平成19年3月29日  ブログで公開
平成19年7月5日 HOMEPAGEでの公開を開始 (ブログ≠ヘ「資料編」としての利用に変更)
平成19年12月10日 [ケーブル]と[Yahoo!ジオシティーズ]の併用によりブログ≠ヘ原則的に利用中止
平成19年12月13日 大幅に内容を変更することにし、平成20年2月25日 踏み込んだ=u内容」の「更新」を開始
平成24年10月1日  更新=@

[山口県土井ヶ浜遺跡]&[萩焼]
文責 河野英男 の三男=河野俊乎(かわの としか)



[1] [山口県土井ヶ浜遺跡]
↑ クリックしてください。(ここに限らず、{r≠フついているものは、「リンク」させています。)
@ 発見・発掘史≠フなぜ?≠ニ「解明」

A 邂逅=|この不思議≠ネるもの




[2] 流布している事実≠踏まえぬ[萩焼の歴史]を正す
@ 「萩焼」の「重要無形文化財(俗称 「人間国宝」)」への道
−「無形文化財」制度の工芸史≠ノ果たした典型としての「萩焼」の歩み−

A 「昭和32年」の「古窯」発掘計画の中止 (延期) の顛末



[3]土井ヶ浜=E萩焼∴ネ外についての入り口

O 「山口県文化財」についての参考事項
O 「戸田焼」
O 雑
O 「Yahoo!ブログ」による「旅の写真」・「手元にある色紙・短冊の紹介」


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[お断り]
「容量」の関係で、「ケーブル」と「Yahoo!ジオシティーズ」を併用≠ウせていただきます。
なお、二つの「HOMEPAGE」は、それぞれ「リンク」で繋いでいます。

 (「ケーブル」による頁)、(「Yahoo!ジオシティーズ」による頁 ←「Yahoo!ジオシティーズのindex」は、ここクリック)

≠竍≠はじめとして、私の「ホームページ」における マーク@゙ のほとんどは、 [お菊巧芸] を利用させていただいています。
『お菊巧芸』の素材は全てフリーです。遠慮無くお持ち帰りの上、ガシガシお使い下さい。とありますが、
 私としては、「メール」で、使わせていただくことを「連絡」もしています。



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この一見、奇異に思われるかもしれない「山口県土井ヶ浜遺跡」「萩焼」の組み合わせですが、しかし、この二つには共通点があります。
つまり、
@ 私の父=「河野英男」が係わったものであるということ (「土井ヶ浜」の「人骨」が元寇の時のものではなく、「日本人のもの」と初めて認識/「萩焼」の「昭和31年」における「重要無形文化財(人間国宝)」への「指定申請」を係として担当) と、
A 事実≠ェ伝えられていないということです。

私のささやかな「調査・研究」の出発点≠ヘ、始めに誤りありきなのです。 
「土井ヶ浜遺跡」については、ありがたいことに私の「調査」を取り入れていただいている面もいくらかはありますが、「萩焼」については、「訂正」を関係者に求めても、まったく訂正≠フ動きを見せないという現状にあって、「ホームページ」という多くの人に直接¢iえかける方法を見つけました。
「ホームページ」の作成は、「本」を紐解きながらの素人学習≠ナすので、見苦しい点も多々あるとは思いますが、おつきあい願えればうれしく思います。


◆ 考古学に一般人≠フ関与が意味を持っていた頃の「土井ヶ浜遺跡」

「江戸時代」の『防長風土注進案』に記録≠ェあるの代表として、
過去に幾度となく出土していたという「人骨」を、
元寇≠フ時の「蒙古人の骨」だとして、忌んでいたのに対し、
「昭和6年3月」の出土の際、
「箱式石棺」の中にあったことを確認し、
当時の人達に博愛主義%Iに、攻め入ってきた蒙古人の戦死者を丁重に葬ることを期待するのは非現実的≠セとして、
「日本人」のものだと確信した「河野英男」から
山口県豊北町(平成17年から 下関市)にある「土井ヶ浜遺跡」の発見・発掘史≠ェ始まるのですが、「金関発掘調査」に至る功労者=♂q藤和行氏のことを含めて、「英男の三男」である「私」が、調べ直すまでは、正確≠ネことが伝えられていませんでした

この「ホームページ」において、「考古学」が今日の開発考古学
(開発が先行し、遺跡らしきものが出てくると、工事は中止され、発掘を優先、その発掘完了後、工事の再開が許可されるというシステムに伴う)
と違い、 まだ「考古学」が、偶然≠ノ左右され、一般人≠フ関与が意味を持っていた頃の一つの例
として、発見・発掘≠フありようを語ります。






◆ 流布している「萩焼の歴史」のどこが事実≠ニ違うか?


構 成
(「下線部」をクリック≠キると、該当部へ飛びます。)



@ 最も詳しい≠ゥら最も困る=w萩焼人国記』の記述

困ったことに、現在一流≠ニされる「マスメディア」によって流布≠オている「萩焼の歴史」(それも、たかだか「昭和20年代後半以後」のことで、かつ、文化史%Iにも意味があることのはずなのに)少なからず=A事実≠踏まえていません。
詳しくは、後に綴るとして、現在、最も困るのは、最も詳しいから∞とんでもない間違い≠ェ少なくない『萩焼人国記』なる書籍 (左はその表紙の写真)中でも「休和物語」に語られている休和氏のこと及び関連して記述している「萩焼の歴史」についてです。

しかも、この『書籍』は、一流紙≠ニされている「朝日新聞」の記者が、山口県立美術館長=E専門学芸員=E山口県埋蔵文化財センターの次長≠ニいった公的な立場≠ノある人達の「全面的な協力」を受け 、更には、記者自身が、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守ったとまで「あとがき」に書いて出版された書籍なのです。

─── 最高のスタッフ≠ノよって執筆されていれば事実≠謔閧燉D先されるのか?──────

一流紙≠ニされている「朝日新聞」の記者が、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守ったと「あとがき」に書き、山口県立美術館長=E専門学芸員∞公的な立場にあって、現在流布している「萩焼」関係の出版物の大半を執筆している河野良輔氏や榎本徹氏( 「専門学芸員」、「山口県立美術館の副館長」を経て、現在は「岐阜県現代陶芸美術館長」として、「萩焼」のみならず、「陶芸」全般の専門家として陶芸界をリード≠キる立場におられます) の全面的な協力のもとに執筆されているわけですから、その影響≠ヘ小さくはないのです。
その影響≠スるや、 「朝日新聞社東京本社」の「広報部」すら、私が事実≠確認するように依頼し、せめて、白石氏から「不十分な点があったことを認めざるをえない」という言質を引き出したいと願ったのに、その「回答」には、「・・・河野良輔さんに取材しています。したがいまして、記事内容の訂正の必要はないと判断いたしております。」としていることが端的に示しています。
肩書≠竍権威≠ノ寄り掛からず、真実≠追求するはず「新聞社」に取っては、自殺行為のようなことを平気≠ナ書き送ってきたのです。

