第58話『アラクネ戦記/若き軍団長』
第58話『アラクネ戦記/若き軍団長』
白い石柱が、朝日に照らされていた。
海から吹く風が、乾いた草を揺らす。
遠くで、青い波が静かに光っている。
その丘の上に、一人の娘が立っていた。
長い栗色の髪。
黒い外套。
腰には短剣。
背には、蜘蛛の脚を思わせる黒い装具。
まだ若い。
けれど、その瞳は戦場を知っていた。
「アラクネ様。」
副官のカリストスが片膝をつく。
「右翼、配置完了しました。」
「中央は?」
「レオニダス隊が盾列を整えております。」
「左翼は。」
「メリッサ隊が弓兵を下げました。」
アラクネは静かに頷いた。
「よろしいですわ。」
眼下では、兵たちが盾を並べている。
槍が朝日を受けて、銀色に光った。
誰も声を荒げない。
誰も勝手に動かない。
ただ、風の音だけが戦列の間を抜けていく。
アラクネは、その静けさが好きだった。
戦いの前の静寂。
兵たちが互いの息を聞き、隣の盾の重さを感じる時間。
そこには、まだ命があった。
「テオドロス。」
「はい。」
老兵が前へ出る。
「新兵を前へ出し過ぎています。」
「三歩下げなさい。」
「承知しました。」
「彼らはまだ、最初の衝突に耐えられません。」
「はい。」
「恐怖は恥ではありません。」
アラクネは戦列を見つめたまま言う。
「恐怖を知らぬ者から、先に死にます。」
テオドロスは小さく頭を下げた。
「仰せのままに。」
風が吹いた。
赤い花が、足元で揺れる。
アラクネは一瞬だけ、その花を見た。
踏まれれば、すぐに散る。
それでも朝日に向かって咲いている。
「アラクネ様。」
カリストスが声を落とす。
「敵軍、動きました。」
丘の向こう。
砂煙が上がる。
槍。
盾。
馬。
神々の名を掲げた軍勢が、ゆっくりとこちらへ進んでいた。
アラクネは深く息を吸う。
「全軍。」
静かな声だった。
しかし、その声は不思議と戦列の端まで届いた。
「盾を合わせなさい。」
兵たちが一斉に盾を構える。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
乾いた音が、丘に響いた。
「槍を下げ過ぎないこと。」
「前だけを見るのではありません。」
「隣を信じなさい。」
若い兵の喉が鳴る。
誰かが小さく祈った。
アラクネはそれを止めなかった。
祈りもまた、兵を立たせるものだった。
やがて敵軍の号令が響く。
大地が揺れる。
カリストスが息を呑んだ。
「来ます。」
アラクネは右手を上げた。
まだ。
まだ。
まだ。
風が止まる。
一枚の葉が、ゆっくりと地面へ落ちた。
「今ですわ。」
右手が下りる。
「前進。」
盾列が動いた。
一歩。
また一歩。
白い丘の上で、二つの軍勢が静かに近づいていく。
叫び声は、まだない。
ただ、足音だけが重なっていた。
アラクネは目を細める。
恐怖はある。
迷いもある。
それでも、軍は動く。
人は弱い。
だからこそ、並ぶ。
だからこそ、支え合う。
だからこそ、戦列になる。
アラクネはその美しさを知っていた。
やがて、最初の盾と盾がぶつかった。
鈍い音が、朝の丘に響く。
戦が始まった。
だがアラクネは叫ばない。
ただ静かに、戦場全体を見ていた。
右翼。
中央。
左翼。
風向き。
砂煙。
兵の呼吸。
崩れそうな場所。
まだ耐えられる場所。
そして、まだ動かしてはいけない予備隊。
「カリストス。」
「はい。」
「右翼を二歩下げなさい。」
「押されておりますが。」
「下げるのです。」
「敵は前へ出ます。」
「そこを、中央で受け止めます。」
カリストスは一瞬だけ目を見開く。
すぐに頷いた。
「承知しました。」
伝令が走る。
右翼が下がる。
敵が追う。
その瞬間、中央の盾列がゆっくりと膨らんだ。
まるで蜘蛛の糸が獲物を包むように。
「今。」
アラクネの声が落ちる。
「左翼、回り込みなさい。」
メリッサ隊が動いた。
軽い足音。
短い号令。
槍の森が、敵の側面へ向きを変える。
砂煙の向こうで、敵軍の流れが乱れた。
カリストスが小さく息を吐く。
「見事です。」
アラクネは首を横に振る。
「まだですわ。」
「勝ったと思った時が、一番危ない。」
その時だった。
中央の一角が揺れた。
若い兵が膝をつく。
隣の盾が空く。
そこへ敵の槍が入ろうとする。
アラクネの眉が動いた。
「テオドロス!」
「はい!」
「穴を塞ぎなさい!」
「メリッサ、射線を左へ!」
「カリストス、予備隊をまだ動かさない!」
「ですが!」
「まだです!」
一瞬、声が強くなる。
そして。
「ム……。」
カリストスが身構えた。
アラクネは唇を噛む。
「ムキーーーッ!!」
丘の上に声が響いた。
「だから新兵を前へ出し過ぎるなと言ったでしょう!」
「三歩下げなさいと言いましたわよね!」
テオドロスが遠くで肩をすくめた。
「始まったな。」
近くの兵が小さく笑った。
ほんの少しだけ、戦列の空気が緩む。
恐怖が、ほどける。
アラクネは気付いていない。
ただ真っ赤になって指揮を続けている。
「笑っている場合ではありませんわ!」
「盾を上げなさい!」
「生きて帰りたいなら、隣を見なさい!」
「一人で英雄になろうとしない!」
その声に、兵たちが再び盾を合わせた。
空いた穴が塞がる。
敵の槍が止まる。
戦列は崩れなかった。
やがて太陽が高く昇る頃。
敵軍はゆっくりと退いた。
追撃の号令は出なかった。
アラクネは丘の上で、静かに手を下ろす。
「追わないのですか。」
カリストスが尋ねる。
アラクネは遠くの砂煙を見つめた。
「今日は、これで十分ですわ。」
「負傷者を運びなさい。」
「敵味方の別は問いません。」
カリストスは黙って頭を下げた。
戦場に、風が戻ってきた。
赤い花は、まだ丘に咲いていた。
アラクネはその花を見つめる。
少しだけ、目を細めた。
「……よく耐えましたわね。」
誰に言ったのか。
兵にか。
花にか。
それとも、自分にか。
誰にも分からなかった。
ただ、海からの風だけが、白い丘を静かに通り抜けていった。
第59話『アラクネ戦記/東の国から来た神』
https://www.c-able.ne.jp/~y-info/posts/blog63.html
ウルセンジャー小説ガイド
https://www.c-able.ne.jp/~y-info/contact1.html
