平成19年8月25日 公開
平成22年8月26日  更新


● 小山冨士夫(富士夫)先生の「来県調査」の結果

(小山先生は、℃m夫のハズですが、℃m夫としている「サイト」が思いのほか多いため、「検索」がどちらでも可能なようにします。)



本来なら、このような「手紙」は、公開すべきではないのですが、12代坂倉新兵衛氏に対して、権威者≠フ「証言」のモト、一流新聞社≠フ「記者」の手で、とんでもない≠アとが流布((ここをクリック≠キると飛べます))しているため、小山先生のご長男=岑一〈しんいち〉氏の「了承」をいただいき、
@ こうして、「ホームページ」において公開≠オているほか、
A 「山口県文書館」に「寄贈」し、[河野英男収集文書 bX3]として整理されています。



●  手  紙 〈昭和31年6月20日消印 〉

 差出人=小山冨士夫先生
 受取人=河野英男


初めの半分は、タイプ印刷で、それに、毛筆で、「小山冨士夫」「河野英男」とあります。(河野英男に「様」はありません)


拝啓
初夏新緑の候ますます御健勝のこととおよろこび申し上げます。
去る六月二日以来福井、京都、熊本、佐賀、山口県と長い旅をつづけ十五日無事帰宅致しました。
御地参上の節は皆様に一方ならぬ御世話に相成り厚く御礼申し上げます。
一筆とりあえず御礼まで。
  六月十八日 
小山冨士夫
河野英男


このたびは一方ならぬ御世話に相成り御蔭様にて宿願となっていました萩焼の見学も出来、一通りの概念を得られました。
作品としては坂倉新兵衛氏が最も優れていると思います。三輪休雪氏も人物作品ともに魅力を感じます。先ず御両氏を県の無形文化財に御指定されることが適当ではないかと存じます。
重要無形文化財の指定は有田・京都並□製陶地のことも考慮の上、坂倉氏の技術を先ず指定したい下心ですがいづれ他の方とも相談の上方針定めたいと思っています。

厚く厚く御礼申上げます。


























↑ 左は「第3回 日本伝統工芸展」の『図録』に、右は「第4回 日本伝統工芸展」の『図録』に掲載された12代坂倉新兵衛氏の作品。(掲載された≠ニするのは、「2作品」を応募、「2作品」とも「入選」しているためです。)
なお、左の「写真」の方が鮮明なのは、所持している『図録』から取り込んでいるためです。(右の方は、「国立国会図書館」所蔵の『図録』の「コピー」を「スキャナ」で取り込んだもの)
「第3回日本伝統工芸展」は、小山先生の推薦(この「第三回工芸展」から、「工芸会」所属でなく、一般≠ノも、「理事」または「正会員」の「推薦」で「出展」が可能になりました。「理事」である小山先生の「推薦」は、「重要無形文化財保持者(俗称 人間国宝)」の有力候補≠ニして、認知≠ウれておくべきだというお考えによるものです。)により、出展した作品で、評判≠呼びましたし、
「第4回 日本伝統工芸展」の作品については、小山先生から「日本工芸会報bP0」の中で、(一般的にいつて昨年にくらべて遥かに低調である。・・・しかし、個々の作品についていえば、昨年にくらべ、一層の努力と研究のあとのありありとあらわれているものもある。例えば柿右工門の蓋物を筆頭にして)・・・萩の坂倉新兵衛、三輪休雪の茶碗、・・・など、昨年にくらべていいと思った≠ニ記しておられます。




晩年の12代坂倉新兵衛氏。
右側の方は、「萩焼」に理解の深かった岡崎茂樹氏です。

新兵衛氏の、「重要無形文化財(人間国宝)」への「指定申請」は、昭和31年(76歳)、「記録選択」認定は昭和32年3月(数え≠フ77歳)ですから、用≠ゥら芸≠ヨの転換は時間的に%しく、技≠フ人として、その生涯を終えられたのです。

その死は、
昭和35年10月 東京高島屋に於いて「秀作個展」開催
と、お元気だったのに、
昭和35年11月27日、脳溢血により病臥の状態になられ、
昭和35年12月3日、午後11時に亡くなられるというように、突然のものでした。



12代坂倉新兵衛氏を追悼した『陶匠 坂倉新兵衛』〈昭和39年10月10日発行〉より「スキャナ」によって、紹介します。



























「写真」は、新兵衛氏より「喜寿」を迎えたとしていただいた「挨拶状」に同封されていた新兵衛氏手書きの絵「挨拶状」の中に、同封されていたものです。











●  「関連」した「ページ」 ─ 私の「ページ」の抜粋>氈@

「萩焼」のindex
↑ 私の「萩焼」に関する「調査・研究」を一覧にし、「リンク」によって、「アクセス」していただくようにした「ページ」です。
昭和二、三十年代に、「萩焼」に「仕事」として係わった父=英男ですが、残念ながら=A疑問のあることが流布≠オているため、晩年、父の「秘書」的な立場にあった私が、後世に、出来る限り=u正しい」ものをと、「作成」したものです。
 


「萩焼の歴史」=エポックメーキング≠ニなった昭和二、三十年代のその歩み

   ↑  小山先生あっての「萩焼」の「歩み」です。
 なお、「萩焼」の「歩み」は、「陶芸史」における典型≠ニしての「歩み」をしたワケで、「陶芸史」の「参考」になると、私は思っています。


『萩焼人国記』中の「休和物語」の数々の誤り≠ニ事実≠ニしての休和氏の歩み
↑ 本来≠ヘ、明らかにされることはない≠ニ思われることまでもが、一流紙≠ニされている「朝日新聞」の記者が、山口県立美術館長=E専門学芸員=E山口県埋蔵文化財センターの次長≠ニいった公的な立場≠ノある人達の「全面的な協力」を受け 、更には、記者自身が、「足による取材」を鉄則とする新聞記者の姿勢は守った≠ニまで「あとがき」に書いて出版された書籍なのですが、事実≠ニ違ったことも少なくないのです。
12代坂倉新兵衛氏に対するとんでもないこと≠ヘ、この中に書かれています。
小山先生の「古萩の歴史と特質」
↑ 昭和二、三十年代の「萩焼」の評価正確≠ノ「理解」することが大前提≠フハズ≠ネのですが・・・・


「工芸技術保存資格者」について
↑ この「工芸技術保存資格者」に、「萩焼」から何人が認定されているかということスラ、「把握」していないという信じられない≠アとが事実≠ニしてあるのです。


「人間国宝」候補者の「プール」としての「記録選択」?
    ↑  藤島亥治郎博士の話、 小山先生の「手紙」 及び 鈴木健二氏との「電話」をモトに推測しています。

『日本工芸会山口支部 40年のあゆみ』の「紹介」と「問題点」の指摘
↑ この『40年のあゆみ』には「問題」があり、更に、『50年のあゆみ』では、ほぼ、そのまま=A「問題点」を引き継いでいます。