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第143話『お見舞い』

第143話『お見舞い』


益田駐屯地。

執務室。

「隊長」

カンタービレが。

暗い顔をしている。

「二人とも」

「命はとりとめました」

一拍。

「……命は」

「精神攻撃か」

「はい」

「我々の力では」

「どうしようもないと」

「お医者様が……」

その時。

職員が駆け込んできた。

「たっ、大変です!」

「益田病院が」

「何者かに襲撃されています!」

「!?」

◇

益田病院。

病室。

二つの影。

「使い様」

影踏みが。

エネルジコを見る。

「本当にやるんです?」

「貴方がやりますか?」

「いや……」

「私では」

「!?」

エネルジコが。

二人を見る。

「あら」

「気づいたの?」

「とどめを刺しに」

「来たのか……?」

使いが。

顔を寄せる。

「今」

「楽にしてあげる」

「戦場では勇敢な者から命を落とす」

「ふごっ!?」

◇

廊下。

「始末されましたか」

「あと一人ね」

「こちらへ」

二人が歩く。

「貴方」

「本当に有能ね」

「邪魔者の動きを封じる術」

「理不尽な婆さんには」

「効きませんでしたが」

「……あれは別よ」

◇

病室。

「ナースコールは」

「してないよ」

レガートが。

二人を見る。

「あら」

使いが笑う。

「貴方」

「やっぱり男前ね」

「……え?」

顔が近づく。

「戦場では仲間想いの者から命を落とす」

「うわっ!?」

◇

益田病院前。

警察車両が。

周囲を取り囲んでいる。

「出てきた!」

「正面から堂々と……」

使いが。

玄関から歩いてくる。

「あら」

「皆さん」

「お早いお着きで」

「何しに来たんです!」

リアルダが。

前へ出る。

「え!?」

タケハラが。

足を止めた。

「身体が動かない!」

使いが。

横を見る。

「そこのスナイパーさん」

「殺気がダダ漏れよ」

「くっ……」

グラヴィオーソも。

動けない。

「また」

影踏みが。

一礼する。

「戦場で」

「相見えましょう」

黒い風が吹く。

次の瞬間。

二人は消えていた。

◇

「隊長!」

病院の職員が。

駆けてくる。

「二人の精神状態が――」

「正常に戻っています!」

「……は?」

◇

山道。

ヒノエウマの衆。

「本当に」

影踏みが。

使いを見る。

「よかったんですか?」

「よくないわよ」

使いが。

顔を背ける。

「私……」

「初めてだったのよ」

「純潔の乙女の――」

火馬。

「……」

送り提灯。

使いが。

ゆっくり振り返る。

「それ以上言うと」

「ただじゃおかないわよ」

「わーっ!」

怨霊童。

「耳が赤い!」

「ホントだー!」

呪詛童。

「耳が赤い!」

使いは。

黙って前を向いた。

影踏みは。

小さく笑った。

――ヒノエウマ編・終


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2026年09月16日

第142話『川遊び』

第142話『川遊び』


「なぜ――」

ヒノエウマの使いが。

グランディオーソを見る。

「なぜ」

「我々を見逃すんです?」

「見逃す?」

グランディオーソが。

鼻を鳴らした。

「フンっ」

「山陰と広島のエースを」

「ここまで追い込んだんじゃ」

「十分な戦果じゃろう」

「……」

「勝つだけが」

「戦ではない」

巨大なチューバを担ぐ。

「生きて帰るまでが――」

「川遊びじゃ!」

◇

ヒノエウマの使いが。

振り返る。

怨霊童。

火馬。

呪詛童。

送り提灯。

影踏み。

五体を見渡した。

「貴方達は」

「よく戦いました」

一拍。

「帰りましょう」

しばしの沈黙。

「……はい」

ヒノエウマの衆が。

静かに退いていく。

使いが。

振り返った。

「……ありがとうございました」

「フンっ」

グランディオーソは。

それだけ答えた。

◇

夕方。

益田へ戻る道。

「ウルセンジャーだー!」

「ブリランテちゃーん!」

子供達が。

駆け寄ってくる。

「握手してー!」

「もちろんですよー!」

ブリランテが。

嬉しそうに手を差し出す。

「順番ですよー!」

「わーい!」

タケハラが。

俺の隣へ寄る。

「閣下……」

小声。

「噂以上に」

「出鱈目な人ね」

「生きてる世界が」

「俺達と違うからな」

ソステヌートが。

眼鏡を押し上げる。

「恨みは」

「恨みを買う」

「ヒノエウマの衆は――」

一拍。

「恨みの思念が」

「具現化した存在です」

「閣下は」

「そう判断されたのでしょう」

少し前を歩く。

グランディオーソ。

「フンっ」

振り返らない。

ただ。

耳が。

少し赤かった。

◇

夕方。

益田駐屯地。

食堂。

皆で食事をする前に。

タケハラが立った。

「改めまして」

姿勢を正す。

敬礼。

「広島西部方面軍第3軍団」

「第3トランペット遊撃隊長」

「タケハラです」

「本日付で――」

にこっ。

「皆さんのお仲間になります♪」

「え?」

タケハラが。

俺の方へ寄る。

「ねっ」

「レッド君♪」

「……近いです」

リアルダが。

すっと間に入る。

「隊長様は」

ブリランテも。

手を上げた。

「みんなのものですよー!」

「何の話だ?」

「……面倒なのが増えた」

グラヴィオーソが呟く。

「広島の隊長!?」

アクセントが。

目を丸くする。

「エリートっス!」

スタッカートが。

身を乗り出す。

カンタービレは。

小さく笑った。

「頼もしいわね」

「……お腹すいた」

ペザンテ。

「うふふっ」

ドルチェ。

ソステヌートも。

ほんの少し笑う。

「ピピ♪」

チャッピーが。

タケハラの周りを歩き回る。

「こらっ」

タケハラが。

腰に手を当てた。

「人が話してる時は」

「姿勢を正さんか!」

「ピッ!」

チャッピーが。

ぴしっと背筋を伸ばす。

「よろしい♪」

タケハラが。

ウインクした。

◇

夜。

倉庫。

一人。

トランペットを手入れする。

布で。

ゆっくりと。

ベルを拭く。

ふと。

棚を見る。

新しく増えた。

二つのケース。

「……」

俺は。

楽器を拭き続けた。


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2026年08月29日

第141話『山陰の守護神』

第141話『山陰の守護神』


「……もう」

唇をかみしめる。

「打つ手がない……」

その時。

「ワハハハハハハハ!!」

「!?」

「お前たち若造ども!」

「まだ川遊びの途中じゃ!」

「勝手にあきらめるでないわ!」

「……え?」

「フンっ!」

ボォォォォンッ!!

「うわっ!」

「きゃあっ!」

凄まじい低音。

ヒノエウマの衆が。

まとめて吹き飛んだ。

俺達まで。

河川敷を転がる。

「な、何だ……」

顔を上げる。

土手の上。

巨大なチューバ。

その横から。

小さな顔が覗いていた。

「……」

チューバが。

喋っている?

いや。

「……閣下だ」

「誰が小学生じゃー!」

「言ってない!」

「フンっ!」

ボォォォォンッ!!

「うわああっ!」

また。

吹き飛ぶ。

「本日!」

リアルダが転がりながら叫ぶ。

「二回目ですー!」

◇

グランディオーソが。

土手を下りてくる。

「閣下!」

カンタービレが。

身体を起こした。

「軍団長の救援へ」

「向かわれたのでは?」

「フンっ」

「たまには奴も」

「痛い目に遭った方がよかろう」

「……」

グランディオーソが。

ヒノエウマの衆を見る。

巨大なチューバを構えた。

ボォォォォ――。

白い♪が。

次々と浮かぶ。

五線が走る。

一つ。

二つ。

また一つ。

大小の円が。

次々と咲いていく。

河川敷いっぱいに。

白い防御弾幕が広がった。

「……」

リアルダが見上げる。

「綺麗です……」

ブリランテも。

目を輝かせた。

「花火大会ですよー!」

◇

「使い様……」

火馬が立ち上がる。

送り提灯も。

構え直した。

「我々は」

「まだやれます」

ヒュン!

ヒュン!

ヒュン!

音響弾が。

一斉に放たれる。

ドン!

ドン!

ドゴォォォーン!!

白い防御弾幕が。

全て受け止めた。

「……」

俺は。

言葉を失う。

「コレが……」

「閣下の本気……」

タケハラも。

呆然と見上げる。

「本当に……」

「上級使いなの……?」

◇

「使い様」

影踏みが。

静かに告げる。

「先ほどから」

「あの者に術を仕掛けておりますが……」

「……」

「全く効きません」

一拍。

「お下知を」

「……」

ヒノエウマの使いの額に。

汗が浮かんだ。

無数の白い防御弾幕は。

まだ。

咲いたまま。

その中心。

グランディオーソが。

大きく息を吸った。

「……!」

巨大な♪のかたまりが。

大きなベルへ。

収束していく。

グランディオーソが。

ベルを上へ向けた。

「フンっ!」

ボォォォォォンッ!!

空砲。

空気が震える。

川面が。

大きく波打った。

「……!」

「なっ……」

ヒノエウマの衆が。

驚愕する。

「ワハハハハハハハ!!」

グランディオーソが笑う。

「貴様らー!」

「山陰と広島のエースを」

「ここまで追い込んだんじゃ!」

「この辺で」

「よかろー!」

「……俺達が?」

思わず呟く。

「他に誰がいるのよ!」

「いや……」

ヒノエウマの使いは。

グランディオーソを見つめる。

やがて。

構えていた手を。

ゆっくり下ろした。

「なぜ――」

「……」

「なぜ」

「我々を見逃すんです?」


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2026年08月29日

第140話『ツヨイ』

第140話『ツヨイ』


「誰が太いのよ!」

「いや」

「音が――」

「太くありません!」

女は。

俺の手を引いた。

「タケハラです!」

「タ、ケ、ハ、ラ!」

「……はい」

「よろしい!」

タケハラが振り返る。

白い士官制服。

トランペットを構えた。

「さて――」

大きく息を吸う。

ベルの周囲へ。

太い♪が集まる。

「お返しね」

ヒュン――!

ドゴォォォォン!!

「ぐっ!」

一体が。

大きく吹き飛んだ。

「おおー!」

ブリランテが目を丸くする。

「ふっといですよー!」

「太くない!」

「音の話ですよー!」

「却下!」

「厳しいな……」

◇

ヒノエウマの使いが。

静かに手を上げた。

五体が散る。

右。

左。

距離も開く。

「……?」

タケハラが構えた。

大きく息を吸う。

その瞬間。

ヒュン!

「っ!」

かわす。

集まり始めた♪が散った。

反対側。

ヒュン!

「きゃっ!」

肩をかすめる。

「タケハラ!」

「平気!」

もう一度。

大きく息を吸う。

ヒュン!

「っ!」

また。

撃てない。

「……何、コレ」

タケハラの笑みが消えた。

◇

右から。

ヒュン!

かわす。

左から。

ヒュン!

「っ!」

「タケハラ様!」

「後ろです!」

リアルダが叫ぶ。

ヒュン!

「きゃっ……!」

脇腹をかすめる。

タケハラが。

一歩よろめいた。

「……コイツら」

息を整える。

顔を上げた。

「ツヨイ」

◇

「タケハラ!」

「分かってる!」

トランペットを構える。

「一発――」

一歩。

踏み込む。

「入れればいいんでしょ!」

ヒュン!

「っ!」

かわす。

走る。

向きを変える。

さらに。

ヒュン!

「しつこい!」

その時。

一瞬だけ。

射線が開いた。

「今!」

大きく息を吸う。

太い♪が。

ベルの周囲へ集まる。

「放つ!」

ヒュン――――!!

ドゴォォォォォォン!!!

河川敷が震える。

土煙が上がった。

「……!」

その向こう。

ヒュン!

「えっ」

ドゴォォォーン!!

「キャーッ!!」

タケハラが。

大きく吹き飛んだ。

「タケハラ!」

河川敷へ。

叩きつけられる。

「っ……」

起き上がろうとする。

だが。

身体が動かない。

絶望という空気が。

戦場を満たしはじめた。


第141話『山陰の守護神』
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2026年08月29日

第139話『レッド君♪』

第139話『レッド君♪』


高津川。

ヒュン!

ドン!

「くっ……!」

ドルチェの防壁が揺れる。

♪が砕けた。

「まだ……ですわ!」

すぐに張り直す。

その横。

「チャッピー!」

「右カラ二体!」

ヒュン!

ヒュン!

「防壁――!」

ドゴォォォーン!!

「きゃっ!」

カンタービレが吹き飛んだ。

「カンタービレ!」

ペザンテが前へ出る。

ドン!

「ぐっ……!」

「……通しません」

「右です!」

リアルダの声。

「レッド様!」

「分かった!」

ヒュン!

かわす。

もう一発。

肩をかすめた。

熱い。

◇

「……ソコ」

ヒュン!

外れる。

「……ソコ」

また。

グラヴィオーソが舌打ちする。

「完全に読まれています」

ソステヌートが呟いた。

「ピピ!」

チャッピーが叫ぶ。

「正面!」

ヒュン!

「右!」

ヒュン!

「後ロ!」

ドン!

ドン!

ドルチェの防壁が軋む。

ブリランテが。

口元を拭った。

赤い。

「まだ……」

トランペットを構える。

「やれるですよー!」

タカタカタカ――!

ヒュン!

「きゃっ!」

河川敷を転がった。

「ブリランテ!」

「だ、大丈夫ですよー……」

その声にも。

いつもの元気はなかった。

◇

影踏みが。

俺達を見る。

「使い様」

「この者達」

「いずれ、厄介になります」

杖を上げる。

「ここで始末しておくのも――」

「なりません」

「……」

使いは。

静かに首を振った。

「広島の会戦で」

「我々は、見逃されました」

俺達を見る。

「受けた情けを」

「仇で返すことはできません」

影踏みが笑う。

「フフフっ」

「甘いですね」

「構いません」

使いは。

後ろの五体を見る。

「ですが――」

一拍。

「ウチの子達には――」

「この度は」

「勝ってもらいます」

◇

六体が構えた。

「来るぞ!」

ヒュン!

ヒュン!

ドン!

ドン!

「ドルチェ!」

「はい!」

ドゴォォォーン!!

防壁が砕けた。

「きゃあっ!」

「ドルチェ!」

膝をつく。

「まだ……」

「無理するな!」

俺はトランペットを上げた。

ヒュン!

「っ!」

もう一発。

ドン!

「ぐっ!」

息が抜けた。

膝が落ちる。

「レッド様!」

「隊長様!」

「……大丈夫だ」

立とうとする。

足に。

力が入らない。

顔を上げる。

ヒノエウマの使いが。

手を向けていた。

歪んだ♪。

「……」

ヒュン――!

その瞬間。

トゴォォォォォン!!

「!?」

ヒノエウマの衆が。

まとめて吹き飛んだ。

川面が揺れる。

草が伏せる。

「なっ……!」

土煙の向こう。

土手の上。

白い士官制服。

トランペットを持った女が。

立っていた。

「……え?」

女は。

俺を見つけると。

笑った。

そのまま。

土手を駆け下りてくる。

「レッド君♪」

目の前で止まり。

手を差し出す。

「君らしくないゾ」

「……」

この顔。

「……広島の……」

「うん?」

「音の……」

女の眉が。

ぴくっと動く。

「太い子?」

「誰が太いのよ!」


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2026年08月29日

第138話『私達と違って』

第138話『私達と違って』


高津川。

カンタービレが左翼を見る。

「ドルチェ、防壁を」

「分かってますわ」

淡いピンクの防御弾幕が開く。

ヒノエウマの使いが手を上げた。

「参ります」

ヒュン!

ドン!

防壁が弾く。

「右翼――」

トランペットを構える。

「俺についてこい!」

「了解!」

「行くっス!」

ブリランテが前へ出る。

「牽制するですよー!」

タカタカタカタカ!

ドドドドドド!

敵が散る。

「リアルダ!」

「射線、共有します!」

「アクセント!」

「了解!」

ヒュン!

ドン!

「スタッカート!」

「行くっス!」

ヒュン!

ドン!

アクセントが息を整える。

「前にコイツらと戦った時より……」

スタッカートも構え直す。

「身体が動くっス」

「ああ」

鬼住の顔が浮かんだ。

「おっちゃん達の方が強かったからな」

◇

左翼。

「チャッピー!」

「ピピ! 右カラ来マス!」

「……ソコ」

ヒュン!

ドン!

グラヴィオーソの狙撃が入る。

ソステヌートが空を見る。

「風向きが変わりました」

「ピピ!」

チャッピーが補正する。

「……ソコ」

ヒュン!

敵が身をかわした。

「……」

グラヴィオーソの眉が。

わずかに動く。

右翼。

「まだまだですよー!」

タカタカタカタカ!

ドドドドドド!

「今だ!」

ヒュン!

ドン!

一体がよろめく。

「よし!」

ヒノエウマの使いが。

こちらを見る。

「……貴方達」

「?」

「愛されているのね」

ヒュン!

かわす。

「ウルセンジャー」

ヒュン!

「ウルセンジャーって」

「何の話だ!」

一瞬。

女の表情が沈んだ。

「私達と違って……」

「……?」

影踏みが杖を上げる。

「フフフっ」

ヒュン!

ヒュン!

「ドルチェ!」

ドン!

ドン!

防壁が揺れる。

「まだ、大丈夫ですわ」

「チャッピー!」

「ピピピ!」

「右!」

アクセントが振り向く。

ヒュン!

ドゴォォォーン!

「ぐっ!」

「アクセント!」

スタッカートが援護に入る。

「下がるっス!」

反対側。

ヒュン!

「隊長!」

ペザンテが前へ出る。

ドン!

「っ……!」

「まだ、いけます」

「……」

何か。

変だ。

◇

ブリランテが構える。

「牽制するですよー!」

タカタカタカタカ!

今度は。

敵が散らない。

「えっ?」

歪んだ防壁が開く。

ドドドドドド!

その陰から。

ヒュン!

「ブリランテ!」

ドゴォォォーン!

「きゃっ!」

河川敷を転がる。

「だ、大丈夫ですよー……!」

ソステヌートが眼鏡に手をかけた。

「対応されています」

「……」

左翼。

ヒュン!

ヒュン!

左右から。

ドルチェの防壁が叩かれる。

ドン!

ドン!

♪が砕けた。

「まだですわ!」

すぐに修復する。

その瞬間。

反対側。

ヒュン!

ドン!

五線が切れる。

カンタービレの表情が変わった。

「修復する場所まで……」

「……ソコ」

ヒュン!

外れる。

もう一度。

「……ソコ」

ヒュン!

また。

ソステヌートが呟く。

「射線も読まれています」

「……」

ヒノエウマの使いは。

静かにこちらを見ていた。

◇

「なら――」

俺はトランペットを構える。

「みんな!」

息を吸う。

「三秒――」

使いの目が。

俺を捉えた。

「――させません」

「!?」

ヒュン!

かわす。

すぐに。

反対側。

ヒュン!

「くっ!」

集まり始めた。

橙色の小鳥が散った。

「……!」

もう一度。

構える。

一羽。

二羽。

ヒュン!

ドン!

「ぐっ!」

また。

散る。

三秒どころか。

一秒も作らせてくれない。

「……そうか」

使いを見る。

「広島と――」

一拍。

「前の戦いで」

「俺達の戦い方を……」

「……」

使いは答えない。

ただ。

小さく微笑んだ。

◇

ヒュン!

ヒュン!

ドン!

ドン!

防壁が軋む。

「左翼!」

カンタービレが叫ぶ。

「和音を崩さないで!」

「はい……!」

「ピピ!」

ブリランテが。

唇を拭う。

「まだ……」

トランペットを構える。

「まだ、やれるですよー!」

ヒノエウマの使いが。

一歩前へ出た。

「良い部隊ですね」

「……」

後ろの五体を見る。

その目が。

少しだけ柔らかくなる。

「だからこそ」

「この子達にも――」

一拍。

「負けさせるわけにはいきません」

影踏みが笑う。

「フフフっ」

杖を上げた。

「そろそろ」

「お終いにしますか」

六体が構える。

ヒュン!

ヒュン!

ヒュン!

「防げ!」

ドン!

ドン!

ドゴォォォーン!!

耳の奥が鳴る。

唇が痺れる。

「隊長!」

「構うな!」

「リアルダ!」

「計算中です!」

「チャッピー!」

「ピ……!」

顔を上げる。

土煙の向こう。

巫女姿の女性が。

静かに。

俺達を見ていた。


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2026年08月29日

第137話『良かった♪』

第137話『良かった♪』


益田駐屯地。

その日は朝から。

悪のみなさんの活動が活発だった。

各地から。

出動要請が相次いだ。

昼を過ぎる頃には。

駐屯地の部隊は。

ほとんど出払っていた。

◇

昼過ぎ。

益田駐屯地、正門。

一人の女性が立っていた。

白い巫女装束。

長い黒髪。

守衛が声をかける。

「何かお困りですか?」

女性が振り返った。

柔らかな笑顔。

「要請ですか?」

「いいえ」

女性は。

駐屯地の中を見渡した。

「……人気が少ないようですが」

「本日、皆さんは?」

「ああ」

守衛も中を見る。

「今日は朝から立て込んでましてね」

「ほとんど出払ってますよ」

「そうなんですか」

女性が微笑む。

「大変ですね」

「ええ、まあ」

他愛もない。

世間話。

夏の日差し。

蝉の声。

「遊撃隊の皆さんも?」

「え?」

女性は。

微笑んだまま。

「皆さん、お出かけですか?」

「ああ」

守衛が時計を見る。

「第一トランペット遊撃隊なら」

「もうすぐ帰投するはずですよ」

「……」

「先ほど連絡がありましたから」

「そうなんですか」

女性が。

小さく首を傾げる。

「今は」

「どの辺りに?」

「え?」

「帰投中なのでしょう?」

「ああ」

守衛が少し考える。

「先ほど連絡を受けた時は――」

一拍。

「高津川辺りだったかな」

「……」

ミーン。

ミンミンミン――。

蝉の声。

女性の口元が。

ほんの少しだけ。

緩んだ。

「良かった♪」

「え?」

「いえ」

深く。

丁寧に一礼する。

「ありがとうございました」

女性は。

踵を返した。

◇

正門から。

少し離れた場所。

女性が歩いてくる。

その先。

木陰に。

五つの影が立っていた。

誰も。

何も言わない。

女性も。

声をかけない。

そのまま。

五体の前を通り過ぎる。

一体。

また一体。

無言のまま。

その後ろへ続いた。

六つの影が。

同じ方向へ歩き出す。

◇

高津川。

西へ傾いた陽が。

川面を照らしていた。

土手を吹き抜ける風が。

少しだけ涼しい。

「……焼きそば」

ペザンテが呟いた。

スタッカートが振り返る。

「まだ言ってるんスか」

「美味しかった」

「たくさん、食べてたじゃないですか」

リアルダが苦笑する。

「次のお祭りまで言ってそうですね」

「言う」

「ピピ♪」

久々茂八幡宮での一戦から。

まだ数日。

少しずつ。

いつもの空気が戻り始めていた。

「……ピ」

チャッピーが。

足を止めた。

「どうした?」

返事はない。

前を見ている。

「チャッピー?」

「ピピ……」

リアルダも。

端末を開いた。

ピッ。

「……?」

指が止まる。

もう一度。

ピッ。

「反応があります」

全員の足が止まった。

「数は?」

「六」

「ランクは?」

リアルダの指が動く。

ピッ。

「……」

もう一度。

ピッ。

「リアルダ?」

ゆっくり。

顔を上げる。

「レッド様……」

一拍。

「六体――」

「全て」

「ランク持ちです」

「……」

風が吹く。

河川敷の草が。

ざぁぁっ――。

一斉に伏せた。

土手の向こう。

夕陽を背に。

六つの影が立っていた。

中央。

一人の女性が。

一歩前へ出る。

白い巫女装束。

長い黒髪。

俺達を見渡す。

そして。

微笑んだ。

「良かった」

「……」

「今日は――」

一拍。

「皆さん、お揃いですね♪」

「……!」

カンタービレの顔色が変わった。

「貴方たちは!!」

アクセントが。

拳を強く握る。

スタッカートは。

一歩後ずさった。

「ひぇーっ……」

その場に。

尻もちをつく。

「出たッス……!」

「……」

ペザンテの口から。

食べ物の話題が消えた。

ソステヌートが。

眼鏡に手をかける。

「隊長」

「眼前の敵についてですが――」

「いや」

六体を見る。

「俺は」

「コイツらを知っている」

リアルダが頷く。

「広島の会戦で――」

「殿を務めた部隊です」

ドルチェが。

巫女姿の女性を見る。

「確か……」

「ヒノエウマの使い」

「だったかしら?」

「……」

女性が微笑んだ。

「覚えていてくださったんですね」

一礼する。

「光栄です」

俺は。

楽器ケースを開いた。

カチッ。

「何の用だ」

女性の後ろで。

五体が。

ゆっくりと構えた。

「決まっているでしょう?」

川風が吹く。

草が。

ざぁぁっ――。

揺れる。

「今度は――」

笑顔が消える。

俺達を。

まっすぐ見据えた。

「私達の戦いをしに参りました」


第138話『私達と違って』
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2026年08月29日

第136話『夏祭りの一戦』

第136話『夏祭りの一戦』


久々茂八幡宮。

「儂らの言葉は――」

一拍。

「コレよ!」

ブオォォーン!

鬼住が拳を突き出す。

風圧で。

土ぼこりが舞った。

境内の幟が。

バサバサッ!

大きく揺れる。

「逃がさないぜ」

小柄な鬼が。

俺達の退路へ回った。

大柄な鬼は。

子供達の前へ立つ。

低い音が響く。

ズゥゥン――。

歪んだ♪が。

子供達の前へ円を描いて広がった。

五線が走る。

幾重にも重なり。

大きな防御弾幕を作る。

「頭ー!」

「こっちは大丈夫です!」

もう一体の女の鬼が。

ゆっくりとこちらへ回り込んだ。

「軍曹」

「左翼はソイツを」

「承知しましたわ」

正面。

鬼住が。

ゴキッ。

首を鳴らした。

「俺達は――」

「鬼住だ」

リアルダが端末を開く。

「チャッピー!」

「境内の情報を共有します!」

「ピピ!」

突然始まった戦いに。

子供達も一斉に沸き立った。

「バトルだー!」

「バトルが始まったー!」

「おじちゃん頑張れー!」

「ウルセンジャーもー!」

◇

遊撃隊右翼。

ドゴォォォン!

ドン!

ドン!

ドゴォォォン!

乾いた音が。

境内に響く。

和太鼓よりも騒がしい。

「クソっ……」

アクセントが肩で息をする。

「次から次へと」

「きりがない……」

「おっちゃん……」

スタッカートも。

息を切らしていた。

「なんで」

「全然元気なんスか……!」

「ガハハハハ!」

鬼住が笑う。

「そんなもんかぁ!」

ブオォォーン!

拳が飛ぶ。

ドンッ!

「ぐっ!」

アクセントが踏ん張る。

ブリランテが。

トランペットを構えた。

「くらうですよー!」

息を吸う。

ベルの周囲へ。

光る♪が、球状に集まり始める。

次々と。

ベルの中へ吸い込まれていく。

高音。

「行くですよー!」

タカタカタカタカ!

ヒュン!

ヒュン!

ヒュン!

ヒュン!

ドドドドドド!

「フン!」

鬼住が片手を上げた。

バシバシバシバシ!

飛んできた音響弾を。

全弾。

指先で弾き飛ばしていく。

「ええっ!?」

ブリランテの目が丸くなる。

「おはじきみたいに……」

ぐぅ〜。

ペザンテが呟く。

「……焼きそば」

スタッカートが振り返った。

「これが終わってからッス!」

「レッド様!」

リアルダの声。

「次が来ます!」

「分かった!」

鬼住を見る。

何だか。

楽しそうだ。

◇

遊撃隊左翼。

「うふふっ」

ドルチェが。

トランペットを構えた。

低音。

ベルの周囲へ。

淡いピンク色の♪が集まる。

♪は一点へ凝縮せず。

ふわり。

外側へ広がった。

円を描く。

その軌跡を。

五線譜の光が走る。

一重。

二重。

三重。

淡いピンク色の防御弾幕が。

花びらのように重なった。

ヒュン!

女の鬼が放った音響弾。

ドン!

防壁に当たる。

ピンク色の音響陣が。

波紋のように揺れた。

一枚で受け止めない。

何層もの和音が。

衝撃を少しずつ受け流していく。

「……?」

女の鬼が眉を寄せた。

「変な壁ね」

「うふふっ」

ドルチェが微笑む。

「力で止めるだけが」

「防御ではありませんわ」

その横。

グラヴィオーソが。

静かにトランペットを構えた。

「……ソコ」

ヒュン――!

「ちっ!」

女の鬼が身をかわす。

「チャッピー」

ソステヌートが空を見る。

眼鏡を上げる。

「風向きが変わった」

「ピピ!」

チャッピーの指が。

端末の上を走る。

「風向、補正」

「距離、補正」

ピッ。

「共有完了!」

グラヴィオーソのベルが。

ほんの少し動いた。

「……ソコ」

ヒュン――!

ドン!

「きゃっ!」

女の鬼が。

一歩下がる。

「姉御ー!」

小柄な鬼が笑った。

「防戦一方じゃないですか!」

「うるさい!」

「お前も手伝え!」

「へいへい!」

小柄な鬼も前へ出る。

チャッピーの目が。

忙しく動いた。

「ピピピ!」

◇

右翼。

ドゴォォォン!

鬼住の猛攻は。

まだ衰えない。

「どうしたぁ!」

ブオォォーン!

拳が飛ぶ。

「頭で考えるな!」

ドンッ!

「身体で覚えろ!」

「くっ……!」

アクセントが踏ん張る。

スタッカートが。

その隣へ並んだ。

「何だか……」

息を整える。

「慣れてきたっス」

アクセントも。

鬼住を見る。

「ああ」

「俺もだ」

「ガハハハハ!」

鬼住が笑う。

「遅いわ!」

ドンッ!

「うわっ!」

二人が転がる。

それでも。

すぐに立ち上がった。

「……」

俺は。

トランペットを構える。

鬼住を見る。

距離。

風。

周囲。

「みんな!」

右翼が。

俺を見る。

「三秒――」

一拍。

「俺にくれ!」

「了解!」

アクセントとスタッカートが。

前へ出る。

ブリランテも。

楽器を構えた。

「三秒くらいなら」

ニッと笑う。

「まかせるですよー!」

タカタカタカタカ!

ヒュン!

ヒュン!

ヒュン!

ドドドドドド!

鬼住が。

連弾を弾き飛ばす。

「小賢しい!」

その間に。

息を吸う。

一秒。

ベルの周囲へ。

橙色の小鳥が集まり始める。

一羽。

二羽。

十。

二十。

球状に。

俺のベルを包んでいく。

二秒。

小鳥達が。

次々とベルへ吸い込まれる。

音圧が。

ニューヨークモデルの中へ。

蓄積されていく。

前方。

アクセント。

スタッカート。

ブリランテ。

三人の音が重なる。

和音。

響きが。

俺の前へ伸びていく。

一本の道のように。

三秒。

最後の一羽が。

ベルの中へ吸い込まれた。

「レッド様!」

リアルダが叫ぶ。

「照準補正!」

指が走る。

「射線――開きました!」

「よし!」

身体にたまった息を。

一気に解放する。

高音。

ベルの奥で。

橙色の光が膨れ上がる。

――放つ。

ヒュン――――!!

橙色の音響弾が。

仲間の和音の上を。

滑るように走った。

さらに。

加速する。

鬼住の目が。

大きく見開かれた。

「ぬっ!?」

ドゴォォォォン!!

境内が。

揺れた。

◇

ゴスッ!

「痛っ!」

頭を殴られた。

「境内ごと吹っ飛ばす気か!」

鬼住が怒鳴る。

「スミマセン……」

女の鬼も。

腕を組んでいる。

「あんた」

「限度ってもん知らないの?」

「はい……」

小柄な鬼も睨んでいた。

「ガキどもが」

「ちびってたじゃねーか!」

大柄な鬼も続く。

「周りをよく見ろ!」

「本当にスミマセン……」

子供達を見る。

「すげー!」

「あれもう一回やってー!」

「駄目です!」

カンタービレの声が飛んできた。

「……はい」

◇

「でっ」

鬼住が腕を組む。

「何の話だったかの」

「え?」

……何だったっけ。

「あっ」

「子供達と、その……」

「隊長」

カンタービレが声をかけた。

「要請してきた保護者の方ですが」

「お子さんと」

「もう帰られましたわ」

「……え?」

境内を見る。

子供達は。

また鬼達と遊んでいた。

「……」

鬼住へ頭を下げる。

「遊んでいただいて」

「ありがとうございました」

「フンッ!」

鬼住が。

そっぽを向いた。

「ウォッホン!」

咳払い。

「……これは独り言じゃ」

「?」

「大明神様が静観なさる以上」

「儂らも」

「勝手はできん」

ため息。

ちらり。

俺を見る。

「益田から」

一拍。

「奴らを叩き出してくれる奴でも――」

「おればのぉ」

「……」

◇

久々茂八幡宮を後にする。

西へ傾いた夏の日差し。

蝉時雨の向こうから。

祭囃子がまだ聞こえていた。

「おっちゃん」

「全然変わってなかったな」

アクセントが笑う。

スタッカートも。

頭を掻いた。

「大人になっても」

「歯が立たなかったっス」

「お前達」

「昔からあんなバケモノと戦ってたのか?」

「もちろん」

アクセントが笑った。

「手加減してくれましたよ」

スタッカートが。

俺を見る。

「隊長とは違うっスー」

「……」

心が痛い。

カンタービレが口を開いた。

「でも」

「良い訓練になりましたね」

「!」

ブリランテの目が輝く。

「でしたら」

「本日の訓練は」

「なしでありますかー♪」

カンタービレが見る。

「それは」

一拍。

「それです」

「ええーっ!」

「アハハハ!」

みんなの笑い声。

俺も。

笑った。

少し歩いて。

神社を振り返る。

境内では。

鬼住達と子供達が。

まだ遊んでいる。

幟が。

ゆっくり揺れていた。

俺は――。

鬼教官達に。

一礼した。


第137話『良かった♪』
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2026年08月29日

第135話『久々茂の夏祭り』

第135話『久々茂の夏祭り』


益田駐屯地。

「みなさん、ただいま戻りましたわ〜」

「ドルチェ!」

カンタービレが迎える。

「広島はいかがでした?」

「もう、大変でしたわ〜」

ドルチェが荷物を置いた。

「祖父に、あちらこちら連れ回されまして」

「あの爺さんか……」

「お見合いもありましたし」

「えっ!?」

リアルダが目を丸くした。

「ドルチェさん、ご結婚されるんですか!?」

「うふふっ」

ブリランテが身を乗り出す。

「結婚式、呼んでくださいですよー!」

ペザンテも顔を上げた。

「……ご馳走が食べられる」

アクセントまで胸を張る。

「ファンファーレは任せてください!」

「うふふっ」

ドルチェが、みんなを見る。

「お断りしましたわ」

「ええーっ!」

「私」

少し微笑む。

「まだ、みなさんと――」

「同じ景色を見たいんですのよ」

「……」

スタッカートが、ペザンテの肩を叩いた。

「残念だったっスね」

「……ご馳走」

「アハハハ!」

久しぶりに。

みんなの笑い声を聞いた気がした。

「……」

でも。

なぜか。

その輪に入れない。

拳に力が入る。

その手に――。

そっと。

誰かの手が重なった。

「……?」

リアルダだった。

「レッド様」

優しく笑う。

「こういう時だからこそ」

「みんなで笑うんです」

「……」

みんなを見る。

「ああ」

◇

翌日。

八月も、もう終わりに近い。

朝から蝉が鳴いていた。

「出動要請が入りました」

カンタービレの一言で。

空気が変わる。

「久々の出動っス!」

スタッカートが立ち上がる。

アクセントも拳を握った。

「腕が鳴るな」

リアルダが端末を開く。

「悪のみなさんの戦力ですが――」

画面を見る。

「Bランク、一体」

「Cランク、三体です」

「え!?」

ブリランテが声を上げた。

「ちょっと待ってくださいですよー!」

「他の遊撃隊との合同か?」

「いいえ」

「上位使いが来るまで」

「俺達が時間を稼ぐ?」

「それもありませんわ」

「……?」

カンタービレが静かに答える。

「今回は」

一拍。

「我々だけです」

「……」

グラヴィオーソが呟いた。

「理不尽……」

「ピピ?」

◇

久々茂八幡宮。

古くから。

子供の健やかな成長を願ってきた神社だという。

境内は。

夏祭りの真っ最中だった。

八月下旬。

傾き始めた夏の日差し。

蝉時雨。

色とりどりの幟が風に揺れ。

屋台から、いい匂いが漂ってくる。

浴衣姿の子供達が。

境内を走り回っていた。

ぐぅ〜。

「……美味しそう」

ペザンテが屋台を見ている。

「お前、何しに来たんスか」

スタッカートが呆れたように言う。

そのまま。

辺りを見回した。

「うわっ」

「懐かしいっスね」

アクセントも境内を見る。

「ガキの頃」

「よく来たな」

「お前達、知ってるのか?」

「はい」

アクセントが頷く。

「祭りのたびに来てました」

「俺もっス」

その時。

「ちょっと!」

女性の声が飛んできた。

「貴方達、遅いわよ!」

「……?」

一人の母親が。

足早にこちらへやってくる。

「息子がお祭りに来たいっていうから」

「連れてきたら――」

ビシッ!

境内を指差した。

「あの有様よ!」

「……」

見る。

男の怪人が二体。

子供達と追いかけっこをしていた。

「待て待てー!」

「こっちだぞー!」

「キャー!」

少し離れた場所では。

女の怪人が。

子供達と手遊びをしている。

そして。

その後ろ。

腕を組み。

鬼の形相で立つ大男。

いや。

鬼、そのものだった。

「……」

俺はもう一度。

境内を見る。

「遊んでるようにしか見えませんが」

「お受験を控えてるのよ!」

「はぁ……」

「勉強しなきゃいけない時期なの!」

「とにかく」

「なんとかして!」

そして。

俺達を見る。

「貴方達、税金で生きてるんでしょ!」

「……」

カンタービレと目が合う。

(民事不介入の案件じゃないのか……)

「……行ってくる」

◇

境内へ入る。

「あっ!」

「ウルセンジャーだー!」

「ほんとだ!」

「一緒に遊ぼー!」

「いや」

「今日は仕事で……」

その時。

鬼の男が。

こちらを見た。

「……」

肌が粟立つ。

祭囃子も。

蝉の声も。

一瞬。

遠くなった気がした。

リアルダが小声で告げる。

「レッド様……」

端末を見る。

「Bランク反応です」

「……あれか」

鬼が。

こちらを睨んでいる。

その視線が――。

アクセントとスタッカートで止まった。

「……ん?」

しばらく。

二人を見る。

ふっと。

目尻が下がった。

「おお……」

大きな口が笑う。

「貴様ら!」

「おおきゅーなったのぉ!」

「おじちゃん!」

二人の顔が。

一気にほころんだ。

「ご無沙汰してます!」

「ガハハハハ!」

鬼が豪快に笑う。

「ちゃんと挨拶ができる子になったな!」

「はい!」

「お前は相変わらず細いのぉ!」

「もう大人っスよ!」

「ワシから見ればガキじゃ!」

「ガハハハハ!」

「……」

俺とカンタービレは。

顔を見合わせた。

鬼住。

久々茂衆の頭。

他の二体の鬼は。

相変わらず子供達と走り回っている。

もう一体の女の鬼も。

笑いながら手遊びを続けていた。

どう見ても。

地域のおじちゃん、お姉ちゃん達だった。

「……」

背中に。

視線が刺さる。

振り返る。

さっきの母親。

「……はぁ」

鬼住の前へ出る。

「あっ、あの……」

「ん?」

さっきまで笑っていた目が。

鋭くなる。

「何じゃ、若造」

「その……」

言いづらい。

「迷惑らしいんで……」

「……」

「筋違いだとは思いますが」

「やめてもらえますか」

鬼住が腕を組んだ。

「ワシは」

一拍。

「誰の指図も受けん」

「……ですよね」

鬼住が鼻を鳴らす。

「子供は――」

境内に声が響いた。

「よう遊べ!」

「よう食え!」

「よう寝ろ!」

子供達が笑う。

「勉強なんぞ」

「それからでええ!」

「ガハハハハ!」

鬼住が。

こちらを見る。

「それでも文句があるなら――」

ニヤリ。

拳を突き出す。

「儂らの言葉は」

一拍。

「コレよ!」

ブオォォーン!

拳から放たれた風圧で。

土ぼこりが舞う。

境内の幟が。

バサバサッ!

大きく揺れた。

「……」

グラヴィオーソが呟いた。

「理不尽……」


第136話『夏祭りの一戦』
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2026年08月29日

第134話『新しい仲間』

第134話『新しい仲間』


益田駐屯地。

「いやぁ、驚きました」

山陰支部から戻ったアクセントが言った。

スタッカートも頷く。

「人は見かけによらないっス」

チャッピーの試験のため。

山陰支部まで同行していた二人が帰投した。

「結果なら」

カンタービレが手元の資料を見る。

「先に支部から届いてますわ」

「ああ……」

俺も。

もう一度、資料を見る。

(信じられん……)

アクセントが口を開いた。

「音響士試験」

一拍。

「合格です」

スタッカートが続ける。

「情報士試験――」

「満点で合格っス」

「……」

リアルダが目を丸くした。

「満点……」

ブリランテも、チャッピーを覗き込む。

「すごいですよー!」

「ピピ?」

本人だけが。

不思議そうな顔をしていた。

「チャッピー」

「ピ?」

「合格したんだぞ」

「ゴウカク……」

少し考える。

「ピピ」

頷いた。

「リョウカイ」

「……それだけか」

リアルダが苦笑する。

「偉業なんですけど……」

「ピピ?」

俺は資料を置いた。

「これなら」

「音術師も狙えるんじゃないか?」

アクセントが苦笑した。

「我々も、そう思ったんです」

スタッカートが頭を掻く。

「でも」

「それは難しいみたいっス」

「難しい?」

◇

訓練場。

アクセントが、一冊の教本を差し出した。

「チャッピー」

「これを」

「ピピ」

トランペット三重奏。

スタッカートが楽器を構える。

「俺達三人で」

「アンサンブルするっス」

「アンサンブル?」

「三人で一緒に吹くんだ」

「ピピ」

「リョウカイ」

三本のトランペットが。

緑深い山々へ向けられた。

息を吸う。

――――♪

三つの音が重なる。

「……」

間違ってはいない。

むしろ。

上手い。

音程。

リズム。

発音。

どれも正確だった。

演奏が終わる。

ソステヌートが譜面を見る。

「リズムは正確です」

「音程にも、大きな問題はありません」

ブリランテが嬉しそうに続ける。

「高音も綺麗に当たってるですよー!」

ペザンテも頷いた。

「低音もしっかり鳴ってる」

リアルダが首を傾げる。

「綺麗ですね」

「……」

グラヴィオーソが。

腕を組んだ。

「でも……」

一拍。

「何か違う」

「ピ?」

カンタービレが俺を見る。

「隊長」

「お気づきになりましたかしら?」

「ああ……」

俺も。

同じことを感じていた。

上手い。

正確だ。

だけど。

三人で吹いているのに。

三人の音に聞こえない。

「音術師としては……」

チャッピーを見る。

「かなり大きな弱点だ」

「ピピ?」

◇

アクセントが教本を閉じる。

「ソロなら」

「ほとんど完璧なんです」

スタッカートが続けた。

「でも、アンサンブルになると……」

グラヴィオーソが呟く。

「周りに合わせられない」

「ピピ?」

チャッピーが、不思議そうに首を傾げた。

「ワタシ」

「ガクフドオリ、フキマシタ」

「ああ」

「リズム」

「マチガエテナイ」

「間違ってない」

「オンテイモ」

「マチガエテナイ」

「それも間違ってない」

「……」

少し考える。

「ナニガ、ダメ?」

誰も。

すぐには答えなかった。

楽譜には。

書かれていないものがある。

隣の息遣い。

音色の変化。

ほんの少しの揺れ。

誰かが前へ出れば。

少し譲る。

誰かが遅れれば。

そっと待つ。

そうやって。

みんなで一つの音を作る。

チャッピーには。

まだ、それが分からない。

「……よし」

「隊長?」

「決めた」

チャッピーを見る。

「左翼に入ってくれ」

「ピ?」

カンタービレが目を瞬かせた。

「私の左翼に?」

「ああ」

「2ndと」

リアルダを見る。

「情報士を兼ねてもらう」

リアルダが頷いた。

「左翼には情報士がいませんでしたから」

「助かりますね」

カンタービレは。

もう一度、チャッピーを見る。

「ですが」

「合奏は……」

「ああ」

チャッピーを見る。

「苦手なんだろ」

「ピピ……」

少し。

俯いた。

「だったら」

「そこは、みんなで補えばいい」

チャッピーが顔を上げる。

「?」

「カンタービレ達が」

「お前に合図を出す」

「周りを見失ったら」

「誰かが教える」

「分からなくなったら」

「誰かに聞けばいい」

「……」

「その代わり――」

「お前も」

「得意なことで、みんなを助けてくれ」

「タスケル?」

「ああ」

「情報でも」

「音でも」

少し考えて。

続けた。

「一人で全部できる奴なんて」

「ここにはいない」

「……」

カンタービレが。

小さく笑った。

「それが」

一拍。

「山陰流ですわ」

チャッピーは。

みんなの顔を順番に見る。

カンタービレ。

グラヴィオーソ。

ソステヌート。

リアルダ。

俺。

そして。

少し考えて。

「……リョウカイ!」

「ピピピ♪」

こうして――。

第一トランペット遊撃隊に。

新しい仲間が加わった。


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2026年08月29日

第133話『チャッピー』

第133話『チャッピー』


益田駐屯地。

謎の集団に襲撃され。

第一トランペット遊撃隊は、活動停止に追い込まれた。

しかし。

人間の営みは変わらない。

「一緒に寝るのは駄目だ」

「ピピ?」

「もちろん、一緒の部屋も」

「ピピピ?」

「トイレと風呂は女子用を使え」

「ピピ……」

「そもそも、チャッピー」

「お前は女子寮だろ……」

「ピ?」

チャッピーを保護してから。

しばらく経った。

どうやら。

記憶と一緒に。

常識も失ったらしい。

ピピピという口癖から。

いつの間にか。

みんなから、チャッピーと呼ばれるようになっていた。

◇

食堂。

ブリランテが、リアルダへ顔を寄せる。

「チャッピー」

「隊長様から離れませんね」

「ですね……」

リアルダも小声になる。

「もしかして……」

一拍。

「隠し子なのでは」

「おい」

横から。

グラヴィオーソが呟いた。

「子供が、子供はできないわ」

「……」

何だか。

気まずい。

カンタービレがチャッピーを見る。

「記憶は、どれくらい戻ったんですの?」

ソステヌートが眼鏡に手をかけた。

「正確には」

「記憶が戻った兆候は、まだありません」

「ただし」

「言語能力は急速に回復しています」

「現在はカタコトながら、日常会話が可能です」

「……長い」

グラヴィオーソが呟く。

「まだ途中ですが」

「もういいわ」

「ピピ?」

本人だけが。

不思議そうな顔をしていた。

◇

ある日。

チャッピーが。

俺のトランペットを珍しそうに眺めていた。

ベルを覗く。

ケースを覗く。

バルブを眺める。

しまいには。

楽器へ頬ずりした。

「おい……」

「ピピ♪」

「それは玩具じゃないぞ」

「ピ?」

しばらくすると。

見よう見まねで。

吹いて遊び始めた。

――――♪

「……」

思ったより。

悪くない。

「チャッピー」

「ピ?」

「ちょっといいか?」

「ピピ?」

それから。

少しずつ。

トランペットの吹き方を教えることにした。

「そこは、力を入れすぎるな」

「ピピ」

「息は、まっすぐ」

「ピピ!」

「唇も締めすぎるな」

「ピピ!」

もう一度。

――――♪

「……うん」

いい筋だ。

その様子を見ていたリアルダが。

端末を抱えて近づいてきた。

「レッド様」

「私が弾道計算をしますので」

「射撃練習も、してみてはいかがでしょう?」

「そうだな」

「チャッピー」

「ピ?」

リアルダが端末を見せる。

「音響弾の弾道は」

「こうやって計算するんです」

「ダンドウ……」

画面を覗き込む。

「ケイサン?」

「はい」

チャッピーの目が。

輝いた。

「ピピピ!」

「……そっちにも食いつくのか」

今度は。

リアルダの仕事にも興味を持った。

◇

トランペットは。

俺から。

情報士の仕事は。

リアルダから。

「ここ」

「カゼ、カワッタ」

「はい」

「風向補正を入れます」

「ピピ!」

「次は距離です」

「キョリ」

「そうです」

「反響も考えます」

「ハンキョウ……」

「これはですね――」

コツコツ。

コツコツ。

覚えていく。

昨日できなかったことが。

今日はできる。

今日教えたことを。

明日には使いこなす。

「……」

俺とリアルダは。

顔を見合わせた。

「レッド様」

「ん?」

「この子……」

少し声を潜める。

「覚えるの、早すぎませんか?」

「……俺も思った」

「ピピ?」

本人は。

首を傾げていた。

◇

夜。

練習室。

まだ。

小さな音が聞こえる。

――――♪

「……」

扉を開ける。

チャッピーが。

一人でトランペットを吹いていた。

机には。

リアルダから借りた資料。

端末。

書き込みだらけのノート。

「チャッピー」

「ピ?」

「もう遅いぞ」

「マダ、デキマス」

「明日もある」

「……」

チャッピーは少し考えた。

「ピピ」

楽器を置く。

記憶を失った彼女が。

新しい記憶で。

心を埋めるように。

コツコツ。

コツコツ。

毎日。

遅くまで訓練を続けていた。

◇

数日後。

「驚きましたわ……」

カンタービレが腕を組む。

「ああ」

「俺も正直、驚いてる」

ブリランテが笑った。

「隊長様とリアルダのお子さんみたいですよー」

「おいっ!」

「ち、違います!」

リアルダの顔が赤くなる。

ソステヌートが。

チャッピーの記録を見る。

「……これは」

「?」

眼鏡を上げる。

「もしかすると」

カンタービレへ。

何かを耳打ちした。

「……」

カンタービレの目が。

少し見開く。

「それは」

一拍。

「妙案ですわね」

◇

「隊長、戻りました!」

「いつでもバリバリ行けるっス!」

駐屯地へ戻ってきたのは。

アクセントとスタッカートだった。

「お帰り」

「はい!」

「いやー」

スタッカートが腕を回す。

「やっと復帰できたっス!」

まっすぐで熱いアクセント。

相変わらず調子のいいスタッカート。

少しずつ。

遊撃隊にも。

日常が戻ってきた。

アクセントが胸を張る。

「隊長!」

「次の任務は何ですか?」

「まだ遊撃隊は活動停止中だ」

「ええーっ!」

スタッカートが肩を落とした。

「身体がなまるっスー」

その時。

二人が。

俺の傍らにいるチャッピーへ気づいた。

「あれ?」

スタッカートが覗き込む。

「この子は?」

「補充隊員っスか?」

「ピピ?」

チャッピーが。

胸を張った。

「チャッピーと」

一拍。

「イワレテマス」

「……」

アクセントとスタッカートが。

顔を見合わせる。

カンタービレが二人へ声をかけた。

「貴方達」

「ちょうど良かったわ」

「?」

「山陰支部まで」

チャッピーを見る。

「彼女をエスコートしてくださいな」

アクセントが首を傾げる。

「彼女、要人なんですか?」

「いいえ」

カンタービレが。

静かに答えた。

「音響士と」

一拍。

「情報士の試験よ」

「……」

アクセントとスタッカートが。

もう一度。

顔を見合わせた。

「え?」


第134話『新しい仲間』
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2026年08月29日

第132話『ピピ?』

第132話『ピピ?』


「息子は……」

母親が、静かに口を開いた。

「立派に、お務めを果たしたでしょうか」

「はい」

俺は頷く。

「彼は左翼の防御の要で――」

少し、言葉を選ぶ。

「最後まで」

「隊員達を、かばい続けたそうです」

「……そうですか」

母親は静かに頷いた。

「息子も」

「覚悟をして働いてたと思います……」

「……」

覚悟。

その言葉が。

胸に引っかかった。

「スンマセン……」

「言葉が見つかりません」

母親は。

何も言わなかった。

◇

第一トランペット遊撃隊は。

しばらく活動停止となった。

俺は余暇を利用して。

戦線へ復帰できなくなった隊員達の家族を回った。

(覚悟か……)

何度も。

その言葉が頭へ戻ってくる。

俺にとっては。

重い言葉だった。

益田駐屯地の門をくぐる。

ベシッ!

「痛っ!」

「ワーッハッハ!」

振り返る。

ジョコーソが立っていた。

「どうした少年!」

「隊長が、そんなしみったれた顔をするな」

「……元からこういう顔です」

「うっ」

ジョコーソが固まった。

「それはスマン」

「……」

「ワーッハッハ!」

「笑って誤魔化すなよ……」

ジョコーソが俺の肩へ手を置く。

「我々、混成サックス遊撃隊が」

「しばらくカバーする」

「……迷惑をかけます」

ベシッ!

「痛っ!」

「そのための遊撃隊だ」

ジョコーソは。

豪快に笑った。

◇

宿舎へ戻る。

ガチャ。

「……」

ベッドに。

誰か寝ていた。

「……?」

若い女性?

「……」

バタン。

ドアを閉める。

部屋番号を見る。

「……」

周囲を見る。

もう一度。

部屋番号を見る。

(間違ってない……)

ガチャ。

もう一度。

ドアを開ける。

やっぱりいる。

しかも――。

「!?」

何も身につけていない。

その時。

「レッド様、お話が♪」

背後から。

リアルダの明るい声。

「ん?」

振り返るより先に。

リアルダが、俺の肩越しに部屋を覗いた。

「……」

「……」

笑顔が消える。

すっと。

顔から血の気が引いた。

次の瞬間。

両手が、俺の肩に置かれた。

「レッド様」

「はい」

「お話が……」

声が。

低い。

「……はい」

◇

俺はなぜか。

自室で正座をしていた。

「……」

やましいことは。

これっぽっちもない。

本当に。

ない。

しかし。

なぜか。

そうせざるを得なかった。

腕を組んだグラヴィオーソが。

しかめっ面で、こちらを見ている。

「……」

「いや」

「だから俺は――」

ドタドタドタ――!

廊下を走る音。

ガチャ!

「レッド様、分かりました!」

リアルダが飛び込んできた。

「彼女は記憶を失っています」

「迷子や行方不明者の情報にもありません」

一息。

「もちろん」

「レッド様の潔白も証明されました」

「よし」

グラヴィオーソが呟く。

「……それは」

「何も分からないのと同じ」

「いや、分かっただろ!」

後ろから。

ソステヌートが顔を出した。

眼鏡を、片手で上げる。

「正確には」

「身元」

「侵入経路」

「記憶喪失の原因」

「いずれも不明です」

「……」

「当面の間」

「こちらで保護することになりそうです」

「……そうか」

その後ろから。

問題の女性が。

ひょこっと顔を覗かせた。

用意された服を着ている。

「……」

隊員達の間をすり抜け。

俺の前まで来る。

「?」

俺の顔を。

じっと見る。

首を傾げた。

「ピピ?」

「……何?」

「ピピピ!?」

急に。

目を輝かせた。

「レッド」

「え?」

「レッド」

「レッド、レッド」

「レッド、レッド、レッド!」

「え!?」


第133話『チャッピー』
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2026年08月29日

第131話『二つの名代』

第131話『二つの名代』


カナカナカナ――。

ジリジリジリ――。

ミーン、ミンミンミンミー……。

夏の山。

蝉の声と、木々を渡る風。

森の息吹を感じながら、三体の怪人が参道を歩いていた。

先頭を歩くのは、巫女姿の女。

その後ろには。

全身に炎をまとった、馬のような怪人。

そして。

提灯の姿をした怪人。

巫女姿の女が、ふと足を止めた。

「ちょっと待って」

ガサガサ――。

茂みが揺れる。

三体が身構えた。

「……」

目の前に。

小柄な少女が立っていた。

頭には、キツネのお面。

カプリッチョ。

「お前達」

少女が三体を見回す。

「何の用だコン?」

巫女姿の女が、静かに頭を下げた。

「名代様」

「我々、少しの間」

「こちらへ留まりとうございます」

「ふーん」

カプリッチョが目を細める。

「ささっ、こちらを」

炎をまとった馬の怪人が、一歩前へ出た。

菓子折りを差し出す。

「山に火気は厳禁だコン!」

「……」

馬の怪人が、自分の身体を見る。

「これは怨念の火にございます」

「ご迷惑はおかけいたしません」

「なら、いいコン」

「……」

カプリッチョは、あっさり菓子折りを受け取った。

包みを開く。

一つ。

口へ放り込む。

もぐもぐ。

「……」

「源氏巻と同じ味がするコン」

提灯の怪人が答えた。

「もみじ饅頭というものにございます」

「ほー」

もう一つ。

もぐもぐ。

「ウチは子分が多いけん」

巫女姿の女が、小さく笑った。

「童達の分はこちらに」

大きな袋を差し出す。

中には。

色とりどりの駄菓子。

「!」

カプリッチョの目が輝いた。

「さっすが!」

その瞬間――。

風が。

止まった。

「……」

カナカナと鳴いていた蝉の声も。

木々のざわめきも。

消えた。

森が。

静まり返る。

カプリッチョの顔から、笑みが消えた。

三体も姿勢を正す。

少女が、静かに口を開く。

「――これは」

一拍。

「津和野大明神様のお言葉だ」

空気が変わる。

「津和野を荒らすな」

「……」

「子供達から笑顔を奪うな」

杉木立の間を。

風が、一本。

通り抜けた。

巫女姿の女が、深く頭を下げる。

「ご配慮に感謝いたします」

馬の怪人。

提灯の怪人。

二体も続いて頭を下げた。

「心得ました」

「必ず」

「……うむ」

カプリッチョが頷く。

しばしの静寂。

そして。

「……よし!」

両腕を、大きく伸ばした。

「お仕事終わりっ!」

「ではなー、だコン!」

少女の姿が、森の中へ消えていった。

「……」

カナカナカナ――。

ジリジリジリ――。

止まっていた森の息吹が。

ゆっくりと戻ってきた。

◇

カラン――。

グラスの中で、氷が鳴った。

薄暗い店内。

益田駅の路地裏。

バー・レギオン。

巫女姿の女が、店内を見回す。

「雰囲気のあるバーですね」

カウンターの向こう。

栗色の髪。

エキゾチックな顔立ちの女性が。

静かにグラスを磨いていた。

「ウフフっ」

アラクネが微笑む。

「それで?」

「何の御用かしら」

提灯の怪人が、一歩前へ出た。

「我々に」

「加勢をしてくださらんか?」

「……」

返事はない。

アラクネは。

黙ったままグラスを磨いている。

カラン――。

氷の音。

馬の怪人が口を開く。

「我が主と土蜘蛛様は」

「盟約を結んでおります」

「……」

「此度も、その縁を――」

「お姉様からは」

アラクネが遮った。

「山陰はそちに任す、と言われていますの」

「……」

沈黙。

アラクネは。

磨いていたグラスを置いた。

巫女姿の女を見る。

「それに」

微笑みが消えた。

「私……」

一拍。

「貴方達のやり方、気に入らないの」

馬の怪人と提灯の怪人が身構える。

巫女姿の女だけは。

動かなかった。

しばらく。

アラクネを見つめる。

そして。

「でしたら――」

口元に。

小さな笑み。

「我々と遊んでいただけますか?」

「……」

空気が張り詰めた。

「ちょっ――!」

メリッサが声を上げる。

アラクネが目を細めた。

「どうぞ」

静かに。

「お好きなように」

馬。

提灯。

二体が、さらに身構える。

「とっ、とりあえず!」

メリッサが慌てて、二人の間へ入った。

「我々は静観ということで!」

「ねっ、司令官!」

「……」

カリストスも一歩前へ出る。

「使い殿」

巫女姿の女を見る。

「広島の会戦での皆さんの殿――」

一礼する。

「実に見事でした」

「……」

巫女姿の女が。

カリストスを見る。

「……感謝します」

アラクネは。

何も言わない。

カリストスも。

それ以上は続けなかった。

再び。

カラン――。

アラクネがグラスを手に取る。

「貴方達の想いは深い」

巫女姿の女を見る。

「私の想いも深い」

「……」

「だからこそ」

アラクネは。

静かに微笑んだ。

「想いは」

一拍。

「押し付けるものじゃありませんわ」

カラン――。

グラスの中で。

氷が鳴った。


第132話『ピピ?』
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2026年08月29日

第130話『2つのケース』

第130話『2つのケース』


益田駐屯地の食堂。

第一混成サックス遊撃隊長、ジョコーソが口を開いた。

「すまない」

「我々が駆けつけた時には……」

「クッ……」

悔しそうに拳を握りしめる。

ソステヌートが眼鏡に手をかけた。

「敵は、かなりの手練れでした」

「連携に無駄がなく――」

「戦い慣れていました」

グラヴィオーソも静かに続ける。

「隙が無かったわ」

「……」

カンタービレが、包帯を巻いた腕を押さえた。

「是非、ウルセンジャーさんにと……」

「幼稚園の慰問演奏に呼ばれたんです」

「子供達は?」

エタジマが答えた。

「全員無事です」

「そうか……」

少しだけ、息が抜けた。

「ただ、敵は……」

エタジマが言葉を探す。

「その、なんというか……」

隣にいたクマノが続けた。

「最初から、我々が狙いだったようです」

「……?」

その時。

ぐぅぅぅ――。

「……」

みんなの視線が、一斉にペザンテへ向いた。

「隊長」

腹を押さえる。

「腹減りました……」

「……よし」

立ち上がる。

「先に昼食をとろう」

◇

昼食をとりながら、話を続ける。

ペザンテは、黙々と飯をかき込んでいた。

「よく食うな」

「腹減ってますから」

「食べられるということは、元気な証拠だ」

「はい」

少しだけ。

笑いが起きた。

ほんの少しだけ。

エタジマが箸を置く。

「隊長」

「ん?」

「考えられないことなのですが……」

空気が変わった。

「六体の怪人達は――」

言葉が止まる。

「……」

クマノが引き取った。

「恐らく」

「全て、ランク持ちです」

「……六体全部?」

「はい」

箸を持つ手が止まる。

「本部の案件じゃないか……」

誰も否定しなかった。

カンタービレが俯く。

「せめて……」

「隊長に、ドルチェ、リアルダと」

「全員揃っていれば……」

エタジマが頭を下げた。

「我々がいながら……」

クマノも続く。

「面目ありません」

「……」

みんなの顔を見る。

包帯。

絆創膏。

疲れ切った顔。

「今日のところは、これで終わりだ」

「隊長?」

「しっかり療養してくれ」

カンタービレが立ち上がる。

「私は報告書の作成がありますので」

「軍曹」

「はい」

「休養も大事な任務だ」

「……」

カンタービレが俺を見る。

「昨日、俺に言っただろ」

少し間を置いて。

「……承知しましたわ」

◇

駐屯地から望む、緑深い山々。

トランペットを構える。

(エネルジコ)

(レガート)

息を吸う。

――――。

ロングトーン。

もう一度。

――――。

ただ。

音を伸ばす。

心の中に渦巻く、いろんなものを。

少しでも。

音の向こうへ押し流すように。

もう一度。

――――。

◇

訓練を終え、楽器庫へ戻る。

椅子に座る。

クロスで、トランペットを磨く。

静かな楽器庫。

キュッ。

キュッ。

金属を拭く音だけが、小さく響く。

ふと。

視界の端に。

トランペットケースが映った。

「……」

持ち主を待つように。

静かに並んでいた。

二つ。


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2026年08月29日

第129話『帰投』

第129話『帰投』


情報武官カイタの運転する車で、益田駐屯地へ帰る。

広島の街並みは、とうに遠ざかっていた。

車窓には、夏の山々が続いている。

「一日待ってもらって、スミマセン」

「いや、それより」

バックミラー越しに、カイタが笑った。

「広島観光、どうでした♪」

「……広島観光」

宮島。

鹿。

広島の街。

そして――。

「対人訓練……鍛えられました」

「わっーっはっはっ!」

大きな笑い声が、車内に響いた。

「タケハラ、はりきってましたからねー」

「……そうなのか?」

「そこは本人に聞いてくださいよ♪」

「?」

また笑われた。

何がおかしいのか、よく分からない。

それからも。

他愛もない話が続いた。

窓の外には、深い緑。

一定のリズムで伝わる、心地よい車の振動。

緑のゆりかごに揺られているうちに――。

いつの間にか。

眠っていた。

◇

「……隊長」

声が聞こえた。

「……隊長」

「到着しました」

「……ん」

目を開ける。

車は停まっていた。

「……?」

何かがおかしい。

さっきまでとは。

カイタの雰囲気が違う。

窓の外を見る。

白い建物。

「ん?」

目を擦る。

もう一度見る。

「……違うと思うぞ」

カイタは前を向いたまま答えた。

「いえ……」

一拍。

「合ってます……」

「?」

車を降りる。

白い建物を見上げた。

どう見ても――。

病院だ。

◇

自動ドアを抜ける。

「……隊長」

「?」

「お帰りなさいませ……」

「カンタービレ?」

軍曹が立っていた。

「いやっ、それより――」

腕。

包帯が巻かれている。

「どうした」

「……」

カンタービレは答えなかった。

その後ろには。

俺とドルチェの代わりに、広島から派遣されていた音術師が二人。

二人とも。

負傷していた。

「隊長……」

一人が頭を下げる。

「スミマセン……」

「我々がいながら……」

「……何が?」

返事はない。

嫌な感じがした。

「他のみんなは?」

カンタービレが目を伏せる。

「……こちらです」

◇

病室。

扉を開ける。

「!?」

「隊長様ー!」

「隊長!」

「隊長ー!」

スタッカートが、包帯を巻いた腕を上げた。

「大変だったっスー……」

「……」

ブリランテ。

アクセント。

スタッカート。

一人。

二人。

三人。

病室を見回す。

「……後は?」

三人の表情が変わった。

「……」

「カンタービレ」

「駐屯地と……」

言葉が止まる。

「……と?」

誰も答えない。

「隊長」

カンタービレが静かに言った。

「こちらです」

◇

白い廊下を歩く。

靴音だけが響いていた。

誰も喋らない。

やがて。

カンタービレが立ち止まった。

俺も足を止める。

「……」

扉の横。

そこに書かれた文字を見る。

(集中治療室……)


第130話『2つのケース』
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2026年08月29日

第128話『レッド君♪』

第128話『レッド君♪』


広島市内へ戻った。

そごうの婦人服売り場。

タケハラの足が。

突然止まった。

「あっ! コレ、かわいいー!」

そのまま。

迷いなくブティックへ入っていく。

俺は。

入口で止まった。

「……。」

服。

バッグ。

女性客。

女性店員。

「隊長?」

タケハラが振り返る。

「どうされたんです?」

「いや……。」

店内を見る。

「なんだか、入れない。」

「空気というか……。」

タケハラも店内を見回した。

「防御弾幕は張ってませんよ。」

「そういう問題じゃない。」

クスッと笑う。

「市街地対人訓練です♪」

「またか……。」

「ほら。」

手招きされる。

「実践、実践♪」

俺は。

覚悟を決めて店へ入った。

◇

雑貨屋。

「あ、これもかわいい。」

「……ああ。」

タケハラが手に取った物を見る。

「こっちは?」

「いいんじゃないか。」

正直。

違いはよく分からない。

「これと、さっきのなら?」

「……。」

見る。

考える。

「こっち。」

「へえ♪」

何が違うのか。

やはり分からない。

だが。

相手の言葉に相槌を打つ。

興味があるように見る。

時々。

うなずく。

市街地対人訓練。

そう考えれば。

「訓練と思えば、楽なものだ。」

「……。」

タケハラが俺を見る。

「隊長。」

「なんだ?」

「今、それ口に出てましたよ。」

「そうか。」

「そうです。」

少し頬を膨らませた。

「でも。」

すぐに笑う。

「さっきより上手になってます♪」

「訓練だからな。」

「……訓練なんだ。」

◇

広島YAMAHA。

店へ入った瞬間。

今度は。

俺が先に歩いた。

「ちょっと待って。」

マウスピースの陳列ケースへ近づく。

タケハラが横から覗き込む。

「それ、気になります?」

「こっち。」

「そっちですか?」

「この形状なら、息の抵抗が……。」

「あ、それなら私、もう少し浅い方が好きです。」

「太い音なのに?」

「太いって言わないで下さい!」

「……褒めたら、怒られた。」

「言い方があります!」

「難しいな……。」

タケハラが笑う。

「レッド隊長は?」

「俺は、音の芯が残る方がいい。」

「あー……。」

タケハラが俺を見る。

「昨日の音、そういう感じでした。」

「昨日?」

「山ンバに撃ったやつ。」

「あれは、YAMAHAの16C4スタンダードで……。」

「そうじゃなくて。」

「?」

「音の話です。」

「ああ。」

そこから。

日本製と海外製の違い。

マウスピースの重さと抵抗。

カップ。

リム。

少しだけ話した。

タケハラが俺を見る。

「レッド隊長。」

「ん?」

「ここだと、本当に普通に喋れるんですね。」

「何が?」

「……なんでもないです♪」

よく分からない。

◇

鉄板の上で。

お好み焼きが焼ける音がする。

ひと口食べる。

「……お好み焼き、うまいな。」

タケハラの目が丸くなった。

「!」

「なんだ?」

「ちゃんと『お好み焼き』って言えましたね♪」

「……?」

次の瞬間。

頭に手が乗った。

ぽんぽん。

「流石は隊長。」

なでなで。

「偉いですね♪」

「……。」

俺は。

頭をなでられたまま考えた。

ドルチェが言った通り。

広島では。

かなり重要なことだったらしい。

「レッド隊長。」

「ん?」

「彼女とか、いるんですか?」

箸が止まった。

「……何で突然そうなる。」

「普通の会話ですよ。」

「普通なのか?」

「普通です。」

少し考える。

「いない。」

「へえ♪」

「タケハラは?」

「さて、どうでしょう♪」

「なんだそれ。」

「気になります?」

「聞かれたから聞いただけだ。」

「……。」

タケハラが黙った。

「?」

「レッド隊長。」

「なんだ?」

「その楽観的な考え方は感心しませんわ、って言われません?」

「なんで知ってる。」

「やっぱり♪」

笑われた。

◇

日が沈んだ頃。

タケハラの車は。

広島の街を一望できる場所へ着いた。

車を降りる。

遠くまで。

街の灯りが広がっている。

二人で並ぶ。

しばらく。

何も言わなかった。

風が吹く。

俺は夜景を見る。

「綺麗だな……。」

「……うん。」

タケハラの声が。

小さくなった。

また少し。

沈黙。

やがて。

独り言みたいに。

タケハラが話し始めた。

「軍団長ね。」

「ん?」

「私の第3トランペット遊撃隊が配置につく前に、顔を出してきたの。」

俺は黙って聞いた。

「一人一人、目を見て。」

「肩に手をかけて。」

「握手をして。」

「みんなと、一言二言話して。」

夜景を見たまま。

言葉を続ける。

「日頃、感情を出さない軍団長。」

少し間を置いた。

「握った手、わずかに震えてた。」

「……。」

「微笑んでいたけど、少し悲しい目をしていた。」

風が吹く。

タケハラの髪が揺れた。

「河太郎の軍勢を正面にした時。」

声が少し低くなる。

「正直、足がすくんだ。」

「喉が、カラカラに渇いた。」

「みんなには悟られないように、元気に振る舞った。」

少しの沈黙。

「……そして。」

「死にたくないと思った。」

俺は。

何も言わなかった。

「そしたら。」

タケハラが遠くを見る。

「軍団長の、いつもの合図が出た。」

「山ンバの陣に。」

「あの音響弾が吸い込まれていった。」

「刹那。」

「ものすごい轟音が届いた。」

胸元へ。

そっと手を置く。

「その轟音が、私たちの心を震わせた。」

「……。」

「そして。」

少し笑った。

「私も放った。」

「渾身の一撃をね♪」

静かだった。

街の灯りだけが揺れている。

タケハラが。

もう一度、夜景を見る。

「本当に。」

「夜景が綺麗ね……。」

「ああ。」

また。

しばらく無言になった。

その時。

タケハラが。

こちらへ身体を向けた。

小さな声で。

「ねぇ、レッド君♪」

「……。」

少しの沈黙。

タケハラが。

大きく息を吸った。

「今日はアタシのワガママに付き合ってくれて――」

夜景に向かって。

「ありがとぉぉー!」

「うおっ!」

思わず肩が跳ねた。

「あっ、嗚呼……。」

俺は頭をかいた。

「やはり、肺活量が凄い。」

「ソッチ!?」

タケハラが笑う。

「アハハッ!」

「ごめんごめん♪」

俺達は。

もう一度。

広島の夜景を見た。

◇

俺は。

タケハラと見た広島の夜景を想い出に。

益田駐屯地へ戻った。

――広島編 完


第129話『帰投』
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2026年08月21日

第127話『市街地対人訓練♪』

第127話『市街地対人訓練♪』


ホテルを出た。

朝の広島は、穏やかだった。

リアルダは。

会戦の報告書をまとめるため。

ひと足先に益田駐屯地へ帰投。

ドルチェは公休。

第3軍団のスポンサーでもある祖父のところへ。

挨拶を兼ねて帰省した。

そして俺は。

カンタービレから。

『本日の隊長の任務は、休養ですわ』

と押し切られた。

休暇という仕事。

意味が分からない。

「さて……。」

これからどうするか。

ホテルの前で立っていると。

一台の車が近づいてきた。

淡いピンク色の軽自動車。

俺の前で停まる。

運転席のドアが開いた。

「おはようございます!」

タケハラだった。

車から降りると。

俺の前で姿勢を正す。

ビシッ!

敬礼。

「第3トランペット遊撃隊、隊長のタケハラです!」

「……おう。」

「コン・ブリオ軍団長より!」

さらに胸を張った。

「広島を救った英雄のおもてなしを仰せつかりました!」

もう一度。

ビシッ!

