第1話『北方戦線/新たな門出』(前編)
第1話『北方戦線/新たな門出』(前編)
4月上旬。
母の葬儀から、まだ数日しか経っていなかった。
俺は、鈍色の空を切り裂くように、ひたすら北へと向かっていた。
北方戦線。
国内で最も消耗が激しいとされる、泥と不協和音の激戦区。
中央のエリートたる特級使いの増援など、まず回ってこない。
本部から派遣される若い音術師や、地方採用の音響士たちが、文字どおり血と泥にまみれながら戦線を支えている場所だ。
まともな人間なら、辞令が出た時点で泣きつくか、逃げ出すだろう。
だが、俺は自分から志願した。
理由は、今でも上手く言葉にできない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
――あの故郷へ、帰りたくなかった。
母のいない、がらんとした実家。
近所の人たちが向けてくる、同情と憐れみの視線。
「防衛隊のエース」
「特級使いスカーレットの息子」
その肩書きだけが、一人歩きしていく。
思い出の優しさに胸を締めつけられるくらいなら。
俺は、硝煙の臭う戦場へ逃げることを選んだ。
中国地方、山陰。
そこは都会の喧騒を、深い緑が静かに飲み込んでしまったような世界だった。
初夏の陽射しが山々を照らす。
幾重にも重なる稜線。
谷を縫うように流れる川。
木々を揺らす風。
どれも穏やかで、美しい。
およそ戦場へ向かう景色とは思えなかった。
ガタガタガタンッ――。
その静寂を嘲笑うように、古びた軍用車が大きく跳ねた。
地方支部で何十年も使われてきた四輪駆動車らしい。
サスペンションは軋み、ディーゼルエンジンは重低音を響かせる。
車内には軽油の匂いが微かに漂っていた。
助手席の俺は、膝の上に置いた黒いファイバーケースを、無意識に抱き寄せる。
中には、ヤマハ・ニューヨークモデル。
母が遺してくれたトランペット。
卒業式の日から、一度もマウスピースへ唇を触れていない。
ケースの冷たさだけが、指先から静かに伝わってくる。
気を紛らわせるように窓の外を見る。
流れる山。
濃い緑。
そして――。
「……白い。」
思わず呟いた。
どこまでも続く真っ白なガードレール。
見慣れた山口の夏みかん色とはまるで違う。
まるで山陰という土地が、自分たちの境界を静かに主張しているようだった。
その独り言を聞いたのだろう。
運転席の少女が、ちらりとこちらを見る。
何か話しかけようとして、一度ためらう。
そして、少し遠慮がちに口を開いた。
「……レッド様。」
「山陰は初めてですか?」
「いや。」
俺は窓へ額を預けたまま答えた。
「故郷の山口と、大して変わらない。」
少しだけ考えて続ける。
「……ただ。」
「ただ?」
「ガードレールが、やたら白いな。」
車内が静かになる。
やがて。
「ふふっ。」
鈴を転がしたような笑い声が響いた。
「そこですか。」
「初めて言われました。」
その声だけが、静かな山道によく響く。
彼女の名前はリアルダ。
山陰支部所属の情報士で、本部から派遣された俺を支部まで案内する役目を任されている。
褐色の肌。
短く切り揃えた髪。
俺とそう年齢は変わらないだろう。
細い腕で悪路を軽々と走り抜ける運転技術は、とても新人には見えなかった。
「山陰では普通なんですよ。」
「そうなのか。」
「はい。」
「山口は違うんですか?」
「夏みかん色だ。」
「えっ!?」
リアルダは目を丸くした。
「ガードレールって、色が違うんですか!?」
「地域による。」
「知りませんでした……。」
心底驚いたように呟く。
その反応が少し可笑しくて、思わず口元が緩んだ。
リアルダも、それに気付いて嬉しそうに笑う。
「だから、その『レッド様』っていうの。」
俺は苦笑しながら小さく手を振った。
「何だかむず痒い。」
「やめてくれないか。」
リアルダは首を傾げた。
「どうしてですか?」
「私は嬉しいですよ。」
「この山陰へ、本物の音術師様が来てくださるんですから。」
「本物って。」
「俺は学校を出たばかりだ。」
「それでもです。」
リアルダは前だけを見ながら言った。
「山陰は広いんです。」
「島根も鳥取も。」
「山もあれば海もあります。」
「上級使いの先生方が何人いらっしゃっても、とても全部は守れません。」
少しだけ表情が真剣になる。
「だから、不協和音が発生したら、一番最初に現場へ向かうのは私たち音響士です。」
「地元の音響団の皆さんも、一緒に住民を守ります。」
「その私たちを率いる音術師様が来てくださる。」
「それだけで、本当に心強いんですよ。」
胸の奥が、少し痛んだ。
俺なんかが。
人の命を預かる隊長になる。
本当にそんな資格があるのだろうか。
そんな俺の空気を察したのか。
リアルダは急に表情を明るくした。
「――ところで!」
嫌な予感しかしない。
「……何だ?」
「冷凍パン、食べます?」
「…………は?」
第2話『北方戦線/新たな門出』(後編)
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