平成21年6月5日 公開=@
平成23年3月21日 更新  




● 「萩焼」の「歴史」

─ 「萩焼」の起こり≠ゥら、昭和18年以前≠フ「歴史」を、
小山冨士夫先生の「古萩の歴史と特質」を中心≠ノ、紹介します。 ─






はじめに



 

「萩焼の歴史」については、佐藤進三氏を初め、幾人もの方によって、疑問が呈されてきました。

 父=英男も、父なりに「古文書」類を、「文書館」の方に協力を求めながら、研究をしていたようですが、なにせ、「萩焼」が主要な仕事になるような時代ではなく、そのうえ、「山口県教育庁」勤務が丁度10年ということで、現場の「小学校」に転じましたので、中途半端になってしまったようです。

 当時≠ヘいろいろな「教育問題」が山積しており、例えば、まもなく開かれる第二回目の「山口国体」が県民あげて歓迎ムード≠ナあるのと異なり、「第一回目」の時は、例えば「小学生」が「マスゲーム」をすることについて、大変な反対があったものです。
 「学力テスト」問題や「勤務評定」問題などもあって、気の毒にも、命を絶たれた管理職もおられるといったように、現場の校長としての仕事はたいへんだったようです。
 父は、その諸問題についても、資料を事細かくまとめていますが、なにせ、個人名があることとて、「歴史資料」として、しかるべき所に納めてよいものかどうか、迷うものも沢山あります。

 「萩焼」の研究は、現物≠対象にすることで、「古文書」類の研究は、結局、そのままにしたようです。
 ただ、かなり分厚い冊子として、「写真」のように、上に「古文書の「写真」、下に、「解読した文章」という形式のものが残っています。
この「冊子」の場合、左側の付箋≠ノ「坂」・「三輪」・「佐伯」とあるのがおわかりでしょうか。  私も高校で「国語」を教えていましたし、長兄は「国文学」が専門で、賀茂真淵の全集において、ごく一部とはいえ、翻刻・解説をさせていただいているといったことで、その「資料」がまったく生かせないというわけではないのですが、 なにせ、残された「資・史料」は少なく、かつ、その信憑性≠ノついて疑問が呈されているものもあるという現状において、その究明≠ヘ、兄はともかく、とても私ごときにできることではありません。(兄も、残念ながら、体調を崩しており、今後も、専門外の「陶芸」に、足を踏み入れることはないと思います。)

 私は、別頁で、「工芸史上」、エポックメーキング≠ニなった「無形文化財」制度及びそれに関連した「日本伝統工芸展」のモトでの歩み=A特に、その典型≠ニしての「萩焼の歴史」は、当然=A後世にも、語り伝えられるはずと思うにもかかわらず、現在、誤って伝えられていることを正すべく、父=英男が直接♀ヨわり、私に托した「昭和二、三十年代」の「萩焼」の歩みを、展開していますが、
 それ以前≠フことは、偏った=u資料」を、どのように位置づけ、どのようにその真偽を判定するかについては、自信がありません。
 そのため、昭和18年∴ネ降に限って、記しているわけですが、それ以前についてはどうなのかという「メール」による「問い合わせ」がありましたので、
 小山冨士夫先生が「古萩の歴史と特質」の中で、述べられていること、
 河野良輔氏以前の、「萩焼」に関する、執筆者の代表的な評論家≠ナある佐藤進三氏の『陶器全集21 萩・上野・高取・薩摩』の中で述べられていること
の、それぞれ抜粋(抜粋≠フ仕方が、誤っていないことを願いつつ)、及び、
 箇条書きとして、記しておられる河野良輔氏の「萩焼略年譜」
の「記述」を、併記することにします。

 佐藤進三氏の『世界陶磁全集 第五巻「江戸篇 中」』の巻末(260〜266頁)には、かなり≠フ「資料=坂倉・坂家関係の古萩窯文献=vが活字≠ニして印刷されていますが、一般人にすぎない私の手で、それら「古文書」類の原典にあたることは、許可していただけないでしょう。
 ただ、『江戸篇』には、必須≠フ「資料」とされながらも、印刷されていない、「佐伯家」・「三輪家」の関係の「文献」は、父が、「写真」及び「解読」したものを残しています。

 そこで、いつの日か、時間的な余裕ができた時に、私なりの「研究」をしてみようかと思ってはいるのですが、いつのことかわかりません。

 河野良輔氏が、解決≠ウれたかに見える、各窯元の系譜も、いまだ、それぞれの=u窯元」独自≠フ「系譜」を唱えていることから、今後≠焉A引き続き、「研究」されていくと思います。
 これまでの=u権威者」「見解」として、その参考≠ノしていただければ、ありがたいと思います。



「小山冨士夫著作集(中) 日本の陶磁」
「古萩の歴史と特質」

朝日新聞社刊
〈昭和53年1月25日発行〉


(「萩焼」以前)について
O「文禄・慶長の役」の後に日本の製陶業は急激な発達をとげました。萩焼もご承知のようにこの役の後に起こった窯の一つでありますが、ただ、ほぼ時を同じくして起こった高取、上野、薩摩に致しましても、また北九州一帯のいわゆる唐津に致しましても、ほとんどすべて九州に起こっていますが、九州以外に起こった窯としましては、萩焼だけのようであります。
Oしかし今日言う萩焼は、文禄・慶長の役の土産として起こったものでありますが、それ以前にもこの地方で非常に焼物が発達していました。
O防長の須恵器の窯は、恐らくは奈良時代に最も盛んで、藤原中期ぐらいで終わっているのではないかと思いますが、それ以降、文禄・慶長の役によって萩焼の興こるまでの三百年間ほどは、防長には窯はなかったのではないかという解釈を小川五郎さんはとられております。私は確実な知識はもっていませんが、遺物を見ても、これに該当するような物は、どうもないようでありまして、防長地方には備前、信楽、丹波等に並行するような吉野朝・足利時代の窯はどうもないようであります。