「軍団長命令であります!」

「……。」

「……。」

しばらく見つめる。

「……本当のところは?」

「あれ?」

一瞬で姿勢が崩れた。

「バレました?」

「バレる。」

「テヘッ。」

「コン・ブリオに何か言われたな……。」

「今日は休んでいいよって言われました。」

「それだけか?」

「レッド隊長も休みみたいだから、広島の街を案内してあげたらって。」

「……あいつ。」

タケハラが助手席を指差した。

「ということで、行きましょう♪」

「どこへ?」

「乗ってからのお楽しみです。」

昨日。

河太郎の軍勢を前にしていた人物とは思えないくらい。

楽しそうだった。

俺は助手席へ乗り込んだ。

◇

宮島。

厳島神社へ向かう道は。

思っていたより人が多かった。

「今日は祭りか何かか?」

「違いますよ。」

「外国の人も多いな……。」

「休日はもっと多いですよ。」

「そうなのか。」

周囲を見渡す。

「厳島大明神様は人気があるんだな……。」

タケハラが。

クスッと笑った。

そのまま。

少し身体を寄せてくる。

「……近いゾ。」

「隊長。」

「なんだ?」

「例の、市街地対人訓練の教本。」

俺の顔を覗き込む。

「読まれましたか?」

「三ページくらいはな……。」

「やっぱり。」

また笑われた。

「古代戦史と同じですね。」

「……。」

否定できない。

「じゃあ。」

タケハラが前を指差す。

「男女で歩いている方を見て下さい。」

「何か気づきませんか?」

周囲を見る。

何組か。

男女が並んで歩いている。

「年齢層は幅広い。」

「はい。」

「服装も統一感がない。」

「はい。」

「歩行速度も様々。」

「……はい。」

「そして。」

少し観察する。

「距離が近いな……。」

「正解♪」

次の瞬間。

腕に感触があった。

「……。」

タケハラが。

俺の腕へ。

自分の腕を絡めていた。

「なっ……。」

「教本の三ページ先。」

楽しそうに笑う。

「私が実践訓練してあげますね♪」

「え?」

何の訓練だ。

そう聞こうとした時。

「あっ!」

タケハラが突然。

前を指差した。

「カキ食べましょう!」

「……カキ?」

「広島といえばカキです♪」

さっきまでの話は。

どこへ行った。

「広島焼きではなかったのか……。」

タケハラの足が止まった。

「隊長。」

「ん?」

「それ、広島では言わない方がいいですよ。」

「ああ。」

思い出した。

「そういえば、ドルチェにも言われてたな……。」

「ちゃんと覚えておいて下さいね♪」

焼きたてのカキを受け取る。

タケハラが嬉しそうに口へ運んだ。

「んー♪」

「プルプルして柔らかくて。」

「とってもジューシーですよ。」

俺も食べる。

「……確かに。」

もう一口。

「柔らかくて、プルプルしてるが……。」

「でしょう?」

「……。」

腕を組む。

カキを食べる。

距離が近い。

市街地対人訓練。

俺は。

頭が混乱してきた。

対人訓練。

奥が深い。

◇

厳島神社。

参拝を済ませ。

俺は静かに手を合わせた。

「昨日は……。」

隣で。

タケハラも目を閉じている。

「静観していただいて、ありがとうございました。」

「……。」

タケハラが目を開けた。

「レッド隊長。」

「なんだ?」

「それ、お願いじゃないですよね?」

「礼だ。」

「神様に戦場の事後報告する人、初めて見ました。」

「昨日、何もしてこなかったからな。」

「いや、まあ……そうですけど。」

タケハラが吹き出す。

「すっごく場違いですよ。」

「そうか?」

「普通は家内安全とか、そういうお願いをするところです。」

「礼の方が先だろ。」

「……そういうところなんですね。」

「何が?」

「なんでもありません♪」

境内を出る。

少し歩いたところで。

一頭の鹿が。

俺の横へ来た。

「……。」

鹿を見る。

鹿も俺を見る。

一歩。

近づいてくる。

「タケハラ。」

「はい?」

「これ、どうすればいい?」

「普通にしてれば大丈夫ですよ。」

さらに一歩。

「近い。」

「大丈夫です。」

さらに来る。

俺は一歩下がった。

鹿も一歩来た。

もう一歩下がる。

また来る。

「……なんでついてくるんだ。」

「レッド隊長。」

タケハラが笑いをこらえている。

「逃げるからですよ。」

「来るんだから仕方ないだろ。」

さらに離れる。

鹿が追ってくる。

「おい!」

タケハラが。

とうとう笑い出した。

「昨日、山ンバにも怯まなかったのに!」

「山ンバは鹿じゃない!」

「ソッチの方が怖いですよ!」

結局。

しばらく鹿に追いかけられた。

◇

俺達は。

広島市内へ戻るため。

フェリーに乗った。

一階デッキから。

二階の展望デッキへ続く階段を上る。

狭い。

そして。

思ったより急だ。

先を上るタケハラが振り返る。

「隊長。」

「ん?」

「足元、滑ります。気をつけて下さいね。」

「分かってる。」

ツルッ。

「あ痛っ。」

「隊長!」

足を滑らせた。

幸い。

その場に尻もちをついただけだった。

タケハラが慌てて数段戻る。

俺の前で片膝をつき。

手を差し出した。

「大丈夫ですか?」

「ああ……。」

その手を取る。

「だから言ったじゃないですか。」

「思ったより急だった。」

立ち上がり。

服についた埃を払う。

「山ンバ戦でドジらなくて良かったよ。」

「本当ですね♪」

タケハラが。

少しだけ悪戯っぽく笑った。

「今頃。」

「私とデートできなかったかもしれませんね。」

「……。」

!?

デート。

今。

そう言ったか?

「隊長?」

「……なんでもない。」

「ほら、行きますよ♪」

「……おう。」

今度は。

しっかり足元を見て階段を上った。

◇

展望デッキ。

外へ出る。

夏の日差し。

潮の香り。

海からの風。

俺達は。

手すりの前に並んだ。

目の前には。

青い瀬戸内海。

島々が浮かんでいる。

タケハラの髪が。

風になびく。

「瀬戸内海はどうですか?」

「山陰と比べると穏やかだ。」

「でしょう?」

しばらく。

二人で海を見る。

タケハラが口を開いた。

「その穏やかな海を守ろうと。」

「昨日、中央にいたのが瀬戸坊。」

「……。」

「海を守るか。」

「はい。」

「子ども達を守るか。」

少し。

間があった。

タケハラが。

複雑な笑顔を浮かべる。

「命というコインをかけてね♪」

「……ああ。」

瀬戸坊にも。

守ろうとしたものがあった。

俺達にも。

あった。

善か。

悪か。

それだけでは。

割り切れない。

タケハラは。

それを分かっている。

分かった上で。

命というコインを賭けた。

風が吹く。

髪が揺れる。

潮の香りに混じって。

少し。

いい香りがした。

俺は横を見る。

タケハラは。

ただ静かに海を見ていた。

(この子。)

(本当に心が強い。)

「隊長?」

「ん?」

「難しい顔してますよ。」

「そうか?」

「今日は休養なんですから♪」

いつもの笑顔に戻る。

「広島に戻ったら、お買い物です。」

「……買い物?」

「市街地対人訓練の続きです♪」

「まだやるのか……。」

「もちろんです。」

タケハラが笑った。

フェリーは。

穏やかな瀬戸内海を進んでいった。


第127話『レッド君♪』
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2026年08月21日

第126話『母の音』

第126話『母の音』


「お母様は。」

ラリサが。

俺を見る。

「どんな音を。」

「奏でる方でしたの?」

「……。」

俺の手が。

止まった。

「母さんの音?」

「ええ。」

少し考える。

でも。

俺には。

うまく説明できそうになかった。

「コン・ブリオに。」

「聞いた方が早いです。」

「俺より。」

「よく知ってるから。」

「レッド。」

コン・ブリオが。

少し困ったように笑った。

「本当だろ。」

「まあ。」

ラリサが。

コン・ブリオを見る。

「では。」

「お願いいたしますわ。」

◇

コン・ブリオは。

少しだけ。

黙った。

それから。

静かに口を開く。

「マルカート。」

「一音一音の。」

「輪郭が。」

「はっきりしていました。」

「正確で。」

「どこまでも届く。」

その声が。

少しだけ。

柔らかくなる。

「それなのに。」

「温かい音でした。」

「……。」

俺は。

黙って聞いていた。

母さんの演奏を。

俺は。

何度も聞いたことがある。

でも。

そんなふうに。

考えたことはなかった。

「そう。」

ラリサが。

小さく微笑む。

「温かい音。」

◇

ラリサは。

しばらく。

俺を見る。

目が合いそうになって。

俺は。

グラスへ視線を落とした。

「レッドさんの音も。」

「少し。」

「似ていますわね。」

「俺の?」

「ええ。」

「輪郭が。」

「はっきりしていて。」

「遠くまで届く。」

「そして。」

一拍。

「温かい。」

「……。」

俺は。

少し考える。

「親子だからじゃないですか?」

「……。」

ラリサが。

一瞬。

黙った。

タケハラも。

リアルダも。

コン・ブリオを見る。

コン・ブリオは。

ほんの少しだけ。

目を伏せた。

「違うよ。」

「ん?」

コン・ブリオが。

俺を見る。

「別の音だよ。」

「スカーレット様と。」

「レッドは。」

「別人だから。」

「……。」

「そりゃ。」

「そうだろ。」

当たり前のことを。

言われた気がした。

ラリサが。

そのやり取りを見て。

静かに。

笑った。

◇

「でも。」

ラリサが。

俺へ尋ねる。

「レッドさんにとって。」

「スカーレット様は。」

「どんな方でしたの?」

「……。」

また。

その質問か。

少し前なら。

答えるのに。

困ったかもしれない。

でも。

今日は。

もう。

一度。

口にしている。

「俺には。」

「ただの。」

「母さんですよ。」

「……。」

ラリサが。

ゆっくり。

目を細めた。

「そう。」

「それが。」

「一番。」

「素敵ですわね。」

◇

しばらくして。

ラリサが。

時計を見る。

「あら。」

「ずいぶん。」

「長居してしまいましたわ。」

「もう帰るんですか?」

タケハラが。

少し残念そうに言う。

「ええ。」

「明日も。」

「お店がありますので。」

ラリサは。

席を立った。

「今日は。」

「面白いお話を。」

「ありがとうございました。」

コン・ブリオも。

立ち上がる。

「こちらこそ。」

「子どもたちのこと。」

「本当に。」

「ありがとうございました。」

「ウフフっ。」

ラリサが。

小さく笑う。

「成り行きですわ。」

「またそれか。」

俺が言うと。

コン・ブリオが。

「ふふっ。」

と笑った。

◇

ラリサは。

俺たちへ。

軽く会釈する。

「また。」

「益田で。」

「会えるかもしれませんわね。」

コン・ブリオが。

微笑む。

「次は。」

「バー・レギオンで。」

「あら。」

ラリサも。

笑った。

「ウフフっ。」

「お待ちしておりますわ。」

そして。

静かに。

店を出ていった。

◇

俺たちも。

少し遅れて。

ホテルへ戻ることになった。

夜の広島を。

リアルダと。

ドルチェが。

少し前を歩く。

その後ろを。

タケハラ。

そして。

俺と。

コン・ブリオ。

しばらく。

誰も。

何も言わなかった。

「なあ。」

俺は。

隣を歩く。

コン・ブリオを見る。

「何?」

「母さんの音。」

「そんなに。」

「良かったのか?」

「……。」

コン・ブリオが。

少しだけ。

遠くを見る。

「魂が。」

「震えたよ。」

「大袈裟な奴だな。」

「ふふっ。」

昔から。

こいつは。

そうだった。

◇

俺は。

益田へ帰る。

逃げてきた場所ではなく。

俺が。

帰る場所へ。


第127話『市街地対人訓練♪』
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2026年08月19日

第125話『三ページ目の先』

第125話『三ページ目の先』


「どうして。」

ラリサが。

コン・ブリオを見る。

「そこまで。」

「待ったのです?」

「……。」

コン・ブリオは。

少し考えてから。

答えた。

「まだ。」

「足りなかったからです。」

「足りない?」

「はい。」

◇

「連合軍中央が。」

「深く入っただけでは。」

「まだ。」

「終わらせられません。」

コン・ブリオが。

テーブルを。

指先で軽くなぞる。

「連合軍の両翼から。」

「一部が。」

「連合軍中央へ寄る。」

「そして。」

「連合軍本隊も。」

「連合軍中央へ動く。」

「そこまで。」

「待ちました。」

ラリサが。

小さく頷く。

「なるほど。」

◇

「では。」

ラリサが尋ねる。

「もっと。」

「待つことも。」

「できましたの?」

「できました。」

即答だった。

「でも。」

コン・ブリオの声が。

少しだけ変わる。

「防衛隊中央が。」

「もう限界でした。」

「……。」

俺は。

昼間の戦場を。

思い出した。

押され続けた。

防衛隊中央。

負傷者も。

出ていた。

「作戦のために。」

コン・ブリオが言う。

「味方を壊すわけには。」

「いかないだろ?」

「……。」

ラリサが。

静かに笑った。

「ええ。」

◇

タケハラが。

首を傾げる。

「でも。」

「連合軍の両翼から。」

「中央へ来るって。」

「最初から。」

「分かってたんですか?」

「いや。」

「分からなかったよ。」

「えっ。」

タケハラが。

目を丸くする。

俺も。

コン・ブリオを見る。

「お前。」

「分からなかったのか?」

「うん。」

「古代戦史。」

「三ページ目じゃないのか?」

「三ページ目は。」

「参考にしただけ。」

コン・ブリオが。

いつものように笑う。

「戦場で。」

「昔の戦いを。」

「そのまま再現できるわけ。」

「ないだろ?」

「それは。」

「そうだけど。」

◇

ラリサが。

楽しそうに。

コン・ブリオを見る。

「では。」

「何を。」

「待っていたのです?」

「誰かが。」

「勝ちたくなるのを。」

「……?」

タケハラが。

ますます。

分からない顔になる。

コン・ブリオは。

穏やかに続けた。

「人って。」

「勝ってる時のほうが。」

「前に出たくなるから。」

「……。」

ラリサの目が。

少し細くなった。

◇

「連合軍中央が。」

「勝っているように見えれば。」

「もっと。」

「押したくなる。」

「近くにいる部隊も。」

「手柄を取りたくなる。」

「後ろにいる人も。」

「あと少しだと思えば。」

「前へ出たくなる。」

コン・ブリオが。

グラスへ手を伸ばす。

「だから。」

「そうなるまで。」

「待っただけ。」

「……。」

俺は。

しばらく。

何も言えなかった。

戦場で。

見ていたものが。

俺とは。

全然違う。

◇

ラリサが。

ゆっくり笑う。

「戦場を。」

「動かしたのではなく。」

一拍。

「人を。」

「動かしたんですのね。」

「フフっ。」

コン・ブリオが。

首を横に振る。

「そんな。」

「大袈裟なものではありません。」

「またそれか。」

俺が言うと。

タケハラが。

吹き出した。

◇

ラリサは。

静かに。

グラスを傾けた。

古代戦史。

三ページ目。

でも。

コン・ブリオが見ていたのは。

昔の戦場じゃない。

今日。

そこにいた。

一人一人だった。

◇

しばらくして。

ラリサが。

俺を見る。

また。

目が合いそうになって。

俺は。

CALPISへ逃げる。

「そういえば。」

ラリサが。

穏やかに言った。

「レッドさん。」

「はい。」

「お母様は。」

「どんな音を。」

「奏でる方でしたの?」

「……。」

俺の手が。

止まった。


第126話『母の音』
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2026年08月19日

第124話『昔話』

第124話『昔話』


「音響戦に。」

「お詳しいですのね。」

ドルチェの言葉に。

ラリサが。

小さく笑った。

「古い戦史が。」

「好きなのですけれど。」

「今の戦い方にも。」

「興味がありますの。」

そして。

少しだけ。

グラスを傾ける。

「それに。」

「うちのお店には。」

「軍人さんも。」

「よくいらっしゃいますから。」

「お話を聞いているうちに。」

「少しだけ。」

「詳しくなりましたの。」

「なるほど。」

ドルチェが。

微笑んだ。

◇

「では。」

ラリサが。

グラスを置く。

「少し。」

「昔話でも。」

「いたしましょうか。」

俺たちは。

自然と。

ラリサを見る。

「私。」

「生まれは。」

「ギリシャですの。」

「ギリシャ?」

タケハラが。

少し身を乗り出す。

「ええ。」

「昔から。」

「神話や。」

「古い戦史が。」

「好きでした。」

◇

「でも。」

ラリサは。

静かに続ける。

「勝った。」

「負けた。」

「何人倒した。」

「そういうことには。」

「あまり。」

「興味がありませんの。」

リアルダが。

尋ねる。

「では。」

「何に?」

ラリサは。

少しだけ考えた。

「どうして。」

「人は。」

「その場所に立ったのか。」

「……。」

「それを。」

「考えるのが。」

「好きなのですわ。」

◇

逃げた人。

残った人。

前へ出た人。

その人が。

なぜ。

そこにいたのか。

俺は。

さっきまでの話を。

少しだけ思い出した。

ラリサは。

俺を見ることなく。

静かに。

グラスを傾けた。

◇

ドルチェが。

微笑む。

「それで。」

「日本へいらしたんですの?」

「あら。」

ラリサが。

少し楽しそうに。

目を細める。

「日本の文化に。」

「興味がありまして。」

「文化?」

「ええ。」

一拍。

「特に。」

「お酒と。」

「食べ物ですわ♪」

「そっちですかー!」

タケハラが笑う。

ラリサも。

「ウフフっ。」

と笑った。

「日本酒。」

「焼酎。」

「お魚。」

「お鍋。」

「季節のお料理。」

指を折りながら。

嬉しそうに数えていく。

「知れば知るほど。」

「奥が深くて。」

「帰る理由を。」

「失ってしまいましたの。」

「それ。」

俺が言う。

「文化研究って。」

「言っていいんですか?」

「立派な。」

「文化研究ですわ。」

即答だった。

◇

「では。」

リアルダが。

今度は尋ねる。

「どうして。」

「益田駅の近くに。」

「バーを?」

「そうですね。」

ラリサは。

少し考える。

「古代戦史が。」

「好きだと。」

「申し上げましたでしょう?」

「はい。」

「本を読めば。」

「戦いの結果は。」

「分かります。」

ラリサが。

指先で。

グラスの縁をなぞる。

「でも。」

「その場所にいた方が。」

「何を考えていたのか。」

「何を怖がって。」

「どうして。」

「そこへ立ったのか。」

「そういうことは。」

「なかなか。」

「本には残りませんもの。」

「……。」

コン・ブリオが。

静かに聞いている。

◇

「益田には。」

ラリサが続ける。

「最前線で。」

「実際に戦ってこられた。」

「軍人さんが。」

「たくさんいらっしゃる。」

「だったら。」

「お酒を飲みながら。」

「生のお話を。」

「聞かせていただける場所を。」

「作ってみようかと。」

「なるほど。」

リアルダが。

素直に頷いた。

タケハラも。

「それなら。」

「バーって。」

「向いてますね。」

「ええ。」

ラリサが。

微笑む。

「皆様。」

「二杯目くらいから。」

「よく。」

「お話しくださいますので。」

「……。」

俺は。

ウチの軍団長の顔が。

頭に浮かんだ。

確かに。

ありそうだ。

◇

ドルチェが。

微笑んだ。

「ラリサさんは。」

「お話しするより。」

「聞くほうが。」

「お好きなんですのね。」

「あら。」

ラリサが。

少し目を細める。

「そう見えます?」

「ええ。」

ドルチェが。

楽しそうに笑う。

「先ほどから。」

「ずっと。」

「皆さんのお話を。」

「楽しそうに。」

「聞いていらっしゃるから。」

「ウフフっ。」

ラリサが。

小さく笑った。

「聞いている方が。」

「面白いことも。」

「多いですもの。」

◇

ラリサは。

グラスを一口。

静かに飲んだ。

日本の文化。

酒と食べ物。

古代戦史。

軍人の話。

どこまでが。

本当なのか。

俺には。

分からない。

でも。

嘘を言っているようにも。

聞こえなかった。

◇

やがて。

ラリサが。

コン・ブリオを見る。

「それで。」

「もう一つだけ。」

「聞いても。」

「よろしい?」

「どうぞ。」

「今日。」

ラリサが。

ゆっくり言う。

「防衛隊中央を。」

「かなり深くまで。」

「下げましたわね。」

「……。」

コン・ブリオの。

笑みが。

少しだけ変わった。

「どうして。」

「そこまで。」

「待ったのです?」


第125話『三ページ目の先』
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2026年08月19日

第123話『理由』

第123話『理由』


「どうして。」

ラリサが。

コン・ブリオを見る。

「その音を。」

「あの時。」

「撃たせたのです?」

「……。」

俺も。

コン・ブリオを見る。

そういえば。

ちゃんとは。

聞いていない。

◇

コン・ブリオが。

静かに口を開く。

「山ンバ軍本陣の防壁に。」

「今までなかった。」

「隙を見つけました。」

「僕の音で。」

「そこへ誘導する。」

「リアルダさんが。」

「風と反響を計算する。」

そして。

俺を見る。

「レッドが撃つ。」

「それだけです。」

◇

「でも。」

ラリサが。

静かに言った。

「防壁に隙があるだけでは。」

「本陣までは。」

「届きませんわ。」

「その先まで。」

「音が保たなければ。」

「……。」

コン・ブリオが。

少し笑う。

「彼なら。」

「届くと思ったからです。」

ラリサは。

しばらく。

コン・ブリオを見た。

「それだけ?」

「はい。」

「……ウフフっ。」

ラリサが。

グラスを傾ける。

「嘘がお上手ですのね。」

「ふふっ。」

「何のことでしょう。」

◇

ラリサが。

今度は。

俺を見る。

「レッドさんは。」

「ご自分の音が。」

「他の方と違うと。」

「思ったことは?」

「ないです。」

即答した。

「トランペット吹いたら。」

「あんなもんだろ。」

「……。」

なぜか。

みんな黙った。

「何だよ。」

タケハラが。

困ったように笑う。

「隊長は。」

「隊長ですねー。」

「どういう意味だ。」

◇

ドルチェが。

ラリサを見る。

「それにしても。」

「ラリサさんは。」

「ずいぶん。」

「音響戦に。」

「お詳しいですのね。」

「あら。」

ラリサが。

小さく微笑む。

「そう見えます?」

「ええ。」

ドルチェも。

笑った。

「かなり。」

「……。」

ラリサは。

しばらく。

グラスの中を見ていた。

やがて。

静かに置く。

「ウフフっ。」

「では。」

「少し。」

「昔話でも。」

「いたしましょうか。」


第124話『昔話』
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2026年08月19日

第122話『右翼』

第122話『右翼』


「今日。」

ラリサが。

俺を見る。

「防衛隊右翼から。」

「ずいぶん遠くまで。」

「音が届いていましたわね。」

「……。」

また。

俺の番が。

回ってきそうだ。

◇

「レッドさんの。」

「音ですの?」

「たぶん。」

俺は。

CALPISを一口飲んだ。

ラリサが。

少し首を傾げる。

「たぶん?」

「右翼から。」

「遠くまで撃ってたのは。」

「俺だから。」

タケハラが。

すぐに口を挟む。

「隊長。」

「もっと自信持ってくださいよー。」

「事実を言っただけだ。」

ドルチェが。

くすっと笑った。

◇

ラリサは。

俺を見ながら。

ゆっくり言った。

「連合軍左翼本陣に。」

一拍。

「吸い込まれるように。」

「着弾していましたわ。」

「そうですか。」

「ええ。」

ラリサが。

少し目を細める。

「それに。」

「普通の音響弾とは。」

「少し。」

「輝きが違いました。」

「……?」

「包み込むような。」

「温かい音でしたわ。」

「そうかな。」

俺には。

よく分からない。

◇

「レッド様の射撃は。」

リアルダが。

代わりに口を開く。

「コン・ブリオ様の誘導と。」

「私の計算があれば。」

「かなり正確です。」

「風速。」

「反響率。」

「障害物の位置。」

「その辺りを。」

「全部合わせていますので。」

「なるほど。」

ラリサが。

小さく頷く。

リアルダは。

少し考えてから。

付け加えた。

「ただ。」

「たまに。」

「音を外されます。」

「最後のはいわなくていい。」

一瞬。

静かになって。

みんなが笑った。

「事実です。」

「そこは。」

「黙っててくれ。」

タケハラが。

肩を震わせている。

「隊長。」

「そこは自信持たないんですね♪」

「持てるか。」

◇

ラリサが。

小さく微笑んだ。

「楽器も。」

「特別なのですの?」

「まあ。」

俺は。

少し考える。

「ニューヨークモデルだから。」

「……。」

コン・ブリオが。

黙って俺を見る。

「何だよ。」

「いや。」

「何でもない。」

「?」

◇

ラリサは。

それ以上。

追及しなかった。

代わりに。

ドルチェへ。

目を向ける。

「それと。」

「右翼には。」

「ずいぶん。」

「柔らかな防御の音も。」

「ありましたわね。」

ドルチェが。

目を細める。

「あら。」

「そこまで。」

「分かりましたの?」

「高台から。」

「何度か。」

「見えましたわ。」

ラリサが。

手を軽く広げる。

「激しい音を。」

「正面から。」

「受け止めるのではなく。」

「包むように。」

「流していた。」

ドルチェが。

柔らかく笑う。

「ウフフっ。」

「わたくしの。」

「得意分野ですの。」

◇

タケハラが。

頬杖をつく。

「でも。」

「右翼って。」

「本当に。」

「派手でしたよねー。」

「そうか?」

「そうですよ。」

「隊長の音響弾は。」

「山ンバ軍の本陣に届くし。」

「ドルチェさんは。」

「火点を潰そうとした。」

「あの山ンバ軍の猛攻を。」

「受け流すし。」

「リアルダさんは。」

「ずっと何か叫んでるし。」

リアルダが。

すぐに反応する。

「情報伝達です。」

「叫んでいたわけでは。」

「ありません。」

「聞こえてましたよー。」

「必要な音量です。」

「はいはい♪」

「タケハラ様。」

「はい。」

◇

ラリサが。

楽しそうに。

そのやり取りを見ている。

やがて。

視線を。

コン・ブリオへ戻した。

「一つ。」

「気になっていることが。」

「何でしょう。」

「防衛隊右翼から。」

「遠くへ届く音がある。」

「それは。」

「分かりました。」

一拍。

「でも。」

「どうして。」

ラリサが。

コン・ブリオを見る。

「その音を。」

「あの時。」

「撃たせたのです?」

「……。」

店の空気が。

少しだけ変わった。

俺も。

コン・ブリオを見る。

そういえば。

俺も。

ちゃんと聞いていない。

コン・ブリオは。

グラスへ目を落とす。

そして。

いつものように。

静かに笑った。

「ふふっ。」


第123話『理由』
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2026年08月19日

第121話『レギオン』

第121話『レギオン』


「今日の中央。」

ラリサが。

コン・ブリオを見る。

「ずいぶん深く。」

「押し込ませましたわね。」

「……。」

コン・ブリオは。

グラスへ指を添えたまま。

少し笑った。

「必要でしたから。」

「必要?」

タケハラが。

首を傾げる。

ラリサは。

テーブルの上を。

指先でなぞった。

「最初。」

「防衛隊の中央が。」

「前へ出ていた。」

コン・ブリオは。

黙って聞いている。

「そこへ。」

「連合軍の中央が。」

「入っていった。」

そして。

ラリサの指が。

左右へ分かれる。

「防衛隊の前衛、散兵が。」

「連合軍中央と会敵する直前に。」

「左右へ散開した。」

リアルダが。

ラリサを見る。

さっきまでとは。

明らかに。

目つきが違った。

◇

ラリサの指が。

ゆっくり。

Uの字を描く。

「防衛隊の中央は。」

「下がりながら。」

「連合軍中央を。」

「中へ入れた。」

「そして。」

「連合軍中央が。」

「優勢に見えるにつれて。」

「連合軍の両翼にいた者たちまで。」

「少しずつ。」

「中央へ寄っていった。」

コン・ブリオが。

「ふふっ。」

とだけ笑った。

「最後に。」

ラリサの指が。

U字の上へ動く。

「連合軍本隊まで。」

「中央へ寄った。」

「……。」

タケハラが。

口を開く。

「それって。」

ラリサが。

小さく微笑んだ。

「カンナエですわね。」

「……カン?」

俺は。

コン・ブリオを見る。

「古代戦史。」

「三ページ目。」

「あっ。」

「アレか。」

リアルダが。

俺を見る。

「レッド様。」

「本当に読まれました?」

「読んだ。」

「三ページ目までは。」

「そこまでですか。」

◇

ラリサが。

くすっと笑う。

「でも。」

その指が。

U字の上で止まる。

「一つ。」

「違いますわね。」

コン・ブリオが。

ラリサを見る。

「何がでしょう。」

「閉じなかった。」

「……。」

店の中が。

少し静かになった。

「包囲するなら。」

ラリサが続ける。

「最後まで。」

「閉じればよかった。」

「逃げ道を。」

「残しましたわね。」

◇

コン・ブリオは。

しばらく。

何も言わなかった。

やがて。

グラスを置く。

「帰りたそうだったから。」

「……。」

タケハラが。

瞬きをする。

リアルダも。

黙った。

ラリサだけが。

少し。

目を細めた。

「追えば。」

コン・ブリオが続ける。

「向こうも。」

「殿を置く。」

「こちらも。」

「追撃の部隊を出す。」

「そうなれば。」

「また。」

「誰かが倒れる。」

俺は。

黙って聞いていた。

◇

「だから。」

コン・ブリオは。

穏やかな声のまま。

言った。

「帰るなら。」

「帰ってもらえばいい。」

「僕らの目的は。」

「全滅させることじゃない。」

「今日を。」

「終わらせることだから。」

「……。」

ラリサが。

コン・ブリオを見つめる。

そして。

ゆっくり。

笑った。

「勝つための。」

「包囲ではなく。」

一拍。

「終わらせるための。」

「包囲。」

「そういうことですのね。」

「フフっ。」

コン・ブリオが。

小さく笑う。

「そんな。」

「大袈裟なものではありません。」

◇

「いや。」

俺は。

思わず言った。

「十分。」

「大袈裟だろ。」

タケハラも。

何度も頷く。

「ですよね。」

「私。」

「そんなことまで。」

「考えてませんでした。」

「僕も。」

「全部。」

「考えていたわけじゃないよ。」

コン・ブリオが。

さらっと言う。

「その場で。」

「見ながら決めただけ。」

俺は。

眉を寄せる。

「それ。」

「一番。」

「信用できない言い方だぞ。」

「ふふっ。」

ドルチェが。

楽しそうに笑った。

「コン・ブリオ君は。」

「成り行きが。」

「お好きですものね♪」

「またそれか。」

◇

ラリサが。

静かに。

グラスを傾ける。

その顔は。

楽しそうだった。

「レギオン。」

ぽつりと。

そう言った。

「ん?」

俺が見ると。

ラリサは。

テーブルの上の。

U字を。

指先で消した。

「大勢を。」

「一つの塊として。」

「動かす。」

「でも。」

「最後に動くのは。」

「一人一人。」

「人なのですわね。」

コン・ブリオは。

答えなかった。

ただ。

少しだけ。

笑った。

ラリサも。

それ以上は。

何も言わなかった。

◇

しばらくして。

ラリサが。

俺を見る。

目が合う。

俺は。

すぐに。

CALPISへ目を落とした。

「ところで。」

「レッドさん。」

「……はい。」

「今日。」

「防衛隊右翼から。」

「ずいぶん。」

「遠くまで。」

「音が届いていましたわね。」

「……。」

嫌な予感がした。

また。

俺の番が。

回ってきそうだ。


第122話『右翼』
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2026年08月19日

第120話『成り行き』

第120話『成り行き』


店の扉が。

静かに開いた。

「あら。」

女が一人。

入ってくる。

どこかで。

見た顔だった。

「……。」

思い出せない。

リアルダが。

小声で言う。

「レッド様。」

「バー・レギオンの。」

「ママさんです。」

「ああ。」

思い出した。

ウチの軍団長に。

対人訓練の反省会で。

連れて行かれた店だ。

女は。

俺たちに気づくと。

軽く会釈した。

それから。

少し離れたカウンターへ。

腰を下ろした。

◇

女は。

自分から。

話しかけてはこなかった。

店員と。

短く言葉を交わす。

グラスが置かれる。

静かに。

それを傾ける。

時々。

こちらの会話に。

耳を傾けるように。

微笑んでいた。

「……。」

コン・ブリオが。

女を見る。

少し迷ってから。

席を立った。

「ちょっと。」

「失礼するよ。」

「?」

そのまま。

カウンターへ向かう。

◇

「失礼ですが。」

女が。

コン・ブリオを振り返る。

「もしかして……。」

コン・ブリオが。

穏やかに尋ねた。

「今日。」

「高台で。」

「お子さん二人を。」

「保護された方ですか?」

女が。

少し目を丸くした。

「あら?」

「どうして。」

「私だと分かりましたの?」

「救護班から。」

「聞いていた特徴が。」

コン・ブリオが。

微笑む。

「まさに。」

「貴女でしたので。」

「まあ。」

女も。

小さく微笑んだ。

「ラリサと申します。」

「初めまして。」

コン・ブリオが。

軽く頭を下げる。

「第3軍団長の。」

「コン・ブリオです。」

そして。

もう一度。

静かに頭を下げた。

「ありがとうございました。」

ラリサは。

グラスへ目を落とす。

「たまたま。」

「近くにいただけですわ。」

一拍。

「成り行きです。」

「ふふっ。」

コン・ブリオが。

小さく笑った。

◇

「もし。」

「お時間があるようでしたら。」

コン・ブリオが。

俺たちの席を見る。

「彼らとも。」

「顔見知りのようですし。」

「少し。」

「ご一緒しませんか?」

ラリサも。

こちらへ目を向けた。

「まあ。」

「よろしいんですの?」

「もちろん。」

「では。」

「少しだけ。」

二人が。

こちらへ戻ってくる。

ドルチェが。

空いている椅子を引いた。

「どうぞ♪」

「ありがとうございます。」

ラリサが。

席につく。

そして。

俺たちへ。

軽く会釈した。

「改めまして。」

「ラリサと申します。」

「……レッドです。」

目が。

合いそうになる。

何となく。

落ち着かない。

俺は。

CALPISへ。

視線を戻した。

ラリサが。

俺を見て。

小さく微笑む。

「以前。」

「うちのお店にも。」

「いらっしゃいましたわね。」

「……そうでしたか。」

俺が答えると。

リアルダが。

呆れたように。

こっちを見る。

「レッド様。」

「先ほど。」

「思い出されたばかりでは?」

「店は覚えてる。」

「店は、ですか。」

タケハラが。

くすっと笑った。

「隊長。」

「一般の女性相手だと。」

「急に弱くなりますね♪」

「うるさい。」

ドルチェが。

楽しそうに。

口元を押さえた。

「ウフフっ♪」

◇

席についてからも。

ラリサは。

あまり話さなかった。

誰かが話せば。

微笑んで。

「まあ。」

「そうでしたの。」

と。

小さく相槌を打つ。

時々。

グラスを傾ける。

それだけ。

でも。

妙に。

よく聞いている。

そんな感じがした。

◇

しばらくして。

タケハラが。

ラリサを見る。

「ラリサさん。」

「はい?」

「あの。」

「今日。」

「あんな高台で。」

「何をしてたんです?」

リアルダが。

すぐに横から入る。

「タケハラ様。」

「聞き方が。」

「あ。」

「すみません。」

ラリサは。

気にした様子もなく。

微笑んだ。

「戦場を。」

「見ておりましたの。」

タケハラが。

目を丸くする。

「見物ですか?」

「ええ。」

ラリサは。

少し考えてから。

続けた。

「古い戦史が。」

「好きですので。」

「……。」

俺は。

思わず。

ラリサを見る。

目が合いそうになって。

また。

CALPISへ戻した。

「変わってますね。」

「よく。」

「言われますわ。」

◇

それ以上。

ラリサは。

自分のことを。

話さなかった。

また。

みんなの話を聞く。

微笑んで。

相槌を打つ。

時々。

グラスを傾ける。

それだけだった。

◇

やがて。

会話が。

ふっと途切れた。

ラリサが。

静かに。

グラスを置く。

「そういえば。」

初めて。

自分から。

話題を出した。

その視線は。

コン・ブリオへ。

向いている。

「今日の中央。」

一拍。

「ずいぶん深く。」

「押し込ませましたわね。」

「……。」

コン・ブリオの。

手が止まった。

リアルダも。

顔を上げる。

俺も。

ラリサを見る。

さっきまで。

黙って。

人の話を聞いていた女。

その目だけが。

少し。

違って見えた。

コン・ブリオが。

穏やかに笑う。

「ずいぶん。」

「よく見ていたんですね。」

ラリサも。

静かに微笑んだ。

「ウフフっ。」

「古代戦史が。」

「好きですから。」


第121話『レギオン』
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2026年08月19日

第119話『逃げ場所』

第119話『逃げ場所』


「隊長は。」

ドルチェが。

静かに尋ねた。

「どうして。」

「山陰へいらしたんですの?」

「……。」

俺は。

グラスへ目を落とした。

あの。

初めてリアルダと。

会った日。

俺は。

こんなことを思った。

リアルダは。

未来を見ている。

対して。

俺は――。

◇

「逃げたんだ。」

リアルダが。

瞬きをした。

「逃げた……?」

「ああ。」

カラン。

氷が。

小さく鳴る。

「母さんの葬式が終わって。」

「すぐ。」

「北方へ志願した。」

「……。」

少しだけ。

言葉を探す。

「あの時は。」

「うまく説明できなかったけど。」

一拍。

「母さんが。」

「もう来ないってことを。」

「考えたくなかったんだと思う。」

誰も。

口を挟まない。

「だから。」

「母さんとの。」

「想い出がないところへ。」

「逃げた。」

◇

リアルダが。

静かに聞く。

「スカーレット様が。」

「嫌だったのですか?」

「違う。」

すぐに。

答えた。

「俺にとって。」

「母さんは。」

一拍。

「英雄じゃなかった。」

「ただの。」

「母さんだった。」

それだけは。

昔から。

変わらない。

◇

しばらくして。

タケハラが。

口を開いた。

「隊長。」

「ん?」

「スカーレット様には。」

「広島も。」

「何度も助けていただきました。」

「……そうなのか。」

「はい。」

タケハラの表情が。

少しだけ。

遠くなる。

「高ランクの怪人に。」

「味方が押し込まれた時。」

「救援に来てくださって。」

一拍。

「悪のみなさんを前に。」

「『みなさん、お元気ですね。ウフフっ♪』って。」

俺は。

思わず笑った。

「母さんらしいな。」

「それで。」

タケハラが続ける。

「覚悟を決めて。」

「挑んでくる怪人には。」

「『その覚悟、潔し』って。」

「微笑まれて……。」

一拍。

「そこからは。」

「もう。」

「圧倒的でした。」

「……。」

俺は。

小さく息を吐いた。

「やっぱり。」

「母さんらしい。」

◇

「ふふっ。」

コン・ブリオも。

笑った。

「僕も。」

「助けられたよ。」

一拍。

「めが――」

ぴたり。

口が止まる。

「……スカーレット様に。」

「?」

俺が見る。

コン・ブリオは。

何事もなかったように。

グラスへ口をつけた。

ドルチェが。

口元を押さえる。

「ウフフっ。」

何なんだ。

◇

タケハラが。

俺を見る。

「私たちにとって。」

「スカーレット様は。」

「本当に。」

「すごい方でした。」

「でも。」

少しだけ。

笑う。

「隊長は。」

「隊長ですよね。」

「……。」

「当たり前だろ。」

「ですよね♪」

それだけだった。

でも。

妙に。

胸に残った。

◇

リアルダが。

静かに尋ねる。

「レッド様。」

「山陰へ来たことを。」

「後悔していますか?」

「……。」

今度は。

ほとんど。

考えなかった。

「いや。」

「来て。」

一拍。

「良かったと思ってる。」

リアルダが。

ほんの少し。

笑った。

「そうですか。」

「ああ。」

それ以上。

言葉はいらなかった。

◇

「ふふっ。」

コン・ブリオが。

小さく笑う。

「何だよ。」

「いや。」

「逃げたって。」

「言ってるのにね。」

「?」

「何でもないよ。」

また。

こいつだけ。

勝手に納得している。

◇

ドルチェが。

静かに。

グラスを置いた。

「ウフフっ。」

「今夜は。」

「いろいろなお話を。」

「聞けましたわね。」

「俺は。」

「聞かれたから。」

「答えただけだ。」

「それで。」

「十分ですわ♪」

俺は。

残っていたCALPISを。

一口飲んだ。

母さんが。

もう来ないことは。

変わらない。

でも。

それを。

口にしても。

さっきより。

少しだけ。

苦しくなかった。


第120話『成り行き』
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2026年08月18日

第118話『明日』

第118話『明日』


「リアルダちゃんは。」

ドルチェが。

穏やかに尋ねた。

「どうして。」

「山陰へいらしたんですの?」

「奨学金だろ。」

俺が答える。

リアルダが。

こちらを見た。

「はい。」

「レッド様には。」

「着任の日に。」

「お話ししましたね。」

「ああ。」

覚えている。

◇

「では。」

ドルチェが。

微笑んだ。

「今は?」

「……。」

リアルダの指が。

グラスの縁で止まった。

「今、ですか。」

「ええ。」

少しだけ。

考える。

「最初は。」

「期間雇用を終えることしか。」

「考えていませんでした。」

「終わったら。」

「大学へ行く。」

「それだけです。」

タケハラが。

黙って聞いている。

「でも。」

リアルダは。

そこで。

言葉を止めた。

◇

「変わったのか?」

俺が聞く。

「……少し。」

リアルダが。

俺を見る。

「レッド様。」

「着任の日。」

「私に。」

「怖くないのかって。」

「聞きましたよね。」

「ああ。」

「今も。」

「怖いですよ。」

即答だった。

「あの日と。」

「同じです。」

少しだけ。

笑う。

「でも。」

「明日の心配をしながら。」

「眠ることは。」

一拍。

「減りました。」

◇

「どうしてです?」

タケハラが聞く。

リアルダは。

少し考えた。

「寝る場所があります。」

「食事もあります。」

「仕事もあります。」

そして。

真顔で。

「冷凍したパンも。」

「あります。」

「パン?」

タケハラが。

目を丸くする。

「非常食です。」

「そこ。」

「大事なんですねー。」

「大事です。」

即答。

ドルチェが。

口元を押さえた。

「ウフフっ。」

◇

「じゃあ。」

タケハラが。

少しだけ笑う。

「山陰に来て。」

「良かったですか?」

「……。」

リアルダは。

すぐには答えなかった。

「どうでしょう。」

少しだけ。

表情を緩める。

「ただ。」

「明日を迎えることは。」

一拍。

「前より。」

「楽しみになりました。」

「……そうですか。」

タケハラも。

小さく笑った。

◇

しばらく。

誰も。

何も言わなかった。

ドルチェは。

ただ。

穏やかに。

リアルダを見ている。

やがて。

リアルダが。

俺へ視線を向けた。

「では。」

「レッド様。」

「ん?」

「私は。」

「お話ししました。」

嫌な予感。

「今度は。」

「レッド様の番です。」

「……俺?」

「はい。」

タケハラまで。

こちらを見る。

ドルチェが。

静かに尋ねた。

「隊長は。」

「どうして。」

「山陰へいらしたんですの?」

「……。」

俺は。

グラスへ目を落とした。

カラン。

溶けかけた氷が。

小さく鳴る。

あの。

初めてリアルダと。

会った日。

俺は。

こんなことを思った。

リアルダは。

未来を見ている。

対して。

俺は――。


第119話『逃げ場所』
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2026年08月18日

第117話『同じ目線』

第117話『同じ目線』


「少し。」

ドルチェは。

グラスを見つめたまま。

微笑んだ。

「昔のお話を。」

「いたしましょうか。」

店内には。

静かな音楽。

誰も。

急かさなかった。

◇

「わたくし。」

「昔は。」

「フルートの音術師でしたの。」

タケハラが。

少し身を乗り出す。

「初級使いだったんですよね?」

「ええ。」

「益田の。」

「フルート隊におりましたわ。」

「じゃあ。」

俺は聞く。

「最初から。」

「トランペット遊撃隊にいたわけじゃないんだな。」

「ええ。」

ドルチェが。

小さく頷く。

「でも。」

「会議や合同訓練。」

「出動先では。」

「よく。」

「トランペット遊撃隊の方々と。」

「ご一緒しておりましたの。」

一拍。

「その中に。」

声が。

少しだけ。

柔らかくなった。

「とても。」

「大切な方が。」

「おりましたわ。」

◇

誰も。

名前を聞かなかった。

ドルチェも。

言わなかった。

リアルダが。

静かに尋ねる。

「その方も。」

「音術師様だったのですか?」

「ええ。」

ドルチェは。

懐かしそうに笑う。

「第一トランペット遊撃隊の。」

「隊長でしたの。」

俺の手が。

止まった。

第一トランペット遊撃隊。

今。

俺が率いている隊だ。

「……そうだったのか。」

「ウフフっ。」

「隊長が赴任される。」

「ずっと前のお話ですわ。」

◇

ドルチェは。

グラスを傾ける。

氷が。

静かに動いた。

「あの人は。」

「いつも。」

「自分の隊のお話を。」

「しておりましたの。」

「部下がどうした。」

「訓練がどうした。」

「今日は誰が。」

「いい音を出した。」

ドルチェが。

少しだけ笑う。

「わたくし。」

「時々。」

「妬けましたのよ?」

タケハラが。

くすっと笑った。

「隊員さんに?」

「遊撃隊にですわ♪」

「まあ。」

「それは強敵ですねー。」

「でしょう?」

ドルチェも。

笑った。

その笑顔が。

やがて。

静かになる。

◇

「あの日も。」

「あの人は。」

「出動でしたの。」

一拍。

ドルチェの指が。

グラスの縁で止まる。

「そして。」

もう一拍。

「あの人は。」

「帰ってきませんでしたの。」

誰も。

何も言わなかった。

俺も。

グラスを持ったまま。

動けなかった。

ドルチェは。

泣いていない。

ただ。

遠いものを見るように。

微笑んでいた。

◇

「しばらくして。」

「わたくし。」

「フルートを辞めましたの。」

リアルダが。

わずかに目を見開く。

「それで。」

「トランペットへ?」

「ええ。」

タケハラが。

少し迷ってから。

口を開いた。

「でも。」

「音術師から。」

「音響士への転科って……。」

その先を。

言わなかった。

ドルチェは。

分かっていたように。

頷いた。

「降格ですわね。」

「……。」

「周りにも。」

「止められましたわ。」

「せっかく。」

「初級まで上がったのに。」

「もったいない。」

「もう一度。」

「考えなさいって。」

コン・ブリオが。

静かに言う。

「それでも。」

「先輩は決めたんですね。」

「ええ。」

迷いのない。

返事だった。

◇

俺は。

聞いた。

「どうして。」

「そこまでして。」

「トランペットだったんだ?」

ドルチェは。

すぐには。

答えなかった。

グラスの中。

小さな氷を。

見つめている。

やがて。

口を開いた。

「あの人が。」

「育てて。」

一拍。

「あの人が。」

「愛した。」

「トランペット遊撃隊で。」

俺を見る。

「今度は。」

「わたくしも。」

ほんの少し。

微笑んだ。

「あの人と。」

「同じ目線で。」

「生きてみたかったんですの。」

◇

店内の音楽だけが。

遠くに聞こえる。

リアルダが。

ぽつりと呟いた。

「恋人との。」

「想い出を。」

「守るため……。」

ドルチェが。

ゆっくり。

首を横へ振る。

「少し。」

「違いますわ。」

「え?」

「想い出の中で。」

「生きたいわけでは。」

「ありませんの。」

グラスから。

手を離す。

「今も。」

一拍。

「あの人と一緒に。」

「生きているつもりですわ。」

◇

タケハラは。

黙っていた。

コン・ブリオも。

何も言わない。

俺にも。

うまく言葉には。

できなかった。

でも。

ドルチェが。

あの人のいた遊撃隊で。

今も笑っている。

それだけで。

少し。

分かる気がした。

◇

「……隊長?」

ドルチェが。

俺を見る。

「何だ?」

「ずいぶん。」

「難しいお顔を。」

「してますわよ?」

「そうか?」

「ウフフっ。」

いつもの。

ドルチェだった。

タケハラも。

ようやく。

小さく息を吐く。

「ドルチェさん。」

「はい?」

「格好いいですね。」

「あら。」

「ありがとうございます♪」

「私なら。」

「そんな決断。」

「できるかな……。」

ドルチェは。

少し考えた。

「しなくても。」

「よろしいんですのよ。」

「え?」

「人それぞれ。」

「立っている場所は。」

「違いますもの。」

タケハラが。

静かに頷いた。

◇

そして。

ドルチェの視線が。

隣へ動く。

「ところで。」

「リアルダちゃん。」

「はい?」

リアルダが。

顔を上げる。

「わたくしのお話は。」

「これくらいにして。」

ドルチェが。

いつもの笑顔を浮かべた。

「今度は。」

「貴女のお話を。」

「聞いてみたいですわ。」

「私の?」

「ええ。」

少しだけ。

首を傾げる。

「リアルダちゃんは。」

一拍。

「どうして。」

「山陰へいらしたんですの?」

「……。」

リアルダの手が。

膝の上で。

静かに止まった。


第118話『明日』
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2026年08月18日

第116話『決死隊』

第116話『決死隊』


「彼女の第3遊撃隊は。」

コン・ブリオが。

静かに言った。

「決死隊だったからね……。」

沈黙。

さっきまでの。

笑い声が消えた。

俺は。

たまらず。

グラスへ手を伸ばす。

カラン。

氷の音だけが。

店内に響いた。

「あの、その……。」

タケハラが。

口を開く。

でも。

その先が続かない。

そんな彼女を。

かばうように。

ドルチェが口を開いた。

「タケハラさんだけでは。」

「ありませんわ。」

「わたくしたちの。」

「第4遊撃隊も。」

一拍。

「決死隊だったんですのよ。」

「え?」

「え?」

俺と。

リアルダの声が重なった。

◇

コン・ブリオが。

俺を見る。

「レッド。」

「防御の固い本陣まで。」

「届く音響弾が飛んできたら。」

「どうする?」

リアルダが。

先に答えた。

「火点を見つけ。」

「全力で叩きます。」

「あ……。」

思い出した。

オオタケの言葉。

そして。

あの瞬間。

「山ンバの左翼から。」

「ありったけの音響弾が。」

「飛んできたな……。」

リアルダの顔が。

少し青ざめる。

「あの轟音と。」

「衝撃……。」

膝の上で。

指を握った。

「とても。」

「恐ろしかったです。」

一拍。

「本当に。」

「生き残ったのが。」

「不思議なくらいです。」

ドルチェが。

いつものように。

穏やかに微笑む。

「たまたま。」

「第4遊撃隊には。」

「隊長をはじめ。」

「音術師たくさんがいらっしゃいましたし。」

少しだけ。

自分の胸へ手を添える。

「わたくしも。」

「おりましたから。」

◇

コン・ブリオが。

タケハラを見る。

「じゃあ。」

「タケハラ君の第3遊撃隊へ。」

「同じ集中砲火が来たら?」

「……。」

タケハラは。

グラスへ視線を落とした。

「我が隊では。」

一拍。

「防ぎきれなかったと。」

「思います……。」

誰も。

何も言わない。

「もし。」

俺は。

口を開いた。

「俺たちが。」

「広島へ来てなかったら……。」

そこで。

言葉が止まった。

その先は。

聞く必要がなかった。

◇

「……戦争は。」

コン・ブリオの声が。

静かに落ちる。

「綺麗ごとだけじゃ。」

「済まないからね。」

いつもの。

柔らかな声。

なのに。

どこか。

悲しみが混じっていた。

リアルダが。

ゆっくり顔を上げる。

「それで……。」

「第4遊撃隊には。」

俺を見る。

「音術師様が。」

「多く配置されていたのですね。」

コン・ブリオは。

何も答えなかった。

ドルチェが。

小さく笑う。

「ウフフっ。」

「そのおかげで。」

「今。」

「こうして。」

「皆さんと。」

「ご一緒できておりますわね。」

重かった空気が。

ほんの少しだけ。

ほどけた。

◇

「あの……。」

タケハラが。

リアルダを見る。

「リアルダさん。」

「はい。」

「すみませんでした。」

「私。」

少しだけ。

視線を落とす。

「ちょっと。」

「浮かれてました……。」

リアルダも。

姿勢を正した。

「こちらこそ。」

「申し訳ありませんでした。」

「事情も知らず。」

「失礼なことを。」

「いえ。」

「そんな……。」

短い。

沈黙。

タケハラが。

ゆっくり顔を上げる。

そして。

ニコッ。

「なら。」

一拍。

「公認ということですね♪」

「……。」

リアルダが。

固まる。

俺も。

一瞬。

言葉が出なかった。

強い。

この子。

強い。

さっきまで。

決死隊の話をしていたのに。

もう。

戻ってきた。

胆力が。

すごい。

「タケハラ様。」

リアルダの声が。

少し低くなる。

「はい♪」

「公認した覚えは。」

「ありません。」

「えー。」

「今。」

「和解したじゃないですかー。」

「和解と。」

「許可は。」

「別問題です。」

「厳しいー。」

また。

始まりそうだ。

◇

「コホン。」

俺は。

わざとらしく。

咳払いした。

全員が。

こっちを見る。

話題を。

変えよう。

俺は。

ドルチェを見る。

「それで。」

「俺たちを救った。」

「君のトランペットだけど。」

「はい?」

「前から。」

「少し気になってた。」

ドルチェの笑顔が。

ほんの少し。

静かになる。

「どうして。」

「フルートの音術師から。」

一拍。

「トランペットの音響士へ。」

「転科したんだ?」

「……。」

タケハラも。

リアルダも。

黙った。

コン・ブリオは。

グラスへ視線を落とす。

ドルチェは。

しばらく。

何も言わなかった。

やがて。

いつものように。

穏やかに微笑む。

「ウフフっ。」

「そうですわね。」

指先で。

グラスの縁を。

そっとなぞる。

「少し。」

「昔のお話を。」

「いたしましょうか。」


第117話『同じ目線』
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2026年08月18日

第115話『市街地対人訓練』

第115話『市街地対人訓練』


ホテルから。

歩いて数分。

コン・ブリオが選んだのは。

静かなバーだった。

照明は暗め。

店内には。

小さな音で音楽が流れている。

「ここなら。」

「落ち着いて話せるだろ?」

「そうだな。」

席へ着く。

俺の隣には。

タケハラ。

向かいには。

リアルダ。

その横。

ドルチェ。

コン・ブリオは。

俺の斜め前に座った。

◇

注文を取りに来た店員へ。

俺は言う。

「CALPIS。」

「ロックで。」

一拍。

「濃いめ。」

タケハラが。

くすっと笑った。

「隊長。」

「可愛いの飲むんですね♪」

「酒が飲めないからな。」

「そうなんですかー。」

リアルダが。

小さく頷く。

「飲酒されないのは。」

「良いことです。」

「また。」

「国家の財産か?」

「当然です。」

真顔。

タケハラが。

少しだけ。

眉を上げた。

◇

飲み物が届く。

タケハラが。

俺のグラスを見る。

「一口。」

「もらってもいいですか♪」

「自分のを頼めばいいだろ。」

「隊長のが。」

「いいんです♪」

「?」

その時。

「タケハラ様。」

リアルダが。

静かに口を挟んだ。

「はい?」

「ご自身の飲み物を。」

「お召し上がりください。」

「……。」

タケハラが。

リアルダを見る。

「リアルダさん。」

「さっきから。」

「ちょっと厳しくないですかー?」

「そうでしょうか。」

「写真の時も。」

「ホテルを出た時も。」

「今も。」

リアルダは。

表情を変えない。

「レッド様は。」

「山陰支部にとって。」

「大切な音術師様です。」

「節度ある交流を。」

「お願いしているだけです。」

「それ。」

タケハラが。

首を傾げる。

「職務ですか?」

「はい。」

「民事介入じゃないですかー?」

ドルチェが。

口元を押さえた。

「ウフフっ。」

◇

タケハラが。

椅子へ座り直す。

「じゃあ。」

「聞きますけど。」

リアルダを見る。

「リアルダさんは。」

「好きな人とか。」

「いないんですかー?」

「……。」

リアルダが。

一瞬。

止まった。

そして。

鞄を開く。

「失礼ですね。」

「私だって。」

「ちゃんと。」

「勉強しています。」

「勉強?」

ドン。

テーブルへ。

一冊の本。

『市街地対人訓練用教材』

『初めてのデート』

「……。」

タケハラが。

固まった。

リアルダは。

得意げにページを開く。

「現在。」

「初めてのお食事。」

チェック。

「初めてのホテル。」

チェック。

「二項目。」

「履修済みです。」

「履修!?」

「はい。」

「市街地対人訓練ですから。」

「それ。」

「普通に恋愛本じゃないですかー?」

「違います。」

リアルダが。

表紙を指す。

「対人訓練と。」

「明記されています。」

「そこ信じるんですか!?」

◇

リアルダが。

真顔で。

次のページをめくる。

「あっ。」

「『初めてのお風呂』は。」

「さすがに駄目ですね。」

「当たり前だ。」

さらに。

めくる。

「あっ。」

「『初めての添い寝』なら――」

「駄目だ。」

「まだ。」

「最後まで読んでません。」

「読まなくていい。」

タケハラが。

腹を抱えた。

「隊長。」

「大変ですねー!」

「俺に言うな。」

◇

タケハラが。

ふと。

本の表紙を見る。

「あれ?」

「何だ?」

「あっ!」

勢いよく。

本を指さした。

「これ!」

「隊長が。」

「演説の時に渡された本だー!」

「言うな。」

リアルダの顔が。

固まる。

「……あれは。」

「事故です。」

「演説の教本と。」

「取り違えました。」

「でも。」

タケハラが笑う。

「防衛隊のみんな。」

「大笑いしてましたよねー。」

「……。」

リアルダの耳が。

少し赤い。

「ふふっ。」

コン・ブリオが。

静かに笑った。

「でも。」

「その本のおかげで。」

「レッドも。」

「防衛隊のみんなも。」

「緊張が解けたんだ。」

リアルダを見る。

「礼を言うね。」

「……。」

タケハラが。

数秒。

黙る。

「なんで。」

一拍。

「いい話みたいに。」

「終わるんですかー!」

笑い声が。

店内に響いた。

◇

ようやく。

笑いが収まる。

リアルダは。

教材を鞄へ戻した。

タケハラも。

グラスへ手を伸ばす。

そこで。

リアルダが。

少しだけ姿勢を正した。

「タケハラ様。」

「はい?」

「大変。」

「失礼なことを申しますが。」

一拍。

「その……。」

言葉を選ぶ。

「少し。」

「がっつき過ぎでは。」

「ありませんか?」

「……。」

今度は。

タケハラが止まった。

ドルチェが。

穏やかに笑う。

「ウフフっ。」

「積極的なのも。」

「悪いことではありませんわ。」

「しかし。」

リアルダが。

言いかける。

でも。

続かなかった。

◇

短い。

沈黙。

タケハラが。

グラスを置いた。

さっきまでの。

軽い笑顔が消える。

「……よく考えたら。」

一拍。

「大変。」

「失礼いたしました。」

「?」

「我が軍の同胞を。」

「救ってくださった皆さんに対して……。」

俺は。

首を振った。

「そこまで。」

「大袈裟に考えることはない。」

タケハラを見る。

「俺たちは。」

「俺たちの仕事を。」

「しただけだ。」

「……。」

タケハラが。

視線を落とした。

その時。

コン・ブリオが。

静かに口を開いた。

「実は。」

「彼女にとっては。」

「大袈裟なことだったんだよ。」

「!?」

タケハラが。

顔を上げる。

「軍団長!」

「やめてください!」

コン・ブリオは。

穏やかなまま。

続けた。

「彼女の第3遊撃隊は。」

一拍。

「決死隊だったからね……。」

「え?」

俺と。

リアルダの声が。

重なった。

「「え?」」

タケハラは。

俯いたまま。

何も言わない。

ドルチェだけが。

達観したように。

穏やかに。

微笑んでいた。


第116話『決死隊』
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2026年08月18日

第114話『乾杯』

第114話『乾杯』


ザ・グランドリヴァージュ広島。

最上階。

大宴会場。

大きな窓の向こうには。

広島の夜景が。

広がっていた。

長いテーブル。

料理。

グラス。

あちこちから。

笑い声が聞こえる。

今日。

同じ戦場に立った者たちが。

また。

同じ場所に集まっていた。

やがて。

一人の老人が。

ゆっくり立ち上がった。

◇

「皆様。」

「本日は。」

「よう帰ってきてくださいました。」

ざわめきが。

静まる。

今朝。

ホテルの前で会った老人だ。

「わしは。」

「ノービレ。」

「このホテルの主人であり。」

「広島西部方面軍第3軍団を。」

「支援させてもろうとります。」

一礼。

「まずは。」

「これまで。」

「帰ることのできんかった者たちへ。」

会場が。

静かになる。

「黙祷。」

◇

音が。

消えた。

窓の向こう。

広島の街だけが。

静かに光っていた。

◇

「……ありがとうございました。」

ノービレが。

顔を上げる。

そして。

少しだけ。

表情を緩めた。

「では。」

「乾杯のご挨拶を。」

嫌な予感。

「広島を。」

「何度も救ってくださった。」

「スカーレット様のご子息であり。」

「このたび。」

「山陰から駆けつけ。」

「第4トランペット遊撃隊を率いて。」

「この危機を救ってくださった。」

ノービレが。

俺を見る。

「レッド殿に。」

「お願いしたいと思います。」

「……。」

やっぱり。

母さんの名前が。

つくのか。

隣を見る。

コン・ブリオが。

何食わぬ顔で。

グラスを持っている。

「ふふっ。」

「おい。」

「何だい?」

「帰りの車で言ってた。」

「もう一つのお願いって。」

「これか。」

「そうだよ。」

悪びれもしない。

◇

仕方なく。

立ち上がる。

会場中の視線が。

集まった。

こういうのは。

本当に苦手だ。

「えー……。」

周りを見る。

今日。

一緒に戦った顔が。

そこにある。

「今日は。」

「お疲れさまでした。」

少し考える。

「こうして。」

「またみんなで。」

「飯を食えて。」

一拍。

「良かった。」

もう。

出てこない。

「以上。」

「短っ!」

どこかから。

声が飛んだ。

笑いが起きる。

俺は。

グラスを上げた。

「乾杯。」

『乾杯!』

グラスの音が。

一斉に重なった。

◇

「しかし。」

副官のオオタケが。

料理を皿へ取りながら。

俺を見る。

「隊長。」

「右翼。」

「本当に危なかったですぞ。」

「そうだったか?」

「……。」

オオタケの手が。

止まる。

「隊長が。」

「山ンバ本陣へ撃ち込んだあと。」

「向こうの火力。」

「ほとんど全部。」

「こっちへ来たじゃないですか。」

リアルダの。

フォークが止まった。

「……食事中に。」

「思い出させないでください。」

ドルチェが。

くすりと笑う。

「ウフフっ。」

オオタケも。

ドルチェを見る。

「ドルチェ殿の防壁がなければ。」

「今頃。」

「笑い話にはなってません。」

「まあ。」

ドルチェは。

平然とグラスを傾ける。

「これくらい。」

「普通ですわ♪」

「普通ではありません。」

リアルダと。

オオタケ。

声が重なった。

「まあ♪」

◇

俺は。

コン・ブリオを見る。

「左翼でも。」

「でかいのが飛んだんだろ?」

「うん。」

コン・ブリオが。

少し離れた席を見る。

「河太郎の本陣へ撃ち込んだのは。」

「タケハラだよ。」

ちょうど。

本人が。

こちらへやって来た。

「お呼びですか?」

「いや。」

コン・ブリオが笑う。

「彼女は。」

「我が軍で一番。」

「太くて。」

「豊かな音響弾を放つんだ。」

タケハラの眉が。

ぴくり。

「軍団長。」

「ん?」

「その。」

「太いって言い方。」

一拍。

「やめてください。」

「……。」

俺は。

思わず笑った。

「一本とられたな。」

「ですよね♪」

タケハラも。

にっこり笑う。

そして。

スマートフォンを取り出した。

「では。」

「一本とられたついでに。」

「写真も。」

「撮られてください。」

「俺が?」

「はい♪」

もう。

カメラが起動している。

「左翼からでも。」

「隊長のあの音響弾の凄さ。」

「分かりました!」

すっと。

俺の横へ寄る。

「痺れましたー!」

「今度。」

「ご指導ください♪」

「俺でいいなら。」

「やった♪」

パシャッ。

◇

向かいを見る。

リアルダが。

なぜか。

無言だった。

「リアルダ?」

「はい。」

「どうした?」

「別に。」

「そうか。」

ドルチェが。

リアルダの横で。

グラスを傾ける。

「ウフフっ。」

「……ドルチェ。」

「何ですの?」

「何でもありません。」

「わたくしも。」

「何も言ってませんわ〜。」

なら。

いいのか。

◇

「そうだ。」

コン・ブリオが。

タケハラを見る。

「研修の件。」

「益田駐屯地付きで。」

「申請しておこうか。」

「本当ですか!?」

タケハラの顔が。

ぱっと明るくなる。

「ぜひ!」

「おい。」

俺は。

コン・ブリオを見る。

「先に。」

「こっちへ言えよ。」

「嫌なの?」

「嫌とは言ってない。」

「なら問題ないね。」

「そういう問題か?」

「ふふっ。」

タケハラが。

俺へ向き直る。

「では。」

「よろしくお願いします。」

「隊長♪」

「まだ決まってないぞ。」

「今のうちからです♪」

「そういうもんか。」

「そういうもんです♪」

横で。

ドルチェが。

楽しそうに笑っていた。

◇

しばらくして。

宴会場の隅に。

妙な列ができた。

「ドルチェ殿。」

士官が。

色紙を差し出している。

その後ろ。

三十代。

四十代。

五十代。

いい歳をした士官たちが。

並んでいる。

「……何だ。」

「あれ。」

リアルダも。

目を丸くする。

「上の階級の方まで。」

「いらっしゃいますね。」

先頭の士官が。

緊張した顔で。

「学生時代から。」

「ファンでした。」

「まあ……。」

ドルチェが。

頬へ手を添える。

「もう。」

「齢が。」

「バレてしまいますわ〜。」

会場に。

笑いが起きた。

◇

俺は。

コン・ブリオを見る。

「何なんだ。」

「あれ。」

「知らないの?」

「知らん。」

「ドルチェ先輩。」

「士官学校のパンフレットとか。」

「広報ポスターとか。」

「よく出てたんだよ。」

「……モデル?」

「そう。」

リアルダまで。

ドルチェを見る。

「初耳です。」

「ウフフっ。」

「昔のお話ですわ〜。」

列の後ろから。

声が飛んだ。

「当時のポスター!」

「まだ持ってます!」

ドルチェの笑顔が。

一瞬。

固まる。

「それは。」

「言わなくてよろしいですわ!」

また。

笑いが広がった。

◇

「昔から。」

「人気者じゃったからのう。」

ノービレが。

楽しそうに笑っている。

俺は。

ノービレを見る。

ドルチェを見る。

今朝のリムジン。

ホテルでの扱い。

「……まさか。」

ドルチェが。

にっこり笑った。

「こちら。」

「わたくしの祖父ですわ♪」

「やっぱりか。」

ノービレが。

声を上げて笑う。

「ようやく気づいたか!」

「最初から。」

「言ってくれればいいのに。」

「聞かれんかったからの♪」

リアルダが。

小さくため息をついた。

◇

料理も。

だいぶ減った頃。

ドルチェが。

俺を見る。

「隊長。」

「何だ。」

「このホテル。」

「気に入りました?」

「まあ。」

「すごいホテルだとは思う。」

ノービレまで。

なぜか。

こっちを見ている。

ドルチェが。

微笑む。

「ずっと。」

「ここに住めますのよ?」

「……。」

少し考えた。

「いや。」

「益田の宿舎でいい。」

「……。」

ドルチェが。

目を細める。

「そういう意味では。」

「ありませんわ〜。」

「じゃあ。」

「どういう意味だ?」

リアルダが。

少しだけ。

視線を逸らした。

ノービレは。

腹を抱えて笑っていた。

何なんだ。

◇

宴も。

そろそろ。

お開き。

オオタケが。

席を立つ。

「隊長。」

「今日は。」

「お疲れさまでした。」

「おう。」

「では。」

「私はこの辺で。」

「またな。」

オオタケが。

会場を出ていく。

俺も。

そろそろ。

部屋へ戻ろう。

そう思った時。

「隊長♪」

タケハラが。

やって来た。

「ん?」

「このあと。」

「みんなで二次会へ行くんですけど。」

にっこり。

「よろしければ。」

「ご一緒しませんか?」

「俺?」

「はい♪」

「……。」

今日は。

朝から。

色々ありすぎた。

「スマン。」

「俺。」

「酒が飲めないんだ。」

肩を回す。

「それに。」

「今日は疲れたし。」

「もう休みたい。」

「あら……。」

タケハラが。

ほんの一瞬。

残念そうな顔をした。

でも。

すぐ笑う。

「分かりました♪」

「お疲れですものね。」

「悪い。」

「いえいえ♪」

タケハラが。

仲間たちの方へ戻っていく。

◇

「レッド。」

今度は。

コン・ブリオだった。

「何だ?」

「このあと。」

「少し付き合わない?」

「……お前までか。」

「静かな店で。」

「少し話をしたいんだ。」

「酒は飲まなくていいよ。」

「……。」

親友に。

そう言われると。

断りづらい。

「長くならないか?」

「ならないよ。」

一拍。

「多分。」

「多分って。」

「ふふっ。」

俺は。

ため息をついた。

「分かった。」

「少しだけな。」

「ありがとう。」

コン・ブリオが。

嬉しそうに笑った。

そして。

仲間たちの方へ戻ろうとしていた。

タケハラへ。

声をかける。

「タケハラ。」

「はい?」

「君も。」

「一緒に来ない?」

「……!」

顔が。

一気に明るくなる。

「よろしいんですか?」

「もちろん。」

俺は。

タケハラを見る。

「君は。」

「他の仲間と。」

「二次会じゃないのか?」

「……。」

タケハラが。

すっと背筋を伸ばした。

右手を。

額へ。

ビシッ!

「軍団長の命令は。」

一拍。

「絶対であります!」

「ふふっ。」

コン・ブリオが笑う。

「命令してないけどね。」

「では。」

タケハラが。

にっこり笑う。

「軍団長からの。」

「ありがた〜いお誘いであります♪」

「さっきと違うぞ。」

「細かいことは。」

「気にしないでください♪」

そういうものなのか。

◇

「ウフフっ。」

後ろから。

聞き慣れた笑い声。

振り返る。

ドルチェが。

いつもの笑顔で。

立っていた。

「まあ。」

「楽しそうですこと。」

コン・ブリオが。

苦笑する。

「ドルチェ先輩。」

「あら。」

ドルチェが。

頬へ手を添える。

「わたくしも。」

一拍。

「同窓会に。」

「参加させてくださいませ♪」

「同窓会?」

俺は。

首を傾げる。

「ただ。」

「飲みに行くだけだぞ。」

「まあ♪」

ドルチェが。

さらに笑う。

「でしたら。」

「親睦会ということで。」

「わたくしも。」

「ご一緒いたしますわ♪」

「……。」

どうやら。

人数が増えるらしい。

◇

ドルチェが。

くるりと。

後ろを向く。

少し離れた場所。

リアルダが。

荷物をまとめていた。

「リアルダちゃん。」

「はい?」

「貴女も。」

「ご一緒しません?」

「私もですか?」

「ええ♪」

リアルダが。

こちらを見る。

俺。

コン・ブリオ。

ドルチェ。

そして。

俺の横にいる。

タケハラ。

「……。」

ほんの少し。

間があった。

「私は。」

「士官学校の卒業生ではありませんが。」

「まあ。」

ドルチェが。

にっこり笑う。

「でしたら。」

「特別参加ですわ♪」

「……。」

リアルダが。

もう一度。

こちらを見る。

「分かりました。」

「ご一緒します。」

「ウフフっ。」

なぜか。

ドルチェが。

とても満足そうだった。

◇

五人で。

ホテルを出る。

広島の夜。

店の灯り。

行き交う人。

昼間とは。

まるで違う街だった。

先頭。

コン・ブリオ。

その横。

ドルチェ。

俺の隣には。

タケハラ。

リアルダも。

すぐ近くを歩いている。

「隊長♪」

「ん?」

「益田へ行ったら。」

「色々。」

「教えてくださいね。」

「トランペットなら。」

「カンタービレに聞いたほうが。」

「細かいところまで。」

「教えてくれるぞ。」

「……。」

タケハラが。

じっと俺を見る。

「私。」

一拍。

「隊長に。」

「教わりたいんです♪」

「そうなのか?」

「そうなんです♪」

「なら。」

「時間があれば。」

「お願いします♪」

その時。

横から。

小さなため息。

「リアルダ?」

「はい。」

「疲れたか?」

「疲れていません。」

「そうか。」

妙に。

返事が早い。

前を歩く。

ドルチェの肩が。

小さく揺れていた。

「ドルチェ。」

「何で笑ってる?」

「ウフフっ。」

振り返る。

いつもの。

穏やかな笑顔。

「隊長には。」

一拍。

「まだ。」

「難しいお話ですわ〜♪」

「?」

俺には。

さっぱり。

分からなかった。


第115話『市街地対人訓練』
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2026年08月18日

第113話『生還』

第113話『生還』


悪のみなさん連合。

後方本隊。

ついさっきまで。

勝勢に沸いていた。

今は。

違う。

伝令が。

次々と駆け込んでくる。

「大王様。」

ヒノエウマの使いが。

三鬼大王の前へ出た。

「河太郎と。」

「山ンバの軍が。」

「撤退を始めました。」

三鬼大王は。

わずかに目を細めた。

でも。

動揺は見せない。

「……そうか。」

一拍。

「あ奴らも。」

「よう頑張った。」

穏やかな声。

「責めてくれるな。」

「大王様!」

今度は。

絡新婦が声を上げる。

「防衛隊が。」

「我が軍を包み込むように。」

「展開しております!」

一つ目入道も続く。

「四方から。」

「おびただしい数の音響弾が!」

◇

三鬼大王は。

戦場を見渡した。

前。

瀬戸坊軍は。

防衛隊中央に止められている。

左右。

河太郎軍。

山ンバ軍。

どちらも撤退。

その空いた場所へ。

防衛隊が入り込んでいる。

後方では。

防衛隊散兵と。

トランペット遊撃隊が。

こちらの背後へ回ろうとしていた。

「……なるほどの。」

三鬼大王が。

静かに呟く。

「わしらが。」

「中央を押し込んどったんじゃない。」

目を細める。

「中央へ。」

一拍。

「誘い込まれとった。」

その時。

ドゴォォォォン!!

