第9話『母の遺したトランペット』(後編)

第9話『母の遺したトランペット』(後編)


「隊長様。」

ブリランテが、おずおずと両手を差し出す。

「お願いします。」

俺は静かに頷いた。

「大事に扱ってくれよ。」

「はいっ!」

壊れ物を抱くように、ブリランテはトランペットを受け取る。

ゆっくりと構える。

『パァ────』

澄みきった一音が、初夏の青空へ伸びていく。

「……軽い!」

思わず声が漏れる。

「息が、すごく入ります!」

その笑顔を見て、演習場に小さな笑いが広がった。

スタッカートが腕を組む。

「顔に出すぎだって。」

「だ、だって!」

ブリランテは慌てて楽器を抱き直す。

「隊長様の音が出るラッパですよ!」

「興奮します!」

アクセントも大きく頷いた。

「俺も吹いてみたいです!」

「みんな同じだろ?」

何人かが照れくさそうに笑う。

ラッパ吹きなら。

いい楽器を前にすれば、一度は吹いてみたくなる。

その気持ちは、よく分かる。

ソステヌートが静かに受け取る。

一音だけ鳴らし、小さく頷いた。

「反応が速いですね。」

ベルへ視線を向ける。

「特注ラッカーでしょうか。」

「吹奏感も軽い。」

グラヴィオーソも短く頷く。

「……いい色。」

「音も素直。」

俺はベルへ目を落とした。

陽射しを受けたラッカーが、柔らかく光っている。

「そうなんだろうな。」

小さく笑う。

「……たぶん。」

「たぶん?」

アクセントが首を傾げた。

俺はベルをそっと撫でる。

少しだけ昔を思い出す。

「これを選んだのは。」

「俺じゃない。」

静かな風が吹く。

「母なんだ。」

誰も口を開かなかった。

ブリランテは楽器を抱えたまま、じっと俺を見る。

俺は少しだけ照れくさそうに笑った。

「小学生の頃さ。」

「母と一緒に楽器屋へ行ったことがあった。」

ショーウインドーの中。

照明を浴びて並ぶ一本のトランペット。

子どもの俺には、それが世界で一番格好良く見えた。

ガラスへ張り付いて見ていると、母が笑った。

『そんなに好き?』

俺は夢中で頷いた。

次の日には、その楽器が家にあった。

演習場へ、穏やかな笑いが広がる。

アクセントが笑う。

「すごいお母さんですね!」

「俺も最初の一本は毎日磨いてました!」

「俺も。」

自然と笑みがこぼれる。

「でも。」

「重かった。」

隊員たちも笑う。

「ベルは下がるし。」

「腕は震えるし。」

「息も続かない。」

肩をすくめる。

「子どもには、ちょっと早かった。」

ドルチェが優しく微笑んだ。

「素敵なお話ですわ。」

俺は静かに頷く。

「それから何年か経って。」

ベルへ視線を落とす。

「士官学校へ入る日に。」

ケースを軽く撫でる。

「この一本をくれた。」

初夏の風が吹く。

ケースの蓋が、小さく揺れた。

「その時は。」

「新しい楽器を買ってくれた。」

それくらいにしか思ってなかった。

少し笑う。

「でも。」

「今日、みんなの話を聞いて。」

ベルを見つめる。

「少し分かった気がした。」

誰も急かさない。

誰も口を挟まない。

「軽い方が吹きやすい。」

「反応が速い方が戦いやすい。」

「そういうことまで考えて。」

「選んでくれたんだろうな。」

小さく笑う。

「……親には敵わない。」

風だけが、静かに吹いていた。

スタッカートが苦笑する。

「隊長でも、そんなこと思うんすね。」

「思うさ。」

笑って答える。

「今でも、この楽器に助けられてる。」

ブリランテが、そっとニューヨークモデルを返す。

「隊長様。」

「本当に、大切な相棒なんですね。」

俺は両手で受け取る。

ラッカーの柔らかな輝きが、陽射しを映していた。

「ああ。」

それ以上の言葉は出なかった。

ゆっくりとケースへ戻す。

カチリ。

留め具が閉まる。

乾いた音が、静かな演習場へ響いた。

リアルダは、その音を静かに聞いていた。

何も言わない。

ただ、小さく微笑む。

その横顔を見て、俺も少しだけ笑った。

山から吹く風が、演習場を優しく吹き抜けていく。

誰も知らない。

このトランペットが、どれほど多くの想いを乗せてここへ来たのか。

そして、その音が。

これから先も、誰かの心を支え続けることになるのを。


第10話『一つのハーモニー』
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2026年07月04日