(「萩焼」の起こり)について
O 今日萩焼と言われておりますものは、ご承知のように文禄・慶長の役が終わった時、毛利輝元に従って来朝した李敬によって起こされたものとされています。
萩焼は、これを大別して松本萩と深川(ふかがわ)萩に区別していますが、
松本萩は更にこれを焼いた家によって、坂、三輪、林の三つの窯に分けています
それから深川の方も同じく焼いた家によりまして坂倉、倉崎、赤川の三つの窯に分けております

しかし、これ以外にも、周防、長門でいわゆる萩焼風の陶器を焼いた窯はずいぶん多いようでありまして、小川さんの調べによりますと、泉流山、東光寺、指月、総瀬、須佐、深川、俵山、山口、八幡、宮野、堂道、浅地、原河内、大原、旦、岩淵、西浦、鞠生、三田尻、玉祖、戸田等の窯はすべて松本・深川の萩焼の影響で起こった窯とされています。これは萩焼系統の窯ですが、
それ以外、ご承知のように徳川中期頃から京焼の風も山口県下に興こっております。
また九州の有田焼の流れをくんだ磁器の窯もあります。
それから三島刷毛目(はけめ)等朝鮮風のものを焼いた窯もあるようです。
吉向が行って楽焼をやいたこと等もあります。
山口県下全体で焼けた焼物には、いろいろさまざまなものがありまして、山口市の郷土館には、各窯別にその代表的な遺品が陳列してあります。
中には、こんなものが山口県で焼けたかと思うような物がありまして、大変勉強になります。

(山口県の焼物の主流≠なす「萩焼」)について

 しかし山口県の焼物の主流をなすものはやはり萩焼であります。
小川さんの調べによりますと、山口県下には萩焼系の窯が三十四あり、
これに対し、京焼系のものは十、
磁器は九つ、
それ以外のものが十七というわけで、
断然、萩焼系統の窯が多いようであります。

また、発達史的に見ても、萩焼系のものが最も古く、京焼、有田焼風のものは江戸中期以降、多くは幕末の窯のようであります。
このたくさんな萩焼系の窯の宗本をなすものはご承知の松本萩、その中でも坂家の窯で、ご承知のように萩焼は坂高麗左衛門という人が始めたということになっております 

 しかし、萩焼の起源については次の三つの説があります

O 第一の説は、坂家四代の新兵衛という人の上申書に、『焼物師由来書』というものがあり、この中に自分の曽祖父の高麗左衛門が、朝鮮から毛利輝元に連れられて来て、松本の唐人山という所に屋敷を建て、ここで初めたのが坂焼、松本焼の起こりだということを言っています。
 これに対しO 第二の説は、防長郷土史の権威者である近藤清石という人が書いた『霜堤雑草』という本の中にある説で、松本の萩焼の起こりというものは、李敬、すなわち高麗左衛門が開いたように一般には言われているが、実は間違いである。 松本萩を起こしたのは、李敬の兄の勺光(シヤムカン)で、この勺光という者が、文禄の役にわが国の捕虜になって大阪に連れられてきていた。秀吉はこの者を、輝元にお預けになった。慶長六年(一六〇一年)、輝元が長門に居を移して後、屋敷を唐人山に賜って、勺光が起こしたのが深川焼(「松本焼」の印刷ミス=H)であって、その後に勺光が弟の李敬を本国から呼んで李敬も焼くようになった。李敬は初めは坂助八といったが、寛永二年(一六二五年)に高麗左衛門という名前をいただいて、それから後、坂家は代々高麗左衛門と呼んでいる。勺光が死んだ事は分らないが、その子の山村作之進という者が初めは高麗左衛門に養われていたが、後に深川焼を起こし、これが深川焼の起源だという説であります。

 すなわち、第一は坂高麗左衛門が始めたという説、

 第二は高麗左衛門の兄の勺光という人が始め、高麗左衛門は後に兄に呼ばれて日本へ来たのだという説であります。

 O 第三の説は深川の窯元に言い伝えとしてい残っている説で、これは二つの説を折衷したような話です。勺光も弟の李敬も一緒に朝鮮から来て、兄の勺光の方は深川焼を始め、弟の李敬の方が松本焼を始め、松本萩も深川萩も同時に起こったという説であります。

 このうちどれが正しいかということは小川さんもはっきりとは述べておられませんし、私も調べたことがありませんが、一般には、李敬すなわち坂高麗左衛門が起こしたということになっています

 今の坂高麗左衛門は十代で、この人に子供がないので、東京美術学校を出た方が養子(注十一代で、後に、山口県の無形文化財になっておられる)となり、今親子で焼いていますが、とにかく萩焼では坂家が総本家ということになっています。
 そして坂家ではそれ以外の窯はみんな弟子分だと言っていますが三輪休雪(現三輪休和)、坂倉新兵衛(十二代)などは今日の作家としてなかなか上手です。
 萩焼の歴史はざっとこういう風ですが、各窯で焼きましたものは、原料も、釉も同様で、作品の判別はなかなか困難ではないかと思いますが、私はこれについては特に研究したことがありませんので、何とも申せません。・・・



抜き出し≠ナなく、「原文」は、次の「リンク」で、ご覧ください。  

『陶器全集21 萩・上野・高取・薩摩』

佐藤進三著 
平凡社刊
 (昭和36年11月発行)



