第90話『帰る場所』
第90話『帰る場所』
六月中旬。
梅雨の晴れ間が、山陰の山々をやわらかく照らしていた。
昨夜の雨を受けた田んぼでは、若い稲が初夏の風に揺れている。
駐屯地の朝は、今日も穏やかだった。
俺は楽器庫の扉を開ける。
ケースを開くと、ラッカー仕上げのトランペットが朝日を受け、金色に輝いた。
ベルへそっと手を添える。
「今日も頼む。」
誰に聞かせるでもない、朝の挨拶だった。
◇
「隊長様!」
元気な声が駐屯地に響く。
振り向くと、ブリランテが満面の笑みで駆け寄ってきた。
「今日は食堂のおばちゃんが、トンカツだって言ってましたよ!」
「本当か?」
「はい!」
その声にアクセントが飛びつく。
「やったー!」
「久しぶりっス!」
スタッカートも笑った。
「今日は昼まで腹が減っても頑張れるっス。」
少し離れた場所では、ペザンテがマウスピースを磨きながら、小さく呟く。
「……楽しみだ。」
その一言に、みんなが笑った。
贅沢な食事ではない。
それでも、たまに出るトンカツは隊員たちの小さな楽しみだった。
戦いのない朝。
そんな何気ない時間が、この駐屯地には流れている。
◇
「レッド様。」
聞き慣れた声に振り向く。
リアルダが小さな紙袋を差し出していた。
「おはようございます。」
「おはよう。」
「冷凍パンです。」
思わず笑う。
「今日はトンカツじゃなかったのか?」
「はい。」
リアルダは真面目な顔で頷いた。
「ですが、出動命令が出れば昼食は食べられません。」
「こちらを携行してください。」
「生存戦略です。」
「相変わらずだな。」
「はい。」
迷いのない返事だった。
紙袋を受け取る。
ひんやりとした感触に、自然と笑みがこぼれる。
頼もしい相棒は、今日も変わらなかった。
◇
リアルダは少し表情を改めた。
「レッド様。」
「はい。」
「リゾルート支部長がお呼びです。」
「支部長が?」
「本日、お時間をいただきたいとのことです。」
「理由は聞いているか?」
「いえ。私も伺っておりません。」
「そうか。」
小さく息をつき、笑う。
「何とかなるさ。」
リアルダは静かに頷いた。
「はい。」
◇
古びた軍用車が、低いエンジン音を響かせる。
助手席へ乗り込むと、リアルダは慣れた手つきで車を走らせた。
窓の外を、白いガードレールが流れていく。
若い稲。
山並み。
穏やかな初夏の空。
変わらない景色が、ゆっくりと過ぎていく。
俺は膝の上のトランペットケースへ、そっと手を置いた。
山陰へ来て、もうすぐ三か月。
赴任した頃は、不安しかなかったこの景色も――
今では、守りたい景色になっていた。
軍用車は静かに山陰支部へ向かう。
この時の俺は、まだ知らない。
支部長室で交わす言葉が、自分の歩いてきた道と、これから進む道を見つめ直す一日になることを。
第91話『支部長室』
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