 公的=E準公的≠ネ「資料」のうち、野村望東尼終焉の地=「防府市」において、目に触れることの多いもの~を、少しばかり、示して見ましょう。 |
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「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」 |
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野村望東尼の墓への 入口 及び、そこに設けられている 「解説」 です。 県指定 史跡 野村望東尼 終焉の宅 及び宅跡並びに墓 昭和四一(一九六六)年六月一○日 指定
終焉の宅 岡村町五の三 宅跡 三田尻本町十の二 墓 桑山一丁目四 野村望東尼は一八○六年(文化三)九月六日、福岡藩士浦野重右衛門の三女として生まれ、 その名を「もと」と称しました。二四才の時に野村新三郎貞貫の後妻として迎えられ、 夫婦共に和歌をたしなみ、五四才で夫に病死されると博多の明光寺で髪をおろし、禅尼となりました。 一八六一年(文久元)京都に上った望東尼は、 尊王攘夷運動に接して勤王の志を高くし、 帰郷後は勤王の志士たちとの交流を一層深めました。 一八六五年(慶応元)黒田藩による勤王派への弾圧により姫島に流されましたが、 翌年高杉晋作によって救出され、下関にかくまわれました。 一八六七年(慶応三)薩長連合の倒幕軍東上のことを聞くと、望東尼は三田尻の歌友荒瀬ゆり子宅に身を寄せ、七日間防府天満宮に参籠し、断食をして、和歌一首を手向け(後記)、倒幕軍の戦勝を祈願しました。 しかし、老齢の身に七日間の断食はあまりにも過酷で、間もなく病に倒れ、同年十一月六日に六二才の生涯を閉じました。 (一日目)武夫の仇に勝坂越えつつも祈るねぎごとうけさせ給え〈え≠ヘママ〉 (二日目)濃染なすます穂のすすき穂に出て〈出て≠ヘママ〉招くになびけ千種八千草 (三日目)御世を思う〈思う≠ヘママ〉やたけ心の一筋も弓取る数に入らぬかひなさ (四日目)あづさ弓引く数ならぬ身ながらも思ひいる矢は唯に一筋 (五日目)道もなく乱れあひたる浪波江のよしあしわくる時やこの時 (六日目)唯七日我が日まゐりの果てなくに神無月ともなりにけるかな (七日目)九重に八重居る雲やはれむとて冬たつ空も春めきぬらむ 望東尼が防府滞在中に住んだ荒瀬家の離れは、今は桑山東麓の大楽寺の下に移されて「終焉の宅」として、また旧宅は「宅跡」として、桑山の「墓」と共に、県の史跡に指定されています。 平成十五年一月 山口県教育委員会
防府市教育委員会
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「ホームページ」=「防府の文化財」の 野村望東尼 |
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現在≠烽る「野村望東尼終焉の宅前=vにある「石碑」の「解説」 |
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この「解説」は、地元の篤志家が建てられた O 明治維新勤王志士 正五位野村望東尼終焉の宅 百拾周年記念之碑 という当時≠フ防府市長 鈴木 覚氏揮毫の「碑」(中央) 及び O 望東尼の判読できないとされる「絶筆」をそのまま″盾だ「石碑」(左) と一体で、「右横」に設けられたものですが、 この「解説」は、防府市教育委員会による 『ふるさとをたずねて』 [昭和43年3月] の8&ナにある 野村望東尼終焉の宅および宅跡ならびに墓 とほぼ%ッじ文章です。 |
望東尼の寄寓した旧「荒瀬家の離れ」は、「移築・保存」が検討されているということ 「平成26年10月16日」(「記録」としては「平成26年12月2日」になっているようです)に、「山口県指定文化財」の「指定解除」が実現したものの、 皮肉≠ネことに、私の「ホームページ」は、 福岡県糸島市の野方春人氏の目に触れ、野方氏の『著書』(3冊)に、「写真」入りで紹介していただくようになったのを始め、 「花燃ゆ」では出てきませんでしたが、 が、一躍、注目≠ウれるようになったことで、「群馬県」の方も、訪ねて来られるといったように、 そこで、 「維新150年」にあたる 「平成30(2018)年」迄 は・・・
と「ホームページ」&『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』において、「宣言」して、「私の管理している家」のことですが、 「定例教育委員会会議の要旨」に 建造物として新たに指定して保護する価値も有していない