なによりも、「朝日新聞社」は、「伝統工芸展」に当初から係わり、多くの貴重な「資料」を持っているのです。河野良輔氏や榎本氏の「証言」の誤り≠証明≠キることが「朝日新聞」ならできるのにです。
私のこの[HOMEPAGE]も、その「朝日新聞」から、その「資料」の一部を提供していただいています。
かつての「朝日新聞」の良識はどうなったのだろうと、私は思うのです。
事実よりも、まるで、良輔氏らの「証言」の方が絶対≠ナあるかのごとく、あがめ=Aまさに、全面的に寄りかかり@ヌ輔氏らの「証言」を鵜呑み≠ノしているかの感があるのは哀しい=u二十世紀末〜二十一世紀」の一流紙≠フ実態だということをここに残さざるをえないのでしょうか。

「朝日新聞」がこのようですし、「山口県立美術館」(現在は、「山口県立萩美術館・浦上記念館」の方に「陶芸」関係は移っています)の情報≠熈誤り≠ェあるのです。
また、[HOME PAGE]においては、様々な誤り≠ェあります。その幾つかには「連絡」がつき、その中の幾つかは訂正していただけたのですが、最高のスタッフ≠ノよる「書籍」を踏まえているのだと、反撃されることもあります。
「山口県文化振興課」(このページの下にそのことを述べています)にも当面≠ヘ、訂正のために動こうとはしてもらえぬ現在、形としては、最高のスタッフ≠フ不十分な調査≠フ実態、おかしさ≠述べざるを得ないと言うことを、以下、述べていくことに、理解していただけるとありがたいと思います。 

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 まず第一に知ってほしい≠アとは、「昭和31年」に、「萩焼」から、「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」に12代坂倉新兵衛氏、三輪休和氏という二人の同時申請を担当した私の父=英男が、「朝日新聞山口版」に掲載当時、白石記者に、「間違っている」、「せめて資料≠セけでもみてほしい」といったにもかかわらず、「その必要を認めない」と拒絶しながら、既述のように、あとがき≠ノ「記者の鉄則≠守った」と広言≠オて出版されていることです。
「朝日新聞広報部」が口を極めてほめそやす河野良輔氏自身、はっきり言って、十分な調査をされず、「朝日新聞」広報部のいうように、「一般書から専門書に至るまで、萩焼に関する著書を数多く著して」おられるのですから、それが「新聞記者」の手で拡大≠ウれているのも一面においては、白石氏の誤り≠フ少なくない記述も、致し方ないかもしれません。

─── 「昭和42年〜44年」における父=英男───────────────────────

[昭和42年〜昭和44年]といえば、父=英男は、[山口市立大殿小学校]の校長として、[山口県教育庁]とさほど離れていないところで勤務しており、42年11月からは、「山口県小学校長会」の第九代会長の職にあったわけで、「糖尿病」の治療中であったとはいえ、まったく健康人≠ニ変わりない日常生活を送っていたのです。
10年ばかり≠フ「時」の経過があり、中に何人≠ゥが挟まってはいるものの、まずありえない≠アとなのに、例えば、「工芸会山口支部」の引き継ぎの書類の場合は、「事務局」に、唯一冊の黒表紙の金銭出納簿のみであった。言い切る河野良輔氏ですが、「萩焼」のこれまでの経過≠確認する気≠ェありさえすれば、いくらでもその機会≠ヘあったのですが、なぜか、一度も接触しようとはされなかったのです。
事実≠ニして、父=英男が「小学校長」として転任して以降、「陶芸」に詳しい人物は、「山口県教育庁」にはおられませんでした。
とても、「陶芸」に詳しいだけで勤まるような職ではなかったのです。
「陶芸」だけで職にあったのは、「山口県立美術館」の開館に伴って採用された榎本 徹氏が最初だったのです。
[昭和44年4月]に退職して以降にしても、隣の「防府市」に住んでいたのですから、話を聞こうとされればなんら差し障りはなかったのです。
このような状況の中で、なぜ、河野良輔氏が、話を聞こうとされず、「萩焼」の執筆をされたのかは、私には疑問です。(当然、三輪休和氏からは聞かれたでしょうが、休和氏が言われたとはとても思えないようなことも少なくないのです。別の「ページ」で述べていますが、[師範学校]出身で、[社会教育課課長補佐]の後は教育現場≠ノ転ずることになった父=英男と異なり、「佐賀県」にあって、早くから「文化財行政」に携わられ、旧「無形文化財」としての「今泉今右衛門」氏、更にはその「今右衛門」氏、「酒井田柿右衛門」氏、「中里無庵」氏の「記録選択」を経ての「重要無形文化財」に至る世話をされ、その生涯の大半を「陶芸」に尽くされ「小山冨士夫賞」を受賞されている永竹威氏にさえ、勘違い・記憶違い≠ェあるのですから、可能な限り、情報≠集め、真偽≠確認すべきだと思うのです。)

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しかし、白石氏があとがき≠ノ「記者の鉄則≠守った」と広言するにせよ、しないにせよ、せめて、取材≠セけはすべきではないでしょうか。
そもそも、「記者の鉄則=vという「足による取材」とは、私は、一見、不要とも思われること≠ノも、「取材」だけはしてみて、その上で、不必要と思われれば切り捨てる≠ニいう姿勢≠いうのだと思っています。 そして、その上で、良輔氏や榎本氏の証言≠フ方がやはり正しい≠ニ判断されるのなら、何もいうことはないのです。
直接の担当者≠ェ誤り≠ェあるとして、「資料」をみてほしいという要望さえ拒絶しておいて、なにが「記者」の鉄則≠ヘ守ったでしょう。

父=英男がお手伝いして道筋≠つけ、それが、10年′縺A休和氏の「記録作成」がなされる時に、その作業に「陶芸」には素人≠ナあったと自他共に証言されている良輔氏ですが、その「記録作成」以後は、「萩焼」に一番深く係わられ≠ワさに権威者といってもよいのですが、それ以前≠フことについては大いに疑問≠ェあるのです。
ましてや、私より若く、県外に育った榎本氏が、その当時のことを正確に証言≠オたり、直接記述するためには、調査・取材≠ネくしてはできるはずはないのです。