(「萩焼」の起こり)について
O 征韓の第一回戦で引上げて来た毛利輝元は、文禄二年(一五九三)朝鮮の陶工、李勺光・李敬の兄弟二人をともなって帰国し、この両名を拠城萩の城下、松本村字中の倉に居住せしめたのが萩焼の興りだといわれている。
そして兄李勺光〈りしやくこう〉(一説にシャムカンと呼ばれた)に対して、藩主は城下に点在する古窯址の調査、発見につとめさせ、それを復興せよと命じたので、萩中の倉から城下各地を探査し、古窯址を発見したのであるが、ついに長門の国深川三の瀬〈そうのせ〉で没するのである。
O 一方、萩中の倉では弟の李敬が窯を開いていたが、兄の遺児をそだて、自分が兄にかわって中の倉、即ち松本萩焼の総支配となり、坂倉姓を名のったのである。そのご坂倉姓を、由あって改めて坂姓とかえたのであった。寛永二年(一六二五)には藩主より「高麗左衛門」の判物をいただき、ここに自他共にゆるす、坂高麗左衛門の初代となるのである。

O 一方坂高麗左衛門にそだてられた兄李勺光の遺子は、藩主より山村の姓と「作之允」の判物をいただき、別に萩に家屋を賜って焼物に精進していたのであるが、その場所その他のことは全く不明である。ところが寛永十八年十一月、山村作之允は囲碁の争いから渡辺某なる者を殺し、やがて渡辺某の遺子は明暦四年(一六五八)二月、萩法華寺門前で、山村作之允を討ちとるのである。こうして二代山村作之允は死亡したので、李勺光の弟子の山崎平左衛門、及び蔵崎五郎左衛門たちは、作之允の遺児を擁して萩の地を捨て、祖父李勺光の死没した長門深川三の瀬へ家屋敷を拝領して移住、ここに李勺光三代山村平四郎光俊と名のり、祖父の弟子たちと共に深川萩を創立するのである。寛文の頃と思われる。

 これを要するに、李勺光の子は殺されて死没、その子、即ち三代山村作之允光俊が深川萩の祖となり、また一方、萩中の倉では弟の李敬は高麗左衛門の判物をいただき、ここに松本萩の祖となるのである
。土地の山本勉弥氏の努力で、最近『大照院様御時代無給帳』なるものが発見された。これは毛利秀就時代の無給帳であって、やや時代が降るが、慶応二年(一六四九)調べとなっているので、まだ山村二代作之允(隠居名松庵)生存中のことである。この文書はわずか七行であるが、当時の細工人のことがよく解るのである。
   ヤキ物細工  市右衛門 
三人米七石六斗    坂 助八 
三人米四石      蔵崎五郎左衛門 
三人前二石二斗    松本ノ助左衛門 
五人銀二百五十目   山村松庵 
二人切方無シ    松本ノ勘兵衛
          同所助右衛門
となっている。これで見ると、山村松庵とは二代山村作之允のことで、事件以来、家督を子に譲って松庵と号したのである。慶応二年調べであるから、彼が渡辺某をあやめて事件落着まもなくの頃と思われる。この記録で見ると、坂家に対していかに山村家が重要視されたかが解ろう。これで見ても二代山村作之允(松庵)の時代には、深川萩はまだ興ってはおらず、松本萩の惣都合を仰せつかっていたのではなかろうか

(「深川萩の歴史」)について

歴史というものは近々百年位のことにしても、すでに茫々たる過去の波に没してしまって、不詳な事柄ばかりである。深川萩も、『風土註進案』(天保より弘化時代のもの)の出来た頃には、焼物屋が十二軒あったのであったが、今日残っているのは四窯にすぎない。この深川萩窯の歴史を調査してみると、古い記録というのが非常に少なく、また主とした墓碑にも乏しく、わずかに明和四年(一七六七)、命によって毛利藩庁に提出した、五代山村源次郎光長の記した家歴(山口県立図書館蔵『毛利家譜録』)、『風土注進案』、『大寧寺文書』(坂倉新家蔵)などにすぎず、それに墓碑銘などによって、やや正誌に近いと思惟されるものを記することにする。

 一 山村時代(古萩時代)

O 深川萩の開祖は三代山村光俊であるが、前記したように、祖父李勺光(初代)はこの地湯本で死没しているといわれる。その墓所というものが湯本に残っていて、小高い丘の上に、老松が二本に分れて茂っている。土地の人はこれを「俊寛」の墓と伝えているが、これは李の「勺光」、朝鮮読みの「シャムカン」が伝訛して、「シュンカン」となってしまったのである。この勺光については何ら調すべきものがないが、彼の指導は相当強いものがあったようで、現在ここに残る道具などに朝鮮語銘がある。例えば、切糸のことを「ノーイ」、土を起す棒を「カライ」、棚を「チリッパン」、かんなのことを「ホムクスイ」などと呼んでいて、いかに勺光が力のあった人であるかを思わせる。
O 次の二代山村新兵衛光政(松庵)のことについては前記したが、法華寺事件以来、萩にはいづらくなったので、父勺光の頃より深いつながりのある、深川三の瀬へ移転の気持を抱いていたが、弟子中の長老蔵崎五郎左衛門、同勘兵衛を、承応の初めこの地に移らせて窯を造らせている(大寧寺文書)。
それから五、六年たって、渡辺某に打ち果されたのである。
O 三代平四郎光俊は、父が死没した時は十九歳であったが、藩主より御茶入外御好みの道具を仰せつけられている。この山村三代平四郎は、藩庁の取り計らいに寄るものか、四囲の関係により祖父李勺光の因縁の地、深川三の瀬へ行くことに決意したのである。そして三の瀬に家屋敷を拝領して引き移り、ここに深川焼物師の惣都合を命ぜられるのである。
O このころ長老山崎平左衛門は、川上村惣之瀬へ窯を築くのである。
O そして萩では三輪家が召し抱えられ、寛文六年(一六六六)三輪窯が成立する。場所は萩前小畑である。 
 そのころの深川萩の山村家の窯は、先に来た弟子の蔵崎親子の築いた窯で、現在、坂倉氏に残っている本窯の位置にあったものらしく思われる。
現在、本窯址の上手に元祖松と称する松の大樹があり、毎年窯祭の節、標縄を張ったもので、その下に墓らしい一尺たらずの石が五六個あったが、先年、先代の坂倉新兵衛翁(註 12代)がこの松を中心に改修してしまって、全く昔の面影はなくなっている。
そして現在、三代の陶祖碑として建てられているものは、萩地方より改修の節、新兵衛翁がはこばせたもので、実際の三代陶祖の碑ではない。