とあるものの、それは、「増築部分」が倍以上、それも、「大正・昭和」のもののある混合≠オた「建物」だからです。
「県教委 社会教育・文化財課」の主幹に、清水利宏氏が着かれたことで、、 「県教委」の「出版物」の「図面」が、望東尼に関係の無い、「増築部分」を含めた「全体」であるようになっていることの「訂正」を求めていた私の「要請」を、 受け入れてもらい、 「平成18年」当時、「建造物担当」の委員であった 私の『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』の427&ナに記していたこともあってでしょう、 福田氏が、「防府市」の「委員」でもあることとて、
「指定のママ」なら、外観的にも、「建替」が必要と「判断」されるようになったら(私が「維持・管理」を続ける限り、それは、かなり後のことになります)、 その場合は、私の負担はほとんど≠ネく、 それが、「望東尼関係箇所」のみなら、「経済的負担」は少なくなりますし、 「荒瀬家の主家」が、「平成」の始めに、解体され、新しい家になっているいることとて、「指定」はともかく、 「結果オーライ」ということになりましょうか。 望東尼がどこで亡くなったかは、望東尼の「人柄」に直結≠キることです。
困ったこと≠ノ、 野方氏の複数の=w著作』 及び、 私の 『土井ヶ浜遺跡の発見・発掘史 付 「百万一心」・野村望東尼』 私の「ホームページ」 以外においては、 [関係のない=u家」=▼@・▼A]を記した『著書』が 望東尼の亡くなった「主家」は、存在しませんが、 望東尼が介護を受けるようになるまで、寄寓していた、この「荒瀬家の離れ」は、望東尼が「賓客」として受け入れられていたことを
のみならず、 『防州日記』に、「九月廿八日のよ(夜)に 小田村ぬし(小田村伊之助→楫取素彦)、山田ぬし(山田市之允→山田顕義)も訪れたと記されていることもあって、楫取のみならず、山田も、「侯爵」、「日本大学」の「創始者」という、「歴史」に残る人物ですので、それなり≠ノ、「保存」する意味はあると思います。 まだ、決定ではありませんが、「萩市」に、萩まちじゅう博物館なるものがあり、「文化財指定」ではないものについても、「維持・管理」されているように、「防府市」においても、この「望東尼寄寓≠フ離れ」が、「維持・管理」されるようになることを、願っています。 |
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「うめてらす」 |
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「アスピラート」の会場をほぼ埋め尽くした「望東尼の150回忌 記念祭」でも |
望東尼の150回忌記念祭 にも「影響=v? 「アスピラート」の会場をほぼ埋め尽くした「望東尼の150回忌 記念祭」ですが、、 「第3部」 望東尼を偲ぶひとときの 2. 吟舞「高杉晋作と望東尼」の場合は、過去における「作品」であるタメ、ヤムを得ないにしても、 1. 音楽劇「野村望東尼〜嵐に咲く花〜」の場合は、 「新聞記事」によると、 「直木賞」作家というダケでなく、十分な「考証」に基づく「歴史小説」ということでも、著名な古川 薫氏が、 脚本を書き下ろしたオリジナル作品で、音楽を通じて当時の世界観を表現し望東尼の生きざまを伝える。 というもので、 音楽劇は「野村望東尼〜嵐に咲く花」と題し約40分間のステージ。 ピアノやフルートなどの演奏とともに、防府高合唱部と市民でつくる「望東尼をうたおう会」のメンバー計約50人が合唱するほか、小学生が朗読を披露する。 望東尼が詠んだ和歌も吟詠し、ナレーションで望東尼の生涯に迫る。 とあるのですが、驚いたことに、望東尼は、「防府天満宮」に、水ゴリ・絶食潔斎を二十日間もしたとあったのです。(耳にしたダケですが、間違いはないと思います。) 水ゴリ・絶食潔斎は「防府市教委文化財課」の「資料」を信頼してのことと思いますが、 「一七日」ひとなのかを「17日」という勘違い≠ナはなく、二十日間というように、古川氏にして、このようになっていたのです。
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『防州日記』によってわかる 「七日間の 参籠=vは、間違いということ |
『防州日記』による「七日詣」 「防府天満宮」に現存する望東尼の「奉納歌」や、 『楫取素彦伝』との「比較・検証」によって、 ここでは、「七日詣」についてのみ、記しておきます。 初日=「九月二十五日」=「山口」から「防府」へ来て、「天満宮」に参詣し、「荒瀬家」で宿泊。 ↑ 「途中」、