「昭和30年代当初」のことにも通じておられる権威者を中央≠ゥらお招きし、その権威者≠フ前で、良輔氏と同じテーブル≠ノつかせていただき、「萩焼の歴史」を再検討≠キる機会を「知事への提言」において、お願いしたのですが、それが果たされないまま、良輔氏はお亡くなりになりました。
 「朝日新聞」が、「山口版」に追悼記事を掲げていますが、その中で、ある萩焼作家の言葉として 萩焼を世界のブランドに押し上げるために尽力した、不世出の人物だ。≠ニ記事にしていましたが、正直なところ、私は「萩焼」に限らず、「文化財行政」において功≠セけではなかったと思っています。

良輔氏の個人的な執筆≠ノも、誤り≠ェあるのですが、白石氏に情報提供≠オ、その「朝日新聞」が、事実≠確認することをせず、河野良輔さんに取材しています。したがいまして、記事内容の訂正の必要はないと判断いたしております。≠ニまで信頼≠ウれて、それに白石氏の思い≠込めて、出版されている事実≠ニはかけ離れた「萩焼の歴史」を放置≠オて、「後世」に伝えることは許せない≠ニ思うのです。
 『萩焼人国記』を「公立図書館」は貴重書∴オいをしていますし、「古書市場」でも、ネット≠ナ見ますと、「昭和58年10月30日」に、「定価=1500円」で発行されたのに対して、「平成19年8月15日現在」、6冊でており、[1050円]・[2500円]・[2800円]・[4600円]・[4800円]・[8000円]と、極めて高い評価≠されているのです。





A 「萩焼」の歩みは、「日本陶芸史」の典型≠ニしての歩みであるはず

ところで、この「萩焼の歴史」を正す≠アとにどんな意味があるのかということですが、
いわば日本文化史=E日本陶芸史≠ノおいて、 事実≠ニして画期的な*割を果たした
「文化財保護法」によって設けられた「無形文化財」の制度
及びその「保護法」にある公開≠フ場としての「日本伝統工芸展」の
典型としてのありよう
証言する≠アとに繋がる
ということです。

残念ながらというか、あきれたことにというか、「萩焼」の場合に限らず、「陶芸」全般≠フ「歩み」について、著名な方スラ≠焉A
この「無形文化財」を軸とした「陶芸」の歩み≠ノついて、
正確な執筆≠なされていない方が何人もおられるという現実≠ェあるのですから、この「萩焼の歴史」を正す≠アとは意味あること≠ニ思うのです。
それに、「山口県」・「萩焼」に限ってみても、12代坂倉新兵衛氏の位置づけ≠ヘおかしく、のみならず、新兵衛氏は、不当に貶められ≠トいるのです。
[『萩焼人国記』196頁]

調べる気≠ェありさえすれば誰にでもわかる=u事実」を少しだけ述べ、その他のことは後に詳しく述べたいと思います。  まず、良輔氏によって、休和氏の出発点≠ニされる「第三回日本伝統工芸展」の説明≠キら大間違い≠ネのです。
まず、休和氏の「入選作品」ですが、右の「茶碗」は「平£碗」ですか?
休和氏自身が「井戸茶碗」と書き残しておられるのにです。
平成18年10月刊の『週刊朝日百科 人間国宝22 工芸技術・陶芸 三輪休和・三輪壽雪・中里無庵』においても、榎本徹氏(現「岐阜県現代陶芸美術館長」)は、あいかわらず「井戸茶碗」としています。 (榎本氏には、直接、『図録』の写真を見せたことがあるのにです。)
榎本氏の後任≠ニもいうべき山口県立萩美術館の石ア泰之にも、「メール」で、三輪壽雪氏に関する石ア氏の執筆にも「問題・誤り」があることを伝え、広く、「萩焼の歴史」は、調べ直す必要があると伝えましたが、反応≠ェありませんでした。
ただ、平成21年5月12日、アポ≠ネしで、「萩美術館」を訪問し、上田秀夫館長、尾崎 裕副館長に会っていただき、その後、尾崎副館長の配慮で、平成21年7月21日に、石ア氏と話す機会ができ、検討するという答を、いただきましたが、まだ、としては現れていません。

平成24年7月11日」、「山口県文化振興課」原田一生主幹・野村雅子主査立ち会いのモトで、
石ア泰之氏が、「萩焼の歴史」の「修正」に関して、3#N間、何もしておらず、今後も期待できないことを「確認」しました。
残念なことに、そのことに関して、「山口県文化振興課」としての「指示・指導」はありませんでした。
その後、嘉村 靖課長にも、「指導・助言」するよう、依頼しましたが、ダメでした。
平成19年」における吉野道久課長の、
「山口県として、後世≠ノ「萩焼の正しい歴史」が語り継がれるようにしていただけませんでしょうか。」との御提言ですが、本県の誇るべき陶芸文化である萩焼につきましては、その歴史も含めて後世に伝えていかなければならないと考えております。
今後とも萩焼に関する調査研究を継続して行うこととしておりますので、ご理解・ご協力の程よろしくお願いします。(5月14日)
・平成22年の開館に向けて、萩美術館・浦上記念館の隣接地に萩焼をはじめとする陶芸作品の展示施設の整備を進めており、開館後は、ここを中心として萩焼に関する調査研究を進めていきたいと考えております。(11月21日)
といった言葉は、少なくとも=A現在まででは、空しい≠烽フということです。     (嘉村氏は、吉野課長時代から、「文化振興課」在籍でした。)

のみならず、「萩美術館 陶芸館」に設置されている「萩焼の歴史」に関する「ビデオ」には、私は、すこしばかり疑問を持っていることを指摘しておきます。
さらに、私が、石ア氏の現時点≠ナの「萩焼の歴史」の認識にも、当然疑問を持っていることも記しておきます
なお、石ア氏が、私のこの指摘に、抗議されることを期待してします。
なぜなら、当然=A抗議のタメには、石ア氏ので、「萩焼の歴史」の是正取り組まざるをえないことになり、私にいわせれば、当然、私の「指摘」していることを「確認」せざるを得なくなるハズ確信するカラです。