すぐ近くへ。

音響弾が落ちた。

土煙。

「大王様!」

鬼火坊主が。

三鬼大王の前へ出る。

「防御弾幕の隙を抜けて。」

「ここまで届いとります!」

「ご避難を!」

三鬼大王は。

首を横へ振った。

「わしより。」

戦場を見る。

「先に。」

「皆を逃がす。」

周囲が。

静まった。

「瀬戸坊の軍の。」

「退路を作れ。」

「全軍へ伝えよ。」

「ハハッ!」

◇

提灯化けが。

大きく手を上げる。

「退路の誘導は。」

「ワチキにおまかせありんす!」

土ころびも。

一歩前へ出た。

「依り代の童らを。」

「解放する手配をいたします。」

三鬼大王が。

振り返る。

「くれぐれも。」

一拍。

「丁重にな。」

「もちろんです。」

ヒノエウマの使いも。

静かに頷く。

「ありったけの。」

「お菓子と。」

「おもちゃを。」

「持たせてあげなさい。」

「ハハッ!」

土ころびが。

走っていく。

◇

三鬼大王は。

その背中を見送ったあと。

ヒノエウマの使いを見る。

「……さて。」

「お主も。」

「よう頑張ってくれた。」

「配下を連れて。」

「退却するのじゃ。」

「嫌です。」

「……なんと?」

三鬼大王が。

目を丸くした。

ヒノエウマの使いは。

戦場を見たまま。

動かない。

「私が。」

「皆から受けた願いは。」

少し間を置く。

「そんなに。」

「浅いものではありません。」

火馬も。

一歩前へ出る。

「今回は。」

「主の願いに。」

「皆さんを巻き込んだ責任があります。」

怨霊童が続く。

「瀬戸坊様の軍と。」

呪詛童が並ぶ。

「大王様の本隊が。」

二人。

声をそろえる。

「退却するまで。」

「我ら。」

「ヒノエウマ軍団に。」

「お任せください。」

影踏みが。

肩を回した。

「出番がなくて。」

「暇を持て余していたところです。」

返り提灯も。

胸を張る。

「我らの軍に。」

一拍。

「皆を。」

「送らせてください。」

◇

三鬼大王は。

何も言わなかった。

ヒノエウマの使い。

火馬。

怨霊童。

呪詛童。

返り提灯。

影踏み。

誰も。

退くつもりはないらしい。

「……まったく。」

三鬼大王が。

困ったように笑った。

そして。

深く頷く。

「任せたぞ。」

ヒノエウマの使いも。

静かに頷いた。

◇

こうして。

広島で。

かつてない規模で行われた。

大軍編成会戦。

レギオンは。

終わった。

◇

しばらくして。

公園の外へ出ると。

黒塗りのリムジンが。

待っていた。

「……。」

朝。

初めて見た時も。

思った。

やっぱり。

場違いだ。

「皆様。」

ミヤジマさんが。

深く一礼する。

「お迎えに上がりました。」

「……戦場帰りを。」

「これで迎えるのか。」

ドルチェが笑う。

「ウフフっ。」

「さあ。」

「参りましょう♪」

◇

車内。

さっきまでの。

轟音も。

怒号も。

もう聞こえない。

でも。

みんなの顔には。

まだ。

高揚が残っていた。

俺は。

座席へ身体を預ける。

「あいつら。」

「素直に返して。」

「良かったのか?」

コン・ブリオは。

窓の外を見たまま。

「ふふっ。」

それだけ。

リアルダが笑った。

「コン・ブリオ様らしい。」

「スマートな指揮でしたね。」

俺は。

車内を見回す。

広い座席。

豪華な内装。

静かすぎる乗り心地。

「ホテルへ戻るだけで。」

「この車は。」

「スマートじゃないけどな。」

ドルチェが。

口元へ手を添えた。

「ウフフっ。」

「みんな。」

「生きて帰れたから。」

一拍。

「スマートですわ。」

「……。」

俺は。

少しだけ笑った。

「それも。」

「そうか。」

◇

窓の外。

広島の街は。

何事もなかったように。

流れていく。

コン・ブリオも。

その景色を。

静かに眺めていた。

やがて。

「それと。」

「レッド。」

「ん?」

少しだけ。

嫌な予感。

「もう一つ。」

コン・ブリオが。

こちらを見る。

「お願いがあるんだけど。」

「……。」

やっぱり。

俺は。

ため息をついた。

「どうせ。」

「断らせてくれないんだろ。」

「ふふっ。」

答えない。

そのくせ。

少しだけ。

耳が赤い。

昔から。

こいつが。

こういう顔をする時は。

大抵。

ろくでもないことを頼んでくる。

俺は。

頭を掻いた。

そして。

いつもの言葉を。

親友へ投げる。

「なんとかなるさ。」

コン・ブリオが。

小さく笑った。

リムジンは。

静かに。

広島の街を走っていった。


第114話『乾杯』
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2026年08月18日

第112話『カンナエ』

第112話『カンナエ』


広島平和野外音楽堂公園を。

一望できる高台。

木陰のシートでは。

二人の子どもが。

おもちゃで遊んでいた。

その隣。

母親が。

穏やかに見守っている。

◇

少し離れた場所。

アラクネは。

双眼鏡を覗いていた。

「……。」

「アラクネ様。」

カリストスが声をかける。

「何?」

「連合軍左翼。」

「撤退を始めました。」

アラクネが。

双眼鏡を動かす。

山ンバ軍。

確かに。

退いている。

メリッサも。

反対側を見る。

「右翼も。」

「撤退開始です。」

「……両翼が。」

アラクネの眉が。

わずかに動いた。

◇

防衛隊は。

追わない。

退いていく連合軍を。

必要以上に追撃しない。

カリストスが呟く。

「深追いしませんね。」

メリッサも頷く。

「殿を追い詰めれば。」

「向こうも必死になりますから。」

「……。」

アラクネは。

双眼鏡を下ろさない。

「貴方たち。」

「はい?」

「一つ。」

「忘れてるわ。」

連合軍を見る。

「まだ。」

「数も。」

「戦力も。」

「向こうが上よ。」

二人の表情が変わる。

「ここで乱戦になれば。」

「連合軍は、まだ押し切れるかもしれない。」

一拍。

「でも。」

声を落とす。

「どっちも。」

「ただでは済まない。」

カリストスが。

小さく息を吐く。

「だから。」

「退くなら。」

「退かせる……。」

「そう。」

アラクネが。

少し笑った。

「勝ち方を。」

「選んでる。」

◇

その時だった。

「……?」

アラクネの目が。

止まった。

防衛隊中央。

もう。

下がっていない。

瀬戸坊軍と。

正面から噛み合っている。

その後ろ。

打楽器防壁隊の重い音が。

途切れず響いていた。

さらに。

中央の左右。

重奏歩兵と。

機動予備。

連合軍を。

包み込むように。

展開し始めている。

「……。」

アラクネが。

双眼鏡を握り直した。

その外側。

最初に左右へ散った散兵。

そして。

両翼の。

トランペット遊撃隊。

左から。

右から。

連合軍後方本隊の。

背後へ向かっている。

U字の包囲。

その上蓋を。

閉じるように。

◇

「……そう。」

アラクネが。

小さく呟いた。

視線が。

戦場全体をなぞる。

前へ張り出していた。

防衛隊中央。

そこへ。

深く入り込んだ瀬戸坊軍。

勝勢を見て。

中央へ流れた。

連合軍、両翼の兵。

そして。

瀬戸坊軍を後押しするため。

中央へ前進した。

三鬼大王の後方本隊。

今。

そのすべてが。

一つの形の中にいる。

深い。

U字。

底は。

もう崩れない。

両側から。

包み込まれ。

そして。

上蓋が。

閉じようとしている。

「……!」

全部が。

一つにつながった。

アラクネが。

双眼鏡を下ろした。

「カンナエの戦い……。」

◇

沈黙。

メリッサが。

恐る恐る声をかける。

「アラクネ様?」

「ムッ……。」

「え?」

「ムッ……。」

嫌な予感。

そして。

「ムキーっ!!」

ベシッ!

「痛っ!」

メリッサが。

頭を押さえる。

「何なさるんですー!」

カリストスが。

一歩下がった。

「八つ当たりですか?」

「そうよ!」

「認めた!」

ベシッ!

「痛い!」

シートの上から。

子どもたちの笑い声。

「お姉ちゃん。」

「怒ってるー。」

「……。」

アラクネが。

固まった。

母親とも。

目が合う。

「……コホン。」

髪を整える。

「ちょっと。」

「大人げなかったわね。」

メリッサと。

カリストスを見る。

「悪かったわ。」

「……。」

二人が。

顔を見合わせる。

「アラクネ様が。」

「謝った……。」

「アラクネ様が。」

「謝った……。」

アラクネの眉が。

ぴくりと動く。

「そこ。」

一拍。

「分散和音で。」

「ハモらない。」

◇

再び。

戦場を見る。

上蓋は。

まだ。

閉じていない。

退路は。

わずかに残されている。

それでも。

瀬戸坊軍も。

三鬼大王の本隊も。

自由に動ける場所は。

もうほとんどない。

「……。」

アラクネが。

唇を噛む。

「どうして……。」

メリッサが聞く。

「何がです?」

アラクネが。

戦場を指さした。

「どうして!」

声が大きくなる。

「どうして私が!」

一拍。

「あそこにいないのよー!!」

「……。」

「アタシなら!」

「もっと!」

「うまくやるわよー!」

カリストスが。

呆れた顔をする。

「アラクネ様。」

「どちらの味方なんです?」

アラクネは。

即答した。

「負けてる方に。」

一拍。

「決まってるでしょ!」

「そこですか!」

◇

アラクネは。

くるりと背を向けた。

「帰るわよ。」

メリッサが。

目を丸くする。

「え?」

「最後まで。」

「見ないんですか?」

足が止まる。

アラクネは。

振り返らなかった。

戦場では。

まだ。

いくつもの音が。

ぶつかり合っている。

それでも。

静かに言った。

「もう。」

一拍。

「勝敗は。」

「決したわ……。」


第113話『生還』
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2026年08月18日

第111話『逃げ場のない優勢』

第111話『逃げ場のない優勢』


悪のみなさん連合。

右翼。

第1軍団。

左翼、山ンバ軍撤退の知らせは。

すでに。

河太郎のもとへ届いていた。

「お頭。」

流れ女が。

静かに報告する。

「山ンバ様の軍。」

「撤退を始めました。」

「……そうか。」

河童兵が。

遠く左翼を見る。

「連合軍でも。」

「一番の火力を持つ山ンバ様が……。」

水虎も。

防衛隊右翼へ目を向けた。

「向こうには。」

「よほどの使い手がおるんでしょうな。」

さっきまで。

中央の勝勢に沸いていた第1軍団から。

笑い声が消えていた。

河太郎は。

正面を見る。

防衛隊左翼。

第3トランペット遊撃隊。

まだ。

動いていない。

「……来るぞ。」

「え?」

河太郎が。

杖を構える。

「今度は。」

「わしらの番じゃ。」

◇

蛙火が。

一歩前へ出た。

「お頭。」

「こちらの防壁は。」

「そう簡単には抜かれませんで。」

「そうじゃと。」

河太郎が。

小さく息を吐く。

「ええがの。」

その時。

ピィーユ――。

「……!」

聞き覚えのある音。

戦場の轟音から。

一本だけ。

透き通ったフルートが浮かび上がる。

フィリュリュ……。

ティリリ……♪

河太郎の目が。

見開かれた。

「来る!」

次の瞬間。

防衛隊左翼から。

一発。

太く。

温かい音をまとった。

特大の音響弾。

不協和音の防御弾幕。

その隙を。

すり抜ける。

「なっ――」

ドゴォォォォン!!

第1軍団本陣。

直撃。

◇

「お頭ー!」

河太郎が。

地面へ転がった。

蛙火が。

慌てて駆け寄る。

「大丈夫ですか!」

水神の子も。

身体を起こす。

河太郎は。

泥だらけの衣装を払いながら。

ゆっくり立ち上がった。

「心配ない。」

胸を張る。

「この程度。」

「何発くらおうが。」

「問題ないわい。」

「……。」

流れ女が。

口元を押さえる。

「ぷぷっ。」

「何じゃ。」

「また。」

「痩せ我慢しよる。」

「してない!」

水神の子も苦笑する。

「お頭。」

「わしらの前くらい。」

「痛い言うてもええんですよ。」

「痛くない!」

「本当に!」

河太郎が。

むきになる。

周囲から。

小さな笑い。

でも。

その笑いは。

すぐに消えた。

◇

河童兵が。

遠く、防衛隊右翼を見る。

「……もし。」

全員が。

そちらを向く。

「今の一発が。」

「山ンバ様の本隊へ入ったのと。」

「同じくらいだったら……。」

河太郎は。

黙った。

しばらくして。

小さく息を吐く。

「今頃。」

一拍。

「みなと。」

「……馬鹿笑いはできんかったじゃろうな。」

誰も。

笑わなかった。

蛙火が。

静かに言う。

「お頭。」

「このまま続けても。」

「我らの防壁では……。」

河太郎は。

しばらく。

正面に布陣する。

防衛隊左翼を見ていた。

そして。

杖を下ろした。

「……第一軍団の仕事は。」

「ここまでじゃ。」

部下たちが。

顔を上げる。

「中央へ出た川の衆にも。」

「伝えよ。」

一拍。

「撤退じゃ。」

「ハハッ。」

「それから。」

河太郎が続ける。

「せっかく。」

「集まってくれたのに。」

少しだけ。

笑った。

「悪かったとな。」

流れ女が。

肩をすくめる。

「じゃあ。」

「わしらは。」

「残業して終わりですね。」

河太郎も笑った。

「ああ。」

「みんなを。」

「生きて帰さんとな。」

◇

悪のみなさん連合右翼。

第1軍団も。

撤退を始めた。

川へ。

故郷へ。

帰るために。

そして。

その最後尾。

河太郎と直属部隊だけが。

防衛隊左翼の前へ。

残った。

◇

悪のみなさん連合中央。

瀬戸坊軍。

少し前まで。

防衛隊中央を押し込み続けていた。

だが。

今は。

違う。

音響弾。

防御弾幕。

太い和音。

不協和音。

互いの音が。

正面からぶつかり続ける。

進めない。

下がらない。

戦線は。

完全に止まっていた。

「……。」

瀬戸坊は。

前を見る。

防衛隊中央。

もう。

下がっていない。

船幽霊が。

声を上げる。

「瀬戸坊様!」

「もう一押しです!」

「ここを抜けば――」

「いいえ。」

瀬戸坊が。

静かに遮った。

「進んでいません。」

「……え?」

「さっきから。」

少しも。

前へ出られていない。

塩吹き爺が。

前方を睨む。

「止められたんじゃ。」

瀬戸坊は。

何も答えなかった。

◇

右を見る。

河太郎軍。

撤退を始めている。

左を見る。

山ンバ軍も。

退いている。

その空いた場所へ。

左右に散開していた防衛隊の散兵と。

両翼である遊撃隊が。

少しずつ。

入り込んでくる。

瀬戸坊の表情が。

変わった。

「……いつの間に。」

海女の妖も。

周囲を見る。

「右。」

「防衛隊。」

左を見る。

「左も。」

「防衛隊です。」

大ダコが。

八本の足を。

落ち着かなさそうに動かした。

「瀬戸坊様。」

「これ。」

「どうします?」

◇

瀬戸坊は。

後ろを振り返る。

そこには。

中央へ加勢しようと前へ出た。

三鬼大王の本隊。

さらに。

両翼へ戻ろうとする兵。

中央へ流れ込んできた各地の軍勢。

前へ出ようとする者。

戻ろうとする者。

それらが。

入り乱れていた。

「道を空けろ!」

「右翼へ戻る!」

「こっちは本隊じゃ!」

「押すな!」

怒号。

混乱。

簡単には。

退けない。

◇

前。

防衛隊中央。

進軍は。

止められている。

右。

防衛隊。

左。

防衛隊。

後ろ。

味方で詰まっている。

海坊主小僧が。

ぽつりと呟いた。

「……逃げ場のない。」

一拍。

「優勢ですね。」

「……。」

誰も。

笑わなかった。

◇

ついさっきまで。

勝っていた。

確かに。

防衛隊中央を。

深く押し込んだ。

敵陣の中へ。

ここまで入った。

だから。

勝っていると。

思っていた。

でも。

前進を止められた瞬間。

景色が変わった。

深く入り込んだ場所で。

左右を失った。

瀬戸坊は。

ようやく理解した。

自分たちは。

勝ちながら。

ここまで来た。

そして。

ここで。

止められた。

「……このままでは。」

左右から。

防衛隊の部隊が。

ゆっくりと。

近づいてくる。

瀬戸坊が。

静かに呟いた。

「全滅しますね……。」

その声の向こうで。

防衛隊中央の和音が。

一歩も退かず。

鳴り続けていた。


第112話『カンナエ』
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2026年08月18日

第110話『殿』

第110話『殿』


悪のみなさん連合。

左翼。

第2軍団。

土煙の中。

山ンバが。

ゆっくり立ち上がった。

衣装は破れ。

杖にも。

土がついている。

さっきの一撃。

防御弾幕を抜けて。

本隊へ。

直接。

叩き込まれた。

「山ンバ様!」

老婆妖が。

駆け寄ってくる。

「大丈夫じゃ。」

山ンバは。

額の土を払った。

「それより。」

敵陣を見る。

「どこから撃ってきた。」

「分かりましたで。」

老婆妖が。

指をさす。

防衛隊右翼。

第4トランペット遊撃隊。

「あそこです。」

「……。」

山ンバの目が。

細くなった。

「アレは。」

杖を握る。

「危険じゃ。」

そして。

振り返った。

「全軍!」

声を張る。

「あの火点を潰せ!」

山童たちが。

一斉に顔を上げる。

「持っとる音響弾。」

一拍。

「全部じゃ!」

「ハハッ!」

命令が。

左翼全体へ走った。

◇

防衛隊右翼。

ドルチェが。

敵左翼を眺めていた。

「……。」

ふっと。

微笑む。

「ウフフっ。」

「そろそろ。」

「来ますわね。」

オオタケも。

敵陣を見る。

「ドルチェ殿。」

「お願いします。」

その後ろ。

隊員たちまで。

一斉に敬礼した。

「よろしくお願いします!」

「頼みます!」

ドルチェが。

少し困った顔になる。

「まあ。」

「そんなに畏まらなくても。」

リアルダが。

俺の袖を引いた。

「レッド様。」

「ん?」

声を潜める。

「ドルチェって。」

俺は。

正面を見たまま。

答えた。

「歯を食いしばれ。」

「……え?」

次の瞬間。

◇

ドゴォォォォン!!

「きゃっ!!」

身体が。

後ろへ持っていかれる。

さらに。

ドゴォォォン!!

ドゴォォォン!!

ドゴォォォン!!

敵左翼から。

不協和音の音響弾が。

次々と飛んでくる。

耳が痛い。

地面が揺れる。

空気そのものに。

殴られているみたいだった。

「キャぁぁぁー!!」

リアルダが。

頭を抱える。

でも。

俺は。

目の前を見ていた。

薄い。

音の膜。

一枚。

また一枚。

柔らかく。

重なっている。

ドルチェの。

防御弾幕。

ドゴォォォン!!

最後の一発が。

ぶつかった。

そして。

音が止まる。

◇

「……。」

リアルダが。

恐る恐る顔を上げた。

「あれ……。」

自分の腕を見る。

身体を見る。

「生きてる……?」

「ウフフっ。」

ドルチェが。

振り返った。

「リアルダちゃん。」

「大袈裟ですわね。」

「大袈裟じゃありません!」

「地面、揺れてましたよ!」

「そうでした?」

「そうでした!」

ドルチェは。

何事もなかったように。

トランペットを構え直した。

オオタケが。

深く一礼する。

「ありがとうございました。」

そして。

顔を上げる。

さっきまでの笑顔はない。

「後は。」

「我々の仕事です。」

一歩前へ。

「右翼トランペット遊撃隊!」

「構え!」

一斉に。

ベルが上がった。

◇

悪のみなさん連合左翼。

「山ンバ様ー!」

山犬の妖が。

走ってくる。

「今度は何じゃ!」

「我々の攻撃が!」

息を切らす。

「全部!」

「防がれました!」

「……。」

山ンバが。

固まった。

「全部?」

「全部です!」

「馬鹿言うな。」

「本当です!」

「全弾じゃぞ?」

「全弾です!」

山ンバが。

防衛隊右翼を見る。

そこには。

まだ。

整った隊列がある。

「……。」

今度は。

岩石鬼が駆けてきた。

「山ンバ様!」

「大変じゃ!」

「次から次へと何じゃ!」

「散兵です!」

「何?」

岩石鬼が。

後方を指す。

「こっちが攻撃に全振りした隙に!」

「防衛隊の散兵が!」

「我々の防壁を張っとった連中へ!」

「音響弾を撃ち込んどる!」

山童の顔色が変わった。

「じゃあ……。」

全員が。

同じ方向を見る。

防衛隊右翼。

第4遊撃隊だけではない。

その周囲。

トランペット遊撃隊のベルが。

ずらり。

こちらを向いている。

「……まずい。」

山ンバが呟いた。

◇

「放てぇぇぇーっ!!」

ドゴォォォォン!!

防衛隊右翼から。

音響弾が。

一斉に飛んだ。

ドゴォォォン!!

ドドドドドドン!!

「きゃーっ!!」

山ンバが。

地面へ転がる。

土煙。

悲鳴。

吹き飛ばされる兵。

「防壁!」

「防壁を張れ!」

「無理じゃ!」

「散兵が撃ってくる!」

「山ンバ様!」

「こちらへ!」

「うるさい!」

山ンバが。

土まみれで立ち上がった。

「なんで!」

杖を振る。

「防壁の連中まで!」

「攻撃させたんじゃ!」

岩石鬼が。

叫び返す。

「山ンバ様が!」

「全弾放出!」

「全力で!」

「言うたんでしょうが!」

「……。」

山ンバが。

口を閉じた。

「遊撃隊!」

木霊が叫ぶ。

「接近!」

「遊撃隊!」

「接近!」

「危険火力!」

「健在!」

「危険火力!」

「健在!」

「うるさい!」

山ンバが頭を抱える。

「壊れたラジオみたいに!」

「繰り返すな!」

「……。」

一瞬。

静かになる。

山ンバは。

大きく。

息を吐いた。

◇

「……嗚呼。」

「もう。」

杖を地面へ突く。

「この戦。」

「わしのせいじゃ。」

誰も言わない。

「分かっとる。」

老婆妖が。

崩れた戦列を見る。

「山ンバ様。」

「もう。」

「レギオンは保てませんな。」

「……。」

山ンバは。

目を閉じた。

一度。

深く息を吸う。

そして。

開く。

「他の山衆へ。」

静かな声。

「伝えよ。」

山童が。

山ンバを見る。

「撤退じゃ。」

「……。」

「必ず。」

山ンバが続けた。

「生きて帰れとな。」

山童が。

唇を噛む。

「はい。」

「それと。」

山ンバは。

杖を構えた。

「わしらは。」

一拍。

「殿じゃ。」

「……え?」

山童の目が。

丸くなる。

「ええーっ!?」

「我々が!?」

「殿ですかー!?」

山ンバが。

腕を組む。

「部下の責任は。」

「上司の責任。」

山童が。

真剣に頷く。

「はい!」

「上司の責任は。」

一拍。

「部下の責任じゃ。」

「言い方ー!!」

山童の叫びに。

周囲から。

笑いが漏れた。

◇

山犬の妖が。

山童の肩を叩く。

「嫌なら。」

「先に帰ってもええんだゾ。」

木霊も。

ぴょこぴょこと跳ねる。

「帰れ!」

「帰れ!」

「帰るかー!」

山童が。

杖を構えた。

岩石鬼が笑う。

「喧嘩は。」

「生還してからにするだ。」

老婆妖も。

静かに頷く。

「我々は。」

「我々にできることを。」

「するだけじゃ。」

山ンバは。

残った部下たちを見る。

山童。

山犬の妖。

木霊。

岩石鬼。

老婆妖。

誰も。

逃げようとはしていない。

「……。」

山ンバは。

ほんの少し。

笑った。

「すまんな。」

そして。

防衛隊右翼へ向き直る。

杖を構える。

「行くぞ!」

「他の山衆が。」

「退くまで!」

一歩。

前へ出る。

「ここを。」

「通すな!」

『おおおおおおーっ!!』

◇

悪のみなさん連合左翼。

第2軍団は。

撤退を始めた。

山へ。

故郷へ。

帰るために。

その最後尾。

山ンバ率いる直属部隊だけが。

防衛隊右翼の前に。

残った。


第111話『逃げ場のない優勢』
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2026年08月18日

第109話『一音』

第109話『一音』


悪のみなさん連合。

後方本隊。

三鬼大王は。

戦場を静かに見つめていた。

山を守る。

川を守る。

海を守る。

忘れられた願いを守る。

それぞれが。

それぞれの故郷を背負って。

ここへ集まっている。

「大王様。」

ヒノエウマの使いが。

静かに進み出た。

「中央。」

「こちらが優勢とのことです。」

火馬も声を上げる。

「このまま中央へ兵を重ねれば!」

「一気に押し切れます!」

一つ目入道が。

少し顔を曇らせた。

「しかし。」

「後方の予備まで出せば――」

三鬼大王は。

中央へ向かう者たちを見つめる。

誰もが。

懸命だった。

「……構わん。」

ゆっくり。

立ち上がる。

「皆の気持ちが。」

「前へ向いとる。」

右手を上げた。

「本隊も。」

一拍。

「中央へ出るで。」

連合軍後方本隊が。

動き始めた。

◇

悪のみなさん連合中央。

そこには。

すでに勝ったような空気が流れていた。

「押しとるぞー!」

「防衛隊が下がっとる!」

「両翼からも。」

「援軍が来よる!」

「大王様の本隊も来るで!」

歓声。

笑い声。

「このまま行けー!」

「イケイケじゃー!」

その中で。

瀬戸坊だけが。

笑っていなかった。

「……。」

防衛隊中央を見る。

確かに。

押している。

押しているはずなのに。

「……おかしい。」

塩吹き爺が。

そっと近づく。

「瀬戸坊様。」

「ちょっと。」

「耳を。」

「何です?」

「進まんようになりました。」

「……。」

海女の妖も。

前を見る。

「私にも。」

「急に止められたように見えます。」

瀬戸坊の目が。

細くなる。

さっきまで。

あれほど下がっていた防衛隊が。

止まった。

(順調すぎた……?)

周囲では。

まだ歓声が上がっている。

瀬戸坊が。

振り返った。

「皆さん!」

声を張る。

「油断しないでください!」

でも。

その声は。

勝利を信じる喧騒に。

半分ほど消された。

◇

防衛隊右翼。

第4トランペット遊撃隊。

リアルダが。

通信を読み上げた。

「レッド様。」

「命令です。」

「ああ。」

「敵左翼。」

「第2軍団を。」

少し間を置く。

「無力化せよ。」

「……。」

俺は。

正面を見る。

山ンバ軍。

まだ。

かなりの数がいる。

しかも。

その周囲には。

分厚い不協和音の防御弾幕。

「おい。」

俺は通信機を見る。

「無力化って。」

「どうやるんだよ。」

オオタケが。

真顔で答える。

「軍団長の命令ですからな。」

「それは分かってる。」

リアルダも。

端末を見つめる。

「防御弾幕。」

「解析しました。」

「隙は?」

「ありません。」

即答。

「ですよね。」

オオタケが唸る。

「正面から撃てば。」

「多少の損害は与えられます。」

リアルダが続ける。

「ですが。」

「本隊を崩すほどは――」

ピピピピ。

通信機が鳴った。

軍団長直通。

俺は。

すぐ回線を開く。

「おい。」

「コン・ブリオ――」

『波が動いた。』

先に。

あいつの声が来た。

相変わらず。

穏やかだ。

『その波を。』

一拍。

『君たちで。』

『もっと大きくしてくれ。』

「だから。」

「どうやってだよ。」

『ふふっ。』

「笑ってないで説明しろ。」

少しの沈黙。

そして。

『卒業試験。』

「……え?」

一瞬。

頭の中に。

昔の景色が戻った。

あの日。

あいつのフルート。

俺のトランペット。

「……アレか?」

『ふふっ。』

プーッ。

プーッ。

回線が切れた。

「おい!」

通信機を見る。

「……相変わらずだな。」

◇

ピィーユ――。

その時。

戦場に。

一本の音が浮かんだ。

フィリュリュ……。

ティリリ……♪

フルート。

コン・ブリオの音。

音響弾。

怒号。

不協和音。

その全部の隙間を。

細く。

柔らかく。

一本の音が通っていく。

リアルダが。

一瞬だけ。

顔を上げた。

「綺麗……。」

すぐに。

端末を見る。

画面上に。

一本の経路が現れていた。

「……これ。」

指が動く。

速い。

「コン・ブリオ様が。」

「通り道を示しています。」

俺は。

トランペットを構えた。

「計算できるか。」

「やります。」

リアルダの声が変わった。

「気温31.6度。」

「湿度64パーセント。」

「南西の風。」

「目標まで186メートル。」

指が走る。

フルートの音。

端末の軌跡。

敵防壁。

全部が。

一つに重なる。

「仰角3.8度。」

「右偏角1.2度。」

一拍。

「有効調律。」

「441.8ヘルツ。」

俺は。

ベルを上げる。

「主管。」

リアルダが言う。

「0.4ミリ。」

「抜いてください。」

「了解。」

ほんの少し。

主管を抜く。

息を吸う。

見える。

あいつのフルートが。

一本だけ。

道を作っている。

「レッド様。」

リアルダが。

顔を上げた。

「行けます。」

「ああ。」

俺は。

その一本だけを見る。

「行け。」

吹き鳴らす。

◇

強烈な音圧。

ニューヨークモデルのベルから。

橙色の光が飛び出した。

一直線じゃない。

フルートの音に沿って。

わずかに曲がる。

不協和音の間。

防御弾幕の。

ほんの僅かな継ぎ目。

そこへ。

音速を超えた音響弾が。

吸い込まれていく。

誰も。

反応できなかった。

ドゴォォォォン!!

◇

「きぃやぁぁぁぁぁー!!」

山ンバ軍本隊。

大爆発。

土煙。

悲鳴。

「山ンバ様ー!」

「守れ!」

「山ンバ様を守れー!」

敵左翼が。

一気に騒がしくなる。

「どこからじゃ!」

「防壁は破られとらんぞ!」

「何で入った!」

中央へ向かっていた兵まで。

振り返る。

「山ンバ様が!」

「左翼へ戻れ!」

「急げ!」

流れが。

逆向きになった。

◇

悪のみなさん連合右翼。

河太郎が。

遠くの爆発を見る。

「……馬鹿な。」

水神の子が叫ぶ。

「お頭!」

「中央。」

「罠かもしれません!」

水虎も。

防衛隊の陣を見る。

「兵を中央へ寄せて。」

「薄くなった両翼を狙っとる!」

蛙火が振り返る。

「出ていった衆を。」

「戻しましょう!」

河太郎の顔から。

笑いが消えた。

◇

しかし。

遅かった。

中央へ進む者。

左翼へ戻る者。

右翼へ戻る者。

そして。

前へ出てきた。

三鬼大王の後方本隊。

「戻れ!」

「前へ!」

「道を空けぇ!」

「そっちじゃない!」

中央後方が。

一気に詰まる。

押す者。

戻る者。

怒鳴る者。

軍勢が。

噛み合わなくなっていく。

◇

後方本隊。

ヒノエウマの使いが。

戦場を見た。

「大王様……。」

三鬼大王も。

何も言わない。

遠く。

山ンバ軍の本隊には。

まだ土煙が上がっている。

「あれほどの音響弾。」

三鬼大王が。

低く呟く。

「ここには。」

「上級使いはおらんはずじゃ。」

絡新婦が。

すぐ答える。

「ハハッ。」

「上級以上。」

「確認されておりません。」

「……。」

三鬼大王は。

中央を見る。

左翼を見る。

右翼を見る。

そして。

前へ出した。

自分の本隊を見る。

ほんの少し前まで。

全部が。

うまくいっていた。

はずだった。

「いったい……。」

三鬼大王が。

静かに呟いた。

「何が。」

「起こっとるんじゃ……。」


第110話『殿』
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2026年08月18日

第108話『潮目』

第108話『潮目』


悪のみなさん連合右翼。

河太郎は。

大きくへこんだ防衛隊中央と。

目の前の防衛隊左翼を。

交互に見ていた。

中央では。

瀬戸坊軍が。

まだ押している。

その時。

「お頭ー!」

水虎が。

慌てて駆けてきた。

「大変です!」

「何をせいておる。」

「小瀬川!」

「可愛川!」

「八幡川の衆が!」

息を整える。

「中央へ、なだれ込み始めました!」

河太郎の表情が変わった。

「……そうか。」

すぐに。

三人の頭目がやって来る。

小瀬川の頭目が。

深く頭を下げた。

「太田川の。」

「すまん。」

「若いもんが。」

「言うことを聞かんのんじゃ。」

可愛川の頭目も続く。

「中央が勝っとるのを見て。」

「制止を振り切ってしもうた。」

八幡川の頭目も。

頭を下げた。

「残った者で。」

「右翼は支えるけぇ。」

「堪忍してくれ。」

河太郎は。

しばらく三人を見ていた。

やがて。

小さく息を吐く。

「……もともと。」

「わしの頼みで。」

「集まってもろうたんじゃ。」

三人が顔を上げる。

「来てくれただけで。」

「十分じゃ。」

河太郎は。

中央へ向かう兵たちを見る。

「無理だけは。」

「せんように伝えてくれ。」

三人の頭目が。

静かに頭を下げた。

◇

悪のみなさん連合左翼。

こちらでも。

同じことが起きていた。

白木山の頭目が。

山ンバの前へ出る。

「山ンバ様。」

「すまんが。」

「わしら。」

「中央へ加勢してくる。」

武田山の頭目も。

頷く。

「このまま。」

「見とるだけじゃ。」

「戦が終わってしまうけぇの。」

鈴ヶ峰の頭目が笑った。

「左翼が危のうなったら。」

「すぐ戻る。」

「山ンバ様!」

山童も声を上げる。

「わしらがおるけぇ!」

「左翼は大丈夫じゃ!」

山ンバが。

ゆっくり山童を見る。

「山童。」

「はい!」

「楽観するな。」

「……はい。」

山ンバは。

中央へ向かおうとする頭目たちを見る。

「こうして。」

「目の前から兵が抜けていく。」

杖を握る。

「今は大丈夫でも。」

「その先は。」

「誰にも分からん。」

少しの沈黙。

「お主ら。」

「無理はするな。」

「命があるうちに。」

「戻ってきんさい。」

三人が。

深く頭を下げた。

「ハハッ!」

「山ンバ様も。」

「ご武運を!」

それぞれの軍勢が。

中央へ向かっていく。

山ンバは。

その背中を。

黙って見送った。

◇

防衛隊後方本隊。

そこは。

戦場だった。

「テナーを第二トロンボーンへ!」

混成サックス遊撃隊長。

ハツカイチの声が飛ぶ。

「本隊まで。」

「お客さんを挨拶に来させるな!」

「了解!」

情報武官が駆け込む。

「第一ホルン隊から!」

「増援要請です!」

「あいつらはまだできる!」

「放っとけ!」

「了解!」

救護班の声。

「こちらへ!」

「ベッド、まだ空いてます!」

音響弾。

怒号。

通信。

足音。

砂ぼこり。

空いた穴へ。

予備隊の混成サックス遊撃隊が走る。

また別の穴へ。

走る。

中央は。

もう。

ぎりぎりだった。

◇

その中心で。

コン・ブリオだけが。

静かに戦場を見ていた。

「軍団長!」

情報武官が。

端末を抱えて駆けてくる。

「敵右翼!」

「敵左翼!」

「両方から、一部の兵が中央へ流れ始めました!」

息を切らす。

「このままでは――」

「ふふっ。」

情報武官の言葉が止まった。

「……軍団長?」

コン・ブリオは。

中央を見たまま。

小さく笑った。

「波が。」

一拍。

「起きましたね。」

◇

敵中央。

瀬戸坊軍。

その左右へ。

別の軍勢が。

次々と流れ込んでいく。

河太郎の右翼から。

山ンバの左翼から。

少しずつ。

少しずつ。

兵が離れていく。

コン・ブリオが。

右手を上げた。

周囲の情報武官たちが。

一斉に端末を構える。

「さて。」

穏やかな声。

「この波を。」

少し間を置く。

「どこまで。」

「大きく返せるでしょうね。」

右手が。

静かに下りた。

◇

右翼。

俺の通信機が鳴った。

リアルダが。

すぐに顔を上げる。

「レッド様。」

「命令です。」

俺は。

トランペットを握り直した。

長かった。

本当に。

長かった。

「やっとか。」

正面。

山ンバ軍。

その陣から。

さっきより。

明らかに兵が減っている。

俺は。

ベルを上げた。

戦場の空気が。

変わった。


第109話『一音』
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2026年08月18日

第107話『勝勢』

第107話『勝勢』


悪のみなさん連合右翼。

河太郎率いる第1軍団。

まだ。

動かない。

遠く中央では。

瀬戸坊軍が。

防衛隊を押し込み続けている。

「お頭!」

部下が声を上げた。

「中央軍。」

「優勢です!」

「どんどん押し込んどります!」

別の者も続く。

「俺らも。」

「中央へ行きましょうや!」

河太郎は。

正面を見たまま。

動かなかった。

そこには。

防衛隊左翼。

トランペット遊撃隊。

「待て。」

「え?」

「目の前を見ろ。」

河太郎が。

杖を握り直す。

「わしらが中央へ出れば。」

「横から食いつかれる。」

「中央は。」

一拍。

「瀬戸坊に任せる。」

「第一軍団。」

「待機じゃ。」

◇

悪のみなさん連合左翼。

山ンバ軍。

こちらでも。

同じような声が上がっていた。

「山ンバ様!」

「中央軍。」

「押しております!」

「こりゃ。」

「わしらの出番はないかもしれませんな!」

笑い声。

でも。

山ンバだけは。

笑わなかった。

中央。

深く入り込む瀬戸坊軍。

その向こう。

下がり続ける防衛隊。

そして。

自分たちの正面で。

まだ動かない。

防衛隊右翼。

第4トランペット遊撃隊。

山ンバが。

鼻を鳴らした。

「……匂う。」

「え?」

「何か。」

「匂うぞ。」

杖を握る手へ。

少しだけ。

力が入った。

◇

広島平和野外音楽堂公園を。

一望できる高台。

木陰には。

シートが敷かれていた。

二人の子どもが。

お菓子を頬張っている。

「お姉ちゃん。」

「これ美味しいー♪」

「まあ。」

「それは良かったですわ。」

アラクネが。

柔らかく笑う。

そのそばでは。

二人の子どもの母親が。

何度も頭を下げていた。

「本当に。」

「ありがとうございます。」

「お気になさらず。」

アラクネは。

何事もないように答えた。

少し離れたところ。

メリッサが。

声を落とす。

「アラクネ様。」

「連合軍から。」

「依り代を連れてくるなんて……。」

カリストスも苦笑した。

「強奪では?」

「人聞きが悪いわね。」

アラクネが。

二人を見る。

「保護よ。」

「保護。」

「……。」

「ほら。」

子どもたちを見る。

「感謝されてるでしょう?」

メリッサとカリストスは。

黙った。

◇

「戦いが終わるまで。」

アラクネが。

母親へ微笑む。

「ここにいるのが安全ですわ。」

メリッサも。

お菓子の袋を持ち上げる。

「まだありますからね。」

カリストスは。

おもちゃを見せた。

「こっちもあるゾー♪」

「わーい!」

子どもたちの声。

母親が。

また頭を下げる。

アラクネは。

少しだけ困ったように笑った。

◇

やがて。

双眼鏡を手に取る。

「さて。」

戦場へ向けた。

中央。

瀬戸坊軍が。

防衛隊の奥へ。

さらに入り込んでいる。

メリッサが尋ねる。

「戦況は?」

「連合軍が優勢。」

アラクネは。

双眼鏡を覗いたまま答えた。

「数も。」

「戦力も。」

「上ですもの。」

カリストスが。

中央を見る。

「上級使いが不在という話も。」

「本当だったようですね。」

メリッサが頷く。

「だから。」

「連合軍も。」

「この規模のレギオンを仕掛けた。」

カリストスが。

首を傾げる。

「防衛隊の指揮官は。」

少し考える。

「正義感が強いのか。」

一拍。

「馬鹿なのか。」

「それとも。」

メリッサが。

戦場を見つめた。

「勝算があるのか。」

◇

アラクネは。

答えない。

中央。

深く押し込まれる防衛隊。

その左右。

動かない。

二つのトランペット遊撃隊。

しばらく。

何も言わず見ていた。

そして。

小さく息を吐く。

「どちらにしても。」

双眼鏡を少し下げた。

「このままなら。」

一拍。

「防衛隊が負けるわ。」

その声には。

まだ。

確信があった。


第108話『潮目』
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2026年08月18日

第106話『沈む中央』

第106話『沈む中央』


右翼。

第4トランペット遊撃隊。

俺たちは。

まだ動かない。

正面には。

山ンバ率いる敵左翼、第2軍団。

向こうも。

こちらを見たまま。

動かなかった。

「第4遊撃隊!」

オオタケの声が飛ぶ。

「待機継続!」

『了解!』

俺は。

戦場の中央へ目を向けた。

防衛隊中央。

ホルン。

ユーフォニアム。

トロンボーン。

重奏歩兵隊が。

左右より大きく前へ出ている。

そのさらに前。

フルートとクラリネットの散兵部隊。

中央だけが。

妙に敵へ近い。

「……。」

やっぱり。

変な陣形だ。

◇

悪のみなさん連合右翼。

河太郎も。

同じものを見ていた。

「中央が。」

「前へ出とるの。」

部下が身を乗り出す。

「お頭。」

「今なら――」

「待て。」

河太郎が制した。

そして。

正面の防衛隊左翼を見る。

「第一軍団は待機じゃ。」

「目の前の遊撃隊から。」

「目を離すな。」

◇

敵左翼。

山ンバも。

杖を肩へ担いだまま。

前に膨らんだ防衛隊中央を睨んでいる。

「いかにも。」

「来いと言わんばかりじゃ。」

山童が尋ねる。

「なら。」

「行きますか?」

「行かん。」

即答だった。

「まずは。」

「中央のお手並み拝見じゃ。」

◇

悪のみなさん連合中央。

瀬戸坊だけが。

ゆっくり前へ出た。

「誘いか。」

「罠か。」

しばらく。

防衛隊の陣を見る。

「……どちらでも。」

「戦力はこちらが上です。」

右手を上げた。

「第3軍団。」

「ゆっくり前進。」

「防御弾幕を忘れないように。」

不協和音が重なる。

敵中央の前に。

分厚い防壁が広がった。

そして。

瀬戸坊軍だけが。

静かに動き始めた。

◇

防衛隊後方。

コン・ブリオが。

指揮台から戦場を見ている。

「両翼は。」

「そのまま待機してください。」

すぐに通信が入る。

『第3、第4トランペット遊撃隊。現在位置を維持してください』

リアルダが復唱した。

「第4遊撃隊。」

「待機継続です。」

「ああ。」

俺は中央を見る。

瀬戸坊軍が。

散兵との距離を詰めていく。

コン・ブリオの右手が下りた。

『散兵。放ってください』

次の瞬間。

フルート。

クラリネット。

鋭い音が。

戦場を切り裂いた。

無数の音響弾。

敵中央へ降り注ぐ。

「防壁!」

不協和音の膜へ。

次々と突き刺さる。

数発が抜けた。

前列の怪人が倒れる。

それでも。

瀬戸坊軍は止まらない。

◇

ドンッ――!!

今度は。

後方から。

重い打楽器の音圧。

防衛隊全体を。

巨大な防御弾幕が包んだ。

敵の音響弾が。

次々とぶつかる。

ドンッ!

ドドンッ!

弾幕が揺れる。

でも。

破れない。

両軍の距離が縮まる。

あと少し。

その時。

「散開!」

防衛隊の散兵が。

一斉に左右へ走った。

中央が開く。

そこへ。

瀬戸坊軍が入り込んだ。

その正面。

待っていたのは。

重奏歩兵隊。

「構え!」

太い和音。

敵の不協和音と。

真正面からぶつかった。

ドンッ!!

防壁が大きく揺れる。

「押せ!」

敵中央から。

さらに音響弾。

防衛隊前列の隊員が倒れた。

すぐ。

後ろから救護班が走る。

倒れた者を下げる。

その穴へ。

次の隊員が入る。

列は。

崩れない。

でも。

少しずつ。

下がっていた。

◇

リアルダが。

端末を見る。

「敵中央。」

「前進を継続。」

少し間を置く。

「防衛隊中央。」

「……後退しています。」

俺は。

眉をひそめた。

張り出していた中央が。

少しずつ。

へこんでいく。

その分。

敵が。

こちらの中へ入ってくる。

「……下がりすぎじゃないか。」

今なら。

右翼から援護できる。

そう思った瞬間。

通信。

『両翼は、そのまま待機してください』

まただ。

コン・ブリオの声は。

相変わらず穏やかだった。

「まだ待つのか……。」

中央が。

さらに下がる。

瀬戸坊軍が。

さらに入る。

リアルダが顔を上げた。

「レッド様。」

「敵中央。」

「かなり深いです。」

「ああ。」

分かってる。

俺は。

コン・ブリオを信じると言った。

自分で。

みんなにも言った。

でも。

中央を抜かれれば。

防衛隊は。

真っ二つだ。

俺は。

トランペットを強く握った。

「……負ける。」

口から。

勝手に出た。

◇

遥か後方。

コン・ブリオは。

まだ動かない。

大きくへこんでいく中央。

その奥へ。

奥へ。

入り込んでくる瀬戸坊軍。

ただ。

静かに。

見ていた。


第107話『勝勢』
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2026年08月18日

第105話『譲れないもの』

第105話『譲れないもの』


『MANパンマンのマーチ』が。

真夏の空へ響いていた。

俺はその演奏を背に。

右翼へ戻る。

第4トランペット遊撃隊。

今日。

俺が預かる部隊だ。

「レッド隊長!」

ひときわ大きな声。

振り返る。

「見事な演説でしたな!」

大柄な男が。

右手を差し出してきた。

第4遊撃隊副官。

オオタケ。

握る。

「ありがとう。」

ぐっ。

「……。」

強い。

手まで熱い。

ずいぶん。

暑苦しい副官らしい。

◇

その後ろでは。

第4遊撃隊の隊員たちが。

すでにトランペットを構えていた。

リアルダが。

辺りを見回す。

「レッド様……。」

「どうした。」

「ここのトランペット使い。」

「皆様、音術師です……。」

「そうなのか。」

山陰では。

音術師に音響士と

同じ隊で戦う。

でも。

広島は違うらしい。

オオタケが豪快に笑った。

「アハハ!」

「それでも。」

笑顔が少しだけ消える。

「今回は。」

「皆、不安でした。」

俺を見る。

リアルダ。

ドルチェ。

「山陰の皆様が来られるまでは。」

ドルチェが。

小さくため息をついた。

「まあ。」

「買いかぶりすぎですわ。」

「違いない。」

俺も苦笑する。

「俺たちは。」

敵陣へ目を向ける。

「コン・ブリオの指示通り。」

「やるだけだ。」

◇

正面。

悪のみなさん連合左翼。

山ンバ率いる第2軍団。

こちらより。

明らかに数が多い。

でも。

まだ動かない。

こっちにも。

命令は来ていない。

俺はトランペットを構えた。

「第4遊撃隊。」

一拍。

「右翼で待機。」

オオタケが復唱する。

「第4遊撃隊!」

「右翼待機!」

『了解!』

リアルダが端末を開く。

「敵左翼の音場。」

「解析を開始します。」

ドルチェも。

静かにベルを上げた。

「防壁は。」

「わたくしにお任せくださいませ。」

「ああ。」

敵を見る。

「なんとかなるさ。」

◇

一方。

悪のみなさん連合左翼。

山ンバ軍。

そこでは。

少し違う騒ぎが起きていた。

「山ンバ様!」

山童が。

息を切らして駆けてくる。

「大変じゃ!」

「何じゃ!」

「依り代の童らが!」

指さす。

子どもたちが。

遠くから聞こえる演奏へ。

耳を傾けていた。

一人が。

口ずさむ。

もう一人が。

身体を揺らす。

小さな手が。

防衛隊のほうへ伸びる。

『MANパンマンのマーチ』。

悪のみなさんを包む力が。

わずかに揺らいだ。

山ンバの眉が動く。

「慌てるな!」

杖を上げた。

「菓子を配れ!」

山童たちが。

一斉に袋を抱える。

「甘いのと。」

「しょっぱいのを交互じゃ!」

「飲み物も忘れるな!」

河童兵から借りた水筒まで。

次々と配られていく。

「はい!」

「これ食べんさい!」

「ジュースもあるで!」

子どもたちの周りだけ。

妙に楽しそうだった。

◇

それでも。

演奏は止まらない。

山ンバは。

遠くの防衛隊を睨んだ。

「……気に入らん。」

杖が。

地面を叩く。

「えすでぃーじーずだの。」

「環境保全だの。」

「綺麗な言葉ばかり並べおって。」

山童たちが。

山ンバを見る。

「山を削って。」

「森の者を追い出して。」

「最後には。」

「守っとるつもりになる。」

老婆妖が。

静かに続けた。

「守ると言いながら。」

「壊す。」

「残すと言いながら。」

「奪う。」

山犬の妖。

木霊。

岩石鬼。

皆。

黙って聞いている。

山ンバは。

杖を強く握った。

「じゃけぇ。」

「人間に。」

「分かってもらおうとは思わん。」

防衛隊を見る。

「うちらの故郷は。」

一拍。

「うちらが守る!」

『おおおおおお――っ!!』

第2軍団の声が。

公園を揺らした。

その向こうから。

『MANパンマンのマーチ』が聞こえる。

どちらも。

譲るつもりはない。

俺たちは。

街を守る。

あいつらは。

故郷を守る。

そして。

その間で。

子どもたちが。

まだ音楽を口ずさんでいた。


第106話『沈む中央』
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2026年08月18日

第104話『悪のみなさん連合』

第104話『悪のみなさん連合』


一方。

悪のみなさん連合の天幕では。

会戦が始まる前から。

怒号が飛び交っていた。

「先陣は、うちら山の衆じゃ!」

山ンバが杖を床へ突く。

「この暑さで山童を走らせる気か。」

河太郎は陣図から目を上げない。

「水を飲ませりゃ済む話じゃろうが!」

「飲ませすぎれば腹を壊す。」

「山の子は、そがぁに軟弱じゃないわ!」

天幕の隅。

小さな山童が。

水筒を抱えている。

その前で。

河童兵が蓋を開けた。

「三口ずつじゃ。」

「好きなだけ飲ませぇ!」

「三口ずつじゃ。」

「なんじゃと!」

まだ戦は。

始まっていない。

◇

別の隅では。

老婆妖と山犬の妖が。

一枚の紙を取り合っていた。

「宿題は机の上へ出しておくべきじゃ。」

「見えたら、やる気になってしまうぞ。」

「それがええんじゃろうが。」

「八月三十一日にやればよい。」

横から。

木霊が口を挟む。

「読書感想文だけ。」

「先に隠しときゃええ。」

「それじゃ。」

三人が頷く。

そのすぐ横。

影踏みの膝を枕に。

子どもが眠っていた。

枕元には。

開かれていない夏休みの宿題。

◇

「宿題を先延ばしにする心は。」

河太郎が陣図へ駒を置く。

「小さな綻びじゃ。」

山ンバが鼻を鳴らす。

「その綻びを。」

「少しずつ大きゅうしていく。」

瀬戸坊が静かに続ける。

「人が。」

「先のことを考えなくなれば。」

「山を削る者も。」

「川を塞ぐ者も。」

少しだけ目を細める。

「海を汚す者も。」

「いつかは減るかもしれんな。」

天幕の奥。

紫の炎が揺れた。

ヒノエウマの使いが。

静かに口を開く。

「忘れられた願いも。」

「もう一度。」

「人のそばへ戻れるかもしれません。」

誰も笑わなかった。

全員。

大真面目だった。

◇

塩吹き爺が。

髭を撫でる。

「じゃが。」

「人間全部が敵というわけでもなかろう。」

「今でも。」

「山へ供え物を持ってくる者がおる。」

瀬戸坊が頷く。

「海へ祈る者も。」

河太郎も。

小さく笑う。

「川へ手を合わせる者もな。」

山ンバが杖を肩へ担いだ。

「じゃけぇ。」

「子どもらから教え直すんじゃ。」

「宿題をせんことからか。」

「何事も。」

「最初の一歩が肝心じゃ!」

「方向が間違うとらんか?」

誰かが呟いた。

聞こえないふりをした。

◇

今度は。

天幕の中央で揉め始めた。

「正面は火馬と鬼火坊主じゃ!」

「燃やしすぎる。」

「なら流れ女を出せ!」

「濡らしすぎる。」

「水神の子は!」

「子どもらの水筒を満たしに行っとる。」

「またか!」

「大ダコは、どこへ置く。」

「後ろじゃ。」

「なんでじゃ!」

「子どもらが怖がる。」

天幕の外。

大ダコが。

八本の足を小さく縮めていた。

「……。」

どうやら。

聞こえているらしい。

◇

「確認するが。」

誰かが声を落とす。

「上級。」

「特級は、おらんのじゃな。」

「広島東部へ出とる。」

「間違いない。」

山ンバが胸を張る。

「たとえおったとしても。」

「返り討ちじゃけぇ!」

河太郎が。

ちらりと見る。

「この前。」

「辛酸を舐めさせられたばかりじゃろ。」

「……。」

一瞬。

静かになる。

「……そうじゃった。」

すぐに。

また騒がしくなった。

◇

その全部を。

三鬼大王は。

黙って聞いていた。

煙管を置く。

陣図の中央へ。

四つの駒を並べた。

「第一軍団。」

「右翼。」

河太郎が頷く。

「第二軍団。」

「左翼。」

山ンバが口を閉じた。

「第三軍団。」

「中央。」

瀬戸坊が陣図を見る。

「第四軍団。」

「後方じゃ。」

ヒノエウマの使いを囲む炎が。

静かに揺れた。

三鬼大王は。

全員を見る。

「各軍団のことは。」

「軍団長に任せる。」

「ほかの衆は。」

「自分の持ち場を守りんさい。」

「陣が崩れた時は。」

少し間を置く。

「自分らの目で見て。」

「自分らで動きゃええ。」

山ンバが腕を組む。

「先陣は?」

「争わんでええ。」

「……。」

三鬼大王は。

穏やかに続けた。

「生きて帰る者が。」

「一番手柄を立てた者じゃ。」

今度は。

誰も言い返さなかった。

◇

天幕の入口から。

影踏みが顔を出す。

「大王様。」

「防衛隊の陣が整ったようです。」

「そうか。」

三鬼大王が立ち上がった。

山ンバ。

河太郎。

瀬戸坊。

ヒノエウマの使い。

四人を連れ。

天幕の外へ出る。

◇

外は。

まだ騒がしかった。

先陣を争う者。

子どもを背負って走る者。

武器を探す者。

弁当を配る者。

泣く子をあやす者。

三鬼大王が姿を見せる。

誰も。

「静かにせぇ」とは言わない。

それでも。

一人。

また一人。

口を閉じた。

やがて。

広い公園から。

音が消えた。

◇

三鬼大王は。

集まった大軍勢を見渡した。

「わしらは。」

「忘れられた。」

山ンバが目を閉じる。

「山も。」

河太郎が杖を握る。

「川も。」

瀬戸坊が遠くを見る。

「海も。」

ヒノエウマの使いを囲む炎が。

ゆらりと揺れる。

「人の願いも。」

三鬼大王は。

防衛隊の陣へ目を向けた。

「じゃが。」

「童らまで。」

「忘れさせるわけにゃいかん。」

誰も動かない。

「今日は。」

一拍。

「喧嘩しに来たんじゃなか。」

ゆっくり。

笑った。

「童らを。」

「守りに来たんじゃ。」

そして。

声を張る。

「故郷を護るで。」

次の瞬間。

『おおおおおおおお――っ!!』

悪のみなさん連合の咆哮が。

夏空を揺らした。

敵なのに。

その声だけは。

誰かを守ろうとする者の声だった。


第105話『譲れないもの』
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2026年08月18日

第103話『演説』

第103話『演説』


快晴。

真夏の空の下。

広島平和野外音楽堂公園には。

二つの大軍勢が向かい合っていた。

本来なら。

今日は『MANパンマンフェス』の日だった。

子どもたちの笑い声。

拍手。

音楽。

そのはずだった。

でも。

今ここにいるのは。

広島西部方面軍、第3軍団。

そして。

悪のみなさん連合。

俺は。

その間に立っていた。

◇

……まずい。

手が震える。

足も。

少し震えてる。

数百人の視線が。

全部。

俺に向いていた。

思わず。

最後方を見る。

コン・ブリオ。

あいつは。

涼しい顔で笑っている。

「ふふっ。」

(この野郎……。)

これが。

さっきの「お願い」だった。

◇

「レッド様ー!」

リアルダが。

ものすごい勢いで走ってくる。

「こちらを!」

一冊の本を差し出した。

「マエストロ様からお預かりした。」

「演説用の教本です!」

「助かった。」

表紙を見る。

『初めてのデート成功術』

「……。」

リアルダも見る。

「……。」

顔が固まった。

「あっ!」

「ま、間違えましたーっ!」

防衛隊から。

笑いが起こった。

「おい……。」

「すみませんー!」

リアルダが本を抱えて逃げていく。

俺も。

思わず笑った。

さっきまで。

あれだけ重かった空気が。

少しだけ軽くなった。

まあ。

いいか。

◇

一度。

深く息を吸う。

前を見る。

若い隊員。

ベテラン。

音響士。

音術師。

みんな。

少なからず。

怖そうな顔をしている。

たぶん。

俺も同じ顔だ。

「今日は。」

声を出す。

「せっかくのMANパンマンショーだった。」

少し間を置く。

「招待状を持ってない連中のせいで。」

親指で。

背後の悪のみなさんを指す。

「台無しだ。」

「そうだー!」

どこかから声が飛んだ。

また。

笑いが起こる。

「見た目からして。」

「だいぶ怖い。」

敵陣を見る。

確かに。

怖い。

「しかも。」

「多い。」

何人かが頷いた。

「びびるのも。」

「無理はない。」

少し前にいる。

若い隊員たちを見る。

「怖い奴。」

「正直に手を挙げろ。」

ぱらぱら。

手が挙がる。

もう少し。

増える。

俺も。

右手を挙げた。

「俺もだ。」

空気が静まった。

「だから。」

そのまま言う。

「安心しろ。」

一拍。

「怖いまま。」

「勝てばいい。」

◇

後ろのほうで。

誰かが息をのんだ。

俺は続ける。

「士官学校の卒業試験で。」

「俺は。」

最後方を見る。

「そこの軍団長殿と。」

「同じチームだった。」

全員の視線が。

コン・ブリオへ集まる。

あいつは。

いつもの顔。

「模擬戦の途中で。」

「予定にない敵が入ってきた。」

空気が変わる。

「高ランク。」

「教官たちも倒れた。」

「俺たちは。」

少しだけ。

あの日を思い出す。

「死ぬと思った。」

誰も笑わない。

「何をすればいいのか。」

「分からなかった。」

「その時。」

俺は。

コン・ブリオを見る。

「アイツが言った。」

『僕を信じて。』

「それだけだった。」

俺は。

少し笑う。

「結果。」

「全員、生き残った。」

数百人の視線が。

また。

最後方へ向く。

「だから。」

「俺は。」

まっすぐ言った。

「アイツを信じる。」

「みんなも。」

「アイツを信じろ。」

一拍。

「なんとかなるさ。」

◇

ドンッ!!

打楽器の音が。

公園を揺らした。

どこからか。

声が飛ぶ。

「最高の演奏をするのは誰だーーっ!」

『俺たちだーーっ!!』

ドドンッ!!

「最後まで踏ん張るのは誰だーーっ!」

『俺たちだーーっ!!』

声が。

どんどん大きくなる。

「勝利の美酒に酔いしれるのは誰だーーっ!」

『俺たちだーーっ!!』

……俺。

酒飲めないけど。

まあ。

今はいい。

俺は拳を上げた。

「よし!」

「行くぞ!」

大歓声。

さっきまでの不安が。

全部なくなったわけじゃない。

でも。

それでいい。

怖いまま。

行けばいい。

◇

最後方。

コン・ブリオが。

静かに右手を上げた。

ざわめきが。

少しずつ消えていく。

「MANパンマン。」

一拍。

「スタート。」

指揮棒が下りる。

次の瞬間。

力強く。

どこか優しい旋律が。

真夏の空へ響き渡った。

子どもたちへ。

届くように。

戦場になる前の公園へ。

音楽が。

戻ってきた。


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2026年08月18日

第102話『決定力』

第102話『決定力』


作戦室のある天幕へ入る。

外では。

広島西部方面軍第3軍団が、次々と配置についていた。

号令。

足音。

楽器の音。

その喧騒とは反対に。

天幕の中は、重かった。

作戦図を囲む士官たちが。

誰も笑っていない。

「厳島の大明神様は。」

一人の士官が口を開く。

「今回の会戦には、静観されるそうだ。」

別の士官が息を吐いた。

「……それなら安心だ。」

だが。

すぐに地図へ視線を戻す。

「問題は、こちらです。」

広島各地を示す駒。

「小規模勢力が、次々と合流しています。」

「土地神クラス。」

「Bランクも確認済み。」

「数も戦力も。」

一拍。

「向こうが上です。」

誰も答えなかった。

さらに。

「若い隊員の中には。」

「レギオンそのものが初陣という者もいます。」

「……。」

重い沈黙。

四百対。

五百以上。

数字だけ見ても。

楽な戦ではない。

◇

「ふふっ。」

その空気の中。

聞き慣れた笑い声がした。

コン・ブリオが。

俺たちに気づいている。

「来たね。」

「ああ。」

その横で。

リアルダの足が止まった。

「……。」

小さく周囲を見る。

「レッド様。」

「どうした。」

「この天幕。」

声を潜める。

「ほとんど全員が、音術師様です……。」

自分の情報端末を抱きしめる。

「私なんかが、ここにいても……。」

ドルチェが微笑んだ。

「リアルダちゃん。」

「山陰では。」

「みんな一緒でしょう?」

「……はい。」

俺も肩をすくめた。

「俺たちは。」

「俺たちの仕事をすればいい。」

リアルダが少しだけ頷いた。

◇

コン・ブリオが。

作戦図の前へ立つ。

「みんな。」

士官たちが顔を上げた。

「古代戦史。」

少し間を置く。

「三ページ目を思い出してください。」

空気が変わった。

「あの会戦ですか。」

「しかし。」

一人の士官が地図を見る。

「あれをやるには。」

言葉を選ぶ。

「最後に決める部隊が必要です。」

別の士官も頷く。

「今の我々には……。」

コン・ブリオが。

静かに笑った。

「いますよ。」

「え?」

「その決定力が。」

こちらを見る。

「今日。」

「来てくれました。」

天幕の視線が。

一斉に俺たちへ集まった。

「紹介します。」

コン・ブリオが続ける。

「山陰西部方面軍第1軍団。」

「第1トランペット遊撃隊。」

俺を見る。

「隊長、レッド君。」

「音響士、ドルチェ君。」

「情報士、リアルダ君。」

ざわっ。

天幕が揺れた。

「スカーレット様の……。」

「息子さんか。」

「ドルチェ殿もいるぞ。」

「あのドルチェ殿か。」

「それなら……。」

俺は頭を掻いた。

やめてくれ。

そういう視線は。

どうにも苦手だ。

◇

コン・ブリオが。

作戦図へ駒を一つ置いた。

右翼。

「三人には。」

「本会戦中。」

「第4トランペット遊撃隊へ入ってもらいます。」

俺は地図を見る。

「隊長は。」

コン・ブリオが平然と言った。

「レッド君。」

「……俺?」

「うん。」

「何でだよ。」

「君しかいないから。」

「説明になってないぞ。」

「ふふっ。」

また誤魔化した。

◇

コン・ブリオが。

今度は士官たちを見る。

「彼の部隊は。」

「四月の益田会戦へ参加。」

ざわめきが止まる。

「山陰遠征軍アラクネと交戦。」

「その後も。」

「Cランク。」

「Bランク。」

「Aランク土地神とも戦っています。」

俺は眉を寄せた。

嫌な予感がする。

「そして。」

来た。

「部隊の重傷者は。」

一拍。

「ゼロ。」

天幕がどよめいた。

「高ランク相手に……。」

「重傷者ゼロ?」

「そんなことが……。」

「この窮地で。」

「山陰の猛者と肩を並べられるとは。」

「スカーレット様のお導きか……。」

「おい。」

俺はコン・ブリオを見る。

「盛るな。」

「事実しか言ってないよ。」

「言い方の問題だ。」

「ふふっ。」

重かった天幕の空気が。

いつの間にか。

少しだけ軽くなっていた。

◇

リアルダは。

まだ不安そうだった。

「私たち。」

「本当に、お役に立てるでしょうか。」

「大丈夫ですわ。」

ドルチェが微笑む。

「コン・ブリオ君が。」

「必要だと思ったから呼んだのでしょう?」

そして。

コン・ブリオを見る。

「ねぇ。」

「コン・ブリオ君。」

「……。」

コン・ブリオが苦笑した。

「先輩には。」

「敵いませんね。」

「え?」

俺とリアルダの声が重なる。

「先輩?」

ドルチェは。

何も答えない。

ただ。

楽しそうに笑った。

「ウフフっ。」

◇

作戦会議が終わる。

士官たちは。

次々と持ち場へ散っていった。

俺も天幕を出ようとする。

その時。

「レッド。」

呼び止められた。

振り返る。

コン・ブリオが立っている。

「お願いがあるんだ。」

「……。」

またか。

俺はため息をついた。

「どうせ。」

「断らせてくれないんだろ。」

そう言って。

軽く胸を小突く。

コン・ブリオが。

少し照れたように笑った。

「ふふっ。」

その顔だけは。

士官学校の頃から。

何一つ変わっていなかった。


第103話『演説』
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2026年08月18日

第101話『夜明けの平和公園』

第101話『夜明けの平和公園』


会戦当日の朝。

カーテンを開ける。

朝日に照らされた広島の街が、眼下に広がっていた。

車。

通勤する人。

歩道を行く人たち。

今日。

この街で数百人規模の会戦が始まるなんて。

とても思えない朝だった。

◇

コンコン。

「皆様。」

「朝食の準備が整いましたわ。」

ドルチェの声。

リビングへ出ると。

テーブルには、ホテルの朝食が並んでいた。

焼きたてのパン。

卵料理。

果物。

温かいスープ。

「おはようございます。」

「おはよう。」

俺は椅子へ座ろうとして。

やめた。

保冷バッグを開く。

「俺は、これでいい。」

取り出したのは。

冷凍パン。

リアルダが笑った。

「ゲン担ぎですね。」

「たぶんな。」

すると。

リアルダまでバッグを開く。

「では、私も。」

「お前もか。」

「生存戦略です。」

その横で。

ドルチェが二人を見比べた。

「では。」

「わたくしも山陰流にいたしますわ♪」

「お前まで付き合わなくていいぞ。」

「ウフフっ。」

豪華な朝食の横で。

三人並んで。

冷凍パンをかじった。

◇

食事を終え。

実戦服へ着替える。

一階へ降りると。

ミヤジマさんが待っていた。

「皆様。」

「お待ちしておりました。」

ホテルを出る。

車寄せには。

黒塗りの大きなリムジンが停まっていた。

「……。」

思わず足が止まる。

リアルダも目を丸くした。

「レッド様……。」

「これに乗るんですか?」

「たぶんな……。」

その隣には。

一人の老人が立っていた。

見覚えはない。

老人は俺たちを見ると。

ゆっくり頭を下げた。

「どうか。」

「この広島の子どもたちと。」

「この街を、守ってくだされ。」

「ああ。」

俺は頷いた。

「任せとけ、爺さん。」

老人が顔を上げる。

穏やかに笑った。

そして。

なぜかドルチェへ、小さく目配せする。

ドルチェも。

微笑んで会釈を返した。

「……。」

知り合いなのか?