さらに、常識的≠ノ、荒瀬ゆり子は、望東尼のために、「夕食」を用意していたと思われる。 なお、「荒瀬家」の「離れ」には、「台所」等はなく (←クリック=j、防府滞在中の「食事」のほとんどは、「荒瀬家」で用意され、「使用人」によって、上げ下げされていたと思われる。 二日目=「九月二十六日」=「参籠=vの可能性は あり 三日目=「九月二十七日」=「参籠=vの可能性は あり 但し、『防州日記』に、
まりふ松原にて、こたびのいくさだてを、公のみ試みせさせ給へるを見奉りける時、・・・ として、日付なしで記してあるのが、『修訂防長回天史』によると、九月二十七日のこととあるので、 この日も、「参籠=vしていないことになる。 四日目=「九月二十八日」=[我が旅のやど==u荒瀬家」の「離れ」]に、小田村ぬし、国貞ぬし、山田ぬしなどが訪れている。 五日目=「九月二十九日」=「参籠=vの可能性は あり
六日目=「十月一日」=ついたちの日に、ほりのわたりに、荒瀬ゆり子が案内して、山城屋てふ家の二階にて・・・ とあり、この日は、当然=A「参籠=vは、していない。 七日目=「十月二日」=「七日詣」終了日なので、この日は、当然=A「参籠=vは、していない。 「天満宮」に 「山口県文書館」所蔵の「古社寺取調書 佐波郡寺 院」( 行政文書県庁戦前A 社寺121)という明治28年 [1895]作成の史料に 「境内」の図があり、 その中に、記されていることを教えていただいています。
周防国宮市(旧号天満宮)松崎神社之図(←「活字」は旧字) (明治三十三年七月印刷 大阪 森川印刷所) という大きな「図」を見いだしました。 (「写真」は、「参籠所」の部分の「スキャナ」) それにも、はっきり≠ニ参籠所が図示されていますので、望東尼が「参籠」をしていないとは言い切れませんが、 それに、初日=「九月二十五日」は、はっきり≠オていますが、九月二十八日、十月一日には、茶菓子程度は、用意されていたハズで、 望東尼も、口にした可能性はあり、断食を、ことさら、強調≠オている「資料」は、はなはだ疑問です。 |
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二 「修正」された公的・準公的≠ネ野村望東尼の「解説」 |
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準公的≠ニもいえる「まちの駅 うめてらす」で新しく≠ネった「野村望東尼」に関する「解説」 |


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「写真」から読めるかとは思いますが、「文字数」が多くなり、小さくなったタメ、「活字」で示しておきます。
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「平成28年12月15日」、「防府市観光協会」局長の岩本邦男氏が、「遅くなりましたが」として、「メール」に上の「写真」を添付して「送信」してこられました。 こうした「姿勢」で事に当たる岩本氏に、「私の原稿」に沿った「解説」を作ってもらえたことは、私の「調査・研究」を裏付けてもらえたということで、ありがたいことです。 私としては、以前の 野村望東尼に関する「解説」 よりは、はるかに史実≠ノ近いと思っていますので、
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「防府市教育委員会」の「修正」された「解説」 |
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「解説板」の「写真」 |

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「 活 字 」 にすると |
野村望東尼寄寓の家(荒瀬ゆり子宅の離れを移築し、現在は増築されたもの) 野村望東尼は、文化3年(1806年)黒田藩士浦野重右衛門勝幸の三女として生まれ、その名を「もと」と称しました。 24歳の時に野村新三郎貞貫(のむらしんざぶろうさだつら)に嫁ぎ、夫婦ともに和歌を嗜んだが、安政6年(1859年)夫の死後禅尼となり 向陵院招月(こうりょういんしょうげつ)望東尼と称した。 やがて勤王の志士との交流を深め、元治元年(1864年)には その後、高杉は 翌慶応元年(1865年)黒田藩における勤王派への弾圧で、望東尼も玄界灘の姫島に流されるが、高杉の指示によって救出され、下関に身を寄せ、 その後、小田村素太郎(小田村伊之助後の楫取素彦)と妻の寿(吉田松陰の妹)の親身な世話を受ける。 慶応3年(1867)9月薩長連合の倒幕軍東上を聞くと、山口から勝坂を A 超え三田尻(防府)に入り、歌友荒瀬ゆり子宅の しかし薩摩軍が約束された期日に来ず、望東尼は三田尻に留まるが、 その到着を見届けた後病に倒れ、 なお、桑山共同墓地にある墓は、明治24年(1891年)望東尼の正五位贈位に際して、 平成二八年十一月