ただし、最初≠フ「メールの返信」に、
平素から当館事業にご関心をお寄せいただきありがとうございます。
何度かご連絡をいただきながら、あいにく不在にしておりましたようで失礼いたしました。
お問い合わせについては、下記のアドレスにいただきたく存じます。
浅学ゆえご満足いただける内容の回答ができますかどうかわかりませんが、どうぞお気軽にお尋ねください。
なお、所用にて不在のこともたびたびございますので、回答時期に際しては時間的な猶予をご配慮いただければ幸いです。
とあったものの、この最初≠フ「返信メール」が最後≠フ「メール」であったこととて、放っておくということになると思います。

榎本氏にも、「岐阜県現代陶芸美術館」「サイト」に、 三輪休和氏と11代 三輪休雪氏の「解説」同じものであったというケアレスミスを指摘した際、すぐに=u対応」してくださった「担当者」に、榎本氏に、私が「萩焼」及び「戸田焼」「批判」的なことを記していること、及びせめて=u検討している」ということを言ってもらうように、伝えてほしい依頼し、「必ず、伝えます」とあったものの、何等の「連絡」がないママ経過しています。

この「昭和二、三十年代」を中心≠ニする「萩焼」の「あゆみ」は、単に=A「萩焼」の問題ではなく、「日本文化史」・「陶芸史」においても、典型≠ニしての「歩み」ですので、「肩書」のある人物への無批判∞≠ナ機械的≠ネ「引用」で済ますか、「名もないもの」の指摘でも、せめて事実≠ゥどうかは「確認」してみようとするかは、「後世」の「研究者」委ねたいと思います。
(「資料」は、「国立国会図書館」「山口県文書館」等にあり、その気に≠ネれば、いくらでも「確認」可能です。)


ただ、『山口県史』において、「萩焼」をも、対象にする可能性がでてきたと聞いています
このことは、「歴史研究者」によって、事実≠ノ基づく「萩焼の歴史」が記述されるということですから、ありがたい≠アとと思います。
『山口県史』という権威は、一時的「肩書」という権威よりは、はるかに¥氓驛nズですから。

「野村望東尼」の場合でも、無批判∞≠ナ機械的≠ネ「引用」がされてきたという残念な=u実例」があるのですから、ぜひ、『山口県史』において、「萩焼」対象にするということが実現してほしいと思います。
(「土井ヶ浜遺跡」『山口県史』におすいて、取り上げられ、私のささやかな=u研究」にも配慮していただいていることから、「萩焼」をも対象とする計画を尋ねたことがありますが、そのときは、「今の段階では、なんとも言えない。」ということでした。)







B そもそも=u日本伝統工芸展」についての認識≠ェおかしい!

さらに、この「伝統工芸展」の歩み≠ニ出展資格≠フ説明がおかしいということをいわねばなりません。
「第三回工芸展」の『図録』さえ目を通していればわかる≠アとなのにです。
冒頭の 「日本伝統工芸展開催趣旨」 に、
昭和二十六年文化財保護法が施行され、これらわが国の工芸のうち、歴史上もしくは芸術的に価値の高いものを国として保護することとなり、昭和二十九年七月重要無形文化財指定の制度が設けられた。また国家指定をうけている工芸技術の保護者を中心として、昨昭和三十年八月社団法人日本工芸会が結成されたが、日本工芸会は、陶磁、染織、漆芸、金工、木竹工、人形、其他の工芸作家を網羅した、伝統的な工芸作家の最も大きな集団である。
昨年は第二回総合展覧会を催して好評を博したが、このたびは正会員支部会員の外に会員紹介の作家の作品を厳選して、第三回展を開らく運びとなった。 出陳の作品は伝統的なわが国工芸のうちでも優れたものであるが歳とともにわれわれは更に水準を高めることを期している。
とあるのです。
にもかかわらず、「第三回展」を公募≠セと言い切って「萩焼の歴史」を創り上げて≠「るのです。
「第一回展」、「第二回展」、「第三回展」の『図録』は、いずれも次に「リンク」によってみることができるようにしています。

 結論的に言うと、「第一回展」は、旧「無形文化財」の人達だけ≠フ作品及び作業工程(ごく一部ですが)を展示したものであり、
「第二回展」は、「日本工芸会」の「正会員」「支部会員」が対象でした。
そして、「第三回展」です。
上に記したように、「日本伝統工芸展開催趣旨」には、会員紹介の作家≠ニありますが、
正式には「理事又は正会員の推薦」による出展
でした。
このことは『図録』の「出品者住所録」には、其・・理事又は正会員名の推せんという「註」のもと、「其」として、「萩焼」の二人と、雲雀民雄、北出藤雄の各氏が記されていますし、「工芸会報」にも明記≠オてあるのです。






C 小山冨士夫先生の「来県調査」あっての「萩焼」の歩み

「萩焼の二人」が出展したのは、「無形文化財」制度の「陶芸関係」の実質責任者であった[文部技官=小山冨士夫先生]の推薦によるものです。
小山先生は「工芸会」の「理事」でもあり、実質的な「工芸展」の責任者といってもよい立場にありました。


「萩焼」は、「日本工芸会」の発足時、誘ってはもらえていません。
旧「無形文化財」に申請し認定されており、「無形文化財」の「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」としても認定された荒川豊蔵氏、金重陶陽氏は
当然、「日本工芸会」の有力メンバーであったのですが、その両氏から、「からひね会」の仲間であった休和氏にも誘い≠ヘなかったようです。

二人の「日本伝統工芸展」への出展が可能になったのは、「山口県」として(それは、父=河野英男の仕事でもありましたが)、2人を「人間国宝」への指定申請をし、小山先生に力≠見ていただいたことがきっかけなのです。






左の写真は、小山先生の「来県調査」の時、当時の休和邸(晩年は、「松陰神社」前に新築され、住んでおられました)で撮影したもの。
中央が小山先生であり、右端が休和氏、左端が弟の現三輪壽雪氏です。

  当時、認められていなかった萩焼≠フ「人間国宝」への指定申請のための「来県調査」によって、新兵衛氏、休和氏の力≠ノ驚かれた小山先生が、人間国宝相当≠ニ評価≠ウれ、その力≠全国的に認知≠オてもらえうるよう、まだ未発表≠ナはあったものの、この年の秋開催の「第三回展」は、「理事または正会員」の推薦によって出展が可能にすることから、小山先生は「第三回工芸展」への出展し、来るべき「無形文化財」指定に備えるよう促されたがゆえに可能になったのです。
 (「第三回日本伝統工芸展」において、「工芸会」以外の陶工にも理事または正会員≠フ推薦≠ノよって、「出品」の機会があることを正式に#ュ表するのは、2ヶ月後≠フ「8月10日発行」の『工芸会報』=bP=においてです。)