少し気になった。

でも。

今は聞いている場合じゃない。

俺たちは。

初めて見るリムジンへ乗り込んだ。

◇

車窓には。

いつもと変わらない朝が流れていた。

信号待ちの車。

自転車。

駅へ急ぐ人。

誰も。

これから始まることを知らない。

やがて。

警備員が敬礼する。

リムジンは。

広島平和野外音楽堂公園へ入った。

◇

車を降りた瞬間。

空気が変わった。

「第三ホルン隊、配置へ!」

「第二クラリネット、前へ!」

「通信班、回線確認!」

号令。

足音。

楽器の音。

部隊が次々と持ち場へ移動していく。

広い公園が。

一つの巨大な軍団へ変わっていく。

「……第3軍団。」

リアルダが呟く。

「すごい……。」

見渡す限り。

音響士。

音術師。

その数。

約四百。

ドルチェが静かに言った。

「山陰では。」

「音響団のみなさんもレギオンに参加されますけれど。」

公園を見渡す。

「こちらは。」

「音響士と音術師だけですわ。」

リアルダが息をのむ。

「それで、この人数……。」

俺は黙って隊列を見た。

山陰とは。

まるで違う。

でも。

ふと思った。

「……半分以下か。」

「え?」

「山陰は。」

俺は小さく笑った。

「よくやってるよ。」

リアルダも。

少しだけ笑った。

◇

ドルチェが。

反対側へ目を向ける。

「ウフフっ。」

「悪のみなさんも。」

「大勢いらっしゃいますわね。」

「……どれ。」

俺も見る。

公園の向こう。

悪のみなさん連合。

その数。

こちらより多い。

なのに。

何かがおかしい。

戦闘員が。

子どもを追いかけている。

一人は。

帽子をかぶせ。

一人は。

手を引き。

別の一人は。

泣き出した子を必死にあやしていた。

「……。」

リアルダが目を丸くする。

俺は思わず呟いた。

「子守も大変だな。」

「そこですか?」

「いや。」

「だって大変そうだろ。」

ドルチェが笑う。

「ウフフっ。」

その時。

伝令がこちらへ駆けてきた。

「レッド隊長。」

「コン・ブリオ軍団長がお待ちです。」

「作戦室へお越しください。」

「ああ。」

俺はもう一度。

敵陣を見る。

子どもを抱き上げる怪人。

水筒を持って走る戦闘員。

その向こうには。

武器を構えた大軍勢。

敵なのか。

子守なのか。

よく分からない。

でも。

これから戦う相手なのは。

間違いなかった。

「行くぞ。」

「はい。」

「参りましょう。」

俺たちは。

コン・ブリオの待つ天幕へ向かった。


第102話『決定力』
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2026年08月18日

第100話『コン・ブリオという男』

第100話『コン・ブリオという男』


ホテルのラウンジ。

大きな窓の向こうで、広島の夜景が静かに光っていた。

ソファに座っていたコン・ブリオが、俺を見る。

「ふふっ。」

「来てくれてありがとう。」

「待たせたな。」

向かいへ座る。

そして。

真っ先に聞いた。

「あの部屋は何だ。」

「……部屋?」

「スイートルームだよ。」

コン・ブリオが目を丸くする。

「えっ?」

「僕は、静かな部屋をお願いしただけなんだけど。」

「普通の部屋のつもりだったよ。」

「……。」

やっぱり。

あいつじゃない。

俺はため息をついた。

「やりすぎなんだよ。」

「僕に言われても。」

コン・ブリオが困ったように笑う。

「ふふっ。」

「成り行きさ。」

「その成り行きで。」

俺も笑った。

「軍団長になったんだろ。」

コン・ブリオが頭を掻く。

「ふふっ。」

「誰にも言えないけど。」

一拍。

「その通りさ。」

目が合う。

二人で笑った。

◇

肩書きは変わった。

こいつは今。

広島西部方面軍、第3軍団長。

俺は山陰の小さな遊撃隊長。

それでも。

こうして話していると。

士官学校の頃と、あまり変わらない。

鬼教官。

卒業試験。

失敗ばかりだった毎日。

今では。

どれも懐かしかった。

◇

笑いが落ち着く。

コン・ブリオがコーヒーカップを置いた。

「リゾルート支部長から聞いたよ。」

「何を。」

「昇級試験。」

少し笑う。

「断ったそうだね。」

「ああ。」

「どうして?」

「俺の力じゃないから。」

コン・ブリオが黙って聞いている。

「みんなの力だ。」

「俺一人が上がるのは。」

「何か違う。」

少しの沈黙。

コン・ブリオが頷いた。

「君らしいね。」

「そうか?」

「うん。」

そして。

穏やかに続けた。

「だから今回。」

「その“みんな”の力を借りた。」

俺は顔を上げる。

「広島には。」

「君たちが必要だから。」

「買いかぶりすぎだ。」

「違うよ。」

即答だった。

コン・ブリオは。

いつもの柔らかな笑みを崩さない。

「君は。」

少しだけ間を置く。

「自分では気づいていないから。」

「何に。」

「ふふっ。」

「何だよ。」

「そのうちね。」

「気持ち悪いな。」

「ひどいなあ。」

また。

少しだけ笑った。

◇

時計を見る。

もう遅い。

「そろそろ戻るよ。」

「ああ。」

二人で立ち上がる。

どちらからともなく。

右手を差し出した。

固い握手。

その時。

気づいた。

「……。」

コン・ブリオの手が。

ほんの少し。

震えていた。

俺は顔を見る。

いつもの笑顔。

いつもの穏やかな目。

でも。

手だけが。

隠せていなかった。

明日。

こいつは。

数百人を率いる。

その一つ一つの命を背負って。

俺は何も聞かなかった。

ただ。

握った手へ少し力を込める。

「なんとかなるさ。」

コン・ブリオが。

一瞬だけ目を見開いた。

やがて。

肩から力が抜ける。

「ふふっ。」

「ああ。」

小さく頷いた。

「そうだったね。」

手を離す。

「じゃあ、また明日。」

「ああ。」

「おやすみ。」

「おやすみ。」

俺はラウンジを後にした。

◇

コン・ブリオは。

閉じた扉を、しばらく見つめていた。

やがて。

窓の外へ目を向ける。

広島の夜。

その向こうに。

明日の戦場がある。

「……女神様。」

小さな声。

卒業試験で聞いた。

あの一音。

広島のYAMAHAで。

もう一度聞いた音。

コン・ブリオは。

静かに目を閉じた。

「偶然じゃない。」

それ以上は。

誰にも聞こえなかった。

窓の外で。

広島の街が。

いつもと変わらず輝いていた。


第101話『夜明けの平和公園』
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2026年08月18日

第99話『スイートルーム』

第99話『スイートルーム』


部屋へ案内されてから、しばらく経った。

大きな窓の向こうには、夏の広島市街。

静かだ。

静かすぎる。

俺は落ち着かず、部屋を見回した。

「何だか落ち着かないな。」

「夕飯まで時間あるし、少し外でも――」

「レッド様。」

リアルダに止められた。

ノートパソコンを開き、すでに仕事を始めている。

「情報武官様から、公園の敷地図と観測データをいただきました。」

画面には。

園内の起伏。

建物。

風向き。

いくつもの数字。

「明日の音場を予測します。」

「反響率も見ておきたいです。」

「……さすがだな。」

「頼んだ。」

「はい。」

ドルチェが紅茶を口元へ運ぶ。

「隊長は、明日に備えてお休みくださいませ。」

「そのためのスイートルームですわ〜。」

「それから。」

楽しそうに笑う。

「夕食は、出前が届きますわ♪」

「出前?」

「ええ。」

「ホテルでも、そんなのあるんだな。」

「ウフフ♪」

まただ。

その笑い方。

◇

俺はソファへ身体を預けた。

窓の外。

広島の街。

ここへ来てから。

どうにも、昔のことを思い出す。

目を閉じた。

ほんの少し。

休むつもりだった。

◇

――士官学校。

胸に抱えた卒業証書。

通信室へ走る。

『母さん!』

『僕、卒業できたよ!』

ノイズ。

誰かの声。

『……スカーレット特級音術師……』

聞きたくない。

『……戦死を確認……』

「……母さん?」

◇

「レッド様!」

肩を揺さぶられた。

「レッド様!」

目を開ける。

「……っ!」

リアルダが、心配そうに覗き込んでいた。

「大丈夫ですか?」

「すごく、うなされていました。」

額に汗が滲んでいる。

「ああ……。」

息を整える。

「大丈夫だ。」

「でも――」

「慣れない場所だからな。」

無理に笑った。

「身体が拒否反応を起こしたんだろ。」

リアルダは、まだ心配そうだった。

ドルチェも俺を見ている。

でも。

何も聞かなかった。

「……少し寝たら楽になった。」

「そうですか。」

リアルダが、ようやく頷く。

その時。

コンコン。

ドアが鳴った。

ドルチェが立ち上がる。

「夕食ですわ〜♪」

◇

「カツ丼か?」

俺も身体を起こす。

「いや。」

「広島焼きかな。」

ドルチェが振り返った。

「隊長。」

「はい。」

「お好み焼きですわ。」

「……失礼しました。」

リアルダも真顔で頷く。

「重要事項です。」

「お前まで言うな。」

扉が開いた。

ワゴンが入ってくる。

一台。

二台。

まだ来る。

前菜。

スープ。

魚料理。

肉料理。

焼きたてのパン。

デザート。

「……。」

俺は黙った。

リアルダも黙った。

「これが。」

しばらくして。

リアルダが呟く。

「出前……?」

ドルチェは平然としている。

「出前ですわ♪」

「絶対違うだろ。」

給仕係が一礼した。

「何か必要なものはございますか?」

俺はテーブルを見る。

銀色のナイフ。

フォーク。

スプーン。

少し考えた。

「箸をお願いします。」

「三人分。」

「かしこまりました。」

給仕係が静かに退室する。

リアルダが俺を見る。

「そこは譲らないんですね。」

「食いやすいだろ。」

◇

夕日が。

広島の街を赤く染めていた。

明日。

あの街のどこかで。

数百人が戦う。

それなのに。

今は。

ホテルの最上階。

豪華な料理。

静かな部屋。

俺は窓の外を見た。

(本当に。)

(ここで戦が始まるのか……。)

◇

「あっ。」

リアルダが何かを見つけた。

テーブルの端に置かれた、一冊の本。

「レッド様。」

嫌な予感がする。

「何だ。」

「マエストロ軍団長からお借りした教本です。」

表紙を見せてくる。

『市街地対人訓練用教材
初めてのデート』

「……おい。」

リアルダは真顔でページをめくる。

「あっ。」

「『初めてのお風呂』は、さすがに駄目ですね。」

「当たり前だ。」

さらにめくる。

「あっ。」

「『初めての添い寝』なら――」

「駄目だ。」

「まだ最後まで読んでません。」

「読まなくていい。」

リアルダが首を傾げる。

「でも今日は。」

指を折る。

「初めてのホテル。」

「初めてのお食事。」

「二項目も達成しました。」

「何の訓練だよ。」

ドルチェが口元を押さえる。

「ウフフっ。」

◇

その時。

部屋の電話が鳴った。

ドルチェが受話器を取る。

「はい。」

少し聞いて。

「承知いたしました。」

受話器を置いた。

「コン・ブリオ様が。」

俺を見る。

「ラウンジでお待ちですわ。」

「……あいつか。」

俺は立ち上がった。

窓の外は。

もう夜になり始めていた。

明日の会戦を前に。

まずは。

久しぶりの親友に会いに行く。


第100話『コン・ブリオという男』
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2026年08月18日

第98話『ホテル』

第98話『ホテル』


午後三時。

公用車は広島市内へ入り、一軒のホテルの車寄せへ滑り込んだ。

ザ・グランドリヴァージュ広島。

白い石造りの外壁。

大きなガラス窓。

噴水。

手入れの行き届いた植え込み。

俺は、しばらく建物を見上げた。

「おいおい……。」

「冗談だろ。」

隣でリアルダも立ち尽くしている。

「レッド様……。」

自分の制服を見下ろす。

「私たち、この格好で入って大丈夫なんですか?」

益田駐屯地から、そのまま来た。

どう考えても場違いだ。

なのに。

ドルチェだけは、いつも通りだった。

「心配いりませんわ〜。」

「……何でお前だけ余裕なんだ。」

「ウフフ♪」

情報武官が軽く会釈する。

「こちらです。」

◇

自動ドアが開いた。

ひんやりとした空気。

吹き抜けのロビー。

磨かれた床。

高い天井から下がるシャンデリア。

どこからか、静かなピアノの音が聞こえる。

リアルダが辺りを見回した。

「わぁ……。」

「前見て歩けよ。」

「は、はいっ。」

フロントへ向かう。

情報武官が宿泊名を告げた。

受付係が端末を操作する。

その手が。

ふと止まった。

「……。」

視線が、ドルチェへ向く。

「少々お待ちくださいませ。」

受付係が奥へ下がった。

しばらくして。

別のスタッフが現れる。

二人で何か話している。

さらに、もう一人。

リアルダが俺の袖をつまんだ。

「レッド様……。」

「何か問題でも?」

「分からん。」

ちらりと横を見る。

ドルチェは平然としていた。

その時。

スマートフォンが小さく震える。

ドルチェが画面を見る。

短く文字を打つ。

送信。

そして。

何事もなかったように、しまった。

「ウフフ♪」

「……。」

絶対に何か知ってる。

◇

数分後。

受付係が戻ってきた。

「お待たせいたしました。」

「お部屋の準備が整うまで、こちらでお待ちくださいませ。」

案内されたのは、ロビーラウンジだった。

ソファへ腰を下ろした瞬間。

「きゃっ!」

リアルダの身体が沈んだ。

「レッド様!」

「吸い込まれますー!」

「大袈裟だろ。」

俺も座る。

「……。」

沈む。

「本当だな。」

ドルチェが楽しそうに笑った。

「ウフフ♪」

間もなく。

コーヒーと小さな菓子が運ばれてくる。

俺は反射的に財布へ手をやった。

「……持ち合わせないぞ。」

「ウェルカムドリンクですわ。」

ドルチェが平然と言う。

「そういうものなのか。」

「そういうものですわ〜。」

本当にそうなのか。

分からなくなってきた。

◇

情報武官が立ち上がる。

「私は軍務へ戻ります。」

「軍団長も、用件を終え次第こちらへ来られるそうです。」

「分かった。」

「ご苦労さま。」

「では。」

敬礼。

情報武官がホテルを後にする。

入れ替わるように。

一人の男性が歩いてきた。

燕尾服。

白い手袋。

隙のない所作。

深く一礼する。

「ミヤジマと申します。」

「本日は、ようこそお越しくださいました。」

名刺を差し出された。

慌てて両手で受け取る。

「ど、どうも。」

「お部屋へご案内いたします。」

◇

連れて行かれたのは。

一般客の多いロビーとは少し離れた、静かなエレベーターホールだった。

リアルダが小声で囁く。

「レッド様。」

「やっぱり私たち、場違いだから別ルートなんでしょうか。」

「……あり得るな。」

「聞こえておりますわよ。」

ドルチェが笑っている。

エレベーターが上がる。

三階。

五階。

八階。

十階。

まだ止まらない。

「ずいぶん上だな。」

「広島って都会ですね……。」

「それ、関係あるか?」

やがて。

最上階。

扉が静かに開いた。

厚い絨毯。

大きな窓。

その向こうには、広島の街が広がっている。

ミヤジマさんが一室の前で止まった。

カードキーをかざす。

電子音。

扉が開いた。

「……。」

広いリビング。

応接セット。

ダイニング。

大きな窓。

その奥には、寝室が二つ。

俺は入口で止まった。

「おい。」

「これは、どういうことだ。」

リアルダも固まっている。

「レッド様……。」

「本当に、ここで合ってます?」

ミヤジマさんは穏やかに一礼した。

「間違いございません。」

そして。

ごく自然に言った。

「英雄の息子には、相応しいお部屋と申しつかっております。」

「……英雄?」

聞き返す。

だが。

ミヤジマさんは答えなかった。

ほんの一瞬だけ。

ドルチェを見る。

ドルチェも。

小さく微笑んだ。

「ウフフ♪」

「……。」

やっぱり。

何かある。

「御用の際は、室内のコールボタンでお申し付けくださいませ。」

深く一礼。

扉が閉まった。

◇

静寂。

俺とリアルダは顔を見合わせる。

「……。」

「……。」

そして。

同時にドルチェを見る。

「何ですの?」

にっこり笑っている。

何が起きているのか。

俺たちには。

さっぱり分からなかった。


第99話『スイートルーム』
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2026年08月18日

第97話『招集』

第97話『招集』


その頃。

俺たちは、いつもの朝を過ごしていた。

「ロングトーン!」

『ブォォォォ────』

真夏の青空へ、六本のトランペットが響く。

緑の山々が、少し遅れて音を返した。

「よし。」

「休憩!」

「了解っス!」

隊員たちが一斉に楽器を下ろす。

ブリランテが、真っ先に駆け寄ってきた。

「隊長様!」

「今日のお昼、そうめんですよー!」

満面の笑み。

「しかも、差し入れのスイカもあるそうですよ!」

「おっ。」

「今日は豪華だな。」

少し離れたところで、ペザンテが呟く。

「……楽しみだ。」

訓練場に笑いが広がった。

その時。

一台の白い公用車が、ゆっくりと入ってきた。

見慣れないナンバー。

広島。

「……広島?」

俺が首をかしげる。

「レッド隊長。」

カンタービレ軍曹が歩いてきた。

「お客様ですわ。」

「応接室へ。」

◇

応接室へ入ると、三人の士官が立ち上がった。

情報武官が一人。

初級トランペット使いが二人。

三人同時に敬礼する。

「広島西部方面軍第3軍団より参りました。」

情報武官が封筒を差し出した。

「レッド隊長。」

「コン・ブリオ軍団長より、お預かりしております。」

「コン・ブリオから?」

封を切る。

中に入っていたのは、命令書だった。

『レッド隊長、ドルチェ隊員、リアルダ情報士を、広島西部方面軍第3軍団へ招集する。』

思わず笑った。

「……あいつらしいな。」

情報武官も、わずかに表情を緩める。

「軍団長が、ぜひ皆様に来ていただきたいと。」

その横で。

カンタービレ軍曹が三人を見つめていた。

「レッド隊長とドルチェ隊員を、同時に。」

一拍。

「広島は、よほど切羽詰まっておりますのね。」

情報武官が頷く。

「はい。」

「一刻を争う状況です。」

「承知いたしました。」

俺は命令書を畳んだ。

「出頭します。」

すると。

二人のトランペット使いが一歩前へ出た。

「ご不在の間、我々二名が第1トランペット遊撃隊へ編入されます。」

「レッド隊長、ドルチェ隊員の任務を引き継ぎます。」

俺は右手を差し出した。

「留守を頼む。」

「はい!」

固い握手を交わす。

カンタービレ軍曹も前へ出た。

「隊員たちは、わたくしが責任を持って支えますわ。」

俺は頷く。

「頼んだ。」

「お任せください。」

情報武官が時計を見る。

「出発は三十分後です。」

「広島までは、私が運転いたします。」

リアルダがすぐに立ち上がった。

「レッド様。」

「遠征装備を準備します。」

「ドルチェ隊員にも連絡してきます。」

「頼む。」

「はい。」

敬礼。

そのまま、小走りで部屋を出ていった。

◇

三十分後。

荷物を積み終え。

俺とドルチェ、リアルダは公用車へ乗り込んだ。

車が、ゆっくりと益田駐屯地を離れていく。

窓の外へ。

さっきまでいた訓練場が遠ざかっていく。

俺は呟いた。

「……そうめんとスイカ。」

助手席のリアルダが振り返る。

「おあずけです。」

そして。

保冷バッグから何かを取り出した。

「はい。冷凍パン♪」

「広島まで行くのにか。」

「生存戦略です♪」

ドルチェが、くすりと笑う。

◇

浜田自動車道。

公用車は、緑濃い中国山地を縫うように走っていた。

しばらくして。

ドルチェが真顔で口を開く。

「皆様。」

「一つだけ。」

「何だ?」

「広島では。」

少し間を置く。

「お好み焼きを『広島焼き』とは、絶対に口にしてはいけませんわ。」

「え?」

俺とリアルダの声が重なった。

ドルチェは静かに頷く。

「『お好み焼き』ですわ。」

「覚えておいてくださいませ。」

リアルダも真顔になる。

「重要事項ですね。」

「ええ。」

「かなり重要ですわ。」

俺は苦笑した。

「了解。」

窓の外。

真夏の山々が流れていく。

行き先は、広島。

そうめんも。

スイカも。

しばらく、おあずけらしい。


第98話『ホテル』
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2026年08月18日

第96話『集結』

第96話『集結』


七月下旬。

夏休みに入った広島の街は、子どもたちの笑顔であふれていた。

広島西部方面軍、第3軍団司令部。

「失礼します。」

情報武官が、慌ただしく司令室へ入ってきた。

「広島平和野外音楽堂公園で開催予定の『MANパンマンフェス』ですが……」

一拍。

「悪のみなさんの大規模な集結を確認しました。」

コン・ブリオは、書類から静かに顔を上げた。

「依り代は?」

「フェスへ参加している子どもたちです。」

「敵戦力は?」

「指揮官級を複数確認。副官級も各地から続々と合流しています。」

地図の上へ、赤い駒が置かれていく。

山地。

河川。

沿岸部。

島しょ部。

広島各地の勢力が、一か所へ集まり始めていた。

「一つの軍団ではありません。」

情報武官が続ける。

「それぞれが独自の勢力を率いたまま合流しています。」

「総数は?」

情報武官が報告書へ目を落とした。

「……五百体以上。」

司令室から、音が消えた。

コン・ブリオが静かに尋ねる。

「第1軍団は?」

「東部戦線へ出動中。」

「第2軍団。」

「同じく東部戦線で交戦中です。」

つまり。

今、広島市内を守れる正規軍は――

「第3軍団のみです。」

「こちらの兵力は?」

「四百。」

百の差。

誰も口を開かなかった。

やがて。

コン・ブリオが小さく笑った。

「ふふっ。」

情報武官が顔を上げる。

「敵は多いですね。」

コン・ブリオは地図を見つめたまま続けた。

「ですが、一枚岩ではありません。」

赤い駒が散らばる地図。

その反対側。

防衛隊を示す駒は、一つにまとまっている。

「こちらは違う。」

コン・ブリオは微笑んだ。

「四百人で、一つの音です。」

張りつめていた司令室の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

「……承知しました。」

情報武官が敬礼する。

「失礼いたします。」

◇

一人になったコン・ブリオは、机の引き出しを開けた。

中には、一枚の色紙。

丸みを帯びた、温かい字。

最後へ行くにつれ、少しずつ文字が小さくなっている。

隅には、一緒に写った写真が少し曲がったまま貼られていた。

『コン・ブリオ君へ♡

また一緒に演奏しましょうね♪

スカーレット』

コン・ブリオは、しばらくそれを見つめた。

「ふふっ。」

そっと指先で、写真の端に触れる。

(女神様。)

(どうか。)

(この子どもたちを、お守りください。)

色紙を引き出しへ戻した。

そして。

軍帽を手に取る。

「作戦会議を始めよう。」

司令室の空気が、一瞬で変わった。

第3軍団が動き始める。

広島の街ではまだ。

子どもたちの笑い声が響いていた。


第97話『招集』
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2026年08月18日

第95話『支部長の答え』

第95話『支部長の答え』


「……では。」

「理由を聞こう。」

部屋は静まり返っていた。

俺はゆっくり息を吸う。

「俺は……。」

言葉を探す。

「士官学校では、同期のみんなに助けられて。」

「ようやく卒業することができました。」

支部長は何も言わない。

静かに耳を傾けている。

「山陰へ来てからも。」

「部下のみんなに支えられて。」

「リアルダに助けられて。」

「カンタービレ軍曹や、現地音響団のみなさんにも力を貸していただきました。」

少し間を置く。

「俺一人で勝てた戦いなんて、一つもありません。」

拳を握る。

「だから。」

「今は昇級よりも。」

「隊長として、もっと経験を積みたいんです。」

「遊撃隊のみんなと。」

「もっと信頼される部隊を作りたい。」

「それが、俺の答えです。」

言葉が途切れる。

部屋には静かな時間だけが流れていた。

やがて支部長は、ゆっくりと頷く。

「そうか。」

短い一言だった。

責める響きはない。

支部長は推薦状へ手を置く。

「レッド君。」

「はい。」

「私は、君なら中級試験に挑む資格があると思った。」

「だから推薦した。」

一呼吸置く。

「だが。」

「推薦はした。」

「しかし、受験を命じた覚えはない。」

俺は顔を上げる。

支部長は穏やかな表情のまま続けた。

「決めるのは、君だ。」

「隊長として考え。」

「悩み。」

「そして、自分で答えを出した。」

「その結論なら。」

「私は尊重しよう。」

胸の奥に張り詰めていたものが、静かにほどけていく。

「ありがとうございます。」

支部長は推薦状を封筒へ戻した。

引き出しを開け、そっとしまう。

「この件は、これで終わりだ。」

「はい。」

俺は深く敬礼する。

「失礼します。」

「うむ。」

俺は踵を返し、支部長室を後にした。

扉が静かに閉まる。

部屋には再び静寂が戻る。

支部長は椅子にもたれ、小さく息をついた。

机の上には、戦歴ファイルが置かれている。

その表紙へ静かに手を添える。

しばらく見つめたあと、小さく呟いた。

「……グラン閣下と同じか。」

その表情は、少しだけ寂しそうで。

けれど、どこか誇らしげでもあった。

窓の外では、初夏の風が木々を揺らしている。

支部長は静かに戦歴ファイルを閉じると、再び机の書類へ目を落とした。

― 昇級試験編・完 ―


第96話『集結』
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2026年07月20日

第94話『隊長の決断』

第94話『隊長の決断』


中庭を後にする。

初夏の風が、制服の裾を静かに揺らした。

推薦状を見つめる。

支部長。

リアルダ。

グラン閣下。

三人とも、答えは教えなかった。

だからこそ。

答えは、自分で伝えなければならない。

支部長室の前で足を止める。

深く息を吸い、扉を叩いた。

コン、コン。

「失礼します。」

「入りたまえ。」

穏やかな声が返る。

俺は部屋へ入り、敬礼した。

「レッドです。」

支部長は書類から顔を上げ、小さく頷く。

「考えはまとまったか。」

「……はい。」

俺は一歩前へ進み、推薦状を机の上へ置いた。

「支部長。」

「今回の昇級試験は、辞退させてください。」

静かな部屋に、自分の声だけが響いた。

支部長は推薦状へ目を落とす。

やがて、小さく頷いた。

「そうか。」

それだけだった。

怒ることも。

驚くこともない。

ただ、俺の言葉を受け止めてくれた。

しばらく沈黙が続く。

やがて支部長が口を開いた。

「レッド君。」

「はい。」

「君は。」

「よく考えて、この結論を出したのだな。」

「はい。」

短く答える。

支部長は静かに俺を見つめた。

その眼差しに、責める色はなかった。

「……では。」

「理由を聞こう。」

部屋は静まり返る。

俺はゆっくり息を吸った。

何から話そう。

士官学校での日々。

母さんのこと。

山陰へ来てからの三か月。

仲間と積み重ねてきた時間。

どれも、今の俺につながっている。

支部長は静かに待っていた。

急かすこともない。

答えを促すこともない。

ただ、俺の言葉を待っている。

「俺は……。」

その一言を口にすると、

支部長は小さく頷いた。

「慌てなくていい。」

「君の言葉で聞かせてくれ。」

俺はもう一度、小さく息を吸った。


第95話『支部長の答え』
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2026年07月20日

第93話『守る者』

第93話『守る者』


「座れ。」

「少し話そうかの。」

俺は静かに腰を下ろした。

グラン閣下も隣へ座る。

リアルダは少し離れた場所で待機した。

初夏の風が中庭を吹き抜ける。

木々の葉が揺れ、遠くでは音響士たちのロングトーンが続いていた。

しばらく、誰も話さない。

やがてグラン閣下が口を開いた。

「レッド。」

「はい。」

「支部長がおぬしを推薦した。」

「それだけで十分じゃ。」

俺は静かに首を振る。

「……自信がありません。」

「卒業して、まだ三か月です。」

「そんな俺が中級なんて……。」

グラン閣下は腕を組んだ。

「うーむ……。」

珍しく困ったような顔をする。

何か言おうとしている。

けれど、言葉が見つからない。

しばらく考え込むと、照れくさそうに頭をかいた。

「……わしもの。」

「若い頃は、いろいろあった。」

そこまで言って、口を閉じる。

「……。」

「……やっぱり、やめじゃ。」

思わず笑ってしまった。

「気になりますよ。」

「気にせんでええ。」

グラン閣下も笑う。

それだけで、胸のつかえが少し軽くなった。

俺は背中のチューバへ目を向ける。

朝日に照らされた大きなベルが、静かに輝いていた。

「一つ、お聞きしてもよろしいですか。」

「何じゃ。」

「閣下ほどのお力なら。」

「どうして昇級されないのですか。」

リアルダも静かに頷く。

「私も以前から、不思議に思っていました。」

その瞬間だった。

グラン閣下の表情がぴたりと止まる。

中庭を風が吹き抜ける。

そして――

ボォォォォンッ!!

チューバの重低音が山陰支部を震わせた。

「うわっ!」

「きゃあっ!」

俺とリアルダは風圧で吹き飛ばされ、そのまま芝生へ転がる。

帽子が転がり、リアルダが慌てて拾い上げた。

顔を上げると、グラン閣下が仁王立ちになっている。

「誰が山陰を守るんじゃ!」

「わしまで本部へ行ったら!」

「この山陰は、誰が守る!」

中庭へ重低音が響き渡る。

やがて静寂が戻った。

俺は土を払いながら立ち上がる。

リアルダも帽子をかぶり直し、姿勢を正した。

「……申し訳ありませんでした。」

グラン閣下は鼻を鳴らす。

「分かればええ。」

それだけ言うと、背を向けて歩き出した。

小さな背中だった。

けれど、その背中は誰よりも大きく見えた。

俺は推薦状へ目を落とす。

支部長。

リアルダ。

そして、グラン閣下。

三人とも、答えは教えてくれなかった。

それぞれのやり方で、俺に考えさせてくれた。

俺は推薦状を静かに握りしめる。

迷いは、まだ消えない。

それでも。

自分の答えからだけは、逃げたくなかった。


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2026年07月20日

第92話『迷い』

第92話『迷い』


支部長室を出る。

廊下は静かだった。

手には、一通の推薦状。

紙一枚のはずなのに、不思議なくらい重い。

「レッド様。」

振り向くと、リアルダが立っていた。

「終わりましたか。」

「ああ。」

短く答える。

リアルダは俺の手元へ視線を向ける。

「昇級試験の推薦状ですね。」

思わず苦笑した。

「情報士には隠し事ができないな。」

「封筒の様式で分かります。」

いつもの落ち着いた口調だった。

「少し、外の空気を吸ってくる。」

「承知しました。」

◇

支部の中庭へ出る。

昨夜の雨を受けた木々が、初夏の陽射しを浴びて静かに揺れていた。

遠くから、音響士たちのロングトーンが聞こえてくる。

風が頬を撫でる。

俺は木陰のベンチへ腰を下ろした。

膝の上へ推薦状を置く。

封筒には、確かに俺の名前が書かれていた。

中級音術師昇級試験。

三か月前まで士官学校の学生だった俺に。

支部長が推薦状を書く。

何度見ても、実感が湧かなかった。

視線を上げる。

青空の下、若葉が静かに揺れている。

「そんな俺が……。」

小さく呟く。

「中級試験か。」

風が木々を揺らした。

答えは、まだ出なかった。

◇

「レッド様。」

リアルダが手帳を手に歩いてきた。

「帰隊の準備は整っています。」

「ああ。」

リアルダは手帳を開く。

「一つ、ご報告があります。」

「報告?」

「はい。」

「山陰へ赴任されてから、もうすぐ三か月。」

「遊撃隊出動、四回。」

「個人対応、一回。」

「広島ヤマハへのマウスピース調達任務です。」

一枚、ページをめくる。

「遭遇した敵。」

「Bランク怪人、二体。」

「Cランク怪人、二体。」

「Aランク土地神、一柱。」

風が手帳のページを揺らす。

「遊撃隊重傷者。」

「ゼロ。」

静かに手帳を閉じた。

「以上です。」

しばらく沈黙が流れた。

俺は少し笑う。

「本当に数字ばかりだな。」

リアルダも小さく微笑んだ。

「情報士ですので。」

「数字は、嘘をつきません。」

その言葉に、俺は推薦状へ目を落とした。

「でも。」

「これは、みんなで積み重ねてきた数字だ。」

リアルダは静かに頷く。

「はい。」

それ以上は何も言わない。

それで十分だった。

◇

「浮かない顔じゃのう。」

聞き覚えのある声がした。

俺とリアルダは同時に振り向く。

白銀の長い髪を揺らし、小さな人影がゆっくりと歩いてくる。

紺色の軍服。

背中には、自分の体よりも大きなチューバ。

山陰の守護神。

グランディオーソだった。

「グラン閣下!」

俺は立ち上がり敬礼する。

リアルダも続いた。

グラン閣下は軽く手を挙げると、俺の手にある推薦状へ目を向ける。

「ほう。」

「支部長から、もろうたか。」

「はい。」

俺が頷くと、グラン閣下はそれ以上何も聞かなかった。

ただ、ベンチを指さす。

「座れ。」

「少し話そうかの。」

初夏の風が、白銀の髪と中庭の木々を優しく揺らしていた。


第93話『守る者』
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2026年07月20日

第91話『支部長室』

第91話『支部長室』


軍用車が山陰支部の車庫へ静かに滑り込んだ。

「到着しました。」

「ありがとう。」

俺は車を降り、支部長室へ向かう。

廊下では、音響士たちが報告書を抱え、足早に行き交っていた。

支部長室の前で足を止める。

制服の襟を整え、扉を叩いた。

コン、コン。

「失礼します。」

「入りたまえ。」

穏やかな声が返る。

「失礼します。」

部屋へ入ると、リゾルート支部長は書類から顔を上げた。

「よく来てくれた。」

「掛けてくれ。」

「失礼します。」

椅子へ腰を下ろす。

支部長は机の上の分厚いファイルを開いた。

「山陰へ赴任して、もうすぐ三か月になるな。」

「はい。」

一枚目を開く。

「匹見。」

「Bランク怪人。」

ページがめくられる。

「広島。」

「Cランク怪人。」

「益田。」

「Bランク怪人。」

「浜田。」

「Cランク怪人。」

そして最後の一枚。

「美祢。」

「Aランク土地神。」

部屋には、紙をめくる音だけが響いていた。

やがて支部長はファイルを閉じる。

「すべて読ませてもらった。」

「ありがとうございます。」

支部長は静かに俺を見る。

「どの報告書にも、一つだけ共通していることがある。」

「はい。」

「君は、自分の手柄を書いていない。」

思わず苦笑する。

「事実を書いただけです。」

「俺一人で勝てた戦いは、一つもありません。」

支部長は小さく頷いた。

「リアルダ情報士。」

「カンタービレ軍曹。」

「遊撃隊。」

「現地音響団。」

「誰が、何をしたのか。」

「誰が、誰を守ったのか。」

「その積み重ねが、丁寧に記されている。」

しばらく沈黙が流れた。

「隊長とは。」

「こういう報告書を書く者なのかもしれんな。」

その言葉に、胸が熱くなる。

支部長は引き出しを開け、一通の封筒を取り出した。

俺の前へ静かに置く。

「これは……。」

「中級音術師昇級試験の推薦状だ。」

意味が分からなかった。

封筒と支部長の顔を見比べる。

「……え。」

「私が推薦した。」

思わず首を横に振る。

「何かの間違いです。」

「俺は士官学校でも落ちこぼれでした。」

「同期のみんなに助けられて、ようやく卒業できたんです。」

支部長は最後まで口を挟まなかった。

俺が話し終えると、戦歴ファイルへ静かに手を置く。

「私は。」

「士官学校の君を推薦したのではない。」

俺は顔を上げる。

「この三か月の君を推薦した。」

静かな声だった。

「住民を守り。」

「仲間を信じ。」

「隊長として、部下を連れて帰ってきた。」

一呼吸置く。

「私が推薦したのは。」

「英雄スカーレットの息子ではない。」

支部長は穏やかに微笑んだ。

「山陰西部方面第一軍団。」

「第一トランペット遊撃隊。」

「隊長レッド君だ。」

言葉が出なかった。

推薦状が滲んで見える。

支部長は小さく頷く。

「受験するかどうかは、君が決めなさい。」

「急いで答えを出す必要はない。」

「ゆっくり考えてみるといい。」

俺は震える手で推薦状を受け取った。

紙一枚のはずなのに、不思議なくらい重かった。

「……ありがとうございます。」

その一言が、精一杯だった。

窓の外では、初夏の風が木々を静かに揺らしていた。


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2026年07月20日

第90話『帰る場所』

第90話『帰る場所』


六月中旬。

梅雨の晴れ間が、山陰の山々をやわらかく照らしていた。

昨夜の雨を受けた田んぼでは、若い稲が初夏の風に揺れている。

駐屯地の朝は、今日も穏やかだった。

俺は楽器庫の扉を開ける。

ケースを開くと、ラッカー仕上げのトランペットが朝日を受け、金色に輝いた。

ベルへそっと手を添える。

「今日も頼む。」

誰に聞かせるでもない、朝の挨拶だった。

◇

「隊長様!」

元気な声が駐屯地に響く。

振り向くと、ブリランテが満面の笑みで駆け寄ってきた。

「今日は食堂のおばちゃんが、トンカツだって言ってましたよ!」

「本当か?」

「はい!」

その声にアクセントが飛びつく。

「やったー!」

「久しぶりっス!」

スタッカートも笑った。

「今日は昼まで腹が減っても頑張れるっス。」

少し離れた場所では、ペザンテがマウスピースを磨きながら、小さく呟く。

「……楽しみだ。」

その一言に、みんなが笑った。

贅沢な食事ではない。

それでも、たまに出るトンカツは隊員たちの小さな楽しみだった。

戦いのない朝。

そんな何気ない時間が、この駐屯地には流れている。

◇

「レッド様。」

聞き慣れた声に振り向く。

リアルダが小さな紙袋を差し出していた。

「おはようございます。」

「おはよう。」

「冷凍パンです。」

思わず笑う。

「今日はトンカツじゃなかったのか?」

「はい。」

リアルダは真面目な顔で頷いた。

「ですが、出動命令が出れば昼食は食べられません。」

「こちらを携行してください。」

「生存戦略です。」

「相変わらずだな。」

「はい。」

迷いのない返事だった。

紙袋を受け取る。

ひんやりとした感触に、自然と笑みがこぼれる。

頼もしい相棒は、今日も変わらなかった。

◇

リアルダは少し表情を改めた。

「レッド様。」

「はい。」

「リゾルート支部長がお呼びです。」

「支部長が?」

「本日、お時間をいただきたいとのことです。」

「理由は聞いているか?」

「いえ。私も伺っておりません。」

「そうか。」

小さく息をつき、笑う。

「何とかなるさ。」

リアルダは静かに頷いた。

「はい。」

◇

古びた軍用車が、低いエンジン音を響かせる。

助手席へ乗り込むと、リアルダは慣れた手つきで車を走らせた。

窓の外を、白いガードレールが流れていく。

若い稲。

山並み。

穏やかな初夏の空。

変わらない景色が、ゆっくりと過ぎていく。

俺は膝の上のトランペットケースへ、そっと手を置いた。

山陰へ来て、もうすぐ三か月。

赴任した頃は、不安しかなかったこの景色も――

今では、守りたい景色になっていた。

軍用車は静かに山陰支部へ向かう。

この時の俺は、まだ知らない。

支部長室で交わす言葉が、自分の歩いてきた道と、これから進む道を見つめ直す一日になることを。


第91話『支部長室』
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2026年07月20日

第89話『生きて帰るまでが遠足』

第89話『生きて帰るまでが遠足』


秋芳洞には、静けさが戻っていた。

さっきまでの戦いが嘘のように、

水滴の音だけが響いている。

俺たちは帽子を取り、

秋芳洞へ静かに一礼した。

◇

ナガト軍団長が歩み寄り、

深く頭を下げる。

「山陰支部の皆さん、本当にありがとうございました。」

グラン閣下は小さく頷いた。

「還っただけじゃ。」

その一言だけだった。

ナガト軍団長も帽子を取り、

静かに頭を下げた。

◇

洞窟の入口では、

地元採用の音響士と、

地元ボランティアの音響団の皆さんが静かに並んでいた。

「ミズチ様。」

「また祭りの頃に会いましょう。」

誰も涙は流さない。

それが、この土地の別れ方なのだろう。

俺も帽子を取り、

ゆっくりと頭を下げた。

子どもの頃、

母さんと歩いた景色は、

あの日のまま、

そこにあった。

◇

「隊長!」

アクセントが勢いよく手を挙げる。

「腹減りました!」

「もう我慢できません!」

スタッカートが笑う。

「ペザンテなんか、さっきから唐揚げのこと考えてるっス。」

「……否定しない。」

ペザンテが静かに頷く。

ブリランテが吹き出した。

「帰りましょう、隊長様!」

張り詰めていた空気が、

ようやくいつもの山陰支部へ戻っていく。

◇

グラン閣下が立ち止まった。

「美祢には、うまい唐揚げ屋がある。」

隊員たちが一斉に振り向く。

「えっ!?」

「やまむらじゃ。」

少し間を置いて、

「今日はワシのおごりじゃ。」

アクセントが飛び上がる。

「やったーーっス!」

スタッカートも拳を突き上げる。

「最高っス!」

ブリランテは満面の笑みで敬礼した。

「ありがとうございます、閣下!」

ペザンテは一言。

「……唐揚げ。」

リアルダも思わず微笑む。

グラン閣下は照れ隠しのように鼻を鳴らした。

「フンっ。」

◇

車へ向かって歩いていると、

リアルダがぽつりとつぶやいた。

「グラン様。」

「え?」

「最後に私たちを吹き飛ばした場所。」

「レッド様が撃つ場所だったんですね。」

俺は思わず、

グラン閣下の小さな背中を見る。

リアルダは静かに続けた。

「私たちが着地した位置からしか、

あの反響経路は見えませんでした。」

「最初から、

あそこへ落とすつもりだったんです。」

あの一撃も。

偶然じゃなかった。

グラン閣下はこちらを一瞥する。

「フンっ。」

それだけだった。

その後ろ姿からのぞく耳は、

少しだけ赤かった。

思わず笑ってしまう。

本当に、

敵わない。

◇

車へ乗り込む直前。

グラン閣下が前を向いたまま言った。

「生きて帰るまでが遠足じゃ。」

「はい!」

俺たちは三台の車へ乗り込み、

秋芳洞をあとにした。

帰り道は、

きっと唐揚げの話で盛り上がる。

そんな気がした。

― 秋芳洞ミズチ編・完 ―


第90話『帰る場所』
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2026年07月15日

第88話『みんなで』

第88話『みんなで』


「レッド様、届きます。」

リアルダの声は、驚くほど静かだった。

「有効調律、四四一・五ヘルツ。」「確定しました。」

リアルダは端末から目を離さない。

「気温、十八度。」「湿度、九十八パーセント。」「主管、〇・三ミリ抜いてください。」

秋芳洞のあちこちで、小さな金属音が響く。

カチャ。

カチャ。

主管が静かに調整される。

「反響率、固定。」「仰角、四度。」「右へ一度。」「最適点、固定。」

◇

カンタービレ軍曹の声が通信へ響いた。

「全隊。」「ロングトーン。」「開始ですわ。」

最初に響いたのは、サード。

ペザンテ。

スタッカート。

エネルジコ。

ドルチェ。

四人の低音が秋芳洞を揺らす。

ボォォォォーーーーン……。

地下湖が静かに震えた。

続いて、セカンド。

アクセント。

ソステヌート。

レガート。

グラヴィオーソ。

中音が低音へ重なっていく。

ドォォォォーーーーン……。

岩壁が応え、

鍾乳石が歌い始める。

倍音が生まれ、

響きはさらに厚みを増した。

最後に、ファースト。

カンタービレ軍曹。

ブリランテ。

二人の澄んだ高音が、

重厚なハーモニーの頂へ真っすぐ伸びていく。

ティィィィィーーーーン……。

サード。

セカンド。

ファースト。

三つのパートが重なった瞬間。

秋芳洞そのものが、

巨大な楽器になった。

◇

リアルダは静かに数値を見つめる。

「反響率、最大。」

「音圧、安定。」

「最適点、固定。」

「五秒前。」

重厚なハーモニーが秋芳洞を巡る。

「四。」

反響が岩壁から岩壁へ走る。

「三。」

倍音がさらに積み重なる。

「二。」

リアルダが顔を上げた。

「レッド様。」

「今です。」

◇

ベルの先が、

淡く橙色に輝く。

ティン――。

細く澄んだ音響弾が放たれた。

その一音は、

遊撃隊が奏でる重厚なハーモニーへ静かに溶け込み、

秋芳洞すべての響きをまとっていく。

まるで、

大きな翼が静かに広がるように。

誰にも見えず、

誰にも気づかれることなく。

音速を超えたその一滴は、

一瞬のうちにミズチへ吸い込まれていった。

サードが支え、

セカンドが厚みを加え、

ファーストが響きを束ねる。

第一トランペット遊撃隊、

全員の音が、

その一滴を神へと送り届けた。

◇

ミズチは静かに目を閉じた。

「……なるほど。」

小さく笑う。

「そういうことか。」

しばらく黙ったあと、

ゆっくり俺を見る。

「坊や。」

「やはり、あやつの音じゃったか。」

俺は首をかしげる。

「?」

ミズチは、それ以上何も語らなかった。

◇

白い霧が、その身体から静かに立ちのぼる。

「良い音じゃ。」

その一言だけを残し、

ミズチは空を見上げた。

「ワシは……。」

「静かに生きたいだけじゃ。」

「また静かになるまで、還るとするかの。」

白い霧は鍾乳洞の天井へ昇り、

岩と地下水へ静かに溶け込んでいった。

秋芳洞は、

何事もなかったように静けさを取り戻す。

◇

グラン閣下は静かにチューバを下ろした。

「貴様ら、大義であった。」

その一言だけだった。

隊員たちは互いに顔を見合わせる。

誰もが、

第一トランペット遊撃隊全員で奏でたハーモニーが、

ミズチへ届いたのだと思っていた。

俺はトランペットをケースへしまい、

静かに秋芳洞へ一礼した。

あの一音は、

俺一人では届かなかった。

みんなの音があったから、

神へ届いた。

それが、

少しうれしかった。


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2026年07月15日

第87話『届く場所』

第87話『届く場所』


鍾乳洞のあちこちから、乾いた音が響く。

遊撃隊による試射。

一本。

また一本。

岩肌へ当たった音は、幾重にも反響し、地下湖を渡って消えていく。

◇

「右翼、第四測定点ですわ。」

カンタービレ軍曹の声が通信へ流れる。

「アクセント。」

『反響、大きいっス!』

「スタッカート。」

『左側、異常なしっス!』

「ペザンテ。」

『……中央、異常なし。』

「ブリランテ。」

『上段、良好です!』

反対側からも報告が続く。

「ソステヌート。」

『第一測定点、完了。』

「レガート。」

『第二測定点、異常ありません。』

「エネルジコ。」

『第三測定点、終了!』

「ドルチェ。」

『第四測定点、終わりました~。』

「グラヴィオーソ。」

『狙撃位置、確保。』

十二人が鍾乳洞全体へ散開し、音を刻んでいく。

カンタービレ軍曹は冷静に采配を振るう。

リアルダは一言も発しない。

端末へ映る数値だけを見つめていた。

◇

グラン閣下とミズチの攻防は続く。

地下湖の水が槍となり襲い掛かる。

「フンっ!」

重低音が秋芳洞を震わせる。

水槍は砕け散る。

だが次の瞬間。

岩壁が唸りを上げた。

鍾乳石が震え、水滴が舞う。

秋芳洞そのものが、ミズチの力だった。

◇

「閣下!」

思わず声が漏れる。

グラン閣下が、ほんの半歩だけ押し返される。

ミズチは静かに笑った。

「相変わらず口数の少ない女じゃの。」

「昔から、答えは音で返してきおる。」

グラン閣下は答えない。

「フンっ。」

短い重低音だけが洞窟へ響く。

◇

リアルダは端末を見つめたまま、小さく首を振る。

「違います……。」

「ここでもありません。」

その時だった。

グラン閣下が、ほんの半歩だけ踏み込む。

ミズチも自然と、その位置を追う。

リアルダの目が大きく見開かれた。

「……そういうことですか。」

端末へ一本の反響線が浮かび上がる。

「最初から……。」

「ここへ誘導していたんですね。」

俺には、まだ何のことか分からなかった。

◇

その時だった。

ミズチがゆっくりと俺へ顔を向ける。

「坊や。」

「お前も音術師じゃったな。」

嫌な予感が走る。

地下湖が大きくうねった。

巨大な水柱が持ち上がる。

「レッド様!」

リアルダが叫ぶ。

「来ます!」

逃げ場はない。

◇

「フンっ!」

重低音が轟いた。

次の瞬間。

俺とリアルダの身体は横へ大きく吹き飛ばされていた。

「うわぁっ!」

「きゃっ!」

巨大な水柱が、さっきまで俺たちが立っていた岩場を粉々に砕く。

……三回目だ。

不思議と慌てなかった。

空中で身体をひねり、着地と同時に受け身を取る。

リアルダも端末を抱えたまま、滑るように着地する。

◇

リアルダは周囲を見回した。

岩肌。

鍾乳石。

地下湖。

そして、グラン閣下とミズチを結ぶ一直線。

端末へ映る幾重もの反響線が、一つに収束する。

リアルダは小さく微笑んだ。

「見つけました。」

「何を?」

俺が聞いても、リアルダは答えない。

ただ静かに、グラン閣下の背中を見つめていた。

その横顔に、迷いはもうなかった。

洞窟の奥で、再び重低音が響く。

その一音は、まるで部下へ道を示す号令のように、秋芳洞へ静かに響き渡った。


第88話『みんなで』
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2026年07月15日

第86話『遊撃隊』

第86話『遊撃隊』


重低音が秋芳洞を震わせる。

グラン閣下は、一歩も退かない。

いや。

退けない。

ミズチもまた、一歩も前へ出ない。

互いに譲らぬまま、

静かな鍔迫り合いが続いていた。

◇

俺は思わずトランペットを構えた。

「閣下を援護する!」

一歩踏み出そうとした、その時だった。

「待ってください。」

リアルダが俺の腕をそっとつかむ。

「まだです。」

「でも!」

「今入れば、閣下の音場を乱します。」

俺は足を止めた。

音場……。

上位同士の戦いは、

目に見えない陣地まで作るのか。

◇

リアルダは端末へ視線を落としたまま、

鍾乳石、

地下湖、

岩壁を順に見渡していく。

そして、

静かにカンタービレ軍曹へ目を向けた。

二人の視線が合う。

カンタービレ軍曹は何も尋ねない。

ただ一度だけ、

静かに頷いた。

◇

「右翼。」

「左翼。」

軍曹の声が通信機へ流れる。

「測定開始ですわ。」

アクセントが真っ先に返事をする。

「了解っス!」

スタッカートが笑う。

「左、行くっス!」

「……中央。」

ペザンテは短く答えた。

ブリランテは元気よく敬礼する。

「隊長様、上段へ向かいます!」

反対側では、

「ソステヌート、第一測定点。」

「了解。」

「レガート、第二測定点。」

「はい。」

「エネルジコ、第三測定点。」

「押忍!」

「ドルチェ、第四測定点ですわ。」

「はい~。」

「グラヴィオーソ、狙撃位置。」

「了解。」

十二人が一斉に散開する。

まるで鍾乳洞へ溶け込むように、

それぞれの持ち場へ消えていった。

◇

「測定?」

俺は思わず聞き返した。

「何を測るんです?」

カンタービレ軍曹は前を見据えたまま答える。

「遊撃隊の仕事ですわ。」

それだけだった。

◇

「試射、開始。」

リアルダの静かな声が通信へ流れる。

一本。

乾いた音が岩壁へ当たる。

少し遅れて、

反響音が返ってきた。

二本。

三本。

四本。

四方八方から放たれた音が、

鍾乳石を渡り、

地下湖を越え、

洞窟中を巡っていく。

リアルダは目を閉じた。

耳だけが、

その音を追っている。

「第三反響点。」

「少し右です。」

「……もう一度。」

隊員たちは返事をすることもなく、

静かに試射を繰り返す。

端末には次々と数値が並び、

反響図が少しずつ形を変えていった。

◇

その頃。

ミズチはなおもグラン閣下と向き合っていた。

「まだ粘るか。」

グラン閣下は答えない。

「フンっ!」

重低音が響く。

ミズチの巨体が、

ほんのわずかだけ押し戻される。

また同じ場所。

また同じ位置。

その繰り返しだった。

◇

俺はようやく違和感に気付く。

「あれ……。」

「閣下。」

「押してるんじゃない。」

「戻してる……。」

リアルダは端末を見つめたまま、

小さく頷いた。

「はい。」

「恐らく。」

それ以上は何も言わない。

画面へ映る反響図が、

少しずつ一本の線へ近づいていく。

リアルダはその線を見つめたまま、

小さくつぶやいた。

「……もう少し。」

洞窟の奥で、

再びグラン閣下の重低音が響く。

その一音は、

まるで――

「急ぐな。」

そう語りかけているようだった。


第87話『届く場所』
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2026年07月15日

第85話『山陰の守り神』

第85話『山陰の守り神』


グラン閣下とミズチが向かい合う。

その間には、誰も入れない。

俺たちも。

山口支部の隊員たちも。

ただ黙って、見守るしかなかった。

◇

ミズチが、ゆっくりと俺へ顔を向けた。

敵を見る目ではない。

何かを確かめるような、

不思議な眼差しだった。

「坊や。」

「どこかで会ったことがあるかね?」

俺は軽く敬礼する。

「いや、ミズチ様とはお初にお目にかかります。」

ミズチは黙ったまま、

俺を見つめていた。

ほんの一瞬、

その目が懐かしそうに細められる。

「……そうか。」

それ以上は、何も言わなかった。

◇

グラン閣下がチューバを構える。

「来い。」

ミズチが静かに地下湖へ降り立った。

その瞬間。

湖面が大きくうねる。

水が意思を持ったように舞い上がり、

巨大な渦となってグラン閣下へ襲いかかった。

「フンっ!」

チューバの重低音が洞窟を震わせる。

空気の壁が水の渦とぶつかり、

鈍い衝撃が岩肌を駆け抜けた。

水しぶきが白い霧となって広がる。

だが、ミズチは止まらない。

鍾乳石から落ちていた水滴が、

空中で静止した。

次の瞬間。

無数の水滴が鋭い雨となって、

グラン閣下へ降り注ぐ。

重低音が、もう一度響く。

水の雨は音圧に押し返され、

岩壁へ叩きつけられた。

その衝撃に応えるように、

足元まで低く揺れる。

水と岩。

秋芳洞そのものが、

ミズチの力だった。

◇

俺は思わず息をのむ。

「これが……Aランク。」

リアルダは端末を見つめたまま答えた。

「周囲の岩盤と地下水を同時に利用しています。」

「この地形では、ミズチ様に勝る者はいません。」

ナガト軍団長も険しい表情で戦況を見つめる。

「我々中級音術師では、あの音場へ近づくこともできません。」

誰も前へ出られない。

戦えるのは、

グラン閣下だけだった。

◇

重低音が何度も響く。

ミズチの水流が押し寄せるたび、

グラン閣下は音圧で正面から受け止めた。

一歩も引かない。

いや。

引けない。

ミズチを、

この場所から動かさないために。

俺には、

その意味がまだ分からなかった。

◇

「老いとは恐ろしいものじゃの。」

ミズチが静かに笑う。

「昔なら、もう少し粘れたじゃろう。」

グラン閣下は答えない。

「フンっ!」

短く息を吐き、

さらに一歩踏み込む。

重低音が洞窟の奥まで響き渡る。

地下湖の水面が大きくへこみ、

ミズチの巨体がわずかに押し戻された。

ほんの半歩。

それだけだった。

リアルダの指が止まる。

端末とグラン閣下の立ち位置を、

何度も見比べた。

「……そういうことですか。」

小さく漏れた一言。

俺は振り向く。

「リアルダ?」

返事はない。

リアルダは画面から目を離さず、

今度はカンタービレ軍曹へ視線を送った。

二人の目が合う。

カンタービレ軍曹は何も尋ねない。

ただ一度だけ、

静かに頷いた。

そして、一歩前へ出る。

「右翼、左翼。」

張り詰めた声が通信機を通して全員へ届く。

「測定準備。」

アクセントたちの表情から笑みが消える。

左翼の隊員たちも、

それぞれの楽器を静かに構え直した。

俺だけが、

二人の意図をつかめずにいた。

「何をするんだ?」

カンタービレ軍曹は戦場から目を離さない。

「遊撃隊を展開しますわ。」

その声に迷いはなかった。

グラン閣下の重低音が、

再び秋芳洞を震わせた。


第86話『遊撃隊』
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2026年07月15日

第84話『静寂の守り神』

第84話『静寂の守り神』


秋芳洞へ足を踏み入れる。

ひんやりとした空気が頬をなでた。

外は六月だというのに、

ここだけは別世界だった。

天井から垂れ下がる鍾乳石。

足元を静かに流れる地下水。

子どもの頃に見た景色が、

そのまま残っている。

「変わらないな……。」

思わずつぶやく。

リアルダが小さく頷いた。

「とても静かな場所ですね。」

「ああ。」

母さんが何度も連れて来た理由が、

今なら少しだけ分かる気がした。

◇

奥へ進むと、

迷彩服姿の地元音響団が数人集まっていた。

その先には、大きな地下湖。

湖面には白い霧が漂っている。

そして、その中央。

巨大な蛇のような姿が、

ゆっくりとこちらを向いた。

山と水を司る土地神――ミズチ。

その姿を前にしても、

誰一人として楽器を構えない。

音響団の一人が困ったように頭をかいた。

「ミズチ様ぁ。」

「お気持ちは分かるっちゃけどのんた。」

別の音響団員も苦笑する。

「昔から祭りも山焼きも、一緒に見守ってきたじゃろ。」

「今さら、そんなに怒らんでもええじゃないですか。」

ミズチは静かに目を閉じた。

「分かっとる。」

低く響く声が洞内へ広がる。

「山焼きは景観を守るため。」

「祭りは子どもらが笑うため。」

「ワシも、それは嫌いではない。」

少し間を置き、

ゆっくりと言葉を続ける。

「じゃが、最近は違う。」

「大勢の人間が押しかける。」

「叫ぶ。」

「岩を叩く。」

「静けさが失われていく。」

ミズチは湖面へ視線を落とした。

「ワシは……。」

「静かに生きたいだけじゃ。」

洞窟には、

水滴の音だけが響いていた。

◇

グラン閣下が一歩前へ出る。

「どうした。」

「へそでも曲げたか。」

ミズチは小さく笑う。

「グランか。」

「久しぶりじゃの。」

「また、小さいまま来おった。」

グラン閣下の眉がぴくりと動いた。

「誰が小学生じゃー!」

ボォンッ!!

チューバの重低音が洞窟を震わせる。

「うわぁっ!」

「きゃあっ!」

俺とリアルダは音圧に吹き飛ばされ、

仲良く岩壁の前まで転がった。

音響団員たちが苦笑する。

「始まった……。」

どうやら昔から変わらないやり取りらしい。

リアルダは制服についた砂を払いながら立ち上がる。

「音圧だけで、この威力ですか……。」

俺は頭をさすった。

「怒るところ、そこじゃないだろ。」

◇

ミズチは静かに笑みを消した。

「グラン。」

「お前と初めて戦ったのは、陸軍の砲兵訓練で、この山が荒らされた時じゃ。」

「……あの頃の方が、まだ静かじゃった。」

俺は思わずリアルダを見る。

リアルダも俺を見返し、

小さくつぶやく。

「太平洋戦争……ですよね。」

グラン閣下は黙ってチューバを軽く持ち上げた。

「フンっ。」

ボォンッ!!

「うわぁっ!」

「きゃっ!」

俺とリアルダは、また仲良く吹き飛ばされる。

転がりながら受け身を取り、

リアルダは起き上がると制服についた砂を払った。

「……少し慣れてきました。」

「慣れるな。」

思わずツッコミを入れる。

ミズチは小さく笑った。

「相変わらずじゃの。」

◇

グラン閣下は何事もなかったようにチューバを構える。

「どうしても引かんか。」

ミズチは静かに首を横へ振った。

「引けんな。」

「ここは、ワシの居場所じゃ。」

「そうか。」

短いやり取りだった。

音響団の面々は互いに顔を見合わせると、

静かに道を開ける。

誰も騒がない。

誰も叫ばない。

ただ、この場所の静けさを壊さないよう、

一歩ずつ後ろへ下がっていく。

その静寂の中で。

山陰の守護神と、

秋芳洞の守り神が、

静かに向かい合った。


第85話『山陰の守り神』
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2026年07月15日

第83話『秋芳洞へ』

第83話『秋芳洞へ』


三台の車両は益田駐屯地を出発し、国道九号線を山口県へ向けて走っていた。

先頭車両の運転席にはリアルダ。

助手席ではグラン閣下が腕を組み、静かに目を閉じている。

後部座席には俺とカンタービレ軍曹、ソステヌート。

後ろの二台には、第一遊撃トランペット隊の隊員たちが分乗していた。

◇

「閣下、寝てるんですか?」

俺が小声で尋ねると、リアルダは前を向いたまま答えた。

「休息も任務です。」

「上級音術師様には、万全の状態で戦っていただかなければなりません。」

なるほど。

そういう考え方もあるのか。

リアルダは静かに続ける。

「音術師様は国家の財産です。」

聞き慣れた言葉なのに、

今日は妙に重く聞こえた。

◇

無線機が鳴った。

『隊長ー!』

アクセントだ。

「何だ?」

『隊長! 昼飯は美祢名物っスか!?』

思わず笑ってしまう。

「戦いが終わってからだ。」

『了解っス!』

すぐ横からスタッカートの声が割り込む。

『ペザンテが、もう腹減ったって言ってるっス!』

『……減った。』

『まだ出発して一時間っスよ!』

車内が笑いに包まれる。

カンタービレ軍曹は無線機を手に取った。

「エネルジコ。」

『はい!』

「あなたまで食事の話に乗らなくて結構ですわ。」

『す、すみません!』

リアルダが小さく笑う。

こういう何気ない時間が、

俺は好きだった。

◇

車は山口県へ入り、美祢市へ近づく。

やがて視界が一気に開けた。

六月の陽射しを浴びた若草の大地。

その中に、白い石灰岩が羊の群れのように点々と顔をのぞかせている。

秋吉台カルスト台地。

どこまでも続く雄大な景色は、

何度見ても心を奪われる。

「あ……。」

思わず声が漏れた。

リアルダも窓の外へ目を向ける。

「綺麗ですね。」

「ああ。」

「子どもの頃、母さんによく連れて来てもらったんだ。」

母さんは、この景色が好きだった。

車を止めては風に吹かれ、

遠くまで続く草原を静かに眺めていた。

当時の俺は、

景色より遊ぶことばかり考えていたけれど、

今なら少しだけ、

母さんの気持ちが分かる気がする。

車はカルストロードを抜け、

秋芳洞へ向かう。

夏になると、

何度も訪れた場所だ。

ひんやりとした空気。

鍾乳石。

静かな地下世界。

母さんは決まって言っていた。

「静かな場所ほど、大切にしなさい。」

あの頃は意味なんて分からなかった。

でも今なら、

少しだけ分かる気がする。

◇

「レッド様。」

リアルダが端末へ目を落とした。

「現地指揮官は、山口北部方面第一軍団長、ナガト様です。」

「中級音術師だったな。」

「はい。」

「現在、山口支部の上級音術師様は各方面へ出動中です。」

「秋芳洞へ派遣できる上級音術師様がおられません。」

だから山陰支部。

だからグラン閣下。

「なるほど……。」

ようやく応援要請の理由が見えてきた。

◇

三台の車両が秋芳洞の駐車場へ入る。

迷彩服姿の音響士たちが整列し、

ボランティアの音響団も慌ただしく動き回っていた。

その中央で、

紺の士官服を着た男性が俺たちを待っている。

俺たちが車を降りると、

その人はグラン閣下へ敬礼した。

「お待ちしておりました。」

グラン閣下は軽く頷く。

「状況は。」

「Aランク土地神《ミズチ》が秋芳洞最深部に留まっています。」

「一般市民への被害はありません。」

「しかし、我々が近づくと追い返されます。」

「地元音響団とは昔から顔なじみとのことです。」

俺は思わず聞き返した。

「顔なじみ?」

軍団長は静かに頷く。

「ええ。」

「山焼きや祭りも見守ってきた土地神だそうです。」

敵というより――

この土地の一員なんだな。

◇

軍団長は秋芳洞の入口へ視線を向けた。

「洞内は狭く、大軍は展開できません。」

「上級音術師による少数戦闘が最善と判断しました。」

俺は思わず口にする。

「なら、なおさら俺たちは足手まといじゃ……。」

言い終わる前だった。

ドゴォンッ!!

「うわぁっ!」

「きゃあっ!」

俺とリアルダは、また仲良く吹き飛ばされた。

アクセントが車から飛び降りる。

「隊長ーーっ!」

スタッカートは苦笑する。

「またっスか……。」

ブリランテが駆け寄った。

「隊長様! リアルダさん! 大丈夫ですか!」

リアルダは制服についた砂を払いながら、小さくつぶやく。

「二回目です。」

「……何か理由があるのでしょう。」

俺は頭をさすりながら立ち上がった。

「俺には、さっぱり分からない。」

グラン閣下は何も言わない。

ただ静かに秋芳洞へ向かって歩き出す。

その小さな背中を追って、

俺たちも静かな鍾乳洞へ足を踏み入れた。


第84話『静寂の守り神』
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2026年07月15日

第82話『山口からの要請』

第82話『山口からの要請』


六月上旬。

水無月に入ると、山陰もすっかり初夏らしくなってきた。

駐屯地の周りでは田植えも終わり、若い稲が初夏の風に揺れている。

俺は、こういう景色が好きだ。

守りたいと思える景色がある。

だから、俺たちはここにいる。

◇

「隊長ー!」

朝っぱらからアクセントの大きな声が響く。

「今日は走り込みっスか!」

「いや、その前に装備点検だ。」

「えぇ~。」

スタッカートが笑いながら肩を叩く。

「アクセント、朝から元気っスね。」

ブリランテは俺の前へ立ち、敬礼した。

「隊長様! マウスピース磨き終わりました!」

「ありがとう。」

ペザンテは黙ったまま工具箱を閉じる。

「……異常なし。」

相変わらず短い。

でも、それだけで十分伝わる。

◇

左翼では、カンタービレ軍曹が隊員たちを指導していた。

「ソステヌート、音の入りが少し早いですわ。」

「はい!」

「レガート、もっと周囲を見なさい。」

「了解です。」

「エネルジコ、勢いだけではなく、周囲との歩調も合わせること。」

「押忍!」

「ドルチェ、そのままでよろしくてよ。」

「はい~。」

「グラヴィオーソ。」

「分かっています。」

いつ見ても隙がない。

俺たち右翼が勢いなら、

左翼は規律そのものだった。

◇

その時だった。

司令部の通信士が慌ただしく駆け込んできた。

「山口支部より緊急要請!」

隊員たちの表情が、一瞬で引き締まる。

俺は書類を受け取った。

美祢市。

秋芳洞。

Aランク土地神《ミズチ》顕現。

山口北部方面第一軍団より応援要請――。

アクセントが拳を握る。

「遠征っスか!」

スタッカートは笑った。

「秋芳洞って、涼しいらしいっス!」

ブリランテは目を輝かせる。

「僕、一度行ってみたかったんです!」

ペザンテは腕を組み、

「……美祢。」

少し考えてから、

「……ご飯、美味そう。」

リアルダが小さく笑った。

「ペザンテさんらしいですね。」

◇

コツ。

コツ。

小さな靴音が響く。

その音だけで、隊員全員の背筋が自然と伸びた。

グラン閣下だった。

大きなチューバを肩に担ぎ、俺たちの前へ立つ。

「行くぞ。」

それだけだった。

俺は首をかしげる。

「閣下が赴かれるなら、俺たちは必要ないんじゃないですか?」

グラン閣下は俺を見た。

「保険じゃ。」

次の瞬間。

ボォンッ!!

チューバの重低音が駐屯地に響いた。

「うわぁっ!」

「きゃあっ!」

俺とリアルダは仲良く吹き飛ばされ、地面を転がる。

アクセントが叫んだ。

「隊長ーーー!」

スタッカートは頭を抱える。

「また始まったっス……。」

ブリランテが慌てて駆け寄る。

「隊長様!」

ペザンテは俺を見下ろし、

「……飛んだ。」

リアルダは制服についた砂を払いながら立ち上がる。

「レッド様のお近くは危険です。」

「いや、俺も被害者なんだけど?」

「結果だけ見れば、同じです。」

……否定できない。

◇

カンタービレ軍曹は腕を組み、小さくため息をついた。

「その楽観的な考え方は感心しませんわ。」

「はい……。」

反論できない。

アクセントが小声で笑う。

「隊長、出発前から一発もらいましたね。」

スタッカートも苦笑した。

「今日は幸先がいいっス。」

「それ、幸先がいいって言うのか?」

隊員たちから笑いが起こる。

その笑いを背に、グラン閣下は歩き出した。

「出発じゃ。」

その一言で、みんなの表情が引き締まる。

俺たちは車両へ乗り込み、

山口県美祢市・秋芳洞へ向けて出発した。

この時の俺は、あの懐かしい秋芳洞で、

忘れられない出会いが待っていることを、

まだ知らなかった。


第83話『秋芳洞へ』
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2026年07月15日

第81話『帰路』

第81話『帰路』


夕暮れの日本海は、昼間とは違う表情を見せていた。

茜色に染まる波が、静かに岸へ寄せては返す。

俺たちは沿岸方面軍の隊員たちと向かい合った。

ハマダ軍曹が一歩前へ出る。

「皆さま。」

「本日は、本当にありがとうございました。」

深く頭を下げる。

「実りのある合同訓練になりました。」

俺も敬礼を返す。

「こちらこそ。」

「海でしか学べないことを、たくさん教えていただきました。」

ハマダ軍曹は照れくさそうに笑った。

「また、いつでもお越しください。」

「歓迎します。」

固い握手を交わす。

短い握手だった。

だが、その手には互いへの信頼が込められていた。

◇

荷物を積み終えた頃。

カンタービレ軍曹が静かに口を開いた。

「沿岸方面の皆さんがいなければ。」

海を見つめる。

「もっと早くに追い詰められていましたわ。」

ハマダ軍曹は少し驚いたように目を丸くした。

「そのお言葉だけで十分です。」

「ありがとうございます。」

二人は小さく敬礼を交わした。

その姿を見て、俺は自然と笑みがこぼれた。

◇

車が静かに走り出す。

窓の外では、日本海がゆっくり遠ざかっていく。

後部座席では、遊び疲れた隊員たちが静かだった。

浮き輪を抱えたまま眠るスタッカート。

貝殻を大事そうに見つめるドルチェ。

ブリランテは窓へ額を預け、小さく鼻歌を歌っている。

リアルダは膝の上へノートを広げていた。

件名。

『海岸合同訓練及び神獣介入報告』

思わず笑ってしまう。

「また、変わった報告書になりそうだな。」

リアルダも小さく笑った。

「はい。」

「でも、書きがいがあります。」

ペンが静かに走る。

その音だけが車内へ響いていた。

◇

しばらく山道を走る。

バックミラーを見ると、カプリッチョが満足そうに尻尾を揺らしていた。

俺は何となく尋ねる。

「名代様。」

「もし今日、ピンチだったのが悪のみなさんだったら、どうしてた?」

カプリッチョはきょとんとした顔になる。

「簡単だコン。」

胸を張る。

「みんなで仲良く海水浴してたコン♪」

一瞬だけ車内が静まり返る。

そして。

「あはははは!」

笑い声が一斉に広がった。

リアルダも。

カンタービレ軍曹も。

アクセントも。

ハンドルを握る俺まで笑っていた。

◇

車は山道を登っていく。

バックミラーの向こうで、日本海が少しずつ小さくなっていった。

今日も。

誰一人欠けることなく帰ることができた。

それで十分だった。

「……何とかなるさ。」

そうつぶやくと、夕焼け色の空が静かにフロントガラスいっぱいへ広がっていった。

― 沿岸訓練編・完 ―


第82話『山口からの要請』
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2026年07月14日

第80話『渚の意見交換会』

第80話『渚の意見交換会』


潮風が、穏やかに砂浜を吹き抜ける。

さっきまで戦場だった浜辺には、炭火の香りが漂っていた。

ハマダ軍曹が俺たちの前へ立つ。

「皆さま、本日はお疲れさまでした。」

深く一礼する。

「漁師さんから、海産物をたくさん頂いております。」

「ささやかではありますが、意見交換会の場を設けさせていただきました。」

隊員たちの表情が、ぱっと明るくなった。

俺は小さく笑う。

「みんな、ご苦労だった。」

「せっかくの海だ。」

「満喫してくれ。」

「了解!」

元気な返事が浜辺へ響いた。

◇

「やったっス!」

スタッカートが浮き輪を抱え、海へ駆け出す。

アクセントが肩をすくめた。

「お前、益田育ちなのに浮き輪持参かよ。」

「安全第一っス!」

「隊長様!」

ブリランテが目を輝かせる。

「泳いでもよろしいですか?」

「沖へ行かなければな。」

「はい!」

返事をすると、嬉しそうに駆け出していった。

◇

「きれい……。」

ドルチェは波打ち際へしゃがみ込み、小さな貝殻を拾っている。

「素敵な貝殻がたくさんありますねぇ。」

その横ではリアルダが少し照れくさそうに笑った。

「実は……。」

「私も水着、持ってきました。」

「久しぶりの海です。」

ミスミが微笑む。

「浜田の海は、気持ちいいですよ。」

二人は笑いながら波打ち際へ歩いていった。

◇

「こっちは任せてください!」

ペザンテが黙々と炭を起こしている。

その手際は見事だった。

レガートが笑う。

「おいおい。」

「焼く前に食べるなよ。」

ペザンテは黙って串を戻す。

周りから笑いが起こった。

◇

エネルジコは荷物を見回していた。

「何か必要なものがあれば、すぐ調達してきます!」

「頼もしいですわね。」

カンタービレ軍曹が小さく微笑む。

その隣ではソステヌートが、沿岸方面の音響士たちへ熱心に質問していた。

「海岸での隊形変更は、どのような基準で?」

「なるほど……。」

「勉強になります。」

沿岸方面の隊員たちも、嬉しそうに答えている。

これもまた、立派な合同訓練だった。

◇

「皆さん。」

カンタービレ軍曹が静かに声を掛ける。

「羽目を外し過ぎませんように。」

そう言いながらも、その視線は何度も海へ向いていた。

俺は思わず苦笑する。

軍曹が軍服の下へ水着を着込んでいることには、もう気付いている。

……知らないふりをしておこう。

◇

「カプちゃーん!」

子どもたちが駆け寄る。

「遊ぶコン!」

カプリッチョが元気よく飛び跳ねた。

「今日は、みんなで楽しむコン!」

「わーい!」

砂浜いっぱいに笑い声が広がる。

その様子を見ていたハマダ軍曹が笑顔で声を掛けた。

「たくさん用意しております。」

「海産物も、かき氷もありますよ。」

「やったコン!」

カプリッチョの耳がぴんと立つ。

「今日は頭がキーンになっても気にしないコン!」

その一言に、俺たちは顔を見合わせた。

そして。

「あはははは!」

笑い声が、青い日本海へいつまでも響いていた。


第81話『帰路』
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2026年07月14日

第79話『神撃のカプリレンジャー』

第79話『神撃のカプリレンジャー』


「……撤退も視野に入れる。」

俺が小さくつぶやく。

その言葉を聞きながら、濡れ女だけは終始穏やかな表情を崩さなかった。

白い鍔広帽子の下で、その口元がわずかに緩む。

勝負は決した。

そんな笑みに見えた。

その時だった。

ドゴォォォォン!!