「移築→保存」が実現しなくても、「維新150年」までは、保存する「家」の前の、
それなりの=u効果」はありました。 望東尼の150回忌記念祭の会場でお会いした「ほうふ日報」の前「社主」で、「歴史」にも詳しい、窪田耕二氏(←クリック=jは、御覧になっており、「よく出来ている」とおっしゃっていました。 その他にも、顔見知りの方が、私に、同様の感想を述べられました。 「移築」を前提に、毎日のように「整理」に通っているのですが、「見学希望」の方があり、私の「ホームページ」から、「群馬県」からも訪れて来られています。 これまでは、まず、予備知識の「訂正」から始めなければならなかったのですが、この「防府市教育委員会」とある「解説」があることで、 間近な=u維新150年」に向けて、多くなると思われる見学希望の方に、説明が容易になります。 ただ、「移築→保存」が実現しない場合は、それっきりになってしまいますが、 「防府市教育委員会」とあるこの「解説板」は、「写真」として、私の『自費出版』の中に載せますし、 「移築→保存」に関する決定が出た段階で、「野村望東尼の墓」の「入口」の「解説板」(←クリック=jが、 少なくとも、それまでのつなぎという意味はあるのです。
なお、「防府市教育委員会」の「解説」には、次のような、少しばかり=A疑問が残っていますが、私が信頼している、誠実な原田氏ですので、間違いなく、「再検討」してもらえると思っています。
@ 明治27年(1894年)に改修されたものである。 ↑ 『野村望東尼全集』 ( or この『全集』を「底本」にした『防府関係 野村望東尼史料』) に拠ったと思われますが、 『楫取素彦伝』186&ナに野村望東尼墓碑銘 明治二十六年五月撰として碑文が次頁に亘って記されている(こには、「詩」で終わっています)うえに、 「年譜」に、「明治二十六年八月」と、「墓」の通りが記されています。 「碑文」ができてから、3ヶ月後ですし、刻む最後°゚くですから、「完成」の時と一致≠オても、なんらおかしくはないハズです。 私は「墓」に刻まれた 明治二十六年八月を記すべきと思っています。
A 山口から勝坂を超え三田尻(防府)に入り、→越え≠ェいいでしょう。単なる「入力ミス」でしょう。 B 楫取素彦にとって、望東尼は、 ↑ このことについて、私の
に、詳しく、述べています。 要するに、処刑寸前であった楫取は、高杉の「功山寺挙兵」→「太田絵堂の戦い」によって、助かったのです。 |
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私が 楫取素彦に取って、望東尼は間接的≠ネがら「命の恩人」とする「根拠」 |
◇ 村田峰次郎 著 『耕堂 楫取素彦男爵伝記』 「活字本」の 76頁〜
「著者」は、村田清風の孫であり、 かつ、 楫取と同じ時期に、「野山獄」に投獄されていた 村田次郎三郎(清風の 次男で、楫取同様、「俗論派」に捕らえられており、村田姓と家禄を剥奪され、「大津唯雪」と名乗る)の次男ということで、
甲子の冬、勤王志士に対する疑獄は、反対党の末期に 於ける窮余の手段なり。その権力を持続せんかため、如何なる 横暴をも辞せすして、正義派の言論生命を絶滅せんと務めたり 。 柵欄を鎖して犢牛を逐ひ、灯火を滅して暗撃を喜ふものの 如し。 真個憂国の名士にして自殺せるものあり。 斬刑に遇ふも のあり。 牢舎幽閉のみにして殺戮を免れたるものあり。 主戦諸士も頗る窮境に陥りしか、恭順政府にして既に奇策 の施すへきを知らす、四顧茫然何人も俗論の雰囲気中に彷徨したりしか、その大風雨の暗夜に乗し、神竜一躍、忽ち天地の禍 運を掃蕩し、防長の正気を瞬間に回瀾したる者は、 当時、高杉身既に危かりしか、徒に奸人の毒刃に斃るるは 智者にあらす、忠臣にあらす、この処決して死処を得るにあらす、一誠以て国家を救ふの良策なかるへからすと、暫く反対派 の鋭鋒を避け、熟慮する所あらんため、一旦筑前に潜行して、 高杉は 、雪夜俄に馬を馳せて、長府なる功山寺に到り、 三条以下五公 卿に謁を乞ひ、国運回復のため、爰に正義の師を起し、俗論党 を討伐し以て勤王の本領を成就せんと欲す。 幸に功成り生を得は、更にまた再謁の 栄を得へしと、頗る謹厳の別辞を述へ、直ちに同志を麾き、快馬に鞭うちて得々馬関の陣営に帰りたり。 明くる年慶応元年乙丑年正月には、憂国の念切 なる高杉、遂に義兵を提けて伊崎の役庁を襲へり。 是に於て、諸隊勇兵の来りて義旗の下に聚るもの、日に多 きを加へ、各々部署を定めて伊佐より北進す。 恭順兵の諸隊を防かんとするもの、孰れも美祢郡方面に向 つて南進したり。 南北両軍相接し、絵堂、大田間の各地に交戦す。 北軍敗れ、南軍全捷を得たり。 南方諸隊悉く進て萩に入り、事始めて鎮定す。 仍て二月二十五日、君(=楫取素彦)等同囚四人は 、無事野山獄を出つることを得たるなり。 (峰次郎の父も、この四人の中の一人。