 つまり、「萩焼の2人」にとっては、「日本伝統工芸展」によって認められたのではなく、「日本伝統工芸展」は、当時=Aまだ、力≠知られていなかった二人≠ェ、全国≠ノその力≠アピールした「場」なのです。



「左」は、ご子息からいただいた晩年の小山先生の「写真」です。
先生にとっては、「萩焼史の中」の一コマ≠ヘ問題にもならないでしょうが、「萩焼の歴史」においては、忘れてはいけないはずなのです。

休和氏が知らせて来られた「はがき」に、三越の方は一号井戸茶碗が入選でした。・・・恐らく一種目では一点丈の入選ではないかと思ひます
とあるのは一見、不遜≠ノも見えますが、
最高権威者≠スる小山先生のお薦めのモト、「工芸展」への出展・応募の「目的」からして、当然≠ニもいえ、落選≠フ不安などはなかったのです。
事実=A休和氏は、『図録』を手に、「1作品のみ」と思われたのですが、実際に、「三越」の会場に行ってみると、新兵衛氏ともども2点ずつ出展された2点共≠ェ入選していたのです。
しかも、上記の「第3回日本伝統工芸展」の『図録』という「リンク」で確認していただきたいのですが、両氏の扱い≠ヘ2・3頁≠フ見開きに、「人間国宝」の方々及び若い逸材=清水卯一氏≠フ「作品」と共に、大振り≠ノ掲載されているという、破格≠フものだったのです。)
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(清水氏の作品が『図録』の2頁目≠ノ掲載されているということこそ、『第3回工芸展図録』が、同じ「入選」にも、評価の差≠ェわかるように掲載されていたということの証拠≠セと思います。
清水氏は、石黒宗麿氏のお弟子さんで、この昭和31年の時は丁度30歳≠ニ、極端に若かったのですが、小山先生がかねがね、父=英男に、有望≠ネ陶工として語っておられた方でした。
この『図録』での扱い≠「証明」するかのように
「萩焼」のお二人が「記録作成」に選択されたことを受けて、当然≠フように、翌32年に、「工芸会正会員」になられた際、同時に清水氏は「正会員」に推挙されておられます。
清水氏は、「正会員」になられた直後≠フ「第4回工芸展」での「授賞候補」(「優秀賞」及びこの「第4回展」から設けられた「奨励賞」の候補としての5作品のうち=「工芸会報bP0」に記録があります)になられたのをかわきりに、「第5回工芸展」で「奨励賞」、「第7回工芸展」で「優秀賞」、「第9回工芸展」でも再び「優秀賞」、更に、「第20回工芸展」では「20周年記念特別賞」を受けておられるというように、小山先生の期待に違わぬ歩み≠されたのです。
「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」にも、昭和60(1985)年に、59歳で認定されておられるだけでなく、国際的にも活躍されていながら、決して驕られず、暖かさを感じさせてくださる方で、見ず知らずの私がかけた突然の電話にも、ご自身が直接出てこられ、いささか長すぎたなと後で反省するような時間であるにもかかわらず、終始、なごやかに対応してくださった方なのです。

繰り返しますが、初出展≠フ「萩焼の二人」の「作品」は、単に、「初出展・初入選」ということにとどまらず、衝撃的なデビュー≠ナあったということを、『第3回工芸展図録』は、記録≠ニして残しているということです。)
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「来県調査」を自費≠ナしていただいた時、小山先生は、「新兵衛氏の指定をまず考慮したい」と言われていた(「下」にスキャナ≠ナ取り込んでいる「手紙」としても残っており、その「手紙」は、現在「山口県文書館」に寄贈してあります。)のですが、残念ながら「記録選択」に留まりました。
平成19年に広島県三次市にある「奥田元宋・小由女美術館」で開かれた「川喜多半泥子と人間国宝たち展」においては、既に岐阜に移られていながら、その「企画展」の中心的な役割をはたされている榎本氏は、三輪休和氏の「略年譜」において、
小山先生のことは、
[1971年 昭和46年]
  日本工芸会主催「萩焼研修会」の講師を委嘱される。
  小山冨士夫が来訪する。
と、申し訳程度に、しかも、既に休和氏が「人間国宝」になられた後に、単なる訪問者≠ニして記しているだけであることからもわかるように、小山先生が、「萩焼の歩み=vに深く係わってくださっていることをまったく知らない≠ナ、「萩焼の歴史」を創っているのです。 

「昭和30年」の「全日本産業工芸展」における入賞≠「記録選択」の前提としていますが、まったく関係のないことです。
しかも、その入賞≠「会長賞」としているのには疑問があります。
榎本氏は、「休和遺作展」における『図説』の中で、
「昭和三二年三月と八月にはさまれて、自筆の履歴書がとじこまれている。昭和三四年の記述まであるので、おそらく三五年に作成されたものであろう。その前半は以下のとおりである。」として、
縣立萩中学校卒業 ・・・・
一、昭和三十年九月全日本産業工芸展(丸技作家限定作品展) ニ於テ會長賞ニ刷毛目抹茶碗入賞 (個人受賞最高位) ・・・
とあるのが根拠だと言います。
しかし、本当に休和氏の自筆≠ネのでしょうか。
第一、この自筆の履歴書≠フ書き出しは、縣立萩中学校卒業≠ナ始まっていると、榎本氏は書いているのです。
しかし、休和氏は、家業を継ぐために、「中退」させられることで、「陶芸」の道に入られたことは、周知≠フことのはずです。
英男のもとに残る休和氏の「はがき」も参考になるはずです。
それが「会長賞」であったとしても、小山先生は「来県調査」をなかなか承知してくださらなかったという事実≠焉A後ほど述べます。

とにかく、河野良輔氏や榎本氏は、この「記録選択」に認定されたという意味≠まったく理解していないで、執筆しているのです。
河野良輔氏は、その著作にこの「昭和30年前後」の作品をほとんど無視しておられるし、白石氏の手にかかると、作家としての個性を備えた休和芸術が開花するのは、最後の十年間
(注 86歳で亡くなられているため、76歳以後の作品ということになるのだろうか。もっとも、休和氏は最晩年には作品を作っておられない) 足らずにすぎない(214頁14・15行目)ということになるのです。
もしそうなら、文化財保護委員会は、「休和芸術」が未完成≠フ段階で、「記録作成」の完了を指示したことになりますし、現在の最高権威者=林屋晴三氏の休和作品の選択≠熈おかしい≠ニいうことになります。