戦線のど真ん中で、大地が爆ぜた。

巨大な水柱が立ち上る。

巻き上がる土砂。

轟音が砂浜を揺らした。

「なっ!?」

思わず全員が振り向く。

土煙の向こうから、小さな影がゆっくり歩いてくる。

真っ赤なバスタオルをマントのようになびかせ。

頭には段ボールの王冠。

胸を張り、堂々と歩く。

「神撃の!」

「カプリレンジャー!」

「参上だコン!」

砂浜が静まり返る。

「え。」

俺たちが息をのむ。

「え。」

濡れ女も、この戦いで初めて動揺を見せた。

◇

濡れ女は帽子を取り、その場へ静かに膝をつく。

黒いスーツ姿の手下たちも、一斉にそれに続いた。

「名代様。」

「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。」

深く頭を下げる。

「ここは先祖代々、我々が守ってきた浜でございます。」

「大明神様にも、お認めいただいた土地。」

「本日も、その務めを果たしております。」

砂浜には、波の音だけが響いていた。

◇

カプリッチョは腕を組み、小さくうなった。

「うーん……。」

しばらく考え込む。

やがて顔を上げた。

「違うコン。」

濡れ女がゆっくり顔を上げる。

「今日は。」

「ウチは名代じゃないコン。」

一拍。

胸を張る。

「カプリレンジャーだコン!」

「え?」

濡れ女が固まる。

手下たちも顔を見合わせた。

「ヒーローは。」

「ピンチの方を助けるコン!」

俺たちも。

濡れ女たちも。

思わず同時に顔を見合わせる。

「え。」

「え。」

その理屈は、誰にも分からなかった。

◇

カプリッチョが右手を前へ突き出す。

小さな指先の周りで、大気がゆっくりと圧縮されていく。

空間が陽炎のように揺らぐ。

リアルダが息をのんだ。

「レッド様……。」

「周囲の気圧が急上昇しています。」

俺も思わずベルを下ろした。

「まさか……。」

カプリッチョは満面の笑みを浮かべる。

「必殺!」

「スーパーDX!」

「デコピンだコン!」

――ピン。

軽い音だった。

次の瞬間。

圧縮された高密度の大気が、一気に解き放たれる。

轟音。

暴風が砂浜をえぐり、水しぶきと砂を巻き上げた。

「若頭ぁぁぁぁ!」

「名代様ぁぁぁ!」

「今回は正当なお務めだったんですよぉぉ!」

「勝負には勝ってましたのにぃぃ!」

「報告書を何て書けばいいんですかぁぁ!」

濡れ女も。

黒いスーツ姿の手下たちも。

まとめて空の彼方へ吹き飛んでいく。

やがて六つの影は、小さな星になって消えた。

◇

静まり返った砂浜に、子どもたちの歓声が響く。

「カプリレンジャー!」

「すごーい!」

「かっこいいー!」

カプリッチョは胸を張る。

「どうだコン!」

「ヒーローだコン!」

俺は思わず笑ってしまった。

「……何とかなるさ。」

潮風が吹く。

さっきまで戦場だった砂浜には、子どもたちの笑い声だけが戻っていた。


第80話『渚の意見交換会』
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2026年07月14日

第77話『渚の戦い』

第77話『渚の戦い』


潮風が砂浜を吹き抜ける。

濡れ女は白い鍔広帽子のつばへ、そっと手を添えた。

「それでは。」

「参ります。」

その声と同時に、黒いスーツ姿の手下たちが一斉に駆け出した。

「速い!」

アクセントが息をのむ。

砂へ足を取られない。

まるで乾いた大地を駆けるような足取りだった。

ハマダ軍曹が俺を見る。

「隊長さん。」

「岩礁です。」

「ああ。」

俺はうなずく。

「全隊。」

「防衛線を維持!」

「了解!」

右翼が動く。

アクセントがベルを上げた。

「防弾幕、展開!」

ブリランテが俺の隣へ並ぶ。

「隊長様!」

「牽制します! ダブルタンギング! 連弾!」

無数の音響弾が砂浜へ走る。

だが、手下たちは波打ち際を滑るように駆け抜けていく。

「ちっ!」

スタッカートが悔しそうに叫ぶ。

「捕まえられないっス!」

◇

左翼も応戦する。

「教範どおりですわ。」

カンタービレ軍曹の声は落ち着いていた。

「倍音を維持。」

ソステヌートとレガートが音を重ねる。

ドルチェが防壁を支える。

岩陰では、グラヴィオーソが静かに引き金を絞った。

「……そこ。」

鋭い一射。

しかし、手下は紙一重で身をかわす。

「海に慣れていますわね。」

カンタービレ軍曹が静かにつぶやいた。

◇

濡れ女は、その場から動かない。

寄せた波が足元へ触れる。

海水が生き物のように立ち上がり、白いスーツへ静かにまとわりついた。

深紅のストールだけが潮風に揺れる。

「レッド様。」

リアルダの声が飛ぶ。

「補正します!」

「頼む!」

「右へ一度!」

「仰角、そのまま!」

隣ではミスミも声を上げる。

「今です!」

俺は息を吹き込んだ。

音響弾が岩礁をかすめ、鋭く反射する。

手下の一人が体勢を崩した。

「今ですわ!」

左右から音が重なる。

その隙を逃さず、沿岸方面の音響士たちが前へ出た。

「くらいついてください!」

ハマダ軍曹の号令に、

「了解!」

沿岸方面第一トランペット遊撃隊が一斉に応じる。

波を読み。

風を読み。

一歩も引かず、防衛線を支え続ける。

俺たちも、その背中に食らいついた。

◇

無数の不協和音が砂浜へ降り注ぐ。

轟音。

砂が舞い上がる。

濡れ女は白い帽子の下で微笑んでいた。

「……お見事です。」

「ですが。」

「この浜は、そう簡単には渡せません。」

潮風が、さらに強く吹き始めた。


第78話『潮時』
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2026年07月14日

第78話『潮時』

第78話『潮時』


波が、岩礁を飲み込んでいく。

さっきまで音を返してくれていた岩は、一つ、また一つと白波の下へ消えた。

ミスミが端末から顔を上げる。

「満潮です。」

リアルダもうなずく。

「レッド様。」

「補正幅が大きくなります。」

「了解。」

俺はベルを握り直した。

◇

「来ます!」

手下たちが一斉に間合いを詰める。

左右へ。

前へ。

波と風を味方につけるように砂浜を駆け抜けた。

「右翼!」

アクセントが一歩踏み出す。

「防弾幕、維持!」

スタッカートも続く。

「抜かせないっス!」

ブリランテの連弾が牽制する。

だが、風が音を押し流す。

音響弾はわずかに逸れ、海へ吸い込まれていった。

「くっ……!」

◇

左翼も踏みとどまる。

「倍音、維持。」

カンタービレ軍曹の声は落ち着いていた。

ソステヌートが静かに音を重ねる。

レガートが支え、ドルチェが防壁を保つ。

グラヴィオーソが岩陰から狙撃する。

「……ちっ。」

わずかに逸れる。

「海が射線を狂わせるわ。」

それでも誰一人、持ち場を離れなかった。

◇

濡れ女は静かに立っている。

海水は生き物のように白いスーツへまとわりつき、不協和音を静かに受け流していた。

その右手が上がる。

無数の不協和音が風に乗る。

砂浜へ雨のように降り注いだ。

「散開!」

俺の声に合わせ、両遊撃隊が身をかわす。

砂が舞う。

波が砕ける。

轟音が海岸を包んだ。

◇

ハマダ軍曹は海を見つめた。

岩礁は、もうほとんど見えない。

小さく息を吐く。

「……ここまで、よく持ちこたえました。」

その声には、長年この海と向き合ってきた重みがあった。

俺は黙ってうなずく。

子どもたちの避難は終わっている。

増援は、まだ来ない。

防衛線は維持している。

だが、このままでは——。

「……撤退も視野に入れる。」

誰も返事をしなかった。

潮風だけが、静かに砂浜を吹き抜ける。

◇

その頃。

少し離れた砂浜では、子どもたちの歓声が響いていた。

「カプちゃーん!」

その声に、カプリッチョが足を止める。

金色の耳が、ぴくりと動いた。

ゆっくりと戦場へ振り向く。

俺たちを見る。

濡れ女たちを見る。

そして、何も言わず、じっと両者を見つめていた。


第79話『神撃のカプリレンジャー』
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2026年07月14日

第76話『防衛配置』

第76話『防衛配置』


潮騒は穏やかだった。

だが、砂浜を渡る風だけが、少しずつ強さを増していく。

濡れ女は白い鍔広帽子のつばへ、そっと手を添えた。

「防衛隊のみなさん。」

「ここからは、お互いの務めです。」

俺は小さくうなずく。

「こちらにも守るものがある。」

「ええ。」

濡れ女は穏やかに微笑んだ。

「私どもも同じです。」

黒いスーツ姿の手下たちが、静かに散開する。

誰も慌てない。

それぞれが、自分の持ち場へ向かうだけだった。

◇

リアルダが端末を開く。

「レッド様。」

「敵戦力を更新します。」

指先が素早く画面を滑る。

「Cランク一体。」

「手下五体。」

「有効調律、開始。」

わずかな間を置き、次々と数値を読み上げる。

「気温、二十六度。」

「湿度、七十八パーセント。」

「風速、毎秒六メートル。」

「海面吸収率、四十二パーセント。」

「岩礁反響率、六十一パーセント。」

隣ではミスミが海を見つめていた。

「潮位、上昇中。」

「観測値、リアルダ情報士と一致します。」

リアルダが小さくうなずく。

「弾道補正へ移行します。」

「頼む。」

「はい。」

◇

ミスミが通信機へ耳を当てる。

「沿岸方面軍本部より入電。」

「初級音術師部隊、出動。」

「到着まで十五分です。」

「十分だ。」

俺は静かにトランペットケースへ手を掛けた。

ハマダ軍曹が一歩前へ出る。

「隊長さん。」

「防衛線を維持いたしましょう。」

「ああ。」

◇

カンタービレ軍曹が静かに前へ出る。

「教範どおりですわ。」

「海岸プログラム、防衛配置。」

その一言で、左翼が動き始める。

ソステヌートは副官として一歩前へ出た。

「左翼、展開します。」

レガートが隊形を整える。

エネルジコは岩礁へ駆ける。

ドルチェは防壁位置へ。

グラヴィオーソは岩陰へ身を寄せた。

「狙撃位置、確保。」

右翼ではアクセントが笑う。

「右翼は任せてください!」

スタッカートがベルを握る。

「いつでも行けるっス!」

ブリランテが俺の隣へ並んだ。

「隊長様。」

「牽制は僕が受け持ちます!」

ペザンテは沖を見つめたまま、小さくつぶやく。

「……風が変わる。」

誰も指示を待たない。

それぞれが、自分の役割を知っていた。

◇

ハマダ軍曹が静かに岩礁を指さす。

「沿岸方面第一トランペット遊撃隊。」

「岩礁線を維持してください。」

「了解!」

沿岸方面の音響士たちが、慣れた足取りで持ち場へ散っていく。

◇

その頃。

少し離れた砂浜では、まだ子どもたちの笑い声が響いていた。

「カプちゃーん!」

「待つコン!」

カプリッチョは夢中で鬼ごっこをしている。

まだ、こちらの空気には気づいていない。

俺は静かにトランペットを構えた。

黄金色のベルが、午後の陽射しを受けて輝く。

風が吹く。

波が寄せる。

誰一人、口を開かなかった。

次に響くのは。

音響弾か。

不協和音か。

それは、まだ誰にも分からなかった。

合同訓練は、静かに実戦へと姿を変えようとしていた。


第77話『渚の戦い』
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2026年07月14日

第75話『濡れ女』

第75話『濡れ女』


潮風が、ふっと止んだ気がした。

リアルダが端末から顔を上げる。

「レッド様。」

「不協和音を確認しました。」

俺は海岸線へ目を向けた。

波打ち際を、一人の女が歩いてくる。

白い鍔広帽子。

仕立ての良い白いスーツ。

首には深紅のストール。

陽射しを受けたその姿は、まるで映画の女優のようだった。

その後ろを、黒いスーツ姿の手下たちが静かに続く。

砂浜へ出ると、女は帽子へそっと手を添えた。

「申し遅れました。」

懐から一枚の名刺を取り出し、俺へ差し出す。

受け取る。

そこには、端正な文字が並んでいた。

浜田沿岸守護衆

若頭 濡れ女

思わず名刺と本人を見比べる。

「……若頭。」

濡れ女は上品に微笑んだ。

「礼を失してはいけませんので。」

リアルダが名刺をのぞき込む。

「浜田沿岸守護衆……。」

カンタービレ軍曹が静かに口を開く。

「アラクネの部隊ではありませんの?」

濡れ女は首を横に振った。

「ふふ。」

「そんな大きな組織ではございません。」

「私どもは、この浜田の海を守る土地神様にお仕えしております。」

その言葉に、ハマダ軍曹が一歩前へ出る。

「……今年も、お会いしましたね。」

濡れ女は深く一礼した。

「ええ。」

「今年も海を守らせていただきます。」

ハマダ軍曹もうなずく。

「私も、この浜を守ります。」

二人はそれ以上、何も言わなかった。

長年向き合ってきた者同士だからこその静けさだった。

俺はその空気を見つめる。

敵意はある。

だが、憎しみは感じられない。

その時だった。

リアルダが端末へ目を落とす。

「レッド様。」

「精神波を検知しました。」

「子どもたちへ干渉しています。」

「内容は?」

「……かき氷です。」

「かき氷?」

リアルダが小さくうなずく。

「通常より、かき氷を食べたくなる衝動です。」

「食べ過ぎると、頭部へ一時的な痛みが発生します。」

俺は思わず濡れ女を見た。

「……頭がキーンとなるのは、お前たちの仕業か。」

濡れ女は少しだけ目を伏せ、上品に微笑んだ。

「はい。」

「毎年、少しだけ。」

俺は苦笑する。

「ほどほどにしてくれ。」

濡れ女は帽子へそっと手を添え、丁寧に一礼した。

「善処いたします。」

リアルダは端末へ視線を戻した。

「現時点では軽度の精神汚染です。」

「ですが、長時間続けば、海そのものへの恐怖へ発展する恐れがあります。」

濡れ女は否定しなかった。

「子どもたちには、海を畏れる心も必要です。」

「それもまた、この浜を守ることだと信じています。」

俺は静かにトランペットケースへ手を添えた。

守りたいものは、同じなのかもしれない。

だが。

守り方が違う。

潮騒だけが、静かに浜辺へ寄せては返していた。


第76話『防衛配置』
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2026年07月14日

第74話『名代の教え』

第74話『名代の教え』


潮風が、砂浜をゆっくり吹き抜ける。

「カプちゃーん!」

「待つコン!」

カプリッチョが子どもたちと一緒に駆け回る。

笑い声が、波音に溶けていった。

「隊長様。」

ブリランテがその様子を見つめる。

「名代様、子どもたちに大人気ですね。」

「ああ。」

ハマダ軍曹も目を細めた。

「浜田へ来られると、いつもああして遊んでくださるんです。」

「子どもたちも、名代様が大好きでして。」

その時だった。

一人の男の子が、カプリッチョを見上げた。

「ねぇ、カプちゃん。」

「悪のみなさんって悪い人たちなんだよ!」

「だからウルセンジャーがやっつけるんだ!」

カプリッチョは首をかしげる。

「悪のみなさんコン?」

少し考える。

そして、小さく首を振った。

「みんな、お仕事してるコン。」

子どもたちは顔を見合わせた。

「でも、悪いことするよ?」

「ウルセンジャーと戦うよ?」

カプリッチョは空を見上げる。

青い空を、一羽のカモメが横切っていった。

「そういうお仕事コン。」

静かな声だった。

子どもたちは、まだ不思議そうな顔をしている。

カプリッチョはゆっくりと姿勢を正した。

さっきまでの無邪気な笑顔が消える。

名代の顔だった。

「これは津和野大明神様のお言葉だコン。」

潮風が止んだような気がした。

「子どもたちの笑顔を曇らせる者は戒めよ。」

短い言葉だった。

それだけを残して、カプリッチョは大きく伸びをする。

「よし!」

いつもの笑顔に戻った。

「鬼ごっこの続きコン!」

「やったー!」

子どもたちが一斉に駆け出す。

「カプちゃーん!」

「待つコン!」

笑い声が砂浜いっぱいに広がった。

俺はその光景を眺めながら、小さく息をつく。

善も悪も。

名代様には、関係ないのかもしれない。

守っているのは、子どもたちの笑顔。

ただ、それだけなのだろう。

波は穏やかに浜辺へ寄せていた。

その沖合で、誰にも気づかれないほど小さく、不協和音が揺れた。


第75話『濡れ女』
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2026年07月14日

第73話『ウルセンジャー』

第73話『ウルセンジャー』


海岸プログラムが一段落した。

隊員たちは楽器を手入れし、それぞれ潮風を楽しんでいる。

「塩が残ると、あとが大変ですよ。」

ハマダ軍曹が笑いながら布を動かす。

「海しか知りませんから。」

俺もケースを開き、ニューヨークモデルを丁寧に拭いた。

ラッカー仕上げのベルが、陽射しを受けて黄金色に輝く。

その時だった。

「あっ!」

砂浜から子どもの声が聞こえた。

「ウルセンジャーだ!」

一人が叫ぶと、あっという間だった。

「レッド隊長!」

「ブリランテちゃん!」

「がんばって!」

子どもたちが砂浜を駆けてくる。

ブリランテが嬉しそうに手を振った。

「こんにちは!」

「こんにちはー!」

元気な声が返ってくる。

俺も軽く手を振る。

「元気そうだな。」

「うん!」

「今日も悪のみなさんをやっつけるの?」

思わず苦笑した。

「今日は合同訓練だ。」

「訓練?」

「海で戦う勉強だよ。」

子どもたちは目を輝かせる。

「ウルセンジャーも勉強するんだ!」

「するさ。」

「毎日な。」

ハマダ軍曹が小さく笑った。

「この子たち、西部方面第一遊撃隊の大ファンなんですよ。」

「ここまでですか。」

「ええ。」

「運動会の会戦以来、ずっと。」

砂浜には笑顔が広がっていた。

少し離れた場所で、その様子を見ていたカプリッチョが首をかしげる。

「ウルセンジャー?」

近くにいた男の子が胸を張る。

「知らないの?」

「正義の音で悪を倒すヒーローだよ!」

「みんなを守ってくれるんだ!」

カプリッチョは腕を組んだ。

「ふーん……。」

金色の尻尾が、ゆっくり揺れる。

その目が、いたずらを思いついたように細くなった。

「……おもしろそうコン。」

俺はその横顔を見て、小さく息をついた。

何かを思いついた時の名代様は、大抵ろくなことにならない。

潮騒だけが、静かに浜辺へ寄せては返していた。


第74話『名代の教え』
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2026年07月14日

第72話『海岸プログラム』

第72話『海岸プログラム』


浜田の海は穏やかだった。

波が岩礁を打ち、白い飛沫が静かに消えていく。

俺たちは砂浜へ横一列に並んだ。

「それでは、海岸プログラムを始めます。」

ハマダ軍曹が一歩前へ出る。

「海での戦いは、山とは別物です。」

「まずは一発、ご覧ください。」

トランペットが静かに構えられる。

次の瞬間。

音響弾が岩礁へ当たり、鋭く反射した。

乾いた音が沖へ伸びていく。

「見事だ……。」

思わず声が漏れた。

ハマダ軍曹が穏やかに笑う。

「岩礁は海の盾です。」

「反響を利用しなければ、音は海へ逃げます。」

リアルダとミスミが、それぞれ端末へ目を落とす。

「風速、毎秒六メートル。」

「潮位、平常。」

「反響率、良好です。」

ミスミが顔を上げた。

「隊長。」

「今なら撃てます。」

「分かった。」

ハマダ軍曹が俺を見る。

「レッド隊長。」

「お願いします。」

俺はトランペットを構えた。

息を吸う。

放たれた音響弾は、途中でふわりと流れた。

岩礁をかすめ、そのまま海へ吸い込まれる。

「……難しいな。」

「海ですから。」

ハマダ軍曹は穏やかに答えた。

「普通の感覚で撃てば、風が持っていきます。」

リアルダが端末へ視線を落とした。

「レッド様。」

「補正します。」

「右へ二度。」

「仰角、一度。」

その横で、ミスミもうなずく。

「同じです。」

二人の情報士が顔を見合わせ、小さく笑った。

「もう一度。」

俺はトランペットを構える。

「右へ二度。」

「一度、上。」

リアルダの声だけを聞く。

息を吹き込む。

音響弾が岩礁へ当たる。

乾いた反響音。

沖の標的へ、まっすぐ伸びていった。

命中。

アクセントが拳を握る。

「さすが隊長!」

ハマダ軍曹が静かにうなずいた。

「海では、一人では戦えません。」

「情報士。」

「音響士。」

「音響団。」

「全員で、一発を届ける。」

俺はトランペットを下ろした。

山とは違う。

だが、その一発には同じものがあった。

仲間を信じること。

潮風が静かに吹き抜ける。

波は何事もなかったように、岩礁へ寄せていた。


第73話『ウルセンジャー』
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2026年07月14日

第71話『浜田駐屯地』

第71話『浜田駐屯地』


山道を下るたび、潮の香りが濃くなっていく。

窓を開けると、やわらかな潮風が車内を吹き抜けた。

「海コン!」

後部座席で、カプリッチョが身を乗り出す。

「落ちるなよ。」

「大丈夫コン!」

リアルダが前を向いたまま告げる。

「レッド様。」

「まもなく浜田駐屯地です。」

「ああ。」

山並みが途切れる。

目の前いっぱいに、日本海が広がった。

陽射しを受けた海が、静かにきらめいている。

◇

車が浜田駐屯地へ入る。

すでに隊員たちが整列していた。

「気をつけ!」

号令が響く。

一斉に敬礼が揃う。

俺も敬礼を返した。

先頭の男が一歩前へ出る。

日に焼けた肌。

潮風に鍛えられた体つき。

胸には軍曹の階級章が光っている。

「沿岸方面第一トランペット遊撃隊隊長、ハマダ軍曹です。」

「山陰西部方面第一トランペット遊撃隊隊長、レッドです。」

固い握手を交わす。

「ようこそ浜田へ。」

「今日はよろしくお願いします。」

「こちらこそ。」

ハマダ軍曹が後ろを振り返った。

「紹介します。」

「沿岸方面第一トランペット遊撃隊です。」

一人の女性が一歩前へ出る。

「情報士、ミスミです。」

リアルダも一礼した。

「山陰支部情報士、リアルダです。」

「よろしくお願いします。」

「こちらこそ。」

短く笑みを交わす。

その後ろには音響士。

さらに後方には、地元ボランティアの音響団が整列していた。

ハマダ軍曹がミスミへ目を向ける。

「海では、情報士が戦いの目になります。」

「風向き。」

「潮の流れ。」

「岩礁の反響。」

「戦況は刻一刻と変わります。」

ミスミが静かにうなずく。

「遊撃隊の一発を生かすのが、私の役目です。」

リアルダは小さく息をついた。

「勉強になります。」

ハマダ軍曹が砂浜へ向き直る。

「では、始めましょう。」

「海岸プログラムを開始します。」

潮風が、二つの遊撃隊の間を静かに吹き抜けた。


第72話『海岸プログラム』
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2026年07月14日

第70話『渚への出発』

第70話『渚への出発』


五月下旬。

皐月の陽射しが、益田駐屯地をやわらかく照らしていた。

駐車場には三台の車。

隊員たちは、それぞれ黙々と荷物を積み込んでいる。

「隊長様、おはようございます!」

ブリランテが元気よく敬礼した。

「おはよう。」

敬礼を返す。

アクセントがクーラーボックスを抱え、スタッカートは浮き輪を片手に歩いてきた。

「隊長!」

「積み込み、終わりました!」

「ご苦労。」

その横で、ペザンテが無言のまま荷室を閉める。

ガタン。

左翼では、カンタービレ軍曹が装備を確認していた。

「救急用品。」

「確認済みです。」

「整備用品。」

「異常ありません。」

短いやり取りだけで十分だった。

「レッド様。」

リアルダが手帳を閉じる。

「出発できます。」

「ああ。」

今日は、沿岸方面軍との合同訓練。

海での戦いは、山とは勝手が違う。

その道を知る者から学ぶ。

それが今回の任務だった。

運転席へ向かう。

その時。

草むらが、小さく揺れた。

カサッ。

耳がぴくりと動く。

思わず笑う。

「……名代様。」

金色の耳が、草の間から飛び出した。

続いて、大きな尻尾。

「キャハハハハ!」

カプリッチョが勢いよく姿を現す。

「どこ行くコン!」

「浜田。」

「海コン?」

「ああ。」

少しだけ考える。

そして。

「行くコン。」

「待て。」

返事より早く、後部座席へ飛び乗った。

「決まりコン!」

ブリランテが目を丸くする。

「名代様もですか?」

「そうみたいだ。」

カンタービレ軍曹が小さくため息をつく。

「その楽観的なお考えは感心しませんわ。」

リアルダが静かにドアを閉めた。

「全員、乗車しました。」

エンジンが静かに目を覚ます。

車はゆっくりと駐屯地をあとにした。

窓の外では、新緑が風に揺れている。

山並みの向こうに、日本海が青く光っていた。


第71話『浜田駐屯地』
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2026年07月14日

第69話『夜風』

第69話『夜風』


バー・レギオンを出ると。

夏の夜風が、火照った頬を優しく撫でた。

駅前通りのネオン。

遠くを走る列車。

どこからか聞こえる笑い声。

益田の夜は、静かだった。

「今日は。」

ドルチェが大きく伸びをする。

「楽しかったですね〜。」

「そうね。」

グラヴィオーソも小さく笑う。

「久しぶりに、仕事を忘れられたわ。」

リアルダも静かに頷いた。

「はい。」

「良い夜でした。」

◇

「それじゃ。」

「また明日。」

自然と、それぞれ帰る方向が分かれる。

「レッド様。」

リアルダが軽く敬礼した。

「本日も、お疲れ様でした。」

「お疲れ。」

俺も笑って敬礼を返す。

「気を付けて帰れよ。」

「はい。」

「レッド様も。」

リアルダは柔らかく微笑み、ドルチェたちと駅の方へ歩き始めた。

その背中を見送りながら、俺は小さく息を吐く。

「何とか。」

「なったな。」

「隊長。」

ソステヌートが真顔で言う。

「本日の夜間訓練。」

「教範には掲載されておりませんでした。」

「俺も初めてだった。」

思わず笑う。

「軍団長。」

「よく思いつくよな。」

ペザンテが短く言った。

「疲れました。」

「でも。」

少し考える。

「悪くなかった。」

「そうだな。」

俺も頷く。

怪人との戦いでは学べないことも、あるのかもしれない。

◇

「諸君。」

マエストロが立ち止まる。

三人も足を止めた。

軍団長は夜空を見上げる。

「今日は。」

「ご苦労だった。」

その声は、いつもの軽口ではなかった。

「今日の訓練。」

「意味があったかどうかは。」

「すぐには分からん。」

夜風が吹く。

駅前の街路樹が揺れた。

「だが。」

「いつか。」

「誰かを守る時。」

「今日のことを思い出す日が来る。」

俺は黙って聞いていた。

「その時。」

「今日の訓練は成功だ。」

短い言葉だった。

俺は静かに頷く。

「……はい。」

ソステヌートも。

ペザンテも。

何も言わず敬礼した。

◇

「じゃあな。」

マエストロは手を振る。

「解散。」

「ありがとうございました。」

俺たちも敬礼し、それぞれ帰路につく。

夜道を歩きながら。

今日一日を思い返した。

平和な町。

笑い声。

温かいコーヒー。

優しい人たち。

怪人との戦いだけが。

守るものではない。

そんな当たり前のことを。

今日、少しだけ知った気がした。

◇

バー・レギオン。

店内では。

マスターが最後のグラスを磨いていた。

静かな店。

時計の針だけが時を刻む。

やがて。

店の灯りを一つずつ落としていく。

最後に残ったカウンターの照明も消えた。

誰もいない店内。

マスターは小さく窓の外を見る。

遠ざかっていく若者たち。

笑いながら帰る、その後ろ姿。

静かに微笑んだ。

「若いって。」

小さく呟く。

「いいものですね。」

返事はない。

ただ。

夜風だけが、店先の小さな看板を揺らした。

BAR LEGION

その灯りも、静かに消える。

― 夜間訓練編・完 ―


第70話『渚への出発』
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2026年07月06日

第68話『静かな夜』

第68話『静かな夜』


「それでは。」

マスターは六人分のコーヒーを静かにテーブルへ並べた。

「ごゆっくり。」

柔らかな笑顔。

落ち着いた声。

不思議と、その一言だけで店の空気が和らぐ。

ドルチェは店内を見回した。

「素敵なお店ですね〜。」

「ありがとうございます。」

「昔から、軍人さんがよく来てくださるんですよ。」

「なるほど〜。」

壁へ飾られた軍用地図や古いヘルメットを見て、ドルチェは納得したように頷いた。

◇

「リアルダ。」

俺は少し安心したように笑う。

「今日は休みだったのか?」

「はい。」

リアルダも微笑む。

「ドルチェさんに誘っていただきました。」

「美味しいお料理をご馳走してくださいました。」

「へぇ。」

ドルチェが胸を張る。

「女子会です〜。」

「たまには息抜きも必要ですから〜。」

グラヴィオーソもコーヒーカップを持ちながら頷いた。

「戦場の話ばかりでは疲れるもの。」

「そうだな。」

俺も自然と笑った。

◇

リアルダは机の上の本をもう一度見つめる。

『初めてのファッション』

『女性心理入門』

『会話が続く聞き方』

『初めてのデート』

……

「軍団長殿。」

「何だ。」

「こちらの教材ですが。」

「はい。」

「貸し出しは可能でしょうか。」

「ぶっ!」

思わずコーヒーを吹きそうになる。

マエストロは平然としていた。

「ああ。」

「勉強熱心なのは良いことだ。」

「ありがとうございます。」

リアルダは本を丁寧に抱えた。

「レッド様。」

「今度、一緒に勉強いたしましょう。」

「え?」

「市街地対人能力向上訓練です。」

「必要な知識だと思います。」

「そ……そうだな。」

俺は曖昧に笑うしかなかった。

マエストロは静かにコーヒーを飲む。

口元だけが少し笑っていた。

◇

「そういえば。」

ドルチェが思い出したように笑う。

「レッド隊長。」

「はい?」

「今日は最初より、ずっと自然に話せてましたよ〜。」

「そうかな。」

「はい。」

「最初は完全に固まってました。」

店内に笑いが広がる。

ソステヌートが眼鏡を押し上げる。

「未知の状況でした。」

「教範にも記載がありません。」

グラヴィオーソが吹き出した。

「本当に真面目なのね。」

「恐縮です。」

「褒めてるのよ。」

「ありがとうございます。」

真面目に頭を下げる。

また笑いが起こる。

◇

マエストロは腕を組んだ。

「諸君。」

全員が自然と軍団長を見る。

「今日の夜間訓練。」

「一番成績が良かった者を発表する。」

俺たちは少し緊張した。

「優秀者。」

一拍置く。

「ペザンテ。」

「はい。」

「よく食べた。」

「ありがとうございます。」

「緊張すると腹が減ります。」

「それでいい。」

マエストロは満足そうに頷いた。

「人は。」

「食べられるうちは大丈夫だ。」

ペザンテも静かに頷いた。

「了解。」

◇

時計は午後十時を回っていた。

「そろそろ帰りましょうか。」

ドルチェが立ち上がる。

「はい。」

リアルダも席を立つ。

グラヴィオーソもコートを羽織った。

俺たちも立ち上がる。

マスターは静かに伝票を置いた。

「本日は。」

「ありがとうございました。」

「またのお越しを、お待ちしております。」

「ありがとうございました。」

俺たちは頭を下げる。

店を出る。

夜風が心地良かった。

◇

ベルが鳴る。

カラン――。

扉が閉まる。

店内は静けさを取り戻した。

マスターは空になったカップを一つずつ片付けていく。

笑い声の残る店内。

先ほどまでの賑やかさが、まだそこに残っているようだった。

「……。」

小さく微笑む。

「皆様。」

誰に聞かせるでもなく。

静かに呟いた。

「どうか、ご無事で。」

その声だけが。

誰もいなくなったバー・レギオンへ、静かに溶けていった。


第69話『夜風』
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2026年07月06日

第67話『情報士乱入』

第67話『情報士乱入』


マエストロは一冊の本を閉じた。

「いいか、諸君。」

「女性との会話で一番大切なのは。」

俺たちは自然と姿勢を正す。

「聞くことだ。」

「喋ることじゃない。」

ソステヌートが真剣にメモを取る。

ペザンテも頷く。

「なるほど。」

「演奏と同じだ。」

マエストロは笑った。

「相手をよく聞いて。」

「呼吸を合わせる。」

「独りよがりじゃ続かない。」

俺も静かに頷く。

戦場の話に置き換えると、よく分かる。

「会話も。」

「合奏だ。」

「そういうことだ。」

マエストロは満足そうだった。

◇

その時だった。

カラン――。

入口のベルが静かに鳴る。

「いらっしゃいませ。」

マスターの優しい声が店内へ響く。

俺は何気なく入口を見る。

ドルチェ。

グラヴィオーソ。

そして。

「……。」

リアルダ。

俺も。

リアルダも。

同時に固まった。

「レッド様?」

「リアルダ。」

店内が静まり返る。

◇

「まあ!」

ドルチェが嬉しそうに笑う。

「レッド隊長!」

「偶然ですね〜。」

「こんばんは。」

俺は立ち上がる。

「みんなも来てたんだ。」

「はい。」

リアルダも小さく頭を下げた。

「こんばんは。」

「皆様、お疲れ様です。」

マエストロは涼しい顔でコーヒーを飲んでいる。

まるで想定内だったかのように。

◇

リアルダの視線が。

ゆっくり机へ落ちる。

そこには。

『初めてのファッション』

『女性心理入門』

『大人の身だしなみ』

『会話が続く聞き方』

『初めてのデート』

……。

「……。」

静かだった。

俺の背中を汗が伝う。

ソステヌートは眼鏡を押し上げたまま固まっている。

ペザンテだけがクッキーを食べ続けていた。

リアルダは本を一冊手に取る。

表紙を眺める。

裏表紙も見る。

そして。

顔を上げた。

「軍団長殿。」

「何だ。」

「こちらは……。」

一拍。

「市街地対人訓練用の教材でしょうか。」

俺たちは息を止めた。

マエストロは一切動じない。

「その通り。」

即答だった。

「市街地では。」

「民間人との接触能力も重要だ。」

「特に。」

「女性や高齢者との会話は。」

「教範だけでは身につかん。」

リアルダは静かに頷いた。

「なるほど。」

「実践形式の夜間訓練だったのですね。」

「勉強になります。」

……。

助かった。

心の底からそう思った。

◇

「でも〜。」

ドルチェが本を覗き込む。

「この『初めてのデート』って。」

「教範なんですか〜?」

俺の心臓が止まりそうになる。

マエストロは一冊取り上げた。

「ケーススタディだ。」

「民間人の心理を学ぶ。」

「なるほど〜。」

ドルチェは素直だった。

「さすが軍団長ですね〜。」

「そうでしょうか。」

リアルダも感心したように頷く。

「私も読ませていただいてよろしいでしょうか。」

「もちろんだ。」

マエストロは平然としている。

(強い。)

(この人、本当に強い。)

怪人相手でも見たことのない胆力だった。

◇

その様子を。

カウンターの奥から。

マスターは静かに見つめていた。

誰が敵で。

誰が味方なのか。

そんなことは微塵も感じさせない。

ただ。

穏やかに微笑んでいる。

やがて。

全員へ静かに声を掛けた。

「皆様。」

「お席をご用意いたしますね。」

その一言だけで。

張り詰めていた空気が。

ふっと和らいだ。

俺はコーヒーを一口飲む。

温かかった。

この店は。

不思議と。

肩の力が抜ける店だった。


第68話『静かな夜』
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2026年07月06日

第66話『女子会』

第66話『女子会』


益田駅前。

駅前通りにあるレストラン。

窓際の席では、三人の女性が楽しそうに食事をしていた。

「美味しいですね〜。」

ドルチェが嬉しそうに笑う。

リアルダも微笑みながら頷いた。

「はい。」

「久しぶりに、ゆっくり食事ができます。」

グラヴィオーソは紅茶を口へ運ぶ。

「たまには、こういう時間も悪くないわ。」

戦場では見せない。

穏やかな時間だった。

◇

「そういえば〜。」

ドルチェがフォークを置いた。

「運動会の会戦。」

「終わったあとなんですけど〜。」

リアルダを見る。

「レッド隊長の手。」

「ずっと握ってましたよね〜。」

リアルダの手が止まる。

「……。」

グラヴィオーソも思い出したように笑う。

「そうだったわね。」

「離そうとしなかった。」

ドルチェは悪戯っぽく身を乗り出した。

「もしかして〜。」

「レッド隊長のこと、好きなんですか〜?」

リアルダは少しだけ目を丸くした。

そして。

困ったように笑う。

「違います。」

静かな声だった。

「私は……。」

少しだけ窓の外を見る。

駅前を歩く人たち。

笑い声。

平和な夜。

「北方戦線では。」

その言葉に。

二人の表情も静かになる。

「朝まで一緒に話していた方が。」

「夕方には、帰ってこないことがあります。」

ドルチェも。

グラヴィオーソも。

何も言わない。

「運動会の会戦では。」

「皆様。」

「生きて帰ってきてくださいました。」

リアルダは少し照れながら笑う。

「本当に嬉しくて。」

「……つい。」

「手を握ってしまいました。」

静かな時間が流れる。

やがて。

ドルチェが優しく笑った。

「リアルダさんらしいですね〜。」

リアルダも笑う。

「音術師様は。」

「国家の財産ですから。」

その口癖は。

いつもと同じなのに。

今日は少しだけ優しく聞こえた。

◇

「ところで〜。」

ドルチェが空気を変えるように笑う。

「トランペット隊の男の人たちって。」

「浮いた話、全然ありませんよね〜。」

グラヴィオーソが苦笑した。

「確かに。」

「レッド隊長は隊長業で忙しいし。」

「ソステヌートは教範ばかり読んでる。」

「ペザンテは食べることしか考えてない。」

ドルチェは吹き出した。

「本当ですね〜。」

リアルダも小さく笑う。

「皆様。」

「任務に真面目ですから。」

「恋愛どころではないのでしょう。」

「もったいないわね。」

グラヴィオーソが肩をすくめる。

「悪い人たちじゃないのに。」

「そうですね〜。」

ドルチェが頷いた。

「特にレッド隊長は。」

「優しいですし〜。」

リアルダは静かに微笑む。

「はい。」

「とても。」

その笑顔に。

恋愛感情はなかった。

尊敬。

信頼。

そして。

無事に帰ってきてくれることへの願い。

それだけだった。

◇

食事を終え。

三人は店を出る。

夜風が心地よい。

「このまま帰るには。」

ドルチェが伸びをした。

「少し早いですね〜。」

「どこか寄る?」

グラヴィオーソが尋ねる。

ドルチェは思い出したように笑う。

「そうだ〜。」

「この近くに。」

「ミリタリー好きが集まる、隠れ家みたいなバーがあるって聞いたんです〜。」

「バー?」

リアルダが首を傾げる。

「ええ。」

グラヴィオーソが頷いた。

「私も聞いたことがある。」

「駅裏にある、小さなお店。」

「名前は……。」

少し考える。

そして。

「あった。」

「レギオン。」

リアルダはその名前を静かに復唱した。

「レギオン……。」

「少しだけ。」

ドルチェが笑う。

「寄ってみませんか〜。」

三人は。

駅裏へ続く細い路地を歩き始めた。

まだ知らない。

その小さなバーで。

思いもよらない"夜間訓練"の続きが待っていることを。


第67話『情報士乱入』
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2026年07月06日

第65話『軍団長の教本』

第65話『軍団長の教本』


カフェを出る頃には、すっかり日が暮れていた。

益田駅前には、夜の灯りがともり始めている。

「ありがとうございました。」

ジョコーソの友人たちが笑顔で頭を下げる。

「こちらこそ。」

俺たちも頭を下げた。

ジョコーソは俺たちを見回し、豪快に笑う。

「ワーッハッハ!」

「少年たち。」

「今日は上出来だった。」

「人と話すのも訓練だ。」

「忘れるなよ。」

「はい!」

俺たちはそろって返事をする。

ジョコーソは満足そうに頷いた。

「それじゃあ。」

「私たちはここまでだ。」

友人たちと並んで軽く手を振る。

「またな。」

「ありがとうございました!」

ベルが鳴り、ジョコーソたちの背中が夜の駅前へ溶けていく。

正直に言えば。

怪人との戦いより疲れた。

◇

駅前を歩きながら。

誰も口を開かなかった。

やがて。

マエストロが振り返る。

「レッド君。」

「はい。」

「今日の訓練。」

「どうだった?」

少し考える。

「……難しかったです。」

「何が。」

「正解が分かりませんでした。」

マエストロは笑う。

「それでいい。」

「え?」

「恋愛にも。」

「教範はない。」

ソステヌートが反応する。

「軍団長。」

「教範が存在しないのであれば。」

「学習方法は。」

「経験だ。」

即答だった。

「失敗も含めてな。」

ソステヌートは静かに頷く。

「了解しました。」

◇

一本裏の路地へ入る。

昼間とは違い、人通りも少ない。

古い街灯が石畳を照らしていた。

その先に、小さな看板が見える。

BAR LEGION

「ここだ。」

マエストロが扉を開く。

カラン――。

澄んだベルが店内へ響いた。

「いらっしゃいませ。」

穏やかな女性の声。

カウンターの奥には、一人のマスターが立っていた。

褐色の肌。

長い黒髪。

白いシャツに黒いベスト。

優しい笑顔が印象的な女性だった。

「こんばんは。」

マエストロは軽く手を挙げる。

「いつもの席を。」

「かしこまりました。」

マスターは静かに微笑む。

俺たちは店内を見回した。

壁には古い軍用地図。

航空機の模型。

勲章。

年代物のヘルメット。

ミリタリー好きには、たまらない空間だった。

「軍団長。」

俺は思わず笑う。

「趣味が出てますね。」

「落ち着くだろ?」

「はい。」

不思議と。

緊張がほどけていく店だった。

◇

飲み物が運ばれてくる。

アルコールではなく、全員ホットコーヒーだった。

マエストロは鞄を机へ置く。

「さて。」

「ここからが本題だ。」

そう言って取り出したのは。

一冊。

二冊。

三冊。

次々と机へ積まれていく。

「……。」

俺たちは固まった。

『初めてのファッション』

『大人の身だしなみ』

『会話が続く聞き方』

『デート入門』

『女性心理の基礎』

『第一印象で損をしない方法』

……

ソステヌートが本の背表紙を読み上げる。

「軍団長。」

「これは。」

「教材だ。」

「教材。」

「そう。」

マエストロは真面目だった。

「戦場では。」

「敵を知る。」

「味方を知る。」

「地形を知る。」

「それが基本だ。」

静かな声が続く。

「なら。」

「平和な時代に。」

「人を知らないままじゃ。」

「人生で損をする。」

俺は思わず笑う。

「軍団長。」

「そんな本まで読んでたんですか。」

「当たり前だ。」

胸を張る。

「失敗して。」

「勉強して。」

「また失敗して。」

「今の俺がある。」

「説得力がありますね。」

思わず本音が漏れた。

店内に笑いが広がる。

◇

マエストロは本を一冊手に取った。

「レッド君。」

「はい。」

「君は。」

「まず髪を切れ。」

「え。」

「その上着。」

「十年前から着てないか?」

「……。」

図星だった。

「ソステヌート。」

「はい。」

「教範を読む前に。」

「雑誌を読め。」

「……。」

「ペザンテ。」

「はい。」

「腹が減った。」

「まず食べろ。」

「了解。」

ペザンテは真顔で頷いた。

マエストロは笑う。

「いいか。」

「今日の夜間訓練は。」

「まだ終わってない。」

「これからが。」

「本当の教育だ。」

俺たちは顔を見合わせた。

怪人より手強い。

その意味が。

少しだけ分かった気がした。

店の奥では。

マスターが静かに微笑みながら、コーヒーカップを磨いていた。

誰にも気付かれないように。

本当に静かに。


第66話『女子会』
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2026年07月06日

第64話『恋の第一会戦』

第64話『恋の第一会戦』


「ついて来い。」

マエストロは駅前通りを歩き始めた。

俺たち三人も、その後に続く。

夕暮れの益田駅前。

仕事帰りの会社員。

制服姿の高校生。

買い物帰りの家族連れ。

平和だった。

怪人の気配など、どこにもない。

「軍団長。」

俺は歩きながら尋ねた。

「今回の敵は、どのランクなんですか?」

マエストロは前を向いたまま笑う。

「今までで一番手強い。」

「Aランクですか?」

「もっと厄介だ。」

思わず顔を見合わせる。

ソステヌートも少しだけ表情を引き締めた。

「未知の敵……。」

「そう思っていい。」

その言葉だけが返ってきた。

やがて、一軒のカフェの前で足が止まる。

大きなガラス窓。

暖かな照明。

若い男女が楽しそうに談笑している。

「ここだ。」

マエストロは迷わず扉を開いた。

ベルが静かに鳴る。

「いらっしゃいませ。」

店員の声が響く。

案内された奥の席。

そこには三人の女性が座っていた。

ジョコーソが笑顔で手を振る。

「お待たせしました。」

女性たちも立ち上がる。

「こんばんは。」

「こんばんは。」

俺たちも頭を下げる。

しかし。

頭の中は真っ白だった。

(三人……。)

(女性……。)

(どういう任務だ。)

完全に予想外だった。

◇

席へ着いても。

誰も口を開かなかった。

メニューだけが静かに配られる。

俺は何度もメニューを開いたり閉じたりしていた。

ソステヌートはメニューを熟読している。

ペザンテは期間限定パフェの写真を見つめていた。

マエストロは額へ手を当てる。

「……。」

小さくため息をついた。

「軍団長?」

「想像以上だ。」

「何がです?」

「君たち。」

「怪人の前より緊張してる。」

言われてみれば、その通りだった。

ジョコーソが豪快に笑う。

「ワーッハッハ!」

「どうした少年たち。」

「戦場じゃ怪人と渡り合ってるんだ。」

「女の子くらい見て話せ。」

俺たちは思わず顔を上げた。

ジョコーソは肩をすくめる。

「安心しろ。」

「食われたりはせん。」

女性たちまで吹き出した。

店内に小さな笑い声が広がる。

マエストロも苦笑する。

「さすがジョコーソ。」

「緊張ほぐしは君の勝ちだ。」

少しだけ。

肩の力が抜けた。

◇

注文した飲み物が運ばれてきた。

ジョコーソは三人を見回す。

「今日は。」

「私の友人にお願いして、お時間をいただきました。」

女性たちも笑顔で頷く。

「よろしくお願いします。」

「こちらこそ。」

俺は頭を下げた。

しばらく。

他愛もない話が続く。

休日の過ごし方。

好きな食べ物。

益田のおすすめのお店。

怪人も。

戦争も。

音響弾も。

誰も話題にしない。

それが新鮮だった。

◇

しばらくして。

マエストロが静かにコーヒーカップを置いた。

「諸君。」

その一言で。

俺たちは自然と姿勢を正す。

ジョコーソも、女性たちも黙った。

「どうして今日。」

「君たちを連れてきたと思う?」

ソステヌートが答える。

「市街地における対人接触能力向上訓練です。」

「半分正解。」

「もう半分は。」

俺が尋ねる。

マエストロは静かに笑った。

「指揮官として。」

少しだけ視線を落とす。

「何も知らないまま。」

「死地へ赴かせるのは。」

店内が静かになる。

「忍びない。」

その言葉だけは。

いつもの冗談交じりの軍団長ではなかった。

「戦場では。」

「子どもを守ることもある。」

「老人を守ることもある。」

「恋人同士を守ることもある。」

「夫婦を守ることもある。」

「家族を守ることもある。」

俺たちは黙って聞いていた。

「だが。」

「人を知らなければ。」

「守ることはできない。」

静かな声だった。

「だから。」

「今日は。」

「人と話せ。」

「笑え。」

「緊張しろ。」

「失敗しろ。」

「それも。」

「夜間訓練だ。」

俺はゆっくり頷いた。

「……了解。」

ソステヌートも。

ペザンテも。

短く返事をする。

その返事だけは。

戦場で命令を受ける時と同じだった。

ジョコーソが満足そうに頷く。

「ワーッハッハ!」

「その返事なら上出来だ。」

「今日は肩の力を抜いて、人を知ってこい。」

マエストロはようやく笑った。

「よし。」

「それじゃ。」

「訓練再開だ。」

店内に。

少しずつ笑い声が戻っていく。

俺たちの。

怪人より少しだけ手強い夜は。

まだ始まったばかりだった。


第65話『軍団長の教本』
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2026年07月06日

第63話『夜間訓練命令』

第63話『夜間訓練命令』


5月上旬。

夕暮れ。

山陰西部方面第一軍団。

一日の訓練を終えた隊員たちは、それぞれ楽器を手入れしながら帰り支度を始めていた。

俺もトランペットをケースへ収めた、その時だった。

「レッド君。」

聞き慣れた声が隊舎へ響く。

「軍団長。」

振り返ると、マエストロがいつもの気軽な笑みを浮かべて立っていた。

「ちょっと時間あるか。」

「はい。」

マエストロは胸ポケットから一枚の紙を取り出し、俺へ手渡した。

夜間訓練命令
集合時刻 十八時
集合場所 益田駅前
服装 私服
参加者
レッド・ソステヌート・ペザンテ
指揮官 山陰西部方面第一軍団長 マエストロ

「私服ですか?」

思わず聞き返した。

「ああ。」

「市街地でやる。」

それだけ言うと、マエストロはニヤリと笑う。

「内容は現地で説明する。」

「了解しました。」

俺が答える横で、ソステヌートが命令書を覗き込んだ。

「夜間、市街地、私服。」

「潜入行動を想定した対人訓練と推測します。」

ペザンテも短く頷く。

「妥当。」

俺は命令書を畳みながら笑った。

「何とかなるさ。」

マエストロは満足そうに頷く。

「その調子だ。」

「遅刻するなよ。」

そう言い残し、隊舎を後にした。

俺たちは顔を見合わせる。

市街地訓練。

怪人が相手か。

それとも。

何か別の任務だろうか。

誰にも分からなかった。

◇

午後六時。

益田駅前。

夕焼けに照らされた駅前広場には、仕事帰りの会社員や学生たちが行き交っていた。

制服姿ではない俺たちは、少しだけ落ち着かなかった。

「隊長。」

ソステヌートが小声で言う。

「敵影ありません。」

「そうだな。」

俺も周囲へ目を向ける。

人の流れ。

建物。

路地。

無意識に遮蔽物まで確認してしまう。

「完全に職業病ですね。」

ソステヌートが苦笑した。

「北方戦線じゃ癖になるからな。」

俺も笑う。

「平和な町なのに。」

「いつでも戦える場所を探してる。」

ペザンテが静かに言った。

「生き残る。」

「基本です。」

その時だった。

「あっ!」

元気な子どもの声が響いた。

「ウルセンジャーのお兄ちゃんだ!」

振り向くと、買い物帰りらしい子どもたちが、こちらへ向かって大きく手を振っていた。

「こんばんはー!」

「ウルセンジャー!」

俺は少し照れくさく笑いながら、手を振り返す。

「こんばんは。」

子どもたちは嬉しそうに笑い、そのまま家族と一緒に駅前通りを歩いて行った。

ソステヌートが、その後ろ姿を見送る。

「すっかり有名ですね。」

俺は肩をすくめた。

「正式な部隊名じゃないんだけどな。」

ペザンテが小さく頷く。

「良い名前。」

その一言に、思わず笑みがこぼれた。

「そうかもな。」

その時だった。

「待たせたな。」

マエストロが手を挙げながら歩いてきた。

今日は軍服ではない。

黒いジャケットに細身のパンツ。

夜の街へ遊びに来たような服装だった。

その隣には、一人の女性。

ジョコーソだった。

私服姿でも凛とした雰囲気は変わらない。

「ワーッハッハ!」

「どうした少年たち。」

「そんなに固くなるな。」

豪快に笑いながら手を振る。

「こんばんは。」

俺たちはそろって頭を下げた。

その時。

ソステヌートが俺へ耳打ちした。

「隊長。」

「近接戦闘をご教授くださった方です。」

「……あ。」

思い出した。

運動場。

約二百名の音術師。

マエストロの演説。

そして。

乾いた平手打ち。

『これが近接攻撃の恐ろしさだ。』

思わず吹き出しそうになる。

ジョコーソは照れくさそうに笑った。

「ワーッハッハ!」

「まだ覚えてたか。」

マエストロが肩をすくめる。

「忘れる方が難しいよ。」

ジョコーソは横目でマエストロを見る。

「今日は真面目な訓練だ。」

「余計なところへ目を向けるなよ、マエストロ。」

「善処します。」

「努力じゃ駄目だ。」

即答だった。

俺たちは顔を見合わせる。

軍団長。

やっぱり頭が上がらないらしい。

ジョコーソはすぐに表情を和らげ、俺たちを見る。

「ワーッハッハ!」

「安心しろ、少年。」

「今日は私も手伝う。」

「困ったら遠慮なく頼れ。」

姉御らしい笑顔だった。

「よろしくお願いします。」

俺たちも頭を下げる。

「よろしくお願いします。」

◇

マエストロは腕時計へ目を落とした。

「時間だ。」

俺たち三人の前へ立つ。

戦場で見る、あの軍団長の顔だった。

「諸君。」

自然と背筋が伸びる。

「これより夜間訓練を開始する。」

「了解。」

三人の返事が揃う。

マエストロは静かに笑った。

「安心しろ。」

「今日の敵は――」

少しだけ間を置く。

「怪人より。」

「少しだけ手強い。」

俺たちは表情を引き締めた。

未知の怪人か。

新型か。

誰もがそう思った。

「ついて来い。」

マエストロは駅前通りを歩き始める。

ジョコーソも、その隣を歩く。

「ワーッハッハ!」

「さあ少年たち。」

「夜の勉強を始めようじゃないか。」

俺たちは顔を見合わせ、その背中を追った。

まだ知らない。

この夜向かう戦場では。

音響弾も。

防壁も。

隊形も。

戦術教本も。

ほとんど役に立たないことを。


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2026年07月06日

第62話『アラクネ戦記/千年の盟約』

第62話『アラクネ戦記/千年の盟約』


季節は巡る。

春が来て。

夏が過ぎ。

秋が色づき。

また冬が訪れた。

アラクネは変わらず戦場に立っていた。

兵の先頭ではない。

丘の上。

軍全体が見渡せる場所。

今日も静かに風を読んでいる。

「右翼。」

「半歩だけ前へ。」

「左翼。」

「深追いしてはいけません。」

兵たちは動く。

一人ではない。

一つの生き物のように。

その姿を見ながら、アラクネは小さく息をついた。

「……今日も皆、生きて帰れそうですわ。」

その時だった。

風向きが変わる。

冷たい冬の風ではない。

どこか懐かしい。

東から吹く、柔らかな風だった。

「……。」

丘の向こうに、一人の女が立っていた。

艶やかな黒髪。

朱を織り込んだ衣。

穏やかな笑み。

あの日、港で出会った女性だった。

アラクネは静かに歩み寄る。

「また、お会いできました。」

女は嬉しそうに頷いた。

「ご縁がありましたさかい。」

二人は並んで丘へ立つ。

眼下では兵たちが隊列を組み直している。

女はその光景を見つめた。

「美しいどすな。」

アラクネは少し照れくさそうに笑う。

「ありがとうございます。」

「まだ未熟ですが。」

女は首を横へ振った。

「未熟やからこそ。」

「伸びるのどす。」

沈黙。

風だけが草を揺らす。

やがて女は、静かに口を開いた。

「わらわの国。」

「東の島国では。」

「神も、人も。」

「長い時を共に歩みます。」

アラクネは耳を傾ける。

「神は。」

「命令するためにおるのではありまへん。」

「迷う人を。」

「少しだけ照らすために、おるのどす。」

その言葉は。

まるで月明かりのように静かだった。

女はアラクネを見る。

「そなた。」

「遠い未来を見てみとうありまへんか。」

アラクネは目を丸くした。

「未来……。」

「ええ。」

「千年先の、人の世どす。」

兵たちの笑い声が風に乗る。

誰かが仲間を起こし。

誰かが盾を運び。

誰かが夕焼けを見上げて笑っている。

アラクネは、その光景を静かに見つめた。

「もし。」

「その未来にも。」

「皆を生きて帰す戦があるなら。」

少しだけ笑う。

「見てみたいですわ。」

女も微笑んだ。

「そう言うと思うておりました。」

袖の中から、小さな木札を取り出す。

そこには東の文字が刻まれていた。

意味は分からない。

けれど、不思議と温かかった。

「これを。」

「お預けいたします。」

「ご縁の証どす。」

アラクネは両手で受け取る。

胸の前で、大切そうに抱いた。

風が吹く。

白い鳥が東へ飛んでいく。

女は空を見上げながら、小さく呟いた。

「いつの日か。」

「西の神と。」

「東の神は。」

「同じ空の下で、人を見守ることになるでしょう。」

アラクネは、その意味を理解できなかった。

けれど。

その言葉だけは、不思議と胸へ残った。

◇

――千年以上の時が流れる。

京都。

桜が静かに舞う庭園。

一人の女が縁側で微笑んでいた。

「よう来てくれましたな。」

穏やかな京言葉が響く。

アラクネは片膝をつく。

「初めまして。」

「山陰方面遠征軍司令官。」

「アラクネと申します。」

土蜘蛛は嬉しそうに目を細めた。

「初めまして……では、おまへんな。」

アラクネは顔を上げる。

「え……?」

土蜘蛛は庭へ舞う桜を見つめる。

「ずっと昔。」

「海の向こうで、一度お会いしております。」

その瞬間。

秋の丘。

東から吹いた風。

名も知らぬ女性。

胸に抱いた木札。

すべてが、一つにつながった。

アラクネは思わず息を呑む。

「……あの時の。」

土蜘蛛は、くすりと笑った。

「ご縁とは。」

「不思議なものどすな。」

桜の花びらが、一枚。

二人の間へ舞い降りる。

土蜘蛛は静かに立ち上がった。

「アラクネ。」

「これから先。」

「そなたには、多くの戦を任せることになります。」

一拍置く。

「けれど。」

「忘れんといておくれやす。」

穏やかな笑みは、そのままだった。

「勝つことより。」

「生きて帰ること。」

「それが、わらわの願いどす。」

アラクネは深く頭を垂れる。

「はい、お姉様。」

その声には、迷いがなかった。

庭を渡る風が、桜を揺らす。

その日、京都に新たな軍団長が誕生した。

後に山陰方面遠征軍を率い、「レギオンのアラクネ」と呼ばれることになる、一人の武人である。

そしてその心には、遠い昔、東の海から吹いてきた風が、静かに生き続けていた。

― アラクネ戦記・完 ―


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2026年07月04日

第61話『アラクネ戦記/東より来たりし神』

第61話『アラクネ戦記/東より来たりし神』


秋だった。

草原は黄金色に染まり、乾いた風が丘を渡っていく。

戦は、しばらく途絶えていた。

兵たちは槍を磨き、

盾を修理し、

久しぶりに家族へ手紙を書いている。

静かな午後だった。

アラクネは一人、丘へ立っていた。

遠くの海を眺める。

あの日、白い鳥が飛んでいった方角。

東。

まだ見ぬ国だった。

「アラクネ様。」

カリストスが駆け寄る。

「東から船が入港しました。」

「商船ですか。」

「……いえ。」

珍しく返事が歯切れ悪い。

「どうしました。」

「船員が申します。」

「船には、人が一人しか乗っていなかったと。」

アラクネは少しだけ眉を上げた。

「一人で海を?」

「はい。」

「しかも。」

「船を漕いだ形跡がありません。」

風が止んだ。

◇

港へ着く。

人だかりができていた。

誰も近付こうとしない。

ただ、静かに道を空けている。

その先に。

一人の女が立っていた。

艶やかな黒髪。

幾重にも重なる東方の衣。

優しく細められた瞳。

年齢は分からない。

若くも見える。

年老いているようにも見える。

ただ、不思議と。

そこへ立っているだけで、

周囲の空気が穏やかになっていた。

女は海を眺めながら、小さく笑う。

「思うたより。」

「遠い旅どした。」

聞き慣れない言葉。

けれど、不思議と耳に心地よかった。

アラクネは歩み寄る。

「あなたは。」

女は静かに振り向く。

二人の視線が重なった。

その瞬間だった。

胸の奥が、かすかに震える。

恐怖ではない。

威圧でもない。

深い森へ足を踏み入れた時のような。

静かな畏れだった。

女はゆっくり頭を下げる。

「初めまして。」

「西の戦術家。」

その声は穏やかだった。

「わらわは。」

「東の島国より参りました。」

アラクネも一礼する。

「アラクネと申します。」

「よう知っております。」

女は微笑んだ。

「風が。」

「そなたのお話を運んできてくれました。」

風。

その言葉だけで。

なぜか嘘ではないと思えた。

港には沈黙が流れる。

波だけが岸壁を叩いていた。

◇

二人は港を離れ、

小高い丘を歩いた。

兵たちは遠くから見守るだけだった。

女は草花を眺めながら言う。

「美しい土地どすな。」

「ええ。」

「戦ばかりですが。」

女は首を横へ振る。

「戦があるから。」

「美しいのではありまへん。」

一輪の花へ目を向ける。

「それでも咲く花が、美しいのどす。」

アラクネは、その花を見る。

誰も見ていない小さな花だった。

「そなた。」

女は静かに尋ねた。

「何のために戦うておるのどす。」

アラクネは少し考えた。

空を見上げる。

兵たちを見る。

そして答えた。

「皆を。」

「生きて帰すためです。」

女は目を細める。

「そうどすか。」

その一言だけだった。

評価もしない。

否定もしない。

ただ。

少しだけ嬉しそうに笑った。

風が吹く。

草が揺れる。

秋空には、一羽の白い鳥が舞っていた。

女は、その鳥を見上げながら呟く。

「神とは。」

「人より強い者ではありまへん。」

少しだけ間を置く。

「人の願いを。」

「忘れぬ者どす。」

アラクネは静かに聞いていた。

その言葉は、

まるで秋風のように胸へ残った。

◇

夕暮れ。

別れの時が来る。

女は船へ向かう。

アラクネは港まで見送った。

「また、お会いできますか。」

その問いに。

女は振り返る。

穏やかに笑う。

「ご縁があれば。」

「きっと。」

船は静かに沖へ出る。

帆を張ることもなく。

櫂を漕ぐこともなく。

ただ風に乗るように、

東の海へ消えていった。

アラクネは、その姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

名前も聞かなかった。

何者なのかも知らない。

それでも。

胸のどこかで思っていた。

――あの方は。

きっと、神だったのだろう。

秋風だけが、

静かに海を渡っていった。


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2026年07月04日

第60話『アラクネ戦記/蜘蛛の陣』

第60話『アラクネ戦記/蜘蛛の陣』


春風が丘を渡っていた。

若草が揺れ、空には白い雲が流れる。

戦の朝とは思えないほど、穏やかな景色だった。

アラクネは丘の上で、一枚の巻物を広げていた。

東の国から来た神が残していった巻物。

幾重にも重なる線。

円。

三角。

そして、蜘蛛の巣のように張り巡らされた陣形。

「……不思議ですわ。」

隣ではカリストスが首を傾げている。

「理解できますか。」

アラクネは静かに頷いた。

「すべてではありません。」

「ですが。」

「兵が互いを支え合う形は、よく分かります。」

風が巻物を揺らす。

その時、見張りの兵が駆け上がってきた。

「敵軍です!」

「北の丘より接近!」

アラクネは巻物を丁寧に畳み、胸へしまった。

「全軍、配置につきなさい。」

◇

敵軍は倍近い兵力だった。

槍が並び、

盾が光る。

兵たちの表情にも緊張が走る。

「アラクネ様。」

メリッサが小声で尋ねる。

「正面から受けますか。」

アラクネは首を横へ振った。

「今日は違います。」

丘へ視線を向ける。

「皆、半歩だけ離れなさい。」

「え……?」

兵たちは戸惑った。

いつもなら盾を密着させる。

だが今日は、小さな隙間が生まれる。

「その隙間を。」

「仲間のための道にします。」

誰も意味を理解できなかった。

それでも兵たちは従った。

◇

敵軍が突撃する。

大地が震える。

「今!」

盾がぶつかる。

槍が交わる。

その瞬間。

「右へ。」

アラクネの声が響いた。

兵たちは半歩だけ横へ動く。

空いた隙間へ、

後列の兵が滑るように入り込む。

疲れた者と、

まだ力の残る者が自然に入れ替わる。

まるで一枚の布を織るように。

「これは……。」

テオドロスが息を呑む。

「戦列が、崩れない。」

誰かが倒れても、

誰かが支える。

一人で耐える戦ではなく、

皆で支える戦。

それは今まで誰も見たことのない陣だった。

◇

しかし。

敵将もまた歴戦の猛者だった。

「側面を突け!」

号令とともに騎兵が回り込む。

左翼が揺れる。

「アラクネ様!」

カリストスが叫ぶ。

「左が!」

アラクネは目を閉じた。

ほんの一瞬だけ。

そして胸の中で、あの言葉を思い出す。

『戦は、人を生かすための術でもあります。』

静かに目を開く。

「全軍。」

「円を描きなさい。」

その一言だった。

兵たちは戸惑いながらも動く。

前だけを向いていた盾が、

少しずつ弧を描き始める。

蜘蛛の巣のように。

糸が重なり合うように。

敵の突撃は勢いを失い、

やがて行き場をなくした。

カリストスは思わず笑みをこぼす。

「包まれています。」

「敵が、自分から。」

アラクネは静かに頷いた。

「蜘蛛は。」

「追いかけません。」

「待つのです。」

◇

やがて敵軍は退却を始めた。

追撃命令は出ない。

兵たちは互いの肩を支えながら丘へ戻ってくる。

誰も歓声を上げない。

ただ、生きて帰れたことを確かめるように、

静かに笑い合っていた。

夕陽が草原を黄金色に染める。

アラクネは巻物を取り出し、

そっと胸へ抱いた。

「ありがとうございました。」

誰へ向けた言葉なのか。

東の神へか。

風へか。

それとも、

まだ見ぬ東の国そのものへか。

答える者はいない。

ただ一羽の白い鳥だけが、

東の空へ向かって静かに羽ばたいていった。


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2026年07月04日

第59話『アラクネ戦記/東の国から来た神』

第59話『アラクネ戦記/東の国から来た神』


夕陽が海を朱く染めていた。

戦の終わった丘。

兵たちは槍を立て、静かに負傷者を運んでいる。

勝利を叫ぶ者はいない。

敗北を罵る者もいない。

聞こえるのは、波の音だけだった。

アラクネは岩へ腰を下ろし、遠くの水平線を眺めていた。

「アラクネ様。」

カリストスが水袋を差し出す。

「ありがとうございます。」

一口だけ飲む。

冷たい水が、乾いた喉へ染み渡った。

その時だった。

海風とは違う風が吹いた。

誰もが空を見上げる。

一羽の白い鳥が、西から東へ渡っていく。

ゆっくりと。

どこまでも高く。

アラクネは目で追った。

「渡り鳥……。」

老兵テオドロスが呟く。

「東へ向かう季節ですな。」

東。

まだ誰も知らない国。

海の向こうにあるという、小さな島々。

アラクネは静かに尋ねた。

「どんな国なのでしょう。」

テオドロスは笑う。

「さぁ。」

「神々が住むとも。」

「黄金の国とも。」

「霧しかないとも聞きます。」

皆、笑った。

誰も見たことがない。

だから、好き勝手なことを言える。

その時。

黒い影が一つ、丘へ降り立った。

風が止む。

兵たちが一斉に槍を構えた。

アラクネだけは立ち上がらない。

静かにその人物を見つめていた。

黒髪。

東方の衣。

ゆったりとした袖。

どこか穏やかな笑み。

年齢すら分からない。

男とも女ともつかない、不思議な雰囲気だった。

「武器を下ろしなさい。」

アラクネが言う。

兵たちは戸惑いながらも従った。

その人物は、小さく頭を下げる。

「初めまして。」

「遠き西の戦術家。」

その声は穏やかだった。

「私は東の国より参りました。」

アラクネは首を傾げる。

「東……。」

「海の向こうです。」

ただ、それだけだった。

名も告げない。

国も語らない。

しかし、不思議と嘘には聞こえなかった。

沈黙。

風鈴のような静かな空気が流れる。

「何の御用ですか。」

アラクネが尋ねる。

その人物は海を眺めた。

「あなたの戦を見ておりました。」

アラクネは少しだけ照れる。

「お見苦しいところを。」

「いいえ。」

首を横に振る。

「美しい戦でした。」

一瞬だけ。

アラクネの瞳が揺れた。

初めてだった。

戦を見て、美しいと言った者は。

「命を奪うためではなく。」

「命を残すために隊列を動かしていた。」

「だから、美しかった。」

誰も言葉を返せなかった。

夕陽だけが海へ沈んでいく。

やがて、その人物は袖から一枚の巻物を取り出した。

「東の国では。」

「蜘蛛は、糸を張るだけではありません。」

巻物が開かれる。

そこには、幾何学模様のような陣形が描かれていた。

円。

三角。

幾重にも重なる線。

アラクネは思わず身を乗り出す。

「これは……。」

「戦は。」

「敵を倒すことではありません。」

「人を生かすための術でもあります。」

その一言が、胸へ落ちた。

人を、生かす。

アラクネは静かに巻物を見つめる。

そこには、まだ誰も見たことのない戦い方が描かれていた。

隊列が互いを支え。

音のように重なり。

一つの生き物として動く陣。

アラクネは小さく呟く。

「……美しい。」

その人物は、穏やかに微笑んだ。

「いつの日か。」

「東の国へお越しなさい。」

「あなたなら、きっと気に入ります。」

風が吹く。

白い鳥が、再び空を横切った。

気が付くと、その人物の姿はもうなかった。

残されていたのは、一枚の巻物だけ。

アラクネは大切そうに胸へ抱く。

その日、彼女は初めて知った。

戦には、勝敗とは別の美しさがあることを。

そして、その小さな出会いが――

千年以上の時を経て、京都で土蜘蛛と出会う運命へと、静かにつながっていくことを。


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2026年07月04日

第58話『アラクネ戦記/若き軍団長』

第58話『アラクネ戦記/若き軍団長』


白い石柱が、朝日に照らされていた。

海から吹く風が、乾いた草を揺らす。

遠くで、青い波が静かに光っている。

その丘の上に、一人の娘が立っていた。

長い栗色の髪。
黒い外套。
腰には短剣。
背には、蜘蛛の脚を思わせる黒い装具。

まだ若い。

けれど、その瞳は戦場を知っていた。

「アラクネ様。」

副官のカリストスが片膝をつく。

「右翼、配置完了しました。」

「中央は?」

「レオニダス隊が盾列を整えております。」

「左翼は。」

「メリッサ隊が弓兵を下げました。」

アラクネは静かに頷いた。

「よろしいですわ。」

眼下では、兵たちが盾を並べている。

槍が朝日を受けて、銀色に光った。

誰も声を荒げない。

誰も勝手に動かない。

ただ、風の音だけが戦列の間を抜けていく。

アラクネは、その静けさが好きだった。

戦いの前の静寂。

兵たちが互いの息を聞き、隣の盾の重さを感じる時間。

そこには、まだ命があった。

「テオドロス。」

「はい。」

老兵が前へ出る。

「新兵を前へ出し過ぎています。」

「三歩下げなさい。」

「承知しました。」

「彼らはまだ、最初の衝突に耐えられません。」

「はい。」

「恐怖は恥ではありません。」

アラクネは戦列を見つめたまま言う。

「恐怖を知らぬ者から、先に死にます。」

テオドロスは小さく頭を下げた。

「仰せのままに。」

風が吹いた。

赤い花が、足元で揺れる。

アラクネは一瞬だけ、その花を見た。

踏まれれば、すぐに散る。

それでも朝日に向かって咲いている。

「アラクネ様。」

カリストスが声を落とす。

「敵軍、動きました。」

丘の向こう。

砂煙が上がる。

槍。

盾。

馬。

神々の名を掲げた軍勢が、ゆっくりとこちらへ進んでいた。

アラクネは深く息を吸う。

「全軍。」

静かな声だった。

しかし、その声は不思議と戦列の端まで届いた。

「盾を合わせなさい。」

兵たちが一斉に盾を構える。

ゴン。

ゴン。

ゴン。

乾いた音が、丘に響いた。

「槍を下げ過ぎないこと。」

「前だけを見るのではありません。」

「隣を信じなさい。」

若い兵の喉が鳴る。

誰かが小さく祈った。

アラクネはそれを止めなかった。

祈りもまた、兵を立たせるものだった。

やがて敵軍の号令が響く。

大地が揺れる。

カリストスが息を呑んだ。

「来ます。」

アラクネは右手を上げた。

まだ。

まだ。

まだ。

風が止まる。

一枚の葉が、ゆっくりと地面へ落ちた。

「今ですわ。」

右手が下りる。

「前進。」

盾列が動いた。

一歩。

また一歩。

白い丘の上で、二つの軍勢が静かに近づいていく。

叫び声は、まだない。

ただ、足音だけが重なっていた。

アラクネは目を細める。

恐怖はある。

迷いもある。

それでも、軍は動く。

人は弱い。

だからこそ、並ぶ。

だからこそ、支え合う。

だからこそ、戦列になる。

アラクネはその美しさを知っていた。

やがて、最初の盾と盾がぶつかった。

鈍い音が、朝の丘に響く。

戦が始まった。

だがアラクネは叫ばない。

ただ静かに、戦場全体を見ていた。

右翼。

中央。

左翼。

風向き。

砂煙。

兵の呼吸。

崩れそうな場所。

まだ耐えられる場所。

そして、まだ動かしてはいけない予備隊。

「カリストス。」

「はい。」

「右翼を二歩下げなさい。」

「押されておりますが。」

「下げるのです。」

「敵は前へ出ます。」

「そこを、中央で受け止めます。」

カリストスは一瞬だけ目を見開く。

すぐに頷いた。

「承知しました。」

伝令が走る。

右翼が下がる。

敵が追う。

その瞬間、中央の盾列がゆっくりと膨らんだ。

まるで蜘蛛の糸が獲物を包むように。

「今。」

アラクネの声が落ちる。

「左翼、回り込みなさい。」

メリッサ隊が動いた。

軽い足音。

短い号令。

槍の森が、敵の側面へ向きを変える。

砂煙の向こうで、敵軍の流れが乱れた。

カリストスが小さく息を吐く。

「見事です。」

アラクネは首を横に振る。

「まだですわ。」

「勝ったと思った時が、一番危ない。」

その時だった。

中央の一角が揺れた。

若い兵が膝をつく。

隣の盾が空く。

そこへ敵の槍が入ろうとする。

アラクネの眉が動いた。

「テオドロス!」

「はい!」

「穴を塞ぎなさい!」

「メリッサ、射線を左へ!」

「カリストス、予備隊をまだ動かさない!」

「ですが!」

「まだです!」

一瞬、声が強くなる。

そして。

「ム……。」

カリストスが身構えた。

アラクネは唇を噛む。

「ムキーーーッ!!」

丘の上に声が響いた。

「だから新兵を前へ出し過ぎるなと言ったでしょう!」

「三歩下げなさいと言いましたわよね!」

テオドロスが遠くで肩をすくめた。

「始まったな。」

近くの兵が小さく笑った。

ほんの少しだけ、戦列の空気が緩む。

恐怖が、ほどける。

アラクネは気付いていない。

ただ真っ赤になって指揮を続けている。

「笑っている場合ではありませんわ!」

「盾を上げなさい!」

「生きて帰りたいなら、隣を見なさい!」

「一人で英雄になろうとしない!」

その声に、兵たちが再び盾を合わせた。

空いた穴が塞がる。

敵の槍が止まる。

戦列は崩れなかった。

やがて太陽が高く昇る頃。

敵軍はゆっくりと退いた。

追撃の号令は出なかった。

アラクネは丘の上で、静かに手を下ろす。

「追わないのですか。」

カリストスが尋ねる。

アラクネは遠くの砂煙を見つめた。

「今日は、これで十分ですわ。」

「負傷者を運びなさい。」

「敵味方の別は問いません。」

カリストスは黙って頭を下げた。

戦場に、風が戻ってきた。

赤い花は、まだ丘に咲いていた。

アラクネはその花を見つめる。

少しだけ、目を細めた。

「……よく耐えましたわね。」

誰に言ったのか。

兵にか。

花にか。

それとも、自分にか。

誰にも分からなかった。

ただ、海からの風だけが、白い丘を静かに通り抜けていった。


第59話『アラクネ戦記/東の国から来た神』
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2026年07月04日

第57話『アラクネ戦記/東の国より』

第57話『アラクネ戦記/東の国より』


京都。
夕暮れ。

古都を染める茜色が、ゆっくりと御殿の障子を照らしていた。

静かな庭園。

鹿威しが、コトン、と鳴る。

縁側では、一人の女が庭を眺めている。

艶やかな黒髪。
朱色の着物。

その瞳には、千年という時を見届けてきた静けさが宿っていた。

「お姉様。」

襖が静かに開く。

アラクネだった。

深く頭を下げる。

「山陰方面遠征軍、出撃準備が整いました。」

女――土蜘蛛は、小さく微笑んだ。

「そうどすか。」

その声は穏やかだった。

「今回は、ギリシャより招いた戦術家もおる。」

「きっと良き戦になるでしょう。」

アラクネは少しだけ照れくさそうに頬をかいた。

「もったいないお言葉ですわ。」

土蜘蛛は庭へ視線を戻す。

風が竹林を揺らした。

「アラクネ。」

「はい。」

「そなた、不思議には思わなんだかえ。」

「何故、わらわが。」

「異国の神を軍団長へ迎えたのか。」

アラクネは少しだけ考えた。

「……考えたことはございます。」

「ですが、お姉様がお決めになったことですもの。」

「私は従うだけですわ。」

土蜘蛛は、くすりと笑う。

「真面目な子どす。」

しばらく沈黙が流れた。

風鈴が、小さく鳴る。

やがて土蜘蛛は、懐かしそうに目を細めた。

「遠い昔。」

「西の海の、そのまた向こう。」

「神々が人へ戦を委ねていた時代がありました。」

アラクネは静かに耳を傾ける。

「その戦場で。」

「誰よりも美しく軍を動かした娘がおりました。」

土蜘蛛は扇子を閉じた。

「その名は――」

「アラクネ。」

一瞬。

部屋の空気が止まる。

「……え?」

土蜘蛛は穏やかに笑う。

「これは。」

「まだ、そなたが今よりずっと若かった頃のお話どす。」

夕風が庭を吹き抜ける。

竹が静かに揺れた。

遠い西の空へ。

物語は、ゆっくりと遡っていく。


第58話『アラクネ戦記/若き軍団長』
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2026年07月04日

第56話『笑顔を守る』

第56話『笑顔を守る』


運動場いっぱいに笑い声が響く。

吹き飛ばされたスタッカートが芝生へ寝転び、大きく息を吐いた。

「いてて……。」

エネルジコも起き上がる。

「すげぇ……。」

ドルチェは制服についた土を払いながら苦笑した。

「本当に遊びだったのですね。」

リアルダは崩壊した防御弾幕の残響を測定している。

「残留振動……ゼロ。」

信じられなかった。

防御弾幕が消えた。

――違う。

消えたのではない。

消された。

音そのものを、押し流されたのだ。

リアルダは端末を見つめたまま、小さく呟く。

「……計算外。」

その言葉を、俺は聞いていた。

珍しい。

彼女がそう口にするのは。

隊長になってから初めて見る表情だった。

「リアルダ。」

「はい。」

「ありがとう。」

リアルダが端末から顔を上げる。

「十分だ。」

その一言だけで、彼女の肩から力が抜けた。

「……はい。」

それだけで良かった。

◇

「もっと遊ぶコン!」

カプリッチョが子どもたちを追い掛けている。

さっきまで音術師たちを吹き飛ばしていたとは、とても思えない。

転んだ子どもを抱き起こし、

頭をぽんぽんと優しく叩く。

「泣かないコン!」

「もう一回だコン!」

運動場に笑い声が戻る。

俺は静かにその光景を見つめていた。

「隊長。」

カンタービレ軍曹が隣へ立つ。

「どうされますか。」

俺は少しだけ考えた。

本部教範では。

神獣は討伐対象。

遭遇した場合は戦力を分析し、可能であれば討伐する。

それが音術師の任務だ。

だが。

目の前にいるのは。

子どもたちと笑い合う、一柱の神獣だった。

町を荒らしているわけでもない。

人を傷付けているわけでもない。

ただ。

子どもたちの笑顔を守るように、一緒になって遊んでいる。

俺は帽子を深くかぶり直した。

「……今日は帰ろう。」

カンタービレ軍曹が少し驚く。

「よろしいので?」

「ああ。」

短く答える。

「戦う理由がない。」

軍曹は静かに頷いた。

「承知しました。」

誰一人として異論はなかった。

◇

帰り支度を始める。

その時だった。

「お兄ちゃん!」

カプリッチョが元気よく駆け寄ってきた。

「もう帰るコン?」

「ああ。」

「そっかー。」

少しだけ残念そうな顔になる。

俺は笑った。

「また遊びに来るよ。」

その瞬間。

ぱっと表情が明るくなる。

「約束コン!」

小さな手が差し出された。

俺も手を伸ばす。

指切りを交わす。

「約束。」

「約束コン!」

その笑顔は。

どこにでもいる子どもと、何も変わらなかった。

◇

車へ戻る。

スタッカートが苦笑する。

「隊長。」

「名代様、強すぎっス。」

「そうだな。」

少し笑う。

「何とかなるさ。」

リアルダが窓の外へ目を向ける。

運動場では。

カプリッチョがまた子どもたちと走り回っていた。

その姿を見ながら、ふと思う。

この子は守っている。

神社ではない。

町でもない。

子どもたちの笑顔を。

それが。

津和野大明神様の名代として授かった役目なのかもしれない。

車がゆっくりと走り出す。

バックミラーの中で。

紫色の尻尾が小さくなっていく。

その姿が見えなくなるまで。

俺は静かに手を振り続けていた。

― 津和野編・完 ―


第57話『アラクネ戦記/東の国より』
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2026年07月04日

第55話『力の差』

第55話『力の差』


子どもたちが一斉に駆け寄ってきた。

「コンちゃん!」

「お兄ちゃんたち来たよ!」

カプリッチョが振り返る。

「おぉ!」

紫色の尻尾が嬉しそうに大きく揺れた。

「お兄ちゃん!」

「また来たコン!」

俺は帽子を取り、静かに一礼する。

「この前は助かった。」

「ありがとう。」

カプリッチョは首を傾げた。

「お礼?」

「そんなのいいコン!」

「遊ぶコン!」

その一言だけで、子どもたちから歓声が上がる。

「遊ぼう!」

「鬼ごっこ!」

「ボール!」

完全に遊びモードだった。

俺は思わず苦笑する。

「俺たちも?」

「もちろんコン!」

満面の笑みで胸を張る。

「お兄ちゃんたちも子分コン!」

スタッカートが吹き出した。

「子分認定されたっス。」

ドルチェも微笑む。

「光栄ですわ。」

しかし。

リアルダだけは静かに周囲を見渡していた。

子どもたち。

遊具。

運動場。

風向き。

地形。

一つ一つを確認していく。

「レッド様。」

「はい。」

「念のため。」

俺は短く頷いた。

「頼む。」

その一言だけで十分だった。

リアルダは振り返る。

「カンタービレ軍曹。」

「お願いします。」

「了解しました。」

軍曹が静かに一歩前へ出る。

「全員。」

「防御陣形。」

一瞬だった。

スタッカート。

ペザンテ。

エネルジコ。

ドルチェ。

四人が息を合わせて配置につく。

誰一人として慌てない。

士官学校で叩き込まれた基本。

そして北方戦線で磨かれた連携だった。

リアルダが淡々と数値を読み上げる。

「気温、二十八・四度。」

「風速、一・二メートル。」

「仰角、四度。」

「斜角、一一度。」

「有効調律、四四〇ヘルツ。」

音が重なる。

低音。

さらに低音。

防御弾幕に最適化されたハーモニーコードが、静かに運動場を包み始めた。

空気が震える。

しかし。

響かない。

返ってこない。

広い運動場は音をそのまま空へ吸い込んでいく。

リアルダが小さく息を呑む。

「反響率……低下。」

「防御弾幕出力。」

「五十一パーセント。」

薄い。

いつもの半分ほどしか厚みがない。

ペザンテが短く呟く。

「育ちません。」

音が。

育たない。

スタッカートも珍しく笑わなかった。

「これじゃ……。」

その時だった。

カプリッチョが不思議そうな顔で近づいてくる。

「何してるコン?」

誰も答えない。

リアルダだけが静かに答えた。

「安全確認です。」

「ふーん。」

カプリッチョは一歩前へ出る。

そして、にこっと笑った。

「じゃあ。」

「遊ぶコン!」

右手を。

ぽんっと。

防御弾幕へ軽く当てた。

次の瞬間――

ドォォォンッ!!

