第92話『迷い』

第92話『迷い』


支部長室を出る。

廊下は静かだった。

手には、一通の推薦状。

紙一枚のはずなのに、不思議なくらい重い。

「レッド様。」

振り向くと、リアルダが立っていた。

「終わりましたか。」

「ああ。」

短く答える。

リアルダは俺の手元へ視線を向ける。

「昇級試験の推薦状ですね。」

思わず苦笑した。

「情報士には隠し事ができないな。」

「封筒の様式で分かります。」

いつもの落ち着いた口調だった。

「少し、外の空気を吸ってくる。」

「承知しました。」



支部の中庭へ出る。

昨夜の雨を受けた木々が、初夏の陽射しを浴びて静かに揺れていた。

遠くから、音響士たちのロングトーンが聞こえてくる。

風が頬を撫でる。

俺は木陰のベンチへ腰を下ろした。

膝の上へ推薦状を置く。

封筒には、確かに俺の名前が書かれていた。

中級音術師昇級試験。

三か月前まで士官学校の学生だった俺に。

支部長が推薦状を書く。

何度見ても、実感が湧かなかった。

視線を上げる。

青空の下、若葉が静かに揺れている。

「そんな俺が……。」

小さく呟く。

「中級試験か。」

風が木々を揺らした。

答えは、まだ出なかった。



「レッド様。」

リアルダが手帳を手に歩いてきた。

「帰隊の準備は整っています。」

「ああ。」

リアルダは手帳を開く。

「一つ、ご報告があります。」

「報告?」

「はい。」

「山陰へ赴任されてから、もうすぐ三か月。」

「遊撃隊出動、四回。」

「個人対応、一回。」

「広島ヤマハへのマウスピース調達任務です。」

一枚、ページをめくる。

「遭遇した敵。」

「Bランク怪人、二体。」

「Cランク怪人、二体。」

「Aランク土地神、一柱。」

風が手帳のページを揺らす。

「遊撃隊重傷者。」

「ゼロ。」

静かに手帳を閉じた。

「以上です。」

しばらく沈黙が流れた。

俺は少し笑う。

「本当に数字ばかりだな。」

リアルダも小さく微笑んだ。

「情報士ですので。」

「数字は、嘘をつきません。」

その言葉に、俺は推薦状へ目を落とした。

「でも。」

「これは、みんなで積み重ねてきた数字だ。」

リアルダは静かに頷く。

「はい。」

それ以上は何も言わない。

それで十分だった。



「浮かない顔じゃのう。」

聞き覚えのある声がした。

俺とリアルダは同時に振り向く。

白銀の長い髪を揺らし、小さな人影がゆっくりと歩いてくる。

紺色の軍服。

背中には、自分の体よりも大きなチューバ。

山陰の守護神。

グランディオーソだった。

「グラン閣下!」

俺は立ち上がり敬礼する。

リアルダも続いた。

グラン閣下は軽く手を挙げると、俺の手にある推薦状へ目を向ける。

「ほう。」

「支部長から、もろうたか。」

「はい。」

俺が頷くと、グラン閣下はそれ以上何も聞かなかった。

ただ、ベンチを指さす。

「座れ。」

「少し話そうかの。」

初夏の風が、白銀の髪と中庭の木々を優しく揺らしていた。


第93話『守る者』
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2026年07月20日