 
そして、何よりも困るのは、小山先生によって「人間国宝」への認定を考慮するとされていた新兵衛氏を平凡≠ニ切って捨て「人間国宝」に申請したことを間違いである≠ゥのように記述していることです。

 この「手紙」は、現在、「山口県文書館」に[河野英男収集文書][bX3]として整理されています。

当時=A「萩焼の第一人者」は間違いなく≠P2代坂倉新兵衛氏でした。
このことは、「朝日新聞西部本社学芸部長」であった源 弘道氏も明言≠ウれ、「新兵衛が第一であったことは常識≠セよ。白石君に教えてやるものはいなかったのかなぁ。」と言われていることです。
しかし、旧「無形文化財」の人達を見て、
「萩焼」以外においては、既に新兵衛氏の次の世代≠フ人達が中心≠ノなっていることを痛感した父=英男が、
新「無形文化財」制度において、次の世代≠ナ、かつ、新兵衛氏に匹敵≠キる陶工・陶芸家として、三輪休和氏を「同時申請」した
のですが、
二人とも「記録選択」にとどまり、
その後、休和氏が、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」に昇格≠オてくださったのだということを誤解≠オて、
昭和30年前後に、既に、新兵衛氏よりも休和氏の方が優れていたかのように、記録され、
12代坂倉新兵衛氏を、平凡と切って捨てられたママ、後世にまで残ってしまうことは、黙視できないのです。
ツマリ、同時申請をしていなかったら、間違いなく河野良輔氏にせよ、榎本 徹氏にせよ、まず、新兵衛氏を語り、そして、休和氏を語るor「証言」することになったハズだからです。
江戸時代からの「伝統窯」の陶工・陶芸家にとっては、ひたすら技≠磨くことが目標≠ナした。
「日本伝統工芸展」という場≠ナ、競う≠セけの時≠ェ持てず、昭和35年には亡くなられた新兵衛氏に、意匠性≠ニか芸術性≠求めるのはおかしいとは思われませんか。


左の茶碗は「第3回日本伝統工芸展」の『図録』に載っていたものです。(休和氏同様、出展した2点共入選しておられます。)





D 三輪休和氏はありのまま≠ナ立派な方=I

 時代的にも、数少ない意欲的な作品≠高額≠ナも購入しようとする陶芸愛好家の出現という背景ができるのを新兵衛氏は待つことなく、亡くなられたのです。
それなのに、三輪休和氏を持ち上げる≠スめに、新兵衛氏が貶められる≠フは許せないのです。
それに、休和氏は、ありのままの休和℃≠ナ、十二分に、立派な人格者であったのです。





E 「記録選択」ということ─「人間国宝」のプール>

更に問題≠ヘ、「無形文化財」の制度を正しく$燒セしている書籍が極めて少ないことです。
 そのことを、「山口県」の「県立美術館」が発信したとんでもない情報を紹介することで示しましょう。
平成15(2003)年、「日本伝統工芸展50年記念展わざの美=vが各地で開催され、「山口県立美術館」でも開催されましたが、
入場者全員に渡された「B5」の「パンフレット」につけられた説明文には、あきれたことに、こうあるのです。

「日本伝統工芸展」が昭和二十九年(1954)に最初に開催されてから、今年で五十年目を迎えます。
同展は、昭和二十五年(1950)年に制定された文化財保護法によって制度化されて間もない重要無形文化財保持者(人間国宝)の作品を紹介する目的で開催されました。
間もなく全国規模の公募展となり、全国の工芸作家たちの発表の場として、戦後日本の工芸に大きな役割を果たしてきました。
以下省略 (但し、後に、全文を紹介しています。)

この「パンフレット」には明らかに∞あきれるような=u間違い」があることがおわかりでしょうか。

@ 「第1回」の「工芸展」は、旧「無形文化財」の人たちの技を公開するためのものであって、「重要無形文化財保持者」のものではないし、
A なによりも、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の制度は、「第一回展」の時にはなかったのです。
つまり、旧「無形文化財」の制度と新制度をゴッチャにしているのです。
B 間もなく全国規模の公募展となり≠ニありますが、間もなく≠ナはありません。

正式の「公募展」になったのは、「第七回展」からです。
この公募展≠ノ至るまでの「歩み」は、正確に≠スどられるべきものなのです。

更に旧「無形文化財」につけられていた2つ≠フ修飾語についても語らねば「萩焼の歴史」は完成しないと思います。

「文化財保護法」の制定に伴い設けられた「無形文化財」制度には、当初=A修飾語が2つ≠ツいていました。
つまり、特に価値の高いもの≠ニ国が保護しなければ衰亡する虞のあるものとの2つ≠ナす。

『文化財要覧昭和二十六年版』(文化財保護委員会)
『文化財保護法』第四章 無形文化財
(助成)
第六十七條  無形文化財のうち特に価値の高いもの で 国が保護しなければ衰亡する虞のあるものについては、委員会は、その保存に当ることを適当と認める者に対し、補助金を交付し、又は資材のあつ旋その他適当な助成の措置を講じなければならない。

このように、旧「無形文化財」の制度は、衰亡の虞≠ェなければ、つまり、助成≠オてもらわなければ、やめてしまいかねない≠ニいう状況≠ノあることを前提としなければ申請できないはずでした。
しかし、この衰亡の虞≠ェあるという条件≠フことは、「萩焼」に限らず、一流≠ニされる方々の執筆による、『陶芸関係の出版物』のほとんどで触れられていません。
のみならず、この衰亡の虞≠ェあるという条件≠フもとに認定された「無形文化財」制度を、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」と同じ≠ナあるかのごとく記述している一流出版社≠フ刊行した『書物』が幾つもあります。
この衰亡の虞≠ェあるという条件≠真摯≠ノ受け止め、「申請」しなかった「山口県」・「当時の第一人者=12代坂倉新兵衛」のことを述べない「萩焼の歴史」はありえないはずです。
そもそもこの衰亡の虞≠ネるものは、はなはだ主観的な≠烽フでした。
私は、認定された方々はもはや「昭和20年代後半」には、衰亡の虞≠ヘなくなっていた方々であったと個人的には思っています。
(例えば、三輪休和氏の『窯日誌』の記述の中にも、「昭和二○年には二月の一回だった窯焚きが、翌二一年からは年二回のペースとなり、昭和二六年からは、年三回のペースになる。」とあります。)
石黒宗麿氏の場合は、その豪放な生き方≠ゥらして、俳優の勝新太郎氏や藤山寛美氏に借金があったから&nしいというのに似たようなところがあります。
富本憲吉氏の場合は、白石氏は、小山先生の文をもとに、生活に困っていたとしていますが東京国立近代美術館工芸課長であった杉原信彦氏は、(旧「無形文化財」の認定された中には)富本さんは入っていませんね。国で保護しなくても衰亡の恐れがないから。」と、既に富本氏が不遇な生活≠ゥら脱していたことを証言しておられます。
とかく、旧「無形文化財」の人達については、特に価値の高いもの≠ニいう条件≠フみが強調され、一流出版≠フ『出版物』においても、「人間国宝」と誤解≠ウれて記されています。 (加藤唐九郎氏についての解説の場合が特に目立ちます。)

