第2話『北方戦線/新たな門出』(後編)

第2話『北方戦線/新たな門出』(後編


「…………は?」

思わず聞き返してしまった。

「冷凍パンです!」

リアルダは得意げに胸を張る。

「今朝、凍らせておいたんです。」

「炎天下を走ると、お昼頃にはちょうど食べ頃になるんですよ。」

そう言ってダッシュボードから油の染みた紙袋を取り出し、俺へ差し出した。

受け取ると、ほんのり冷たい。

「……ただの予算不足で、凍らせたパンじゃないのか?」

「生存戦略と言ってくださいっ♪」

満面の笑みだった。

そのあまりにも堂々とした言い方に、思わず吹き出しそうになる。

「隊員のみんなも結構好きなんですよ。」

「……本当か?」

「はい!」

「山陰名物です!」

「いや、それは違うだろ。」

「違います?」

「絶対違う。」

二人で顔を見合わせる。

自然と笑みがこぼれた。

母が亡くなってから。

こんなふうに誰かと笑ったのは、初めてだった。

俺はパンを一口かじる。

少し固い。

けれど、不思議と悪くない。

「リアルダ。」

「はい?」

「どうして情報士なんて仕事を選んだ?」

何気ない質問だった。

リアルダは少しだけ視線を前へ向けたまま答えた。

「山陰支部で。」

「一定期間働けば。」

「進学のための奨学金制度が使えるんです。」

「期間雇用を終えたら。」

「大学へ行くつもりです。」

「私。」

「どうしても勉強したいことがあって。」

その一言に、胸の奥が少し痛んだ。

彼女は未来のために、この危険な場所へ来ている。

対して俺は。

過去から逃げるためにここへ来た。

「……怖くないのか?」

「怖いですよ。」

即答だった。

「毎日怖いです。」

「でも。」

少しだけ笑う。

「私たちが敵の情報を取らなかったら、仲間が死んじゃいます。」

「だから。」

「情報士は、怖いなんて言っていられないんです。」

冗談ばかり言う子だと思っていた。

でも、その言葉には一本の芯があった。

「実は私。」

「小学校からトランペットを吹いてたんですよ。」

「へぇ。」

「本当は音響士になりたかったんです。」

「でも。」

「致命的に下手くそで。」

「適性試験に落ちちゃいました。」

思わず笑ってしまう。

「どれくらい下手なんだ?」

リアルダは真顔で答えた。

「地域音響団の演奏会でソロを吹いたら。」

「指揮者さんは頭を抱えて。」

「団長さんは天を仰いで。」

「近所の犬が一斉に遠吠えしました。」

「……盛ってるだろ。」

「ノンフィクションです!」

真剣そのものだった。

その必死さが可笑しくて、俺は腹を抱えて笑ってしまう。

「笑いましたね!」

「傷つきました!」

「いや。」

笑いを堪えながら首を振る。

「顔は全然傷ついてない。」

「むしろ元気そうだ。」

リアルダは頬を膨らませる。

「もう。」

「レッド様、ひどいです。」

「でも。」

俺は少し真面目な声になった。

「吹けない理由は、口輪筋かもしれない。」

「え?」

「士官学校で嫌というほどやらされた基礎練習がある。」

リアルダの目が輝く。

「教えてください!」

「いいか。」

「まず『ム』。」

「唇を閉じる。」

「ム。」

「次に『イ』。」

「横へ引く。」

「イ。」

「そのまま『ウ』。」

「前へ突き出す。」

「ウ。」

「最後に『ア』。」

「口を自然に開く。」

「ア。」

「この四つをゆっくり繰り返す。」

「アンブシュアの基本だ。」

リアルダは運転しながら真剣な顔で、

「ム。」

「イ。」

「ウ。」

「ア。」

と何度も口を動かし始めた。

その真剣さが、かえって可笑しい。

頬がリスのように動く。

「……。」

耐えきれなかった。

「ぷっ。」

「ふふっ……。」

「あっ!」

リアルダが抗議する。

「笑いましたね!」

「ちゃんと練習してるのに!」

「悪い。」

俺は笑いながら首を振る。

「でも。」

「その調子なら、きっと上手くなる。」

リアルダは少し照れたように笑った。

「本当ですか?」

「ああ。」

「何とかなるさ。」

「……変な人。」

そう言って、小さく笑う。

「でも。」

「レッド様らしいですね。」

その一言が、不思議なくらい胸へ残った。

戦死した英雄の息子でもない。

落ちこぼれの士官生でもない。

ただ一人の「レッド」として見てもらえた気がした。

やがて軍用車は長い坂道を登りきる。

その瞬間。

視界が一気に開けた。

「――っ。」

思わず息を呑む。

眼下に広がる山陰の大地。

深い緑。

きらめく川。

遠くまで続く田園。

初夏の風が車内へ流れ込んできた。

その景色は、戦場とは思えないほど美しかった。

リアルダが静かに笑う。

「ようこそ山陰へ。」

「レッド様。」

俺はその笑顔から思わず目を逸らした。

胸の奥が、小さく高鳴る。

灰色だった世界へ。

少しだけ色が戻ってくる。

そんな気がした。

俺はまだ知らない。

この山陰で、どんな仲間と出会い。

どんな戦いを経験し。

どんな別れが待っているのか。

それでも。

白いガードレールの向こうには、新しい日々が待っている。

俺は膝の上のトランペットケースへ、そっと手を置いた。

もう一度だけ、吹いてみよう。

それは、特級使いスカーレットの息子としてではない。

落ちこぼれの士官生としてでもない。

一人の初級音術師――レッドとして。

新しい一歩を踏み出すための、最初の一音になるはずだ。

― 新たな門出・完 ―


第3話『山陰支部へようこそ!』
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2026年07月04日