さて記録によると、毛利吉就公が俵山へ入湯された節、お茶屋(湯本温泉)へ平四郎を召し出され、お茶道具の調製を仰せつけられて金員を給ったことや、また次代吉広公御入湯の節に、細工を見たいとの仰せにより、平四郎、老齢により眼鏡を用うることを許されて上覧、おほめにあずかったということもあったようである。
また長府に召し出され御道具を拝見、その写しを作り、たいそうおほめにあずかったりしたが、宝永六年(一七〇九)七十二歳で三の瀬で死ぬまで、無事御奉公したのであった。
O 陶祖平四郎光俊に小左衛門という子があったが、不器用のためあとを継がせず、弟子の中の名工九郎左衛門を養子とする許しを乞うてゆるされ、孫兵衛光信として四代を継がせたのである。しかしこの四代目は、若死で享保九年(一七二四)三月二十九日、三十七歳で没している。 
五代目源次郎光長は十三歳で家督を相続した。藩主宗広公の時、大和守義知公より借りられた高麗茶碗を手本として、松本の坂新兵衛と共に写しを作るよう命ぜられた。度々の工夫によって手本通り出来上ったので、たいそうおほめにあずかり、面目をほどこしたと伝えられている。

 さてこの頃(享保年間)、山陽道の三田尻の近く(吉敷郡小俣村)大道という所より土が発見され、これによって萩諸窯の作品は一変するのである。

O 第五代源次郎光長は晩年まで堅固に御用を勤めたが、宝暦四年(一七五四)萩春日神社の祭礼の日、城内(堀の内)で宍戸家の家来と喧嘩に及んで抜刀し、遂にその咎により家禄を没収され、ここで山村家は断絶してしまうのである。
明和四年(一七六七)に藩庁の命により家歴を光長の名で提出しているので、家禄を没収されたのは、その後のことと思われる。
李勺光開窯と思われる時より約百五十七年程にして、遂に山村家は断絶、ここに深川萩というものは一旦消えるのである
そして光長は菩提を弔うため、遍路となり出奔してしまったといわれている。
家族については何ら言い伝えもないが、現在、坂田泥華氏の住む場所を山村屋敷と伝えている。
なお同氏宅の西北に当る墓所には、四代、及び五代の墓が見つからず、ただ「山村惣右衛門」の墓というものがただ一つ残っている。
その右側に「山界万霊」とした陶製の墓石がある。
この惣右衛門の墓誌には、「釈青山末了信士 天保十二年丑二月十八日」とあって、若年の死没と思われる。
この惣右衛門という人物がいかなる人であるかは、今日のところ全く不明だが、おそらく山村家最後の人ではなかったろうか
五代光長が出奔してしまってからは、その遺族が約七十年間、細々とこの地に生計を保っていたが、この惣右衛門の時に、いよいよ山村家は絶えてしまったらしく思われる。
そこでそのご弟子の赤川、坂倉たちによって山村家諸霊を弔うために、陶製の山界万霊の碑石を造って並べ建てたものと考える。


二 中葉(山村家没落より明治維新まで)

明和四年、山村光長が藩庁に家歴を提出してから、数年にして山村家は家禄を没収されてしまい、
O そのご天明六年(一七八六)に、新屋坂倉万助が御蔵元支配として御細工人を命ぜられている。
現在、坂倉家に古文書が残っているが、これは源次郎光長の提出した草稿と思われるもので、光長の没年が宝暦十年となっていて、家歴を光長が提出した明和四年から、七年前に彼は死んでいることになっている。こんな矛盾はあり得ないと思う。
また同文書によると、六代坂倉藤左衛門は山村家断絶によって、何らかの理由により六代を襲名せりと記されているが、藤左衛門の没年は明和七年で、光長が家歴を提出の日より三年後である。これもはなはだ矛盾したことであるし、伝えによると、藤左衛門は老年まで生存したともいわれている。また山村光長はその頃はまだ、深川三の瀬にいたのではなかったかと考えられるので、光長と藤左衛門とは親子と考えることは全く不合理である。光長の没年の宝暦十年記入以後は、おそらくは先代坂倉新兵衛翁の作りごととしか考えられず、その意味において、坂倉文書は信用をおくことは危険といわねばならない。このことは、先年『世界陶磁全集』発行の節、坂倉、坂、三輪三家の古文書を資料編として出した際に、これらの古文書をまる呑みしてはならぬと注意しておいたが、その一端をここに明らかにした次第である。
O 現在、坂倉家は李勺光より十四代と称しているが、これはおそらく藤左衛門は山村家の弟子であったのが、光長出奔まもなく、何らかの事情で、山村のあとをついだことにしてしまったのではなかろうか。
松本萩の坂高麗左衛門家に、文政二年(一八一九)卯ノ八月吉日に深川萩より提出せる「演説」なるものが残っている。これは深川萩が困窮にたえかねて、松本萩の御蔵元家門に持参したい旨をうったえた歎願書である。これにはもはや山村家はなく、その弟子の蔵崎五郎左衛門、赤川助左衛門、坂倉九郎右衛門、赤川助右衛門と記入されている点を見ても、坂倉家は山村家の弟子筋であることは明らかである