なお、濁点≠ヘ、疑問がありますが、 |
小田村四郎氏が 小田村氏は、楫取素彦の「曾孫」で、元大蔵官僚、拓殖大学第16代総長。
母の話によれば・・・、 (元治元年12月19日野山獄に 投獄され)既に斬首の日は決まってゐたが、その直前に高杉晋作の功山寺挙兵に続く太田絵堂の決戦で政府軍が敗れ、藩政府が正義党によって一新されたため、翌慶応元年二月十五日に出獄することを得た、 とのことである。 治子氏は、楫取道明の次女で、「小田村家」を継がれた、
明治21年12月26日〜昭和62年1月31日という方で、
楫取 寿は、「1881(明治14)年1月30日」に亡くなっていますが、 楫取素彦が亡くなったのは、「1912(大正元)年8月14日」ですから、 直接、素彦から、聞いていたと思われます。 |
小山良昌氏氏 (『男爵楫取素彦の生涯』の「敬親公の懐刀 男爵楫取素彦」の74頁〜) 「幕末・維新」に関する権威であり、私のような者に対しても、対応してくださる誠実な=u研究者」。
「山口県文書館副館長」、「短大教授」、「毛利博物館館長」等を歴任。 素太郎が 野山獄に入獄中の元治元年(1864)12月、高杉晋作は俗論党政権による三家老ら14名の処刑を聞き、大いに憤って長府 功山寺で挙兵し、馬関の新地会所を襲撃して俗論党政府への叛旗の烽火を上げた。 この高杉の挙兵を契機として、奇兵隊など諸隊の 正義派軍と俗論派政府軍が美祢郡太田絵堂で戦い、慶応元年(1865)二月十五日、正義派が勝利を 納めて再び藩政を奪還した。 そして即日の十五日、素太郎は許されて目出度く野山獄を出獄した。 |
原田氏からの「回答」 「ご指摘分2点ほど修正いたしましたので、ご確認ください。」
として、「メール」に、「ワード」による「全文」を添付という形での「回答」をいただきました。 B≠フ望東尼と楫取素彦との関わり方については、今少し、「検討」されるようです。 いずれ、「解説板」も、「訂正」されると思います。 |
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旧「離れ」の「玄関」には、望東尼が楫取素彦・山田顕義に贈った「歌」を掲示 |

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望東尼が楫取素彦・山田顕義に贈った「歌」 「右後ろ」にあるのが、以下に示す「解説」のエッセンス≠ナす。 いずれも、「月輪寺」の修復工事の際の「廃材」を利用して「展示」しています。 野村望東尼が 『防州日記』に記されている 楫取素彦(小田村)と国貞直人、山田市之允(山田顕義)には、望東尼はうまの餞す≠ニして「歌」を贈っていることが、同じ『防州日記』に記されています。 (他に方野十郎への「歌」があり、「離れ」を訪れた人物がなどとあることとて、方野も訪れている可能性もないワケではありませんが、「奇兵隊参謀兼東上諸隊の総参謀」という人物であることとて、方野ぬし≠など≠ナ済ますのは不自然ですので、少なくとも、この日には訪れていないと、考えています。) この「離れ」は、 「望東尼の終焉の宅」の一部ではあっても、亡くなったのは、「主家南八畳の間」であり、その「主家」は、「平成」の初めに「解体」されていること、 「山水」の流れ込みで「住めない家」になっているのに、未来永劫∞すべて=A自己負担で「管理」せよというのは納得しがたいこととて、 「指定解除」をしてもらいましたが、 望東尼が、防府在住中、 と 既述しているように、「山口県文化財審議委員」の福田東亜氏が、 と評価されていることから、「移築→保存」されることが検討されていることで、旧「離れ」に、楫取と山田への望東尼の「歌」を掲示しようと考えました。
「終焉の宅」の「指定解除」の「話し合いの場」を設定してもらうタメ、「ホームページ」を作成したことで、 「維新150年」迄は、管理を続けようと思っていますので。 そして、「移築→保存」が、実現しなくても、 「解体」迄としても、それなり≠フ意味はあろうと、考えましたし、 旧「荒瀬家」の近くであり、「維新」に関係の深い「英雲荘」において、「資料」として保存してもらい、 なんらかの=u機会」に紹介してもらえそうです。
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