分厚いはずの音の壁が、一瞬で弾け飛んだ。

「っ!」

スタッカートが吹き飛ぶ。

「うわぁ!」

エネルジコが地面を転がる。

「ぐっ!」

ドルチェが尻もちをつく。

ペザンテだけは踏みとどまった。

それでも数歩、後退する。

リアルダは端末を見つめたまま目を見開いた。

「防御弾幕……。」

「崩壊。」

数値は間違っていなかった。

調律も。

配置も。

演奏も。

すべて教範どおりだった。

それでも。

神獣は、まるで風船に触れるような気軽さで、防御弾幕そのものを押し流してしまった。

カプリッチョはきょとんとしていた。

「え?」

「遊んだだけだコン?」

子どもたちは大笑いする。

「コンちゃん強い!」

「もう一回!」

「もっと遊ぶコン!」

何事もなかったように笑い声が広がる。

俺は帽子をゆっくりとかぶり直した。

「何とかなるさ。」

そう呟きながら。

目の前ではしゃぐ神獣を見つめる。

――この子は。

本当に遊んでいるだけなんだ。

そして、その事実こそが。

山陰支部の誰よりも俺たちに、この神獣との力の差を教えていた。


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2026年07月04日

第54話『討伐対象』

第54話『討伐対象』


社をあとにした俺たちは、ゆっくりと石段を下りた。

境内を吹き抜ける風は涼しく、蝉の声さえ少し遠く聞こえる。

誰も急がない。

この町には、人の歩く速さまで穏やかになる不思議な空気があった。

駐車場へ戻る途中。

スタッカートが背伸びをした。

「いやぁ、いい神社だったっス。」

「心が洗われますわ。」

ドルチェも笑顔を見せる。

エネルジコは両手を頭の後ろで組みながら空を見上げた。

「こんな平和な場所、守りたくなりますね。」

「そのために我々がおります。」

カンタービレ軍曹が静かに答える。

俺は思わず微笑んだ。

この人は、いつも教範通りだ。

だけど、その教範の先に部下の命を見ていることを俺は知っている。

◇

車が町外れへ向かう。

細い道の脇を小川が流れ、その向こうでは田んぼが風に揺れていた。

夏の匂いがする。

窓を少し開けると、土と草の香りが車内へ入り込んできた。

「リアルダ。」

「はい。」

「名代様は、まだ遊んでるのか?」

「目撃情報では、そのまま運動場に。」

「子どもたちと鬼ごっこをしているそうです。」

スタッカートが吹き出した。

「自由過ぎるっス。」

「神獣とは思えませんね。」

ペザンテが短く呟く。

「神獣だからでしょう。」

ドルチェが微笑む。

誰も否定しなかった。

◇

運動場が見えてきた。

車を降りる。

遠くから子どもたちの歓声が聞こえてくる。

「待てぇー!」

「捕まらないコン!」

紫色の尻尾が風を切った。

子どもたちが一斉に追い掛ける。

カプリッチョは振り返り、大笑いしていた。

「キャハハハ!」

「もっと遊ぶコン!」

レッドは思わず足を止めた。

「……元気だな。」

「はい。」

リアルダも少しだけ笑う。

しかし、その表情はすぐに引き締まった。

腕時計型端末を操作する。

「周辺環境、測定します。」

静かな声だった。

「気温、二十八・四度。」

「湿度、六十五パーセント。」

「風速、一・二メートル。」

数字を確認する。

ペザンテも運動場を見渡した。

校舎。

鉄棒。

バックネット。

その先は開けた田畑。

「……。」

「どうした?」

リアルダは視線を上げない。

「反響率。」

一拍置く。

「極めて低いです。」

空気が変わった。

スタッカートが周囲を見回す。

「壁がないっスね……。」

「ありません。」

リアルダは静かに続ける。

「建造物まで百二十七メートル。」

「地表は土。」

「吸音率、高。」

「樹木による反射効果、僅少。」

ペザンテが短く言った。

「音が返ってこない。」

その一言だけで十分だった。

ホールなら。

壁が音を育てる。

天井が響きを返す。

床が低音を支える。

しかし、この運動場には何もない。

吹いた音は、そのまま空へ吸い込まれていく。

リアルダは深呼吸した。

「音響弾出力予測。」

「通常比、四十九パーセント。」

スタッカートが苦笑する。

「半分っスか。」

エネルジコは拳を握る。

「それでも俺たちは!」

カンタービレ軍曹が静かに手を上げた。

「感情では勝てません。」

全員が口を閉じる。

軍曹は運動場を見つめたまま、小さく続けた。

「中央防衛隊教範では、神獣は討伐対象です。」

静かな声だった。

「ですが。」

「任務は状況によって変わります。」

レッドは軍曹を見る。

軍曹も小さく頷いた。

「リアルダ。」

「はい。」

「防御弾幕は。」

「最大でも五割程度。」

「維持時間も短くなります。」

沈黙が流れた。

風だけが運動場を横切る。

レッドは青空を見上げる。

「生音か。」

リアルダはゆっくり頷いた。

「はい。」

「今日は、生音だけで戦うことになります。」

その言葉は、どんな脅しより重かった。

音術師にとって、生音だけの戦いは、自分自身の技術だけが頼りになる戦場だった。

レッドは帽子を深くかぶり直す。

「……でも。」

静かに笑う。

「今日は礼を言いに来ただけだ。」

「戦う理由はない。」

リアルダも笑みを浮かべた。

「はい。」

その時だった。

「お兄ちゃーん!」

運動場の向こうから、大きく手を振る紫色の尻尾。

「また遊ぶコン!」

子どもたちも一緒になって手を振っている。

レッドは手を振り返した。

「何とかなるさ。」

その一言に、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。

だが、その場にいた全員が理解していた。

もし、この神獣が本気を出したなら。

中央の教範では討伐対象とされる理由を、誰もが身をもって理解するだろう。

そして同時に。

この運動場で笑う子どもたちの前では、その教範だけでは測れない現実があることも。

風が吹く。

紫色の尻尾が、子どもたちの笑い声と一緒に夏空を駆け抜けていった。


第55話『力の差』
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2026年07月04日

第53話『盟約』

第53話『盟約』


石段をゆっくりと登る。

鳥居をくぐるたび、空気が少しずつ澄んでいくような気がした。

誰も喋らない。

スタッカートでさえ、軽口を飲み込んでいる。

山の風が杉の梢を揺らし、小さく葉擦れの音を立てた。

やがて社殿が姿を現す。

華美ではない。

だが、長い年月、人々の祈りを受け止めてきた重みがそこにはあった。

俺は自然と帽子を脱いでいた。

「……。」

言葉はいらなかった。

全員が静かに一礼する。

ドルチェが油揚げを丁寧に供え、

その隣へスタッカートたちが駄菓子の段ボールを並べていく。

「隊長。」

リアルダが小声で言う。

「こんなに駄菓子を奉納する方は珍しいでしょうね。」

「そうだな。」

少し笑う。

「でも、きっと喜んでくれる。」

手を合わせる。

目を閉じる。

「先日は助けていただき、ありがとうございました。」

風が吹く。

木漏れ日が足元を揺らした。

返事はない。

それで十分だった。

◇

社殿の裏。

人の気配が届かない杉林。

紫色の尻尾が枝の上で揺れた。

「来たコン?」

軽やかに飛び降りる。

狐耳がぴくりと動いた。

「おぉ!」

少女は目を輝かせる。

和服姿の女が静かに頭を下げた。

「名代様。」

その後ろで、二人の近習も一礼する。

少女は得意そうに胸を張った。

「ウチは津和野大明神様直属の名代!

神獣カプリッチョ様だコン!」

近習の一人が桐箱を差し出す。

「京の主より、お預かりしております。」

蓋を開ける。

色鮮やかな京菓子が並んでいた。

「わぁ!」

耳がぴんと立つ。

「高級そうだコン!」

もう一人の近習が段ボールを運んでくる。

「こちらも。」

中身は駄菓子だった。

「全部くれるコン?」

「はい。」

少女は満面の笑みになる。

「ウチには子分がたくさんおるけん!」

「依り代の子らの分も不足なく用意しております。」

「さっすが!」

尻尾が嬉しそうに左右へ揺れた。

和服姿の女は社殿へ向き直る。

少しだけ表情が引き締まる。

「主より、お言葉を預かっております。」

風が止んだ。

カプリッチョも和菓子を持つ手を止める。

表情から笑みが消える。

そして静かに口を開いた。

「──これは津和野大明神様のお言葉だ。」

森の空気が一変した。

「古き盟約に変わりはない。」

「土蜘蛛とは、これまで通り互いの領分を侵さぬ。」

「この地へ戦を持ち込む意思もない。」

一拍置く。

「子らが笑って暮らせるなら、それが一番良い。」

静寂。

杉木立を風が渡る。

和服姿の女が静かに頭を下げた。

「確かに、お伝えいたします。」

近習も深く一礼した。

その瞬間だった。

「……よし!」

カプリッチョが大きく伸びをする。

「お仕事終わりっ!」

「遊ぶコン!」

いつもの笑顔が戻る。

和菓子を一つ摘まみ、口いっぱいに頬張った。

「先日の会戦だけどさ!」

「運動会が楽しそうだったから遊びに行ったコン!」

「キャハハハ!」

腹を抱えて笑う。

和服姿の女は少しだけ困ったように微笑んだ。

「それだけでしたか。」

「それだけコン!」

「おもしろかったコン!」

近習たちは苦笑する。

しかし、和服姿の女だけは笑わない。

「ですが。」

空気が再び引き締まる。

「もし、御大のお身に万一のことがございましたら。」

近習二人も静かに目を伏せる。

「京都と津和野。」

「双方にとって戦となります。」

杉の葉が風に揺れた。

長い沈黙。

カプリッチョは少しだけ考える。

「なに、それ。」

にやりと笑う。

「キャハハハ!」

「おもしろそーコン!」

近習の一人が思わず額に手を当てた。

「名代様……。」

和服姿の女も小さくため息をつく。

「そのお言葉だけは……。」

「主には、どうか。」

「内緒だコン!」

少女は満面の笑みで親指を立てる。

「秘密は守るコン!」

その瞬間。

社殿の奥から。

――コォン。

鈴が一度だけ鳴った。

誰も顔を上げない。

和服姿の女も。

近習たちも。

カプリッチョでさえ。

ただ静かに頭を垂れた。

杉木立を抜ける風が、

何事もなかったように山を渡っていった。


第54話『討伐対象』
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2026年07月04日

第52話『津和野』

第52話『津和野』


津和野駅前を抜ける。

白壁の町並み。

軒先には風鈴。

細い水路では錦鯉がゆっくり尾を揺らしていた。

時間だけが、この町では少しゆっくり流れているようだった。

「隊長。」

助手席のリアルダが地図を閉じる。

「先に奉納品を購入しましょう。」

「そうだな。」

油揚げだけで十分だと思っていた。

ところが。

「それでは足りません。」

「え?」

「子どもが好きそうなお菓子も必要です。」

リアルダは真剣だった。

「名代様は子分が多いそうです。」

「なるほど。」

確かに、その通りかもしれない。

「スーパーがありますわ。」

ドルチェが指差した。

地元の小さなスーパーだった。

◇

「隊長は車で休んでいてください。」

カンタービレ軍曹が言う。

「荷物持ちは私たちがします。」

「悪いな。」

俺は車を降りずに待つことにした。

窓を開ける。

川のせせらぎ。

遠くで踏切が鳴る。

夏の風が心地よかった。

◇

「うまい棒、全種類あるっス!」

スタッカートが目を輝かせた。

「焼きとうもろこし味……。」

「初めて見ました。」

ペザンテが真剣な顔で手に取る。

「隊長にも買うっス!」

「糖分は疲労回復に有効です。」

珍しくペザンテが賛成した。

「隊長は何でも喜びます!」

エネルジコは次々とかごへ放り込む。

「それでは予算を超えますわ。」

ドルチェが慌てて止める。

その後ろで。

リアルダだけは買い物かごを見つめていた。

「……。」

違和感。

すぐ近く。

和服姿の美しい女性。

黒いスーツ姿の男性が二人。

観光客だろうか。

女性は静かに微笑みながら和菓子を選んでいる。

その姿に。

「……。」

スタッカートが固まった。

「す、すげぇ美人っス……。」

「絵画のようです。」

ペザンテがぽつりと呟く。

「モデルさんでしょうか!」

エネルジコまで見惚れている。

ドルチェが呆れたようにため息をつく。

「皆様。」

「少しは任務を思い出してくださいませ。」

しかし。

リアルダは違うものを見ていた。

黒服の男たち。

二人とも。

駄菓子コーナーへ一直線だった。

「こちらも。」

「全部ください。」

うまい棒。

キャベツ太郎。

ベビースター。

ふ菓子。

ラムネ。

かごが、あっという間に山になった。

「……。」

リアルダは首を傾げる。

大人三人。

しかも、高級和菓子と駄菓子を同時に大量購入。

妙だった。

女性が静かに口を開く。

「依り代の子らが喜びますもの。」

近習が深く頷く。

「不足はございません。」

依り代。

聞き慣れない言葉だった。

リアルダの視線が細くなる。

(一般の観光客ではありません。)

その時だった。

女性がこちらを見る。

目が合った。

一瞬だけ。

柔らかく微笑む。

「こんにちは。」

ただ、それだけ。

リアルダも自然に頭を下げた。

「こんにちは。」

すれ違う。

何事もなく。

まるで旅先で出会っただけの人同士のように。

◇

店を出る。

「いやぁ、美人だったっス!」

スタッカートはまだ頬が緩んでいる。

「隊長に報告しなきゃ。」

「何をです?」

「津和野、美人指数百点っス!」

「報告事項として不採用です。」

リアルダが即答した。

「えぇー!」

笑い声が響く。

その後ろ。

スーパーのガラス越しに。

和服姿の女性がこちらを見送っていた。

その隣で。

黒服の男たちは、駄菓子の箱を両腕いっぱい抱えている。

女性は小さく笑う。

「運動会というものは……。」

「実に楽しそうですこと。」

誰にも聞こえないほど、小さな声だった。

風鈴が一つ鳴る。

夏の風が、静かに町を吹き抜けていった。


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2026年07月04日

第51話『トラウマ』

第51話『トラウマ』


――クスクス。

また聞こえる。

――先輩はいくら練習しても上手くならない。

笑い声が遠くで重なった。

夕暮れのグラウンド。

トランペットを握った学生が一人、うずくまっている。

肩が震えていた。

泣いている。

誰かが慰めてやればいい。

そう思って、一歩踏み出そうとした。

……いや。

違う。

あれは――俺だ。

士官学校時代の、俺だ。

息が詰まる。

音が鳴らない。

何度吹いても。

何度練習しても。

音は狙った場所へ飛ばなかった。

弾道計算。

音術師なら誰もが身につける基礎。

俺だけが、最後まで苦手だった。

――レッド様。

優しい声だった。

意識が現実へ引き戻される。

「え……?」

目を開ける。

白い歯が見えた。

褐色の肌。

ベッドの横で、リアルダが心配そうにこちらを覗き込んでいる。

「凄い汗ですよ。」

ハンカチが額に触れた。

冷たかった。

「……これが悪の皆様なら、首を取られてたな。」

思わず口をついて出る。

自分でも何を言っているのか分からない。

リアルダは小さく笑った。

「そうですね。」

その笑顔を見て、ようやく息が整う。

ここは益田駐屯地の宿舎。

士官用の個室ではない。

隊員たちと同じ建物。

廊下の向こうから笑い声も聞こえる。

一人になるのが怖くて、自分でここを選んだ。

「リアルダ。」

「はい。」

「この前は……悪かった。」

先日の運動会会戦。

彼女は風速も湿度も仰角も斜角も計算し尽くしていた。

俺は、その初弾を盛大に外した。

沈黙。

リアルダは首を横に振った。

「レッド様は、私の言葉を受け入れてくださいました。」

「……。」

「それだけで十分です。」

短い言葉だった。

だが、その一言で胸のつかえが少しだけ軽くなる。

広島で、コン・ブリオ中級使いは言った。

『サポートは必要ない。』

悪意ではなかった。

彼ほどの音術師なら、それが事実だった。

それでも。

情報士としての自分は、少しだけ寂しかった。

だからこそ。

レッドが計算を信じ、失敗しても「悪かった」と言ってくれたことが嬉しかった。

「カンタービレ軍曹がお呼びですよ♪」

リアルダはいつもの笑顔に戻る。

「音術師様は国家の財産ですから。」

いつもの口癖。

俺も思わず笑ってしまった。

◇

「匹見温泉はいかがでした?」

会議室へ入るなり、カンタービレ軍曹が尋ねた。

「月が、とても綺麗でした。」

軍曹は静かに頷く。

本来なら俺が片付けるはずだった会戦後の報告書。

そのほとんどを、リアルダと軍曹が終わらせてくれていた。

「音術師様は国家の財産です。」

リアルダが胸を張る。

「その財産様に、新しい任務がありますわ。」

カンタービレ軍曹が封筒を差し出した。

「先日の会戦で助太刀してくださった、津和野大明神様の名代へ、お礼詣りをお願いいたします。」

名代。

あの小さな狐耳の少女。

敵も味方も関係なく暴れ回り、山陰遠征軍を撤退へ追い込んだ張本人。

あの自由人へ、お礼を言いに行くらしい。

「津和野の温泉も最高っスよ。」

スタッカートが笑う。

「隊長、ご同行よろしくお願いします。」

ペザンテは荷物を整えながら一礼した。

「今回は右翼・左翼混成チームですね!」

エネルジコは既にやる気満々だ。

「インスタで素敵なカフェを見つけましたわ。」

ドルチェがスマートフォンを見せる。

リアルダ。

カンタービレ軍曹。

スタッカート。

ペザンテ。

エネルジコ。

ドルチェ。

そして俺。

山陰支部でも珍しい編成だった。

右翼と左翼のサードだけを集めた、防御特化チーム。

普通なら、ここにセンターが入る。

……嫌な予感しかしない。

◇

益田駐屯地を出発する。

津和野までは車で一時間もかからない。

高津川沿いの道を走る。

窓を少しだけ開けると、山から流れてくる風が頬を撫でた。

夏が近い。

「島根は、ゆっくり走る車が多いな。」

「あぁ……隊長は山口でしたね。」

スタッカートが笑う。

「帰りに自販機のうどん食べません?」

エネルジコが身を乗り出す。

「駄目です。」

リアルダが即答した。

「冷凍パンがあります。」

「またパンっスか。」

「もちろん、レッド様の分もあります。」

車内に笑いが広がる。

何気ない時間だった。

日原を過ぎる。

赤い橋が見えた。

その先のトンネルを抜ける。

「……。」

思わずアクセルを緩める。

山々に囲まれた小さな盆地。

瓦屋根が静かに寄り添い、その真ん中を一本の川が流れている。

どこか懐かしい町並みだった。

「ここが……津和野か。」

誰も返事をしなかった。

窓から吹き込む風だけが、車内を静かに通り抜けていった。


第52話『津和野』
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2026年07月04日

第50話『月夜の温泉』(後編)

第50話『月夜の温泉』(後編)


夜風が心地よかった。

下駄を鳴らしながら、露天風呂へ続く石畳を歩く。

見上げれば、満月。

昼間とは違う静けさが、山あいの温泉を包み込んでいた。

暖簾をくぐる。

誰もいない。

湯けむりだけが、ゆっくりと夜空へ溶けていく。

俺は静かに湯へ身体を沈めた。

「ふぅ……。」

思わず息が漏れる。

張りつめていた肩の力が、少しずつ抜けていく。

目を閉じる。

聞こえるのは、

川のせせらぎ。

虫の声。

風に揺れる木々。

それだけだった。

どれくらい、そうしていただろう。

頬を、温かいものが伝った。

「……あれ。」

指で触れる。

涙だった。

悲しい訳じゃない。

苦しい訳でもない。

ただ、涙だけが静かに流れていく。

昨日まで胸の奥で張りつめていた何かが、

少しずつほどけていくようだった。

益田小学校。

仲間たち。

子ども達の笑顔。

机の上へ置いてきた、小さな飴玉。

「……泣きたいのは、こっちよ。」

女性の声だった。

振り返る。

湯けむりの向こうに、一人の人影が立っていた。

月明かりを浴びた長い栗色の髪。

整った横顔。

白い湯けむりの向こうでも分かるほど、美しい外国人女性だった。

「えっ……。」

思考が止まる。

(男湯……だよな?)

慌てて湯船の隅へ移動する。

女性は、その様子を見て小さく笑った。

「そんなに慌てなくても。」

そのまま湯へ入り、少し離れた場所へ静かに腰を下ろす。

心臓がうるさい。

昨日の戦いより、今の方がずっと鼓動が速かった。

しばらく沈黙が続く。

湯の音だけが静かに響いていた。

やがて女性が、小さく息をつく。

「昨日は、あんなに勇敢だったのに。」

「今は、すっかり借りてきた猫ね。」

思わず苦笑する。

「こういうのは……慣れてなくて。」

「ふふっ。」

楽しそうに笑う。

その笑い声は、不思議と心地よかった。

また静かな時間が流れる。

女性は夜空を見上げたまま、小さく口を開いた。

「理不尽な婆さんや、暴走キツネに振り回されて。」

「あなたも大変ね。」

思わず笑ってしまう。

「……それは、本当にそう思います。」

二人同時に吹き出した。

笑い声はすぐに静まり、

また月を見上げる。

女性が静かに呟く。

「ねぇ。」

「あのオレンジ色の光。」

「鳥みたいだったけど。」

「あれは何だったの?」

俺はゆっくり首を横へ振る。

「分かりません。」

「本当に、何も。」

女性は俺の横顔をしばらく見つめていた。

やがて、小さく微笑む。

「……そう。」

それ以上は聞かなかった。

俺も何も聞かなかった。

二人とも黙ったまま、

ただ月を見上げていた。

風が吹く。

湯けむりが静かに流れる。

一枚の木の葉が、音もなく湯船へ落ちた。

どれくらい時間が過ぎただろう。

女性が、小さく呟く。

「それにしても……。」

「お月様が、とても綺麗ね。」

俺も夜空を見上げる。

「……ええ。」

本当に綺麗だった。

その一言だけで十分だった。

言葉はいらない。

月が静かに夜を照らしていた。

ふと風が吹く。

湯けむりがゆっくりと流れる。

何気なく隣を見る。

そこには、もう誰もいなかった。

「……あれ?」

湯船には俺一人。

静かな夜だけが続いていた。

◇

部屋へ戻る。

障子を開けると、

机の上の小さな飴玉が、月明かりを受けて静かに輝いていた。

俺は飴玉を手に取る。

少しだけ形の崩れた、小さな飴玉。

掌へ乗せたまま、窓の外を見る。

山陰の山々の上には、

変わらず満月が浮かんでいた。

さっきまでの出来事は、

夢だったのか。

それとも、本当にあったことだったのか。

答えは分からない。

俺は飴玉をそっと机へ戻し、

静かに障子を閉めた。

月明かりだけが、

静かな客間を照らしていた。

― 月夜の温泉・完 ―


第51話『トラウマ』
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2026年07月04日

第49話『月夜の温泉』(前編)

第49話『月夜の温泉』(前編)


翌朝。

益田駐屯地には、久しぶりに静かな朝が訪れていた。

昨日まで空を震わせていた音響弾の轟音は、もう聞こえない。

怒号もない。

整備班が楽器を磨く金属音だけが、穏やかな空気へ静かに溶け込んでいた。

俺は執務室の扉を開ける。

「隊長、お疲れ様でした。」

副官・カンタービレが、書類の山から顔を上げた。

机の上には、会戦報告書や補給記録が積み上がっている。

戦いは終わった。

だが、その後始末はまだ終わっていない。

「残務処理はこちらで進めます。」

「今日は休養を取ってください。」

「いや、俺も手伝――」

「命令です。」

珍しく、有無を言わせない口調だった。

「敵味方ともに大きく消耗しています。」

「しばらく大規模な会戦はありません。」

「身体だけでなく、心も休ませてください。」

俺が苦笑すると、カンタービレも少しだけ表情を和らげた。

「それと。」

「昨日から、子ども達の間で第一トランペット遊撃隊が『ウルセンジャー』と呼ばれているそうです。」

「ああ。」

思わず笑う。

「校門で俺も言われたよ。」

「『ウルセンジャーのお兄ちゃん、ありがとう。』って。」

カンタービレは静かに頷いた。

「皆さん、とても嬉しそうでした。」

「そう。」

俺も小さく頷く。

それだけで十分だった。

カンタービレは書類を閉じる。

「だから今日は休んでください。」

「隊長が倒れたら、皆さんが困ります。」

「それも隊長の任務です。」

俺は観念して息を吐く。

「……分かった。」

益田駐屯地へ着任して、まだ一か月も経っていない。

それなのに、何か月も過ごしたような気がしていた。

◇

リアルダは駐屯地へ残る。

負傷者の記録。

戦死者の名簿。

補給物資の確認。

情報士として、やるべき仕事は山ほどある。

「お気を付けて。」

そう言って敬礼するリアルダに、俺も敬礼を返した。

「温泉でも、ご無理はなさらないでくださいね。」

「了解。」

笑って返事をすると、リアルダも安心したように微笑んだ。

一人で列車へ乗り込む。

制服の袖には、まだ昨日の土埃が残っていた。

列車はゆっくりと山間を走る。

窓の外には、高津川。

昨日まで命を懸けていた場所とは思えないほど、穏やかに流れている。

山がある。

川がある。

田んぼがある。

どこかで子ども達の笑い声が聞こえる。

レールの音だけが、一定のリズムを刻み続けていた。

◇

匹見温泉。

旅館へ着くと、女将が玄関で深々と頭を下げた。

「昨日は、本当にありがとうございました。」

それ以上、戦いの話はしない。

英雄扱いもしない。

静かに客室へ案内してくれる。

障子を開ける。

山々が夕日に染まり始めていた。

谷を渡る風。

川のせせらぎ。

鳥のさえずり。

聞こえてくるのは、それだけだった。

俺はようやく制服を脱ぐ。

胸ポケットへ手を入れた、その時だった。

「……あ。」

小さな飴玉が転がり落ちる。

ころん。

畳の上で、小さな音を立てた。

少しだけ形が崩れた飴玉。

しわの寄った包み紙。

俺はそっと拾い上げる。

『ウルセンジャーのお兄ちゃん。』

『ありがとう。』

あの笑顔が浮かんだ。

掌に乗せたまま、しばらく眺める。

やがて、机の上へ静かに置いた。

夕日が差し込み、小さな飴玉をやさしく照らしていた。

◇

浴衣へ着替え、縁側へ腰を下ろす。

テレビもつけない。

本も読まない。

何もしない。

ただ、風に揺れる木々を眺めていた。

こんな時間は、いつ以来だろう。

夕方になると、女将が懐石料理を運んできた。

「お酒はいかがですか?」

「いえ……飲めないんです。」

女将は柔らかく微笑む。

「では、温かいお茶をご用意しますね。」

穏やかな夕食だった。

誰も昨日の戦いには触れない。

それが、今はありがたかった。

食事を終え、部屋へ戻る。

机の上では、小さな飴玉が月明かりを受けて静かに光っていた。

俺は窓を開ける。

夜風が頬をなでた。

山の稜線から、ゆっくりと満月が姿を現す。

「……少し、温泉に入るか。」

そう呟き、静かに立ち上がる。

机の上に飴玉を残したまま。

俺は月明かりに照らされた露天風呂へ向かった。


第50話『月夜の温泉』(後編)
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2026年07月04日

第48話『帰る場所』

第48話『帰る場所』


「レッド君。」

マエストロが肩を組みながら、満足そうに笑った。

「音術の極意を教えてやろう。」

俺は思わず背筋を伸ばす。

「はい!」

昼間の戦場では聞けなかった。

北方戦線を十年以上生き抜いた男の言葉だ。

きっと大事な教えに違いない。

マエストロは人差し指を一本立てる。

「音術とは。」

「イメージだ。」

「はい!」

「己の楽器を愛せ。」

「はい!」

「仲間の楽器も愛せ。」

「はい!」

「そして――」

一拍置いて、ニヤリと笑う。

「複数の楽器を同時に愛せ。」

「なるほど。」

俺は真面目に頷いた。

「幅広い音楽知識ですね。」

「応用アンサンブルということですか。」

「そう!」

マエストロは嬉しそうに頷く。

「つまり女性も――」

「却下です。」

即答だった。

リアルダが、いつの間にか俺たちの後ろへ立っている。

「情報士権限により、その教育内容は検閲します。」

「えぇー。」

マエストロが肩を落とす。

「世知辛い世の中だなぁ。」

「世知辛くありません。」

リアルダは胸を張った。

「レッド様には健全な音術師として成長していただきます。」

「音術師様は国家の財産です。」

「はいはい。」

マエストロは苦笑しながらジョッキを持ち上げる。

「情報士には勝てないな。」

店中が笑いに包まれた。

アクセントは腹を抱えて笑い、

ブリランテは「リアルダさん強い!」とはしゃぎ、

スタッカートは「今日も完全敗北っスね!」と大笑いしている。

グラーヴェ軍曹でさえ、小さく肩を震わせていた。

その笑い声を聞きながら、

俺も自然と笑っていた。

その時だった。

テーブルの下で。

そっと。

誰かの指先が、俺の手へ触れた。

「……?」

驚いて横を見る。

リアルダだった。

何事もなかったように前を向き、

みんなと一緒に笑っている。

けれど。

テーブルの下では、

その小さな手が、そっと俺の手を包んでいた。

温かかった。

昼間、

情報端末を抱えて戦場を駆け回っていた手。

何度も俺を支え、

何度も「レッド様」と呼んでくれた手。

俺も何も言わなかった。

言葉にしたら、

この穏やかな時間が壊れてしまう気がした。

焼肉の煙。

七輪の赤い炭。

ジョッキの触れ合う音。

アクセントの豪快な笑い声。

ブリランテの楽しそうな声。

スタッカートの軽口。

ペザンテの静かな相づち。

グラーヴェ軍曹の低い笑い声。

マエストロの底抜けに明るい笑い声。

そして。

隣で微笑むリアルダ。

俺はふと、胸ポケットへ手を添えた。

そこには。

あの少女からもらった、

少しだけ溶けた飴玉が入っている。

今日守り抜いた、小さな勲章。

そして今。

もう一つ、大切なものがあった。

温かな手のぬくもり。

母さんの手とは違う。

だけど。

逃げるように北方戦線へ来た俺にも、

「帰る場所」ができた。

そんな気がした。

窓の外では、

山陰の夜風が「山牛」の暖簾を優しく揺らしている。

今日という一日は終わる。

けれど、

ここから始まる日々は、

もう一人ではない。

リアルダの手は、

宴がお開きになるまで、

最後まで離れることはなかった。

暖簾が、もう一度だけ静かに揺れる。

山陰の夜は、

どこまでも穏やかだった。

― 運動会の会戦・完 ―


第49話『月夜の温泉』(前編)
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2026年07月04日

第47話『仲間』

第47話『仲間』


「坊主。」

低く響く声に、俺はゆっくり振り返った。

そこには、ビール瓶を片手にしたグラーヴェ軍曹が立っていた。

クラリネットケースを脇へ置き、傷だらけの軍服のまま俺を見つめている。

昼間の泥が、まだ袖口に残っていた。

「……飲める口か。」

「いえ。」

俺は烏龍茶のジョッキを持ち上げる。

「烏龍茶専門です。」

軍曹は小さく鼻を鳴らした。

「そうか。」

それだけ言うと、しばらく黙り込む。

店内では相変わらず笑い声が響いている。

だが、この席だけは不思議と静かだった。

やがて軍曹は照れ臭そうに頭を掻く。

「……昼間は。」

「言い過ぎた。」

俺は思わず顔を上げる。

軍曹は俺を真っ直ぐ見たまま続けた。

「悪かった。」

一瞬、時間が止まったような気がした。

あのグラーヴェ軍曹が。

誰にも頭を下げそうにない男が。

俺に謝っている。

軍曹はぶっきらぼうな口調のまま言葉を続けた。

「初陣だったな。」

「……はい。」

「それでも最後まで前線から逃げなかった。」

「あれだけ弾幕が飛び交う中で、遊撃隊をまとめ続けた。」

「立派だった。」

胸の奥が熱くなる。

軍曹は少しだけ笑った。

「だから訂正しておく。」

「お前はガキじゃねぇ。」

「……立派な戦士だった。」

その一言が、胸の奥深くへ真っ直ぐ届いた。

俺は、何も言えなかった。

士官学校へ入ってから今日まで。

「スカーレットの息子。」

「フォルテ司令官の弟子。」

そんな言葉ばかり聞いてきた。

だけど今。

目の前の男は。

今日、俺が戦った姿だけを見てくれていた。

俺自身を。

認めてくれた。

「……ありがとうございます。」

それだけ言うのが精一杯だった。

軍曹は照れ隠しのように鼻を鳴らす。

「礼なんざ要らん。」

「次も生き残れ。」

「話はそれからだ。」

「はい!」

今度は胸を張って返事ができた。

その様子を見ていたマエストロが、いつの間にかジョッキを片手に隣へやって来る。

「だから言ったろ。」

軍曹の肩を軽く叩きながら笑う。

「こいつは口が悪いだけなんだ。」

「中身は昔から変わらん。」

「余計なことを言うな!」

軍曹が顔を赤くして怒鳴る。

「照れてる照れてる!」

「うるさい!」

店中から笑い声が上がる。

リアルダまで肩を震わせながら笑っていた。

その笑いにつられるように、周囲の席から音響団のおじさんたちが集まってくる。

「レッド!」

「今日の一発、見事だったぞ!」

「アラクネを吹き飛ばした時は痺れた!」

「今度は一緒に演奏しよう!」

「また山陰へ来い!」

次々と肩を叩かれる。

握手を求められる。

誰も。

母・スカーレットの話をしない。

誰も。

フォルテ司令官の武勇伝を語らない。

話題になるのは、今日の会戦だけだった。

俺が撃った音響弾。

俺が率いた遊撃隊。

俺が仲間と守り抜いた益田の町。

今日ここで吹いた。

俺自身の話をしてくれる。

それだけで十分だった。

胸の奥にあった重たい何かが、少しだけ軽くなった気がした。

マエストロがニヤリと笑う。

「レッド君。」

「今日から君も。」

ジョッキを軽く掲げる。

「北方戦線の仲間だ。」

俺も烏龍茶のジョッキを持ち上げた。

「……はい。」

その返事は。

この山陰へ来てから、一番自然な「はい」だった。


第48話『帰る場所』
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2026年07月04日

第46話『黙とう』

第46話『黙とう』


宴席の中央で、小さな人影がゆっくりと立ち上がる。

上級チューバ使い。

山陰西部方面軍守護神。

――グランディオーソ。

通称、グラン閣下。

その姿を見た瞬間だった。

さっきまで店中へ響いていた笑い声が、波が引くように静まっていく。

誰も命令されたわけではない。

それでも自然と箸を置き、

ジョッキを机へ戻し、

背筋を伸ばいた。

グランは静かに店内を見渡す。

傷だらけの音響士たち。

包帯を巻いた音響団。

泥の残る制服。

そして――。

誰も座っていない席が、いくつかあった。

今日、この店へ帰ることのできなかった者たちの席だった。

グランは目を閉じ、小さく息を吸う。

「……まずは。」

静かな声が、店内へ響く。

「今日、この場へ帰れなんだ者たちへ。」

「敬意を。」

一拍置く。

「――黙祷。」

グラン閣下の静かな一言で、店内の空気がすっと張り詰めた。

さっきまで賑やかだった笑い声が消える。

網の上では、カルビが静かに脂を落とし、ぱちぱちと小さな音を立てていた。

誰も箸を動かさない。

誰もジョッキを持ち上げない。

昼間、益田小学校で行われた大編成会戦(シンフォニック・レギオン)。

最後まで楽器を離さず戦った仲間たち。

子どもたちを守るため、自ら盾となった音術師たち。

今日、この店へ帰ることのできなかった者たちの顔が、一人ひとりの胸へ浮かんでいた。

肉の焼ける音だけが、静かに店内へ響く。

やがて。

グラン閣下がゆっくりと目を開いた。

「……よし。」

深く息を吸い込む。

そして、豪快な笑みを浮かべた。

「湿っぽいのは終わりじゃ!」

「今日、生きて帰った者!」

巨大なジョッキを高く掲げる。

「乾杯じゃあーーーっ!!」

「「「乾杯ーーーっ!!!」」」

店中へ歓声が弾けた。

ジョッキが勢いよくぶつかり合う。

網の上には次々と肉が並べられ、香ばしい匂いが店いっぱいへ広がっていく。

笑い声も戻ってきた。

それが北方戦線だった。

悲しみを忘れるためではない。

明日も前を向いて戦うために、笑うのだ。

「隊長様!」

ブリランテが大皿いっぱいのカルビを抱えて駆け寄ってきた。

頬の絆創膏はそのままなのに、笑顔だけは朝より元気だった。

「今日は軍曹さんに褒められた記念です!」

「特選カルビです!」

「え?」

「ボクのおごりです!」

「いや、それは悪いよ。」

「悪くありません!」

ブリランテは胸を張る。

「隊長様が生きて帰ってきたんです。」

「今日は、それだけで十分です。」

その笑顔に、俺も自然と笑みがこぼれた。

「ありがとう。」

「はい!」

ブリランテは嬉しそうに頷くと、慣れた手つきでカルビを網へ並べ始めた。

ジュゥゥゥ……

脂が炭へ落ち、香ばしい煙が立ち上る。

「隊長!」

アクセントが俺の肩を勢いよく叩いた。

「今日は戦場じゃありません!」

「肉の補給作戦です!」

「補給が切れたら負けですよ!」

「意味が違うだろ。」

「細かいことは気にしません!」

豪快に笑うアクセント。

その勢いにつられて周りまで笑い出す。

スタッカートはもう俺の皿へ肉を放り込んでいた。

「隊長!」

「焼けたっス!」

「早い者勝ちっス!」

「おい!」

「それ俺の皿なんだけど!」

「隊長は吹き過ぎて痩せましたから!」

「今日は太って帰るっス!」

「そんな補給計画あるか。」

「今作りました!」

また笑いが起こる。

その横では、ペザンテが黙々と網を見つめていた。

「まだです。」

「あと十秒。」

誰も肉へ手を伸ばそうとしない。

ペザンテは静かに続ける。

「焦ると固くなります。」

「肉も音も。」

「待つことが大事です。」

「……ペザンテ。」

「お前、本当に何でも演奏理論で考えるんだな。」

ペザンテは真顔のまま小さく頷いた。

「はい。」

「焼肉もアンサンブルです。」

「火力。」

「間。」

「返すタイミング。」

「全部、合奏と同じです。」

一瞬静まり返り――

「ぶはははははっ!」

「焼肉アンサンブルって何だよ!」

「さすがペザンテ!」

「そこまで考えてたのか!」

店中から笑い声が上がった。

俺も腹を抱えて笑ってしまう。

昼間まで命を懸けて戦っていたとは思えないほど、穏やかな時間だった。

七輪の炭火が赤く揺れる。

その温かな光が、傷だらけの遊撃隊のみんなの笑顔を優しく照らしていた。

その時だった。

「坊主。」

低く、よく通る声が聞こえた。

俺はゆっくりと振り返る。

そこには、ビール瓶を片手にしたグラーヴェ軍曹が立っていた。


第47話『仲間』
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2026年07月04日

第45話『知らない方がいい音』

第45話『知らない方がいい音』


その時だった。

「マエストロ様ーーーっ!」

聞き慣れた声が店内へ響いた。

褐色の頬を少し膨らませたリアルダが、ずんずんと宴席の中央へ歩いていく。

店中の視線が一斉に集まった。

マエストロはビールジョッキを片手に肩をすくめる。

「おやおや。」

「リアルダちゃん。」

「そんな怖い顔してどうしたの?」

「どうした、ではありません。」

リアルダは腰へ手を当てる。

「レッド様に、また変な本を渡したそうですね。」

一瞬、店内が静まり返る。

マエストロは涼しい顔で答えた。

「変な本とは失礼だなぁ。」

「あれは歴史ある士官教育資料だ。」

「ローマ軍団戦陣訓。」

「世界の名将演説集。」

そこまでは、皆が真面目に頷いていた。

しかし。

「あと一冊。」

「芸術鑑賞資料。」

リアルダがすかさず遮る。

「却下です。」

「情報士権限により。」

「ボッキュンボンな金髪女性が表紙だった資料は、すべて検閲・没収しました。」

数秒の静寂。

そして――。

「ぶはははははっ!」

「また没収されたのか!」

「懲りねぇなマエストロ!」

店中が大爆笑に包まれた。

マエストロは頭を掻きながら苦笑する。

「いやぁ。」

「あれは士気向上術でねぇ……。」

「違います。」

リアルダがぴしゃりと言い切る。

「ただの趣味です。」

「ぐはっ。」

マエストロが胸を押さえる。

「言葉が鋭い……。」

「事実です。」

リアルダは胸を張る。

「音術師様は国家の財産です。」

「レッド様には、もっと健全な士官教育を受けていただきます。」

その真っ直ぐな言葉に、店内の誰もが笑顔になった。

向かいの席で肉を頬張っていたマエストロが、俺だけに聞こえるよう小さく口を動かす。

(安心しろ、レッド君。)

(宿舎にバックアップがある。)

思わず烏龍茶を吹きそうになる。

(この人、本当に懲りない……。)

俺が慌てて咳き込むと、

ブリランテが心配そうに身を乗り出した。

「隊長様?」

「何をコソコソ話してるんです?」

「いや……。」

俺は苦笑しながら首を振る。

「知らない方が幸せなこともある。」

「そうなんですか?」

ブリランテは首を傾げる。

その時だった。

ジョコーソが肉をひっくり返しながら、呆れたように笑う。

「まったく。」

「マエストロ。」

「新人を変な道へ引っ張るのは、その辺にしておけ。」

「はいはい。」

マエストロは肩をすくめる。

ジョコーソは今度は俺を見る。

「レッド。」

「知らないままの方が、幸せなこともある。」

「……はい。」

俺は苦笑しながら頷いた。

隣でペザンテが静かに呟く。

「……知らない方がいい音もあります。」

「いや、それは違うだろ。」

スタッカートがすぐに突っ込む。

「音は知った方がいいっス。」

その一言で、また笑いが広がった。

遊撃隊の笑いにつられ、周囲の席からも笑い声があふれていく。

昼間は命を懸けて戦っていた者たち。

だからこそ、この何気ない笑いが、何よりも愛おしかった。

その笑いが店いっぱいに満ちた、その時だった。

宴席の中央で、小さな人影がゆっくりと立ち上がる。

店内の空気が、すっと変わった。


第46話『黙とう』
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2026年07月04日

第44話『山牛』

第44話『山牛』


夕暮れに染まる山陰の街。

昼間、**大編成会戦(シンフォニック・レギオン)**の舞台となった益田小学校から少し離れた駅前。

古びた暖簾を掲げた焼肉店『山牛』は、今夜だけは異様な熱気に包まれていた。

店内には、ジュウジュウと肉の焼ける音。

立ち上る白い煙。

ジョッキがぶつかる乾いた音。

そして、天井を揺らすほどの笑い声。

まるで昼間の死闘が、遠い昔の出来事だったかのようだ。

……いや。

一人ひとりを見れば、それが幻想だとすぐに分かる。

腕を三角巾で吊った隊員。

額へ包帯を巻いた音術師。

絆創膏だらけの音響団のおじさん。

足を引きずりながら七輪を運ぶ衛生班の女性。

誰もが傷だらけだった。

それでも笑っている。

生きて、この場所へ帰って来られたから。

それだけで十分だった。

「隊長様!」

元気いっぱいの声が飛ぶ。

ブリランテだった。

頬には大きな絆創膏。

それでも目だけは、いつも以上に輝いている。

「隊長様!」

「今日はダブルタンギングじゃなくて、ダブルカルビで勝負です!」

「何その勝負。」

俺が笑うと、

ブリランテは胸を張った。

「焼く係はボクに任せてください!」

そう言うや否や、見事な箸さばきでカルビを網へ並べ始める。

肉を返すタイミングまで絶妙だった。

「焦がしたら減点ですよ。」

静かな声が聞こえる。

ペザンテだった。

網をじっと見つめながら、落ち着いた口調で言う。

「肉も音も。」

「待つことが大事です。」

「うわぁ……。」

アクセントが苦笑する。

「焼肉まで理論派だ。」

「理論じゃありません。」

ペザンテは真顔だった。

「経験です。」

その一言に、一同が吹き出した。

アクセントは豪快に笑いながらジョッキを掲げる。

「隊長!」

「今日は焼肉ですよ!」

「戦場じゃありません!」

「難しいこと考えるのは禁止です!」

「そうそう!」

スタッカートも烏龍茶を掲げる。

「今日は肉!」

「明日は筋肉!」

「……意味分からない。」

「分からなくても勢いっス!」

「それ、お前いつも言ってるだろ。」

「あははっ!」

遊撃隊の笑い声がテーブルいっぱいへ広がる。

俺も思わず笑ってしまった。

烏龍茶を一口飲む。

「……っ。」

やっぱり痛い。

裂けた唇へ熱い烏龍茶がしみる。

昼間、夢中で吹き続けた代償だった。

「隊長様。」

ブリランテが心配そうに顔を覗き込む。

「やっぱり痛いですか?」

「ああ。」

正直に答える。

ブリランテは少しだけ安心したように笑った。

「でも。」

「その顔を見ると安心します。」

「え?」

「隊長様、生きてる顔です。」

その一言に、胸が少しだけ熱くなった。

ブリランテは照れくさそうに笑う。

「戦場じゃ、隊長様の背中しか見えませんでした。」

「だから。」

「こうして笑ってる顔を見ると安心します。」

昼間。

俺たちは皆、前だけを見ていた。

誰も仲間の表情なんて見ている余裕はなかった。

だからこそ。

今こうして笑い合えることが、何より嬉しかった。

俺は小さく笑う。

「ありがとう。」

ブリランテも満面の笑みで頷いた。

「はい!」

「隊長様は、笑ってる方が隊長様らしいです!」

その言葉に、アクセントが大きく頷く。

「その通りです!」

「隊長は笑ってる方が似合います!」

「何とかなるさ、って言ってる時の顔が一番隊長らしいです!」

スタッカートも肩をすくめる。

「隊長が笑ってると、不思議と何とかなる気がするんスよ。」

ペザンテも静かに頷いた。

「……同感です。」

俺は少し照れくさくなりながら頭を掻いた。

「そんな大した隊長じゃないよ。」

「いや。」

アクセントが笑う。

「だからこそ、いい隊長なんです!」

遊撃隊の笑い声が、焼肉の煙と一緒に店いっぱいへ広がっていく。

その温かな空気を包み込むように、七輪の炭が赤く揺れていた。


第45話『知らない方がいい音』
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2026年07月04日

第43話『生きて帰れた日』

第43話『生きて帰れた日』


そこへ――。

「隊長ーーー!」

聞き慣れた大声が、夕暮れの駅前通りへ響いた。

アクセントだった。

泥だらけの制服のまま、全力疾走でこちらへ駆けてくる。

「何してるんですか!」

「肉が逃げますよーーーっ!」

「焼肉は逃げないだろ。」

俺が呆れながら答えると、

アクセントは真顔で首を振った。

「逃げます!」

「早く行かないと、マエストロ軍団長が全部食べます!」

「それは否定できないな……。」

その後ろから、小柄な影が飛び跳ねるようにやって来る。

「隊長様!」

ブリランテだった。

「今日は何枚食べられるか勝負です!」

「戦った数より肉の枚数を数えてるだろ。」

「えへへ。」

舌を出して笑う。

その笑顔は、いつものブリランテだった。

スタッカートも両手を頭の後ろで組みながら歩いてくる。

「焼肉っス!」

「今日は軍団長のおごりらしいっス!」

「本当か?」

「知りません!」

「でも誰かがおごるっス!」

「適当だなお前。」

「勢いっス!」

そのやり取りに、一同から笑いがこぼれる。

アクセントが、ふと思い出したように口を開いた。

「そういえば隊長。」

「ん?」

「今日、子どもたちに言われました。」

「『ウルセンジャーのお兄ちゃん!』って。」

俺は少し笑った。

「ああ。」

「俺も校門で言われた。」

胸ポケットの飴玉を、そっと指先で確かめる。

アクセントは嬉しそうに笑った。

「悪くない呼び名ですよね!」

「そうだな。」

それだけ答えて、俺も少し笑った。

少し後ろでは、ペザンテが黙々と機材を運んでいた。

「ペザンテ。」

俺が声を掛けると、

彼は荷物を肩へ担いだまま小さく頷く。

「……焼肉、楽しみです。」

短い一言。

それだけなのに、何だか嬉しくなった。

その時だった。

ゆっくりとした足音が近づいてくる。

振り向くと、

腕を組んだグラーヴェ軍曹が歩いてきた。

泥だらけの軍服。

傷だらけのクラリネット。

その姿は、今日一日の激戦を物語っていた。

軍曹は俺の前で立ち止まる。

「坊主。」

「はい。」

「生き残ったな。」

たった、それだけだった。

俺は静かに頷く。

「……はい。」

軍曹も小さく頷き返す。

「それでいい。」

余計な言葉はない。

だが、その一言には、

「よく戦った。」

「もう一人前だ。」

そんな思いが込められている気がした。

リアルダが俺の横で、そっと微笑む。

「レッド様。」

「はい?」

「皆さん、レッド様を待っていてくださるんですね。」

俺は仲間たちを見る。

アクセントが手を振っている。

ブリランテが焼肉の枚数を指折り数えている。

スタッカートは「カルビっス!」と叫んでいる。

ペザンテは黙って荷物を運び続け、

グラーヴェ軍曹は「早く来い」とでも言いたげに背を向けて歩き始めた。

俺は自然と笑みがこぼれた。

「……うん。」

「待っててくれる仲間がいる。」

リアルダも優しく頷く。

「はい。」

「きっと、それが一番のご褒美ですね。」

胸ポケットへ手を入れる。

そこには、

少しだけ溶けた飴玉が入っていた。

今日守り抜いた、小さな勲章。

俺はそっと握りしめる。

夕焼けに染まる益田駅の方角へ。

仲間たちと一緒に歩き出した。

今日という長い運動会を終えて。

駅前焼肉『山牛』の暖簾が、

夕風に揺れながら俺たちを待っている。

「さぁ!」

アクセントが拳を突き上げる。

「今日は勝利の焼肉ですよー!」

「違います。」

リアルダが、にこりと笑って訂正した。

「今日は、生きて帰れたことを祝う焼肉です。」

その一言に、誰もが静かに頷いた。

夕暮れの空へ、

仲間たちの笑い声が、いつまでも響いていた。


第44話『山牛』
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2026年07月04日

第42話『平和』

第42話『平和』


二人で並んで校門を出る。

夕日に照らされた益田の町並み。

遠くには高津川が穏やかに流れ、赤く染まった山並みが静かに街を包んでいた。

どこかの家からは、夕飯の匂いが風に乗って漂ってくる。

戦場だった運動場から、ほんの数百メートル歩いただけ。

そこには、いつもと変わらない夕暮れがあった。

「……平和ですね。」

リアルダが小さく呟く。

「うん。」

俺は夕焼けを見上げた。

さっきまで命を懸けて戦っていた場所とは思えないほど、美しい空だった。

しばらく無言で歩く。

風が二人の間を通り抜ける。

ふと思い出して、俺は隣を見た。

「そういえば。」

「はい?」

「リアルダ、大丈夫?」

「え?」

「グラン閣下に、一緒に吹き飛ばされてただろ。」

リアルダは少し驚いたように目を丸くした。

それから、くすっと笑う。

「私は大丈夫です。」

「情報士も最低限の戦闘訓練は受けていますから。」

「そっか。」

胸をなで下ろす。

「無事でよかった。」

その一言に、リアルダは少しだけ頬を緩めた。

「ありがとうございます、レッド様。」

少し照れくさくなって、頭をぽりぽりと掻く。

「あの時さ。」

「グラン閣下が言ってたんだ。」

「『レディには手加減している』って。」

「だから、あれでも手加減だったらしい。」

リアルダは一瞬だけ目をぱちくりさせた。

「……レディ。」

小さくその言葉を繰り返す。

そして、ふわりと微笑んだ。

「私、レディ扱いされたんですね。」

「え?」

「ちょっと嬉しいです♪」

思わず聞き返す。

「嬉しいの?」

「はい。」

リアルダは照れくさそうに笑う。

「音術師様は国家の財産ですけど……。」

「女の子は、いくつになっても『レディ』って呼ばれると、少し嬉しいものなんですよ♪」

「そういうものなのか。」

「そういうものです。」

彼女は嬉しそうに頷く。

その笑顔を見ていると、不思議と俺まで笑顔になってしまう。

「でも。」

リアルダは悪戯っぽく人差し指を立てた。

「レッド様は、これから女性に年齢を聞かないようにしてくださいね。」

「もう二度と聞かない。」

即答だった。

「賢明なご判断です。」

二人で顔を見合わせて笑う。

夕風が街路樹を揺らし、葉がさらさらと音を立てた。

リアルダは情報端末を閉じる。

さっきまでの柔らかな表情から一転して、情報士の顔に戻った。

「本部より連絡です。」

「会戦終了を確認。」

「山陰西部方面第一軍団は、益田駐屯地へ帰投します。」

俺は静かに頷く。

「了解。」

「なお、本日の夕食は――」

そこで、リアルダは少しだけ口元を緩めた。

「駅前焼肉『山牛』。」

「歓迎会兼、祝勝会だそうです。」

「……焼肉?」

「はい。」

「焼肉です。」

俺は思わず空を見上げた。

「いや……今日はもう動けないんだけど……。」

リアルダは、その反応を待っていたように笑う。

「そう言うと思いました。」

「マエストロ様から伝言を預かっています。」

そう言うと、軽く咳払いを一つ。

少し低い声を作って、本人の真似をする。

『レッド君。』

『戦争映画の主人公は、戦いが終わったら酒場へ行く。』

『これは命令だ。』

『来なかったら、お前の歓迎会で余った肉は全部俺が食べる。』

俺は思わず吹き出した。

「なんだよ、それ。」

「完全に脅しじゃないか。」

リアルダも肩を震わせながら笑う。

「マエストロ様らしいですね。」

俺も笑った。

さっきまで命を懸けて戦っていたとは思えないほど、穏やかな笑いだった。

夕焼けに包まれた町では、今日も誰かの夕飯が湯気を立てている。

その当たり前の景色を守れたことが、何より嬉しかった。


第43話『生きて帰れた日』
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2026年07月04日

第41話『飴玉とウルセンジャー』

第41話『飴玉とウルセンジャー』


夕暮れの空が、益田の街を茜色に染めていた。

益田小学校の運動場には、激戦の跡がまだ残っている。

倒れたテント。

曲がった譜面台。

土に埋もれた白線。

救護班は最後の負傷者を搬送し、

工兵隊は黙々と資材を片付けていた。

さっきまで怒号と爆音が響いていた場所へ、

少しずつ日常が戻ってくる。

校門では先生たちが子ども達を迎え、

保護者は何度も我が子を抱きしめていた。

「また明日ねー!」

「バイバーイ!」

「うん!」

夕焼けの校庭に、笑い声が響く。

俺は、その声を聞いていた。

ついさっきまで。

ここは戦場だった。

それが今では、いつもの小学校に戻ろうとしている。

風が吹いた。

砂ぼこりが夕日に光る。

「隊長。」

振り向くと、カンタービレ軍曹が立っていた。

泥で汚れた制服。

少し乱れたショートカット。

「左翼、撤収完了しました。」

「ありがとう。」

彼女は校庭を見渡し、小さく息をつく。

「……静かになりましたわね。」

「ああ。」

それだけ言って、カンタービレは持ち場へ戻っていった。

その背中を見送っていると、

小さな足音が近づいてきた。

「お兄ちゃーん!」

昼間、悪のみなさんから助け出した女の子だった。

泥の付いた体操服。

少し乱れた髪。

それでも、笑っていた。

女の子は俺の前まで来ると、小さな手を差し出した。

「はい。」

手のひらには、飴玉が一つ。

少しだけ溶けて形が崩れている。

包み紙は、しわくちゃだった。

ずっと握っていたのだろう。

俺はそっと受け取った。

「ありがとう。」

女の子は嬉しそうに笑う。

「ウルセンジャーのお兄ちゃん、ありがとう。」

「……ウルセンジャー?」

「うん。」

「みんながそう言ってた。」

女の子が校門の方を指差す。

「あっ!」

「ウルセンジャーのお兄ちゃんだ!」

帰ろうとしていた子ども達が手を振る。

「また来てねー!」

「ありがとう!」

一人の男の子が笑った。

「トランペット、すっごいうるさかった!」

「うるさいんじゃい!」

すると、別の子が声を上げる。

「じゃあさ。」

「ウルセンジャーじゃん!」

一瞬の静寂。

次の瞬間には、

「ウルセンジャー!」

「ウルセンジャー!」

笑い声と一緒に、その名前が校庭へ広がっていった。

俺は思わず笑ってしまった。

正式な部隊名じゃない。

誰かが考えた名前でもない。

子ども達が笑いながら付けてくれた。

それだけだった。

女の子は友達に呼ばれ、小さく手を振る。

「またね!」

「ああ。」

俺も手を振り返した。

小さな背中は、夕焼けの中へ駆けていく。

「レッド様。」

いつの間にか、リアルダが隣に立っていた。

情報端末を胸に抱え、校門の方を見つめている。

「いい名前ですね。」

俺は校門の向こうを見る。

笑いながら帰っていく子ども達。

夕日に伸びる小さな影。

風に揺れる校旗。

「そうだね。」

リアルダも、小さく笑った。

そのまま二人で歩き出す。

誰も何も話さなかった。

遠くで椅子を重ねる音がした。

先生の笛が一度だけ鳴る。

「またねー!」

最後の子どもが手を振る。

胸ポケットの飴玉に、そっと触れた。

少しだけ温かかった。

勲章ではない。

戦果でもない。

けれど、その小さな飴玉は、

今日守りたかったもの、そのもののように思えた。

夕焼けに染まる校門を抜ける。

背中の向こうから、もう一度だけ声が届く。

「ウルセンジャー!」

俺は振り返らず、右手を軽く上げた。

茜色の空の下。

その日、俺たちは子ども達から名前をもらった。


第42話『平和』
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2026年07月04日

第40話『暴走ギツネ』

第40話『暴走ギツネ』


「全軍!」

アラクネが腹の底から叫ぶ。

「撤退準備!」

「保育隊は依り代を連れて後退!」

「親衛隊は殿を務めなさい!」

カリストスが即座に頷いた。

「了解。」

「右翼、第三列から順に後退。」

「負傷者を中央へ。」

メリッサも静かに手を上げる。

「左翼、後退支援。」

「最後尾は私が務めます。」

「誰一人、置いて行きません。」

蜘蛛紋章の兵たちが一斉に動き出す。

その統率は見事だった。

◇

だが。

「キャハハハハ!」

「もっと遊ぶコン!」

紫色の小さな影が駆け抜けるたびに、敵味方の隊列は乱れていく。

「そこじゃない!」

グランが叫ぶ。

「カプリッチョ!」

「ワシの防壁へ戻れ!」

「やだもーん!」

「まだ遊ぶコン!」

悪のみなさんが慌てて追いかける。

「待つのだーー!」

「そっちは危ないのだーー!」

「捕まえろなのだーー!」

「捕まえられないのだーー!」

防衛隊まで巻き込まれる。

「防壁が崩れる!」

「遊撃隊、下がれ!」

「カプリッチョ様、お願いですから止まってください!」

リアルダの悲鳴まで聞こえてきた。

俺は泥だらけのまま、その光景を見つめる。

「……自由すぎる。」

「神獣だからのう。」

グランが苦笑した。

「ワシでも止められん。」

その一言が妙に重かった。

Sランク。

山陰最強と呼ばれる上級音術師ですら、一柱の神獣には振り回される。

それが現実だった。

◇

アラクネは頭を抱えたまま叫ぶ。

「全軍撤退!」

「保育隊!」

「依り代を守って離脱!」

「親衛隊!」

「時間を稼ぎなさい!」

「急ぐのよーーーっ!!」

「了解!」

カリストスとメリッサが同時に応じる。

その声に続くように、

「なのだーーーーっ!!」

悪のみなさんは一斉に後退を始めた。

統制の取れた撤退だった。

誰一人として無駄に突撃しない。

誰一人として仲間を置き去りにしない。

まるで一つの生き物のように、黒い軍勢が夕暮れの校庭から静かに離れていく。

◇

マエストロが小さく息を吐いた。

「……最後まで綺麗なレギオンだったな。」

グラーヴェ軍曹も鼻を鳴らす。

「敵ながら。」

「大した軍団だ。」

やがて。

運動場から黒い戦闘服が消えていく。

静寂。

夕暮れの風だけが万国旗を揺らしていた。

ジョコーソはゆっくり目を開き、小さく息をつく。

「高音も、中音も、低音も……。」

「最後までつながったな。」

混成サックス遊撃隊の隊員たちも、ようやく楽器を下ろした。

グランは巨大なチューバを肩へ担ぎ直し、静かに周囲を見渡す。

「皆の者。」

低く、よく通る声だった。

「よう戦った。」

「生きて帰るまでが運動会じゃ。」

「今日は皆、本当によく生き抜いた。」

その言葉だけで、何人もの隊員がその場へ座り込んだ。

楽器を抱いたまま泣く者。

空を見上げる者。

泥の上へ寝転ぶ者。

誰もが、生きていることを噛みしめていた。

マエストロは姿勢を正し、最敬礼した。

「ありがとうございます!」

「グラン閣下!」

グランは小さく頷く。

「マエストロ。」

「崩れかけたレギオンを、よう最後まで繋ぎ止めた。」

「見事じゃ。」

マエストロは照れ臭そうに笑った。

「いやぁ。」

「最後は援軍頼みでした。」

「それでも。」

グランは笑う。

「援軍が来るまで持ち堪えるのも、立派な指揮官の務めじゃ。」

続いて。

グラーヴェ軍曹へ向き直る。

「グラーヴェ音響団長。」

「民間人でありながら、この街を守り抜いた。」

「本部を代表して礼を申す。」

軍曹は頭を掻いた。

「礼なんざ要らねぇ。」

「自分らの町は、自分らで守った。」

「ただ、それだけだ。」

グランは満足そうに頷く。

そして。

俺の前まで歩いてきた。

「貴様がレッドか。」

「フォルテ坊から話は聞いておる。」

「えっ?」

思わず聞き返した。

「フォルテ……坊?」

あの鬼教官を。

坊?

俺は思わず口走る。

「グラン閣下……。」

「失礼ですが。」

「おいくつなんですか?」

一瞬。

運動場の空気が止まる。

グランはゆっくりと俺を見た。

「……。」

そして。

ニヤリと笑った。

「小僧。」

「レディに年齢を聞くものではないぞ?」

次の瞬間。

ドゴォォォォォォォォンッ!!!!

「誰がレディの年齢を聞けと言うたぁぁぁぁーーーっ!!!」

「うわああああぁぁーーーっ!!」

俺は吹き飛んだ。

「レッド様ぁぁぁーーーっ!」

リアルダが慌てて駆け寄る。

その様子を見たカプリッチョが、お腹を抱えて笑い転げる。

「キャハハハハ!」

「アンタ、おもしろーい!」

「ウチ、アンタ気に入ったコン!」

夕暮れの運動場に笑い声が広がる。

笑える者は笑い。

泣く者は泣く。

それでも誰もが、生きてこの夕暮れを迎えられたことを噛みしめていた。

その日、益田小学校の運動場に最後まで響いていたのは――

勝利のファンファーレではなく、

人々の笑い声だった。


第41話『飴玉とウルセンジャー』
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2026年07月04日

第39話『山陰の守護神』

第39話『山陰の守護神』


「ワハハハハハハハ!!」

「お前たち若造ども!」

「まだ運動会の途中じゃ!」

「勝手に閉幕するでないわ!」

豪快な少女の声が、益田小学校の運動場いっぱいへ響き渡った。

その一声だけで。

薄れかけていた俺の意識が強引に現実へ引き戻される。

士官学校で叩き込まれた戦況把握が、反射的に働く。

敵軍交戦中。

味方被害、甚大。

戦闘継続、極めて困難。

――そして。

腹の底まで響く重低音が、戦場全体を包み込んだ。

ドォォォォォン……

攻撃ではない。

崩れかけていた音響防壁を、

巨大な和音が優しく包み込む。

「防壁、再構築じゃ!」

「重奏防壁兵隊!」

「ワシに合わせい!」

チューバ隊。

打楽器隊。

重低音が重なる。

崩れかけていた防壁が、

巨大な城壁のように立ち上がった。

「重奏歩兵隊!」

「前へ出よ!」

トロンボーン。

ホルン。

ユーフォニアム。

疲弊し切っていた中音域部隊が、

再び歩調を合わせる。

「軽奏歩兵隊!」

「防壁に合わせて撃て!」

フルート。

クラリネット。

散開していた前衛が、

規則正しく弾幕を張り始める。

「遊撃隊!」

「敵指揮官から目を離すでない!」

俺たちトランペット隊にも新たな役割が与えられる。

崩れかけていた約二百名が。

再び一つの軍団となって動き始めた。

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

その中心に立っていたのは――。

「あれ……?」

思わず目をこすった。

「チューバより小さい女の子が……。」

「自分より大きいチューバ担いでる……。」

次の瞬間。

「誰が小さい女の子じゃああぁぁーーーっ!!」

ドゴォォォォォォン!!

超低音が炸裂する。

重低音が敵前衛を飲み込み、

蜘蛛紋章の兵たちがまとめて宙を舞った。

「なのだーーーっ!!」

「前衛が吹き飛ぶのだーー!」

防壁を立て直しながら。

同時に前線まで押し返す。

俺は呆然とした。

「これが……。」

「上級音術師……。」

だが。

なぜか。

俺まで吹き飛んだ。

「うわぁぁぁ!」

「きゃああぁぁ!」

リアルダも一緒だった。

「レッド様ぁぁぁ!」

「巻き添えですーーー!」

二人揃って泥の上を転がる。

「す、すまん!」

少女は豪快に笑った。

「ちぃと力加減を間違えたわ!」

豪快だった。

笑い方まで豪快だった。

その時。

「キャハハハハ!」

紫色の小さな影が、

防壁を軽々と飛び越えた。

「たのしーコン!」

「もっと遊ぶコン!」

敵前衛へ飛び込む。

戦闘員を抱えて放り投げる。

蜘蛛糸を引っ張る。

副官の横を駆け抜ける。

勢い余って。

防衛隊の防壁兵まで吹き飛ばした。

「防壁が崩れる!」

「きゃーーっ!」

「キャハハハ!」

「もう一回コン!」

グランが絶叫する。

「カプリッチョ!」

「ワシの防壁から外へ出るな!」

「わかったコン!」

元気よく返事をした。

俺は少し安心する。

……しかし。

次の瞬間。

「もっと遊ぶコン!」

敵本陣へ一直線だった。

「だから聞いとらんではないかぁぁぁーーーっ!!」

「ワシは敵を吹き飛ばしたいんじゃ!」

「お前を吹き飛ばしたい訳ではないわ!」

ドゴォォォォォォン!!

超低音が再び炸裂する。

カプリッチョを止めようとした一撃で。

敵も。

味方も。

まとめて吹き飛んだ。

「うわぁぁぁ!」

「またですーーー!」

俺とリアルダは。

本日二度目の巻き添えだった。

◇

敵本陣。

アラクネは額へ手を当てた。

「……最悪だわ。」

カリストスが静かに周囲を見渡す。

「隊長。」

「右翼、統制不能です。」

メリッサも苦笑する。

「左翼も同様です。」

「接触回避を提案します。」

アラクネは奥歯を噛み締めた。

「あの理不尽婆さんだけでも厄介なのに……。」

「よりにもよって。」

「あの暴走ギツネまで来たじゃない!」

メリッサが小さくため息をつく。

「……外交問題ですね。」

カリストスも頷いた。

「津和野大明神との盟約。」

「刺激する理由はありません。」

そこへ若い戦闘員が叫ぶ。

「倒しちゃえばいいのだ!」

その瞬間。

アラクネの顔色が変わる。

「馬鹿っ!」

「絶対に手を出すんじゃないわ!」

「傷一つ付けたらどうなると思ってるの!」

「津和野大明神様と、お姉様の不可侵条約が吹き飛ぶのよ!」

戦闘員たちが一斉に青ざめる。

「外交問題なのだ……。」

「だから言ってるでしょう!」

アラクネは頭を抱えた。

「勝ち負けじゃないの!」

「あの暴走ギツネが戦場にいる限り……。」

「レギオンが維持できないのよーーーっ!!」

その頃。

当の本人は。

「キャハハハハ!」

「もっと遊ぶコン!」

敵も味方も関係なく、

運動場を楽しそうに駆け回っていた。

その笑い声だけが、

運動会の空へ、

どこまでも明るく響いていた。


第40話『暴走ギツネ』
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2026年07月04日

第38話『消耗戦』(後編)

第38話『消耗戦』(後編)


俺自身も、とっくに限界を迎えていた。

初陣で撃ち過ぎた音響弾。

マウスピースへ押し当て続けた唇の裏側は、何ヶ所も裂けている。

口の中は、生温かい鉄の味で満たされていた。

ふと。

脳裏に、あの鬼教官――フォルテ司令官の姿が浮かぶ。

アカデミー卒業試験。

突如乱入してきた上位ランクの悪のみなさん。

それを。

たった一本のトランペットだけで。

一人で蹴散らした伝説の特級音術師。

(こっちは……。)

(地方支部総力を挙げても。)

(Bランク一体を止めるので精一杯なのに。)

思わず苦笑する。

(あの人は。)

(本当に化け物だったんだな……。)

急激な疲労が襲う。

視界が揺れる。

音が遠ざかる。

それでも。

会戦は止まらない。

軽奏歩兵隊は撃ち続ける。

重奏歩兵隊は戦列を支える。

重奏防壁兵隊は、穴の開いた音響防壁を低音で繋ぎ直す。

左右の遊撃隊は、わずかな隙を探し続ける。

約二百名の音術師が奏でる

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

誰一人、その音を止めようとはしなかった。

◇

敵陣中央。

山陰方面遠征軍軍団長アラクネもまた肩で息をしていた。

栗色の髪は土埃にまみれ、

蜘蛛脚の一本には大きな亀裂が入っている。

それでも。

「右翼……。」

かすれた声が響く。

「まだ前を向きなさい。」

「了解。」

カリストスは短く応じる。

左翼では。

メリッサが汗を拭った。

「軍団長。」

「今日は本当にしぶといですね。」

アラクネは小さく笑う。

「あなた達ほどじゃないわ。」

一瞬だけ笑みがこぼれる。

「……もう怒る元気もないわ。」

三人は顔を見合わせ、小さく笑った。

その向こうでは。

蜘蛛紋章の兵たちが互いを支え合いながら、なお前を向いている。

古代から続くレギオン。

今日もまた、静かに戦っていた。

◇

「右翼!」

マエストロの怒声が響く。

「まだ終わっちゃいない!」

「重奏歩兵隊!」

「前を支えろ!」

「防壁兵隊!」

「防壁を繋げ!」

「遊撃隊!」

「敵指揮官を見失うな!」

怒号が飛ぶ。

演奏が続く。

悲鳴が響く。

それでも軍団は前へ進み続けた。

俺だけが。

その流れから少しずつ遠ざかっていく。

膝が笑う。

指先へ力が入らない。

息を吸うだけで胸が痛い。

それでも。

ベルだけは下ろさなかった。

その時だった。

どこか懐かしい。

優しい女性の声が耳へ届く。

『お友達が待ってるわよ。』

『私のかわい子ちゃん。』

――母さん。

幼い頃。

泣いて帰った俺の頭を撫でながら、いつも笑ってくれた声。

胸の奥が、じんわりと熱くなる。

もう一度。

その声を聞きたくて。

俺はゆっくり顔を上げた。

霞んだ視界の向こう。

マエストロが叫ぶ。

グラーヴェ軍曹が戦線を支える。

カンタービレ軍曹が左翼を立て直す。

ジョコーソが耳を澄まし、崩れた音域へ混成サックス遊撃隊を送り続ける。

ブリランテが涙を流しながら吹いている。

アクセントが声を張り上げる。

ペザンテが仲間を背負って走る。

スタッカートが必死にベルを構える。

リアルダが情報端末を抱え、必死に俺を探していた。

誰も。

諦めていない。

誰も。

演奏を止めていない。

俺も。

まだ吹かなきゃ。

そう思った。

その瞬間――。

意識は静かに闇へ沈んでいった。

足元の土が、ゆっくり傾く。

「レッドーーッ!!」

誰かの叫びだけが、遠く響いた。

そして世界は、音もなく闇に溶けていった。


第39話『山陰の守護神』
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2026年07月04日

第37話『消耗戦』(前編)

第37話『消耗戦』(前編)


敵の隙を、俺たちの音が確かにこじ開けた。

そこへ決定的な楔を打ち込み、一気に前線を崩す。

そんな勝利への予感が、確かに脳裏をよぎった。

だが。

現実は甘くなかった。

約二百名の山陰支部。

約二百名の土蜘蛛軍団。

数だけなら互角。

しかし。

敵には山陰方面遠征軍軍団長アラクネ。

そして、古代から軍団を支え続けてきた二人の副官。

カリストス。

メリッサ。

三人の連携が、戦場の均衡を静かに支えていた。

俺たちが作った突破口は。

カリストスが塞ぐ。

左翼が揺らげば。

メリッサが繋ぐ。

中央では。

被弾したアラクネが泥だらけのまま立ち続けていた。

「右翼!」

カリストスの低い声が響く。

その声だけで、蜘蛛紋章の兵たちは迷いなく動く。

「左翼!」

メリッサが続く。

乱れた隊列は、瞬く間に整えられた。

俺は思わず息を呑む。

「……崩れない。」

リアルダは端末から目を離さない。

「隊列復元速度。」

「予測値を上回っています。」

崩れかけた敵戦線は、生き物のように息を吹き返していく。

その頃。

最後尾では、第一混成サックス遊撃隊を率いるジョコーソが静かに目を閉じていた。

見ているのではない。

聴いている。

高音の乱れ。

中音の揺らぎ。

低音の欠落。

約二百名が奏でる戦場全体の響きを、一つの音楽として聴いていた。

「……右前方。」

ソプラノ隊が駆け出す。

「中央。」

テナー隊が前線へ向かう。

「左後方。」

バリトン隊が防壁の穴を埋めに走る。

足りない音域へ。

必要な戦力だけを送り込む。

それが第一混成サックス遊撃隊。

ジョコーソの役目だった。

軽奏歩兵隊は、もう連続射撃を維持できない。

重奏歩兵隊も。

一歩前へ出るたび、誰かが膝をつく。

重奏防壁兵隊の音響防壁にも、少しずつ穴が開き始めていた。

それでも。

誰一人として持ち場を離れない。

約二百名の音響士が奏でる標準会戦陣形。

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

限界寸前の均衡だけが続いていた。

長い。

本当に長い時間だった。

乾いた運動場は。

両軍の血を吸い込み。

薄桃色の土煙が風に漂う。

敵陣中央。

アラクネは肩で息をしていた。

それでも。

蜘蛛脚を支えに立ち続ける。

「前衛!」

「その穴を埋めなさい!」

「保育隊!」

「子ども達から離れちゃダメよ!」

直後。

「ムキーーーーッ!!」

「そこ!」

「何やってるの!」

怒鳴られた戦闘員たちが慌てて隊列を戻す。

カリストスが苦笑する。

「軍団長。」

「落ち着いてください。」

「分かってるわよ!」

アラクネは頬を膨らませる。

「だからムキーってなるのよ!」

メリッサが思わず笑った。

「いつもの軍団長ですね。」

ほんの一瞬。

敵陣に笑みが広がる。

それでも隊列は崩れない。

マエストロが苦笑した。

「……あの三人。」

「息まで合ってやがる。」

グラーヴェが短く言う。

「千年。」

「伊達じゃねぇ。」

対するこちらも限界だった。

マエストロはソプラノサックスを背へ回し、バリトンサックスへ持ち替える。

指先から血が滲む。

それでも吹く。

吹き続ける。

「右翼!」

「弾幕が薄い!」

「音響団!」

「踏ん張れ!」

「重奏歩兵隊!」

「三歩前進!」

「ホルン!」

「左列を支えろ!」

「ユーフォ!」

「中央を埋めろ!」

怒号が飛ぶ。

音が飛ぶ。

血が飛ぶ。

それでも。

マエストロは一歩も退かなかった。

攻めるためではない。

皆を生きて帰すため。

戦線だけは崩さない。

その一心だった。

だが。

もう限界だった。

戦術ではない。

消耗だった。

どちらが先に力尽きるか。

そんな泥沼へ。

会戦は静かに姿を変えていた。

俺たち第一トランペット遊撃隊も。

一人。

また一人と膝をつく。

「隊長様……。」

ブリランテが涙を浮かべる。

「まだボク、吹けます!」

「隊長!」

アクセントが笑う。

「焼肉までは倒れません!」

ペザンテは黙って負傷者を運び続ける。

スタッカートも。

もう軽口を叩く余裕はなかった。

「リアルダ。」

「はい。」

「俺の背中から離れるな。」

「はい。」

情報士には。

自分を守る術がない。

だからこそ。

俺が守る。

それだけは決めていた。

戦場の空気が鉛のように重い。

敵も。

味方も。

限界だった。

それでも。

誰一人。

持ち場を離れない。

開戦から。

一時間近くが過ぎていた。


第38話『消耗戦』(後編)
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2026年07月04日

第36話『大編成会戦』(後編)

第36話『大編成会戦』(後編)


「第一トランペット遊撃隊!」

俺はベルを上げた。

「前へ!」

「了解です、隊長様!」

ブリランテが真っ先に飛び出す。

「ボク、行きます!」

ダブルタンギング。

タタタタタタッ!!