で、ここでは坂倉初代を藤左衛門と私は仮定しておくが、このころ(明和、安永頃)、深川萩には前記坂倉のほか、蔵崎、赤川、濃美、木原、山下などがいて、ともに入合窯をしていたものと信ずるのである。
古い墓地を調べてみると、坂倉家で最も古いものは、坂倉五郎左衛門で寛政四年銘、他の墓では宝暦七年の赤川佐々衛門、天明八年赤川某、助左衛門(明和五年蔵崎系か)、九郎左衛門(明和八年)、赤川九郎左衛門(寛政九年)といった風で、その他は野面石ばかりである。思うに、赤川家は家柄も古く経済力もあったが、そのご坂倉家が経済的に力を強めてきて、刻名の墓を作るようになったのではなかろうか。坂倉家も墓地を整理したらしく、野面石の刻名がないものを一ヵ所に積み重ねて、その上に先祖合葬というものを建てている。そしてそれには弘化二年(一八四五)十月二十日の刻名がある。大分後世といわねばならない。
O 七代坂倉五郎左衛門に三人の子があり、末子万助を非常に偏愛したらしく、長男半平、次男善兵衛にそれぞれ畑若干、山五百、家屋敷等を与え、長男を本家(坂倉新兵衛家)次男を分家させ(坂田家)末子の万助を伴い、大部分の財産を持って新屋坂倉を興して別家したのである。
O 天明六年、新屋万助は御蔵元支配としての御細工人を命ぜられ、そのご養子(坂田甚吉の弟)善右衛門、つづいて加助と、三代つづいて同家が御細工人を命ぜられている。
坂田善兵衛の頃の記録(『風土註進案』)によると、御蔵元支配の焼物師は十二軒あって、左に記すと、
新屋坂倉、坂倉(本家)、坂田、坂倉(上隠居)、坂倉(下隠居)、倉崎、赤川、田原、新庄、河村、木原、山下である。
年間、銀三十八貫の収入があったといわれている。窯は本窯、西の窯、東の窯と、入合の大窯が三基(現在この窯址は残っている)あり、各々持ち袋が定っており、大口(火起窯)と灰窯(第一の袋)は輪番となっていて、一定の日を定められて製品を持ちより、窯詰めをしたもので、毎月焼いたといわれている。
O 山村家時代の総支配とは異なり、お細工人もお蔵元支配であって、藩主よりの御用は何よりも第一に焼いたのであったが、その他は、多くの焼物師も同様、毛利家御産物として日用雑器を主として焼いたのである。これが「御産物焼」の名称のいわれである。
御産物の製品は、前記の通り日常雑器が主で、その釉薬は米山寺土(鉄分の多い土)を流した、いわゆる「とかげ」釉と呼ばれるもの、また天目釉に藁白(後には萩の小畑刷毛)をピラ掛けにしたもの、またはさめ釉(射の小野刷毛)を用いたりしたものである。
また藩主が湯本温泉に湯治の時には、御注文の細工を上覧にいれ滞在中に窯を開いてごらんにいれよとの御指図書が新屋に残っている。新屋坂倉への藩主の来駕もあったといわれている。
O 新屋加助はことに名工のきこえがあり、御蔵元支配として二人扶持をもらっていたという。加〈註  加≠フ文字を○で囲んだもの〉の印を、はじめて加助が用いたのである。
当時、陶土としては黄般土、御所原土を主体とし、上の原の萩原某が山元で水漉したもので、これらの土に、四の瀬土、大道土を少量用いたようである。


 三 近代(明治維新前後)

明治維新は李勺光開窯以来二百五十二年に当る。
この明治維新の大変革は、田舎の焼物師にも一大変化をもたらしたことはいうまでもない。
御産物としての毛利藩の庇護もなくなり、個人の経営となると入合窯も不都合となり、不況で脱落する者や、他に転職するものも出て、経営も次第にできにくくなっていった。
当時の本窯と西の窯の入合は左記の通りであったが、東の窯はすでに煙を止めてしまっていた。
本窯  坂田鈍作、田原謙次、新庄織江、坂倉新兵衛(代理森米吉)
    坂倉孝内、濃美    以上の六軒 
西窯  新屋坂倉新作、坂田鈍作、山下孫六    以上三軒 
そのご坂倉、坂田、田原が、画一的な寄合窯では思った通りの製品が出来ないと考えて、各個人窯を築くようになったのである。
三家それぞれ時期は異なっているが、現在に至っている。
なお萩より移ってきた林泥平、また近代の名工武居武一らについても述べたいが、紙数に制限があるので割愛する。