そして、更なる「問題」は、「記録選択」については、ほとんど触れられていないことです。
衰亡の虞≠ニいう曖昧≠ネ条件≠フゆえに、真に実力≠問題にして改正されたのが
「重要無形文化財(俗称 人間国宝)」と「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」の制度でした。
それなのに、旧「無形文化財」でありかつ新「記録選択」であった宇野宗甕氏について、先年放映された、「なんでも鑑定団」という「テレビ」の宗甕氏の紹介では、
旧「無形文化財」であったことにしかふれませんでした。
(宗甕氏は、「人間国宝」にはならないママで亡くなられています。)
そこで、新兵衛氏同様、旧「無形文化財」ではなくて、新「無形文化財」制度のもとで、「記録選択」のママ亡くなられた12代酒井田柿右衛門氏を例に、「記録選択」が諸事情のため枠≠フあった「人間国宝」の候補者≠ニしてプール≠ウれた方々であったということを述べたいと思います。
(もっとも、本来の=u記録選択」という方・「窯」もありますが。)
この「プール」という考えは、平泉等で不滅の実績を残された藤島亥治郎東大名誉教授への面会の時の博士の言葉をヒントに、小山冨士夫先生の書簡類を基に、私が考えたものであり、林屋晴三先生には疑問を呈されましたが、鈴木健二先生には認めていただいたものです。)   

 「佐賀県」は面白い動き≠したと思います。
衰亡の虞≠ェあるとして、今泉今右衛門氏のみを申請しているからです。
その結果、酒井田柿右衛門氏、中里無庵氏は、旧「無形文化財」ではありません
中里氏が申請しなかったのは、そういう制度をしらなかったからと思うと無庵氏のご遺族からお聞きしました。
柿右衛門氏については、証言をえることができず、あとに述べるような事情で、聞いてもわかるまいと判断しました。

ここでは、酒井田柿右衛門氏を例に、新「無形文化財」のもとでの「記録選択」について触れましょう。
[12代]は、「人間国宝」には認定されず、[13代]が「人間国宝」(総合指定)に認定されています。(総合指定)の場合は、「人間国宝」とは呼ばないということになっているようですが、私は、昭和50年における「文化財保護法」の一部改正以前における、12代 今泉今右衞門氏の窯と、13代 酒井田柿右衞門氏の窯の場合は、「人間国宝」と同様に扱うべきだと思っています。を参照)
 しかし、12代 酒井田柿右衞門の場合も、もう少し$カきておられれば、認定の可能性があったと私は℃vいます。
このことを述べるには、かなりのスペースがいりますので、次の「リンク」を先にみていただきたいと思います。

「柿右衛門」三代 −「記録選択」がプール≠ナあったとする推定の根拠の一つとして

ここで、モトに戻って、先を続けましょう。
「山口県」の「萩焼」は、
@ 衰亡の虞≠ニいう条件≠フもとでは申請しなかったが、A 「重要無形文化財」制度に代わって、真に実力≠ェ問われた中に、二人同時申請をし、残念ながら、B 「記録選択」にとどめ置かれ、さらには、昭和35年の新兵衛氏の死去という悲しみを経ながらも、、C 昭和45年に至って、「人間国宝」に認定された三輪休和氏を持つことで、まさに、「無形文化財」制度の典型≠ニしての歩みをしたのです。

 浜田庄司氏、富本憲吉氏のように、旧「無形文化財」ではなく、新制度ですぐに=u人間国宝」に認定されたお二人を除けば、他の3人は、みな旧「無形文化財」経由です。
新たに「記録選択」として認定された中里無庵(当時は中里太郎左衛門)・酒井田柿右衛門氏、更には、旧「無形文化財」でありながら、「記録選択」にとどめ置かれた加藤唐九郎、宇野宗甕、今泉今右衛門、加藤土師萌の各氏を含め、まもなく追加認定された土師萌氏にこそ先を越されたし、「永仁の壷事件」の唐九郎氏は自ら候補を外れられた中で、土師萌氏に次いで、休和氏が「人間国宝」になられたのです。
旧「無形文化財」経由≠ナない「陶芸」部門「人間国宝」休和氏が最初の認定です。

しかるに、この「記録選択」に認定された方々の陶芸史上≠フ〈意味〉理解されていません。
「人間国宝」であった人達の活躍もさることながら、「記録選択」というプール¥態のもと、「人間国宝」は無審査≠ナあるのに対し、少なくとも表面的には∞審査≠ェある (「日本伝統工芸展」の入選≠フレベル≠ヘ、今日のように大衆化され=A入選数≠烽サれに伴い、多くなっているのとは違い、高かった≠フです。) ということで、「国指定無形文化財」というプライドと落選≠ェあってはならないのは無論のこと、他の「記録選択」の陶工との競いあわざるをえない≠ニいうプレッシャーとの狭間≠ナ精進された陶工・陶芸家の方達の歩み≠アそ、工芸史≠ノおいて特筆されるべきなのです。

高度成長≠ニも相まって、「萩焼に限らず、「作品」は、とてつもなく高価≠ネものとなり、「伝統工芸」も、用≠離れ、「美術品」として扱われるという傾向≠煬ゥえてきました。
その高度成長≠フ波とともに、「無形文化財」制度及びその制度に伴い、公開≠フ場として設定された「日本伝統工芸展」が、大きな要素だったことは否定できないはずです。
そして、「萩焼」の世界も、この時期≠ノ大きな役割を果たした三輪休和氏の事実≠ニしての「歩み」を語らずにはなりたたないのです。

