第45話『知らない方がいい音』

第45話『知らない方がいい音』


その時だった。

「マエストロ様ーーーっ!」

聞き慣れた声が店内へ響いた。

褐色の頬を少し膨らませたリアルダが、ずんずんと宴席の中央へ歩いていく。

店中の視線が一斉に集まった。

マエストロはビールジョッキを片手に肩をすくめる。

「おやおや。」

「リアルダちゃん。」

「そんな怖い顔してどうしたの?」

「どうした、ではありません。」

リアルダは腰へ手を当てる。

「レッド様に、また変な本を渡したそうですね。」

一瞬、店内が静まり返る。

マエストロは涼しい顔で答えた。

「変な本とは失礼だなぁ。」

「あれは歴史ある士官教育資料だ。」

「ローマ軍団戦陣訓。」

「世界の名将演説集。」

そこまでは、皆が真面目に頷いていた。

しかし。

「あと一冊。」

「芸術鑑賞資料。」

リアルダがすかさず遮る。

「却下です。」

「情報士権限により。」

「ボッキュンボンな金髪女性が表紙だった資料は、すべて検閲・没収しました。」

数秒の静寂。

そして――。

「ぶはははははっ!」

「また没収されたのか!」

「懲りねぇなマエストロ!」

店中が大爆笑に包まれた。

マエストロは頭を掻きながら苦笑する。

「いやぁ。」

「あれは士気向上術でねぇ……。」

「違います。」

リアルダがぴしゃりと言い切る。

「ただの趣味です。」

「ぐはっ。」

マエストロが胸を押さえる。

「言葉が鋭い……。」

「事実です。」

リアルダは胸を張る。

「音術師様は国家の財産です。」

「レッド様には、もっと健全な士官教育を受けていただきます。」

その真っ直ぐな言葉に、店内の誰もが笑顔になった。

向かいの席で肉を頬張っていたマエストロが、俺だけに聞こえるよう小さく口を動かす。

(安心しろ、レッド君。)

(宿舎にバックアップがある。)

思わず烏龍茶を吹きそうになる。

(この人、本当に懲りない……。)

俺が慌てて咳き込むと、

ブリランテが心配そうに身を乗り出した。

「隊長様?」

「何をコソコソ話してるんです?」

「いや……。」

俺は苦笑しながら首を振る。

「知らない方が幸せなこともある。」

「そうなんですか?」

ブリランテは首を傾げる。

その時だった。

ジョコーソが肉をひっくり返しながら、呆れたように笑う。

「まったく。」

「マエストロ。」

「新人を変な道へ引っ張るのは、その辺にしておけ。」

「はいはい。」

マエストロは肩をすくめる。

ジョコーソは今度は俺を見る。

「レッド。」

「知らないままの方が、幸せなこともある。」

「……はい。」

俺は苦笑しながら頷いた。

隣でペザンテが静かに呟く。

「……知らない方がいい音もあります。」

「いや、それは違うだろ。」

スタッカートがすぐに突っ込む。

「音は知った方がいいっス。」

その一言で、また笑いが広がった。

遊撃隊の笑いにつられ、周囲の席からも笑い声があふれていく。

昼間は命を懸けて戦っていた者たち。

だからこそ、この何気ない笑いが、何よりも愛おしかった。

その笑いが店いっぱいに満ちた、その時だった。

宴席の中央で、小さな人影がゆっくりと立ち上がる。

店内の空気が、すっと変わった。


第46話『黙とう』
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2026年07月04日