坂高麗左衛門  

長門深川で没した李勺光の弟、李敬は、兄が深川で没したので、萩松本中の倉窯の事実上の主となったが、兄の遺児山村作之允を養っていた。
作之允は寛永二年、藩主より扶持を賜って山村新兵衛光政を名のったのである。
ところが寛永十八年十一月、囲碁の争いから渡辺某を殺害し、やがて渡辺某の遺子によって討ちとられてしまう。
作之允(松庵)の遺児山村平四郎光俊は、この地萩におれなくなったものか、ついに願い出て、深川三の瀬に家屋敷を拝領して移るのである。
ここに、即ち、三代光俊によって、はじめて深川萩というものが確立するのである。
萩松本中の倉では、李勺光の弟李敬の坂新八が、兄李勺光の子、山村作之允こと新兵衛光政が討たれ、その遺児光俊が深川に移ってしまったので、ここに事実上、主となったのである。
寛永二年十一月には、任高麗左衛門の判物を藩主より拝領、初代坂高麗左衛門となるのである。
慶長、元和、寛永と約四十年の歳月を、藩主御抱窯師としてはげみ、多くの作品を残している。
現在、松本中の倉の、坂家に残る初代作品の茶碗には、少々疑問の点もあり、二代、三代の初期の作品と考えた方が正しいと思われるものがある。
かくて寛永二十年二月、齡五十八歳で没している。
二代は通称助八忠孝と呼ばれて、父の遺業を忠実に受けつぎ、主として高麗物の写しを行っている。
萩には高麗茶碗そっくりのものがあるといわれているが、この二代、及び三代によって作られたものの中に、井戸茶碗、粉引茶碗、三島茶碗、刷毛目茶碗などの写しがあって、往々、それらは本歌と間違われるものが多いことを注意する必要がある。
初代高麗左衛門から二代、三代、時には四代までは、この土地の土を使用していて、作風に高麗風の香りがあり、目方も一体に重いものが多い
また胎土が粗悪なため、茶碗全体をエンゴベーしたものが多く、受け台に貝殻を用いている。
この松本の土は、石英粗面岩の陶土で耐火度も強く、鉄分も多い。
従って初期の作品には、高麗ものそっくりのものがある。
坂高麗左衛門の作品が一大変化したのは、なんといっても大道土が発見され、その土を主にして作り出した四代、五代からのことである。
また高麗風が、大和風に変化をきたしたのもその頃からである。
坂窯初期には、土灰釉で種々工夫をした点が、その発掘された陶片からもよく解る。
これが、大道土が発見された以後になると、主として釉薬は佐波郡牟礼村り浮野石を使用するようになって、萩松本地方、及び長門深川地方の萩焼というものが一様の釉薬となり、独自性を失ってしまうのである。
ことに萩焼は、土を見せているものが割りに少ないところから、萩のどこで焼いたものであるかが、判然としないことが多いのである。
次に通称「松本萩」と呼ばれて、手取りの重く、藁灰釉の掛かった、いわゆる「 斑唐津」風のものが割合に多い。よくこれを斑唐津の中に入れている好者が多いが、この手はいつ頃から出来たものだろうか。本格的に発掘をやっていない私にも、これという確答を申上げることは出来ないが、伝世されている二、三の茶碗から推定して、これは初期からあったものと信じている。そしてその時期時期によって、量産の不同があったようである。
これらの土をどこから掘り出したものか知る由もないが、これらの茶碗には、大道土を使用していないことは事実である。
またこの「松本萩」と呼ばれる一連の焼物は、案外、深川萩にも作られているのである。
それは時代がやや降ったもので、ことに天保ごろ御産物焼に生れたものが多いようである。
次に萩焼、ことに茶碗の高台造りについて述べておきたい。
高麗風をうけついだ萩焼は、いうまでもなく高台は竹の節〈ふし〉高台である。
しかし茶人がやかましくいう、畳付きで三日月高台になっているものは案外少ない。
実際、唐津で三日月をやかましくいわれるが、発掘陶片から三日月高台をさがし出すことは、なかなか容易ではない。
それと同様に、唐津では割高台というものが少ないのに反して、萩では割高台、切高台はわりに多いことである。
これは唐津へ渡った陶工と、萩へ渡った陶工との出産地が、朝鮮で異なっている証拠にはならないだろうか。 
萩焼で喜ばれるのは桜高台である。これは高台を真上から見た姿が、桜の花弁に似ているところからいわれ出したもので、とくに桜の花弁に造ったものではなく、偶然、やわらかな時に、指でつまんで出来たものを喜んだところから、次に意識的に造るようになったものである。
また三島風の象嵌ものが、萩焼に以外に多いことである。
その最たるものは俵形の茶碗、鉢であって、これは彫三島風のものが多い。
主として人参の花、葉を描いたもので、中には細かなものもあり、模様化している。
坂家も、初代から五代ぐらいまでは順調に発展したが、六代、七代ごろは不況の時代であったらしい
前記深川萩の項で述べた、松本萩坂家に残る「演説」によって明らかなように、深川萩は山村家をなくしてからは、弟子たち一同によって「御蔵元家門に帰参被仰付被遣候はば身に余り難有御儀に奉存上候」と、歎願書を出して帰参を願っている。
当時(文政二年)は深川萩も、いかに不況でなやんでいたかが解るが、これを坂ではききいれたかどうかは不明である。おそらくは坂家でも同じく不況であったろうと思われるので、これは断ったことと思われる。
こうしたことが七代坂助八忠之の晩年にあったが、
O 八代高麗左衛門、翫土斎は、名工であったと同時に、この不況をのり越えた中興の祖と呼ばれている
八代翫土斎は長生で、晩年よくこの「翫土斎」の印を押している。萩では印銘は、幕末間ではほとんどない。
韓峯とか韓岳、翫土斎という印銘を見るが、これらはみな、明治期に入ってからのものであることを注意されたい。
最後に記し忘れたことに、萩の茶碗に鬼萩と呼ばれるものがある。これは本来、雑器から転化したものと思われる。
胎土中に小石が多く含まれ、従ってロクロの操作が不自由であるため、小石によってい肌がめくれ、ザラザラした、いかにも鬼でも使用する感じのものであるところから、この名称が生れたのであろう。一体に釉薬面の白上りのものが多い。