この他、流布している「萩焼の歴史」は、事実≠踏まえていないことは少なくないのです。







F 「権威者≠ゥらの証言なので事実≠確認する必要はない」とする一流マスコミ≠フ態度に対して
最後≠フ手段として、権威者≠フ証言に「問題・疑問」があることの指摘


例えば、「朝日新聞」の、「周南市」の「山口県指定史跡=山田家本屋」に関する記事≠ェ、[昭和38年9月8日(日)]と[平成元年5月23日(火)]とで、まるで矛盾≠オたものが書かれているというように、マスコミ≠ヘ、時の「担当者」に取材して記事にしていると思われます。
従って、情報源≠ウえしっかりしていればそのうち訂正される≠ナあろうとの期待がありました。
つまり、河野良輔氏が、既に発表したものを訂正しようとはされず、榎本徹氏においても、誤りを含んだまま=A継承されてはいるものの、新たに「山口県立美術館」が各種の「展覧会」開催に際して刊行する出版物が正しい≠烽フとなり、現在の美術館関係者≠ェ「マスコミ」等に、正しい情報≠提供するようになりさえすれば、正しいものに訂正が可能となるであろうということです。
「同じ山口県」に生活するものとして、それが一番、穏やかで、かつ、有効≠ナあろうと思い、最後のアプローチ≠ニして、「山口県立美術館」を形の上では束ねる「山口県文化振興課」(形としては「知事への提言」というシステムを利用しました)に、
「平成19年4月12日(木)」
「山口県立美術館」の「館長」・「(元)副館長」といった肩書き≠ェ「マスコミ」に利用され、事実≠ノ反する「萩焼の歴史」が大手を振って世間を闊歩しています。 私は、この問題は、「萩焼」だけの問題ではなく、「日本文化史」の問題だと確信しています。 「山口県」として、後世≠ノ、「萩焼の正しい歴史」が語り継がれるようにしていただけませんでしょうか。 として提案、
その「回答」が、 「平成19年5月14日」に届き、
「山口県文化振興課」の吉野≠ニいう課長名で、
山口県として、後世≠ノ「萩焼の正しい歴史」が語り継がれるようにしていただけませんでしょうか。」との御提言ですが、本県の誇るべき陶芸文化である萩焼につきましては、その歴史も含めて後世に伝えていかなければならないと考えております。 今後とも萩焼に関する調査研究を継続して行うこととしておりますので、ご理解・ご協力の程よろしくお願いします。 
と書かれていました。

そこで、この「HOMEPAGE」の[index]において、事実≠ニしての「萩焼史」(当初は「萩焼史」としていました)をクリック≠オ、そこに設定している各「項目」の多くのページはクリック≠キると公開≠控える旨を記して(ここをクリックしてみてください)、待っていましたが、その後連絡がないため、
10月11日に確認の「メール」を送信したところ、
11月21日になって、いずれは調べるにしても、「平成22年」の「萩美術館」の「萩焼資料館」の開館までに、「萩焼の歴史」を検討する計画はない
との「回答」が来ました。
そこで、再度、その開館に際して、「解説」等があるだろうから、「問題がある」と指摘している人間がいる以上、早急に調査だけはしてみるべきではないですかと、お願いしてみましたが、
11月30日、方針の変更はないとの「回答」がきました。
「知事」さんに直接、お願いすることができれば、また違うとは思うものの、途中を飛ばしてお願いする≠アとは、ほぼ不可能と思わざるをえないため、
やむなく、「タイトル」を事実≠ニしての「萩焼の歴史」から流布している℃鮪タ≠踏まえぬ「萩焼の歴史」を正すというよりアピール≠オやすいものに変更し、「朝日新聞東京本社広報部」が、河野良輔氏から「取材」しているので、事実かどうかを確認する必要は認めない≠ニいう驚くべき言い分≠展開している現状≠ノおいては、やむなく=A誤り≠伝えている人の名前や内容も具体的に指摘することにして、「再構成」をすることにしました。
「陶芸館」開設というこれまでの誤り≠正すまたとない機会≠ネのに、「調査はしない」で、これまでの延長¥繧フ「展示」・「解説」で済ますというのですから、逆に∞誤り≠定着≠オてしまうことになってしまうと私は思っています。
榎本氏が「岐阜」に転じた後、「陶芸関係」の中心となっている「山口県立萩美術館」の石ア泰之氏に対して、石ア氏の執筆に疑問・問題があることの指摘を含めて、「調査」をすることを促しても、なんら「回答」がないママ、推移しており「陶芸館」開設の時≠ヘ迫っているのです。
実質%Iには[平成20年2月25日]〜
但し、「上」に述べたように、平成21年7月21日、石ア泰之氏は検討してみると言ってくださっています。

 平成20年1月3日(木)、突然、発熱とともに、両腕が激痛で医者にかかったものの、その後、「山口県立総合医療センター(旧 山口県立病院)」に紹介入院し、17日間入院、各種の検査をしていただくも、原因はわからぬまま、対症療法によって、病状が落ちついたとして、とりあえず退院、その後、高校時代の同級生の整形外科にお世話になりましたが、真夜中になると決まったように腕(特に、右)激痛が起こるということがその後もしばらく続き、やっと、[2月25日]に、鎮痛剤を使用しなくても痛まなくなるとともに、上下に動かすと痛みがはしるものの、前後、左右には動くことができるようにしていただきました。
この「入院」というアクシデントがあったため、この[HOME PAGE]も、いささか急ぎすぎたという感も否めませんが、きっかけ≠ニなったことはありがたいことでした。 
ただ、腕を動かすと、痛みが走るというのは、実に、年が明けても続き、やっと、今日=1月29日、モトのようになれました。そのことを、蛇足とは承知の上で、記しておきます。




[HOMEPAGE]は、検索≠ノよって、前後の脈絡がわからないページに飛ぶことがありますので、内容を重複≠ウせて記し、いきなり飛んだページでもある程度わかるよう配慮しています。











「リンク」設定

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 ↑ この「ページ」とほぼ%ッじものを、「Yahoo!ジオシティーズ」にも、同時にアップ≠キることにしました。 
  [平成25年1月22日]





これまで使わせていただいていた「カウント」が、なぜか、出なくなりました
[平成23年1月26日]までの「カウント」は、23735≠ナしたが、[平成23年2月18日午前7時]から、別≠フ「カウント」を使わせていただくこととします。
従って、再び=A1≠ゥら「スタート」ということになります 。