第8話『母の遺したトランペット』(前編)

第8話『母の遺したトランペット』(前編)


山から吹き下ろす風が、演習場を静かに渡っていく。

新しく決まった隊列のまま、誰も動かない。

その静けさを破ったのは、カンタービレ軍曹だった。

「隊長。」

俺は頷く。

「どうしました?」

「一つ、確認しておきたいことがございますわ。」

穏やかな声だった。

だが、その瞳は実戦を見据えている。

「ファーストが負傷した場合、交代要領はどのようにお考えでしょうか。」

演習場が静まる。

誰もが俺を見ていた。

俺は迷わず答える。

「ソステヌート。」

「はい。」

「高音は任せられるな。」

「はい。問題ありません。」

「副ファーストを頼む。」

「了解しました。」

短い返事。

その一言に迷いはなかった。

続いて視線を移す。

「ペザンテ。」

大柄な青年が静かに顔を上げる。

「……はい。」

「ソステヌートが上がったら、セカンドを支えてくれ。」

「了解です。」

それだけだった。

だが、その低い声は不思議と安心感があった。

「隊長!」

アクセントが勢いよく手を挙げる。

「俺はどこでも行けます!」

スタッカートがすぐ横で笑う。

「だから、お前はまず勝手に飛び出すな。」

「何だよ!」

「図星だろ。」

二人が顔を見合わせる。

その様子に、演習場へ小さな笑いが広がった。

「……。」

カンタービレ軍曹が静かに視線を向ける。

それだけで二人は姿勢を正した。

「失礼しました!」

「すみません!」

俺も思わず笑う。

「元気なのは悪くない。」

隊員たちを見回す。

「でも。」

「誰か一人が欠けても、部隊は止まらない。」

「そのための交代要員だ。」

「誰が欠けても。」

「必ず全員で帰る。」

さっきまで笑っていた隊員たちが、一斉に頷く。

「はい!」

力強い返事が山へ吸い込まれていった。

少し離れた場所から、リアルダが歩み出る。

「私からも、一つ。」

隊員たちが彼女を見る。

「私は情報士として皆さんと同行します。」

「敵の位置。」

「地形。」

「戦力。」

「それを確認して、皆さんへ伝えるのが私の仕事です。」

レガートが穏やかに笑った。

「リアルダさんがいるから、安心して前へ出られるんです。」

アクセントも大きく頷く。

「俺なんて、何回助けられたことか!」

「前も敵に突っ込もうとして止められたし。」

スタッカートが吹き出す。

「"前も"じゃない。」

「毎回だ。」

演習場に笑いが広がる。

ドルチェが優しく微笑む。

「皆さん、本当に仲がよろしいですわ。」

グラヴィオーソも小さく肩をすくめた。

「賑やか。」

少しだけ間を置く。

「……でも、嫌いじゃない。」

リアルダは照れくさそうに笑った。

「そんな、大げさですよ。」

「私は見落とさないだけです。」

俺はリアルダを見る。

「危険じゃないのか。」

リアルダは少しだけ考えた。

そして、静かに頷く。

「はい。」

「危険です。」

山から吹く風が、前髪を揺らした。

「でも。」

「一つ見落としたら。」

「皆さんが帰れなくなります。」

それだけだった。

それ以上、何も言わない。

演習場には風の音だけが流れていた。

俺はリアルダを見る。

小柄な背中だった。

武器は持たない。

それでも、誰より危険な場所へ向かう。

俺は静かに、自分のトランペットケースへ視線を落とした。

その時だった。

「隊長様!」

明るい声が空気を変えた。

ブリランテだった。

ケースを見つめながら、おずおずと口を開く。

「あの……。」

「そのニューヨークモデル……。」

「もし、ご迷惑でなければ。」

「一度だけ、吹かせていただけませんか?」

その瞳には、憧れしかなかった。

スタッカートが苦笑する。

「ブリランテ、それ気になってたもんな。」

アクセントも笑う。

「隊長のケース、ずっと見てたぞ。」

「ち、違います!」

耳まで真っ赤になる。

「……少しだけです!」

演習場に笑いが広がる。

俺も自然と笑っていた。

「そんなに興味があるなら。」

そう言って、ケースへ手を伸ばす。

指先が止まった。

ほんの一瞬。

風だけが静かに吹き抜ける。

「あれ……?」

ブリランテが小さく首を傾げる。

「ああ、ごめん。」

俺は笑顔を作った。

留め具へ指を掛ける。

カチリ。

乾いた音が、静かな演習場へ響く。

ゆっくりと蓋を開く。

柔らかな陽射しが差し込んだ。

銀色のトランペットが、静かに姿を現す。

誰も声を上げなかった。

新品のような輝き。

大切に、大切に守られてきたことが、一目で分かる。

「……きれい。」

ブリランテが小さく息をのむ。

俺は静かに楽器を持ち上げた。

ほんのわずかに、右手が震える。

誰も気付かない。

リアルダだけが、その横顔を静かに見つめていた。

何も聞かない。

何も言わない。

ただ、そっと目を伏せる。

俺は小さく息をついた。

「大事な相棒なんだ。」

そう言って、ブリランテへ手渡す。

彼女は壊れ物を扱うように、そっと受け取った。

「ありがとうございます……。」

その笑顔は、初夏の陽射しより眩しかった。

山から吹く風が、演習場を静かに吹き抜ける。

誰も知らない。

このトランペットが、隊長にとってどれほど大切な贈り物なのか。

そして。

このケースが、今日まで一度も開かれなかった理由を。


第9話『母の遺したトランペット』(後編)
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2026年07月04日