第90話『帰る場所』

第90話『帰る場所』


六月中旬。

梅雨の晴れ間が、山陰の山々をやわらかく照らしていた。

昨夜の雨を受けた田んぼでは、若い稲が初夏の風に揺れている。

駐屯地の朝は、今日も穏やかだった。

俺は楽器庫の扉を開ける。

ケースを開くと、ラッカー仕上げのトランペットが朝日を受け、金色に輝いた。

ベルへそっと手を添える。

「今日も頼む。」

誰に聞かせるでもない、朝の挨拶だった。



「隊長様!」

元気な声が駐屯地に響く。

振り向くと、ブリランテが満面の笑みで駆け寄ってきた。

「今日は食堂のおばちゃんが、トンカツだって言ってましたよ!」

「本当か?」

「はい!」

その声にアクセントが飛びつく。

「やったー!」

「久しぶりっス!」

スタッカートも笑った。

「今日は昼まで腹が減っても頑張れるっス。」

少し離れた場所では、ペザンテがマウスピースを磨きながら、小さく呟く。

「……楽しみだ。」

その一言に、みんなが笑った。

贅沢な食事ではない。

それでも、たまに出るトンカツは隊員たちの小さな楽しみだった。

戦いのない朝。

そんな何気ない時間が、この駐屯地には流れている。



「レッド様。」

聞き慣れた声に振り向く。

リアルダが小さな紙袋を差し出していた。

「おはようございます。」

「おはよう。」

「冷凍パンです。」

思わず笑う。

「今日はトンカツじゃなかったのか?」

「はい。」

リアルダは真面目な顔で頷いた。

「ですが、出動命令が出れば昼食は食べられません。」

「こちらを携行してください。」

「生存戦略です。」

「相変わらずだな。」

「はい。」

迷いのない返事だった。

紙袋を受け取る。

ひんやりとした感触に、自然と笑みがこぼれる。

頼もしい相棒は、今日も変わらなかった。



リアルダは少し表情を改めた。

「レッド様。」

「はい。」

「リゾルート支部長がお呼びです。」

「支部長が?」

「本日、お時間をいただきたいとのことです。」

「理由は聞いているか?」

「いえ。私も伺っておりません。」

「そうか。」

小さく息をつき、笑う。

「何とかなるさ。」

リアルダは静かに頷いた。

「はい。」



古びた軍用車が、低いエンジン音を響かせる。

助手席へ乗り込むと、リアルダは慣れた手つきで車を走らせた。

窓の外を、白いガードレールが流れていく。

若い稲。

山並み。

穏やかな初夏の空。

変わらない景色が、ゆっくりと過ぎていく。

俺は膝の上のトランペットケースへ、そっと手を置いた。

山陰へ来て、もうすぐ三か月。

赴任した頃は、不安しかなかったこの景色も――

今では、守りたい景色になっていた。

軍用車は静かに山陰支部へ向かう。

この時の俺は、まだ知らない。

支部長室で交わす言葉が、自分の歩いてきた道と、これから進む道を見つめ直す一日になることを。


第91話『支部長室』
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2026年07月20日