高速の連弾が敵前衛の足元を叩く。

「うおおおおっ!」

アクセントが雄叫びを上げる。

「押し返すぞーーー!!」

誰よりも声が大きい。

それだけで右翼の士気が上がる。

スタッカートは笑った。

「今日はツイてるっス!」

「昨日も言ってたぞ!」

アクセントが笑う。

「毎日ツイてると思えば、だいたいツイてるっス!」

「その考え方、嫌いじゃない!」

ペザンテは何も言わない。

バストランペットを担ぎ、防壁の薄い場所へ走る。

敵弾が飛べば。

無言でその身を盾にした。

その背中は、誰より頼もしい。

左翼では、カンタービレ軍曹が静かに号令を飛ばしている。

「ソステヌート、教範通り三歩前へ。」

「レガート、右翼との音圧差を調整してくださいまし。」

「グラツィオーソ、右後方を狙撃。」

「ドルチェ、後退者の援護を。」

右翼は勢い。

左翼は規律。

正反対なのに、一つの音楽になっていた。

俺はさらに前へ出る。

もう一歩。

その瞬間だった。

「坊主。」

低い声。

ゴツン。

クラリネットの管尻が頭へ落ちた。

「痛っ!」

振り向く。

グラーヴェ軍曹だった。

泥だらけの軍服。

傷だらけのクラリネット。

「前へ出過ぎだ。」

「ですが!」

軍曹は戦場から目を離さない。

「お前は遊撃隊長だ。」

「一番前で格好つける係じゃねぇ。」

言葉が詰まる。

軍曹は静かに前方を指差した。

農家のおじさん。

魚屋の老人。

郵便局員。

仕事着のまま楽器を吹く音響団。

誰も英雄じゃない。

それでも。

誰一人、音を止めない。

「あの農家は明日も畑へ出る。」

「あの魚屋は店を開ける。」

「あの爺さんもな。」

万国旗が風に揺れた。

「誰も。」

「戦うために生まれちゃおらん。」

軍曹は俺を見る。

「命は、有効に使え。」

胸へ突き刺さった。

母さんの死から逃げるように。

俺は誰より危険な場所へ立とうとしていた。

軍曹は、それを見抜いていた。

◇

その時だった。

敵陣中央。

アラクネが静かに右手を上げる。

その合図だけで、右翼と左翼が動く。

乱れた隊列が、瞬く間に組み直された。

マエストロが双眼鏡を覗きながら苦笑する。

「ほらな。」

「だから厄介なんだ。」

俺が振り向く。

「隊長?」

「ギリシャ御一行様だ。」

双眼鏡を少し下ろす。

「あの三人は。」

「昔から一つのレギオンで戦ってきた。」

「切り崩しても。」

「すぐ立て直す。」

少し笑う。

「だから今回は。」

「三人まとめて崩すぞ。」

俺は敵陣を見つめた。

右翼。

左翼。

中央。

互いに目を合わせなくても動ける。

長い年月を共に戦ってきた者だけが持つ呼吸だった。

◇

「レッドーーーっ!!」

マエストロの怒鳴り声が響く。

「機動遊撃隊!」

「援護射撃(Cover Fire)!!」

「了解!」

その瞬間。

リアルダが俺の隣へ滑り込んだ。

「レッド様。」

情報端末を高速で操作する。

「敵指揮官アラクネ、有効調律範囲内。」

「気温二十三度。」

「湿度六十八パーセント。」

「主管〇・八ミリ。」

俺は言われるまま、チューニング管を調整する。

カチッ。

「調律良好。」

リアルダは続けた。

「右翼弾幕、三秒周期。」

「左第四列、防壁に空隙発生予測。」

「斜角三度。」

「仰角一度右。」

「命中予測、七十二パーセント。」

俺は息を吸う。

リアルダが小さく笑った。

「撃てます。」

「何とかしてくださいね、レッド様。」

俺も笑う。

「何とかなるさ。」

ベルを構える。

そして――

吹いた。

『ぷひょっ』

『すぅぅぅ……』

『ぶぴちゅっ』

…………。

静寂。

防衛隊が止まる。

悪のみなさんも止まる。

子どもたちまで止まった。

リアルダも端末を抱えたまま固まる。

「…………え?」

計算は完璧だった。

風。

湿度。

調律。

弾道。

全部。

ただ一つ。

射手だけが計算に入っていなかった。

「ズコーーーーーッ!!」

前衛の戦闘員たちが一斉にずっこける。

「何なのだーーーっ!」

「調律以前なのだーー!」

運動場に笑いが広がる。

俺は今すぐ穴を掘って埋まりたかった。

だが。

敵陣中央。

アラクネだけは笑わなかった。

「警戒を維持。」

静かな一言だった。

その声だけで敵軍は笑いを止め、隊列を立て直す。

マエストロが口角を上げた。

「……遅ぇ。」

アルトサックスを下ろし、細身のソプラノサックスを構えた。

まるで狙撃銃だった。

「斜角よし。」

「仰角よし。」

「弾道計算よし。」

鋭い高音が一本だけ空を裂く。

ビキィィィン!!

音響弾は弾幕の隙間を縫い、一直線にアラクネへ向かう。

「来ます!」

敵軍が防御へ動く。

だが、笑いで生まれたほんの一瞬の遅れは消せなかった。

「甘いわ!」

アラクネは受け止めた。

それでも体勢が崩れる。

蜘蛛糸がわずかに開いた。

「レッド!」

マエストロが叫ぶ。

「今だ!!」

「追撃(Follow Up)!!」

「はいっ!!」

今度は迷わない。

腹の底から息を押し出す。

ロングトーン。

オレンジ色の音響弾が蜘蛛糸の隙間を貫いた。

ドガァァァァン!!

「きゃあぁっ!」

アラクネの身体が大きく後退する。

敵陣が揺れた。

それでも。

敵軍は崩れない。

左右から兵が流れ込み、再び中央を支える。

マエストロが苦笑した。

「だから言ったろ。」

「ギリシャ御一行は厄介なんだ。」

グラーヴェも鼻を鳴らす。

「腕は落ちとらん。」

土煙の向こう。

アラクネがゆっくり立ち上がる。

服についた土を払い、小さく笑った。

「……まだ終わりじゃないわ。」

その一言だけで。

二百名の軍勢が再び前を向く。

俺はベルを握り直した。

防衛隊も。

土蜘蛛軍団も。

誰一人、仲間を見捨てない。

万国旗が風に揺れる。

子どもたちの歓声が聞こえる。

運動場では、今日も笑顔が咲いている。

だから。

この戦いだけは。

負けられない。

俺は静かに息を吸った。

次の一音へ向けて。


第37話『消耗戦』(前編)
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2026年07月04日

第35話『大編成会戦』(前編)

第35話『大編成会戦』(前編)


アラクネ率いる土蜘蛛軍団・山陰方面遠征軍は、使命を妨害する山陰支部の戦力を一人でも減らしたい。

対する山陰支部もまた、山陰遠征軍の戦力を一体でも減らしたい。

上級使いの援軍が来るかどうか。

それは、今この瞬間の彼らには関係なかった。

今日ここで一体でも倒せば、明日どこかの町へ向かう雑音が一つ減る。

今日ここで一人でも防衛隊員を削れば、明日以降の人口調律は少しだけ進む。

この瞬間だけ。

両者の利害は一致していた。

だから――。

益田小学校。

万国旗が揺れる運動場で、防衛隊は約二百名による標準会戦陣形、

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

を完成させる。

対する土蜘蛛軍団もまた、約二百名の軍勢で迎え撃つ。

よーい。

ドン。

仲良く、最悪の運動会が始まった。

「全軍、音響弾幕展開(Sound Barrage)!!」

マエストロの号令が響く。

しかし、最初に放たれたのは攻撃ではなかった。

アルトサックスを高く掲げる。

「まずは――。」

「NOWパトロール!」

「Music!!」

次の瞬間。

運動場いっぱいへ明るいメロディーが広がった。

約二百名の音響士が奏でる音が、一つの音楽となって青空へ舞い上がる。

戦場には似つかわしくないほど、明るく、優しい音だった。

「あっ!」

泣いていた男の子が顔を上げる。

「この曲知ってる!」

女の子の涙も止まった。

「NOWパトロールだ!」

笑顔が広がる。

その瞬間。

悪のみなさんの隊列が、わずかに揺れた。

「依り代の恐怖が薄れるのだ!」

「調律が乱れるのだ!」

「不協和音が弱まるのだ!」

リアルダが端末を抱き締める。

「レッド様。」

「……届きました。」

「データ通りです。」

「すごいな。」

「音術師様は国家の財産です。」

少し照れたように笑う。

「情報士は、その財産が最も輝ける場所を探す係ですから。」

マエストロは満足そうに頷いた。

「よし。」

「笑顔は取り戻した。」

アルトサックスを敵陣へ向ける。

俺もベルを構えた。

そこで初めて敵軍全体が見えた。

漆黒の戦装束。

金色の蜘蛛紋章。

乱れのない隊列。

盾兵。

槍兵。

後方の重装兵。

マエストロは双眼鏡を覗き、小さく笑う。

「……おいおい。」

「また一緒か。」

「ギリシャ御一行様。」

「ご存じなんですか?」

俺が尋ねる。

「ああ。」

「あの中央がアラクネ。」

「右翼がカリストス。」

「左翼がメリッサ。」

「昔から三人でレギオンを組んでる。」

双眼鏡を下ろし、苦笑した。

「何度ギリシャへ帰れって言っても帰りゃしねぇ。」

グラーヴェが鼻を鳴らす。

「腐れ縁だ。」

「昔も今も変わらん。」

その横で、ジョコーソが敵陣を見つめたまま口を開く。

「……面倒な相手だな。」

短い一言だった。

マエストロは再び敵陣を見る。

「切り崩しても。」

「すぐ立て直してくる。」

「三人揃ったレギオンは面倒だ。」

敵陣中央。

アラクネが静かに右手を上げる。

カリストスが右翼へ合図を送る。

メリッサが左翼を前進させる。

約二百名が、一糸乱れぬ動きで前進を始めた。

「次は運動場を返してもらう。」

「散兵前進(Skirmishers Forward)!!」

軽奏歩兵隊が一斉に飛び出す。

「撃てぇぇぇーーーっ!!」

青白い音響弾が雨のように降り注ぐ。

「迎撃なのだーーー!!」

黒い不協和音が空を覆う。

激突。

爆音。

衝撃。

土煙。

「右翼、半歩後退。」

カリストスが静かに命じる。

「了解!」

「中央との間隔を維持!」

メリッサも叫ぶ。

「左翼、そのまま!」

「前列を入れ替えて!」

崩れない。

乱れても、すぐ立て直す。

マエストロが苦笑する。

「ほらな。」

「あいつら。」

「昔からこれが上手ぇんだ。」

「重奏防壁兵隊、防御弾幕(Defensive Barrage)!!」

低音が重なる。

巨大な防壁が空を覆う。

それでも。

一発。

また一発。

黒い音響弾が突破する。

「伏せろ!」

爆音。

楽器が転がる。

音響士が吹き飛ぶ。

それでも演奏は止まらない。

ここで止めれば、次に倒れる仲間が増える。

俺はベルを握り締めた。

これが会戦。

これが北方戦線。

笑顔のすぐ隣に、戦場がある。

「散兵、左右へ散開(Fan Out)!!」

軽奏歩兵隊が左右へ広がる。

中央が開く。

重奏歩兵隊が前へ出る。

そして――。

第一トランペット遊撃隊。

俺たちの出番が近づいていた。


第36話『大編成会戦』(後編)
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2026年07月04日

第34話『マエストロの演説』

第34話『マエストロの演説』


マエストロは、ゆっくりと前へ歩み出た。

山陰西部方面第一軍団。

その前に並ぶのは、防衛隊の地方採用音響士たち。

地元の音響団。

農家。

漁師。

商店主――。

今日まで、それぞれ別々の人生を歩いてきた人々だった。

だが今だけは違う。

全員が、一つの軍団だった。

マエストロは、一人ひとりの顔を見回す。

怖がっている若者。

静かに目を閉じる老人。

楽器を抱き締める女性。

誰もが震えていた。

その震えを受け止めるように、ゆっくりとうなずく。

そして、大きく息を吸った。

「諸君!」

運動場全体へ声が響き渡る。

「今日は、本来なら子ども達が笑って走り回る運動会だった。」

静まり返る運動場。

万国旗だけが風に揺れている。

「だが見ろ。」

マエストロは敵陣を指差した。

「招待状も持たず、勝手に運動場を占拠している礼儀知らずがいる。」

敵戦闘員たちが一斉にこちらを見る。

「子ども達の晴れ舞台を台無しにする連中に――」

少しだけ口元を上げる。

「山陰流のおもてなしを教えてやろうじゃないか。」

隊列のあちこちから笑みがこぼれた。

「今日、この運動場で一番うるさい演奏をするのは誰だ!」

ドンッ!!

重奏防壁兵隊の打楽器が地面を揺らす。

「我々だーーーっ!!」

「勝つのはどっちだ!!」

ドンッ!!

「我々だーーーっ!!」

「最後まで立っているのはどっちだ!!」

ドンッ!!

「我々だーーーっ!!」

「勝利の美酒に酔いしれるのはどっちだ!!」

ドドンッ!!

約二百名の音術師が一斉に叫ぶ。

「我々だーーーーっ!!」

怒号が山陰の空へ突き抜けた。

さっきまで震えていた隊員たちの目に、少しずつ火が宿る。

俺の胸も、不思議なくらい軽くなっていた。

これが。

マエストロという指揮官なのか。

その時だった。

「――マエストロォォォォォォォッ!!」

聞き覚えのある声が響く。

振り返る間もなく。

バチィィン!!

乾いた音が運動場へ響いた。

「この浮気者ーーーっ!!」

ジョコーソだった。

運動場が静まり返る。

マエストロは赤くなった頬を押さえ、小さく咳払いをした。

「……諸君。」

誰も動かない。

一拍置いて、肩をすくめる。

「これが近接攻撃の恐ろしさだ。」

沈黙。

そして次の瞬間。

「ぶはははははっ!!」

「マエストロ様ぁ!!」

「今のは見事だった!」

「敵ながら一本なのだ!」

敵味方の区別なく爆笑が広がる。

張り詰めていた空気が、一瞬でほどけた。

マエストロは苦笑しながらサックスを肩へ担ぐ。

「恐怖ってのはな。」

笑いが少しずつ収まる。

「笑われると、小さくなる。」

誰もが耳を傾ける。

「だから俺たちは笑う。」

敵陣を真っ直ぐ見据える。

「恐怖を笑い飛ばせ。」

その一言だけは、誰よりも真剣だった。

軽奏歩兵隊。

重奏歩兵隊。

重奏予備兵隊。

重奏防壁兵隊。

左右の機動遊撃隊。

後方では、混成サックス遊撃隊が静かに戦況を見据えている。

約二百名の音響士や音楽団たちが、それぞれの持ち場で一斉に楽器を構えた。

一つの巨大な軍楽隊。

一つの巨大な軍団。

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

マエストロがサックスを高く掲げる。

「全軍――」

一瞬の静寂。

「演奏開始ッ!!」

その号令と同時に。

山陰の青空へ、決死のファンファーレが鳴り響いた。

運動会の会戦が、ついに幕を開けた。


第35話『大編成会戦』(前編)
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2026年07月04日

第33話『アラクネ山陰遠征軍』

第33話『アラクネ山陰遠征軍』


敵陣天幕――。

益田小学校の裏山。

木々に隠れるように、黒い天幕が張られていた。

その中で、一人の女性が水晶型の通信機を見つめている。

漆黒の戦装束。

胸元を大胆に開いたギリシャ風の装い。

長い栗色の髪。

エキゾチックな顔立ち。

印象的なドミノマスク。

背中には、蜘蛛の脚を思わせる黒い装具。

土蜘蛛軍団・山陰方面遠征軍。

通称、アラクネ山陰遠征軍。

司令官。

Bランク怪人――アラクネ。

水晶が青白く輝いた。

その向こうに、艶やかな和装の女性が映し出される。

京都を本拠地とする土蜘蛛軍団総司令。

「首尾はどうかぇ」

「お姉様」

アラクネは姿勢を正した。

「二日前、匹見方面へ派遣したラミアから連絡が途絶えました」

「現在も消息不明です」

土蜘蛛は静かに頷く。

「あの子は簡単には負けないぞぇ」

「はい。それは、よく分かっております」

アラクネは眉を寄せた。

「しかし、中央を任せている彼女が不在のまま」

「会戦を仕掛けるには不安が……」

「不安と言えば……」

土蜘蛛が少しだけ首を傾げる。

「番犬が逃げてしもうたぞぇ」

「…………え?」

アラクネの顔が固まった。

「まさか……」

「神獣の百虎様がですか!?」

土蜘蛛は、こくりと頷いた。

そして一枚の写真を水晶へ向ける。

神社。

笑顔でピースする土蜘蛛。

その身体を包み込むように寄り添う、巨大な赤白の百虎。

「キャーーーーーッ!?」

「ふふっ。大袈裟ね」

「そっちで見かけたら、帰るように伝えてね♪」

「伝える前に食い殺されます!」

土蜘蛛は楽しそうに笑った。

「ふふっ。それと」

アラクネが嫌な予感に眉をひそめる。

「こっちは、防衛隊の最高戦力と交戦中でな」

「……はい」

「増員はできないぞぇ」

「…………」

土蜘蛛はにっこり笑った。

「貴方なら、きっとうまくできます♪」

プチッ。

水晶の光が消えた。

「え……」

静寂。

アラクネは水晶を見つめたまま固まる。

「ムっ……」

拳が震えた。

「ムっ、ムっ……」

「ムキーーーーーーーッ!!」

そのとき。

天幕の入口が開いた。

「アラクネ様、中央はどうなさいま――」

ベシッ!

「痛っ!」

頭を押さえるメリッサ。

「何なさるんです!」

「八つ当たりよ!」

「理不尽です!」

その後ろで。

カリストスは顔を背け、肩を震わせている。

アラクネが睨んだ。

「……カリストス」

「はい」

「笑ってるでしょ」

「いえ」

「こっち向きなさい」

「遠慮しておきます」

アラクネは深いため息をついた。

カリストスが咳払いする。

「それで」

「ラミア様の中央軍は、どうなさるおつもりで?」

「私が指揮をします」

即答だった。

メリッサとカリストスの表情が引き締まる。

アラクネは運動場へ視線を向けた。

「匹見でラミアが消えた」

「それだけじゃないわ」

指を一本立てる。

「理不尽な婆さん」

もう一本。

「暴走キツネ」

そして額を押さえた。

「……これ以上、想定外はいらないわ」

カリストスが腕を組む。

「グランディオーソですか」

「ええ」

アラクネは顔をしかめた。

「味方ごと吹き飛ばすわ」

メリッサが続ける。

「もう一人は」

「津和野の神獣ですね」

「命令を聞かない」

「隊列を崩す」

「レギオンそのものが成立しなくなるの」

二人は顔を見合わせた。

そして静かに頷く。

「承知しました」

アラクネは、ようやく少しだけ笑った。

「頼りにしてるわ」

そのとき。

天幕の外から声が響いた。

「保育隊ーーーっ!!」

「依り代ー!」

「危ないのだー!」

「鬼ごっこは後なのだー!」

「転んだら困るのだー!」

「待つのだーーー!」

子どもたちは大笑いしながら逃げ回っている。

アラクネは額を押さえた。

「遊びに来てるんじゃないわよーーーっ!!」

戦闘員たちが一斉に振り返る。

「違うのだ!」

「任務なのだ!」

「依り代が元気過ぎるのだ!」

メリッサが苦笑する。

「今日も平和ですね」

アラクネは運動場を見つめた。

赤白の万国旗。

校庭を駆ける子どもたち。

「……今日は、本当なら運動会だったのよね」

その呟きは風に消えた。

次の瞬間。

アラクネの表情が変わる。

「可愛い部下たち!」

約二百名の戦闘員が一斉に振り向いた。

「保育隊は依り代を守りなさい!」

「前衛は軽奏歩兵隊を押さえ込みなさい!」

「中央は重奏歩兵隊を足止めするのよ!」

「両翼! メリッサとカリストスの指示を厳守!」

「防衛隊の遊撃隊だけは絶対に自由にさせない!」

アラクネが腕を振り上げる。

「目的は殲滅じゃない!」

「『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』を崩し、山陰支部の戦力を一人でも多く減らすことよ!」

「了解!」

メリッサとカリストスが真っ先に応じる。

その声に続くように――。

「なのだーーーーっ!!」

約二百名の戦闘員の声が、校庭いっぱいに響き渡った。

運動会開始まで――。

あと、わずか。


第34話『マエストロの演説』
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2026年07月04日

第32話『士官の心得』

第32話『士官の心得』


「レッド君。」

天幕を出ようとした俺を、マエストロが呼び止めた。

「少しだけいいか。」

「はい!」

俺は慌てて敬礼する。

「そんな固くなるな。」

マエストロは笑いながら校舎裏へ歩き始めた。

俺も後を追う。

運動場から少し離れるだけで、不思議なくらい静かだった。

初夏の風が木々を揺らす。

校舎の白い壁に、柔らかな木漏れ日が揺れている。

さっきまであれほど騒がしかった運動場が、遠い世界のようだった。

マエストロは立ち止まる。

何も言わず右手を差し出した。

握手だと思い、俺も手を伸ばす。

その瞬間だった。

「……。」

震えていた。

マエストロの手が。

小さく。

だが確かに。

俺は思わず顔を上げた。

マエストロは苦笑した。

「驚いたか。」

「怖いんだよ。」

「毎回な。」

俺は何も言えなかった。

戦場で笑っていた人。

ブラックジョークを飛ばしていた人。

その手が震えている。

「レッド君。」

「士官が一番怖いものは何だと思う?」

「敵……でしょうか。」

「違う。」

「自分が傷付くこと。」

「違う。」

「死ぬこと……。」

「それも違う。」

マエストロは俺の胸を軽く叩いた。

「判断を間違えることだ。」

風が吹いた。

運動場から子ども達の笑い声が聞こえる。

「右へ行けと言えば。」

「右で誰かが倒れる。」

「左へ行けと言えば。」

「左で誰かが倒れる。」

静かな声だった。

「部下の命を預かるってのは、そういうことだ。」

俺は黙って聞く。

「だから。」

「怖くても笑う。」

「部下が震えていたら、お前が先に笑え。」

「敵が吠えたら、もっと大きく吠えろ。」

「恐怖を笑い飛ばせ。」

その言葉は演説ではなく。

十年間、北方戦線を生き延びた男の実感だった。

「でも……。」

俺は思わず口を開く。

「今の俺に、そんなハッタリなんてできません。」

「どうしたら、そんな風になれるんですか。」

マエストロはニヤリと笑った。

「勉強。」

そう言って。

どさっ。

俺の胸へ本を積み上げた。

「うわっ!」

思わず抱え込む。

『ローマ軍団戦陣訓』

『世界の名将演説集』

『戦争映画に学ぶ士官のブラックジョーク』

『負け戦を勝ち戦っぽく見せる話術』

「……。」

一冊だけ。

どう見ても空気が違う。

金髪碧眼。

露出度の高い美女が表紙で微笑んでいる。

俺は固まった。

「マエストロ。」

「何ですか、この最後の一冊。」

「士官の教養。」

「絶対違いますよね。」

「メンタルケア。」

「どこがですか。」

「人類の芸術。」

「方向性がおかしいです。」

マエストロは真顔だった。

「レッド君。」

「はい。」

「男はな。」

「心に余裕がなくなると。」

「演奏も人生も固くなる。」

「……。」

「だから美しいものを見る。」

「それも立派な士官教育だ。」

俺は返事に困った。

その時だった。

「マエストロ様。」

背後から冷たい声。

空気が一気に冷える。

振り向く。

リアルダだった。

いつもの笑顔。

……ではない。

「またですか。」

「新人に、その手の本を渡しているのは。」

「げ。」

マエストロの顔が引きつる。

リアルダは俺の腕の中へ手を伸ばした。

一番下の一冊だけを、見事な手際で抜き取る。

「没収します。」

「ああああっ!!」

マエストロが頭を抱えた。

「俺の戦略物資が!」

「不要です。」

「前線士官の精神安定剤だぞ!」

「不要です。」

「芸術作品なんだ!」

「不要です。」

「せめて表紙だけ!」

「不要です。」

容赦がなかった。

俺は思わず吹き出す。

マエストロも諦めたように笑い出した。

「あーっはっはっは!」

「見ただろ、レッド君。」

「北方戦線で一番怖いのは。」

リアルダを見る。

「情報士の検閲だ。」

リアルダはにっこり微笑んだ。

「レッド様。」

「音術師様は国家の財産です。」

「悪い遊びは覚えなくて結構です。」

「……はい。」

素直に返事をすると。

マエストロが肩をすくめる。

「真面目だねぇ。」

そして。

運動場の方を見た。

集結ラッパが鳴る。

軽奏歩兵隊が最前列へ展開する。

重奏歩兵隊が中央戦列を形成する。

重奏予備兵隊が後方で待機する。

重奏防壁兵隊が最後尾で音響防壁を展開する。

左右では、俺たち第一トランペット遊撃隊が機動遊撃隊として配置についた。

約二百名の音術師たちによる標準会戦陣形――

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

が、静かに完成する。

いよいよ始まる。

マエストロは帽子を深くかぶり直した。

「さて。」

さっきまでの軽さが消える。

「恐怖を笑い飛ばす時間だ。」

そう言って。

戦場へ歩き出した。

その背中は。

ほんの少しだけ。

もう震えてはいなかった。


第33話『アラクネ山陰遠征軍』
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2026年07月04日

第31話『天幕』(後編)

第31話『天幕』(後編)


マエストロだけが少し口元を緩めた。

「レッド君。」

「その答えなら。」

一拍置く。

「士官学校は卒業できる。」

俺は少しだけ安心しかけた。

だが。

「この運動会からは卒業できないぞ。」

胸を撃ち抜かれた。

マエストロは校庭を指差す。

「あそこにいる子ども達は。」

「上級使いが来るまで待ってくれない。」

「今日逃がした敵は。」

「明日には浜田へ行く。」

「明後日は松江へ行く。」

「また別の学校へ行く。」

静かな声だった。

だけど重かった。

「教科書は正しい。」

「勝てない戦いはするな。」

「俺もそう思う。」

そして。

軍帽をかぶり直す。

「でも北方戦線は違う。」

俺を見る。

「俺達は。」

「負ける戦いはしない。」

一拍置く。

「戦わない戦いもしない。」

その言葉が胸へ残った。

リアルダが静かに頷く。

「レッド様。」

「今ここにいる私達が、この街を守ります。」

グラーヴェ軍曹も短く言った。

「そのための軍団だ。」

その時だった。

運動場から集結ラッパが鳴り響く。

軽装歩兵隊が最前列へ展開を始める。

重奏歩兵隊が中央戦列を形成する。

重奏予備兵隊が後方で待機する。

重奏防壁兵隊が最後尾で音響防壁の展開準備に入る。

左右では、俺たち第一トランペット遊撃隊をはじめとする機動遊撃隊が持ち場へ散っていく。

さらにその後方。

一団だけ、動かない部隊があった。

第一混成サックス遊撃隊。

ソプラノ。

アルト。

テナー。

バリトン。

四種類のサックス使いたちが、一列に並び、静かに戦況を見つめている。

その先頭に、ジョコーソが立っていた。

「戦線に穴が空いたら、私たちが埋める。」

マエストロが頷く。

「混成遊撃隊は軍団最後の切り札だ。」

高音域が崩れればソプラノが走る。

中音域が崩れればアルトやテナーが走る。

低音域が崩れればバリトンが走る。

戦線の穴を埋めるためだけに編成された、軍団最後の予備戦力だった。

約二百名の音術師たちが、一つの巨大な楽器となるように持ち場へ散っていく。

散兵。

主力。

予備。

防壁。

機動遊撃。

混成遊撃。

どれか一つでも欠ければ、この軍団は機能しない。

益田小学校の運動場に、

国立音響防衛隊山陰支部標準会戦陣形――

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

が、静かに完成していく。

張り詰めた空気。

誰一人として無駄な動きはない。

風だけが、赤白の万国旗を揺らしていた。

その時だった。

「レッド君。」

振り返る。

マエストロが、いつもの軽い笑顔に戻っていた。

「少しだけいいか。」

その笑顔の意味を。

俺はまだ知らなかった。


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2026年07月04日

第30話『天幕』(前編)

第30話『天幕』(前編)


リアルダに案内され、俺は益田小学校の運動場脇に設けられた指揮天幕へ入った。

外では、子ども達の笑い声と悪のみなさんの悲鳴が入り混じっている。

「待つのだー!」

「やだー!」

「お姉ちゃーん! この鬼さん弱いよー!」

「弱くないのだー!」

さっきまで笑っていた世界とは違う。

天幕の中は静かだった。

机の上には校舎の見取り図。

運動場の配置図。

無線機。

部隊配置図。

張り詰めた空気。

ここだけは完全に戦場だった。

リアルダが敬礼する。

「情報士リアルダ、本部派遣音術師をお連れしました。」

俺も慌てて敬礼した。

「山陰西部方面第一トランペット遊撃隊、隊長のレッドであります!」

「初級トランペット使いです!」

「おっ。」

軽い声だった。

茶色い髪。

夜の街が似合いそうな甘い笑顔。

男は右手を差し出す。

「山陰西部方面第一軍団長、マエストロ。」

「中級サックス使いだ。」

ウインクしながら笑う。

俺は慌てて握手を返した。

その横で、豪快な笑い声が響く。

「ワーッハッハ!」

振り向くと、サックスケースを背負った女性士官が立っていた。

「第一混成サックス遊撃隊長、ジョコーソ。」

「初級サックス使いだ。」

にっと笑う。

「穴が空いたら私たち遊撃隊が走る。」

「安心して前だけ見て戦え。」

「よろしくお願いします!」

「ああ、よろしく。」

それだけ言うと、ジョコーソは一歩下がった。

その隣。

腕を組んだまま立っている大男が俺を見た。

「……卒業したてか。」

「は、はい!」

「本当にガキじゃねぇか。」

胸に刺さる一言だった。

リアルダが小さく咳払いをする。

「軍曹。」

「何だ。」

「レッド様は本部より派遣された音術師様です。」

「知っとる。」

「でしたらもう少し……」

「事実を言っただけだ。」

空気が少しだけ重くなる。

マエストロが肩をすくめた。

「まぁまぁ。」

「軍曹は口が悪いだけだ。」

「腕は保証する。」

グラーヴェ軍曹は何も言わない。

ただ、傷だらけのクラリネットを机へ置いた。

何年も戦場を渡ってきた楽器だった。

「さて。」

マエストロが作戦盤へ向く。

「リアルダ。」

「はい。」

彼女は赤い駒を一つずつ置いていく。

「敵戦力、保育部隊を除く戦闘員、およそ二百。」

赤い駒が運動場を埋める。

「副官級Cランク二体。」

さらに二つ。

最後に、大きな赤い駒が置かれた。

「指揮官。」

「Bランク怪人、アラクネ。」

その名が出た瞬間。

グラーヴェ軍曹が露骨に顔をしかめた。

「……また、あの女か。」

マエストロが苦笑する。

「アイツのパスポート、いつ切れるんだ。」

「ギリシャへ帰ってくれりゃ助かるんだけどな。」

リアルダも小さく笑う。

「残念ながら今回も不法滞在中です。」

天幕に小さな笑いが生まれる。

だが。

軍曹は笑わなかった。

「あの女をここで見逃せば。」

運動場へ目を向ける。

「山陰の人口減少に歯止めがかからなくなる。」

リアルダが静かに続けた。

「アラクネは山陰方面遠征軍の指揮官です。」

「各地域で依り代を確保し、不協和音による精神汚染を拡大しています。」

「放置期間が長いほど、人口流出と出生率低下が加速します。」

数字だけではない。

この街そのものが、少しずつ削られていく。

マエストロがサックスケースへ手を掛けた。

「だから。」

静かに笑う。

「ここで、できるだけ叩く。」

俺は作戦盤を見つめた。

敵は約二百。

こちらも約二百。

数だけ見れば互角。

だが、Bランク怪人一体とCランク副官二体が、その均衡を崩していた。

マエストロがこちらを見る。

「レッド君。」

「はい。」

「卒業したての知識を聞かせてくれ。」

「この戦力差、どう見る?」

俺は深呼吸した。

「現時点では防衛側が不利です。」

「敵は約二百の戦闘員。」

「Bランク一体。」

「Cランク二体。」

「こちらは地元音響団を含めても苦戦は避けられません。」

士官学校で何度も叩き込まれた教範。

そのまま口にした。

「教範通りなら。」

拳を握る。

「血の涙を流してでも一時撤退。」

「上級使いの到着を待つべきです。」

沈黙。

誰も笑わない。

マエストロだけが口元を少し緩めた。

「レッド君。」

「その答えなら。」

一拍置く。

「士官学校は卒業できる。」


第31話『天幕』(後編)
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2026年07月04日

第29話『運動会の会戦』第4部

第29話『運動会の会戦』第4部


それから、各方面の部隊が続々と集まり始めた。

軽奏歩兵隊。

重奏歩兵隊。

重奏予備兵隊。

重奏防壁兵隊。

左右の機動遊撃隊。

情報士、衛生隊、そして司令部。

普段なら、音楽祭か合同演奏会の準備にしか見えない光景だった。

けれど、誰も笑っていない。

楽器ケースが開かれる。

管体が組み立てられる。

マウスピースが差し込まれる。

リードが湿らされる。

暗譜した曲順が、小さな声で確認される。

合図の旗が、風の中で確かめられる。

フルートの高い音。

クラリネットの柔らかな音。

トロンボーンの重厚な響き。

ホルンの厚い和声。

ユーフォニアムの力強い支え。

サックス隊の濃密な音色。

トランペットの鋭い輝き。

チューバの重低音。

打楽器の乾いた確認音。

益田小学校の運動場に、

約二百名からなる国立音響防衛隊山陰支部標準会戦陣形――

『大編成会戦(シンフォニック・レギオン)』

が静かに完成していく。

「右翼、合図確認!」

アクセントの声が響いた。

「赤旗、散開!」

スタッカートが返す。

「白旗、停止!」

ブリランテが元気よく続く。

「黄旗、後退! 黒旗、防御陣形!」

ペザンテは黙って、予備の水と布を並べていた。

その手つきに迷いはない。

左翼では、カンタービレ軍曹が隊員たちを整えていた。

「ソステヌート、曲順」

「暗譜確認済みです」

「レガート、右翼との接続」

「距離、維持します」

「エネルジコ、前へ出過ぎないこと」

「押忍」

「ドルチェ、負傷者が出たら声を」

「はい。見落としません」

「グラツィオーソ」

「射線、見えています」

「頼もしいですわ」

みんな、慣れている。

怖くないわけじゃない。

でも、怖さの扱い方を知っている。

俺だけが、まだ知らなかった。

「レッド様」

リアルダが、隣に立った。

「大丈夫ですか」

「……何とかなるさ」

「今のは、少しだけ声が小さかったです」

痛いところを突かれた。

「レッド隊長」

カンタービレ軍曹がこちらを見る。

「胸を張ってくださいまし」

「分かってる」

「あなたが震えれば、右翼も震えますわ」

その通りだった。

俺は息を吸った。

少しだけ背筋を伸ばす。

校庭の向こうでは、悪のみなさんがまだ子供たちに振り回されていた。

泣き声。

笑い声。

怒号。

調律音。

山陰の青空の下に、全部が混ざっていた。

その時、伝令の隊員が走ってきた。

「レッド隊長」

俺の喉が鳴った。

「指揮天幕へ。マエストロ軍団長がお呼びです」

風が吹いた。

校庭の端に張られた指揮天幕の入口が、静かに揺れていた。

その向こうだけ、空気が違って見えた。

リアルダが一歩、隣に並ぶ。

「参りましょう、レッド様」

カンタービレ軍曹が、静かに敬礼した。

「右翼と左翼は、こちらで維持しますわ」

ブリランテが胸の前で拳を握る。

「隊長様、ボクたち待ってます!」

アクセントが叫ぶ。

「隊長、堂々と行ってください!」

スタッカートが笑う。

「噛まないようにっすよ」

ペザンテが、小さく頷く。

「……行ってらっしゃい」

俺は、うまく笑えなかった。

それでも、少しだけ口角を上げた。

「何とかなるさ」

今度は、さっきより少しだけ声が出た。

俺は天幕へ向かって歩き出す。

運動場の土を踏むたび、靴の裏で乾いた音がした。

赤白の万国旗が、頭上で揺れている。

白い校舎の窓に、青空が映っている。

外の運動会とは違う音が、天幕の中から漏れていた。

低い無線のノイズ。

紙をめくる音。

誰かの短い命令。

俺は一度だけ振り返った。

仲間たちがいた。

子供たちがいた。

泣いている母親がいた。

悪のみなさんがいた。

そして、そのすべてを守るために集結した約二百名の音術師たちがいた。

益田小学校の運動場に、全部があった。

俺はトランペットケースを握り直す。

まだ膝は震えていた。

それでも、ケースだけは離さなかった。

そして、指揮天幕の前で足を止めた。

次の一歩を踏み出せば、もう戻れない。

俺は息を吸った。


第30話『天幕』(前編)
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2026年07月04日

第28話『運動会の会戦』第3部

第28話『運動会の会戦』第3部


「お前が本部から来た士官か」

低い声がした。

振り向く。

そこに、熊みたいな男が立っていた。

日に焼けた肌。

太い腕。

深い皺。

顔つきは、岩を削って作ったように厳つい。

手には傷だらけのクラリネット。

その存在感だけで、周囲の空気が一段重くなる。

「地元音響団の団長、グラーヴェだ」

男は短く名乗った。

「軍曹でいい」

俺は反射的に敬礼した。

「山陰西部方面第一トランペット遊撃隊、隊長のレッドであります!」

声が裏返った。

最悪だった。

グラーヴェ軍曹は、俺の頭から足元までをじろりと見る。

そして。

「……なんだ」

短く言った。

「ガキじゃねぇか」

胸に刺さった。

深く。

正確に。

「ぐっ……」

「軍曹」

カンタービレが一歩前に出る。

「レッド隊長は、本部より正式に派遣された音術師ですわ」

「知ってる」

「でしたら、もう少し言い方があるのではなくて?」

「ガキをガキと言って何が悪い」

「その率直すぎる物言いは感心しませんわ」

「お前も相変わらず教範みたいな女だな」

「褒め言葉として受け取っておきますわ」

静かな火花が散っていた。

リアルダが俺の袖を小さく引く。

「レッド様。グラーヴェ軍曹は、言葉は怖いですが、信頼できる方です」

「信頼できる人は、初対面でガキって言うのか」

「北方戦線では、わりと」

「帰りたい」

「まだ到着したばかりです」

グラーヴェ軍曹は、校庭へ視線を戻した。

「あれが現状だ」

その声から、冗談が消えた。

「悪のみなさんの大軍勢。戦闘員多数。ランク持ちも混じっている。だが、今のところ攻めてくる気配はない」

「なぜです」

「依り代の調律が安定していない」

軍曹は、泣いている子供たちを見る。

「泣く。走る。騒ぐ。怪人を叩く。角を引っ張る。子供ってのは、敵にとっても厄介なんだよ」

その言葉を、リアルダが引き継いだ。

「悪のみなさんは、子供たちの純粋な心を依り代にしています」

カンタービレも静かに続ける。

「怪人の核は、その依り代の中に隠れますわ。だから銃も刃も決定打にはなりません」

「生の楽器による音響攻撃だけが、核の調律を乱せる」

俺は、士官学校で習った通りの答えを口にした。

カンタービレが頷く。

「その通りですわ」

リアルダは校庭を見つめた。

「ですが、子供を傷つければ、怪人側も困ります。核が不安定になりますから」

つまり。

奴らは子供を人質にしながら。

同時に、子供を守らなければならない。

だから。

「待つのだー!」

「やだー!」

「走ると転ぶのだー!」

「つかまえてみろー!」

という、意味不明な光景になる。

笑える。

笑えるはずだった。

けれど。

校門の外。

規制線の向こう。

母親らしき女性が泣いていた。

泣いている子供に向かって、必死に手を振っている。

その手は、届かない。

万国旗が風に揺れる。

白い校舎の窓が、静かに光っている。

俺は、笑えなくなった。

リアルダが静かに言う。

「子供は、守らなければいけませんから」

風が吹いた。

運動場の土が、薄く舞った。


第29話『運動会の会戦』第4部
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2026年07月04日

第27話『運動会の会戦』第2部

第27話『運動会の会戦』第2部


軍用車は、益田の街を抜けて走った。

車窓の外には、静かな生活が流れていた。

田んぼ。

家並み。

電柱。

自転車で走る高校生。

開店準備をする店。

朝の光を受けた川。

その全部が、あまりにも普通だった。

これから向かう場所が戦場だなんて、誰が信じるだろう。

車内では、隊員たちが手順を確認していた。

譜面は開かない。

全員、暗譜している。

「曲順確認」

カンタービレ軍曹の声が、後方車両から無線で入る。

「第一候補、児童向け行進曲。第二候補、地域指定曲。第三候補、即応ファンファーレ」

「右翼了解!」

アクセントが即答する。

「合図確認。赤旗で散開。白旗で停止。黄旗で後退。黒旗で防御陣形」

「了解っす」

スタッカートの声。

「ブリランテ、連弾は合図が出るまで待機」

「はい! 隊長様の合図まで我慢します!」

「ペザンテ、予備管と水」

「……確認済みです」

皆、慣れていた。

怖くないわけじゃないのだろう。

けれど、手が動いている。

言葉が出ている。

次に何をするかを知っている。

俺だけが、胸の奥で鳴る音を抑えられずにいた。

やがて、益田小学校が見えてきた。

市街地の中にある、白い校舎。

陽射しを受けた窓ガラスが、きらりと光っている。

校舎の向こうには体育館の屋根。

運動場の端には、鉄棒と遊具。

校門のそばには、朝のまま残された案内板が立っていた。

今日は、楽しい運動会のはずだった。

赤白の万国旗が、運動場の上で風に揺れている。

「……運動会?」

思わず声が漏れた。

校庭にはテントが並んでいた。

保護者席もある。

入退場門もある。

白線も引かれている。

もし何も知らずに来ていたら、ただの学校行事だと思っただろう。

だが、校庭の外周には、警察車両が並んでいた。

消防車。

救急車。

防衛隊車両。

無線機を抱えた隊員たちが、土埃の中を走っている。

校門の外では、保護者らしき人たちが規制線の向こうから、じっと運動場を見つめていた。

誰かが泣いていた。

誰かが、両手を合わせていた。

運動会と戦場。

混ざるはずのない二つが、同じグラウンドに押し込められていた。

車が停まる。

扉が開く。

土の匂いが入ってきた。

「降車」

カンタービレ軍曹の声が飛ぶ。

隊員たちが一斉に動いた。

俺もトランペットケースを掴んで、車外へ降りた。

その瞬間。

「お母さぁぁぁぁん!!」

校庭の中央から、幼い泣き声が響いた。

反射的に目を向ける。

小さな女の子が泣いていた。

その周囲に、黒い戦闘服を着た悪のみなさんの戦闘員が三人。

俺は息を呑んだ。

敵だ。

そう思った。

しかし。

「ど、どうするのだ!?」

「泣き止まないのだ!」

「飴を渡すのだ!」

「さっき渡したら、いらないって言われたのだ!」

「保育士ランクの戦闘員を呼ぶのだ!」

「今日は別の依り代の寝かしつけに行っているのだ!」

戦闘員たちは、完全にパニックだった。

女の子がさらに泣く。

「お母さぁぁぁん!」

「わ、我々は怖くないのだ!」

「怖い顔をするななのだ!」

「これ以上泣かれると、核の調律が乱れるのだ!」

俺は、しばらく黙った。

そして。

「……何やってるんだ、あいつら」

本音が漏れた。

スタッカートが横で小さく笑う。

「いつも通りっすね」

「いつもなのか」

「わりと」

嫌な情報だった。

少し離れた場所では、小学生くらいの男の子が全力疾走していた。

その後ろを、戦闘員が二人、必死に追いかけている。

「待つのだー!」

「依り代が逃げると困るのだー!」

「つかまえてみろー!」

「やめるのだー!」

「上司に怒られるのだー!」

完全に鬼ごっこだった。

しかも子供の方が楽しそうだった。

さらに校庭の隅。

鉄棒の近くに、巨大な怪人がいた。

二メートルを超える体。

角。

牙。

巨大な腕。

見た目だけなら、間違いなく恐怖の象徴だ。

だが、その周囲には幼稚園児たちが群がっていた。

「そのツノ本物ー?」

「しっぽ触っていいー?」

「だめなのだ!」

「つんつんするななのだ!」

「そこは調律器官なのだ!」

「がおー!」

「ぜんぜん怖くなーい!」

「困るのだー!」

怪人は泣きそうだった。

ブリランテがぽつりと言った。

「隊長様」

「何だ」

「ボク、ちょっと混ざりたいです」

「駄目だ」

「ですよね」

カンタービレ軍曹が、静かに咳払いをした。

「戦場ですわ」

その一言で、少しだけ空気が戻った。

俺は空を見上げた。

青かった。

嫌になるくらい、綺麗な青だった。


第28話『運動会の会戦』第3部
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2026年07月04日

第26話『運動会の会戦』第1部

第26話『運動会の会戦』第1部


4月下旬。

益田駐屯地に、一本の無線が入った。

空はよく晴れていた。

駐屯地の向こうに見える山の稜線には、薄い雲がゆっくりとかかっている。

風はまだ少し冷たい。

けれど、日差しの中には初夏の匂いがあった。

俺は宿舎の窓から、その空をぼんやり眺めていた。

逃げてきた。

母さんの死から。

スカーレットという名前から。

士官学校の視線から。

フォルテ教官の影から。

全部から逃げて、俺はここに来た。

特級使いが簡単には派遣されない北方戦線。

誰も、俺を英雄の息子として見ない場所。

そう思っていた。

机の上には、俺のトランペットが置かれている。

ヤマハ・ニューヨークモデル。

朝日を受けたベルが、静かに光っていた。

「……何とかなるさ」

小さく呟いた。

自分に言い聞かせるための言葉だった。

その時だった。

廊下の向こうから、足音が近づいてきた。

コンコン。

扉が叩かれる。

「レッド様」

褐色の肌。

短く整えた髪。

華奢な身体に、情報士の制服。

リアルダだった。

いつも柔らかく笑う彼女の顔が、その朝だけは少し硬かった。

「緊急出動です」

俺は反射的に立ち上がった。

「場所は」

「益田市立益田小学校です」

リアルダは端末を開いた。

画面に、校舎の写真と地図が映る。

町の中にある、本当に普通の小学校。

校舎。

体育館。

運動場。

通学路。

そのどれもが、戦場という言葉からは遠すぎた。

「地元音響団から、益田駐屯地へ救援要請が入りました」

「敵は」

「悪のみなさんです」

口の中が乾いた。

「規模は」

リアルダは、一瞬だけ黙った。

その沈黙で、だいたい分かった。

「……大軍勢です」

窓の外で、鳥が一羽鳴いた。

やけに澄んだ声だった。

◇

駐屯地の格納庫前には、すでに山陰西部方面第一トランペット遊撃隊の面々が集まっていた。

俺の部隊だ。

そう言うと、今でも少しだけ背中がむず痒くなる。

「隊長!」

一番大きな声で駆け寄ってきたのは、アクセントだった。

熱血漢。

一番声が大きい。

そして、何をするにも前のめり。

「いつでも行けます! 俺が道を開きます!」

「道を開く前に、命令を聞け」

「了解です! 命令を聞いてから道を開きます!」

あまり変わっていない。

その横で、スタッカートが軽い調子で手を振る。

「隊長、顔色悪いっすよ。朝ごはん抜きました?」

「緊張してるだけだ」

「え、会戦で緊張してるんすか?」

悪気はなかった。

たぶん。

俺は返事に詰まった。

スタッカートは、そこで初めて「あ」と口を閉じる。

ペザンテが大きな身体で、黙ってスタッカートの肩を掴んだ。

「……隊長は、本部から来たばかりだ」

「そ、そうっすよね。すみません」

スタッカートは頭をかいた。

会戦。

その言葉が、ここでは当たり前に使われている。

俺だけが、まだその重さを知らない。

「隊長様!」

明るい声が跳ねた。

ブリランテだった。

元気な後輩。

一人称は、ボク。

そして俺のことを、なぜか最初から隊長様と呼ぶ。

「隊長様、ボクのダブルタンギング、今日は絶好調です! 連弾で敵の足を止めます!」

「頼りにしてる。でも飛ばし過ぎるなよ」

「はい! 飛ばし過ぎない程度に、全力で飛ばします!」

やっぱり不安だった。

左翼の方では、カンタービレ軍曹が整列を済ませていた。

きっちり揃えたショートカット。

真っ直ぐな背筋。

涼やかな目。

教範をそのまま人間にしたような女性だった。

「レッド隊長」

「カンタービレ軍曹」

俺が敬礼すると、彼女も綺麗に敬礼を返した。

「右翼の皆様、少々声が大きすぎますわ」

「否定できない」

「その楽観的な考え方は感心しませんわ」

いきなり口癖が飛んできた。

彼女の後ろでは、左翼隊が静かに準備を進めている。

ソステヌートは、暗譜した曲順を小声で確認していた。

レガートは、右翼との間隔を測るように視線を動かしている。

エネルジコは、靴紐を結び直していた。

ドルチェは、予備の水筒を丁寧に並べている。

グラツィオーソは、ただ黙って、トランペットのベルを布で拭いていた。

右翼は勢い。

左翼は規律。

その真ん中にいる俺が、一番頼りない。

笑えない冗談だった。

「レッド様」

リアルダが俺の横に並ぶ。

「音術師様は国家の財産です。どうか、無茶だけはなさらないでくださいね」

「努力する」

「努力ではなく、確約が欲しいです」

「……何とかなるさ」

リアルダは、少しだけ眉を下げた。

「それが一番不安です」


第27話『運動会の会戦』第2部
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2026年07月04日

第25話『あの時と同じ』

第25話『あの時と同じ』


三体の怪人が。
ゆっくりと体勢を戻す。

黒い不協和音が。
周囲へ広がった。

コン・ブリオが。
フルートを構える。

「レッド。」

「唇と楽器は。」
「あったまったね。」

「……おかげ様でな。」

俺は。
少しだけ顔を赤くした。

『ふぅーるる――』

柔らかな音が。
店内へ流れる。

「無駄口叩く余裕も。」
「なくしてやるぜ!」

「くらえ!」

三体の音響弾が。
一斉に放たれる。

だが。

一発も。
俺達には届かない。

「何で当たらんのか!」

怪人達が。
次々と不協和音を放つ。

その間に。

俺は。
ニューヨークモデルを構えた。

淡い橙色の小鳥が。
ベルの周囲を舞い始める。

次々と集まり。
ベルへ吸い込まれていく。

「おい。」
「何かまずい!」

「防御弾幕を張れー!」

歪んだ♪が。
三体の前へ集まり始める。

波打つ五線が。
幾重にも重なる。

コン・ブリオが。
静かに言った。

「もう遅い。」
「解析済みさ。」

右手を上げる。

「レッド。」

「斜角三十五度。」
「仰角十五度。」

「今だ!」

――ティン。

コン・ブリオの誘導で。

橙色の音響弾が。
怪人達の防御弾幕の隙間へ。
吸い込まれた。

「ゴフっ!」

「グワっ!」

「ガガっ!」

一瞬遅れ。

ドゴォォォォォン!!

爆音が。
店内を揺らした。

展示された楽器が。
一斉に震える。

避難誘導中の。
ブリランテが頭を抱えた。

「きゃーっ!」
「地震ですよー!」

リアルダが。
目を見開く。

「まさか……。」
「レッド様……。」

◇

煙が晴れる。

二体の怪人は。
すでに消えていた。

残った一体も。
その場へ崩れ落ちている。

それでも。
俺を見ていた。

「……その波長。」

「何だ?」

「まさか……。」

「何を言ってる。」

怪人が。
苦しそうに笑う。

「気付いて……。」
「おらんのか……。」

「……。」

「そうか。」
「だからこそ……。」

「恐ろしい。」

その姿も。
やがて消えた。

静寂。

◇

コン・ブリオが。
俺を見ていた。

「……何だ?」

「いや。」

コン・ブリオは。
小さく笑った。

「何でもないよ。」

「そうか。」

◇

店内は。
戦闘の余波で。
見るも無残な姿になっていた。

砕けたガラス。
倒れた棚。

陳列されていた楽器も。
無残な姿になっている。

「……。」

俺は。
頭をかいた。

「スミマセン。」
「めちゃくちゃにして……。」

店員は。
店内を見回しながら。
苦笑した。

「けが人はありませんでしたし。」
「保険にも入っておりますので。」

「大丈夫ですよ。」

「……本当にすみません。」

「それより。」

店員が。
俺のニューヨークモデルを見る。

「マウスピース。」
「お気に召していただけましたか?」

「……。」

手元を見る。

試奏の途中から。
ずっと挿したままだった。

YAMAHA 16C4。

コン・ブリオと再会し。

そのまま。
三体の怪人と戦った一本。

マウスピースへ。
手を添える。

「コレで……。」
「十分だと思います……。」

横から。
ブリランテが。
目を輝かせる。

「地震を起こすマウスピース!」

「凄いですよー!」
「凄いですよー!」

俺はブリランテを睨む。

「こんなにして。」
「凄くない!」

リアルダが。
壊れた店内を見回す。

一拍。

「確かに。」
「そうですね……。」

コン・ブリオが。
小さく笑った。

「ふふっ。」

◇

コインパーキング。

軍用車の前まで。
コン・ブリオが。
見送りに来ていた。

リアルダが。
申し訳なさそうに頭を下げる。

「コン・ブリオ様。」

「わざわざ。」
「お見送りに来られなくても。」

「レッドのおかげで。」
「僕達は助かったんだ。」

「俺は。」
「お前の指示に従っただけだ。」

コン・ブリオを見る。

「それより。」
「一人で行動はするな。」

「ああ。」
「肝に銘じておく。」

その横から。
ブリランテが。
元気よく手を振る。

「イケメン様!」
「またお会いするですよー!」

「おい!」
「名前が違う。」

笑いが漏れる。

コン・ブリオは。
リアルダとブリランテを見る。

「実は。」
「本当に心配してたんだ。」

一拍。

「リアルダ君。」
「ブリランテ君。」

「レッドのことを頼む。」

「お前は俺の親か。」

また。
笑いが漏れた。

コン・ブリオが。
静かに手を上げる。

「では。」

「ああ。」
「またな。」

軍用車へ乗り込む。

ディーゼルエンジンが。
低く唸った。

車は。
ゆっくりと。
コインパーキングを出ていく。

コン・ブリオは。
その姿を。
じっと見つめていた。

やがて。

右手を。
ぐっと握る。

(やっぱり。)

(あの時と同じだ。)

(スカーレット様と。)

(限りなく近い波長。)

(本人は。)

(まだ気付いていない。)

――コン・ブリオとの再会編・完――


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2026年07月04日

第24話『狙ったな』

第24話『狙ったな』


店内へ。
低音のロングトーンが響く。

『ブォォォォォ────』

ニューヨークモデルから。
太く。
温かな音。

淡い橙色の♪が。
ゆっくりと店内へ広がっていく。

床。
壁。
天井。
並んだ楽器。

その中へ。
コン・ブリオの音が。
静かに寄り添う。

『ふぅーるる――』

コン・ブリオは。
目を閉じていた。

店内の残響。
天井の高さ。

壁。
床。
ガラス。

そして。
何十本もの楽器。

すべてを。
耳で測っているようだった。

やがて。
小さく呟く。

「やっぱり。」
「よく響く。」

三体の怪人が。
構える。

手のひらから。
黒く歪んだ♪が浮かぶ。

「小細工しよる場合か!」

三方向。

黒い音響弾が。
一斉に放たれた。

「レッド。」
「そのまま。」

「了解。」

俺は。
低音を切らない。

コン・ブリオのフルートが動く。

『ふるるっ!』

店内に広がる。
俺の淡い橙色の♪。

その間を。
コン・ブリオの♪が走る。

重なる。
つながる。

三つの黒い音響弾が。
僅かに軌道を変えた。

一発。
頭上。

二発目。
横。

三発目が。
俺達の間を抜けていく。

「何!?」

「当たらないだと!」

「俺達の音響弾がそれていく!」

もう一体が。
目を細める。

「音を誘導しよる……。」

コン・ブリオは。
何も答えない。

ただ。
店内へ響く音を聴いている。

そして。
右手を上げた。

「レッド。」

「ん?」

「ハイB♭。」
「斜角三十五度。」
「仰角十五度。」
「放って。」

「了解。」

ロングトーンを切る。
大きく息を吸った。

ベルを上げる。

淡い橙色の♪が。
ベルの周囲へ集まり始める。

(ここだ。)

『…………プスゥ。』

「…………。」

♪が。
消えた。

空気だけが抜ける。

店内が。
静まり返った。

「隊長様っ!?」

避難誘導を続けていた。
ブリランテが振り返る。

リアルダも。
目を見開いた。

「レッド様!?」

三体の怪人も。
止まった。

「……。」

一体が。
肩を震わせる。

「くっ。」

「はははははっ!」

「何じゃ!」
「そのへっぴり腰は!」

俺は。
顔から火が出そうだった。

「す、すまん!」
「いきなりハイB♭は……。」

その時。

コン・ブリオが。
静かに微笑んだ。

「レッド。」
「次。」

「チューニングB♭。」
「同じ角度。」

「……え?」

「そのまま吹いて。」

意味は分からない。

だが。

俺は。
コン・ブリオを信じた。

ゆっくり。
息を吸う。

ベルを構える。

『ベェェェェェ──────』

その瞬間。

先ほどまで。
店内へ広がっていた。
淡い橙色の♪が。
一斉に震えた。

コン・ブリオの♪も。
それに重なる。

床。
壁。
天井。
ガラス。

展示されている。
何十本もの楽器。

――ブゥン。

店そのものが。
鳴った。

「なっ!?」

三体の怪人が。
同時に顔を上げる。

太い。
柔らかい。

それでいて。
凄まじい音圧。

音響弾ではない。

ただの。
チューニングB♭。

けれど。

一つの音が。
店内を巡り。

重なり。

何十本もの楽器を震わせ。

再び。
俺達のところへ返ってくる。

『ベェェェェェ──────!!』

「ぐっ!」

三体の怪人が。
一斉に後ろへ押された。

黒く歪んだ♪が。
ばらばらに散る。

「なんじゃ。」
「この音圧は……!」

リアルダが。
呆然と店内を見る。

「ただの……。」
「チューニングB♭……?」

ブリランテの目が。
輝いていた。

「すごい……。」
「隊長様……。」

俺自身が。
一番驚いていた。

音を切る。

余韻だけが。
店内を巡っている。

「今の……。」
「何だったんだ?」

コン・ブリオが。
フルートを下ろす。

「ハイB♭を吹こうとして。」
「口が。」
「高音を出す状態になった。」

「その直後に。」
「一番楽に響く音を吹いてもらった。」

「……。」

俺は。
店内を見る。

最初のロングトーン。
コン・ブリオのフルート。

角度。

そして。
ハイB♭。

最初から。
全部。

「……狙ったな。」

コン・ブリオは。
答えない。

ただ。

「ふふっ。」

と。
微笑んだ。

「……やってくれたな。」

その向こう。

三体の怪人が。
ゆっくりと体勢を戻す。

さっきまでの笑いは。
消えていた。

先頭の一体が。
こちらを睨む。

「おもろい。」

黒く歪んだ♪が。
再び。
三体の周囲へ集まり始める。

「なら。」
「こっちも本気でいくで。」

空気が。
軋んだ。

本当の戦いは。
ここからだった。


第25話『あの時と同じ』
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2026年07月04日

第23話『Cランク三体』

第23話『Cランク三体』


ガラスが。
砕け散った。

店内へ。
黒い靄が流れ込む。

「きゃああっ!」

悲鳴。

客たちが。
一斉に入口から離れる。

黒い靄の向こう。

三つの影が。
ゆっくりと姿を現した。

リアルダが。
端末を見る。

「敵性反応確認!」
「神気測定――」

一瞬。
表情が変わる。

「Cランク個体。」
「三体です!」

「皆さん!」
「店の奥へ!」
「避難してください!」

ブリランテが。
トランペットを構える。

「隊長様!」
「ボクも戦います!」

その時。

「待って。」

静かな声。

コン・ブリオだった。

ブリランテのベルへ。
そっと手を添える。

「ウォーミングアップもしていないだろう?」

「え……。」

「今の君では危ない。」

「でも!」

「避難誘導を。」

「それが今。」
「一番大切な任務だ。」

「……。」

ブリランテが。
唇を噛む。

「……はい!」

すぐに。
客たちの方へ走った。

「皆さん!」
「こちらですよー!」
「慌てないでください!」

リアルダは。
端末を操作する。

「店内構造。」
「反響率。」
「敵性波形を――」

「リアルダ君。」

コン・ブリオが呼ぶ。

「はい?」

「本部へ報告を。」

「分析は?」

「僕がやる。」

「……。」

一瞬。
リアルダが止まる。

「お願いできるね。」

「……了解しました。」

通信へ切り替える。

「山陰支部!」
「こちらリアルダ!」

「広島市内。」
「ヤマハ楽器店!」

「Cランク個体。」
「三体!」

「中級音術師コン・ブリオ様。」
「初級音術師レッド様が交戦します!」

その声を聞きながら。

俺は。
ニューヨークモデルを構える。

黒い靄が晴れる。

先頭の怪人が。
コン・ブリオを見た。

にやりと笑う。

「やっと隙を見せたな!」

隣の怪人が。
周囲を見回す。

「おい!」

「民間施設への攻撃。」
「厳島の大明神様には。」
「どう言い訳するんじゃ。」

先頭の怪人が。
鼻で笑う。

「第3軍団の軍団長を狙ったら。」
「たまたま。」
「楽器屋じゃった。」

「そう言やあええ。」

「お前……。」

三体目が。
壁に並ぶ楽器を見る。

「それに。」
「敵の兵器供給源も破壊できて。」
「一石二鳥じゃろうが。」

「……。」

俺は。
小さく息を吐いた。

「コン・ブリオ。」

「至近距離で。」
「ランク持ち三体は分が悪い。」

入口。
避難する客。

店内。
並べられた楽器。

そして。
三体の怪人。

「避難を確認したら撤退する。」
「それが教範だ。」

コン・ブリオは。
静かに微笑んだ。

「そうだね。」
「教範なら。」

「……。」

「悪いけど。」
「僕の指示に従ってくれ。」

コン・ブリオは。
怪人達へ。
涼しい視線を送る。

「久しぶりの再会に。」
「水を差さないでくれるかな。」

「……。」

その肩が。
ほんの僅かに。
震えていた。

怖くないわけじゃない。

それでも。
退かない。

「強がりは。」
「相変わらずだな。」

コン・ブリオは。
振り返らない。

右手だけを。
軽く上げた。

「レッド。」

「ロングトーン。」
「最低音。」
「店内に響かせて。」

「了解。」

大きく息を吸う。
ベルを上げる。

『ブォォォォォ────』

太く。
温かな低音。

淡い橙色の♪が。
ベルから溢れる。

一つ。
また一つ。

音に乗って。
店内へ広がっていく。

床。
壁。
天井。
並んだ楽器。

淡い橙色の♪が。
空間を満たしていく。

コン・ブリオが。
静かにフルートを構えた。

『ふぅーるる――』

柔らかな音。

新たな♪が。
俺の低音へ重なる。

押し退けるでもなく。
乱すでもなく。

広がっていた橙色の♪へ。

静かに。
寄り添っていく。

「……。」

三体の怪人が。
それぞれ構えた。

一体が。
口元を歪める。

「ほう。」

「二人で。」
「わしら三人を相手にする気か。」

コン・ブリオは。
フルートを構えたまま。
穏やかに笑った。

「三人もいるんだ。」
「ちょうどいいね。」

「……。」

俺は横目で見る。

「お前。」
「そういうこと言う奴だったか?」

「ふふっ。」

三体の怪人から。
黒く歪んだ音符が。
ゆっくりと浮かび始めた。

店内の空気が。
軋む。

俺たちの音と。
奴らの不協和音が。
ぶつかる。

戦いが。
始まった。


第24話『狙ったな』
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2026年07月04日

第22話『君が放った、あの一音』

第22話『君が放った、あの一音』


「士官学校の同期だ。」

「ええっ!?」

ブリランテとリアルダの声が。
綺麗に重なった。

コン・ブリオが。
二人へ向き直る。

「初めまして。」
「コン・ブリオです。」

静かに一礼。

「ボ、ボクはブリランテです!」
「よろしくお願いします!」

「私はリアルダです。」
「山陰支部で情報士をしています。」

「よろしく。」

コン・ブリオが微笑む。

ブリランテの顔が。
また赤くなった。

「……。」

「……。」

そして。

コン・ブリオは。
二人を見て。

もう一度。
俺を見る。

まだ。
手を握っている。

その表情が。
少しだけ。
柔らかくなった。

「……コン・ブリオ。」

「ん?」

「そろそろ。」
「手を離してくれないか。」

一拍。

「ああ。」
「失礼。」

ようやく。
手が離れた。

後ろで。
ブリランテが。
リアルダの袖を引く。

「リアルダさん。」

「はい?」

小声。

「今の。」
「見ました?」

「見ました。」

「……。」

「もしかして。」

「はい?」

「そういう関係ですか?」

「ええっ!?」

リアルダが。
素っ頓狂な声を上げた。

「違う。」

即答。

「断じて違う。」

「そうなんですか?」

「違う。」

コン・ブリオだけが。
小さく笑った。

「ふふっ。」

◇

「山陰へ配属されたことは。」
「聞いていたよ。」

「ああ。」

「元気そうで。」
「安心した。」

「……まあな。」

ほんの数か月前まで。
俺たちは。
同じ士官学校にいた。

そして。

コン・ブリオは。
防衛隊の英雄である。
母――スカーレットを。
誰よりも尊敬していた。

だから。

母のことを。
何か言うと思っていた。

けれど。

コン・ブリオは何も言わない。

俺も。
何も言わなかった。

それでよかった。

◇

しばらくして。

コン・ブリオが。
静かに口を開いた。

「僕はね。」
「レッド。」

「卒業試験で。」

一拍。

「君が放った。」
「あの一音を。」
「今でも忘れられない。」

少しの沈黙。

「買いかぶりすぎだ。」

俺は。
少しだけ視線を逸らした。

コン・ブリオも。
それ以上は言わなかった。

その時だった。

――ビィィィィィィィッ!!

甲高い警報音が。
店内へ響き渡る。

「!」

リアルダの表情が変わった。

耳元の通信機へ手を当てる。

「敵性反応!」

端末を見る。

「レッド様!」
「この建物です!」

「一階!」
「急速接近!」

コン・ブリオの笑みが。
消えた。

俺は。
ニューヨークモデルへ手を伸ばす。

次の瞬間。

――ドォン!!

