第4話『絶対零度の査察前線(後編)』

(出典:グーグルAI)※ストーリはフィクションです


第4話『絶対零度の査察前線(前編)』

久しぶりに静寂に包まれている自分のデスクで、俺は古いラジオから流れる懐メロに耳を傾けていた。
まだ少しジンジンと痛む、先日の戦闘で負傷した左腕の包帯をさすりながら、つかの間の平和を享受する。

――その静寂が、お行儀よく破られた。

プシューという気圧の抜ける音とともに、秘密基地作戦室の重い扉が、信じられないほど静かに、そして規律正しく開いたのだ。前回のじゃじゃ馬(ストレッタ)のドア破壊突入とは大違いだ。

姿を現したのは、名門の国立音響士官学校を首席で卒業したエリート、バック隊員だった。

「やぁバック。入室の模範解答をありがとう。できればスレッタにも、ドアをブチ壊さずに部屋に入る方法を教えてやってくれないか?」

「隊長、冗談を言っている場合ではありません!!」
血相を変えて飛び込んできたバックの顔色は、みるみるうちに青ざめていく。その端正な顔が恐怖で歪んでいるのを見て、俺の背筋に冷たいものが走った。

「母が、この防府基地へあなたとウルセンジャーの音楽を『査察(臨検)』しに来ます」

「な……ッ!?」
私は持っていたペンを床に落とした。転がったペンが静かに止まるまでの数秒間、私の脳裏には、過去のトラウマが走馬灯のように駆け巡っていた。

頭をよぎるのは、幼い頃に京都で受けたあの『はんなりとした地獄』のレッスンだ。

『まあ、随分と元気な音が出ること。でもレッドはん、それはトランペットの音やなくて、ただの鉄くずの悲鳴ですえ?』

上品な京都弁の皮肉。
一音ズレるたびに、満面の笑顔のまま私の精神をミリ単位で削ってくる。あの恐るべき師匠であり、バックの母親でもある「シルキー師匠」の姿が、鮮明に蘇ってきた。

日本に数人しかいない伝説の『特級トランペット使い』であり、京都の名門、古流音術・轟雷流(ごうらいりゅう)の免許皆伝。
「祇園の土蜘蛛」の異名を持つ規格外の音術師。
ちなみに、俺の亡き母スカーレットとは旧知の戦友(とも)でもある。

「……ッ、おい隊長! 何、現実逃避してるんですか! ここが本物の戦場だったら一瞬で命を落としますよ!」

バックの鋭い怒鳴り声で、俺の意識は強引に防府の作戦室へと引き戻された。

「母の査察次第では、我々は一瞬で木っ端微塵に論破され、この基地ごと歴史から消去されるでしょうね」
バックの言葉は容赦のない正論だった。

私はガックリと肩を落とし、力なく笑った。
「……やっぱり、君も心のどこかでそう思っていたんだね。国の最高戦力である史上最年少の上級使いを、こんな田舎の弱小部隊に縛り付けている。
それに、私を一人前にしようと地獄のシゴキで育ててくれたシルキー師匠の、大切な跡取り息子をこんな辺境に引き止めてしまっている……。
本当に、私の実力不足のせいで済まないと思っているよ」

レッドの胸にあるのは、天才エリートに対する申し訳なさという「負い目」だった。

しかし、その謝罪を聞いたバックは、まるでハチに刺されたかのように表情をこわばらせ、腕を組んだままぷいっと窓の外へ顔を背けた。夕日に照らされているせいか、彼の耳の後ろが少し赤くなっている。

「……ハァ。本当に、あなたはどこまでも呑気で……そして、どうしようもなくお人好しな隊長ですね」

バックは窓のガラスに映る自分の顔を苦々しく見つめながら、静かに、だけど重い本音を吐き出した。

「負い目を感じているのは、僕の方です」

「え……?」

「僕は国の最高学府(アカデミー)を首席で卒業した。他の優秀な同僚たちが、国の中枢や最前線の激戦区で華々しく戦っているというのに、僕は事務ミスを言い訳にして、こののどかな地方都市に『逃げて』いる。
……轟雷流の看板を背負っていながら、Sランクのもののけが頻繁に出没する京都の治安維持から目を背け、母の期待を裏切ってここにいる。
そんな僕が、エリートのプライドなんて語る資格はありません」

バックの背中が、微かに震えていた。完璧主義の彼が抱えていた、他人には決して見せない最大の弱音(負い目)だった。

「それでも……」
バックはゆっくりと私の方を振り返った。その瞳の奥には、確かな光があった。

「母の築き上げる音楽は寸分の狂いもない冷徹な芸術です。でもね、隊長。僕は母の完璧な演奏で、目の前の子どもたちが立ち上がって大声をあげて笑ったり、目を輝かせてヒーローの名前を叫んだりするところなんて、一度も見たことがないんです」

彼はストイックに結ばれていた唇の端を、不器用に緩めた。

「あなたの出す音には、技術や譜面を超えた『誰かを守りたい』という、馬鹿みたいに熱いエネルギーがある。僕にはそれが……どんな名門の洗練された音よりも、ずっと心地よかった。だから、僕は自分の意志でここに残っているんです。逃げ場所としてではなく、ここが僕の戦場だからです」

「バック……」

胸の奥が、ジンと熱くなる。お互いに「ここに縛り付けている」「ここへ逃げている」という正反対の負い目を抱えていたからこそ、二人の絆はより深く、強固に結ばれた。

「フン。勘違いしないでくださいね」
バックは照れ隠しのようにいつもの生意気な笑顔に戻ると、愛用のトランペット(Bach/GP)を鋭く構えた。

「母が来たら、僕が一番にあなたの音の『防波堤(イージス)』になります。あの人の京都弁の波状攻撃に、あなたのガラスのハートが耐えられるとは思いませんからね。僕の背中の後ろで、大人しく震えていてください」

「言うようになったじゃないか、バック!」
私は落ちたペンを拾い上げ、愛機ヤマハ・ニューヨークモデルを力強く握りしめた。相棒が盾になってくれるなら、隊長が背中で日和っているわけにはいかない。

「さあ、隊長! 母が査察にやってくるまで残りわずかです。もう一度ピッチの修正、そしてロングトーンの特訓です! 音のブレは、僕のプライドが絶対に許しません。……『正義の音』、僕に叩き込んで見せてください!」

「ああ……よし、やろう! 師匠が来る前に、死に物狂いの特訓だ!」

不器用で、だけど最高に頼もしい戦友のエールを胸に。
私たちの秘密基地に、迫りくる決戦を予感させる夕暮れのファンファーレが、これまでになく力強く響き渡った。


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2026年05月21日