三輪休雪家

三輪家は、もと大和国三輪から出たといわれている。
室町時代永正年間、将軍足利義植のころ大和三輪から出た源太左衛門が、萩前小畑小丸山に開窯したのがはじめだといわれているが、実際この小畑の、もと三輪のいた窯址と称される地点から出土する陶片を観察してみると、この室町説は大分割引して、約百年ほど下げねばならないことになる。
しかし現在三輪家のある松本椿より以前には、前小畑にいたことは確かである。
寛文三年ごろ、この源太左衛門の曽孫の三輪十蔵の時、はじめて毛利藩にかかえられて、現在の松本椿に窯を開いたのである。
初代三輪休雪と呼ばれるのがこれである。
この初代休雪は、藩命によるものか京都に上り、楽焼について修行してきたことは、坂窯、山村窯その他と自ずから異なるところである。
三輪家から藩に提出した「焼物師由来書」の第二項に、
一、休雪茶碗被焼成レ申儀自分と焼成候間と申伝由来は不相知候其后京都江御登被成内竃焼、焼稽古仕候様にとの御事にて罷登楽焼稽古仕罷下今以家伝有之焼調仕候事
とあることによって明らかである。
なおまた坂家より提出の「焼物師由来書」のうちに、
三輪休雪家筋之儀も父新兵衛氏より弟子に被仰付御恵御扶持被下置是又代々弟子に被仰付今以焼物細工仕候事
とあって、坂家へ弟子として、一時的に修行に入っていたことが解るのである。
こうして初代休雪は、京都にのぼって楽焼を研鑽してきたため、初代、二代ころには、楽焼風の香りが作品にあることは否めない。
また楽が古くやった彫刻的の作品もあって、他の萩窯と異っていることが解る。しかし代々、坂窯にある程度師事しており、また坂窯で使用の陶工、及び釉薬と同様のものを使用しているため、坂窯の作品と区別しにくいものもある。
初代休雪に次いで上手であったのは、五代勘七である。
志野や織部を思わせるものがあって、三輪家には、こうしたあらゆる作風を取りいれる妙手がいたように思われる。
即ち京風、瀬戸風を取りいれていたが、三代ごろより坂に師事したため、全く坂窯風の萩焼となってしまったのは残念なことではある
が、これも御抱え焼物師であってみれば、仕方のないことといわねばならない。  


 

河野良輔氏編 「萩焼略年譜」


天正16年(1588)毛利輝元、小早川隆景、吉川広家を同伴して上洛。豊臣秀吉、千宗易、今井宗久、津田宗及等と親交を重ねる。
文禄元年(1592)文禄の役。秀吉、輝元に命じて技芸ある者を招致する。
  2 年(1593)この頃李勺光、秀吉の命にて招致され輝元に預けられる。
慶長2 年(1597)慶長の役。この頃李敬、輝元の命により連れ帰られる。
  3 年(1598)赤穴内蔵之助の父、宍戸元続によって連れ帰られる。佐伯半六の祖父、朝鮮より妻を娶り連れ帰る。毛利秀元、朝鮮の役の功により秀吉より玉虫の茶壷を頂戴する。
  5 年(1600)毛利輝元、関ヶ原の役に敗れ、周防・長門二カ国に削封される。輝元、隠退し宗瑞幻菴と号す。
  9 年(1604)毛利輝元、萩に入府、萩城を築く。この頃、李勺光・李敬の一統も安芸の広島より萩に移住し、松本村中の倉に御用焼物所を開窯する。この頃、赤穴内蔵之助、石州より萩に移住し、前小畑小丸山山麓に開窯する。
寛永2 年(1625)李勺光の子山村新兵衛光政(後の松庵)、藩主秀就より作之允に任ぜられる。李敬(坂助八)、高麗左衛門に任ぜられる。
  17年(1640)毛利秀元、品川大茶会を催し、将軍以下幕閣、諸大名を招く。
  18年(1641)山村作之允(松庵)、渡辺四郎右衛門を法華寺にて故殺。
正保2 年(1645)『 萩藩分限帳』に松本ノ八左衛門、同所ノ介左衛門、坂高麗左衛門の名が見え、同じく二歩引の帳に市右衛門、坂助八、蔵崎五郎左衛門、松本ノ助左衛門、山村松庵、松本ノ勘兵衛、同所助右衛門の名が見える。『萩藩継立文書』に松本焼茶碗・茶入の名称が見える。
承応元年(1652)この頃、山崎平左衛門、阿武郡川上村惣ノ瀬に開窯する。
  2 年(1653)蔵崎五郎左衛門、同勘兵衛、深川村三ノ瀬に移住し、開窯に着工する。
明暦2 年(1656)山村松庵の子平四郎光俊、嫡子御雇となる。
  3 年(1657)赤川助左衛門、同助右衛門、松本中ノ倉より三ノ瀬へ移住する。山村平四郎光俊、三ノ瀬焼物所惣都合〆を命ぜられ、弟子達を他国へ出向させない旨の請書を提出する。
万治元年(1658)山村松庵、法華寺門前にて仇討ちされる。
寛文3 年(1663)佐伯実清(初代半六)、召し抱えられる(無田ヶ原)。三輪忠兵衛利定(初代休雪)、召し抱えられる(前小畑小丸山)。
  7 年(1667)岩国藩瓦師忠兵衛、萩にて釉薬瓦稽古のため、赤川三左衛門、倉崎十郎左衛門、山村平四郎、倉崎太郎兵衛、倉崎五郎左衛門の伝授を受ける。
  8 年(1668)焼物師赤川三左衛門、岩国に上り、多田瓦師忠兵衛へ陶技を伝授する。
文政9 年(1826)坂八代高麗左衛門、大阪、京都に上り名器を写し帰る。
天保3 年(1832)藩が松本焼濃茶茶碗を売買した者は没収する旨を布告。
弘化元年(1844)藩主敬親、松平大和守に松本焼茶碗を贈呈する。この頃、深川三ノ瀬では坂倉善右衛門が御雇細工人であった。
安政元年(1854)藩主敬親、深川三ノ瀬で坂倉善右衛門の細工上覧。
文久元年(1861)藩主敬親、長州焼一個と羽二重一匹を朝廷に献上する。
  3 年(1863)藩主敬親、萩から山口へ移鎮。
慶応2 年(1866)赤川喜代蔵の子謙治、田原姓に改姓し、吉敷毛利家に召し抱えられる。
明治元年(1868)明治維新。
  8 年(1875)表千家碌々斎、楽慶入および袋師土田友湖を随伴して萩に来り、旧藩御用商人熊谷五一(義右)家に滞留し、茶の湯を指導し、窯元に遊ぶ。
  10年(1877)坂九代道輔(韓岳)、第一回内国勧業博覧会に出品し賞牌を受ける。
  15年(1882)坂道輔、陶器資本金として山口県令原保太郎より弐百円、就産所より弐百円を貸し下げられる。表千家碌々斎、土田湖流を随伴して再び萩に来り、熊谷家に滞留して茶の湯を指導する。
  25年(1892)萩の大和作太郎(松緑)、吉敷郡宮野村大山路(現山口市宮野)に宮野焼(松緑焼)を創窯し、現代の山口萩焼の基礎を築く。
大正7 年(1918)この頃、深川三ノ瀬では坂倉平吉、坂田浩三、坂倉新作、坂倉三蔵、新庄織江、田原守雄、朝枝半之進の七軒の窯元があった。