轟音。

入口のガラスが。
一斉に砕け散った。


第23話『Cランク三体』
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2026年07月04日

第21話『白い士官服』

第21話『白い士官服』


自動ドアが開く。
店内へ入る。

壁一面。

トランペット。
フルート。
サクソフォン。

磨き上げられた楽器が。
ずらりと並んでいる。

「……。」

ブリランテが。
急に大人しくなった。

「隊長様。」

「何だ。」

「全部。」
「高そうですよー……。」

「触るなよ。」

「触りません!」

リアルダも。
辺りを見回す。

「外も凄かったですけど。」
「中も凄いですね。」

「ああ。」
「品揃えも凄いな。」

◇

受付へ向かう。

店員が。
こちらへ一礼した。

「山陰支部様。」
「お待ちしておりました。」

「無理を言って。」
「すみません。」

「いえ。」

店員が。
俺のトランペットを見る。

「今お使いのカスタムから。」
「スタンダードへ。」
「ということでしたね。」

「ああ。」

「音響弾の威力より。」
「速射性。」
「柔軟性。」
「持久力を優先したい。」

店員が頷く。

「承知しました。」

「YAMAHA 16C4。」
「できるだけ多くご用意しております。」

テーブルの上には。
16C4が。
ずらりと並んでいた。

ブリランテが。
目を丸くする。

「こんなにあるんですね……。」

一本ずつ。
興味深そうに見ていく。

「この中から。」
「隊長様に合う一本を探すんですね。」

「ああ。」

リアルダも。
並んだマウスピースを見る。

「これを全部。」
「試すんですか?」

「そのつもりだ。」

「大変ですね……。」

「だから来た。」

ケースを開ける。
YAMAHAニューヨークモデルを取り出す。

一本目。

『パァーーー』

「……。」

二本目。

『パァーーー』

「こっちは軽い。」

三本目。

『パァァーーー』

「……悪くない。」

リアルダが。
首を傾げる。

「私には。」
「ほとんど同じに聞こえます。」

ブリランテも。
耳を澄ませている。

「違いは分かりますけど。」
「隊長様ほどは分からないですよー。」

「吹く側は。」
「もっと違う。」

「なるほど……。」

次の一本へ。
手を伸ばした。

その時。

――フルート。

店内の奥から。
一音。

俺の手が止まる。

柔らかい。
透き通った音。

それでいて。
芯がある。

まるで。
空気そのものが。
歌っているような音だった。

ブリランテも。
音の方を見る。

「綺麗……。」

リアルダが。
耳を澄ませる。

「試奏ですね。」

俺は。
黙って音の方を見た。

◇

店内の奥。

一人の青年が。
フルートを構えていた。

長身。
整えられた金髪。
白い士官制服。

肩には。
階級章。

最後の一音が。
静かに消える。

一瞬。
店内が静まり。

やがて。
小さな拍手が起こった。

「すごい……。」

「綺麗な音。」

近くにいた女性客たちも。
青年を振り返っている。

青年は。
穏やかに一礼した。

それだけで。
また小さな歓声が上がる。

ブリランテが。
小声で呟く。

「すごいイケメンですよー……。」

リアルダが。
階級章を見る。

「中級音術師様です。」

そして。
青年の顔を見る。

「お顔が。」
「整ってらっしゃいます……。」

青年が。
フルートを下ろす。

こちらを向いた。

「……。」

目が合う。

一瞬。
青年の動きが止まった。

そして。
こちらへ歩いてくる。

「え!?」

ブリランテの顔が。
一気に赤くなる。

「きゃーっ!」
「たっ、隊長様!」
「こっちに来られますよー!」

リアルダも。
目を丸くした。

顔を赤らめ。
慌てて俺を見る。

「レッド様。」
「どうしましょう……。」

「いや。」
「あれは――」

青年は。
真っ直ぐこちらへ来る。

ブリランテが。
妙に姿勢を正す。

リアルダも。
髪を軽く整える。

そして。

青年は。
俺の前で立ち止まった。

「え?」

ブリランテ。

「……え?」

リアルダ。

青年が。
右手を差し出す。

「久しぶりだね。」
「レッド。」

「……コン・ブリオ。」

その手を握る。

士官学校時代。
常に首席だった男。

中級フルート使い。

卒業試験では。
同じ隊で戦った親友。

コン・ブリオは。
俺の手を握ったまま。

少しだけ。
目を潤ませる。

「元気そうで。」
「安心したよ。」

「……まあな。」

後ろで。
ブリランテが呟く。

「隊長様の……?」

リアルダも。
まだ少し赤い顔のまま。

「お知り合い……?」

「ああ。」
「士官学校の同期だ。」

「ええっ!?」

二人の声が。
綺麗に重なった。

店内へ。
響いた。


第22話『君が放った、あの一音』
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2026年07月04日

第20話『山を越えて』

第20話『山を越えて』


古びた軍用車は。
中国山地を東へ走っていた。

窓を少し開ける。

山の匂いを含んだ風が。
車内へ流れ込む。

「気持ちいいですねぇ。」

助手席のリアルダが。
窓の外を眺めている。

「浜田自動車道。」
「私、好きです。」

「そうなのか。」

「はい。」
「レッド様は?」

「初めてだ。」

リアルダが振り向く。

「そうなんですか?」

「ああ。」
「山陰へ来た時は。」
「ずっと下道だったからな。」

「でしたら。」

リアルダが笑う。

「今日は景色も楽しんでください。」

後部座席から。
ブリランテが身を乗り出す。

「隊長様!」
「川ですよー!」

橋の下。
澄んだ川。

その向こうには。
幾重にも重なる山。

新緑。
青空。

「綺麗……。」

「ああ。」

トンネルへ入る。
車内が暗くなる。

抜ける。

また。
一面の緑。

「わぁ!」

ブリランテが声を上げる。

「また景色が変わりました!」

リアルダが笑う。

「だから好きなんです。」

俺も。
少しだけ笑った。

母が亡くなってから。
ずっと見えていた鉛色の景色に。
色彩が戻ってきたような気がした。

◇

しばらく走る。

後ろで。
ごそごそ。

「隊長様。」

「何だ?」

ブリランテが。
何かを差し出してきた。

「いります?」

ポッキー。

「……。」

助手席では。
リアルダも鞄を開く。

「私は。」
「きのこの山を持ってきました。」

「……。」

「おいおい。」
「遠足では――」

「長距離移動には糖分ですよー!」

リアルダも頷く。

「適度な補給は大事です。」

「……。」

「一本くれ。」

「はい!」

ポッキーを一本。
口にくわえる。

「レッド様。」

リアルダが。
きのこの山を差し出す。

「こちらもどうぞ。」

「もらう。」

ブリランテが笑う。

「隊長様。」
「完全に遠足ですよー!」

「お前たちが始めたんだろ。」

「ボクは護衛任務です!」

「ポッキー食いながら言うな。」

リアルダが吹き出した。

◇

俺は前を見たまま。
口元を動かす。

唇をすぼめ。
頬を引く。

「……。」

後ろから。

「!?」

「隊長様。」

ブリランテが吹き出す。

「ププっ。」
「変顔ですか?」

「人の顔を見て笑うな。」

「だって!」
「すごい顔ですよー!」

助手席から。
リアルダがこちらを見る。

「レッド様も笑ってました。」

「何を。」

「私の口輪筋のトレーニングを見て。」

「……。」

覚えている。

「ですから。」
「私もご一緒します。」

リアルダも。
口元を動かし始めた。

「……。」

「……。」

後ろから。

「ずるい!」
「ボクもやりますよー!」

「お前まで?」

「はい!」

三人。

「……。」

「……。」

「……。」

妙な顔が。
三つ。

「ぷっ!」

ブリランテが吹き出した。

「ダメですよー!」
「二人とも面白すぎます!」

リアルダも笑う。

「ブリランテさんも。」
「かなりすごい顔です。」

「ええっ!?」
「ボクも!?」

俺も。
堪えきれず笑った。

「……遠足だな。」

一瞬。
静かになる。

「隊長様が言ったー!」

リアルダも笑う。

「レッド様が認めました。」

「うるさい。」

車内に。
また笑い声が広がった。

◇

やがて。
山が少しずつ遠くなる。

車も増えてきた。

高架。
信号。
建物。

リアルダがナビを見る。

「広島市内に入りました。」

後ろでは。
ブリランテが窓の外に釘付けになっている。

人、人、人。
車、車、車。

「隊長様!」
「今日はお祭りですか?」

「いや。」
「こんなもんだ。」

「こんなもん!?」

リアルダが。
端末を見る。

「これが日常です。」
「情報どおりなら。」

ブリランテは。
まだ窓の外を見ている。

「すごいですよー!」
「人が次から次へ!」

その時。

「レッド様!」

リアルダが前を指す。

「電車に気をつけてください!」

「え!?」

ブリランテが。
身を乗り出す。

「電車!?」

「ああ。」
「分かってる……。」

道路の真ん中を。
路面電車が走っていく。

ブリランテの目が丸くなる。

「道路を走ってますよー!」

リアルダも。
興味深そうに眺めている。

「資料では見ましたけど。」
「実際に見ると不思議ですね。」

「二人とも。」
「はしゃぐのはいいが。」
「俺の視界を塞ぐな。」

「はい!」

「はいですよー!」

◇

軍用車を。
近くのコインパーキングへ置く。

三人で歩く。

建物の裏手から。
ぐるっと表へ回る。

そこで。
足を止めた。

全面ガラス張り。

モダンで。
洗練された建物。

「きゃーっ!」

ブリランテの目が輝く。

「素敵ですよー!」

リアルダも。
建物を見上げる。

「すごい……。」
「まるで。」
「ブランドショップのようです。」

俺は。
入口を見る。

都会の楽器店には。
何度か入ったことがある。

それでも。

「……入りづらいな。」

その横で。
ブリランテが。
びしっと敬礼した。

「隊長様!」
「突入準備整いました!」

「……。」

「店だぞ。」

「はいですよー!」

俺は二人を見る。

「いいか。」
「お前達。」
「はしゃいだりするな。」

「民間人の目を気にしろ。」
「公務だからな。」

「はい!」

「はいですよー!」

返事だけは。
立派だった。

俺達は。
ガラス張りの建物へ向かった。


第21話『白い士官服』
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2026年07月04日

第19話『命を預ける一本』

第19話『命を預ける一本』


4月中旬。

山々は淡い新緑に包まれ。
ところどころに咲く山桜が。
春の訪れを告げていた。

柔らかな陽射しが。
益田駐屯地の庁舎へ差し込んでいた。

一枚の申請書を手に。
カンタービレ軍曹の机の前へ立つ。

「軍曹。」
「失礼します。」

カンタービレが。
書類から顔を上げた。

「どうされましたの?」

「装備品更新申請です。」

申請書を差し出す。
軍曹は目を通す。

「……ヤマハ広島店。」

「はい。」

「マウスピースですの?」

「はい。」

一拍。

「現在の支給品に問題でも?」

「ありません。」

「なら、なぜ?」

「同じ型でも。」
「一本ずつ、僅かに違います。」

「命を預ける部品です。」

「できれば。」
「自分で吹いて選びたい。」

カンタービレは。
黙って申請書を見る。

しばらくして。

「合理的ですわ。」
「許可します。」

「……え?」

思わず聞き返した。
カンタービレが眉を上げる。

「何か?」

「もっと反対されるかと。」

軍曹は。
少しだけ笑った。

「音術師にとって。」
「楽器は命。」
「マウスピースも同じですわ。」

申請書へ印を押す。

「その選定に予算を惜しむほど。」
「山陰支部は愚かではありません。」

「ありがとうございます。」

申請書を受け取る。

「ただし。」

声が変わった。

「道中も任務です。」
「怪人と遭遇した場合。」
「住民保護を最優先。」

「無理な交戦は禁止。」
「教範どおりに。」

「了解しました。」

カンタービレは頷く。

「では。」
「行ってらっしゃいませ。」
「安全運転で。」

敬礼。

俺は執務室を出た。

◇

久しぶりの遠出だ。

広島まで一人。
浜田自動車道を走るのも悪くない。

少しは。
気分転換になるだろう。

母が亡くなってから。
初めての遠出だった。

駐車場へ出る。
見慣れた軍用四輪駆動車。

運転席のドアを開ける。

「レッド様!」

助手席から。
元気な声。

リアルダが。
こちらを向いて笑っていた。

「おはようございます!」

「…………。」

嫌な予感がする。

後部座席を見る。

「隊長様!」

今度は。
ブリランテ。

満面の笑みで。
勢いよく敬礼している。

「おはようございます!」

「…………。」

バタン。

静かに。
ドアを閉めた。

そのまま。
庁舎へ戻る。

「レッド様ーっ!」

後ろから。
リアルダが走ってきた。

「待ってください!」

俺は振り返る。

「何でいる。」

リアルダは。
当然のような顔をする。

「音術師様は。」
「国家の財産ですから。」

「……。」

「長距離移動です。」
「情報士として同行します。」

すると。
車の窓から。
ブリランテが顔を出した。

敬礼。

「護衛の任務ですよー!」

「……誰の命令だ。」

その時。

庁舎二階。
窓が開いた。

カンタービレ軍曹。

こちらを見て。
にっこり。

「…………。」

やられた。

俺は踵を返す。
運転席へ戻った。

「行くぞ。」

「はい!」

「はいですよー!」

エンジンをかける。

ディーゼルの低い音が。
駐車場へ響いた。

古びた軍用車が。
ゆっくりと。
益田駐屯地を離れていった。


第20話『山を越えて』
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2026年07月04日

第18話『三秒』

第18話『三秒』


「レッド様。」

リアルダが。

俺の横へ走り込む。

「住宅の反響。」

「弾道計算に入ります。」

ズゥンッ!

左翼の防壁が揺れた。

「斜角、12.7。」

「鋭角、6.9。」

「有効ヘルツ、442.2ヘルツ。」

「主管、0.3ミリ抜いてください。」

主管を動かす。

大きく息を吸った。

ベルの周りへ。

橙色の小鳥が集まる。

「三。」

ズゥンッ!

「二。」

左翼の防壁が。

大きく歪む。

「もう限界ですわ!」

「耐えてくださいませ!」

カンタービレ軍曹の声。

「一。」

「今です!」

「レッド様!」

ティン――

ラミアの背中が跳ねた。

「……え?」

紫色の♪が。

一斉に砕ける。

一瞬遅れて。

ドゴォォォーン!!

住宅の窓が震えた。

ラミアが。

ゆっくり振り返る。

「何……?」

自分の手を見る。

指先が。

光の粒になっていく。

「そんな……。」

身体の輪郭が。

崩れていく。

「私が……。」

最後に。

小さく呟いた。

「……アラクネ様。」

光が消えた。

静寂。

◇

「本当にやったのか……。」

団長が。

立ち尽くしていた。

クラリネットの女性も。

消えた場所を見つめている。

「倒したんですね……。」

「隊長!」

サックスの青年が。

駆け寄ってきた。

「さすがは、本部の音術師様!」

「無我夢中だったので……。」

力が抜けた。

その場に。

へたり込む。

「隊長様、大丈夫ですか?」

ブリランテが。

手を差し出した。

「……ありがとう。」

その手を掴む。

グラヴィオーソが。

小さく息を吐いた。

「……奇跡ね。」

ドルチェも。

力が抜けたように笑う。

「神様のご加護ですわ。」

カンタービレ軍曹が。

ゆっくり辺りを見回した。

「皆。」

「生きてますわね。」

「……はい。」

誰かが答えた。

風が。

匹見の住宅街を抜けていった。

◇

益田駐屯地。

「皆さん。」

カンタービレ軍曹が。

大きな包みを見せた。

「団長さんから差し入れがあります。」

中には。

イノシシ肉。

ブリランテの目が輝く。

「焼肉ですよー!」

ペザンテも。

小さく頷いた。

「……楽しみだ。」

◇

その夜。

駐屯地食堂。

ジュウウウウ――。

鉄板の上で。

イノシシ肉が焼けていた。

「おいしいですよー!」

ブリランテが。

次の肉を置く。

「まだ口の中に入っていますわよ。」

「焼いてるだけですよー!」

カンタービレ軍曹が。

ため息をつく。

「今回、見せ場が無かったっスー。」

スタッカートが頭をかく。

「バカ!俺たち。」

「隊長とリアルダさんを守っただろ。」

「みなさんのおかげです♪」

アクセントのつっこみに、リアルダが応じる。

レガートは穏やかに眺めている。

「美味しい……。」

ペザンテは黙々と食べている。

ソステヌートが。

肉を裏返した。

「でも。」

「三秒作るだけで。」

「あそこまで苦戦するとは……。」

グラヴィオーソが。

箸を伸ばす。

「最後まで。」

「油断できなかった……。」

ドルチェが頷く。

「防壁……。」

「よくもちこたえましたわ。」

エネルジコが。

焼けた肉を皿へ取る。

「力量の差がありすぎたな。」

ブリランテが。

急に身を乗り出す。

「隊長様、やっぱりすごいですよー!」

「すごいですよー!」

俺は苦笑いした。

「凄くない。」

「みんなの日頃の修練が身を結んで。」

「俺は、俺の仕事をしたまでだ。」

ソステヌートが。

メガネに手をかける。

「隊長のおっしゃる通りです。」

「強敵にはチームで。」

「教範通りです。」

カンタービレ軍曹が。

にっこり笑った。

「では。」

「訓練をもう少し厳しくしましょうか。」

「!? ええーっ!」

ブリランテが叫ぶ。

「もう、十分すぎるほどキツいですよー!」

ガハハハ。

みんなの笑いが漏れる。

駐屯地での初めての食事は。

騒がしいものだった。

でも。

俺はその騒がしさに。

心地よさを感じていた。

――新たな門出編・終


第19話『命を預ける一本』
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2026年07月04日

第17話『隙を作れ』

第17話『隙を作れ』


「皆さん。」

カンタービレ軍曹がベルを上げた。

「参りますわよ。」

「了解!」

「左翼!」

「住宅の反響率を利用します!」

ソステヌートが放つ。

ヒュンッ!

音が。

住宅の壁に返る。

ラミアが顔を向けた。

「……ソコ。」

グラヴィオーソ。

ヒュンッ!

ラミアが身をかわす。

「同じ手が。」

「何度も通ると思ってるの?」

手のひらを向ける。

ズゥンッ!

「防壁!」

レガート。

ドルチェ。

エネルジコ。

低音が重なる。

バァンッ!

防御弾幕が大きくへこんだ。

「くっ……!」

グラヴィオーソが。

ベルを構え直す。

「なかなか隙を見せないわ。」

ソステヌートが息を整える。

「さすがはBランクです……。」

ズゥンッ!

エネルジコが踏ん張る。

「パワーで押し負けてます!」

また。

ズゥンッ!

防御弾幕が大きく歪む。

「このままだと、もちませんわ……きゃ!」

ドルチェの身体が揺れた。

「ドルチェ!」

カンタービレ軍曹が前を見る。

「ラミアの攻撃のリズムに慣れて。」

「次を読んでくださいませ!」

「了解!」

ソステヌート。

ヒュンッ!

ラミアがかわす。

グラヴィオーソ。

「……ソコ。」

ヒュンッ!

「鬱陶しい!」

ズゥンッ!

「防壁!」

バァンッ!

「まだですわ!」

カンタービレ軍曹が。

ラミアを見据える。

「もう一度。」

ソステヌートが。

ベルを上げた。

ヒュンッ!

住宅の壁。

塀。

返った音が。

左翼へ重なる。

ラミアの目が動く。

「…………。」

グラヴィオーソが。

小さく呟いた。

「……少し。」

「左に寄ったわ。」

カンタービレ軍曹が頷く。

「そのまま。」

「右翼を見させないで。」

ズゥンッ!

防御弾幕が揺れる。

ドルチェが歯を食いしばった。

「まだ……!」

エネルジコが支える。

「耐えます!」

ソステヌート。

ヒュンッ!

グラヴィオーソ。

「……ソコ。」

ヒュンッ!

ラミアが。

完全に左翼へ向き直った。

カンタービレ軍曹の目が細くなる。

(今ですわ)


第18話『三秒』
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2026年07月04日

第16話『ラミア』

第16話『ラミア』


鳥が。

一斉に飛び立った。

「来ます!」

道路の先。

一人の女が歩いてきた。

長い青髪。

黒と紫の衣装。

まるで。

散歩でもしているみたいに。

「あら。」

足を止める。

「こんにちは。」

「…………。」

ブリランテが小さく頭を下げた。

「……こんにちはですよー。」

「おい。」

女が笑った。

その周囲を。

歪んだ♪が漂っている。

リアルダの表情が変わる。

「ラミアです。」

「アラクネ遠征軍の副官……!」

カンタービレ軍曹が目を細めた。

「……随分、派手ですわね。」

「そう?」

「隠す必要なんてないでしょう?」

「お供は連れてないのかしら?」

「必要ある?」

ラミアは笑った。

俺はベルを向ける。

「止まれ。」

「あら。」

ラミアが足を止めた。

「私は、ただ散歩してるだけよ。」

「調査をかねてね。」

手のひらの上で。

紫色の♪が揺れる。

「でも……。」

ウフっ♪

「ちょっと遊んであげても。」

「いいかしらね。」

紫色の♪が。

一気に集まった。

「左翼、防御弾幕!」

低音が重なる。

レガート。

ドルチェ。

エネルジコ。

♪が広がり。

五線が結ばれる。

ズゥンッ!!

防御陣が大きく歪んだ。

「くっ……!」

その間に。

右翼が。

ラミアの背後へ回る。

ソステヌートが放つ。

ヒュンッ!

ラミアが左を向いた。

背後。

「今ですよー!」

ブリランテ。

「タカタカタカタカッ!」

ヒュン!

ヒュン!

ヒュン!

ラミアが振り返る。

その瞬間。

「……ソコ。」

グラヴィオーソ。

ヒュンッ!

青い髪が。

数本、宙を舞った。

「…………。」

ラミアの笑みが消える。

「……鬱陶しい。」

手のひらを上げた。

ズゥンッ!!

防御陣が揺れる。

ガタガタッ!

住宅の窓が震えた。

もう一発。

ズゥンッ!!

バキンッ!

道路に亀裂が走る。

瓦が一枚。

道路へ落ちた。

カシャン。

俺はラミアを見る。

「軍曹。」

「はい。」

「左翼で引きつけてくれ。」

「どのくらいですの?」

俺は。

ニューヨークモデルを握り直した。

「三秒。」

「三秒だけでいい。」

カンタービレ軍曹がベルを上げる。

「皆さん。」

「参りますわよ。」

「了解!」


第17話『隙を作れ』
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2026年07月04日

第15話『残して帰れない』

第15話『残して帰れない』


三台の軍用車が、集落の手前で止まった。

「着きました!」

リアルダが車を降りる。

俺も黒いケースを抱えて、外へ出た。

山の奥から。

低く濁った音が聞こえる。

ズゥン……。

「おお!」

声を上げたのは。

橋の向こうで見かけた、ホルンを持った男だった。

「第1トランペット遊撃隊です。」

俺が敬礼する。

「匹見地区音響団じゃ。」

男も軽く頭を下げた。

その時。

リアルダの無線が鳴る。

『こちら避難班。』

『最後の児童三名、収容しました。』

『住民避難、完了です。』

「了解しました!」

リアルダが無線を下ろした。

俺は。

音響団の人たちへ頭を下げる。

「ありがとうございました。」

「皆さんのおかげです。」

団長が笑った。

「なぁに。」

「ワシらの町じゃけぇの。」

カンタービレ軍曹が、一歩前へ出た。

「では。」

「皆様も避難してくださいませ。」

ところが。

団長は動かなかった。

山の奥を見る。

「いや。」

「ワシらは、もう少し残る。」

「え?」

「皆が十分に離れるまで。」

ホルンを持ち上げる。

「少し、時間を稼がんとな。」

クラリネットの女性も。

サックスを持った青年も。

その場を離れようとしない。

ズゥン……。

また。

山が低く鳴った。

俺は団長を見る。

「だったら。」

言葉が自然に出た。

「時間稼ぎは、俺たちがやります。」

団長が俺を見る。

「皆さんは避難してください。」

少しの沈黙。

やがて。

団長が笑った。

「……そうか。」

そして。

後ろにいる仲間たちを見る。

「なら。」

「ワシらは後方支援をさせてもらおう。」

カンタービレ軍曹は。

少し考えてから、息を吐いた。

「……仕方ありませんわね。」

俺を見る。

「隊長。」

「我々の目的は、敵の討伐ではございません。」

「……ああ。」

「リアルダ。」

「はい!」

「住民が安全圏まで離れる時間を計算してくれ。」

「分かりました!」

リアルダが地図を開く。

俺は黒いケースを地面へ置いた。

留め具を外す。

ニューヨークモデルを取り出した。

手のひらに。

ヒンヤリとした感覚が伝わる。

「敵を倒す必要はない。」

みんなを見る。

「ここで止める。」

「できるだけ時間を稼ぐ。」

「了解!」

右翼。

左翼。

みんなが、それぞれの位置へ走った。

「レッド様!」

リアルダが顔を上げる。

「来ます!」

木々の間から。

鳥が一斉に飛び立った。


第16話『ラミア』
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2026年07月04日

第14話『町を守る人たち』

第14話『町を守る人たち』


三台の軍用車が、山道を駆ける。

やがて。

車窓の向こうに、匹見峡の山々が広がった。

深い緑。

初夏の陽射しを浴びた木々が、風に揺れている。

その足元を。

透き通った川が、岩の間を縫うように流れていた。

白く砕ける水。

小さな橋。

遠くから聞こえる鳥の声。

綺麗だった。

これから戦場へ向かうとは。

とても思えないほどに。

その景色の中へ。

ぽつり。

人の姿が現れた。

軽トラック。

自転車。

荷物を抱えた老人。

子どもの手を引く母親。

皆。

山の外へ向かっている。

「避難が始まってます。」

リアルダが前を見たまま言った。

その時。

無線が入る。

『こちら、匹見地区音響団。』

年配の男性の声だった。

『住民避難、およそ七割完了。』

『子どもが三人、まだ集落の奥じゃ。』

『ワシらが誘導しとる。』

リアルダがすぐに応答する。

「こちら第1トランペット遊撃隊。」

「現在、そちらへ向かっています。」

『助かる。』

短い返事。

通信が切れた。

軍用車が橋を渡る。

その向こう。

ホルンを背負った年配の男性が、小さな子どもの手を引いていた。

少し離れて。

クラリネットを持った女性が、老人の背中を支えている。

さらに後ろ。

サックスを肩に掛けた青年が、一人。

山の奥を見ていた。

制服じゃない。

泥のついた作業着。

履き慣れた長靴。

それでも。

手には楽器があった。

「……あの人たちか。」

「はい。」

リアルダが頷く。

「団長さんは、普段は林業をされています。」

「この辺りの山なら、誰より詳しいですよ。」

俺は窓の外から、目を離せなかった。

実戦なら。

一度だけ、経験している。

卒業試験の日。

『お前たち!』

『時間を稼げ!』

フォルテ教官の怒鳴り声が、ふと頭をよぎった。

あの時は。

教官がいた。

コンブリオたちがいた。

俺は。

言われた通り、必死に吹けばよかった。

でも。

今は違う。

窓の外を。

人々が避難していく。

そして。

俺の後ろには。

今日会ったばかりの仲間たちがいる。

胸の奥が。

少しだけ冷たくなった。

(……俺が。)

隊長なんだ。

「敵、動きました。」

リアルダの声で我に返る。

「集落中心部へ向かっています。」

アクセルが踏み込まれた。

エンジン音が高くなる。

誰も喋らない。

窓の外では。

川が変わらず流れ、木々が揺れ。

水面が、陽射しを返していた。


第15話『残して帰れない』
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2026年07月04日

第13話『初出動』

第13話『初出動』


笑い声が、まだ演習場に残っていた。

その時だった。

リアルダの無線が鳴った。

『――こちら西部方面。』

リアルダが応答する。

「はい、リアルダです。」

数秒。

その表情が変わった。

カンタービレ軍曹がすぐに気付く。

「皆さん。」

「待機なさい。」

隊員たちの動きが止まった。

さっきまで笑っていたブリランテが、トランペットを抱き直す。

アクセントはケースへ手を伸ばす。

スタッカートの表情から笑みが消える。

ペザンテも黙って立ち上がった。

リアルダは無線を切ると、地図を広げた。

「レッド様。」

「西部方面第三区域。」

「不協和音発生です。」

俺も地図を覗き込む。

「場所は?」

「益田市匹見町。」

「山間部の集落です。」

リアルダの指が、一点で止まる。

「地元音響団が住民避難を開始しています。」

「児童数名が、まだ集落内に。」

「危険度、Bランク。」

「えっ?」

誰かの声が漏れた。

空気が変わった。

カンタービレ軍曹が静かに尋ねる。

「上位音術師の救援は?」

リアルダは首を横に振った。

「ありません。」

「現在、全員別方面へ出動中です。」

一瞬。

誰も口を開かなかった。

Bランク。

士官学校で何度も聞いた。

初級音術師や音響士だけで、まともに相手をする敵じゃない。

カンタービレ軍曹が俺を見る。

「隊長。」

「教範では、我々だけでの交戦は禁止されていますわ。」

「ああ。」

俺は地図を見る。

「まず、住民避難。」

「その後の判断は、現地で行う。」

カンタービレ軍曹が頷く。

「承知いたしました。」

そして。

隊員たちへ振り返った。

「総員。」

「出動準備。」

「了解!」

隊員たちはトランペットをケースへ戻すと、一斉に駆け出した。

リアルダも地図を畳む。

「車を回します!」

三台の軍用車に、次々と隊員が乗り込んでいく。

俺も助手席へ入った。

膝の上には。

黒いトランペットケース。

リアルダが前を向く。

「レッド様。」

「行きます。」

「ああ。」

三台の軍用車が。

砂煙を巻き上げて、益田駐屯地を飛び出した。


第14話『町を守る人たち』
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2026年07月04日

第12話『私の三十分』

第12話『私の三十分』


リアルダは得意そうに笑った。

「見てください!」

真顔になる。

そして。

「ウイウイウイウイウイウイウイウイウイウイッ!」

ものすごい速さで。

口元だけが忙しく動いた。

「……。」

演習場が止まった。

アクセントが固まる。

「……え?」

スタッカートも口を開けたまま動かない。

レガートが困ったように笑った。

「それ……。」

「何の練習?」

「口輪筋です!」

リアルダは自信満々だった。

グラヴィオーソが静かに言う。

「……違う。」

「え?」

俺は肩を震わせながら尋ねた。

「リアルダ。」

「はい!」

「それ。」

「三十分やったのか?」

「はい!」

「山陰支部から、ここまで?」

「はい!」

満面の笑み。

「……。」

駄目だ。

「ぶっ!」

最初に吹き出したのはスタッカートだった。

「無理!」

腹を抱える。

アクセントも膝へ手をついた。

「三十分!」

「ずっと!?」

ブリランテは涙を浮かべている。

「リアルダさん!」

「真面目すぎますよー!」

ドルチェは口元へ手を添えた。

「ふふっ。」

「とても熱心だったのですね。」

グラヴィオーソも口元を緩める。

「……全力で間違ってる。」

カンタービレ軍曹が小さくため息をついた。

「融通が利かないにも程がありますわ。」

「えぇぇ!?」

リアルダが俺を見る。

「違うんですか!?」

「違う。」

もう笑いを堪えられない。

「『ム』なら『ム』。」

「『イ』なら『イ』。」

「一つずつ維持するんだ。」

リアルダの笑顔が止まった。

「……。」

「じゃあ。」

「ウイウイウイウイは?」

「やらない。」

「一回も?」

「一回も。」

「……。」

リアルダは天を仰いだ。

「私の三十分……。」

また笑いが起きた。

「まあ。」

俺も笑いながら言う。

「さっきの基本は、ちゃんと出来てた。」

「無駄じゃないよ。」

リアルダが、ぱっと顔を上げる。

「本当ですか!」

「ああ。」

「よし!」

すぐ元気になった。

「じゃあ。」

俺はトランペットを指差した。

「今度は吹いてみよう。」

「はい!」

リアルダは勢いよく楽器を構える。

全員が見守る。

アクセントが小声で呟いた。

「本当に吹くんだ……。」

「吹きますよ!」

リアルダが大きく息を吸う。

そして。

『ブフォォォォォッ!』

「……。」

山から風が吹いた。

誰も動かない。

リアルダが首を傾げる。

「……あれ?」

スタッカートが目を丸くした。

「……本当に音が出た。」

「出るって言ったじゃないですか!」

アクセントが口元を押さえる。

「いや。」

「確かに出たけど……。」

「出ましたよ!」

ブリランテが目を輝かせる。

「本当に吹けたですよー!」

「だから吹けるんです!」

グラヴィオーソが静かに呟いた。

「……音は。」

一拍置く。

「出た。」

「なんですか、その言い方!」

堪えきれず。

また笑いが起きた。

ドルチェも口元へ手を添える。

「ふふっ。」

「これからですわね。」

「はい!」

リアルダは頬を膨らませながら。

それでも、大事そうにトランペットを抱えている。

「レッド様。」

「ん?」

「私。」

「上手くなりますか?」

俺は少しだけ笑った。

「ああ。」

「何とかなるさ。」

リアルダの頬が、少しだけ緩んだ。

「はい!」

初夏の青空の下。

誰かが笑う。

また。

誰かが笑う。

その笑い声が。

演習場いっぱいへ重なっていった。


第13話『初出動』
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2026年07月04日

第11話『情報士のラッパ』

第11話『情報士のラッパ』


「リアルダ。」

「はい?」

「それ。」

俺は、彼女の足元を指差した。

トランペットケース。

リアルダは一瞬、固まった。

そして。

ぱっと笑った。

「気付きました?」

「そりゃ気付く。」

「えへへ。」

嬉しそうにケースを抱える。

アクセントが目を丸くした。

「リアルダさん。」

「吹くんですか?」

「吹きますよ!」

胸を張る。

スタッカートが首を傾げた。

「……吹けたっけ?」

「吹けます!」

「音は出ます!」

「その言い方、不安になるんだけど。」

小さな笑いが起きた。

リアルダは気にせず、ケースを開く。

使い込まれたトランペットが姿を現した。

「小学校からの相棒です。」

「へぇ。」

ブリランテが覗き込む。

「大事にしてますねー!」

「もちろんです!」

リアルダは嬉しそうに楽器を取り出した。

「レッド様から教えて頂いた口輪筋の練習。」

リアルダの顔が輝いた。

「山陰支部を出てから、益田駐屯地まで時間がありましたので。」

胸を張る。

「ずっと個人練習をしてました!」

少し間を置く。

「レッド様は寝てらっしゃいましたし……。」

「……余計なことは言わなくていい。」

「はい!」

まったく悪びれていない。

「じゃあ。」

俺は少し笑った。

「吹く前に、そっちから見てみよう。」

「はい!」

リアルダはトランペットを置いた。

演習場の真ん中へ立つ。

アクセントが首を傾げる。

「何するんです?」

「基礎練習。」

「口の?」

「ああ。」

ブリランテも寄ってくる。

「僕も見たいですー!」

「どうぞ!」

なぜかリアルダが胸を張った。

カンタービレ軍曹も。

ドルチェも。

ソステヌートも。

いつの間にか、こちらを見ている。

「リアルダ。」

「はい!」

「まず。」

「『ム』。」

リアルダの表情が真剣になる。

「ムーーーー!」

「そのまま。」

十秒。

二十秒。

唇が、少し震え始めた。

それでも。

本人は必死だった。

「よし。」

「次。」

「『イ』。」

「イーーーー!」

後ろでアクセントが呟く。

「すげぇ真面目……。」

スタッカートが頷いた。

「融通は利かないけどな。」

「聞こえてますよ!」

「集中。」

「はい!」

姿勢を正す。

「次。」

「『ウ』。」

「ウーーーー!」

「最後。」

「『ア』。」

「アーーーー!」

俺は頷いた。

「うん。」

「ちゃんと出来てる。」

リアルダの表情が。

ぱっと明るくなった。

「本当ですか!」

「ああ。」

「短時間で、よく覚えたな。」

「はい!」

満面の笑み。

そして。

なぜか得意そうに胸を張った。

「私なりに改良して。」

「三十分やりました!」

「……改良?」

「はい!」

「……三十分?」

「はい!」

嫌な予感しかしない。

「リアルダ。」

「はい?」

「何を改良した?」

リアルダは得意そうに笑った。

「見てください!」

真顔になる。

そして。

大きく息を吸った。


第12話『私の三十分』
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2026年07月04日

第10話『音の入口』

第10話『音の入口』


ニューヨークモデルをケースへ戻した。

カチリ。

留め具を閉じた、その時だった。

「隊長。」

スタッカートが、まだケースを見ている。

「ん?」

「マウスピースも、見せてもらっていいッスか?」

アクセントが呆れた。

「おい。」

「厚かましいぞ。」

「いいだろ、ちょっとくらい。」

二人を見て、少し笑った。

「大丈夫だ。」

もう一度ケースを開く。

今度は、何のためらいもなかった。

ニューヨークモデルから、マウスピースを抜く。

「ほら。」

「ありがとうございます!」

スタッカートが受け取った。

「おお……。」

ソステヌートが眼鏡を押し上げる。

「YAMAHA 16C4 カスタムGP。」

「遠鳴りするタイプですね。」

グラヴィオーソが呟いた。

「……長距離狙撃用。」

ソステヌートが頷く。

「理論上、高威力の音響弾を放てます。」

レガートが覗き込んだ。

「でも、扱いは難しいね。」

エネルジコも頷く。

「嗚呼。」

「俺でも、これは手に余る。」

リアルダの目が輝いた。

「さすが本部の音術師様です♪」

「隊長様!」

ブリランテが身を乗り出す。

「さすがですよー!」

「さすがですよー!」

グラヴィオーソが顔をしかめた。

「……うるさい。」

「えー!」

笑いが起きた。

俺は頭を掻く。

「いや。」

「そんな、大袈裟なものじゃない。」

みんなが俺を見る。

「俺が選んだわけじゃないんだ。」

「え?」

「母親にもらったトランペットに。」

少し間を置く。

「最初から、ついてた。」

静かになった。

俺は話題を変える。

「みんなは?」

「どんなマウスピースを使ってるんだ?」

カンタービレ軍曹が答えた。

「基本的には、支給品ですわ。」

ソステヌートが続ける。

「戦闘が多いですからね。」

「マウスピースも消耗品です。」

アクセントが、自分のマウスピースを抜いた。

「益田駐屯地は。」

「YAMAHAのスタンダードが中心です。」

スタッカートも自分のものを見せる。

「その中から、吹きやすいのを選んでるッス。」

「同じ型番でも違うしな。」

俺が言うと。

ソステヌートが頷いた。

「僅かな個体差はあります。」

スタッカートが目を丸くする。

「隊長、詳しいッスね!」

「アカデミーで。」

少し間を置く。

「耳にタコができるほど習った。」

「なるほど……。」

レガートが穏やかに笑う。

「高いものが、一番とは限らない。」

「自分に合うものが、一番だね。」

「そうッス。」

スタッカートも笑った。

「実戦で吹きにくかったら、意味ないッスからね。」

少し離れたところから。

低い声がした。

「……命を守る。」

ペザンテだった。

「大事。」

スタッカートが振り向く。

「うわっ!」

「喋った!」

ペザンテが睨んだ。

「……。」

「ごめんって!」

また笑いが起きる。

俺も笑った。

「でも。」

ペザンテを見る。

「その通りだ。」

スタッカートの手にあるマウスピースを見る。

「マウスピースも。」

「命を預ける部品だ。」

言ってから。

少し気まずくなった。

「……まあ。」

「自分で選んだこともない俺が、言うのも何だけどな。」

「隊長様には、それが合ってますよー!」

ブリランテが笑う。

「そうなのか?」

「そうですよー!」

「なんで分かるんだ。」

「隊長様の音ですから!」

「……そうか。」

スタッカートから、マウスピースを受け取る。

手のひらで。

金色が光った。

「ちなみに。」

「はい?」

「近くのYAMAHAって。」

「どこにある?」

一瞬。

みんなが黙った。

カンタービレ軍曹が答える。

「品揃えを考えるのでしたら。」

「広島まで行かないと、難しいですわね。」

「広島……。」

ソステヌートも頷いた。

「試奏して選ぶのであれば。」

「その方が確実でしょうね。」

「……そうか。」

俺は、自分のマウスピースに視線を落とした。

その時。

少し離れたところで。

リアルダが、そっと自分のトランペットケースへ手を伸ばしていた。

まだ。

誰も気付いていなかった。


第11話『情報士のラッパ』
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2026年07月04日

第9話『母の遺したトランペット』

第9話『母の遺したトランペット』


ブリランテは、ニューヨークモデルを両手で受け取った。

「……軽い。」

そっと構える。

大きく息を吸った。

『パァ────』

澄んだ音が、演習場へ伸びていく。

ブリランテの目が、ぱっと輝いた。

「隊長様!」

「すごく吹きやすいですよー!」

「そうなのか?」

「そうなのかって……。」

ブリランテが目を丸くする。

「隊長様のラッパですよ?」

「まあ、そうだけど。」

スタッカートが笑った。

「隊長、分かってない顔してる。」

「俺も吹いてみたいです!」

アクセントが手を挙げる。

「ちょっと待ってくださいですよー!」

ブリランテがニューヨークモデルを抱える。

「僕が先ですよ!」

「もう吹いただろ!」

「まだ少しですよ!」

また笑いが起きた。

やがて。

ソステヌートが手に取る。

一音。

『パァ────』

眼鏡を押し上げた。

「さすが、ラッカー仕様」

「反応が速いですね。」

「息も入りやすい。」

グラヴィオーソもベルを眺める。

「……いい色。」

そして、一音。

『パァ────』

「素直ね。」

俺は少し首を傾げた。

「そんなに違うのか?」

今度は全員が俺を見た。

「隊長様。」

ブリランテが真顔になる。

「本当に分かってないんですか?」

「……たぶん。」

「たぶん!」

笑われた。

俺は頭を掻く。

「これを選んだの。」

「俺じゃないんだ。」

笑い声が止まった。

「母なんだ。」

初夏の風が吹いた。

ブリランテがニューヨークモデルを見る。

「隊長様のお母さん……。」

「ああ。」

少しだけ昔を思い出す。

「小学生の頃。」

「母と楽器屋へ行ったことがあってさ。」

ショーケースの中に。

一本のトランペットがあった。

子どもの俺には。

それが、ものすごく格好よく見えた。

「ずっと見てたら。」

「母が。」

『そんなに好き?』

「って。」

アクセントが笑う。

「それで、買ってもらったんですか?」

「その日に持って帰った。」

「早っ!」

笑いが起きる。

ドルチェが微笑んだ。

「お優しいお母様だったのですね。」

「どうだろう。」

俺も少し笑った。

「甘かっただけかもしれない。」

バックのトランペットだったが。

子どもの俺には、大きく重たかった。

腕はすぐ疲れる。

ベルは下がる。

息も続かない。

それでも。

毎日吹いた。

「高校生までは、そのバックを使ってた。」

俺は、ブリランテの手にあるニューヨークモデルを見る。

「士官学校の入学祝いに。」

「母が、これをくれた。」

ブリランテが、そっとベルへ目を落とした。

「この一本を……。」

「ああ。」

当時は。

新しい楽器を買ってくれた。

それくらいにしか思っていなかった。

でも。

今日。

みんなの音を聴いて。

この楽器を、みんなに吹いてもらって。

少しだけ分かった気がする。

「軽くて。」

「反応が速くて。」

「息が入りやすい。」

俺は笑った。

「俺に合うものを。」

「ちゃんと選んでくれてたんだな。」

誰も何も言わなかった。

ブリランテが、ニューヨークモデルを差し出す。

「隊長様。」

「はい。」

俺は両手で受け取った。

陽射しを受けたラッカーが。

柔らかく光っている。

「……母には、敵わないな。」

そっとケースへ戻す。

カチリ。

留め具の音が。

静かな演習場へ響いた。


第10話『音の入口』
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2026年07月04日

第8話『開かれたケース』

第8話『開かれたケース』


「隊長。」

カンタービレ軍曹が、完成した隊列を見渡した。

「はい。」

「さすがは、隊長。」

少しだけ微笑む。

「ファーストが負傷した時のことも、お考えですのね。」

「すごいですよー!」

ブリランテが、ぱっと身を乗り出した。

「すごいですよ! 隊長様!」

「いや。」

俺は首を振った。

「別に、凄くない。」

ソステヌートが眼鏡を押し上げる。

「教範通りですね。」

「ちぇっ。」

少し笑いが起きた。

俺もつられて笑う。

その時だった。

「隊長様。」

ブリランテが、俺の足元へ目を向ける。

「ん?」

「そのケース……。」

俺も視線を落とした。

黒いファイバーケース。

「ニューヨークモデルですよー!」

「よく分かったな。」

ブリランテの目が輝く。

「分かりますよー!」

一歩近づく。

「あの……。」

ケースと俺の顔を交互に見る。

「少し、吹かせて欲しいですよ……。」

アクセントも覗き込んだ。

「俺も気になってました。」

スタッカートが笑う。

「ずっと見てたもんな。」

「見てない!」

「見てた。」

「少しだけだ!」

また笑いが起きる。

俺も笑った。

「そんなに気になるなら――」

ケースへ手を伸ばす。

指先が。

止まった。

「……?」

ブリランテが首を傾げる。

山から風が吹いた。

黒いケースの表面を、陽射しが滑っていく。

卒業式の日から。

一度も開けていない。

「隊長様?」

「ああ。」

俺は小さく笑った。

「悪い。」

留め具へ指を掛ける。

カチリ。

もう一つ。

カチリ。

ゆっくりと蓋を開く。

ラッカーのベルが。

初夏の陽射しを受けて、柔らかく光った。

「……綺麗。」

ブリランテが息を呑む。

俺は楽器を持ち上げた。

右手が。

ほんの少しだけ震えた。

「大事な相棒なんだ。」

ブリランテは両手を差し出す。

「大事にします。」

俺は。

その手へ、ニューヨークモデルを預けた。


第9話『母の遺したトランペット』
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2026年07月04日

第7話『右翼と左翼』

第7話『右翼と左翼』


十人が、俺の前へ並んでいた。

「まず、右翼。」

俺は一歩前へ出た。

「俺が右翼パートリーダー。」

「ファーストを担当する。」

「ブリランテ。」

「はいっ!」

「ファースト。」

「はいっ、隊長様!」

すぐに俺の隣へ入る。

「連弾で敵を牽制しろ。」

「右翼へ攻撃させる暇を与えるな。」

「はいっ、隊長様!」

「その隙に。」

「俺が叩く。」

ブリランテが大きく頷いた。

「任せてくださいですよー!」

「アクセント。」

「はい。」

「スタッカート。」

「はい。」

二人が前へ出る。

「二人は、状況に応じてセカンドとサード。」

アクセントとスタッカートが頷いた。

「分かりました。」

「了解ッス。」

「ペザンテ。」

「……はい。」

「サード。」

少し間を置く。

「頼りにしている。」

「ウッス。」

「リアルダ。」

「はい!」

手帳を抱えたまま、一歩前へ出る。

「右翼につけ。」

「弾幕計算を頼む。」

「お任せください!」

「次。」

「左翼。」

カンタービレ軍曹が、静かに一歩前へ出た。

「軍曹。」

「はい。」

「パートリーダー。」

「ファーストをお願いします。」

「承知いたしましたわ。」

「グラヴィオーソ。」

「……はい。」

「ファースト。」

「狙撃を頼む。」

「……了解。」

「ソステヌート。」

「はい。」

「レガート。」

「はい。」

二人が前へ出る。

「二人は、状況に応じてセカンドとサード。」

「了解しました。」

「分かりました。」

「エネルジコ。」

「はい!」

「ドルチェ。」

「はい。」

「二人はサード。」

少し間を置く。

「遊撃隊の守り、頼む。」

「了解です!」

「承知しました。」

全員が、それぞれの位置へ動く。

右翼。

左翼。

俺は隊列を見渡した。

「会敵したら。」

左翼を見る。

「まず、左翼が前へ出る。」

カンタービレ軍曹が頷く。

「敵の注意を引いてください。」

「承知いたしましたわ。」

「その間に。」

右翼を見る。

「こっちで叩く。」

ブリランテが胸を張る。

「任せてくださいですよー!」

「ただし。」

「敵の注意が右翼へ向いたら。」

「グラヴィオーソ。」

「……はい。」

「お前が叩くんだ。」

「……分かったわ。」

アクセントが左右を見比べる。

「左を向いたら。」

スタッカートが続けた。

「右から来る。」

グラヴィオーソが呟く。

「右を向いたら、こちらの番ね……。」

「そういうこと。」

「それと。」

「会戦でレギオンを組んだ場合も、配置は変えない。」

「右翼は、そのまま右翼。」

「左翼は、そのまま左翼。」

カンタービレ軍曹が頷いた。

「普段の隊形のまま、展開するのですね。」

「ああ。」

「山陰流だ。」

リアルダが微笑む。

初夏の風が。

演習場を抜けていく。

カンタービレ軍曹は。

しばらく、その隊列を眺めていた。

そして。

ほんの少しだけ。

口元を緩めた。


第8話『開かれたケース』
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2026年07月04日

第6話『音を聴く』

第6話『音を聴く』


「じゃあ。」

俺は十人を見渡した。

「一人ずつ、音を聴かせてくれ。」

ブリランテの手が、真っ先に上がる。

「はいっ!」

「早いな。」

「隊長様に一番に聴いてほしいです!」

「その『様』は――」

「はい!」

満面の笑み。

もういい。

俺はケースから、銀色の測定器を取り出した。

アクセントが身を乗り出す。

「それ、本部のですか?」

「トレジャリー。」

ソステヌートが眼鏡へ手を添えた。

「教範で見ました。」

「実物は初めてです。」

「音程と倍音を見る。」

電源を入れる。

画面に数字が並んだ。

「でも。」

俺は、自分の耳を指差した。

「最後は、こっち。」

リアルダが小さく頷く。

「数値が同じでも。」

「音は同じじゃありませんからね。」

「そういうこと。」

俺はブリランテを見る。

「一音。」

「楽に。」

「はいっ!」

トランペットを構える。

息を吸う。

『パァ────』

明るい。

音の立ち上がりが速い。

高いところでも、芯が細くならない。

「今度は。」

「短く刻んで。」

「はいっ!」

『タカタカタカタカッ!』

ベルの先から。

赤い♪が、細かく連なって飛び出した。

速い。

それでも。

一音一音の芯が潰れない。

「……なるほど。」

ブリランテが、待ちきれないように身を乗り出す。

「どうですか?」

「まだ秘密。」

「えぇー!」

後ろから笑いが起きた。

「次。」

アクセントが飛び出した。

「俺、行きます!」

『パァァ────!』

勢いがある。

少し荒い。

でも、音そのものは太い。

「……力みすぎ。」

「やっぱりですか!」

「分かってるなら直せ。」

スタッカートが吹き出す。

「ほら。」

「いつも言ってるだろ。」

「うるさい!」

「次。」

スタッカート。

『パァ────』

短く切っても、音の芯が残る。

余計な力がない。

「もう一回。」

『パァ────』

「うん。」

「何ですか、その『うん』。」

「後で。」

「気になるなぁ。」

ソステヌートが前へ出る。

『パァ────』

安定している。

高くなっても揺れない。

少し音域を下げても。

周りへ自然に馴染んだ。

俺はトレジャリーを見る。

「もう一つ下。」

「はい。」

『パァ────』

「……なるほど。」

ソステヌートが眼鏡を直した。

「次。」

レガート。

『パァ────』

柔らかい。

前へ出るというより。

隣に音があれば。

自然につながっていくような響きだった。

「もう一回。」

『パァ────』

「いいね。」

レガートが穏やかに笑う。

「ありがとうございます。」

「次。」

エネルジコ。

「はい!」

構えから迷いがない。

『パァァ────!』

真っ直ぐな音が、演習場へ伸びる。

「元気だな。」

「はい!」

「音の話。」

「はい!」

同じ返事だった。

小さな笑いが起きる。

「ペザンテ。」

「……はい。」

大きな身体が前へ出た。

息を吸う。

『ボォ────』

太い。

演習場の空気そのものが。

少し厚くなったように感じた。

アクセントが思わず振り返る。

「やっぱり太いなぁ。」

ペザンテは何も言わない。

俺は少し音域を上げてもらう。

『パァ────』

太さは、あまり変わらない。

「……うん。」

「次。」

ドルチェ。

「はい。」

静かに構える。

『パァ────』

柔らかい。

前へ突き刺さる音じゃない。

ふわりと。

周りへ広がっていく。

俺は少し考えた。

「ドルチェ。」

「はい?」

「防御弾幕を張ってくれ。」

「わかりましたわ。」

もう一度。

ドルチェがトランペットを構える。

少し低い音。

『パァ────』

ベルの周りへ。

ピンクの♪が、ふわりと集まる。

一つ。

また一つ。

やがて。

ベル先で大きな塊になった。

音符が重なり。

柔らかな防御陣が広がっていく。

さらに。

その周囲へ。

いくつもの防御弾幕が花開いた。

押し返すような壁じゃない。

包み込むように広がって。

それでも。

形は崩れない。

リアルダが小さく呟いた。

「綺麗です……。」

ドルチェが微笑む。

「ありがとうございます。」

俺は小さく頷いた。

「……なるほど。」

次。

グラヴィオーソが前へ出た。

無言で構える。

『パァ────』

真っ直ぐ。

余計な揺れがない。

音が広がらない。

一本の線になって。

遠くまで伸びていく。

「もう一回。」

少し離れた木を指差す。

「あれを狙うつもりで。」

グラヴィオーソが。

目だけを向けた。

白い♪が。

ベルの周りへ集まり始める。

ゆっくりと。

螺旋を描きながら。

やがて。

ベル先で、一点へ凝縮された。

『パァ────』

細い音響弾が。

一直線に放たれる。

その周りを。

白い♪が螺旋状に連なっていく。

遠くの木まで。

一本の軌道が伸びた。

俺は思わず顔を上げる。

「……何?」

「いや。」

「いい音だ。」

「そう。」

それだけ言って下がった。

最後。

カンタービレ軍曹。

静かにトランペットを構える。

『パァ────』

よく通る。

それでいて。

周りの音を押し退けるような感じがない。

もう一音。

『パァ────』

音が止まっても。

不思議と。

基準だけが残った。

俺は小さく頷いた。

山から風が吹く。

演習場へ。

静けさが戻った。


第7話『右翼と左翼』
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2026年07月04日

第5話『第1トランペット遊撃隊』

第5話『第1トランペット遊撃隊』


益田駐屯地。

演習場。

「気を付け!」

一人の女性が一歩前へ出る。

「敬礼!」

十人の右手が、一斉に上がった。

「山陰西部方面軍、第1軍団!」

「第1トランペット遊撃隊!」

「隊長殿の着任を歓迎します!」

(若い……。)

二十代前半。

いや。

十八、十九歳くらいにしか見えない隊員までいる。

後ろの方から、小さな声が聞こえた。

「えっ、隊長……若くない?」

「聞こえるって。」

「本部の人って、もっと怖い人かと思ってた。」

「それも聞こえてる。」

全部聞こえている。

俺は苦笑した。

「聞こえてるぞ。」

一瞬。

静まり返る。

「すみません!」

演習場に笑いが広がった。

先ほど号令をかけた女性が、一歩前へ出る。

背筋は真っ直ぐ。

制服にも乱れ一つない。

「左翼パートリーダー、カンタービレ軍曹です。」

「本日より、よろしくお願いいたしますわ。」

俺も敬礼を返す。

「レッドだ。」

「士官学校を卒業したばかりで、実務は初めてになる。」

少しだけ間を置く。

「分からないことも多い。」

「その時は、遠慮なく教えてくれ。」

カンタービレ軍曹は静かに俺を見た。

「承知いたしました。」

「現場のことは、私たちがお支えいたしますわ。」

「俺たちも!」

後ろから、勢いよく手が挙がった。

「アクセント。」

隣の青年が、すぐに止める。

「まだ軍曹の話が終わってない。」

「スタッカート、細かいなぁ。」

「お前が雑なんだ。」

小さな笑いが起きる。

「隊長様!」

今度は明るい声。

小柄な少女が、満面の笑みで敬礼していた。

「……隊長様?」

「はい!」

「ブリランテです!」

「よろしくお願いします、隊長様!」

「その『様』は――」

「はい!」

「よろしくお願いします、隊長様!」

後ろで誰かが吹き出した。

眼鏡をかけた青年が、小さく肩をすくめる。

「もう諦めた方がいいです。」

軽く頭を下げた。

「ソステヌートです。」

「よろしくお願いします。」

その隣では、穏やかな青年が微笑んでいる。

「レガートです。」

「よろしくお願いします。」

「ふふっ。」

柔らかな笑い声。

女性隊員がこちらへ会釈した。

「ドルチェです。」

「よろしくお願いいたします。」

その隣。

長い黒髪の女性と目が合った。

「……グラヴィオーソ。」

「よろしく。」

「……どうも。」

もう視線を逸らしている。

少し離れたところでは、大柄な青年が黙って立っていた。

「ペザンテですわ。」

カンタービレ軍曹が紹介する。

本人は軽く頭を下げた。

「……どうも。」

視線は俺ではなく。

リアルダが持っている紙袋へ向いている。

リアルダが、そっと紙袋を背中へ隠した。

「……。」

ペザンテの目が追う。

(腹が減ってるのか?)

最後の一人。

姿勢のいい青年が、一歩前へ出た。

「エネルジコです!」

「よろしくお願いします!」

「よろしく。」

ふと。

足元へ目が止まった。

十人のトランペットケース。

角は擦れ。

金具は色褪せ。

補修された跡もある。

新品は、一つもなかった。

アクセントが俺の視線に気付く。

「ああ、これですか?」

自分のケースを軽く叩いた。

「まだ使えますよ!」

スタッカートが笑う。

「お前のは使い方が雑なだけだろ。」

「戦歴だよ、戦歴!」

また笑いが起きた。

俺も少し笑う。

そして。

自分のケースへ目を落とした。

俺のものだけ。

妙に綺麗だった。

「隊長?」

カンタービレ軍曹がこちらを見る。

「いや。」

俺は首を振った。

「何でもない。」

十人を見る。

名前は聞いた。

顔も見た。

「まずは。」

俺はケースを地面へ置いた。

「みんなの音を聴かせてくれ。」

ブリランテの目が輝く。

アクセントは、もうケースへ手を伸ばしていた。

グラヴィオーソも無言で留め具を外す。

カチッ。

カチッ。

カチッ。

静かな演習場へ。

ケースを開く音が重なった。

初夏の風が吹いた。


第6話『音を聴く』
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2026年07月04日

第4話『山陰流』

第4話『山陰流』


リアルダの運転する軍用車は、山陰支部を後にすると再び山道へ入っていった。

相変わらずの悪路だ。

ガタン。

ガタン。

車体が跳ねるたび、助手席のトランペットケースが小さく揺れる。

「益田までは、まだかかるのか?」

「はい。」

リアルダは慣れた手つきでハンドルを切った。

「山陰は広いですから。」

窓の外には。

初夏の山並みが続いている。

「応援要請があると、一日に百キロ近く走ることもあります。」

「そんなに?」

「はい。」

少し照れたように笑う。

「百キロを超える日もありますよ。」

「私も遊撃隊も、車の中が第二の職場ですね。」

「大変だな……。」

深い緑の向こう。

小さな集落の屋根が、陽射しを受けて光っていた。

ふと。

一つ気になった。

「そういえば。」

「遊撃隊は十名編成だったな。」

「はい。」

「右翼五名、左翼五名です。」

「士官学校では、例えば金管五重奏――『金五』が基本だった。」

「トランペット、ホルン、トロンボーン、ユーフォニアム、チューバ。」

「最小単位の混成部隊で連携を学んだし。」

「卒業試験も、その編成だった。」

リアルダが頷く。

「なのに。」

「どうして山陰は、トランペットだけなんだ?」

リアルダが少し微笑んだ。

「北方戦線は、本部とは戦い方が違うんです。」

「違う?」

「はい。」

車が大きなカーブを曲がる。

「山陰では、不協和音との戦闘が。」

「そのまま会戦へ発展することも珍しくありません。」

「遊撃隊が最初に現場へ入り。」

「住民を避難させ、戦線を維持します。」

「その後。」

「音響士や上級音術師の先生方が到着すれば。」

「そのまま会戦部隊へ編入されます。」

「なるほど。」

「だから最初から、同じ楽器で?」

「はい。」

「普段から同じ編成で連携を磨いておけば。」

「会戦でも、そのまま一つの部隊として動けます。」

「そういうことか……。」

士官学校とは。

最初から考え方が違う。

「ですから。」

リアルダが少し誇らしそうに笑った。

「第1トランペット遊撃隊は。」

「小さいですが、とても優秀な部隊ですよ。」

「楽しみだな。」

「はい!」

◇

「レッド様。」

「そろそろ着きそうです。」

その声に反応して。

意識が戻った。

どうやら。

寝てしまっていたらしい。

「……すまない。」

「もうすぐですよ。」

リアルダは、屈託のない笑顔で返した。

俺は少し気まずくなって。

ごまかすように、窓の外へ視線を移す。

しばらくして。

木々が開けた。

広い演習場。

低い庁舎。

年季の入った車庫。

整然と並ぶ兵舎。

「着きました。」

リアルダがブレーキを踏む。

ギギギ……。

古びた軍用車が止まった。

エンジン音が消える。

山から吹き下ろす風が。

演習場の砂を揺らした。

その時だった。

「総員、整列!」

鋭い号令。

砂煙の向こうで。

人影が動いた。

十人。

一斉に駆け出す。

俺は。

その姿を見つめた。

初夏の風が。

演習場を吹き抜けていった。


第5話『第1トランペット遊撃隊』
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2026年07月04日

第3話『神々の集う前線基地』

第3話『神々の集う前線基地』


古びた軍用車が、小さく砂埃を巻き上げながら、国立音響防衛隊山陰支部の正門をくぐった。

ギギギ……。

年季の入ったブレーキが鳴き、車はゆっくりと停車する。

「到着しました。」

リアルダがエンジンを切った。

静寂が戻る。

その隙間を埋めるように、どこからともなく蝉の声が聞こえてきた。

俺は助手席から降り立ち、ゆっくりと周囲を見渡す。

思っていたより、小さい。

ここは島根県出雲。

八百万(やおろず)の神々が集まるという、神有月の地。

古の都。

そして、島根と鳥取を守る北方戦線の要。

国立音響防衛隊、山陰支部。

本部の巨大な司令部とは比べものにならないほど、質素な庁舎だった。

二階建ての古い建物。

外壁には何度も補修した跡があり、窓枠の塗装もところどころ剥がれている。

駐車場には泥だらけの四輪駆動車が何台も並び、そのどれもが最前線の激しさを物語っていた。

「レッド様。」

リアルダが少し照れくさそうに笑う。

「古い建物でしょう?」

「いや。」

俺は首を横に振った。

「いい基地だ。」

その一言に、リアルダが嬉しそうに目を細める。

「ありがとうございます。」

庁舎へ入る。

廊下には、島根と鳥取を含む山陰全域の地図。

不協和音発生地点を示す無数のピン。

山間部。

沿岸部。

集落。

学校。

神社。

赤い印は、まるでこの土地そのものに刻まれた傷跡のようだった。

通信室からは、忙しそうに無線が飛び交っている。

「西部地区、異常なし。」

「東部地区、巡回終了。」

「次の補給車、二十分遅れます。」

本部とは違う。

飾り気はない。

だが、ここには生きた現場の匂いがあった。

「支部長、お連れしました。」

リアルダが応接室の扉を開ける。

「失礼します。」

中では、一人の壮年の男が書類へ目を通していた。

日に焼けた顔。

歴戦の軍人らしい鋭い眼光。

だが、立ち上がった瞬間、その表情は柔らかく崩れた。

「よく来てくれた。」

大きな手が差し出される。

「山陰支部長、リゾルートだ。」

俺は背筋を伸ばし、敬礼する。

「本部より派遣されました、初級音術師レッドです。」

「話は聞いている。」

リゾルート支部長は、豪快に笑った。

「遠いところ、ご苦労だった。」

「歓迎する。」

握手した手は、ごつごつしていた。

長年、現場を歩き続けてきた人の手だった。

「座ってくれ。」

応接セットへ腰を下ろす。

リアルダがお茶を運んできた。

「ありがとう。」

「いえ。」

リアルダは俺の隣へ立つ。

リゾルート支部長は、机の上に地図を広げた。

「まず現在の状況から説明しよう。」

赤い印が、山陰全域に散らばっている。

「山陰支部の管轄は、島根と鳥取だ。」

「山が多く、海岸線は長い。」

「集落は点在し、移動には時間がかかる。」

支部長の指が、地図の上をゆっくりとなぞる。

「そして、ここは出雲だ。」

その声が、少し低くなる。

「神有月には、八百万の神々が集う土地。」

「神が集まる場所には、力も集まる。」

「力が集まれば、不協和音もまた集まる。」

俺は息を呑んだ。

ただの地方支部ではない。

ここは、神々の気配と、人間の暮らしが重なる場所なのだ。

「だから山陰支部は小さいが、忙しい。」

リゾルート支部長は、苦笑する。

「上級使いは現在、全員応援出動中だ。」

「西部。」

「北部。」

「沿岸部。」

「どこも人手不足でな。」

俺は地図を見つめる。

想像以上だった。

山陰は広い。

広すぎる。

「その間、この地域を支えるのが遊撃隊になる。」

支部長が地図の一点を指差した。

「君には、益田駐屯地所属のトランペット遊撃隊を任せたい。」

「トランペット遊撃隊……。」

「十名編成だ。」

「全員若い。」

「だが、実戦経験だけなら本部の中級使いにも負けん。」

支部長の目が、わずかに細くなる。

「生き残ったからこそ、強くなった連中だ。」

部屋が静かになった。

蝉の声だけが、遠くで鳴いている。

「ただし。」

リゾルート支部長は続けた。

「死亡率も、離職率も高い。」

俺は、無意識に拳を握っていた。

「ここ山陰では、不協和音が発生したら遊撃隊が真っ先に現場へ向かう。」

「上級使いが到着するまで時間を稼ぐ。」

「住民を逃がし、敵を引きつけ、決して戦線を崩さない。」

「それが彼らの役目だ。」

俺の喉が、かすかに鳴った。

時間を稼ぐ。

それは簡単な言葉だ。

だが現場では、命を削るという意味になる。

リゾルート支部長は俺の様子を見ると、小さく笑った。

「そんなに肩肘を張らなくていい。」

「君も今日から山陰の仲間だ。」

「分からないことは、何でも聞いてくれ。」

そして、支部長は隣に立つリアルダへ視線を向けた。

「特に。」

「リアルダ。」

「はい。」

「レッド君の案内役は、引き続き君が担当してくれ。」

「承知しました。」

「彼女は優秀だ。」

リゾルート支部長は、少し誇らしげに笑う。

「山陰の地理。」

「補給路。」

「敵情。」

「通信。」

「現場のことなら、私より詳しい。」

リアルダは少し恥ずかしそうに頬を掻いた。

「そんな、大げさですよ。」

「大げさじゃない。」

支部長は即答した。

「彼女の情報で救われた命は、一つや二つじゃない。」

リアルダは照れ隠しのように笑う。

「……ありがとうございます。」

その横顔を見ながら思う。

車の中では天然な子だった。

冷凍パンを勧めてきたり。

白いガードレールで笑ったり。

でも、この山陰では違う。

誰からも信頼されている。

命を預けられる情報士なのだ。

「では。」

リゾルート支部長が立ち上がる。

「早速だが。」

「遊撃隊へ挨拶に行こう。」

リアルダが元気よく敬礼する。

「車を回してきます!」

勢いよく部屋を飛び出していく。

支部長は苦笑した。

「元気だけは誰にも負けん。」

俺も思わず笑う。

「ええ。」

「そのようですね。」

窓の外では、古びた軍用車が景気よくエンジン音を響かせていた。


第4話『山陰流』
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2026年07月04日

第2話『冷凍パンと、最初の笑顔』

第2話『冷凍パンと、最初の笑顔』


「…………は?」

思わず聞き返してしまった。

「冷凍パンです!」

リアルダは得意げに胸を張る。

「今朝、凍らせておいたんです。」

「炎天下を走ると、お昼頃にはちょうど食べ頃になるんですよ。」

そう言ってダッシュボードから油の染みた紙袋を取り出し、俺へ差し出した。

受け取ると、ほんのり冷たい。

「……ただの予算不足で、凍らせたパンじゃないのか?」

「生存戦略と言ってくださいっ♪」

満面の笑みだった。

そのあまりにも堂々とした言い方に、思わず吹き出しそうになる。

「隊員のみんなも結構好きなんですよ。」

「……本当か?」

「はい!」

「山陰名物です!」

「いや、それは違うだろ。」

「違います?」

「絶対違う。」

二人で顔を見合わせる。

自然と笑みがこぼれた。

母が亡くなってから。

こんなふうに誰かと笑ったのは、初めてだった。

俺はパンを一口かじる。

少し固い。

けれど、不思議と悪くない。

「リアルダ。」

「はい?」

「どうして情報士なんて仕事を選んだ?」

何気ない質問だった。

リアルダは少しだけ視線を前へ向けたまま答えた。

「山陰支部で。」

「一定期間働けば。」

「進学のための奨学金制度が使えるんです。」

「期間雇用を終えたら。」

「大学へ行くつもりです。」

「私。」

「どうしても勉強したいことがあって。」

その一言に、胸の奥が少し痛んだ。

彼女は未来のために、この危険な場所へ来ている。

対して俺は。

過去から逃げるためにここへ来た。

「……怖くないのか?」

「怖いですよ。」

即答だった。

「毎日怖いです。」

「でも。」

少しだけ笑う。

「私たちが情報を得なかったら、みんなが死んじゃいます。」

「だから。」

「情報士は、怖いなんて言っていられないんです。」

冗談ばかり言う子だと思っていた。

でも、その言葉には一本の芯があった。

「実は私。」

「小学校からトランペットを吹いてたんですよ。」

「へぇ。」

「本当は音響士になりたかったんです。」

「でも。」

「致命的に下手くそで。」

「適性試験に落ちちゃいました。」

思わず笑ってしまう。

「どれくらい下手なんだ?」

リアルダは真顔で答えた。

「地域音響団の演奏会でソロを吹いたら。」

「指揮者さんは頭を抱えて。」

「団長さんは天を仰いで。」

「近所の犬が一斉に遠吠えしました。」

「……盛ってるだろ。」

「ノンフィクションです!」

真剣そのものだった。

その必死さが可笑しくて、俺は腹を抱えて笑ってしまう。

「笑いましたね!」

「傷つきました!」

「いや。」

笑いを堪えながら首を振る。

「顔は全然傷ついてない。」

「むしろ元気そうだ。」

リアルダは頬を膨らませる。

「もう。」

「レッド様、ひどいです。」

「でも。」

俺は少し真面目な声になった。

「吹けない理由は、口輪筋かもしれない。」

「え?」

「士官学校で嫌というほどやらされた基礎練習がある。」

リアルダの目が輝く。

「教えてください!」

「いいか。」

「まず『ム』。」

「唇を閉じる。」

「ム。」

「次に『イ』。」

「横へ引く。」

「イ。」

「そのまま『ウ』。」

「前へ突き出す。」

「ウ。」

「最後に『ア』。」

「口を自然に開く。」

「ア。」

「この四つをゆっくり繰り返す。」

「アンブシュアの基本だ。」

リアルダは運転しながら真剣な顔で、

「ム。」

「イ。」

「ウ。」

「ア。」

と何度も口を動かし始めた。

その真剣さが、かえって可笑しい。

頬がリスのように動く。

「……。」

耐えきれなかった。

「ぷっ。」

「ふふっ……。」

「あっ!」

リアルダが抗議する。

「笑いましたね!」

「ちゃんと練習してるのに!」

「悪い。」

俺は笑いながら首を振る。

「でも。」

「その調子なら、きっと上手くなる。」

リアルダは少し照れたように笑った。

「本当ですか?」

「ああ。」

「何とかなるさ。」

「……変な人。」

そう言って、小さく笑う。

「でも。」

「レッド様らしいですね。」

その一言が、不思議なくらい胸へ残った。

ただ一人の「レッド」として見てもらえた気がした。

◇

やがて軍用車は長い坂道を登りきる。

その瞬間。

視界が一気に開けた。

「――っ。」

思わず息を呑む。

眼下に広がる山陰の大地。

深い緑。

きらめく川。

遠くまで続く田園。

初夏の風が車内へ流れ込んできた。

その景色は、戦場とは思えないほど美しかった。


リアルダが静かに笑う。

「ようこそ山陰へ。」

「レッド様。」


俺はその笑顔から思わず目を逸らした。

胸の奥が、小さく高鳴る。

灰色だった世界へ。

少しだけ色が戻ってくる。

そんな気がした。

俺はまだ知らない。

この山陰で、どんな仲間と出会い。

どんな戦いを経験し。

どんな別れが待っているのか。

それでも。

白いガードレールの向こうには、新しい日々が待っている。

俺は膝の上のトランペットケースへ、そっと手を置いた。

もう一度だけ、吹いてみよう。

それは、特級使いスカーレットの息子としてではない。

落ちこぼれの士官生としてでもない。

一人の初級音術師――レッドとして。

新しい一歩を踏み出すための、最初の一音になるはずだ。


第3話『神々の集う前線基地』
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2026年07月04日

第1話『白いガードレールの向こうへ』

第1話『白いガードレールの向こうへ』


4月上旬。

母の葬儀から、まだ数日しか経っていなかった。

俺は、鈍色の空を切り裂くように、ひたすら北へと向かっていた。

北方戦線。

国内で最も消耗が激しいとされる、泥と不協和音の激戦区。

中央のエリートたる特級使いの増援など、まず回ってこない。

本部から派遣される若い音術師や、地方採用の音響士たちが、文字どおり血と泥にまみれながら戦線を支えている場所だ。

まともな人間なら、辞令が出た時点で泣きつくか、逃げ出すだろう。

だが、俺は自分から志願した。

理由は、今でも上手く言葉にできない。

ただ、一つだけ確かなことがある。

――あの故郷へ、帰りたくなかった。

母のいない、がらんとした実家。

近所の人たちが向けてくる、同情と憐れみの視線。

「防衛隊のエース」

「特級使いスカーレットの息子」

その肩書きだけが、一人歩きしていく。

思い出の優しさに胸を締めつけられるくらいなら。

俺は、硝煙の臭う戦場へ逃げることを選んだ。

中国地方、山陰。

そこは都会の喧騒を、深い緑が静かに飲み込んでしまったような世界だった。

初夏の陽射しが山々を照らす。

幾重にも重なる稜線。

谷を縫うように流れる川。

木々を揺らす風。

どれも穏やかで、美しい。

およそ戦場へ向かう景色とは思えなかった。

ガタガタガタンッ――。

その静寂を嘲笑うように、古びた軍用車が大きく跳ねた。

地方支部で何十年も使われてきた四輪駆動車らしい。

サスペンションは軋み、ディーゼルエンジンは重低音を響かせる。

車内には軽油の匂いが微かに漂っていた。

助手席の俺は、膝の上に置いた黒いファイバーケースを、無意識に抱き寄せる。

中には、ヤマハ・ニューヨークモデル。

母が遺してくれたトランペット。

卒業式の日から、一度もマウスピースへ唇を触れていない。

ケースの冷たさだけが、指先から静かに伝わってくる。

気を紛らわせるように窓の外を見る。

流れる山。

濃い緑。

そして――。

「……白い。」

思わず呟いた。

どこまでも続く真っ白なガードレール。

見慣れた山口の夏みかん色とはまるで違う。

まるで山陰という土地が、自分たちの境界を静かに主張しているようだった。

その独り言を聞いたのだろう。

運転席の少女が、ちらりとこちらを見る。

何か話しかけようとして、一度ためらう。

そして、少し遠慮がちに口を開いた。

「……レッド様。」

「山陰は初めてですか?」

「いや。」

俺は窓へ額を預けたまま答えた。

「故郷の山口と、大して変わらない。」

少しだけ考えて続ける。

「……ただ。」

「ただ?」

「ガードレールが、やたら白いな。」

車内が静かになる。

やがて。

「ふふっ。」

鈴を転がしたような笑い声が響いた。

「そこですか。」

「初めて言われました。」

その声だけが、静かな山道によく響く。

彼女の名前はリアルダ。

山陰支部所属の情報士で、本部から派遣された俺を支部まで案内する役目を任されている。

褐色の肌。

短く切り揃えた髪。

俺とそう年齢は変わらないだろう。

細い腕で悪路を軽々と走り抜ける運転技術は、とても新人には見えなかった。

「山陰では普通なんですよ。」

「そうなのか。」

「はい。」

「山口は違うんですか?」

「夏みかん色だ。」

「えっ!?」

リアルダは目を丸くした。

「ガードレールって、色が違うんですか!?」

「地域による。」

「知りませんでした……。」

心底驚いたように呟く。

その反応が少し可笑しくて、思わず口元が緩んだ。

リアルダも、それに気付いて嬉しそうに笑う。

「だから、その『レッド様』っていうの。」

俺は苦笑しながら小さく手を振った。

「何だかむず痒い。」

「やめてくれないか。」

リアルダは首を傾げた。

「どうしてですか?」

「私は嬉しいですよ。」

「この山陰へ、本物の音術師様が来てくださるんですから。」

「本物って。」

「俺は学校を出たばかりだ。」

「それでもです。」

リアルダは前だけを見ながら言った。

「山陰は広いんです。」

「島根も鳥取も。」

「山もあれば海もあります。」

「上級使いの先生方が何人いらっしゃっても、とても全部は守れません。」

少しだけ表情が真剣になる。

「だから、不協和音が発生したら、一番最初に現場へ向かうのは私たち音響士です。」

「地元の音響団の皆さんも、一緒に住民を守ります。」

「その私たちを率いる音術師様が来てくださる。」

「それだけで、本当に心強いんですよ。」

胸の奥が、少し痛んだ。

俺なんかが。

人の命を預かる隊長になる。

本当にそんな資格があるのだろうか。

そんな俺の空気を察したのか。

リアルダは急に表情を明るくした。

「――ところで!」

嫌な予感しかしない。

「……何だ?」

「冷凍パン、食べます?」

「…………は?」


第2話『冷凍パンと、最初の笑顔』
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ウルセンジャー小説ガイド
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2026年07月04日

第0話『ウルセンジャー誕生秘話(実話)』

(出展:2006年 バンドジャーナル 8月号 P61・62 より抜粋)※ノンフィクションです


第0話『ウルセンジャー誕生秘話(実話)』

防府市教育委員会生涯学習課に「市内には、働く若者が余暇を有効に過ごせる場が少ないので、誰でも楽しめるサークルを作ってもらえないだろうか」と持ちかけられたのが発端だったという。

「実は、その要請にこたえて最初に作ったのはバスケットボールの団体だったんです。大学卒業後は音楽活動を中断してスポーツをやっていたものですから・・」

しかし、その手腕を買われて再度教育委員会から声がかかった。
「音楽の団体とボランティアの団体がまだないので、これも立ち上げてもらえないか」と。

ふたつ作るには労力がいる。どうしようか。

あるとき、教育委員会の人がこんな事を話した。
親御さんが「演奏会などでは、子供が泣いたりしたら回りの人の迷惑になるから、会場の外に出なくてはならない。子供たちと一緒に楽しんだり参加できる演奏会はないものだろうか」と相談してくる。

そうか、そんな人たちも楽しめる音楽をボランティアでやる団体をつくればいいのでは?

ならふたつ合わせよう!

2002年、4月の事だった。


音楽戦隊ウルセンジャー小説版
第1話『白いガードレールの向こうへ』
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2026年07月04日