第13話『初出動』
第13話『初出動』
初夏の風が、益田駐屯地の演習場を吹き抜ける。
さっきまで響いていた笑い声は、まだそこに残っていた。
「隊長様!」
ブリランテが元気よく駆け寄ってくる。
「さっき教えていただいた高音、もう一回お願いします!」
「だから、隊長様はやめてくれ。」
「はい!」
「隊長様!」
周囲から笑いが起こる。
スタッカートが肩をすくめた。
「もう諦めましょう、隊長。」
アクセントも笑う。
「完全に定着してます!」
俺は苦笑するしかなかった。
その時だった。
ウゥゥゥゥゥ──────!!
駐屯地全体へ、警報が鳴り響いた。
笑い声が止まる。
風だけが、演習場を吹き抜ける。
アクセントはケースを掴んだ。
スタッカートは表情を消し、防具へ手を伸ばす。
ブリランテは背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見る。
ペザンテは黙って携帯食をしまった。
カンタービレ軍曹が一歩前へ出る。
「総員、待機。」
その一言で、隊員たちは隊列を整えた。
リアルダはすでに通信室へ走っている。
「リアルダです!」
無線の声が、風に混じって聞こえた。
『西部方面第三区域。』
『不協和音発生。』
『危険度Bランク。』
『山間集落付近。』
『地元音響団、住民避難を開始。』
「了解しました!」
しばらくして、リアルダが地図を抱えて戻ってくる。
「レッド様!」
「敵はBランク一体。」
「場所は西部方面第三区域、山間部の集落です。」
「現在、地元音響団が住民避難を開始しています。」
カンタービレ軍曹が静かに頷いた。
「総員。」
隊員たちの視線が集まる。
「出動準備。」
「急ぎなさい。」
「了解!」
返事と同時に、全員が動き出す。
ケースを閉じる音。
防具を着ける音。
車両へ駆ける足音。
さっきまで笑っていた若者たちが、一瞬で戦士の顔になる。
俺は、その光景に息をのんだ。
これが北方戦線。
リアルダが地図を広げる。
「現在、音響団が住民避難を継続中です。」
「小学校帰りの児童数名を誘導しています。」
「敵との距離、およそ三百メートル。」
そこで、リアルダの表情が少しだけ曇った。
「なお、支部所属の中級音術師、上級音術師は現在全員別方面へ出動中です。」
「救援は、期待できません。」
演習場が静まり返る。
つまり、この現場を守るのは。
地元音響団と、山陰西部方面第一遊撃トランペット隊だけ。
カンタービレ軍曹が口を開いた。
「隊長。」
「はい。」
「教範第十二条ですわ。」
その声は、いつも通り落ち着いていた。
「音響士および初級音術師のみで、Bランクと交戦することは禁止されています。」
「住民避難を最優先。」
「その後、上位音術師の救援を待機。」
「救援が望めない場合は。」
一度、言葉を区切る。
「血の涙を流して撤退。」
「それが教範ですわ。」
誰も反論しない。
士官学校で何度も叩き込まれた基本だった。
初級使い相当の部隊で対応できるのは、Cランクまで。
Bランクは、本来なら交戦対象ではない。
俺は地図へ目を落とした。
一本道。
山間の集落。
避難する子どもたち。
その前に立つ、地元音響団。
教範は正しい。
撤退すれば、俺たちは生き残れる。
部隊を失わずに済む。
山から風が吹く。
地図の端が、小さく揺れた。
それでも。
「残して帰れません。」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
カンタービレ軍曹が俺を見る。
「音響団の皆さんだけを。」
「避難中の子どもたちだけを。」
「残して帰ることは、できません。」
カンタービレ軍曹は、少しだけ目を伏せた。
「それも承知の上で、現地の方々は避難誘導に当たっておられますわ。」
「住民を守ることが、音響団の使命。」
「そして我々には、部隊を存続させる義務があります。」
「その通りです。」
俺は頷いた。
「教範は間違っていません。」
それでも、地図から目を離せなかった。
一本道。
山の影。
小さな集落。
そこに残っている人たち。
「隊長。」
カンタービレ軍曹の声が、静かに響く。
「根拠はございますか。」
俺は少し困って笑った。
「ありません。」
正直に答える。
「怖いです。」
隊員たちが息をのむ。
「本当は。」
「今でも足が震えています。」
風が吹いた。
制服の裾が、小さく揺れる。
「士官学校でも。」
「怖くなくなったことなんて、一度もありませんでした。」
誰も口を挟まない。
アクセントも。
スタッカートも。
ブリランテも。
ただ静かに俺を見ていた。
「でも。」
「怖いから助けない、なんて。」
「そんな隊長には、なりたくありません。」
一人ずつ、隊員たちを見る。
まだ出会ったばかりの仲間たち。
でも、もう他人ではなかった。
俺は小さく息を吸う。
「何とかなるさ。」
その言葉は、誰かを勇気づけるためというより。
自分自身へ言い聞かせるためのものだった。
しばらく、誰も動かなかった。
最初に拳を握ったのは、アクセントだった。
「隊長。」
「俺は行きます。」
スタッカートが小さく息を吐く。
「言うと思った。」
「でも。」
少し笑う。
「俺も同じです。」
ブリランテは不安そうに、それでも真っ直ぐに頷いた。
「隊長様と行きます。」
ペザンテは黙ってケースを持ち直す。
「……了解。」
レガートが静かに頷く。
「避難が終わるまで、支えましょう。」
ドルチェは胸元へ手を添えた。
「子どもたちを、無事に帰しましょう。」
グラヴィオーソは短く言う。
「距離三百。」
「間に合う。」
ソステヌートは眼鏡へ手を添えた。
「教範上は撤退です。」
「ですが。」
少しだけ間を置く。
「隊長命令であれば、従います。」
カンタービレ軍曹は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに敬礼する。
「承知いたしました。」
「隊長命令に従いますわ。」
隊員たちも一斉に敬礼する。
「了解!」
俺も敬礼を返した。
リアルダが地図を畳む。
その手は少しだけ早かった。
「車を回します!」
古びた軍用車のエンジンが、唸りを上げる。
砂煙が舞う。
山陰西部方面第一遊撃トランペット隊を乗せた車列は、初夏の山道へ走り出した。
笑い声の残っていた演習場が、遠ざかっていく。
その時は、まだ誰も知らない。
この出動が。
隊長レッドにとっても。
遊撃隊の仲間たちにとっても。
決して忘れることのできない一日になることを。
第14話『匹見の戦い』
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