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河野良輔氏による「萩焼略年譜」は、
「インターネット」に出ており、直接=A「確認」していただけます。

この(大正7年)迄については、父=英男の残したものはありませんし、ましてや、私も、わかりません。
河野良輔氏の、この「資料」は、大いに参考になるものと思います。

しかし、この(大正7年)の次は、
昭和31年(1956) 山口県指定無形文化財萩焼保持者として、十二代坂倉新兵衛、三輪休和が認定される。
飛んでいるおり、
「昭和23年」以降は、英男が、「山口県教育庁社会教育課」におり、
「萩焼」について、主として「担当」しており、
流布≠オている「萩焼」の「歩み」には、困ったこと≠ェあるとしていましたので、
「萩焼」=エポックメーキング≠ニなった昭和二、三十年代のその歩み
の方を御覧いただきたいと思います。
昭和18(1943)年=「商工省」による「工藝技術保存資格者」の認定
については、英男のまだ、「関係」していない時のことですが、この「工藝技術保存資格者」の認定については、
私が、直接的≠ネ「資料」を捜し出した上で記述しています。
困った情報≠フ流布≠オている現状において、この「昭和18年」以降については、不遜な言い方≠ゥも知れませんが、
「萩焼史」・「日本の工芸史」に、役に立つ=u資料」となるハズだと思っています。

なお、この「萩焼略年譜」は、「日本工芸会山口支部」の「ホームページ」に設定されており、大きな=u影響」があると思います。
部分的≠ノ、修正の「検討」を御願いしていますが、
公的≠ネ「資料」に拠っているので、公的≠ネ「資料」において、「修正」されない限り、「いらうことはできない」と言われています。
「萩市」の「ホームページ」にも、詳しい「萩焼の歴史」がありましたが、「問題点」があることを指摘したところ、「資料」に拠っているので、部分的≠ネ「修正」はできないとして、私の「指摘」した箇所にとどまらず、「明治維新」以後は、削除されています。

現在≠フ 「萩市」の「ホームページ」にある ● 「萩焼の歴史」の「記述」

萩焼の起源は400年前にさかのぼります。
豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592〜1598年)で、朝鮮の陶工・李勺光(り しゃくこう)と李敬(り けい)の兄弟を伴って帰国しました。
後に、毛利輝元が安芸の国広島で2人を預かりました。
1600年の関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、領地を中国8か国120万石(現、中国5県)から周防・防長の2か国36万石(現、山口県)に減封され、居城を萩の地に移すことになりました。
これに併せて、2人の兄弟も萩の地に住まわせました。
兄・李勺光は、萩松本村中の倉(現、萩市椿東中の倉)で薪の使用を許され松本御用窯として開窯したのが萩焼の始まりと言われています。
李勺光の死後、弟・李敬が後を継ぎ「坂 高麗左衛門」(さか こうらいざえもん)に任ぜられました。
慶安時代(1648年)に入ると、多くの諸窯が召し抱えられ古萩の全盛時代を形成します。
しかし、寛文(1661年)以降はそれまでの高麗茶碗や織部、御手本風以外に楽焼の作風が加わって多様化し、萩焼開窯以来の李朝の作風は遠のき、萩焼独特のものが焼成されました。
 萩焼は大きく分けると、坂高麗左衛門の坂窯、三輪休雪の三輪窯、林伴六らの3流派があります。また、明暦3年(1657年)には、深川(現、長門市)に深川御用窯が開設されました。


  (参考)
@ が、伴って帰国≠オたのがはっきり≠オませんが、後に、毛利輝元が安芸の国広島で2人を預かりました。とありますから、秀吉が「主語」になるのでしょうか?
A 「開窯」についての「説明」も、
・朝鮮の陶工・李勺光と李敬の兄弟≠ェ同時期に来日した。
兄・李勺光は、萩松本村中の倉(現、萩市椿東中の倉)で薪の使用を許され松本御用窯として開窯したのが萩焼の始まり
・李勺光の死後弟・李敬後を継ぎ「坂 高麗左衛門」に任ぜられました
とあり、
小山先生、佐藤氏、河野良輔氏のいずれ≠ニも異なっています
さらに、新たな=u記述」もあります。
私には、何を元にしてのモノか不明ですが、「別の説」として「紹介」しておきます。


このようなワケで、私としては、公的な°@関=「山口県立萩美術館」石ア泰之氏に、
長い時間をかけて、検討していただくことを御願いしていますが、
[平成23年3月20日]現在
、まだ、「形」として現れていません。


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